テレビのニュースでも実生活でも自分の権利が侵害、或いは権利に見合う便益を得ていないと憤慨している人をよく見ますが、これはつまるところ、自分が弱い人間であることのアピールであり、権利を与えてくれる物、例えば政府、法律、道徳観、神・・・に対する服従を意味するのでしょうか。もしそうなら権利を主張することは自由を失うことを意味しますか。

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A 回答 (11件中1~10件)

>理由ははっきりしないのですが、権利を主張することが私自身のプライドを非常に傷つけるのです。


:その感覚はなんとなくわかりますよ。
私の場合は、権利の主張をしない、ということではありませんが。

>権利を与えてくれる物、例えば政府、法律、道徳観、神・・・に対する服従を意味する
:最初は一応、契約がなされてあると思い込んでいるのでしょうね。
しかし、実際はぬるま湯的に取り込まれることによって主体性が失われていき、結果として服従という構図になし崩し的に陥っていき、しかもそれに気づかない、というパターンのようですね。
主体的な人は、あまり声高に権利を主張したりしないような印象があります。
他者の権利とのすり合わせが必然ですし、それはつまり自分の問題として考えるということでもあるのでしょう。
大きな声で主張するだけで解決できるものではないということを知っているのだと思います。
声は発しますが足場は主体の側に接地していなければならないでしょう。
服従者は服従しているものにすがって自分の権利の正当性を確保しようとするので、対手を蹴落とすためにはどうしても大声にならざるを得ません。
 
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>実際はぬるま湯的に取り込まれることによって主体性が失われていき

あぁそうですね、このずるずるした感覚がいやなのかもしれません。

お礼日時:2009/05/20 22:55

例えば雨風や虫やカビや埃に、個人が苦労して所有し管理している土地


だと警告しても無意味で(というか徒労に過ぎず)、権利や義務は自然
や神が人間を正当化するためにある摂理ではないことが分かります。

しかし所有を励みにしないと幸せ(使命感や満足感、安心感を堪能する
こと)になれないし、弱さを認めてしまうよりは苦労してでもという理
想を持っているのも人間で、それ故「権利を有している、することを許
されている」ものと主張します。

人間が所有出来る確かなものがあるかどうか。
肉体ですら人工的に作られたものはなく自然を加工して存在の見かけが
変わっているだけですね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>人間が所有出来る確かなものがあるかどうか。

これは興味深い問いですね。

お礼日時:2009/05/22 23:27

 回答番号:No.8


 一精進者にすぎなく、宗教家ではありません。
 小1から高校までは、真に人生と世界のことしか考えませんでしたが、世において生のままで空気のようには関れないので、同じような当為の学として法律をやり、人生の大半である労働と社会活動の分野に35まで居ました。
 その残滓がここで書き込んでいる勉強の名残です。
 仰せの放棄はのことは行為の結果、果実、成果のことですね。
 これに拘っていては精進も修行もとてもできるものでは有りません。
 そしてもちろん自由も主体性もない世界と為ります。
 私たちの精進では、結果に拘ることなく、自分のやることをやる。
 自分であること。自分のすることをする。
 という教えで通しております。権利などは問題外です。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

自分で書いていてなんですが、我ながら反抗期の中学生のような質問をしたものだと思いました。

『権利を主張することは自由を失うことを意味するか』
自由とは不自由を含んでいなければならないような気がしてきました。

自分がなんだか方便の海でおぼれている気がします。

お礼日時:2009/05/22 23:25

 後半の文章「権利を主張することは自由を失うことを意味しますか」についてのみ答えます。



 まず、権利や義務や責任などというものは、あくまで「かたち」だけのものであり、巷で語られてはいるほどには、この世界に実在しないものではないでしょうか。
 もしも、実在しないものであるならば、「実在しないもの」を与えるとか、「実在しないもの」を得るといった、世の中に敷衍する言説から、妥当な言表を切り離してみる必要があるのではないでしょうか。

 例えば、権利や義務や責任というものが機能するときを考えてみます。
 社会によって奪われつつある権利、おざなりにされる義務や、なおざりにされる責任についての言表にはそれほど違和感を感じなくとも、ひとたびそれらが要求される場合になると、質問文にあるような要求者の弱さ、厚かましさ、横柄さが言表の前面に出てくるように感じられます。言表としてはどちらも同じ筈なのに、いったい、どこで違いが出るのだろうか――質問をこのように理解して答えてみます。

 思うにその理由は、権利や義務や責任というものが、たとえそれらが実在しないものであっても、「ない」場合に比べて「ある」場合のほうが、社会での暮らし向きが良くなるような気がする――つまり、権利や義務や責任というものが、我々のこの思いひとつに支えられている仮想現実だからではないでしょうか。
 我々の心の中で、常にそれらは「ある」と仮想されている。
 だから、それらが「ない」と主張されることに対して、違和感を覚える。
 そればかりか、「ない」と主張することに対して、弱さや安易さをも併せて感じてしまう。その感じは、権利や義務や責任というものが「ない」と認め合う社会への抵抗の現れであり、抗いの感情として発露するのだと思います。
 なぜかといえば、権利や義務や責任というものは現実には実在せず、社会を構成するひとり一人の「思い」によって支えられている現実を意識的にか、無意識にか、実に良く知っているからに他なりません。その儚さを知っているがゆえに、それらが「ない」と前提し、社会に対して要求する姿勢に違和感を覚えるのだと思います。
 この違和感は、いったいどこからやってくるのでしょうか。それが自由とどのように関係するのでしょうか。

 近ごろでは具体的な例が無くなりましたけど、例えば、紅白歌合戦を取り上げたいと思います。戦後の貧困から抜け出たこの国は、やがて高度成長期を迎える。
 紅白歌合戦は、この国の平和と反映、それを支える保守的価値観の象徴だった。男女の区別、年功序列、実力主義よりもネームバリュー主義。この国を支えてきたのは、そんな保守的価値観に裏付けられた安心感ではなかったでしょうか。
 戦争を捨てて平和を手に入れたこの国が、歳の終わりに一度だけ、男女に分かれて歌を競い合う。戦争――その大きな悲しみ――を知ったこの国にとって、争いごとは、それが精一杯だったのかもしれません。どんな有名なアーティストも、一曲しか歌えない平等主義。そのくせ番組の始めから終わりまでを拘束する、非合理主義。あくまで「かたち」だけで、意味のない勝敗にこだわり続ける形式主義。
 このように評価される紅白歌合戦ですけれど、

 ですけれど、誰もが少しずつ正しく、少しずつ間違っている(平等主義)わけであり、誰もにそのどちらもが、少しずつ含まれている(非合理主義)現実を考えてみれば、たとえ形式主義だと言われても、互いの正しさを確かめ合い、互いの誤りを正そうとするその「かたち」には、意味があったのではないでしょうか。
 「かたち」の与えてくれる安心感――おそらくそれは、いつもと変わらぬ白い割烹着姿で、夕飯の支度をしている、母親のような存在ではないでしょうか。この世の中にもしも本当の自由があるのだとすれば、それはまちがったことを言っても殴られたりしない、母親のような「場」の存在だろうと僕は思います。
 もちろん、母親だって間違いはあります。けれど、そのような場が「ない」場合に比べて「ある」場合のほうを、きっと選ぶだろうと思うんです。たとえ間違いがあったとしても、そのような場が「ある」場合のほうを選ぶ。かつて、このようにして手に入れた自由だからこそ、権利や義務や責任というものに対しても、同じように「ある」と認め合って生まれた「かたち」を、いつまでも大切に守りたいと思うのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

人と人を結んで社会を作る接着剤のような役割なのかもしれません。
形を求めるこの強い衝動はどこから来るのか興味がありますね。

お礼日時:2009/05/22 23:13

 回答番号:No.7


 ★シフト2007さん:〔権利というのは基本的なものではありますが、実はそれほど歴史はなく人間の発明品の一つのようですね。〕
 ▲私:〔そうなんです。天賦人権説なんていうのに、所謂る基本的人権のほう理念は淵源、立脚しておりますが、西洋社会思想の流れの中の主張の理論である以上のことでは有りません。
 一定の歴史的条件の中の、人間の一つの定義作業です。そらからの論理思考の定義体系です。
 したがって、定義の上の主張であり、主張のための定義です
 そしてその当為命題の要請の中で行為することが、正義だという糊塗なんです。
 権利の上に眠ってはいけないのです。
 自ら常に闘うことが要請されています。
 主体的に、そういう団体(国家、社会)の構成員と為り、その立場と責任を自覚し、参加し、生きていくことが要請されている。
 というのが近代法の原理です。
 ただ権利を受動的にもらう、要求するのではない。という事です。
 無論そうであっても、理念の狡知(理念はそういうものを利用する)というものが働くことも予定されている。
 というものです。〕
 
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

krya1998さんは、宗教家として権利という言葉に違和感は感じませんか?
なんだか契約した覚えもないのに架空請求されているような・・・・・
権利の放棄は自由への一歩と思いますか。

お礼日時:2009/05/21 23:26

 shift-2007さん


 権利の主張もいろんな動機、考えがあると存じます。
 受動的に、仰せのような主張の方もおられると存じます。
 権利の上に眠る人間は・・・ということばもあります。
 国民の不断の努力と憲法がいう文言の一つは正当な権利のきちんとした確保の行動である面もあります。
 国政や民主政治、民主原理はやはり権利の確保と行使、そして参加ということにより維持発展が可能だという、原理や主張もあります。それは徳義でもあります。
 受動的権利の頂き方やそれへの対象者意識でしかない、不満は上記の考えとは反対のものだと存じます。
 国家と社会は自己と自己たちが構成し、創り、担うものだという意識が根底に必要であり、要求されるのだと存じます。
 これが民主主義というもの、近代的意味の国家と権利の建前の論議だと存じます。(建前というのは、ジャスティファイの、という意味ですが)
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

権利というのは基本的なものではありますが、実はそれほど歴史はなく人間の発明品の一つのようですね。

お礼日時:2009/05/20 23:05

宗教家さんの発想では確かにそうなりますね。


権利は神との契約により与えられるものですから
その権利を要求することは自動的に力への隷属を意味するわけです。
確かに、それはまさに服従であり、階級制であり、奴隷の姿ですね。
そしてそれこそがまさに、宗教の正しい姿です。




ですが、現代の国家はそう考えません。近代哲学の帰結として
『すべての人間は自由である』ことが多く指摘されるようになったためです。
もちろん権利というものは力による保証が必要不可欠です。さもなければ
弱い力が強い力に負けてしまう、こういったことが頻繁に起こるためです。
単に強いものが勝つ社会では、その結果、大多数の自由が阻害されて
しまいますよね。




そこで求められるのが、いったん全員の自由を集め、全員の自由を保証する
『権力』を作るという考え方です。これ以外の方法は、今のところ見つかって
いません。この権力を『国家』と呼び、この考え方を『社会契約』といいます。

もちろん、この『権力』が神や王になってしまっては意味が無いわけです。
そこで求められるのは『一般意思』の反映です。つまり、その社会の一般の
人々の意思を最大限に反映する必要があります。

ですが、中には悪いことをしてやろう、あるいはルールを悪用してやろう
という人も間違いなくいるわけです。残念ですが事実ではあります。
こういった人々の意思を反映させることはできません。




こういった中から『国家』に求められた原則は
・すべての人に平等のルールを作ることを目指す
・平等でないルールは、市民の意思で変更することができる
・この権利は、(ルールを守る限り)すべての人に与えられる
ということになります。







この前提の上で、質問者さんの挙げられる『権力に服従する人』を
見ていきます。彼女の主張が正当なものか。もちろん、ルールで
認められていない権利を主張している場合もあるでしょう。この時点で
宗教としてはアウトですよね。神との契約に反することは出来ません。



もちろん国家の場合であっても、彼女の主張はまず社会のルール、
つまり『法律』に照らし合わせて考えられます。もし、彼女の周囲が、
本当に法律に反しているようであれば、ルールを守らせる装置である国家は、
原理のまま行動を行います。一方で、ルールが整備されていない分野で
あるかもしれないわけです。この場合、国家は法を整備・修正する必要
があります。もちろん、彼女以外の人間の自由を阻害しない範囲で。
国家の行為は、すべて等しく個々の人間の自由を保証するための行為なのですから。



一方で、国家が悪意となってしまうこともままあります。
ここで特に重要なのは、市民の意思によるルールの変更が可能である
ということです。『国家を神にしないためのの措置』ではありますが、
一方で、異なる神という原理を掲げ、争いを続けていた人類が
ようやく手に入れた共通の権利であり、神に代わる『共通の原理』なのです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

確かに社会の中で生きていくにはルールが必要ですね。

ただ、神も国家も必要としない者にとっては権利は無用なものかもしれません。

お礼日時:2009/05/20 00:37

確かに「自分の権利が侵害、或いは権利に見合う便益を得ていないと憤慨している人」たくさんいて、弱い人間がほとんどですが、中にはそうでない人間もいるかと思われます。


人間の強さの形は人それぞれ違うからですね。
格闘技強いのと、法律強い人、医学に優れた人、科学に強い人みたいな感じですかね。
何て言いましょうか、義務を果たしているが、それを無視されれば、言う権利もあると思いますし、そう言ったリアクションとしての形も時には必要かと考える人間もいるかと思われます。
まあ、そう言った場合は、他の動きと並行しての活動が基本ですが。


自由って、ある意味、強さ(運も含めて)に比例するモノだと思いますよ。
人間が、この地球で、のさばって居るのも、いろんな意味で他の生物を超える、強さを持っているからな訳だし。


だから、権利を主張する事は、自由を失う事とはある意味別の話だと思います。
しかし、感覚的に大多数の人間がそう感じそう考えるなら、そう言う結果になろうかと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

強さとは何かも重要な事柄ですね。

お礼日時:2009/05/20 00:31

>もしそうなら権利を主張することは自由を失うことを意味しますか。


:権利というのは「ある状況下における平等」の概念が元になっているように思います。
そうすると、
「ある状況」にどの程度依存しているか、によって違ってくるのではないでしょうか。

主体的にその状況に関わっているのであれば、それは依存ではなく活用うですから、権利の主張が自由の喪失を意味するということにはならないでしょう。

しかし、このカテを見てもわかるように、一般的には、おっしゃるような構図になっている場合が多いでしょう。
 
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

理由ははっきりしないのですが、権利を主張することが私自身のプライドを非常に傷つけるのです。

お礼日時:2009/05/20 00:25

ジャン=ポール・サルトル


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3% …

>「人間は自由という刑に処せられている」

>このようにして現にある状況から自己を開放し、あらたな状況のうちに自己を拘束することはアンガージュマン<engagement>といわれる。

結婚して自分を拘束する。

というか、私は彼女と結婚する権利があると思うんだけど。

まだ無いの?
いつまで誤解と論争をすればいいんだろう?
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2009/05/19 18:40

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Q【戦争の対義語が平和ではないことに気付いてしまった人類】 戦争の対義語が平和と習うが、戦争が無くな

【戦争の対義語が平和ではないことに気付いてしまった人類】

戦争の対義語が平和と習うが、戦争が無くなれば本当に平和になるのかというと平和にはならないでまた別の問題で争っていることだろう。

平和の対義語で該当するのは個人の喧嘩くらいだろう。

喧嘩が無ければ平和。

個人的には。

平和でなければ戦争なのかと言えばそうでもない。

なんだ?

戦争の対義語は平和と洗脳された学校教育は何だったんだろう。

今は戦争を無くすために戦争をしている。

戦争の対義語って何だと思いますか?

平和の対義語は?

Aベストアンサー

最近よくいわれるのは「戦争」の反対は「奴隷」か「皆殺し」。
某国がせめてきたとき、戦争をして自分たちを守るか、なにもしないで
奴隷になったり、皆殺しにされるか・・・ということ。

さて、平和の反対はなんでしょうね

Q主張、或いは表現に哲学が在ると云う時、それが何であるのかを知りたい。

週刊誌、サンデー毎日の連載コラムに五木寛之のボケない名言、と云うのがあります。
今週は、羽生結弦(はにゅうゆずる)《フイギュアスケート選手》の名言

『努力はむくわれない』・・・です。

五木寛之氏はこの言葉を取り上げて、そのタイトルに「真の努力家にのみ許される発言」とし、続けて誤解をまねきやすい発言だが、この発言の後には「しかし努力には意味がある」と云っていると付け加えています。

普通には、努力すれば報われるものであると云う考えが一般だと思うので、羽生結弦選手のこの意外な発言に対して五木寛之氏は「ここまで徹底して醒めた目を持っていることに驚かない人はいないだろう」
と述べて、冷徹な人生(報われるとは限らないと云う)を見すえた哲学である、としています。

ここに"哲学"を感じているらしい。

ここで五木寛之氏が指摘する羽生結弦選手の"哲学"に付いて、分かりやすい説明が欲しいので質問としました。
よろしくお願いいたします。

五木氏は、人生は厳しい。この若さで、それを見切る視線の強さに、あらためて驚嘆せずにはいられない。と、結んでいます。

☆ 単なる考えとそれが哲学になると云うあたりの境界線、のようなものが見えてくる事を期待しています。

週刊誌、サンデー毎日の連載コラムに五木寛之のボケない名言、と云うのがあります。
今週は、羽生結弦(はにゅうゆずる)《フイギュアスケート選手》の名言

『努力はむくわれない』・・・です。

五木寛之氏はこの言葉を取り上げて、そのタイトルに「真の努力家にのみ許される発言」とし、続けて誤解をまねきやすい発言だが、この発言の後には「しかし努力には意味がある」と云っていると付け加えています。

普通には、努力すれば報われるものであると云う考えが一般だと思うので、羽生結弦選手のこの意...続きを読む

Aベストアンサー

yy8yy8az様、はじめまして。
 あんこころ。と申します。
 当方、「教えて!goo」を利用するのは今回が初めてなものでして、何かしら失礼があるかもしれませんがご容赦願います。

 件のサンデー毎日における五木寛之氏のコラム記事に引っかかりを覚え、それについて調べておりましたところ、偶然こちらの質問ページを目に致しました。
 ご質問の意図に適うものとなるかは判りませんが、ご思索の参考になればと思い書き込ませて頂きます。

 No.3の回答者様も触れておられますが、羽生選手の発言についてもう少し詳しく具体的に書かせて頂きますと……

(1)そもそもこの「五木寛之のボケない名言」というコラムにて用いられている「努力はむくわれない」「しかし努力には意味がある」という言葉は、世間一般に出回っている範囲における「羽生結弦選手の言葉」ではありません。
 私なりに色々と調べてみましたが、少なくとも羽生選手がこれと同様の発言をしたという「原典」を見つけることは出来ませんでした。

(2)ただし、類似の発言はあります。それが、CosmoToy様も書いておられる以下の言葉です。
 「努力はウソをつく。でも 無駄にはならない。」
 これは、2016年10月2日(日)にフジテレビ系列で放送された「Mr.サンデー×HERO'S 合体SP」という番組内で取り上げられたもので、インタビュ—映像にて羽生選手自身がフリップに書いた言葉です。
 http://dai.ly/x4vohh6
 (05:44以降のコーナーにて紹介。フリップとそれを説明する一連の言葉は動画終盤にて登場。)
 実際の番組を見ると、上記の言葉以外にも「努力の正解を見つける事が大切」など補足となる言葉が添えられており、羽生選手自身の考え方が色々と述べられています。
 今回の五木氏のコラムを紹介した羽生選手のファンサイトは数多ありますが、その中で「言葉そのものの出典」を示したものは、私が確認した限り全てこの番組での「努力はウソをつく。でも 無駄にはならない。」という言葉をもって、五木氏の文章の原典としていました。

 つまり、
(1)五木氏のコラムは「羽生選手の名言」としながら実際には典拠不明の言葉を軸に展開されており、
(2)事情通の読み手は既知の羽生選手の発言に読み替えているものの、それらは似て非なるものである、
 ということです。

 複数のファンブログが特に推測という断りもなく断定形で書いていましたが、実際には出典が示されていない以上、五木氏が本当にこの番組を下地として文章を書いたのかは判りません。
 もしかすると又聞きや孫引きによる執筆なのかもしれませんし、TV番組だけに後から記憶を頼りに書いた結果の変化かもしれません。
 或いは、私もコアなファンも検索エンジンも知らない羽生選手の言葉を、元々フィギュアスケートがお好きだという五木氏がご存知だったという可能性もあります。
 ただ、もしも本当に「努力はウソをつく。でも 無駄にはならない。」という言葉こそが五木氏の文章の本来の原典なのだとしたら、コラムの文章は羽生選手の本来の発言の意図を曲げていることになります。
 たとえば、CosmoToy様も言及されていますが、野球のダルビッシュ有投手のtwitterにある「練習は嘘をつかないって言葉があるけど、頭を使って練習しないと普通に嘘つくよ。」(2010年6月10日)という言葉などと同じく、アスリートがしばしば述べる「練習(努力)の仕方」についての指摘を、羽生選手の「努力はウソをつく。」に始まる一連の発言は含んでいると思います。
 しかし、五木氏の書いた「努力はむくわれない」「しかし努力には意味がある」という言葉では、その要素は消えてしまいます。
 動画をご覧頂ければわかりますが、本来この言葉は後輩スケーターたち(或いはもっと広範な未来のアスリートたち)に向けたメッセージであり、助言の意図を持ったものです。
 ですから、アスリートとして極めて重要な指摘であるこの点を抜いてしまったのでは、「彼の真意」や「哲学」を酌み切れていないことになるかと思われます。
 ただし、五木氏の書かれた文章が、まるっきり的外れなものだとも私は思いません。
「努力がむくわれるとは限らない現実を受け入れ、それでも努力し続ける信念と精神力を持つ。」
 五木氏の指摘されたことも、羽生選手の一連の言葉が持つ意味の一側面には違いないと感じるからです。
 あくまでも五木氏が羽生選手の言葉や在り方から汲み取ったものを綴った文章だと思って読めば、充分に含蓄に富んだ読み応えのあるコラムだと思います。
 もしも五木氏の文章というフィルターを通さない、生の羽生選手自身の考えや哲学といったものに興味をお持ちでしたら、お時間のある時に出典(であろうと思われる)動画を直接ご覧になることをお勧め致します。
 ただし、この番組もまた、羽生選手の言葉や彼に関する事実関係を、少しずつ変えたり伏せたりするという編集を行っているものではあります。
 自分自身がある程度詳しい分野についての報道を見ていると、しばしば情報が伏せられたり片寄せられたりしていることに気付かされます。
 世の中に情報は溢れていますが、それらは常に誰かの視点というフィルターを通った後のものであるということを意識しておかないと、気付かぬ内に見えなくなってしまっている部分もあるのだと実感させられます。

 最後になりますが、質問主様の仰る「単なる考えとそれが哲学になると云うあたりの境界線」についての私見を述べさせて頂きます。
 私は「考え」と「哲学」の差は「矛盾するものを同時に持ち得るか」ということではないかと思います。
 単なる「考え」であれば「Aである」「Aではない」「Bである」「AでもBでもある」といった相反していたり食い違っていたりするものを同時に己の内に持つことが出来ます。
 一つの事象や命題に対し、一人の人間が幾つもの意見や視点(=考え)を持ち得る、と言い換えても良いかもしれません。
 究極、自分自身の本来の意見とは正反対のものであっても、そういう「考え」を持つことは出来ます。
 そして、その「考え」は必ずしもその持ち主の言動にまでは反映されません。
 対して、ここで言う「哲学」とは自らの経験に則って培われた人生観であり、否応なく常に自身の言動へとフィードバックされていく、より本質的・根源的なものだと思います。
 謂わば「生き方・生き様」そのものであり、これに矛盾を抱えることは大きな葛藤を伴い、ときに不可能ですらあります。
 五木寛之氏は元々フィギュアスケートを好んでいらっしゃる方らしいですので、羽生選手の言葉から汲み取ったものに普段から見ているその生き様に通じるものを見出され、「考え」ではなく「哲学」と書かれたのではないでしょうか。
 何だか小難しい言い回しでまとまりが悪くなってしまいましたが、個人的には他の回答者様や質問主様ご自身のご意見とも近いところのある答えかと思います。

 以上、ご質問の件に対し、思うところを述べさせて頂きました。
 長文乱文となってしまい、大変失礼致しました。

yy8yy8az様、はじめまして。
 あんこころ。と申します。
 当方、「教えて!goo」を利用するのは今回が初めてなものでして、何かしら失礼があるかもしれませんがご容赦願います。

 件のサンデー毎日における五木寛之氏のコラム記事に引っかかりを覚え、それについて調べておりましたところ、偶然こちらの質問ページを目に致しました。
 ご質問の意図に適うものとなるかは判りませんが、ご思索の参考になればと思い書き込ませて頂きます。

 No.3の回答者様も触れておられますが、羽生選手の発言についてもう...続きを読む

Q「幸い」の対義語を教えてください。

中学生の子供のテスト問題です。
「幸い」の対義語をいくつかの選択肢の中から選ぶ問題なのですが、対義語の選択肢の中に「不幸」と「災い」があります。国語辞典で意味などを調べてみたのですが、どちらかよくわかりませんでした。言葉の感じからすると「幸い」、「災い」が対義語のように思えますし、また、意味を考えると「幸い」、「不幸」が対義語に思えます。ただ、「不幸」の反対は「幸福」だと思うので、対義語が二通りあるというのも、おかしいような気がします。
どなたか「幸い」の対義語がどちらか、そしてその根拠がわかれば、教えてください。

Aベストアンサー

手持ちの「反対語辞典」(中田武司 監修)には

幸い ⇔ 災い 

とあります。

参考までね。

Q《自己主張するな》は 自己主張ではないのか?

言わずもがな・・・かも分かりませんが あらためての問いです。

この哲学カテでのやり取りに見かける〔小さな?〕もんだいです。



分かり切ったことではないかという場合にも 一票を投じてご見解を明らかななかたち
としてみてください。


わづかに 分かり切っていないという向きにあっては 《自己の〈意見〉を主張する》
と《自己を主張する》とが 区別されると考えているふしがあります。

そのような区別は できますか?

Aベストアンサー

(あ)を想定していました…

質問者さんの意図を把握しました。
《自己主張するな》は如何なる場合に於いても等しく自己主張ですね。

> そのような区別はできますか?
できる、できない、というよりは、する場合・状況はあると思います。

(い)の場合、ある組織に於いて例えば上司が部下に《自己主張するな》と言う場合、それ自体は自己主張であると解釈されない(もしくはできない)のでは、と思います。

Qseriesに対する対義語はないのですか?

seriesに対する対義語はないのですか?

serialの対義語はparallelです。
ではseriesの対義語は何なのでしょうか?

http://eow.alc.co.jp/%e4%b8%a6%e5%88%97%e6%8e%a5%e7%b6%9a/UTF-8/
直列接続はin seriesですが、並列接続はin parallelで表すそうです。
とすると、seriesの対義語はparallelなのでしょうか?

Aベストアンサー

ご質問の対象が少し幅広いように思いますが、

直列・並列という意味であれば in series / in parallel ですね。
決められた順番に・不規則(単発的)に sequentially / randomly (sporadically)

series 「続き物」という意味が基ですから、その反対「続いてない物」という意味でいけば not-in-series でも、文の内容によっては成立すると思います。

Q実生活での集中力の限界に関して

集中して記憶・分析すると一時間位で頭がクラクラします。
みなさんのクラクラする程の集中の限界ってどのくらいでしょうか?

また、最長で言えば、何時間でどのような状況でしたか?
私の場合、好奇心がある時に6時間がMAXでした。ルーチン化するに従ってすぐ飽きっぽくなります。

また、対策として休憩以外で何かやっていますか?

Aベストアンサー

質問者さんの集中は集中であっても、脳の集中、脳のフル使用時間のことだと思います。

私の回答は、
専門学校で先生の話をまじめというか、理解し、少しでも記憶するように聞いていた時に、
脳のフル回転持続は1時間、
2時間で頻繁に思考が途切れるようになる、眠気が出始める、
3時間で、キンキン言うようになり、体の方にも倦怠感が出ます。


筋肉にも使用限界、疲労限界があります。質問者さんの質問は、脳をどれだけ使った場合という質問に感じます。そこを明確にしないと、体全体の集中と間違われて回答されている、される気がします。

運動でもそうですが、100m走と1500m走で走るペースが違います。好きなことをしていても、100m走の勢いでがんばる人と1500m走の勢いでがんばる人で集中力の長さが違います。

脳の場合、「慣れという処理能力向上」によって処理量は向上します。
例えば、1+1=2というのを閃きように答えれるようになる。これが慣れです。
慣れないと、サイコロを想像して、1個のサイコロと1個のサイコロを足して、2個になるから、1+1=2と考えると思いますが、これでは、想像に脳を使い、さらに複数の想像をする訳ですから、脳には疲労になります。さらに、想像することに慣れていない人は余計疲れます。

まあ、筋力も体力も、「短時間」に「できる限りの力を使う」ことをすれば、いつでも同じ時間しか持たないんですよね。

ただ、トレーニングで、「できる限りの力」のレベルが高くなりますし、その結果、ゆったり消費によって長時間の集中が持続します。

>対策として休憩以外で何かやっていますか?
休憩する時間を小刻みするとか、真剣に体を休めるとかですね。
けっこう体を休めることも大変ですから。

質問者さんの集中は集中であっても、脳の集中、脳のフル使用時間のことだと思います。

私の回答は、
専門学校で先生の話をまじめというか、理解し、少しでも記憶するように聞いていた時に、
脳のフル回転持続は1時間、
2時間で頻繁に思考が途切れるようになる、眠気が出始める、
3時間で、キンキン言うようになり、体の方にも倦怠感が出ます。


筋肉にも使用限界、疲労限界があります。質問者さんの質問は、脳をどれだけ使った場合という質問に感じます。そこを明確にしないと、体全体の集中と間違...続きを読む

Q対義語はどこかに出典が有るの?

中学校の学校教育では「対義語」と云うものを教えます。
小学校でもあったかなぁ。

例えば、類義語は通常複数ありますが、
対義語はどうも「決まり」があるようで。
何でコレが対義語でアレではだめなのかと思うこともあります。

対義語はどこかに出典が有るのでしょうか?
国語審議会のような団体が決めているのでしょうか?


御存知の方がいらっしゃいましたら、是非御教授ください。

Aベストアンサー

決めている団体はないと思いますが。
似た概念の言葉をグループ分けしてまとめた本としては、国立国語研究所が出している「分類語彙表」という本がありますが、対義語には触れていなかったように思います(現物が手許にないので、うろ覚えですが)。考えられることとして、どこかの出版社の出した国語辞典が「対義語」を項目として挙げたのに他の出版社も倣っていくうちに定着した、ということではないでしょうか(その最初の国語辞典はどこの出版社のものか、私も興味がありますので、知っている人は教えて!)。
あと、単語のレベルではいくつもあるように見えても、その単語を使った例文を考えた場合、入れ替え可能で正反対の意味の文ができる、という条件を満たすかを検討すれば一つに絞れることもあるのではないかと思います。この質問の二つ前の質問の回答で、弛緩と尊重の対義語について考察してみましたので、よろしかったらご覧ください。

Q道徳経の四大について

道徳経の四大について

道徳経の一文に、「世の中に四大有り」との記述がりますが、
「地」まではすっきりしますが「人」の所がすんなりきません。
すんなりこない理由は、私が
「天」=法則(例えば、形而上学)
「地」=理屈(例えば、工学や物理学)
と勝手に理解しているのですが、「人」はなんとなく、そんな
分類ができない気がしています。

この道徳経の一文は、ただ単にリソース(資源)として
(例えば、軍隊の戦略上重要な項目)
「天」=天候
「地」=地形
として考ええると「人」も大切なのは表現として妥当と思えますが
道徳経の内容としはおかしい(四大には「道」自体も入っているので)
理解と考えています。

これは「道」「天」「地」と同じくらいに「人」は大切なんだよ
という意味なんでしょうか?

私の考えが、今一つ深い所にたどりついていない感じがあり、
質問させて頂きました。

どなたか、お考えを教えていただけるとありがたいです。

Aベストアンサー

天と地は、直感的に分かりますよね、天は超越的な存在で
なおかつ支配的なもの、神であったり物理(原理)であったり
するものでしょう。
それに対し地は、人の生きる基盤であり、生産であったり
環境(現象)であったりするもので。

我々が感じているのはこの2つなので、「天と地」と対比され
ますが、そこには主体としての「人」が先入化されています。
実用的に問題はないにしても、思想においては、そうした先入
要因の明確化は不可欠です。
そうして得られた主体「人」と、「天」や「地」を結ぶものが
「道」だと言えるでしょう。
天を知る物理、地を知る愛(生態系の循環~社会生命的自覚=
他我化)として。

Q「確認」の対義語?

ある人から「確認」の対義語は「疑う」だと言われましたが、「疑う」の対義語は「信じる」ではないかと思います。「確認」≠「信じる」ではないかとおもうのですが・・・「確認」の対義語は何でしょうか?

Aベストアンサー

確認の中のどの意味に対して言っているのかでもかわるのでは?

確認するのうち「確かめる」の意味だと反対は確かめないことなので、不注意などが入りそうですが

軍隊の映画などで使われる「ターゲットを確認しました」の反対は見失うことなので「ターゲット喪失」などになると思います。

交通事故などの安全確認の反対は安全不確認ですし
UFOは「未確認」飛行物体です

ただ疑うでは・・・ないと思うのですが・・・。

確認は「見て確かめる」という意味合いが強いので
「ウソだと思う、物事を違うと感じる」意味の疑うでは反対たりえないのではないでしょうか?

Q道徳に関して…

こんばんわ
教育学部に通っている者です。
今授業の指導案を作成しているのですが、一つの部分で案がでず困っています。明日まで提出なのですが、是非意見をお願いしますm(_ _)m

内容はこうです(道徳の授業)。
ある行動の場面で、礼儀通りに行動するが心がこもってない対応をするか、礼儀通りではないが心がこもってる対応をする。
この二つに分かれることができる「場面」を考えて頂きたいのです!
宜しくお願いします。

Aベストアンサー

バスの順番待ちで、お年寄りを先に行かせるのがルール違反だが心がこもっている逆が心がこもっていない。ルールということですが。

偶然あってその時知った友達のお祝い事に対し、古いお札でご祝儀を渡すのが礼儀どおりではないが心がこもっている。

耳の聞こえの悪いおばあちゃんに、敬語ではないけど解りやすく呼びかけるのが心がこもっている。

外国の人に、和食料理にスプーンやフォークを渡すことが心がこもっている。

こんなのでいかがでしょうか?


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