石川晶康先生の実況中継の本で(三巻P238 )・・・

甲午農民戦争が始まって、
日本、清朝ともに、朝鮮に軍隊を派遣する。
そののち、甲午農民戦争は、収まったのだが、
朝鮮半島で、両軍隊が睨んでいる・・・。

そこへ、駐英公使の青木周蔵から、「日英が新条約に
合意することで一致した」と陸奥宗光に電報が届いた。

陸奥宗光は、朝鮮公使の大鳥圭介に「どんな工作をしてでも
戦争に持ち込め」と打電した・・・。


とあるのですが、「日英の新条約」は、どんな条約なのですか?
日本が清朝と戦争して、負けそうになったら、イギリスが参加してくれる条約なのでしょうか??

なぜ、日英の新条約が、日清戦争のきっかけになったのか教えてください。
(>_<)

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A 回答 (5件)

No.4です。

深夜でぼんやりしてたのか、単純な(しかし国語表記上のケアレスミスとして片付けられない)誤記がありました。

>その引用史料とは別のところで(『蹇蹇録』岩波文庫p.73)、青木に訓電した経緯・・・・

陸奥が訓電(電訓)したのは「青木」ではなく「大鳥」ですね。

>[史料40]の『蹇蹇録』の抜粋ですが、この箇所が選ばれているのは、青木の訓電が開戦外交に影響したからではなく、・・・・

大臣の陸奥に対して「【訓】電」は変ですね。「青木からの報」と読んでおいてください。
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不平等条約の改正条約が日清戦争の「きっかけ」というのが全く解せなかったので、買い物ついでにその参考書のP.238-239を立ち読みしてみました。



やはり開戦の「きっかけ」とは書いてませんね。
誤解の理由は次のように考えられます。青木からの電報のところで、この著者が「劇的な話」なんて紛らわしい言葉を使っていること。説明が足らないこと(参考書の説明ですからそれほど詳しく述べるわけにもいきませんが)。史料[40]の選択、区切り方。

その史料は「・・・二日を隔てつるのみ」で確か切れていたと思いますが、その後はこう続きます、「余がこの間の苦心惨憺、経営太(=多)忙なりしは実に名状すべからず。しかれども今この喜ぶべき佳報に接するや、とみに余をして積日の労苦を忘れしめたり」。

日本外交の悲願であった条約改正の調印が成るという報に接して、外務の責任者だった陸奥宗光が感慨を述べている文章で、要路者としてそれ自体「劇的な」報には違いありませんが、陸奥の回想録を読む限り、開戦外交において、条約合意が「劇的」というほどの展開とは位置づけられていません。

その引用史料とは別のところで(『蹇蹇録』岩波文庫p.73)、青木に訓電した経緯――7月上旬に英露の干渉が途切れたときの情勢判断から決断したこと――を書いていますが、英国との条約の件が影響したとはどこにも言及されていません。
また『蹇蹇録』7章の「欧米各国の干渉」において、英国の出方に対しての推測、判断が述べられていますが、そこでの記述でも条約改正の件が影響したとは書かれていません。

その参考書の史料にある通り、陸奥が「決別類似の訓電」をしたのは、青木の佳報に接する前のことでもあります。

清国に既得権益のあるイギリスは現状変更(戦争によって清国における列強の勢力範囲が変わること)を望まず、朝鮮での日清間の対立に干渉(調停しようと)していましたので、朝鮮での事変が、最終段階あったイギリスとの条約改正に影響することを、陸奥は懸念してはいたようです(『蹇蹇録』岩波文庫p.118)。
しかし、条約調印は、英国の今後の動向を読む判断材料(No.1の方が仰るように、大がかりな干渉はないという)になり、戦争遂行の障害の除去を意味し、戦争を促す因子には違いなかったでしょうが、開戦の「きっかけ」という言葉で表現するような要素とは認められません。

付け加えておきますと、その条約の件は、日清戦争とは別に進展していて、この時点でイギリスとは実質的に合意しており、あとは正式交渉に入って調印すればよい段階であったといいます。

史料の選択についてです。
[史料40]の『蹇蹇録』の抜粋ですが、この箇所が選ばれているのは、青木の訓電が開戦外交に影響したからではなく、短い文章に「条約改正」と「日清戦争」という大項目が重なっていて(陸奥宗光・青木周蔵・日英通商航海条約・蹇蹇録などの重要な固有名詞が伏在してもいます)、試験での設問を拡げやすく、別の見方をすれば狙われやすいから採用しているように私には見えます。日清戦勝を解説するのに有効な抜粋とは思えません。予備知識が不十分な人が読めば誤解しそうな気がします。

あと、その参考書に「予算の無駄遣い云々」が陸奥の判断に影響したようなことが書いてありますが(もちろんそれも要素ですが)、陸奥は、最初に派兵した段階で、武力による最終的処理を考えていたようです。

>日本が清朝と戦争して、負けそうになったら、イギリスが参加してくれる条約なのでしょうか??

ちょっと付け加えておきます。イギリスは揚子江流域や香港等に広範な権益を保有し、自国民のさまざまな活動に関する協定を結んでいましたから、清国の保全を希望しており、戦時中は当然清国寄りでした。もっとも、ロシアの南下にたいする防波堤としての役割を日本に見出し始めてきた頃でもあります。
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>「日英の新条約」は、どんな条約なのですか?


 結ばれた条約は「日英通商航海条約」なのですが、その意義は江戸時代に結ばれた不平等条約の解消です。

 なぜ不平等条約解消に意義が有るかと言うと、不平等条約が押し付けられる国とは、国際条約等を遵守するの意思 or 能力に欠ける国であると言うレッテルが貼られるからです。

 そして、その様な国同士(日本と清国)が戦争した場合に自国に被害が及ばぬよう、周辺の一等国は軍を派遣する大義名分が成立してしまいます。
 (つまり、大国ロシアが戦争により疲弊した日本と清国へ南下する理由を与えてしまう。)

 ですが、当時の覇権国家で超大国たる英国が日本は一人前の国家であると認め、周辺国は中立を維持すべきで有ると主張(日本は国際条約を守れる国なので、周辺の国も戦時国際法を守って中立を堅持すべき)すれば、ロシアとしてもそれを無視しするのは困難です。
 無視すれば、ヨーロッパの方で英・独(ドイツはロシアとフランスに挟まれているのでどちらかが弱って欲しい)が連立しロシアに対抗する可能性が出てきます。
 (実際日英同盟の前には、ドイツが提案した英独同盟が模索された訳ですし)

 まあ、義和団事変を根拠にロシアが満州へ軍を南下させ日英同盟と日露戦争へ向かうのですが…。

 イギリスは中国にある自国の権益をロシアに奪われたくないと言う理由も有りますし、戦争の直前に条約を締結したい日本の弱みに付け込んで、関税などの譲歩を引き出していますし…。
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ざっとですよ。



日本は不平等条約を改正しようと躍起になっていました。

陸奥の狙いはイギリスでした。
立憲君主制と民主主義国家を狙ったのです。

アメリカは自由の国ですが、強力に我がままでした。^^;

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%8B%B1% …

陸奥は坂本も一目置く程の切れ者でした。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E5%A5%A5% …

イギリスと不平等条約の改正に成功すると
それを口実に次々と改正します。(治外法権だけの撤廃)

不平等条約を完全に解消するには大陸へ進出する要が大あったのです。
まず、朝鮮を開国させねばなりません。
(武力で開国だ。これが征韓論)

しかし、未だ国力は弱く、予算もままならぬ状態でした。
琉球処分の後、軍事力を増強した日本は開戦を決意します。

>日英の新条約が、日清戦争のきっかけになったのか教えてください。

日本の大きな課題がひとつクリアしたのです。
今後は列強と肩を並べねばなりません。

それには大陸に進出して
強力に「富国強兵政策」を推進せねばなりません。

日本は二等国でした。
後進国は欧州諸国と対等に扱われません。

日露戦争で勝利(講和)して一等国ロシアから領土を割譲し
日本は一等国の仲間入りをしたと言われています。
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おそらくはイギリスと結んだ不平等条約の改正に関してでしょうが、だとすれば大鳥公使への打電が先になりますか。



http://www008.upp.so-net.ne.jp/bungsono/Okazaki/ …

きっかけではなく、イギリスが断固反対していたら、日本は開戦できなかった、という感じでしょうね。
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日清戦争をする事が、当時、国防上必要だったという話を聞きますが本当でしょうか?

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もし、日清戦争をしていなかったら、日本は今頃、現在の領土を確保、出来ていなかったという事なのでしょうか?

その場合、どこの国の侵略に敗北していたと考えられているのでしょうか?
御回答よろしくお願いします。<(_ _)>

Aベストアンサー

当時は日米、日英の不平等条約を改定し先進国の仲間入りすることが焦眉の課題でした。米英両国とも日本の侵略=植民地化は考えられていません。したがって日本の領土を侵略から守るなどは現実の国際情勢から課題にはなっていないのです。日本より遅れた国、支配勢力が分裂したり力がない所が欧米列強の餌食になっていました。当時の国家のスローガンは「国防」ではなく「富国強兵」です。
<もし、日清戦争をしていなかったら>
こういう設問そのものに無理があります。答えをいくら考えても「わからない」というのが正解です。もし、薩長と幕府の戦いで薩長が負けて徳川政権がさらに続いたら、日本は外国の植民地になったか?と問題を立てるような物。当時の各国政権中枢に居た人にインタービューするしかありません。
 ただ、日本が資本主義国として列強に伍して「帝国主義」の道を「選択」した限り他国の資源や市場を自国に取り込む=植民地化政策は必然の成り行きでした。国家としての発展を他国の犠牲の上でなす、という「選択」をしたことが重要なのです。当時は列強が他国を植民地化するのが「普通の国」のすることのように常識であったわけで、弱肉強食の時代だったわけです。強盗に囲まれて生きる他なかったわけです。で、日本も強盗の一味になって「富国強兵」による「豊かな国」を目指したのです。日本だけでなくアメリカもロシアも先進国すべてが「強盗団」であったわけでそういう時代背景を据え置いて歴史をとらえ返すことが大切だと思います。

当時は日米、日英の不平等条約を改定し先進国の仲間入りすることが焦眉の課題でした。米英両国とも日本の侵略=植民地化は考えられていません。したがって日本の領土を侵略から守るなどは現実の国際情勢から課題にはなっていないのです。日本より遅れた国、支配勢力が分裂したり力がない所が欧米列強の餌食になっていました。当時の国家のスローガンは「国防」ではなく「富国強兵」です。
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サンフランシスコ講和条約と朝鮮戦争は何か繋がりがあるのでしょうか?
あるのだったらその繋がりはどのようなものなのでしょうか?
わかる方いましたら教えて下さい。お願いします。

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これだけでは、その人が何をテーマとして書いたのかよく分かりませんので、その「ネット上の」文章とは、意図がずれるかもしれませんが・・・。

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この時期の留学生として有名な人では、戦中に南京政府を作った王兆銘などもいます。彼は、清朝要人の爆殺計画を実行するなど、かなりの「過激派」だったようですよ。

で、さらに日本人でこの革命運動を積極的に支援した人達もいます。戦前右翼の親玉的存在だった頭山満、宮崎滔天などといった人達が知られています。日本人の民族主義的な右翼は、この革命運動にはかなり関わっています。

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「特殊な関係」が何を指すかは、最初に述べたように分かりませんが、そういう意味では、日本は清朝と外交関係を結びながら、反清革命運動の拠点という特殊な国だったようです。だからその時期の中国人の対日感情はかなり良かったようですよ。 

これだけでは、その人が何をテーマとして書いたのかよく分かりませんので、その「ネット上の」文章とは、意図がずれるかもしれませんが・・・。

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Q陸奥宗光

陸奥宗光について詳しい事を調べたいのですが細かく書かれているHPがあれば教えて下さい。又、詳しく知ってる事があったら教えて下さい。

Aベストアンサー

http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Keyaki/3834/mutu.html

例の外交問題については教科書みたいなのでも読むし、マイナーなヤツをどうぞ

参考URL:http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Keyaki/3834/mutu.html

Q日清戦争について

最近尖閣諸島関連で歴史問題がクローズアップされるとともに、いかに日本が近現代史を学校で教えないかが明らかになってきている気がします。(日教組のせいなのか、そして歴史を教えないことがいいことかどうか知りませんが)

さらに中国の主張として「日本が日清戦争で尖閣諸島を盗み取った」といっています。それはファシズムによるものであるとも。そこで日清戦争を調べて、日清戦争→東学党の乱→天津条約とさかのぼりました。

結果、日清戦争って単純に中国と日本が朝鮮半島の支配権を巡って戦っただけ、つまり両方とも帝国主義国なのであってこんなのお互い様じゃないか、と思えてきます。それこそ日清戦争の結果、尖閣諸島が日本のものになったのを受け入れるべき、としか言いようがない気がします。少なくとも北方領土のような国際法違反ではない様に思います。

当時、日本は議会制の民主主義国で清は封建制だったという違いはありますが、封建制の君主だろうと民主主義の総理大臣だろうと天皇制の天皇だろうと、朝鮮というよその国を武力で支配しようとしているんだから帝国主義に変わりはないし、議会制で攻めていく国だけがファシズムで封建制だからよそを攻めてもいいということにはならないと思います。

・・・という認識でいいのでしょうか?

最近尖閣諸島関連で歴史問題がクローズアップされるとともに、いかに日本が近現代史を学校で教えないかが明らかになってきている気がします。(日教組のせいなのか、そして歴史を教えないことがいいことかどうか知りませんが)

さらに中国の主張として「日本が日清戦争で尖閣諸島を盗み取った」といっています。それはファシズムによるものであるとも。そこで日清戦争を調べて、日清戦争→東学党の乱→天津条約とさかのぼりました。

結果、日清戦争って単純に中国と日本が朝鮮半島の支配権を巡って戦っただけ、つま...続きを読む

Aベストアンサー

ひとつひとつ論点を整理しておきましょう。

1.尖閣諸島と琉球王国の関係について

琉球王に尖閣諸島を統治していたという事実は確認されません。したがって尖閣諸島は琉球王国の領土だったとはいえません。1879年の琉球処分と同時に尖閣諸島が日本領になったという認識は誤りといえます。実際は日本が1885年から1895年の10年もかけた慎重な調査によって無主の地であることが確認されて併合したものです。

2.尖閣諸島と沖縄県の関係について

1895年の尖閣諸島を沖縄県に編入したことによって、以降尖閣諸島と沖縄県は運命を共にすることになる。大東亜戦争後、米軍に沖縄県の施政権が移管すると同時に尖閣諸島の施政権も米軍に移管し、沖縄県の本土復帰運動を経て、1972年に沖縄返還と共に尖閣諸島が日本に返還されます。これはアメリカも公式見解で認めていることです。

3.尖閣諸島と中国代表権問題の関係について

1971年10月25日のアルバニア決議の前は中華民国(台湾)が中国を代表する政府でしたが、後は中華人民共和国が中国を代表する政府となっています。それが国際連合の立場であり、日本の認識でもあるのです。ですからサンフランシスコ講和条約に中華人民共和国が参加していないのは当然のことです。といって中華民国(台湾)も参加していません。それは1951年の時点では連合国内部で、中国代表権問題の見解が統一できなくて、日中講和は日本が主権を回復した後で、日本が別途やってくださいとサ条約から切り離されたからなのです。そして日本は中華民国(台湾)を中国を代表する政権とみなして1952年に日華平和条約を結びます。その日華平和条約では尖閣諸島には触れていません。つまり中華民国(台湾)には尖閣諸島が清の時代に奪われたなどという認識は全く無かったのです。アルバニア決議を受けて日本は1972年に中華人民共和国と日中共同声明を調印し、日華平和条約を破棄します。この日中共同声明でも尖閣諸島に触れられていません。中華人民共和国がサンフランシスコ講和条約と日華平和条約を承認しないという主張は一理ありますが、そもそも日中共同声明でも触れられていない以上は尖閣諸島に関しても、中華人民共和国は中華民国(台湾)の認識を継承したと考える他ありません。

4.清と台湾・琉球王国・尖閣諸島の関係について

明から清に変わる時代、明の残党が台湾に逃れて、反清勢力となった時期がありました。これが鄭氏政権 (台湾)です。まもなく清に滅ぼされることになりますが、この時から台湾は中国領だったといえるでしょう。鄭氏政権後、清は台湾が反清勢力の拠点となることを恐れて直轄領に組み入れますが、台湾は清の朝貢国だったわけではありません。
琉球王国は清に朝貢して冊封関係を持ちました。清は使節を琉球王国に派遣する関係で尖閣諸島を発見し地図に記入していましたが、それは領有権を意味しません。また冊封関係とは中国皇帝と各国王の個人的主従関係によって安全保障条約とするという関係であって、領有権とは何も関係がありません。主が有事の際は従が軍を派遣し、従が有事の際には主が軍を派遣するといった相互の互恵関係が冊封関係の本質です。どちらがどちらの領土でもないことは論を待たない。先に述べた1895年の日本の尖閣諸島編入は日清戦争で日本が自信を深めたといったことが背景にありますが、それは清の領土を奪ったなどという話ではありません。そもそも清が尖閣諸島を領有していたという事実が無いからです。日本が調査に10年かけたのは万一の清との紛争を懸念しただけのことです。
台湾は下関条約によって清が日本に割譲しましたが、その時期がたまたま1895年の日本の尖閣諸島編入に近いだけであって、台湾と尖閣諸島には何も関係が無いし、日清戦争と尖閣諸島も関係がありません。
日清戦争の結果、尖閣諸島が日本領になったという認識は間違いです。日本は、その実力に自信を持ち、尖閣諸島領有を宣言する好機だと判断したまでのことです。

5.沖縄併合について

日本は琉球王に清との冊封関係の解消を求めますが、当初琉球王が抵抗感を表明したのは事実です。しかしそれは上洛を拒んだといった程度のことで、意地を見せたまでのことなのです。明治維新に巻き込まれなかった琉球王国には中央政界の激変が全く理解できなくて、江戸時代から意識が変わらなかったという背景もあります。清は、冊封関係を解消したいなら、まず清から先に挨拶して了解を求めるべきだろうと抗議したのであって、日本の沖縄併合そのものに反対したわけではありません。要は、そんな勝手をされたんじゃ、清の宗主国としての面子丸つぶれだと怒っただけです。清は琉球王国の宗主国としての面子にこだわっただけで宗主国の立場にこだわったわけではないのです。
アヘン戦争、アロー戦争、清仏戦争、日清戦争とひたすら面子を守る為だけの戦争を清は19世紀繰り広げことごとく負け続けましたが、沖縄併合に関しては、単に抗議するといっただけで何ら軍事衝突すらありませんでした。

6.日清戦争について

日清戦争は李氏朝鮮との冊封関係にこだわる清と日朝修好条規(1876)にこだわる日本の対立が戦争に至ったものです。当時の日本には宗主国の面子にこだわる清に対する理解と配慮が足りなくて、清にろくな挨拶もしないで、日朝修好条規締結、沖縄併合と1870年代に矢継ぎ早に国際問題を解決していきました。それが清に「日本怪しからん」という感情を育てることになってしまった。
そもそも清朝と李氏朝鮮の冊封関係と日朝修好条規は完全に矛盾します。朝貢国と独立国という立場は両立しないからです。その矛盾が李氏朝鮮で起こった東学党の乱でついに表面化してしまったのです。
日朝修好条規も沖縄併合も清と李氏朝鮮、清と琉球王国の立場に対する理解と配慮を欠いた日本の稚拙な国際外交だったといえます。相手の立場を考慮しないで、一方的に武骨一辺倒の外交をしてしまった。当時の日本は、それが国際標準のルールだと勘違いしていた一面はあります。しかし、それを持って帝国主義という批判はいかがなものでしょうか。日清戦争に至ってしまったことは痛恨の極みです。
しかし、その反省が10年の調査期間をかけた慎重な尖閣諸島編入になったのであって、それを持って日本が清の領土を奪ったかのように主張する論はあらぬいいがかりとしかいえないものなのです。

7.日本近現代史の教育について

以上、私なりに論点整理を試みたのは、質問者さんがいわれるように日本近現代史がろくに学校で教えられていないからです。日本近現代史は日本と欧米列強、露西亜(ソ連)、中国(清、中華民国、中華人民共和国、張軍閥)、琉球王国(沖縄県)、李氏朝鮮(大韓帝国)が複雑に絡んでいて、きわめて理解することが難しい。だから質問者さんにも回答者さんにも事実誤認が見られるのは仕方が無い。それが今日、中国に付け込まれる要因になっています。複雑すぎて学校の先生も理解していないのです。だから学校の先生は、帝国主義の日本が・・・といった論調で問題を単純化し、日本側だけの説明でお茶を濁そうとしています。それはとりもなおさず、歴史を勉強しようとしているのでなく、自分の頭のレベルに合わせて複雑な歴史を歪曲し単純化してしまうという倒錯したアプローチになるということです。それが中国に付け込まれる背景なのだけれど、だからといって中国の今日見られる言論の一部には全く正当な根拠が無いということも理解しなければなりません。歴史カテで質問されたんで、その主旨にあわせて回答したつもりです。

ひとつひとつ論点を整理しておきましょう。

1.尖閣諸島と琉球王国の関係について

琉球王に尖閣諸島を統治していたという事実は確認されません。したがって尖閣諸島は琉球王国の領土だったとはいえません。1879年の琉球処分と同時に尖閣諸島が日本領になったという認識は誤りといえます。実際は日本が1885年から1895年の10年もかけた慎重な調査によって無主の地であることが確認されて併合したものです。

2.尖閣諸島と沖縄県の関係について

1895年の尖閣諸島を沖縄県に編入したことによって、以降尖閣諸島...続きを読む

Q陸奥宗光

陸奥宗光は外交に対してどのような考えを持っていたのですか?そして、その彼の考えは下関条約の取り付けにどのように関連しているのでしょうか?勉強不足ですみません。分かる方がいたら是非教えてください。

Aベストアンサー

彼の考えは、以下の3点に集約できると思います。
(1)西欧列強の干渉に拮抗して、日本の独立を確保する。
(2)幕末に結ばされた不平等条約を改正する。
(3)当時の国際社会において、日本の地位を西欧列強と伍するところに高める。
当時の日本にとっては、清国も脅威のひとつでした。そのため、朝鮮半島から清国の勢力を駆逐することが、独立確保のために不可欠だったのです。
下関条約も、その目的に添うものだったのです。
説明不足で恐縮ですが、ご参考となれば幸いです。
なお、詳しくは以下の書籍がご参考となるかと思います。
岡崎久彦著「陸奥宗光とその時代」(PHP)

Q韓国では日清戦争をどう評価しているのでしょう?

 韓国では旭日旗を禁止する法律を作るそうです。
旭日旗は朝鮮の独立のために日本軍が戦った時の旗です。
なぜ旭日旗があれほど否定されるのでしょうか?
 日清戦争をしなければ韓国は今頃中国の一省になっていると思いますがその方が良かったと思っているのでしょうか?
 韓国では日清戦争はどう評価されているのでしょうか?

Aベストアンサー

>>大学受験で勉強しないのですか?

No5の回答にあるように、清国属国中の歴史は、教科書にあるものの教えないが実情です。
日本の授業でも、歴史は細かく教えないでしょう?

あくまで日本では大学での強要の範疇になってしまいます。
勿論選考していなければ知り得ない範囲ですし、韓国では資料を出していません。

国民のほとんどが日韓基本条約締結の事実も内容も知らない国家ですから。

Q日英通商航海条約と治外法権撤廃他...

日英通商航海条約と治外法権撤廃他...

今歴史で学習していて頭がこんがらがっています。

日英通商航海条約で治外法権が撤廃されたんですか?
そもそも日米通商条約での話なのに何でイギリスとの条約で撤廃できるんですか?
そもそも対ロシアで協力体制をとるための航海がどうちゃらの
条約じゃなかったの?←あれ?これは日英同盟だっけ?

こんな状況です。助けて下さい。

Aベストアンサー

最近では、「通商航海条約」も覚える必要があるのですね。私の時代では、単に治外法権を最初に撤廃することに成功したのがイギリスと覚えただけでしたが・・。ちなみに「通商航海条約」という条約名を知ったのは、大学時代に第二次世界大戦に関係することを勉強した時でした。

 日米通商友好条約もそうですが、同種の条約を最初に結んだ国の条約だから覚えるのです。通商の条約を最初に結んだのがアメリカ(条約名は「友好通商条約」)、治外法権を最初に撤廃したのはイギリス(条約名は「通商航海条約」と考えれば如何でしょう。

・日英通商航海条約で治外法権が撤廃されたんですか?
  イギリスとの間ではそのとおりです。それをキッカケとして、アメリカその他との治外法権撤廃も進みました。

Q日清戦争と日清製粉

別に確信とかはないのですが・・・・。
日清製粉の名前は日清戦争と関係はあるのでしょうか。
ご存じの方いらっしゃいましたら教えてください。

Aベストアンサー

 会社の主要生産物である小麦粉の原料を多く当時の中国の正式国名である清に多く依存したからと思います。日中友好の意味合いもあったことでしょう。台湾精糖(現 台糖)も同じ理由からです。

Qアヘン戦争で清朝がイギリスと徹底抗戦していたら

もしもアヘン戦争で清朝がイギリスと徹底抗戦していたら歴史は大きく変わっていませんか? いくらイギリスが蒸気船や強力な軍隊を持っていても、総力戦でなら中国側が勝てたような気がします。清朝が総力戦を避けたかったのは乾龍帝の時代に勢力を広げすぎ多くの軍事費を使いこんでしまった為、中国国内の反乱を抑制する為に力を温存して置きたかったのだと考えます。ですが、逆に考えた場合、勢力範囲を縮小すれば清朝の戦力を一つに集中してイギリスと戦えた訳ですよね?ウイグル、チベット、モンゴルなどの統治を放棄しただけでもかなりの戦力を集中できたと推測できます。極端な話し無理に中国全土を少数民族の女真族で統治しなくても、女真族の本拠地、満州さえ維持してたら後は各地に同盟国を乱立させる事もできたわけです。少なくともイギリスと徹底抗戦するのはさほど難しい事のようには考えられません。ここでイギリスに楔を打ち込んでおけてたら、後の日本の歴史も大きく好転していたのではないでしょうか?

Aベストアンサー

cherry77_ さん、こんにちわ。



たぶんそうすれば、ゲリラ戦のようなことになり、確かにイギリスに勝てるかもしれません。しかし、そのために今度は国内に内乱の種をまくことになるかも知れません。そうしたことから清朝が倒れることになるかも知れません。清朝は乾隆帝の時代を過ぎ、全盛期時代の輝きを失い始めていました。しかし、帝国の支配力は維持ていかなくてはなりません。回答者様は「ウイグル、チベット、モンゴルなどの統治を放棄しただけでもかなり戦力を集中できた」といいますが、ここで挙げた地名は紛れもなく清帝国の地方であり、領土なのです。時代が下るにつれて漢化したとはいえ、女真族は支配者です。少数民族である彼らが、国内多数を占める漢民族を支配しているのです。そう簡単に彼らを信用することは難しいことだったと思います。


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