▲ (熊野純彦:レヴィナス入門)~~~~~~~~~~~~~~~
 ・・・疲労には積極的な意味があるはずである。私が《私》であること 主体の誕生となりたちにかかわわるなにかが 倦怠には含まれているはずなのである。じっさい レヴィナスは書いている。

  ◆ (レヰ゛ナス:存在することから存在するものへ)~~~~~~~~~~~
  疲れるとは 存在することに疲れてしまうことである。そのことは いっさいの解釈のてまえで 疲労の具体的な充実においてそうなのだ。疲労の単純さ その単一性と暗さにおいて 疲労は存在するものによって存在することへともたらされる遅延のごときものである。この遅延が現在を構成する。存在することにおけるこの隔たりのゆえに 存在は一個の存在するものと存在することそのものとの関係となる。疲労は 存在における一存在者の浮上なのである。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 《存在することに疲れてしまう》とき 私は私の存在に遅れている。この遅れ 《遅延》がしかし本質的なのである。ただ《それがそこでもつ(イル・イ・ア)》 たんにある(イリヤ) のではなく 私が私の存在を所有する。私はこの所有に疲弊している。
 この疲労が ある《隔たり》を つまり《存在すること( exister )》そのものからの距離をつくりだす。その距離によってこそ 《現在》そのものが《構成》される。かくてはじめて《存在するもの( l'existant )》 《私》という《一存在者》が誕生するのである。・・・
 (pp.67-68)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 解説をお願いいたします。
 うっすらと記憶している限りでは もっとゆったりと 静かに時が流れるような文章として読んだ覚えがあるのですが――そして 途中でひまがなくなってしまいました―― いったい どうなんでしょう?

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A 回答 (1件)

オコリザルです。


存在する「こと」としての我、広く心の事、形に現れない我。

存在する「もの」としての我、肉体、五感など形に現れる我。

この二つを完全に一致させるのは難しく、それぞれが何らかの個性的な方法で辻褄を合せている。それが疲労を呼ぶのでしょう。
私の場合の個性てき試みは、今の所心のみを一つにする同一性への挑戦でして、要するに集中力を養っています。社会性や人格まではなかなか手が回りません。
「遅延」に関しては過去に対する未練のようなモンで、心理学か手でよく登場する。「トラウマ」とか「記憶がつらい思い出で染められている現象」などと関係があるかもしれません。何らかの悪感情を捨てきれないということでしょう。個人的には特殊な知解の現象として時間に逆らって過去へと進む思考を、鬼神が舞い降りたかのように目の当たりにしたことがあります。
「ミラーニューロン」無意識用語の「さかしま」とも関係があるでしょう。人間の能力には時間の流れを制御認識する能力が備わっていながら、それを解明して使いこなした人はいないのかもしれません。

この回答への補足

 primeape さん ご回答をありがとうございます。

 そうなんですか。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ○ 存在する「こと」としての我、広く心の事、形に現れない我。
 
 ○ 存在する「もの」としての我、肉体、五感など形に現れる我。

 この二つを完全に一致させるのは難しく、それぞれが何らかの個性的な方法で辻褄を合せている。それが疲労を呼ぶのでしょう。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そう思って振り返れば どうも わたしの場合は――いまは もう まったくと言っていいほど この趣旨説明の内容がぴったり来ず 分からなかったのですが―― 
 ○ じれったさ 待ち遠しさ 
 ☆ があったように記憶を手繰り寄せました。待っているもの(こと)がまだ来ないというからには なるほど
 ○ 遅延
 ☆ でもあるようなのですが それにしても
 ○ 疲労
 ☆ とは どうして そういう言い方をするのかなとは思います。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 「遅延」に関しては過去に対する未練のようなモンで、心理学か手でよく登場する。「トラウマ」とか「記憶がつらい思い出で染められている現象」などと関係があるかもしれません。何らかの悪感情を捨てきれないということでしょう。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 ☆ ということなのですか。これも わたしの場合は つねに 待っていたので つねに 未来とあい対していたと思います。そういう意味でのみ《遅延》でした。ので 《過去 / トラウマ / 思い出》というのは ピンと来ません。いろんな場合があるのでしょうか。
 ★ 悪感情
 ☆ というのでもなかったです。《とにかく 待っている / 待っていれば 何かがやってくる / 何かは分からないが 来ることは確実だ》といった感覚でした。三十歳ころまでかかりました。

 ★ 人間の能力には時間の流れを制御認識する能力が備わっていながら、それを解明して使いこなした人はいないのかもしれません。
 ☆ そうですか。わるいですが わたしが 時間を使いこなしてはいませんが もういまは 《遅延》は ないんです。《疲労》は もとから なかった。そして 《心と体》 これも 何がどうで かにがこうだという区分けを していないと思います。ですから
 ★ 集中力
 ☆ といったことも 申し訳ないですが 分からないかと思います。

 どこが どうなって こうなったのでしょう。また いろんなかたちが あるのでしょう。
 ▲☆ 〔待つことを通じて〕ある《隔たり》を〔感じたし 持った。〕・・・〔この隔たりが なにものかによって埋められた。〕・・・かくてはじめて《存在するもの( l'existant )》  《私》という《一存在者》が誕生するのである。
 ☆ というふうに いま 自分については 認識してしまいました。
 
 自分の過去の径程を知り得ました。そして ひとによって いろんな場合があるのだろうと知りました。とまとめて よいのでしょうか。

補足日時:2009/05/15 22:26
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Qヱ(ゑ)とエ(え)と登記について

不動産登記法が大幅に改正されて、また戸籍の文字(正字俗字誤字)についても新しく戸籍取り扱い表などがありますが、

ひらがな(カタカナ含む)の同字扱についてはどうなのでしょうか。

ヱがワ行でえがア行で現在は発音が同じということは分かっています。
ある登記簿の所有者が○○××エとあります。
ですが戸籍では○○××ヱです。
戸籍ではヱであり、住民票と公課証明及び登記簿にはエとなっています。
こういう場合たいてい法務局側は、(登記官や法務事務官で全く見解が異なることは多々あるんですが)エとヱは別字なのでエで不在住証明をそして同一性を証明するため公課証明(もちろんヱとなっていること前提)を出してくださいと言われます。ですが、肝心の公課証明と住民票がエなのでどうしようかと思っています。
またこの○○××ヱさんは亡くなっているため本人申し出による修正は無理で戸籍謄本等を提示して公課証明の文字を変更してもらうしかないと思います。
しかしながら、市町村役場ではヱとエは同字扱なので不在住も不在籍も出せないと言われました。

皆さんこういうときにはどうしてますか?

私個人的には、ヱとエは別字扱だと思いますが、確証なるもの(戸籍の文字一覧表みたいに)が探せずにいます。

なにかこれだと思えるサイトや登記の際の文字について解説してある本などあれば教えてください。

不動産登記法が大幅に改正されて、また戸籍の文字(正字俗字誤字)についても新しく戸籍取り扱い表などがありますが、

ひらがな(カタカナ含む)の同字扱についてはどうなのでしょうか。

ヱがワ行でえがア行で現在は発音が同じということは分かっています。
ある登記簿の所有者が○○××エとあります。
ですが戸籍では○○××ヱです。
戸籍ではヱであり、住民票と公課証明及び登記簿にはエとなっています。
こういう場合たいてい法務局側は、(登記官や法務事務官で全く見解が異なることは多々あるんですが)...続きを読む

Aベストアンサー

以下のURLを参考にしてみてください。

  http://www6.plala.or.jp/m-maa/regi/regibox/126-P22.txt

>またこの○○××ヱさんは亡くなっているため本人申し出による修正は無理で戸籍謄本等を提示して公課証明の文字を変更してもらうしかないと思います。
しかしながら、市町村役場ではヱとエは同字扱なので不在住も不在籍も出せないと言われました。

⇒ 裁判所に裁定してもらうしかないかと思います。

Q《人の色》と言い《人それぞれの色》と言うのなら 《言葉そのものに色は むしろ無い》。

ひとには その考えや振る舞いに独自のクセ(エートス)があり その意味で
あたかもみづからの《顔》に《色》が付いて回っている。

とするならば その《人の色》は 《人それぞれの色》ということであり
《人によって 色は違う》ことになる。

人が思惟や行動につける《色》は 一般にその言動の道具としての《言葉》に
つけられる。と考えられる。

と言うのであれば 人がそれを用いるときにおのれの色をつけるという《言葉》
には むしろもともと色は無い。

色の無い言葉に 人がそれぞれのクセとして色をつける。

――という一つのまとめが得られるはずだ。





《ことば》は 包丁や野球のバットと同じようにその使いようによって 凶器
に成り得るが 初めから《剣》であったり《武器》であったりするのではない。
むしろ 無色の状態において持たれ 大いに――人それぞれにおいて色づけさ
れつつ――用いられて行く。

ということではないか。




展開をこの趣旨説明では広げないが 言葉について言葉は諸刃の剣だというの
は 精確ではない。ということ。

そして それが人を斬りつけると見られそう言われている《言動におけるクセ
としての人の色》は だったら 互いに自由にその思想の中身を取り上げ 万
機公論に決すべしというほどに批判しあって行けばよい。

そのつとめは 哲学よりほかにない。はずでは? ほかの分野では ゆるキャ
ラであってよい。

したがって 言葉を 凶器だと言いあたかも魔女狩りの対象とするのは じん
るいの痴呆化を策略するアクマであり 権力の犬である。いかに?

ひとには その考えや振る舞いに独自のクセ(エートス)があり その意味で
あたかもみづからの《顔》に《色》が付いて回っている。

とするならば その《人の色》は 《人それぞれの色》ということであり
《人によって 色は違う》ことになる。

人が思惟や行動につける《色》は 一般にその言動の道具としての《言葉》に
つけられる。と考えられる。

と言うのであれば 人がそれを用いるときにおのれの色をつけるという《言葉》
には むしろもともと色は無い。

色の無い言葉に 人がそれぞれの...続きを読む

Aベストアンサー

「色の無い言葉に 人がそれぞれのクセとして色をつける」
→そうだと思います。
つまり、言葉は人間の便利で優れたツールであるが、それにも増して人間そのものがコミュニケーションの原点でしょう。

Q皆さんがエ○チをする理由と目的はなんですか?何個か教えてください!本心で!またエ○チをして一

皆さんがエ○チをする理由と目的はなんですか?
何個か教えてください!
本心で!

またエ○チをして一切気持ち良いを感じれないならしますか?

Aベストアンサー

気持ちいいからです。

>またエ○チをして一切気持ち良いを感じれないならしますか?

たぶんしません。
ゴキブリ食うようなものです。

Q《神》は 補助線である。その神という言葉が かんなび山や磐座と同じく《依り代》である。

1. 時空間ないし世界という存在に――時間的にも考え方の上でも――先行するものは 
あるか?

2. ない。つまり あるかどうか 人間には分からない。分かるか分からないかが分か
らない。

3. そこで《かみ》という補助線を じんるいは考え出し これを引いた。

4. 《分かるか分からないかが分からないこと――これを〈非知〉とよぶ――》は カ
ミという言葉で交通整理して捉えあおうと。

5. 世界はそれを生み出すチカラがあったとしても それは いわゆる《自然》として
のあり方であるしかないと捉えるなら 自然が神となる。

5-1. 山・川・海などなどの霊としての神々は それぞれ分身である。分身も神ので
あると言っても それぞれ《神の依り代》と呼ばれる補助線である。

6. 世界をつくったチカラが別にあるとする場合 これは 有神論のひとつでありその
中でも 創造者としての神を立てている。

7. そのようなチカラは ないとすれば――すなわち《無い神》を立てるなら―― 無
神論である。

8. このような《自然神 / 創造主神 / 無神》に分かれたとしても すべては――分から
ないところを補っているのであるからには―― 補助線として用いられている。

9. つまり神は 有る神と無い神とに区分され 有る神についてはさらに人びとによっ
て(その言語によって)いくつかの名がそれぞれつけられている。

10. このようにさまざまに種類分けされる《神》も すべては そのように一定の言
葉で――けっきょく人間が――引いた補助線であるしかない。

11. ただし人びとは この補助線の向こうの神を意識するときにはおのれの内面にお
いて この神と(つまりは 神という補助線についての己れの意識と)しばしば向き合う
ことを成す。このような《神とわれとの関係》は――ひとが生きているかぎり生きた動態
としてあり得て―― 信仰とよばれる。

11-1. 信仰は 神を意識している限りで 人間のただの思念である。と同時に そ
の神は もともと《非知なるナゾ》であるなら 人間のコギトを超えている。《非思考の
庭》として ひとの自然本性の内にあると想定される。

11-2. ゆえにしばしば人びとは このナゾのことを《霊》とも呼び 《アートマン
(霊我)》や《ブッダター(仏性)》や《アニマ・ムンディ(世界霊魂)》などとして呼
びならわしている。

12. 補助線としての神に向き合ったとき 世界のあり方を見ればそれはむしろ 神と
して立てているナゾの内容とは――人間の持つ《のぞみ》という考え方において――対立
していることが少なくない。よってこの種の神を否定しようとする場合がある。むろん 
無神論となる。

12-1. これは・これも 《無い神〔としての非知なるナゾ〕とわれとの関係》を内
容とする信仰である。無神論者は無神論も信仰であると言われたくなければ 《神は無い》
と証明しなければならない。

13. じんるいは 神によって(神の所為にして)互いに相いあらそう必要もなければ
理由も必然性もどこにもない。非知なのであるから。風車に向かって突撃するようなもの
である。

14. 神は その呼び名としての多様性をふくみつつ・また人びとそれぞれわが心なる
《非思考の庭(信仰)》における動態としての多様性を容れつつ すこやかに独り満ち足
りている。(と推測される)。

ご教授ください。

1. 時空間ないし世界という存在に――時間的にも考え方の上でも――先行するものは 
あるか?

2. ない。つまり あるかどうか 人間には分からない。分かるか分からないかが分か
らない。

3. そこで《かみ》という補助線を じんるいは考え出し これを引いた。

4. 《分かるか分からないかが分からないこと――これを〈非知〉とよぶ――》は カ
ミという言葉で交通整理して捉えあおうと。

5. 世界はそれを生み出すチカラがあったとしても それは いわゆる《自然》として
のあり方であ...続きを読む

Aベストアンサー

今回の印象を簡単に言ってみます。

源泉と大海。
湧き水は澄んできれいですが、大海に行着く迄の道中で様々なモノを身に付けてしまいます。
大海に着けば着いたで漠とし過ぎていて、そこから逃れる、の一手は気化、蒸して天に帰るしかありません。

この問いは気化現象の様に思いました。

Q韓国語の助詞「ウィ(エ)」(日本語の「の」の発音について。

韓国語の助詞「ウィ(エ)」(日本語の「の」の発音について。


日本語の「~の」にあたる韓国語の助詞「ウィ」ですが、そのまま読むと「ウィ」なのに、「ウィ」と発音するときと、「エ」と発音するときがあります。

どのように読み分ければいいんでしょうか?

Aベストアンサー

標準発音法 第5項
助詞の”ウイ”は”エ”と発音することも許容される
とありますので本来ウイですがエでもOKということですね。
実際口語ではほとんどエですが論文とか弁論とか堅苦しいものはウイと言ってますね。
あとウイは頭に来るときはウイですが(医者、ウイサ)中間ではイでも言いということです。
ex:民主主義の意義...ミンジュジュイエ ウイイ

参考URL:http://kids.hankooki.com/lpage/edu/200704/kd2007041013511577360.htm

Q《夕陽の信仰》――山折哲雄による――とは何か

《夕陽の信仰》――山折哲雄による――とは何か



 ▲ 山折哲雄:夕焼け小焼け――日本人の生命観 死生観――
  http://www.manabi.pref.aichi.jp/general/10001841/0/index.html
 ☆ この中の次の箇所についてその内容を問います。

  ・ 韓国の仏教学者に教えられたこと
  ・ 『夕焼け小焼け』に表れた日本人の宗教観(一)
  ・ 『夕焼け小焼け』に表れた日本人の宗教観(二)
  ・ 『夕鶴』にみる夕陽信仰

  ☆ 文章は講演内容であり 読みやすいのですが かなりの長さがあります。要約しつつ疑問を述べて行きます。その前にすでに問いをかかげておきます。

 【α】 夕陽の信仰は どこまで日本人のこころにうったえているか。

 【β】 仮りにうったえていたとして どこまでそれが錯覚でないと言えるか。


 1. 《 ♪ 夕焼け小焼けのあかとんぼ》ともうたわれるわけだが ここでは童謡の《夕焼け小焼け》をとりあげよう。小節づつ。

 2. 《 ♪ 夕焼け小焼けで 日がくれて》

 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 日本人は昔から、あの落日のかなたに浄土をイメージしてきたのではないでしょうか。・・・
 沖縄に行きますとニライカナイという海上のかなたに存在する理想の国土が信じられております。

 その太陽がまた翌日になると、東から昇るわけであります。それは人生が必ずよみがえる、季節も繰り返しよみがえってくるという再生の考え方とも結びついている。それを象徴するのが落日ですよね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 3. 《 ♪ 山のお寺の 鐘がなる》

 ▲ “山のお寺の鐘が鳴る” その山のお寺が朝昼晩 鐘を鳴らす。鐘の響きを聞いて人々は起床し、食事を取り、労働をし、1日のリズムがそれで決められていく。
 ☆ 鐘は人為的なものだが すべては人びとの日々のくらしの世界に溶け込んでいる。自然とも一体であるということをも つづく箇所と合わせて言おうとしているようです。

 4. 《 ♪ お手てつないで みなかえろ》

 ▲ しかしこれは大人に対するメッセージでもあると私は解釈しています。「帰るべきところに帰れよ。」 そういうメッセージですね。

 5. 《 ♪ からすといっしょに かえりましょう》

 ▲ 「共生」、動物たちや小鳥たちや自然といっしょに生きていこうという考え方は、もうこの『夕焼け小焼け』の歌の中にきちんと歌い込まれていたんです。

 6. 木下順二の『夕鶴』

 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ・・・〔* あるたけの羽根で織物を織らせられ〕鶴は人間どもの欲望の尽きないありさまに絶望して、天上に帰っていく。鶴が飛び立ったときに初めて与ひょうは大事なものを失ったと思う、という現代劇です。
  最後につうが天上に戻っていくその場面を、木下順二はどう表現していたか。これが夕焼け空なのです。つうは真っ赤に燃えた夕焼け空に向かって飛び立って行った。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 7. ☆ さてここで最初の【α】と【β】の問いになります。
 特に【β】については こうです。

  【β‐1】 日本人は――いくら自然と一体だと言っても――決して 夕陽の向こうのイデアの世界にふるさとを見るなどということはしないのではないか。――《世の中を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば》(山上憶良)。その場この場にとどまるほうが 日本人の伝統ではないか。

  【β‐2】 同じような内容として:《人間のあさましさ・その欲望の深さにたとえ絶望した》としても 鳥ではないのだから 夕鶴のように夕焼け小焼けの赤く染まった西の空のかなたを目指して飛び去っていくことはないであろう。

  【β‐3】 この《夕鶴》および《夕陽の信仰》というしろものこそが 日本人のあいだに いぢめを無くさなくしておる共同の観念であり幻想であるのではないか。いぢめに遭ったとしても 夕陽の観念に逃れその栄光の観念の国にのぞみを見い出せと 周りの《観念の運河》からは声が聞こえて来る。――《和を以て貴しと為せ》と上から言われなかったなら わたしは和を乱すことを知らなかった。これが 日本人の信条ではなかったか。

 ☆ 思想として見た場合の山折哲雄および木下順二というそれぞれ内容について全否定を試みるものです。どうでしょう?
 
 * (おまけ) 夕鶴の《つう》は 羽根がなくなったのに どうして空を飛べたのでしょう?

《夕陽の信仰》――山折哲雄による――とは何か



 ▲ 山折哲雄:夕焼け小焼け――日本人の生命観 死生観――
  http://www.manabi.pref.aichi.jp/general/10001841/0/index.html
 ☆ この中の次の箇所についてその内容を問います。

  ・ 韓国の仏教学者に教えられたこと
  ・ 『夕焼け小焼け』に表れた日本人の宗教観(一)
  ・ 『夕焼け小焼け』に表れた日本人の宗教観(二)
  ・ 『夕鶴』にみる夕陽信仰

  ☆ 文章は講演内容であり 読みやすいのですが かなりの長さがあります。要約しつ...続きを読む

Aベストアンサー

>【α】 夕陽の信仰は どこまで日本人のこころにうったえているか。
日本人の宗教は、「仏教+神道」であり、輪廻を否定していないので
一神教系(=輪廻を否定)よりは日本人のこころに近いのは明らか。

なお、山折さんの論法は、
日本:落日とは再生を意味する。  ※西洋では、終焉を意味する。
日本:落日の光景の芸術がある。
西洋:落日の光景の芸術が少ない。
よって、日本のほうが夕陽の信仰が大きい。
という、客観判定可能な事項を基にした論法なので、
真っ向から否定するなら、
・落日とは再生を意味する。
or
・西洋にも落日の光景の芸術がてんこ盛り。なお、落日=終焉の意味の芸術は除外する。
の部分を爆撃するしかないです。そこをつぶさない限り、山折さんの論理はダメージを受けないのだけど、
bragelonneさんはそれと関係ない、どうでもいいところばかり攻撃しています。

>【β】 仮りにうったえていたとして どこまでそれが錯覚でないと言えるか。
科学では証明できないという意味では錯覚である。
ただし、「再生」を否定する思想系(たとえばキリスト教)も科学では証明できない。
つまり、思想の客観性からは、引き分け。つまり、言っても意味ない。
※ここでいう客観性とは、科学における証明のことであり、観測事実(=賛成派・反対派で意見が一致する事項)から片方だけ矛盾が生じるゆえに間違い、という論理が成立することを言う。

>――《和を以て貴しと為せ》と上から言われなかったなら わたしは和を乱すことを知らなかった。
>これが 日本人の信条ではなかったか。
当時の時代背景を無視した発言です。
聖徳太子が憲法1条に、「和を以~」と書いたのは、曽我氏と物部氏の戦争が終わった直後。
モロに、和を乱した状態の直後。
あと、「和を以~」は、悪用されていて、議論すべからず、という意味に使われています。
議論の時は、何を言ってもいいけど、決議後は決議に従うのが世界標準。「和を以~」??アホか~。
その意味で、「和を以~」は、単に「私は議論下手です」と言っているだけ。

> 思想として見た場合の山折哲雄および木下順二というそれぞれ内容について全否定を試みるものです。
>どうでしょう?
どうでしょうって...思想は各人の自由だから、
「私は山折哲雄および木下順二の思想に同意できない」以上の意味を見出せません。
全否定しようが部分否定であろうが、知ったこっちゃないです。ご自由にとしか言いようがありません。


>β‐1
>β‐2
人間のあさましさ・その欲望の深さに絶望したことを、「飛び去った」と表現しただけ。
比喩なので、字句どおりにとる必要はありません。

>夕鶴の《つう》は 羽根がなくなったのに どうして空を飛べたのでしょう?
比喩なのでいちゃもんをつけるのはどうかと思うが。
自然科学でも一応は説明可能。
「羽根がなくなった」わけではないため。
羽の一部を使っただけであり、羽根を全部むしったのではないため、当然、飛べます。
※《つう》は、自分で自分の羽を抜いています。他人により羽根をむしられたわけではありません。

> ☆ 鐘は人為的なものだが すべては人びとの日々のくらしの世界に溶け込んでいる。自然とも一体であるということをも つづく箇所と合わせて言おうとしているようです。
現代科学と重要な相違点があります。このため、鐘は人為的でなく自然現象と解釈せざるを得ません。

・なぜ、夕方(=日の入り)に鐘が鳴るのか?
  夏や冬には、現代なら鐘が鳴らない。午後6時に鳴る。

旧暦では、現代の時刻の定義と異なり、日の出・日の入りが六つ時と定義されます。
要するに、昼・夜で、1時間の長さが違った。
現代時刻なら、春分の日近辺・秋分の日付近しか、日の入り時刻に鐘が鳴らないところ、
年間を通じて、日の入り時刻に鐘が鳴ります。現代時刻のほうが、明らかに人為的です。

>【α】 夕陽の信仰は どこまで日本人のこころにうったえているか。
日本人の宗教は、「仏教+神道」であり、輪廻を否定していないので
一神教系(=輪廻を否定)よりは日本人のこころに近いのは明らか。

なお、山折さんの論法は、
日本:落日とは再生を意味する。  ※西洋では、終焉を意味する。
日本:落日の光景の芸術がある。
西洋:落日の光景の芸術が少ない。
よって、日本のほうが夕陽の信仰が大きい。
という、客観判定可能な事項を基にした論法なので、
真っ向から否定するなら、
・落日とは再生を意...続きを読む

Q横文字としての「エ」と「ヱ」の違い

戦後間もないの本を読んでいたら、同じページ内にあるのにも関わらず、同じ外国人の名前に「エ」を「ヱ」と置き換えられていたり、その逆だったりと実に曖昧な使い方をしていました。
当時の活字だと「エ」と「ヱ」がほぼ同じ字形なので判断しづらいのもそうなんですが、当時は特に区別せずに使っていたのでしょうか?

Aベストアンサー

ご承知とは思いますが、「エ」はア行、「ヱ」はワ行です。

戦後は、国語改革などで、かつて使われていたワ行の「ヰ(ゐ)、ヱ(ゑ)」は使わないようになりましたが、戦前の教育を受けていた人たちにとっては、使ってしまうこともありました。

また、戦後で、国語改革以前であっても、多くの人にはすでに同じ発音になっているので、混同している人がいたようです。

また、手書きの原稿では「ヱ」と「エ」は判別しづらくて、活字工が間違えているケースもあったでしょう。

戦後のどさくさで、活字工の腕や編集者の校正能力、校正の回数や時間にも問題があったかもしれません。

要するに、「ヱとエ」、「ゑとえ」の混同は、区別していないのではなく、間違って使っていたのだと思います。

Q《マツリゴト》とは どういうことか?――宗教批判です――

0.
宗教の批判は終わっているとも聞きますが あらためて問います。つまり 批判
します。
 
個人の信仰と集団としての宗教とは 似ても似つかないしろものであるというの
が 趣旨です。信教・良心および自己表現の自由は 宗教組織としての結社の自
由を保証するものではないのではないか?

1.
宗教の発生をその過程においてどう捉えるかという視点に立って考えて行きます。
 
2.
まづ アニミズムとは なにか?

人間には広く《共通感覚 sensus communis / common sense 》とよぶべき人
と人との関係性を この宇宙の中で持っていると考えられる現象が見受けられま
す。その昔 アイヌの間でこういうことが起こったそうです。

  一人のアイヌの男が 山で遭難した。戻って来ない。
  巫女が占なった。この山のどこそこあたりに倒れていると言う。果た
  してその通りであったが そのわけは こうだと説明した。
   ――わたしが からだ全体で 山になる。その山の全体に わたし
     の体を重ねてみる。
     そうすると 体の一部が 痛くなる。その部分が 山のどこに
     あたるかを考えてみれば そこに男は遭難しているはずだ。

おそらくこの現象は 非科学的であっても 反科学的ではないのでしょう。
神体山(かむなび)であるとか神木(ひもろき)であるとか これらに人が身
心ともに寄り憑くというのは ふつうに素朴に 原始心性だと捉えます。その
山の石(いはくら)や木が神との交流の依り代になっているということのよう
です。

人間の自然本性にそのような《交感 correspondance 》のはたらく余地があっ
たのだと思います。アニミズム。

3.
アニミズムからのへそ曲がり。としてのシャーマニズム。
 
ところがこれをいいことに そこからは 自分でこのアニミズム交感なる現象
を〔勝手に〕操作しようとする動きが出ます。シャーマンです。
 
何か身のまわりのことでも或るいは広く共同体全体のことでも 揉め事があった
り衝突なり戦争があったりすると もはや初めのアニミストたちの素朴な対処法
ではなく そうではなく このシャーマンの出番となったという場合です。

何が何でも 自己の努力によって・しかも自己の意識を突き抜けて 何ものかの
世界――つまり言わゆるかみがみなのでしょうか――に身を置き さらにそこか
ら 何らかの答えを得て戻って来るというのが シャーマニズムであるようです。
占いのようなものです。これは もう端折ります。

4.
さらに時を飛んで 《時間的存在》としての人間の誕生。

やがて あたかも初源のアニミズムの自然性を取り戻してのように しかも新た
な心性を 人は獲得したと思われます。単純にそれは 時間の獲得によるもので
しょう。死を知り 生を知った。

農耕をとおして・つまり麦なり稲なりの栽培の過程をとおして・つまりその種蒔
きから穫り入れまでの時間の経過をとおして 自己も 時間的な存在であること
を知ります。
 
要するに 自分たちは老いると ただ倒れるのではなく眠るのでもなくそうでは
なく死ぬのだという認識を得たことがからんでいるはずです。時間的存在である
ことは われわれの心性を高めて 精神および身体において 《歴史知性》を獲
得したと考えられます。世界の内へ その時間的存在なる自覚において 入った。

5.
ここまでの経過とその後の転回をも交えて 整理すると 次のようです。
 
 -1:原始心性=《ヨリ(憑り)》:アニミスム&シャーマニスム
 0 :歴史知性=《イリ(入り)》:世界の内への入り。世界内存在。
 +1:超歴史知性=《ヨセ(寄せ)》:《ヨリ》を束ね 《イリ》をも 
                 社会力学上(政治的に) 寄せる。

ヨリ→イリ→ヨセの順序を想定したのですが では なぜ 最後にヨセが 出て
来たのか。ここでは これは 要らぬものという理解に立ちます。(人によって
は 必要悪と言ったりします)。そして これが 宗教の始まりです。

6.
歴史知性を獲得したひとの抱く信仰。
 
言いかえると イリなる歴史知性においても ヨリなる原始心性におけるアニミス
ムの要素を備えているでしょうから(つまり むやみに捨て去ることはないでしょ
うから) その非科学的な心性として いわゆる信仰をも持ち得ます。単純に 超
自然のちからを かみと呼んだことでしょう。
 
これが ふつうの知性のあり方だと考えられます。経験世界を超える場については 
個人として・あくまで個人の主観内面において その神とよぶむしろ非対象をいだ
いた。という信仰。

7.
さて ここから スーパー歴史知性とよぶべき《ヨセ》なる人間類型が出ました。

単純に言えば ヨリ・アニミズムを備えたイリ歴史知性は その信仰において 神
との共生をふつうの社会的な(村の)人生としており 実際に或る種の儀式として 
神との共食を持ちます。つまり 食物の収穫に感謝し供え物をして 共に味わうわ
けです。つまり《まつり(奉り・祀り・祭り)》です。どんちゃん騒ぎをも伴なっ
て。

ヨセは このマツリを 一段高いところから〔ふつうのイリ歴史知性を超えた(と
自称する)ところの精神において〕 《まつりごと》として制度化したというもの
です。マツリゴトとは 個人やムラを寄せ集め人びと〔の信仰〕を束ねる宗教であ
り政治です。

8.
古事記には こうあります。

   その(仲哀タラシナカツヒコ天皇の)大后 オキナガタラシヒメのミ
   コトは 当時(そのかみ) 神を帰(よ)せたまひき。
  
四百年ごろのことだと推測されますが 具体的には九州のクマソもしくは半島の新
羅を討つというくだりに出て来ます。

これは あたかも その昔のシャーマンを思い起こさせます。そして 違いは す
でに人びとは一般に イリ歴史知性なる相対的で移ろい行く存在であることの自覚
を持ったあとだということです。かくて 《ヨリ・シャーマニズム+イリ歴史知性》
で 《ヨセなるスーパー歴史知性》の誕生というわけです。鬼っ子かも知れません。


9.
《ヨセ》なるスーパー知性とはいったい何か?

《一段高いところから(ふつうのイリ歴史知性を超えたところに《ひかり》を見て
そのまぼろしなる精神のもとに) 村々のマツリを寄せ束ねた》というのは その
ように《神のごとくいかなるものの下にも立つまいと堅く誓った知性であり人間精
神である》と考えられます。

つまりは その昔のシャーマ二ストは まだ人びと(アニミスト)と同じ地平に立
っていたところがありますが このヨセなる超歴史知性は この同じ水平を嫌った
ようです。
 
嫌ったので 強引に社会のいわば第二階に みづからアマアガリして行ったのか。
それとも人びとが その新型チョー弩級シャーマンに辟易してこれを《敬遠》し人
びとの合意で 言わば社会の神棚に据えてまつることでもしてやろうと考えたか。
いづれとも推し測られます。
(《国譲り》説は 後者です。社会が 二階建てになりました)。

10.
要するに ここに 神の代理が 出現しました。紛れもなく宗教です。
(オシヘはなくても。あるいはつまり ムラのまつりにおけるイリ知性なる人びと
の仲の良さをパクって《和を以て貴しと為せ》と のたまい いや実は《逆らうこと
無きを旨とせよ》と――ただし普段は言挙げせず クウキなる《徳化》手段によっ
て――しめつける・・・これが 神聖なる教義でしょう)。
 
村における人びとの見えない神との共食(供え物をしてのまつり)が 村々をたば
ねた統一集団として一段高いところからおこなう・見える神との共食(貢税を伴な
うまつりごと)になったという話です。

これが 宗教の始まりを説き明かす一つの歴史事例(そのたとえ話)だと考えます。

11.
《神の代理》を名乗るという要素は シュウキョウ一般に共通です。
 
要するに 一人ひとりがそれぞれその心の内に おのれの神を抱き きよらかなお
それを持ってこれをとうとび人生を生き切ればよいものを いちいちわざわざこの
個人の信仰をおれがおしえてやろう おれの言うことを聞けと言って オシヘを垂
れる。一般には このオシヘという要素があります。

そのオシヘ〔を説く神の代理人〕に対する従順さの度合いに応じて人に権限を分け
与え その集団をヒエラルキアなる組織につくり上げる。こうしてあたかも一個の
国家のごとく人びとに対して君臨する。何の理論的保証や根拠もなく。結社の自由
は 基本的人権なる自由をむやみに拡張しただけではないのか。

11. 
《神の代理》との共食なるマツリゴトとしての共同自治の制度 これは一般に 国
家という形態です。ヒエラルキアないし教会・教団なる組織も 国家のようなもの
です。

信教・良心の自由なる公理をいいことに その宗教組織には政治権力は手を出すな
とさえ言おうとしています。

マツリゴトが 政治と宗教というふたつの国家に分かれただけです。このような結
社の自由とは いかなる意義があるか?
 
国家あるいはヒエラルキア国家は やがて歴史的に しかるべく揚棄されていくこ
とでしょう。捨てられて行きます。わたしたちは 永く働き蜂に甘んじていたとい
うわけです。いまはすでに慣性の法則で存続しているのみです。つまり 死んでい
ます。
 
イリ歴史知性の復権 万葉集いや億葉集のルネサンスを迎える未来しか来ないでし
ょう。

いかに?

0.
宗教の批判は終わっているとも聞きますが あらためて問います。つまり 批判
します。
 
個人の信仰と集団としての宗教とは 似ても似つかないしろものであるというの
が 趣旨です。信教・良心および自己表現の自由は 宗教組織としての結社の自
由を保証するものではないのではないか?

1.
宗教の発生をその過程においてどう捉えるかという視点に立って考えて行きます。
 
2.
まづ アニミズムとは なにか?

人間には広く《共通感覚 sensus communis / common sense 》とよぶべき...続きを読む

Aベストアンサー

>恐ろしい信念の持ち主でおられる

これはお互い様でしょう。

>人間を解放へと向かう宗教は論理的には成り立たない

ということは、当然あなたの主張する「非知たる神論」から導き出される結論ですから、
私がそこに切り込んでゆかなければ、平行線のつまらない議論で終わることでしょう。

あなたの「神論」はいわゆる「神」を「非知」として、そこから組み上げた理論であろう
と思っています。
一方、私は大乗仏教の生命観を学んでいるものです(お判りでしょうが)。この二者がどう
かみ合うのか?いや、かみ合わせることができるのか?ここが、極めて面白いと思ってい
ます。
だから、なかなか時間が取れないながらも、対話を続けようとしています。

「人間とは何か?」が分かればいいのだと思います。そう考えれば、「哲学」「宗教」は
「人間学」とも言えると思います。

Q『ソレ』の名前を忘れて困ってる

『ソレ』の名前を忘れて困ってる

PCのサイドにあるマウスを繋いだりするとこに
『ソレ』を繋ぐとさせるところが増えるのだが『ソレ』の名前を忘れた
誰か親切な方よ、教えてくれーーーーーー

Aベストアンサー

USBのHUB(ハブ?)

参考URL:http://www2.elecom.co.jp/cable/usb-hub/

Qひとは神隠しを好むものなのか――《間(ま)の理論》――

ひとは神隠しを好むものなのか――《間(ま)の理論》――



 《夕日信仰》の説を批判的に捉えつつそこから展開する問い求めです。

 《たそかれとき》は 光と闇のあはひ(合ひ‐合ひ)であって 時に逢魔時(おうま〔が〕どき)とも呼ばれたそうです。これは 大禍(おほまが)時から来たそうです。

 ひとはモノとモノのアハヒにどこか惹かれるところがあるのでしょうか? 爪を切り耳掃除をし髪を切ったりいじくったりすることに多少のあやしさを感じるでしょうか? もしそうだとしたら それも或る種の仕方で ウチとソトのアヒダについての気持ちがかかわっていましょうか。

 例の『遠野物語』〔の紹介記事ですが〕によれば 《マヨヒガ》という話があって それは山の中でふと大きな屋敷を見つけ そこには誰もいずただ料理が出来上がっている。これを食べて家に帰ったあとはと言うと 何ごともうまく行きやがて長者になったと言う。マヨヒガ=マヨイガ=迷い家。

 禍事(まがごと)だけではなく善事(よごと)も アハヒの魅力にはふくまれているようです。話を広く取っていわゆる神隠しに遭ったが 山の中で家に帰ろうかそれともよそうかという思いのそのアハヒから事が展開したというような。マ(間)→ま(真)あるいはマ(魔)。魔はよその国の言葉ですが早くに採り入れたもののようです。逢魔時。

 けれどもこの逢魔時は 例の丑三つ刻につながっていて それこそ例の藁人形ののろいにまで行き着きます。つまりこの事例は アハヒから新たなコトが出て来るというよりは 自分の気持ちから自分の都合のよいコトよ出て来いという人為的なしわざにまで発展する。

 ここで――例によって――《ガミガミ役とアース役とのアヒダの意識の排泄》という社会現象の話です。

 要するにひとは 神隠しが好きなのでしょうか? つまり《意識の排泄なるガミガミ電波の放射》についてなら それはいけないことだと言うに決まっています。けれどもその《マ》に臨んでは どうしても耐えきれない何か惹かれるものがそこにはあるのでしょうか?

 でもそれは《間違い》ではないのでしょうか? 《間抜け》ではなくそのマを埋めているのですが もっともっと間合いをうまく取ろうと思えば取れるのではないか。

 どうすればよいでしょう?

 * どうもわたしは 一般的に言って占い好きというところに アース役がいぢめに遭うという社会現象のひょんなきっかけがあるようにも思えるのですが どうでしょう? 言い過ぎでしょうか。こわいもの見たさでもないでしょうに マ(アハヒ)の魔のほうに自分が持って行かれてしまうというようなクウキとして。

ひとは神隠しを好むものなのか――《間(ま)の理論》――



 《夕日信仰》の説を批判的に捉えつつそこから展開する問い求めです。

 《たそかれとき》は 光と闇のあはひ(合ひ‐合ひ)であって 時に逢魔時(おうま〔が〕どき)とも呼ばれたそうです。これは 大禍(おほまが)時から来たそうです。

 ひとはモノとモノのアハヒにどこか惹かれるところがあるのでしょうか? 爪を切り耳掃除をし髪を切ったりいじくったりすることに多少のあやしさを感じるでしょうか? もしそうだとしたら それも或る種の仕方で...続きを読む

Aベストアンサー

ぶらじゅろんぬさん。ふたたびこんばんわ。
ご返信ありがとうございます。4番です。

>★ 最初から何もしゃべらんほうがいいのかなあ。
 ☆ というようなつぶやきは 誰からも聞きたくはないですね。
:わかりました。それなら二度と言いませんですわ。
ぶらじゅろんぬさんが「しゃべりっ放し」を嫌っているようなので、
このように、つぶやきとして、反応してしまっただけです。
しかし施錠された檻の中でしゃべっているわけではなく、
公園のようなところでしゃべっていますから、
わたしの都合で勝手に退席させてもらいますとお断りしておきます。
わたしの都合というのは、たとえば
理解力・表現力・語彙の不足・時間の不足などです。

>《ことだまのさき(咲き・幸)はふ国なれど 言挙げぞ我れする》で行かなくちゃ 世界では話が始まりません。ただしその基調は《ゆづりあい》であるとは考えます。その意味で沈黙は金だと。
:異議なし。

>☆ これは分からんなぁ。説明不足では?
:3番様が「ひとのさが」とおっしゃったので、
「さかなのさが」と言っただけです。
釣られましたと言っただけです。ふざけすぎですか。


「ちまた」は「道・股」と書くのですね、
知りませんでした。おもしろい。


>☆ 【Q:美智子さん雅子さん愛子さんは アース役となって】〔ガミガミ役からの意識の排泄としてのガミガミ電波をゴミ処理のごとく受けておられるのではないでしょうか?〕
 たぶんこれについて 《それはいけないことだと言うに決まっています》と言ってよいと思います。《自分の気持ちから自分の都合のよいコトよ出て来い》という魂胆だからという理由からではないでしょうか。
:分かりませんです。主語を書いてください。
「>いけない」のは、外に出て行った
「美智子さん雅子さん愛子さん」ですか。
それとも「ガミガミさん」ですか。
「>都合のよいコトよ出て来い》という魂胆」
を持っているのは、ここでは誰ですか。

>自分の気持ちから自分の都合のよいコトよ出て来いという人為的なしわざにまで発展する。
>アース役を探し出し(または 自分で作り出し)
:捏造に関しては以前わたしは「渇愛(による歪んだ期待)」
ということで納得しましたが、
「自己アイデンティティの確立のため」と
昔だれかが言っていました。なるほどなあと思いました。

>占いというのは みづからの意志ではないと思おうとするだけのことですから
:異議なし。

>おのれをも神隠しに遭わせる・つまりむしろ《神隠れ》であるように思われます。
:はい、これが、
「>責任逃れつまりあるいは 意志放棄であるように見られます。」
ということでよいのだろうか。

...........ブレイク...............

>社会の自律性は、個々人の責任感によって保たれる。
>責任が、行動を制御するからである。
>問題は程度であり、限界をどこに定めるかである。
>金銭化、数値化し、市場化しようとすらしている。
>貨幣価値によって表象される以前の人間は、人間でしかなかった。
...................................



>ともかく――ひとをではなく その考えや行動をなのですが―― 批判をする場合というのは この社会では オカルトやら霊媒師やらでないとしづらいというこれまた雰囲気があるのでしょうね。
:気のせいだと思います。

>《いやしい者が言っているぶんには 言わせておけ》
:分かりません。これを言っているのは誰ですか。
そう言って男が聞き流していると?

>数値にしてどのくらいの割合なのでしょうか。
:分かりません。

>まっ いづれにせよ 現状認識から入って行くということではないでしょうか。
:ありがとう。やさしいね。
みずから墓場に住んでいるのに、
聞いてちょうだいとわめいている人のことでしょうか。

>これで「マインドコントロール」の問題にも触れ得て ボールはそちらのコートへ行きましたよね。
:話をそらすなと言っていますか。

ぶらじゅろんぬさん。ふたたびこんばんわ。
ご返信ありがとうございます。4番です。

>★ 最初から何もしゃべらんほうがいいのかなあ。
 ☆ というようなつぶやきは 誰からも聞きたくはないですね。
:わかりました。それなら二度と言いませんですわ。
ぶらじゅろんぬさんが「しゃべりっ放し」を嫌っているようなので、
このように、つぶやきとして、反応してしまっただけです。
しかし施錠された檻の中でしゃべっているわけではなく、
公園のようなところでしゃべっていますから、
わたしの都合で勝手に退席さ...続きを読む


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