テレビのニュースでも実生活でも自分の権利が侵害、或いは権利に見合う便益を得ていないと憤慨している人をよく見ますが、これはつまるところ、自分が弱い人間であることのアピールであり、権利を与えてくれる物、例えば政府、法律、道徳観、神・・・に対する服従を意味するのでしょうか。もしそうなら権利を主張することは自由を失うことを意味しますか。

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (11件中1~10件)

>理由ははっきりしないのですが、権利を主張することが私自身のプライドを非常に傷つけるのです。


:その感覚はなんとなくわかりますよ。
私の場合は、権利の主張をしない、ということではありませんが。

>権利を与えてくれる物、例えば政府、法律、道徳観、神・・・に対する服従を意味する
:最初は一応、契約がなされてあると思い込んでいるのでしょうね。
しかし、実際はぬるま湯的に取り込まれることによって主体性が失われていき、結果として服従という構図になし崩し的に陥っていき、しかもそれに気づかない、というパターンのようですね。
主体的な人は、あまり声高に権利を主張したりしないような印象があります。
他者の権利とのすり合わせが必然ですし、それはつまり自分の問題として考えるということでもあるのでしょう。
大きな声で主張するだけで解決できるものではないということを知っているのだと思います。
声は発しますが足場は主体の側に接地していなければならないでしょう。
服従者は服従しているものにすがって自分の権利の正当性を確保しようとするので、対手を蹴落とすためにはどうしても大声にならざるを得ません。
 
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>実際はぬるま湯的に取り込まれることによって主体性が失われていき

あぁそうですね、このずるずるした感覚がいやなのかもしれません。

お礼日時:2009/05/20 22:55

例えば雨風や虫やカビや埃に、個人が苦労して所有し管理している土地


だと警告しても無意味で(というか徒労に過ぎず)、権利や義務は自然
や神が人間を正当化するためにある摂理ではないことが分かります。

しかし所有を励みにしないと幸せ(使命感や満足感、安心感を堪能する
こと)になれないし、弱さを認めてしまうよりは苦労してでもという理
想を持っているのも人間で、それ故「権利を有している、することを許
されている」ものと主張します。

人間が所有出来る確かなものがあるかどうか。
肉体ですら人工的に作られたものはなく自然を加工して存在の見かけが
変わっているだけですね。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>人間が所有出来る確かなものがあるかどうか。

これは興味深い問いですね。

お礼日時:2009/05/22 23:27

 回答番号:No.8


 一精進者にすぎなく、宗教家ではありません。
 小1から高校までは、真に人生と世界のことしか考えませんでしたが、世において生のままで空気のようには関れないので、同じような当為の学として法律をやり、人生の大半である労働と社会活動の分野に35まで居ました。
 その残滓がここで書き込んでいる勉強の名残です。
 仰せの放棄はのことは行為の結果、果実、成果のことですね。
 これに拘っていては精進も修行もとてもできるものでは有りません。
 そしてもちろん自由も主体性もない世界と為ります。
 私たちの精進では、結果に拘ることなく、自分のやることをやる。
 自分であること。自分のすることをする。
 という教えで通しております。権利などは問題外です。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

自分で書いていてなんですが、我ながら反抗期の中学生のような質問をしたものだと思いました。

『権利を主張することは自由を失うことを意味するか』
自由とは不自由を含んでいなければならないような気がしてきました。

自分がなんだか方便の海でおぼれている気がします。

お礼日時:2009/05/22 23:25

 後半の文章「権利を主張することは自由を失うことを意味しますか」についてのみ答えます。



 まず、権利や義務や責任などというものは、あくまで「かたち」だけのものであり、巷で語られてはいるほどには、この世界に実在しないものではないでしょうか。
 もしも、実在しないものであるならば、「実在しないもの」を与えるとか、「実在しないもの」を得るといった、世の中に敷衍する言説から、妥当な言表を切り離してみる必要があるのではないでしょうか。

 例えば、権利や義務や責任というものが機能するときを考えてみます。
 社会によって奪われつつある権利、おざなりにされる義務や、なおざりにされる責任についての言表にはそれほど違和感を感じなくとも、ひとたびそれらが要求される場合になると、質問文にあるような要求者の弱さ、厚かましさ、横柄さが言表の前面に出てくるように感じられます。言表としてはどちらも同じ筈なのに、いったい、どこで違いが出るのだろうか――質問をこのように理解して答えてみます。

 思うにその理由は、権利や義務や責任というものが、たとえそれらが実在しないものであっても、「ない」場合に比べて「ある」場合のほうが、社会での暮らし向きが良くなるような気がする――つまり、権利や義務や責任というものが、我々のこの思いひとつに支えられている仮想現実だからではないでしょうか。
 我々の心の中で、常にそれらは「ある」と仮想されている。
 だから、それらが「ない」と主張されることに対して、違和感を覚える。
 そればかりか、「ない」と主張することに対して、弱さや安易さをも併せて感じてしまう。その感じは、権利や義務や責任というものが「ない」と認め合う社会への抵抗の現れであり、抗いの感情として発露するのだと思います。
 なぜかといえば、権利や義務や責任というものは現実には実在せず、社会を構成するひとり一人の「思い」によって支えられている現実を意識的にか、無意識にか、実に良く知っているからに他なりません。その儚さを知っているがゆえに、それらが「ない」と前提し、社会に対して要求する姿勢に違和感を覚えるのだと思います。
 この違和感は、いったいどこからやってくるのでしょうか。それが自由とどのように関係するのでしょうか。

 近ごろでは具体的な例が無くなりましたけど、例えば、紅白歌合戦を取り上げたいと思います。戦後の貧困から抜け出たこの国は、やがて高度成長期を迎える。
 紅白歌合戦は、この国の平和と反映、それを支える保守的価値観の象徴だった。男女の区別、年功序列、実力主義よりもネームバリュー主義。この国を支えてきたのは、そんな保守的価値観に裏付けられた安心感ではなかったでしょうか。
 戦争を捨てて平和を手に入れたこの国が、歳の終わりに一度だけ、男女に分かれて歌を競い合う。戦争――その大きな悲しみ――を知ったこの国にとって、争いごとは、それが精一杯だったのかもしれません。どんな有名なアーティストも、一曲しか歌えない平等主義。そのくせ番組の始めから終わりまでを拘束する、非合理主義。あくまで「かたち」だけで、意味のない勝敗にこだわり続ける形式主義。
 このように評価される紅白歌合戦ですけれど、

 ですけれど、誰もが少しずつ正しく、少しずつ間違っている(平等主義)わけであり、誰もにそのどちらもが、少しずつ含まれている(非合理主義)現実を考えてみれば、たとえ形式主義だと言われても、互いの正しさを確かめ合い、互いの誤りを正そうとするその「かたち」には、意味があったのではないでしょうか。
 「かたち」の与えてくれる安心感――おそらくそれは、いつもと変わらぬ白い割烹着姿で、夕飯の支度をしている、母親のような存在ではないでしょうか。この世の中にもしも本当の自由があるのだとすれば、それはまちがったことを言っても殴られたりしない、母親のような「場」の存在だろうと僕は思います。
 もちろん、母親だって間違いはあります。けれど、そのような場が「ない」場合に比べて「ある」場合のほうを、きっと選ぶだろうと思うんです。たとえ間違いがあったとしても、そのような場が「ある」場合のほうを選ぶ。かつて、このようにして手に入れた自由だからこそ、権利や義務や責任というものに対しても、同じように「ある」と認め合って生まれた「かたち」を、いつまでも大切に守りたいと思うのではないでしょうか。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

人と人を結んで社会を作る接着剤のような役割なのかもしれません。
形を求めるこの強い衝動はどこから来るのか興味がありますね。

お礼日時:2009/05/22 23:13

 回答番号:No.7


 ★シフト2007さん:〔権利というのは基本的なものではありますが、実はそれほど歴史はなく人間の発明品の一つのようですね。〕
 ▲私:〔そうなんです。天賦人権説なんていうのに、所謂る基本的人権のほう理念は淵源、立脚しておりますが、西洋社会思想の流れの中の主張の理論である以上のことでは有りません。
 一定の歴史的条件の中の、人間の一つの定義作業です。そらからの論理思考の定義体系です。
 したがって、定義の上の主張であり、主張のための定義です
 そしてその当為命題の要請の中で行為することが、正義だという糊塗なんです。
 権利の上に眠ってはいけないのです。
 自ら常に闘うことが要請されています。
 主体的に、そういう団体(国家、社会)の構成員と為り、その立場と責任を自覚し、参加し、生きていくことが要請されている。
 というのが近代法の原理です。
 ただ権利を受動的にもらう、要求するのではない。という事です。
 無論そうであっても、理念の狡知(理念はそういうものを利用する)というものが働くことも予定されている。
 というものです。〕
 
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

krya1998さんは、宗教家として権利という言葉に違和感は感じませんか?
なんだか契約した覚えもないのに架空請求されているような・・・・・
権利の放棄は自由への一歩と思いますか。

お礼日時:2009/05/21 23:26

 shift-2007さん


 権利の主張もいろんな動機、考えがあると存じます。
 受動的に、仰せのような主張の方もおられると存じます。
 権利の上に眠る人間は・・・ということばもあります。
 国民の不断の努力と憲法がいう文言の一つは正当な権利のきちんとした確保の行動である面もあります。
 国政や民主政治、民主原理はやはり権利の確保と行使、そして参加ということにより維持発展が可能だという、原理や主張もあります。それは徳義でもあります。
 受動的権利の頂き方やそれへの対象者意識でしかない、不満は上記の考えとは反対のものだと存じます。
 国家と社会は自己と自己たちが構成し、創り、担うものだという意識が根底に必要であり、要求されるのだと存じます。
 これが民主主義というもの、近代的意味の国家と権利の建前の論議だと存じます。(建前というのは、ジャスティファイの、という意味ですが)
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

権利というのは基本的なものではありますが、実はそれほど歴史はなく人間の発明品の一つのようですね。

お礼日時:2009/05/20 23:05

宗教家さんの発想では確かにそうなりますね。


権利は神との契約により与えられるものですから
その権利を要求することは自動的に力への隷属を意味するわけです。
確かに、それはまさに服従であり、階級制であり、奴隷の姿ですね。
そしてそれこそがまさに、宗教の正しい姿です。




ですが、現代の国家はそう考えません。近代哲学の帰結として
『すべての人間は自由である』ことが多く指摘されるようになったためです。
もちろん権利というものは力による保証が必要不可欠です。さもなければ
弱い力が強い力に負けてしまう、こういったことが頻繁に起こるためです。
単に強いものが勝つ社会では、その結果、大多数の自由が阻害されて
しまいますよね。




そこで求められるのが、いったん全員の自由を集め、全員の自由を保証する
『権力』を作るという考え方です。これ以外の方法は、今のところ見つかって
いません。この権力を『国家』と呼び、この考え方を『社会契約』といいます。

もちろん、この『権力』が神や王になってしまっては意味が無いわけです。
そこで求められるのは『一般意思』の反映です。つまり、その社会の一般の
人々の意思を最大限に反映する必要があります。

ですが、中には悪いことをしてやろう、あるいはルールを悪用してやろう
という人も間違いなくいるわけです。残念ですが事実ではあります。
こういった人々の意思を反映させることはできません。




こういった中から『国家』に求められた原則は
・すべての人に平等のルールを作ることを目指す
・平等でないルールは、市民の意思で変更することができる
・この権利は、(ルールを守る限り)すべての人に与えられる
ということになります。







この前提の上で、質問者さんの挙げられる『権力に服従する人』を
見ていきます。彼女の主張が正当なものか。もちろん、ルールで
認められていない権利を主張している場合もあるでしょう。この時点で
宗教としてはアウトですよね。神との契約に反することは出来ません。



もちろん国家の場合であっても、彼女の主張はまず社会のルール、
つまり『法律』に照らし合わせて考えられます。もし、彼女の周囲が、
本当に法律に反しているようであれば、ルールを守らせる装置である国家は、
原理のまま行動を行います。一方で、ルールが整備されていない分野で
あるかもしれないわけです。この場合、国家は法を整備・修正する必要
があります。もちろん、彼女以外の人間の自由を阻害しない範囲で。
国家の行為は、すべて等しく個々の人間の自由を保証するための行為なのですから。



一方で、国家が悪意となってしまうこともままあります。
ここで特に重要なのは、市民の意思によるルールの変更が可能である
ということです。『国家を神にしないためのの措置』ではありますが、
一方で、異なる神という原理を掲げ、争いを続けていた人類が
ようやく手に入れた共通の権利であり、神に代わる『共通の原理』なのです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

確かに社会の中で生きていくにはルールが必要ですね。

ただ、神も国家も必要としない者にとっては権利は無用なものかもしれません。

お礼日時:2009/05/20 00:37

確かに「自分の権利が侵害、或いは権利に見合う便益を得ていないと憤慨している人」たくさんいて、弱い人間がほとんどですが、中にはそうでない人間もいるかと思われます。


人間の強さの形は人それぞれ違うからですね。
格闘技強いのと、法律強い人、医学に優れた人、科学に強い人みたいな感じですかね。
何て言いましょうか、義務を果たしているが、それを無視されれば、言う権利もあると思いますし、そう言ったリアクションとしての形も時には必要かと考える人間もいるかと思われます。
まあ、そう言った場合は、他の動きと並行しての活動が基本ですが。


自由って、ある意味、強さ(運も含めて)に比例するモノだと思いますよ。
人間が、この地球で、のさばって居るのも、いろんな意味で他の生物を超える、強さを持っているからな訳だし。


だから、権利を主張する事は、自由を失う事とはある意味別の話だと思います。
しかし、感覚的に大多数の人間がそう感じそう考えるなら、そう言う結果になろうかと思います。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

強さとは何かも重要な事柄ですね。

お礼日時:2009/05/20 00:31

>もしそうなら権利を主張することは自由を失うことを意味しますか。


:権利というのは「ある状況下における平等」の概念が元になっているように思います。
そうすると、
「ある状況」にどの程度依存しているか、によって違ってくるのではないでしょうか。

主体的にその状況に関わっているのであれば、それは依存ではなく活用うですから、権利の主張が自由の喪失を意味するということにはならないでしょう。

しかし、このカテを見てもわかるように、一般的には、おっしゃるような構図になっている場合が多いでしょう。
 
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

理由ははっきりしないのですが、権利を主張することが私自身のプライドを非常に傷つけるのです。

お礼日時:2009/05/20 00:25

ジャン=ポール・サルトル


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3% …

>「人間は自由という刑に処せられている」

>このようにして現にある状況から自己を開放し、あらたな状況のうちに自己を拘束することはアンガージュマン<engagement>といわれる。

結婚して自分を拘束する。

というか、私は彼女と結婚する権利があると思うんだけど。

まだ無いの?
いつまで誤解と論争をすればいいんだろう?
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2009/05/19 18:40

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!


人気Q&Aランキング