上記三人の人柄をホトトギスを用いて表現した文句は有名ですが↓

信長「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」
秀吉「鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス」
家康「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」

これらは彼らの人柄をわかりやすく例えるために後世に詠まれた、とこのサイト内の他の質問から知りましたが、これらを考えた「誰か」というのは特定の人物として存在するのでしょうか?
ご存知の方がいらっしゃいましたら教えて下さい。
宜しくお願いします。

A 回答 (1件)

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この回答へのお礼

URLありがとうございます。
非常にわかりやすく、望んでいた疑問の答え以上の事も知る事が出来て面白かったです。

>江戸時代の幕閣・役人にあわせて平たく考えるならば
>働かない役人は クビにしろ。
>働かない役人は 働かせてやろう。
>働かない役人は 自ら働きだすまで待ってやろう。
>と、なるのだろうか。

この表現はより身近な感じがして、また新鮮でした。
ご回答、ありがとうございました!

お礼日時:2009/05/16 00:11

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Q鳴かぬなら 逃がしてしまえ ホトトギス

”鳴かぬなら 逃がしてしまえ ホトトギス”と歌った武将を御存知でしたら教えてください。

Aベストアンサー

>>と歌った武将を御存知でしたら教えてください。

そういう風に「歌われた」武将はいますが「歌った」武将はいません。
これは詠史句(歴史上の出来事や人物を主題とした詩歌)といって後世の人が
武将の性格分析をするおり、ホトトギスを敵側と置き換えた場合の戦国武将の
対応の仕方というか武将の性格というか戦のやり方を象徴的に詩に表したもの
だからです。

ちなみに有名な三人の武将をとして歌われたのは
織田信長「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」 
豊臣秀吉「鳴かぬなら鳴かせて見せようホトトギス」
徳川家康 「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」 

で今回の「鳴かぬなら 逃がしてしまえ~」と歌われた武将は検索したところ
明智光秀さんのものではないでしょうか。。
「鳴かざれば、放してやろう、ホトトギス」
http://www.nhk.or.jp/sonotoki/syoukai/s35.html

参考URL:http://www.nhk.or.jp/sonotoki/syoukai/s35.html

Q秀吉と家康の政治への基盤体制の違い

こんにちは。

(下記は、断定した文章や説明が断片的な書き方をしておりますが
 説明しやすさを優先しておりますので
 異論反論あるかと思いますが、ある程度ご容赦ください)

秀吉は天下統一後、残念ながら豊臣家を磐石な体制にする事ができずに
家康にその覇権をゆずり、
その後300年という磐石な体制を築きました。

この二人の執り行った体制の違いはどういう点にあるのでしょうか。
家康は征夷大将軍になり幕府を開きましたが、秀吉は行わなかった。
その差なのでしょうか(もちろんその差だけではないでしょうが、大きな要素として)

なぜ秀吉は幕府を開かなかったのか。

また、秀吉は五大老・五奉行という体制をとりましたが、
結果(色々異論はあるでしょうが)対立構造を生んでしまいました。
これがまずかったのでしょうか。
それとも、正当な後継者が(適正なタイミングで)存在しなかったことが原因の一要素としても
あるのでしょうか。
(秀次や早死した子供の事もあるでしょうが、子供に恵まれなかったというイレギュラーな
事だけだったのか。徳川家は、幕府という体制をしいておきながら
そのような子供に恵まれなかった場合も、綻びが生じる可能性があったのか)

…色々疑問文ばかりで恐縮ですが
自分は個人的に秀吉が好きなのですが、天下統一まで圧倒的だった秀吉が
何故磐石の態勢を築けなかったのか。
(おそらく秀吉は、「このような体制で問題ないだろう」とは思っていたとは思いますが、
 死の間際「誓書」を書かせたことなど、死後を心配していた事、何かしら
 懸念はしていたと想像してます。
 その点、家康は自分の死後、秀吉ほどまで懸念しながら死の床についてはいなかったのでは
 ないでしょうか。体制が磐石だったと思いますので。…単なる憶測ですが)
家康との差はなんだったのか、家康はあそこまで磐石な徳川体制を敷けた理由は
どういうところにあるのか。

みなさまの考える論拠をお聞かせください。
よろしくお願いいたします。

願わくばその考えに行き着いた思考のプロセスを詳細に
教えていただけると助かります。

こんにちは。

(下記は、断定した文章や説明が断片的な書き方をしておりますが
 説明しやすさを優先しておりますので
 異論反論あるかと思いますが、ある程度ご容赦ください)

秀吉は天下統一後、残念ながら豊臣家を磐石な体制にする事ができずに
家康にその覇権をゆずり、
その後300年という磐石な体制を築きました。

この二人の執り行った体制の違いはどういう点にあるのでしょうか。
家康は征夷大将軍になり幕府を開きましたが、秀吉は行わなかった。
その差なのでしょうか(もちろんその...続きを読む

Aベストアンサー

興味深い議題ですね。
自分の見解としては、生まれ育った環境も大きな一因かと
思っています。

生まれながらにして大名(といっても傀儡ですが)だった家康と
一平卒から成り上がった秀吉。生まれ持った価値観と、天下を
手に入れた後の処置の仕方、大きく違うと思います。

まず、秀吉からですが、彼は非常に優秀な武将だったことは
周知の事実です。また、一平卒から天下人になるという、今まで
の日本史至上の出世をした奇跡の人でもあります。
成り上がることにかけては、何もいうことないのですが、現状を
維持する能力に欠けていたと思います。
常に自分が何かを求めていたので、全てを手に入れてしまった
後は、どう平定すれば良いのかが分からなかったのでしょう。
一番の失策は朝鮮への出兵で、明確なビジョンもなく、ただ部下に
土地を上げたいがために起こした、一方的な戦です。
これにより、西国の大名は軍事力を大きく削がれ、関が原の敗因
の一因にもあげられています。


それを反面教師にしたのが、まさに家康ですね。
子供の頃から、大名の子でありながら不遇な体験をし続け、様々な
裏切りに会い、親も子供も親族も亡くしています。
ここで養われたのが、猜疑心かと思います。人を信じることができ
ないからこそ、磐石な体制が敷けたと考えられます。
秀吉が死去してから、禁止されていた大名同士の婚礼を次々に
行い、有力大名との絆を深めていきます。まだ、自身も70になっても
子作りに専念し、分家(御三家)という体制を作ります。
彼の目的は、日本中を徳川家にしたかったのかと思うぐらい、自分の
血筋の入った者を他家に入れ込みます。


さて、天下を略奪した暁には、秀吉とは異なり非常な仕打ちをします。
自分の親族には大きな土地を、昔から味方だった優秀な家臣には
そこそこの土地を、降伏した大名には、どうでもいい土地を分け与えます。
しかし、感謝の念よりも、これからは徳川に尽くす政策を強行します。
まずは、金山などの独占権を横行し、経済を牛耳ります。
天皇家よりも、徳川家が偉いと決め、大名との付き合いを一切もたせなく
します(毛利家など例外はありましたが)。
更に、一国に対して城は一つ。高さ制限、広さ制限もします。改修するには
幕府にいちいち許可が必要です。国力を一気に削いでいきます。
もちろん、大名同士の勝手な婚礼も禁止です。
あれだけ尽くしてきたのに、こんな仕打ちかい!と西国を中心とした大名は
大いに反発。ほんのちょーーーーーっとだけ反発(勝手に城を修繕したとか)
しだだけで、お家取り潰しされ、徳川の領土になった。
当初に、どうでもいい国を与えたのも後々没収する名目であったことも
伺える。没収した後は、小さな国でもいいので、他家へのにらみになる。
極め付けが参勤交代という人質制度。このように大名は次々に牙を抜かれ、
外国の圧力がかかるまでは、徳川の天下が謳歌できたと思います。


人とのつながりを大事にし、絆を深め大きく恩賞を取らせ、人身掌握で
天下を取った秀吉。天下人になった後も、いかに部下が自分を信奉する
かに力を尽くした結果、裏切られることに。。。

不遇な幼少期、青年期を過ごし、自分の上に立つものに対して猜疑心の
塊だった家康。天下人になった暁には、今まで温厚だった家康とうって
代わり、恐怖・恐喝・恫喝政治をして、徳川三代かけて根底をしっかりと
作った結果、260年という太平な日本を築けた。
〈四代目以降からは、考えられないぐらいガタガタになるが、すでに
徳川家が神格化されていたので、天下転覆を考える輩はいなかった)

興味深い議題ですね。
自分の見解としては、生まれ育った環境も大きな一因かと
思っています。

生まれながらにして大名(といっても傀儡ですが)だった家康と
一平卒から成り上がった秀吉。生まれ持った価値観と、天下を
手に入れた後の処置の仕方、大きく違うと思います。

まず、秀吉からですが、彼は非常に優秀な武将だったことは
周知の事実です。また、一平卒から天下人になるという、今まで
の日本史至上の出世をした奇跡の人でもあります。
成り上がることにかけては、何もいうことないのです...続きを読む

Q鳴かぬなら

信長と秀吉と家康の性格をあらわした、鳴かぬならーの
うたがありますよね。
あれは、史実でしょうか?とすれば、どのような場所や状態でうたわれたのか知りたいです。

Aベストアンサー

私も以前、この三句が誰の作か知りたくて色々検索しました。
その際、松浦静山の「甲子夜話」に書かれている事がみつかりました。
一部のサイトでは句事体も松浦静山の作と紹介もされていましたが、実際に「甲子夜話」を求め読んでみると

 > 「夜話のとき或人の云けるは、人の仮托に出る者ならんが其人の情実に能く恊へりとなん。」

と言う前書きで話が始まります。

と、考えれば
(1)松浦静山の生きていた頃、誰かが作った句
(2)当時から誰の句か解らぬまま伝え広まってきた句
(3)(意地悪く勘ぐれば)静山自身が作ったけど憚って他人の作の振りをした句
と推察されると思います。

Q今学校で、豊臣秀吉について勉強しているのですが、豊臣秀吉の家族や、豊臣

今学校で、豊臣秀吉について勉強しているのですが、豊臣秀吉の家族や、豊臣秀吉に関係している人のことが、よく分かりません!!
どなたか、詳しく教えていただけないでしょうか。

Aベストアンサー

愛知県名古屋市在住のオバサンです。

豊臣秀吉は、現在の名古屋市に該当する地域の出身のため、毎年、名古屋市で開催されている「名古屋まつり」の『郷土英傑行列』にも登場します。
今年(平成22年)の名古屋まつりは 10月16日(土)、17日(日)に開催されますが、名古屋開府400年の年ということで、例年とは少し趣向が変わっています。

『郷土英傑行列』は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という、名古屋市にゆかりの深い戦国武将に扮したパレードです。
それぞれに関連のある人物などによって一団が形成され、名古屋市の中心部をパレードします。

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康(「三英傑」と呼ばれる)は、公募(名古屋市在住or在勤の人)で選ばれます(2004年は、名古屋まつり50周年記念ということで、中日ドラゴンズOBの谷沢さん、彦野さん、今中さんが演じられましたが)。

そして、三英傑の「隊」は、栄地区にある3つのデパートがバックアップしています。
豊臣秀吉隊のバックアップをするのは、「丸栄」というデパートです。

ご質問からは少し話がそれてしまいましたね。
ごめんなさい。

豊臣秀吉は、その「出自」については正確なことは分かっていません。
秀吉自身もいろいろなことを「書かせている」んですよ。
母親については、後に「大政所」と称された「なか」という人です。
父親については、「木下弥右衛門」という人だとされていますが、この「木下弥右衛門」については、詳細が不明なんです。一般的には「百姓」と伝えられていますが、この当時、「百姓」にもいろいろな「種類」があり、どのような百姓であったのかは分かっていないんです。
きょうだいについては、姉、弟、妹が1人ずついたとされています。
姉は、同父同母のようですが、弟と妹については異父であるという説の方が大勢ですね。
この弟が、#2さんが紹介されている「秀長」です。
#2さんは有名ではないと仰っていますが、私が住んでいる地域で郷土史を齧った人間ならば知らないはずがない人です。
豊臣家のナンバー2として、なくてはならない人物で、大層興味深い人ですよ。

ご質問者さまは、来年の大河ドラマの主人公が誰かはご存知ですか?(演じるのは上野樹里さん。)
来年の大河ドラマの主人公は、「江(ごう)」という名前の人なんですが、この人は「豊臣秀吉の甥の妻」でもあった人なんです。
最終的には、「徳川家康の三男の妻」になりましたが、その人の2番目の夫が「豊臣秀吉の姉の息子=豊臣秀吉の甥」だったんです(死別)。
ちなみに「江」は、「織田信長の姪(妹=市の子)」でもありますし、「豊臣秀吉の義理の妹(秀吉の側室である茶々の妹)」でもあります。

さらに「江」に関連して申し上げれば、豊臣秀吉の直系の血筋は途絶えていますが、「豊臣秀吉の姉の息子・秀勝」と「江」の間には女の子が1人生まれています。
この女の子は後に「九条幸家」というお公家さんの妻になり、「道房」という息子を産みます。
その血筋が現在の天皇家につながっているんですよ。
九条幸家→九条道房→娘→九条輔実→九条幸教→二条宗基→二条治孝→九条尚忠→九条道孝→節子→昭和天皇→今上天皇 というカンジです。

豊臣秀吉には3人の実子がいたとされていますが、先ほども申し上げましたとおり豊臣秀吉の直系の血筋は途絶えています。
2人の子は幼くして亡くなっていますが、側室である「淀殿」が産んだ「豊臣秀頼」は成人し、側室との間に男の子と女の子がありました。
女の子(後の「天秀尼」)は、鎌倉にある東慶寺に入って出家して生涯を終えました。
男の子(国松)は、大阪の陣のあと徳川方に殺されていますが、こういった人にはつきものの「生存説」があります。

> 豊臣秀吉の家族や、豊臣秀吉に関係している人
とのことでしたので、ちょっと話を飛躍させてしまいました。

妻である「北政所(おね)」、上司にあたる「織田信長」、同僚だった「前田利家」あたりは、わざわざ上げるまでもないと思いましたので…。

豊臣秀吉関係でしたら「賤ヶ岳七本槍」も調べるキーワードの1つにされるとよろしいかと思います。
「賤ヶ岳七本槍」と呼ばれる武将のうち、「福島正則」と「加藤清正」は、「豊臣秀吉」と親戚だったと言われています。

愛知県名古屋市在住のオバサンです。

豊臣秀吉は、現在の名古屋市に該当する地域の出身のため、毎年、名古屋市で開催されている「名古屋まつり」の『郷土英傑行列』にも登場します。
今年(平成22年)の名古屋まつりは 10月16日(土)、17日(日)に開催されますが、名古屋開府400年の年ということで、例年とは少し趣向が変わっています。

『郷土英傑行列』は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という、名古屋市にゆかりの深い戦国武将に扮したパレードです。
それぞれに関連のある人物などによって一団が形成さ...続きを読む

Q後世の歴史家は、金日成・金正日・金正恩と権力を継承している北朝鮮を、金王朝と称するでしょうか?

後世の歴史家は、金日成・金正日・金正恩と権力を継承している北朝鮮を、金王朝と称するでしょうか?

Aベストアンサー

王朝とは言わないと思いますよ。社会主義は、王や皇帝といった超人的な存在を否定しますから。
歴史では、王政や帝政などの言葉の使い分けを大事にするので。


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