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人によって違うとは思うのですが、
あなたにとって数学とは何ですか、
と聞かれたらどう答えますか?

A 回答 (34件中11~20件)

あらゆる学問には、それぞれにそれ固有の文化があります。

そして文化の違いとは、価値観の違いのことです。したがって、違った文化の中に居ると自分の持っている価値観が相手に通じず、場違いなところに居る気になってくるものです。数学の世界の内部で物を考えている方にも、世の中にはこんなわけの分からないことを言っている奴らもいるのかと認識して頂けばそれで良いのです。その価値観の違いや、議論のすれ違いが、の世の中を多様で豊かな物にしているのですから。

>やはり、軽く話すると、数学は自然科学であり、、、

この認識は、前にも述べましが カントの発見により、最早否定されております。カントは「真偽」に付いて分析し、それには2種類の完全に違った物があることを発見しました。これは「数学とは何ですか?」に関する認識として決定的に重要な発見ですので、そのことを紹介しす。#17でも触れておきましたが、カントは「真偽」には「分析的真偽」と「総合的真偽」があることに気が付きました。

分析的真偽とは、例えば、「もし、『A ならば B である』が真ならば、『B でなければ A でない』も真である」と言う命題で扱う真偽などです。この命題の真偽は、ここで述べられている言葉の分析だけで真偽が判定できます。別な言い方をすると、実際に実験や観測の分析をしてなくても、言葉の定義を分析すれば、その「真偽」が判定できるような真偽のことです。したがって、この種の真偽は「言葉」の構造を論じることによって判定できる真偽ですので、このような真偽を扱う学問は人文科学として分類されます。

それに対して、「総合的真偽」とは、例えば「私が手に持っている石を離すと、その石は下に落ちる」という命題で扱う真偽などです。この命題は、ここで述べられている言葉の定義をどのように分析してもその真偽を判定することが出来ません。事実、人工衛星の中で手を離しても石は落ちないからです。従って、総合的真偽の判定には実験や観測の分析が不可欠です。

数学で扱う真偽は「分析的真偽」ですが、自然科学で扱う真偽とは全て「総合的真偽」です。したがって、数学は自然科学ではありません。したがって、数学で扱う「真理」と自然科学で扱う「真理」とは全然違った物で、それを同列に扱う訳には行きません。さらに、あらゆる学問や芸術がそれぞれの「真理」を追求しているからと言って、だからそこで言う「真理」と「美」の関係に関しても同じようなことを言っていると言う訳にも行きません。

哲学者のこのカントの真偽の分類に関して、その後に発展が為されていると言うことを聞きかじったことがありますが、それがどう発展しようが、数学が自然科学ではないと言うことに関しては、その見解が変わることは無いと思います。

数学好きな方がたまたま物理学のテーマを論じる時に、この真偽の違いの認識を理解していないことがあり、その理論で提示された言葉の定義とその言葉の間の関係を緻密に分析するだけで何か本質的な発見が出来ると誤解してしまう方もいるようです。その例は、量子力学の解釈に関する「観測の理論」でしばしば見かけます。ここでは詳しく紹介しませんが、「観測の理論」の主張は、量子力学の基本の法則であるシュレーディンガー方程式とは完全に独立した主張です。したがって、現在の物理学では、シュレーディンガー方程式という物理学の基本原理と、それとは独立な「観測の理論」の二元論で成り立っているように見えます。物理学者とは、
「この宇宙のあらゆる現象が、物理学の基本原理によって統一的に理解できるはずだ」
と言う未だに誰も証明したことのないことを信じている、言わば物理教を信じている信者このことであり、多分人類の中でも、際立って異様な連中のことを言います。ですから、物理学者にとって二元論的な認識は許せないのです。そこで、現在までにこの「観測の理論」を何とか統一原理の中に組み込めない物か、大変な努力が為されております。ところが、この「観測の理論」は物理学者で無くて数学者であったのあのフォン・ノイマン神が宣いはじめた理論と言う歴史的な経緯も在って、この問題は殆どの場合数学者達が自分のテーマに選んできました。そして、その方達はフォン・ノイマン神の提示した言葉の分析をいじくりまわし、解釈を提案するだけで、この問題が解決するのではないかと考えているような節があります。しかし、解釈だけではどうにもならない証拠に、この問題が提起されてから約80年が経過していますが、「観測の理論」にはまだ決定的な進歩が無いと言う認識を大方の物理学者は持っております。これなどは、数学者が「自然科学とはなにか」が良く判っていないからな、とい言う、またまた、数学者には迷惑な偏見を私は持っています。

物理学は、統一原理にこだわると言う点で、他の自然科学や工学とは全然違った世界観を持っています。したがって、応用数学として自然現象や工学や経済学などを論じる数学者は、原理よりもその現象その物に興味を持つと言う、工学者特有な物の見方をしますので、同じ現象を論じていても、物理学者の物の見方とは全然違う印象を私は持っています。

最後に蛇足になりますが、カントの真偽の分類についての興味ある応用を紹介します。これは大分昔に読んだ哲学史の本に書いてあったことです。カントはこの分類を、その時代までにバチカンで公認されていた十幾つかの神の存在の証明に応用したそうです。その証明によって語られている真偽は、それが分析的な真偽を証明しているのか、あるいは総合的な真偽を証明しているのかと言う分析です。カントは、その公認されている真偽はすべて分析的真偽であったことを示したそうです。別な言い方をすると、神とはという定義を先ず明確にして、その言葉の解釈だけで論じられる真偽を語っていたのだそうです。別な言い方をすると、この自然界にいる神に付いては何も語っていなかったと言う結論です。
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先ほど書いた、


>No.17

>No.14
の間違いでした。

>No.17
>数学では、「在るか無いか」の存在定理にこだわりますからね。物理屋はその点全然違った発想をします。
>「数学屋さんて大変不思議な連中なんですよ。彼等は本気で無限大と言う状態があると思っている。我々物理屋にとっては、無限大とは単に、ある大きさと比べて途轍もなく大きい、と言っているだけですからね。」

数学に存在定理が多いのは確かです。
方程式の具体的な解を求めたり、その手順を考えることには限度があり、そういったことはコンピュータでしらみつぶしにでもしてもらいます。
数学の研究は、より美しいものを目指すために、その美しいものがどうしても存在・非存在になってしまいます。
ついでにいうと、数学は世の中に役に立たないものを目指す傾向もあります。

無限大はありますよ。
いくつかの考え方がありますが、lim[x→∞]において、「xがどんどん大きくなる」という考え方ではなく、
「xが無限遠点に近づく」と考えたほうがすっきりする場合もあります。
その辺を深く考えたのが、εδ論法とか、位相空間論です。
物理屋さんは、とにかく計算ができればいいという考えでしょうか。
一般の人は、「無限に遠い点なんて現実にはない」という考えでしょうか。
数学では、この世の中の現物より、頭の中での極度に抽象化された論理を見ています。
数学者は、∞も見えます。
そういった一見して現実とは無関係のことばっかり考えてられている数学も不思議と現実に応用されることが多いですが。

カントがいう数学が特異な学問であるという意見には素直には理解しがたいです。
でも僕の周りの数学仲間で、哲学好き、議論好きの人が何人かいるのでそういったことを意味しているのかもしれません。

あと、いわゆる変人といわれる人も、数学者とか芸術家に多いと思いますが、物理学者はどうなのでしょう。
岡潔も奇行変人と呼ばれます。

やはり、軽く話すると、数学は自然科学であり、芸術にも近いと思われます。
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>No.17


>「数学とは芸術的な営みとはほど遠い学問である」

例えば、生物学は人間を研究対象にしますが、研究対象には個性があり、特に脳の動きなどは生物学では研究できず、心理学や文化人類学に研究の場を譲らなくてはなりません。
化学は物質と変化、物理学は現象、数学は数・図形・論理を研究対象にしますが、
数学の対象物には個性が無く、真理は普遍的だと考えられます。
つまり、他の学問と違って、一度証明された定理はくつがえらないわけです。

数学の対象物には個性が無く、それなのになぜか豊かでもあり、それゆえに数学は美しいと考えられます。
数学の好きな人はほぼ全員、その究極の美しさに感銘を受けて、それが研究への動機となっていることでしょう。

しかし、研究を深く続けると、数学の汚さも見えてきます。
それは、定理が簡潔で普遍的で美しくても、その証明は複雑で職人的な技を駆使して強引に証明されているものも多いからです。
さらに、高度に発展した数学の対象物は、例えば位相空間における分離公理が、5人の数学者の名前がつけられた5種類あったり、
数学の一番基礎的と思われる集合論でさえも、選択公理を認めるか認めないかが完全に同意されていなかったりします。
数学者の名前がつけられた公理や、空間の定義をみると、数学者は芸術家ではなく職人に見えてしまいます(僕の理解が浅いからかもしれませんが)。
そのことがcyototuさんがおっしゃる「数学とは芸術的な営みとはほど遠い」ことの一因でしょうか。

こういった汚さから、数学好きが信仰していた数学の像に幻滅し、興味が離れていく人も多数います。
研究者はよく、ほとんど毎日苦痛を得ながら、ほんのたまに快感を得る(得ないこともある)だけの、登山者にたとえられます。
そのへんも芸術家とは異なる一面かもしれません。

ところで、数学の研究者と物理の研究者、どちらが多いかを考えてみると面白いかもしれないですね。
物理の意味を広くとらえると、数学の研究者は圧倒的に少ないし、信仰や情熱も冷めやすいと思われます。

それでもいいたいのは、学問にとっての「美」は、物理より数学の方が感じやすい。
そのかわりいってあげたいのは、学問にとっての「疑問や不思議さ」は、数学より物理のほうが感じやすい。
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#19さんのおっしゃっている、


>それに対して、数学者は普通は物理学の知識は少ないし、数学が他の学問分野を生み出したという話は聞かないし、肩身がせまいです。
について一言。

数学とはこの宇宙の在り方とは無関係に、我々の脳味噌が生み出すことが出来るあらゆる合理的な論理を探ろうとする学問ですので、必然的に一般化する傾向にありますが、物理学はそのように無限に存在する合理的な論理の可能性の中から、我々の埋め込まれたこの宇宙はどうしてあの論理を選ばなくて、この論理を実現させているのかと言う、この宇宙の個性を探ろうとする学問です。したがって、物理学者は数学者とは反対に、必然的に特殊化する傾向があります。ですから、数学者と物理学者の世界観が全く逆方向を向いていると言っても良いかと思います。

具体的には、質量の間に働く力を距離 r の関数として、1/r^a に対してaの値を任意の正の値としても、それに対応する宇宙論は出来るのですが、物理学者はそんな一般的な a の値に興味がありません。物理学者はa=2にこだわり、それから導かれるこの宇宙の個性とは何か、あるいは何故2だったのかなどに興味を集中します。

このような物理学者の性故に、例えば、生命現象などを数学的に表現しようと言い出す場合には、どうしても現にこの地球上に存在する生命の在り方にこだわり、例えば、熱力学的な考察が本質的であると考える傾向があります。ところが、数学者にはそのような制約がありませんので、ある数学の論理形態が生命現象のある側面と似た部分あると、その裏に物理学の基本原理や熱力学の原理とはどういう関係にあるかにこだわること無く、それをいきなり人工生命などと名付けて、遊び回る傾向があります。セルラ・オートマタなどはそのような例の一つです。このような発想は、どちらかと言うと物理学者よりも、数学者の得意とするところで、そのような物理学者には無い自由な発想が、意外に新しい学問を生み出している部分は他にも幾つもあるように思われます。

ですから、人それぞれに役割が在り、物理より数学の方のが肩身が狭いの広いの、あるいは、トンボよりチョウの方のが優れているのいないのということではないように思われます。
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>「1+1=2における1」と「1+1≡0(mod 2)における1」は同じ記号で書いていますが、厳密には異なるものです。


「1+1=2における1」は有理整数環Zにおける元、「1+1≡0(mod 2)における1」は剰余環Z/2Zの元です。

もちろんその通りです。#11の所で紹介した数学者のゲルファントが言っているのはまさにそのことで、例えば物理学者が1+1=0などと「非常識」な演算を使い出したら、それを数学者が頭から「数学的に間違っている」と言わないで、元の領域を有理整数環Zから剰余環Z/2Zに定義し直すことによって、数学的に正しいとすることが出来ることを示してあげなさいと言っているのですね。ですから、この二つの演算が厳密には異なるのは当然です。

他の例では、物理学者の奇才ディラックが量子力学に於いて物理学では最も簡単な運動であるはずの自由運動(即ち力が働いていない場合の運動)を表す波動関数として、ディラックのδ関数を導入して、量子力学に対してガンガン合理的な結論を導き出していた時のことです。そのとき数学の巨人フォン・ノイマンが、δ関数にはその2乗が定義できないなど、関数として矛盾があるから、こんな物は数学ではないとケチを付けましたね。そのお陰で、数学好きな物理屋さんの中にはδ関数を使うのを躊躇された方も何人か居られたようで、物理学の発展の妨げになったはずです。

ところが、そんな数学の権威が言ったことを気にもしないヤクザな物理学屋も一杯いて、そのヤクザ者達がδ関数を使って、筋の通った結論を出し続けて来ました。そして結局、数学者のシュワルツと、またそれとは独立に上のゲルファント自身が、δ関数は関数ではなくて関数の関数、即ち汎関数とすれば数学的に矛盾が無いことを示しましたね。超関数論の誕生です。上の足し算の例と同じで、その元が属する領域の定義を変えて概念を拡張することによって、δ関数が数学の中でも市民権が得られたのです。ですから、もちろん物理学の初学者が考えているのとは反対に、δ関数も厳密に言うと関数ではありません。未だにδ関数には関数なんて名前がついているところが、粋ですね。

最近の例では、量子力学のエネルギー演算子は対称演算子なので、フォン・ノイマンがこだわったヒルベルト空間の中では、その固有値は必ず実数なります。ところがそれが実数では、原子などの励起状態が光を放出して自発的に基底状態に遷移する、自然放射、あるいは量子ジャンプと呼ばれる現象で、特にその励起状態の寿命が物理量(専門用語ではオブサーバブル)として定義できなくなってしまいます。そこで、そんな数学の権威のお言葉を無視して、少数派ではありますがヤクザな物理学者達が、エネルギーに対して平気で複素数の「固有値」を対応させて計算をしていました。これも、大分数学屋さんからケチを付けられていたのですが、最近になって、そのヤクザな計算は、フォン・ノイマン神が宣わった「量子力学の状態関数はヒルベルト空間の要素である」と言うお言葉を金科玉条に受け入れないことにして、波動関数の属する関数空間を拡張すれば、数学的にも何ら矛盾していないことが判ってきました。これも、上の例と同じ様に、関数空間の拡張によって解決された問題です。

物理学達が、自分で何を言っているのか判らずに神懸かって、「ないもの」から「あるもの」を作りながら捲し立てていることに対して、例えばフォン・ノイマン神のようにそれを頭ごなしに否定するのではなくて、それについては実は貴方はこう言うことを言っていたのですよと、#11で紹介した娘さんのように教えてあげるのも数学者の役割ですよ、とゲルファントは言いたかったのですね。

私は、こんな例が幾らでもあるので、
>数学者は百姓(「ないもの」から「あるもの」を作る人)、理論物理学者は指物師(人の作った材料を組み立てる人)
という特徴付けに異議を申し立てているのです。もちろん、この特徴付けにこだわってどうなんだと言われてしまいそうですが、この辺りを考えることも、「数学とは何ですか?」の一ヒントにはなっていると思えます。
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>No.11



原始的な数学は、物を区別して1,2,3、…と数えたり、土地の広さを比べるために測ることから生まれました。
それも言ってしまえば、物への感じ方の整理、つまり、物理が契機です。
数学基礎論は、数学を論じ伝えるための方法、つまり論理が契機です。
では、数学自体が他の学問への契機となったことってあるのでしょうか。
数学が他の学問へ応用されている例は多すぎるくらいですが、数学から生まれた他の学問は思い浮かびません。
数学から生まれた学問は、全部が数学と呼ばれているからかもしれませんね。

数学は1+1=2や1+1≡0(mod 2)のように、計算結果を自由に決めることができるという人がいますが、
同意しながらも、反論したくもなります。
「1+1=2における1」と「1+1≡0(mod 2)における1」は同じ記号で書いていますが、厳密には異なるものです。
「1+1=2における1」は有理整数環Zにおける元、「1+1≡0(mod 2)における1」は剰余環Z/2Zの元です。

数学は異なるものをはっきり区別しながらも、時に、同一視という手法を用いることがあります。
例えば、数学では整数というものを
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%B4%E6%95%B0
にあるように構成的に作ります。
そこでは自然数という集合は演算まで込めて整数という集合に埋め込めるので、自然数における1と構成的に作り上げた整数[2, 1]と同一視し、
1=[2, 1]と書きます。
それに対し、「1+1=2における1」と「1+1≡0(mod 2)における1」は同一視できません。
通常は混乱がないために同じ記号で書いているだけです。

さらに数学の専門書は、まず定義ありきで、初学者には面食らいますが、もともとなんらかの根拠があります。
確かに、数学者は自由に定義できますが、それには個人の趣向性より、人間としての普遍性がこめられています。

数学にも、ぞくに純粋数学と応用数学と呼ばれる分野がありますが、岡潔は純粋数学、それも基礎的な部分をやったほうなので、
数学者は百姓(「ないもの」から「あるもの」を作る人)、理論物理学者は指物師(人の作った材料を組み立てる人)と言ったのかもしれませんね。
数学者、理論物理学者それぞれに主張はあると思いますが、
理論物理学者は物理も数学も知っていて、さらに物理学は数学の分野(微積分学やフーリエ解析など)を生み出し、近年ではポアンカレ予想まで、ペレルマンが物理的手法によって解いたという。
それに対して、数学者は普通は物理学の知識は少ないし、数学が他の学問分野を生み出したという話は聞かないし、肩身がせまいです。
数学が物理より自慢できることがあるとすれば、真理性とか美しさとかお金のかからなさとかかな。
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#17です。

そこに誤植がありましたので直しておきます。

>#15さんから一言頂いたので、それに一言。

ではなくて、#16さんから一言頂いたので、それに一言。です。

今まで、数学屋さんと芸術のことばかりに触れましたが、物理学屋にも、芸術が何であるか判らないご仁が居ることにも触れておかないと片手落ちになりますので、それに触れておきます。もちろん、そのご仁には私も含まれております。

私が数年前に物理学の国際会議の晩餐の音楽会に参加した時です。ソプラノ歌手の歌が終わったあと、素粒子で世界的に著名な寄与をされた、あるお年寄りが「音楽と物理学」という題の講演をなさったのです。彼は、ピタゴラスの弦と共鳴や調和、膜の振動に於けるフーリエ解析や固有値問題の話をしました。物理の話としてはそれなりに面白かったのですが、彼がそこで話したことは「音」であり、「音楽」に関しては何も語っていなかったのです。たとえ歴史に残るような仕事をした方でも、芸術について今まで本気で考えていない方が思い付きで音楽なんかを話すから、私から見て結局このような「まぬけ」な話になってしまったのです。

もう一つの話は、これもある超著名な物理学の寄与をした方から個人的に聞いた話です。彼も私に音楽について語ってくれました。その曰く
「音楽とは音が時系列として流れてくる時に、我々の頭脳がその前後の音と音の間の時間相関を感じている。その相関の記憶によって、まだ出てきていない音を予感し、それが予感通り出てきた時にも楽しむが、場合によっては、予想外の音を聞いた驚きも楽しむ芸術なのだ。そして、音楽は静寂から始まり、静寂で終わる。しかし、我々の頭はその音の流れの中に見出した相関を覚えているので、始めの静寂と、終わりの静寂は、同じ静寂でも、実は我々の脳はそれを全然違った静寂と捉えているのだ。」
私は、これぞ物理学者が語る音楽だと思いました。

当たり前のことですが、ある一芸に秀でたからといって、普段から本気で考えていない方が、芸術などを含めて複雑な人間の行為を語ると、訳の分からないことを言い出すことが良くあります。その方が、如何に著名な方であっても、だからと言って、その訳の分からないことの裏を読もうとすほど、時間の無駄はありません。私の経験では、本気で物を考えている方は、透明で誰にでも分かる表現をする物です。もちろん、これも私の独断ではありますが、不透明なことを言っている場合には、「あっそうか、この人も自分で何を言っているのか分からずに物を言っているのだな」と決めつけることにしています。
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#14です。

#15さんから一言頂いたので、それに一言。

>反論したいわけではないですが、お返事的なことを書くとなると、「ああいえばこういう」形にどうしてもなってしまいます。

私も実は、この意見に同感致します。私の独断で個人的な意見は、
「物理学者とは、規則に従うことが大嫌いであり、人の言うことの反対の意見に真理があるのではないかという妄想にかられている連中のことである」
と思っております。この質問を機会に、私の中に在るその妄想がまた出てきたので、数学者像の「常識的」な描像にイチャモンを付けて遊んでいるわけです。この欄で論理の勝ち負けのディベートをやっても意味がありませんので、そういうつもりではなく、「数学とは何か」の建設的な認識を引っ張り出すつもりで、この一連の回答を書いております。

>でも建設的な話題もたくさん存在して、云々。

この言質も面白い、如何にも数学屋さんが言いそうなことだなと思いました。数学では、「在るか無いか」の存在定理にこだわりますからね。物理屋はその点全然違った発想をします。私のある物理学者の友人が、新しく物理屋と数学屋が一緒になって出来た学科に就職して、しばらく経って、私にこんな面白いことを言いました。
「数学屋さんて大変不思議な連中なんですよ。彼等は本気で無限大と言う状態があると思っている。我々物理屋にとっては、無限大とは単に、ある大きさと比べて途轍もなく大きい、と言っているだけですからね。」
この言葉は初心者には余りにナンセンスでしょうが、物理屋の認識を見事に付いた、程度の高い言葉です。

さて、確かに建設的な証明も沢山あることは承知しております。しかし、私が聞いた所では、数学で歴史に残るような重要な証明法は、少なめにみても確か8割以上が、まず始めは背理法でなされるそうです。そして、その証明法が為された後になって、いろいろな建設的な証明法も提案されるのだと聞いております。ですから、私は建設的な証明法も沢山あるの、無いの、と言う存在定理もどきなことを言っているわけではなく、物理屋のセンスとして、それなら、どちらの方法が多いのか、さらに、多いとしたならば、その割合は圧倒的に多いのか、あるいは僅かに多いのかに興味があるわけです。そして、私の聞いた所によると、始めてなされる証明には背理法の法が圧倒的に多いと聞いております。

こんな辺りも、数学屋さんと物理屋の文化の違いが出ているような気がします。物理学者は、この与えられた宇宙を理解するためのキーワードに関する定義を探しているわけですから、もともと定義がまだ存在していない状態で物を言っている。別な言い方をすると、物理学者とは自分が何を言っているのか判らないで、話をしている連中です。そんな曖昧な状態では、何かが存在するのしないのと言うことよりも、今、目の前で問題にしている事象に対して何が第一義的に重要で、何が本質的には重要でない第二義的なものか、第三義的か、、、と言う序列を付けて考えようとします。ですから、重要性に付いて、その問題が解かれる前に、前もってそれを判断する価値観を持っていなくてはならないのです。ですから、証明法の分類でも、そのような証明法が現に在るのか無いのかよりも、どのような割合であるのか、そして、ある方法が圧倒的に他の方法より多いと言うことが判った場合、それが何を意味するのかにこだわるわけです。 

それとは反対に、数学を語るには、まず始めに定義ありきですから、どうも数学屋さん達は、自分で何を言っているのか判りながら話をする方達のようですね。そこで、例えばある言質の中にコンマが入るのかピリオッドが入るのかに関して、一方が正しく他方が間違いであると言ってのけるだけの文化を持っているようです。物理屋の世界では、コンマかピリオッドの違いなど第二義的な場合が殆どですので、そんなことに関か煩っていたら先に進めなくなってしまいます。もちろん例外もありますよ。

>数学vs物理、ということにはそんなに興味がないのですが、それぞれに似た傾向・違った傾向があるのは感じ取れます。

私には、数学(+記号論理学+ソフトウエアの論理に関するコンピューターサイエンス?)vs他の全ての学問および芸術、と捉えております。たまたま私が物理屋なので、物理を例に出しているだけです。zkai2009さんのように数学vs物理と捉えてしまうと、人類が今まで手に入れてきた数学の持つ文化の際立った特異性が不透明になり、この質問の「数学とはなんですか?」に対する、本質的な認識が見付かり難くなってしまうと、私には思えます。

カントは「真偽」に関するの分類で、数学だけが「分析的真偽」に関わった学問であり、自然科学を含めた他の全ての学問は「総合的真偽」を論じる学問であると喝破しております。従って、カント以降では数学は自然科学の一分野ではなく、人文科学の一分野と位置づけられるようになっています。もちろん、多くの大学では、数学と物理学と天文学を同じビルの中に配置しては居りますが、それは単に、歴史的経緯からそうなっているだけです。その後の論理学の発展で、この真偽に関する分類がどのような発展を展開しているかは存じませんが、その発展がどのような物であれ、数学は全ての知的営みの中でも例外に属する、際立って特異な学問であると思います。

この特異性を明確に認識すること無く美だ芸術だと言い出すと、話の中身が限りなく「かる~~~く」なってしまうのではないかと、他人事ながらも、そして、私の身の程知らずにも、芸術を語る数学者を怖れているわけです。
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cyototuさんは理論物理学者なのですね。



>No.9
>これを、数学では背理法と呼んでいますが、歴史的に見て、数学の重要な証明の大多数は、先ず背理法を使って証明されて来たそうです。
>何せ、自分の正しさを示すのではなくて、相手が間違っていることを示せば良いだけですので、背理法は建設的な証明法よりも桁違いに易しいのが原因だそうです。
>他の学問では、否定ではなく建設的な意見だけが説得力があるからです。

確かに、n次方程式の複素数解の存在証明、5次方程式の代数的解法の非存在証明、フェルマーの定理の非自明解の非存在証明、リーマン予想のゼータ関数の非自明なゼロ点の実部が1/2以外には存在しないという予想、すべてが存在・非存在に関する話題で、主に背理法が使われます。
でも建設的な話題もたくさん存在して、ピタゴラスの定理、オイラーの公式、ガウスボンネの定理、ラマヌジャンが見出した無限級数の公式などは人気です。

同様に、数学には時にアブスタラクトナンセスと嘲笑されるような抽象性を伴いますが、それも多くは具体的な問題を解くための準備でもあります。
群論、体論の生まれるきっかけは、5次方程式の代数的解法の非存在証明であることからもそれは読み取れます。

でも、数学者にも背理法を嫌いな人がいて、さらには数学的帰納法でさえも建設的でないという理由で認めたがらない人もいて、数学基礎論という分野でほそぼそと活動しているようです。

数学は外に内に自由に発展していっています。物理もそうでしょうけど。

>まとめると、数学はガキの学問であり、ソフトウエアが大したことが無くても、コンピューター顔負けの優れたハートウエアを持っていれば優れた数学者になれる可能性がある、と言うことになります。

ハードウェアとは基礎的な計算力、ソフトウェアとは応用的な実践力などと読み替えれば、数学は主に前者に属し、物理は主に後者に属すことは大方が認めることでしょう。
ただ思うに、未解決問題を解決するような研究成果を出すにあたっては、数学も物理も先人たちの研究論文を数年間みっちり読むことなしに、単なる若者のひらめきで解決できることは今やないでしょう。
さらに、個人単独より、研究仲間・師弟関係が学者の研究成果への強い条件になってきていると感じます。

数学vs物理、ということにはそんなに興味がないのですが、それぞれに似た傾向・違った傾向があるのは感じ取れます。
反論したいわけではないですが、お返事的なことを書くとなると、「ああいえばこういう」形にどうしてもなってしまいます。
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岡潔は、「春宵十話」の序文で、先の続きとして、こう答えている。



私は、人には表現法が1つあればよいと思っている。それで、もし何事もなかったならば、私は私の日本的情緒を黙々とフランス語で論文に書き続ける以外、何もしなかったであろう。私は数学なんかをして人類にどういう利益があるのだと問う人に対しては、スミレはスミレのように咲けばよいのであって、そのことが春の野にどうような影響があろうとなかろうと、スミレのあずかり知らないことだと答えてきた。
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