いつもお世話になっております。

バタイユのテクストの一節です。

「もしも私の対象が恍惚に達するまで私を感動させるのならば、存在も虚無もありはしない。
そしてそうなったときには、私に狂気のごとく見えないようなどんな肯定も、どんな否定も存在しなくなる。」(「神の不在」p144)

「神の不在とはもはや、閉じるということではない。
無限なものに向かって開かれているということだ。
神の不在は、神よりも大きく、神よりも神的だ(それ故私はもはや〈自我〉ではなく、〈自我〉の不在になる。
私はこの消去[手品で巧みに隠すこと]を待っていたのであり、今はだから私は限りなく陽気だ)。(p147-148「神話の不在」)
共に『ランスの大聖堂』 バタイユ ちくま学芸文庫

上記のテクストの主張と仏教の「諸法無我」の境地とは、いかなる点が似て非なるものなのでしょうか。

ご教授いただけましたら幸いです。よろしくお願い申し上げます。

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A 回答 (6件)

追伸まで


>>この「生かされている我」というのは、森羅万象、生きとし生ける者としてあらゆる諸事象の恩恵によって生かしてもらっている、という意味なのでしょうか。

○ 一義的にはそのような意味です。 二義的には我も同じ存在という意味ですから他を生かしているわけですね。例えて、いいますと木々の葉が濃くなる季節ですけど、木々の葉は木の枝から栄養分をもらって大きくなると同時に自らも光を浴びて栄養を作り枝から幹に供給してますね。生かされ、生かし、つまり同じ生命の木の一部という意味ですね。

>>「有神論に帰着する」というくだりが、納得できそうで、いまいちよくわかりません。

○ 確かに飛躍がありましたね。この説明には「諸法無我」の「無我」を「空」と置き換えて、諸法はこれ空、空なる境地に「真空妙有」の境地あり、まで行くと説明的に「有神論に帰着する。」になるのですね。「真空」や「無我」で終わってないのですね。「妙有」、つまり妙なる世界があるといってますね。だからニヒリズムではないのです。
つまり「同じ生命の木の一部」である我を発見し、生命の木そのものが仏神そのものであることがわかるからですね。

>>また、「諸法無我」は「我が無い」境地でありながら「もろもろの事象の中の一部である我を発見する」とは、何とも不思議な認識に思えるのですが。

○ 私が私がと思う心や肉体がこの場合の「我」ですね。これを「仮の我」ともいいます。この「仮の我」を否定して、「真の我」を肯定しているのですね。「真の我」とは「もろもろの事象の中の一部である我」ですね。西洋哲学的な外観を捨て、内観でみているということですね。
昔の中国のお経には「無我」を「非我」と書いてるものもありますね。 「我にあらず」という「非我」のほうがわかりやすいのかもしれませんね。「無」だと何にもないと誤解してしまいますね。釈尊が否定論理や二重否定論理を使って教えを説いたということですね。
つまり、単純な言葉の解釈で理解できる哲学ではないということ、釈尊が最高の哲学者であったということでもあるのですね。

>>バタイユの外的要因による「存在も虚無もありはしない。」とは真逆の内的要因(自身の悟り?)だけで「もろもろの事象の中の一部である我を発見する」境地に至るということなのでしょうか。

○ その通りです。正しい道(仏の教えに従う道)を通りさえすれば誰しも「もろもろの事象の中の一部である我を発見する」境地に至るのです。

>>で、こういった思想というのは世界中で仏教だけなのでしょうか。

○ 仏教しかありません。それ故、仏教は最高にして最強、最強にして最大の教え、哲学であり宗教なのです。
ちなみに、お寺の山門には「あ像」と「ん像」がいますね。これギリシャ語で書けば「アルファ像」と「オメガ像」ということですね。お寺の中には仏像があり、仏陀は、私はアルファでありオメガですよといってるのですね。この世でわからないことがあれば我に聞け、その門は万人に開かれてる。これが悟りの門の意味ですね。
仏教は一神教ではありません、仏陀は神々の至高神(神々のなかの一番えらい神)であると言ってるだけですね。つまり、一番長老のものしり哲学者と思えばいいんじゃないかと。
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この回答へのお礼

mmky様、再度のご回答に心より感謝申し上げます。
ありがとうございます。

>生かされ、生かし、つまり同じ生命の木の一部という意味ですね。

なるほど。
以前2人の子供を出産した関係上、某キリスト教系の病院の院長による「葉っぱのフレディ」の朗読会に参加した経験をふと思い出しました。
この「生かし生かされ、命あるもの同じ生命の木の一部」という発想は、また同様に、宗教宗派を超えた「有神論」につながる、どこか孤独で無い温かみのあるものを感じます。

>「妙有」、つまり妙なる世界があるといってますね。だからニヒリズムではないのです。
>「同じ生命の木の一部」である我を発見し、生命の木そのものが仏神そのものであることがわかるからですね。

はい、ニヒリズムと似て全く非なるというか、ニヒリズムを高々と超越しきっている感じがします。 
凄いですね。

>「我にあらず」という「非我」のほうがわかりやすいのかもしれませんね。
>「無」だと何にもないと誤解してしまいますね。釈尊が否定論理や二重否定論理を使って教えを説いたということですね。

初心者のわたくしにわかり易く噛み砕いてご教授下さっただけでも、仏教哲学の緻密さ、深遠さが伝わってくるような。
のちに仏教がヒンドゥーに駆逐されてしまったのは、この哲学的難解さによるものだったのでしょうか。

>仏教は一神教ではありません、仏陀は神々の至高神(神々のなかの一番えらい神)であると言ってるだけですね。

はい、この点はわたくしにとっては素直に心地良いものを感じます。
なまじ物ごころついたときにキリスト教文化に触れたせいか、「対人的に信仰面で過干渉」を幾度と体験して辟易しているところがあります。
ですが、「隣人愛」「ゆづる」の精神など、やはりあの時代においては前代未聞の画期的な発想であり、過分に或いは相応に、人類は恩恵を受けてきたはず。
たとえキリスト教圏でないにしても、です。

同様に、わたくしが抱く仏教の一抹の懸念として、どこか「唯我独尊」的ニュアンスを感じてしまうのです。
キリスト教とは真逆のベクトル、つまり、内なる方向へ働きかけるイメージでしょうか。

初心者の戯言です、一笑に付して下さいませ。

お礼日時:2009/05/20 20:53

すいません。



梵天勧請というのがありまして、

涅槃に入ろうとしたゴータマに
教えを説くように梵天が勧めます。

仏教にも神はいます。
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この回答へのお礼

yukiyama20様、更なるご回答をありがとうございます♪

>梵天勧請というのがありまして、
>涅槃に入ろうとしたゴータマに
>教えを説くように梵天が勧めます。
>仏教にも神はいます。

フムフム。 あとでwikiで見てきます。
あまりwiki好きな世代ではないのだけども。←つまりおばちゃん

「神」って…いないよりはいたほうがいいと思います。
ただ、神に何を求めるか、にもよるのかもね。

やはり今まで幸せに生きてこられた事に対して、「神」のみならず、全てのものに対して謙虚に「感謝」すべきなのだなあ、と思うに至りました。
これが、哲学カテで得た最大の発見です。 
しょぼいですかね?(笑)

で、yukiyama20様はどうかしらん。

お礼日時:2009/05/20 21:09

>何か「神」に求めていらっしゃるのです?



いや、もういいです。
諦めました。

執着を捨てる

ゴータマは家族を捨てたでしょう。

本当は嫌なんですけどね。
仕方ないです。
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この回答へのお礼

yukiyama20様、こんばんは。
何度もお書き下さって本当にありがとうございます♪

>>何か「神」に求めていらっしゃるのです?
>いや、もういいです。
>諦めました。

ん? もういいのですか?
諦めた、というのは「執着を捨てる」ということなのです?

>ゴータマは家族を捨てたでしょう。

ああ、これね。
妻子にしては相当に世知辛かったことでしょう。
この点につき「唯我独尊」的なるものをわたくしも感じるのです。
キビシーかもね。

>本当は嫌なんですけどね。
>仕方ないです。

まあ、そんなことも生きていればしょっちゅうありますって。
キリスト氏もゴーダマ氏も何かしら心の葛藤を抱いたはずですから。
わたくしたちがどうしてそれ以上に抱かないと言えましょう?

なんちゃって。

お礼日時:2009/05/20 20:59

マシュマロさん、こん〇〇は。

ぽこぺろぽです。

 バタイユの『神の不在』と、仏教の《諸法無我》にいかなる類似性があるのですか?正直に申し上げますと、その対称性であるならともかく、なぜ似て非なるものとされたのか掴みかねております。

 ニヒリズムと諦観が似て非なるものということでしょうか?私の考えるところ、バタイユの唱える恍惚とは、内的な唯一神の克服で、醜や死への賛美は、ナルシシズムの屈曲表現としか思えないのですが。確かにバタイユは毒性に富み、妖しい魅力があります。私は8年ほど前に読んだのですが、あと5年前に読んだら騙されたに違いないと、胸を撫で下ろしたことを覚えています。それ以来、敬遠していますので、詳しいことはわかりませんが。

 私には、あなたがバタイユを気にかけておられることが驚きです。バタイユの思想に魅了されたのでしょうか?それとも有用と考えられたのでしょうか?
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この回答へのお礼

pokoperopo様、こんばんは。ご回答ありがとうございます。
後ほど小部屋にお邪魔させていただくつもりです。

>ニヒリズムと諦観が似て非なるものということでしょうか?
>私の考えるところ、バタイユの唱える恍惚とは、内的な唯一神の克服で、醜や死への賛美は、ナルシシズムの屈曲表現としか思えないのですが。

はい、おっしゃる通りかと。
ナルシシズムの屈曲表現ですか、相変わらず鋭いですね!

>あと5年前に読んだら騙されたに違いないと
>それ以来、敬遠していますので
>バタイユの思想に魅了されたのでしょうか?
>それとも有用と考えられたのでしょうか?

二-チェしかり、バタイユしかり、フーコにしかり。
あの歴史に裏打ちされて厳然たるキリスト教社会と司牧権力体制下において、公然とアンチを標ぼうする心の「闇」というものは、本当に想像を絶するものだと思います。
ちょっと日本人には理解し難いものがあるように感じます。
まさに、生活習慣全てを全否定するに近しい暴挙に等しいような。

もう、ゴーギャンも真っ青の「狂気」。ゴッホ並みでしょうかね。
彼等の「闇」「狂気」の全部が全部を理解しようなど、出来ようがないし、むろんそんな荒唐無稽なことは考えてもおりません。

でもね、何をもってして「妖しい」「騙される」「無用」とみなすのか、わたくしにはいまだ、よくわからないのです。

バタイユの「神の不在」はともかく、彼の描くエロティシズムの世界と、フツーのわたくしたちの抱くそれと、本質的には全く何ら違いがないはず。 
本質をリアルに突いていると思いませんか。

むろん神秘思想に傾倒など致しませんが、人間のイマジネイションと業の深遠さがひしひしと伝わってくるのです。 
その意味において、わたくしは「拒絶したくはない」のです。
むしろ一方的に上から押し付けの、根拠のない「善」「聖なる」「さとす」という語彙に抵抗を感じるのです。 
これらはキリスト教とは関係ないのかもしれませんが。

お礼日時:2009/05/20 20:22

>>[上記のテクストの主張と仏教の「諸法無我」の境地とは、いかなる点が似て非なるものなのでしょうか。

]
ですか。説明の例えとして、
梵鐘と突き棒と坊主は、そろいものですが、坊主が突き棒で梵鐘を突けば、梵鐘は震えて妙なる音を出します。このとき、梵鐘の気分を推察すれば、「恍惚感」の状態にあるといえるでしょう。
この例えが、バタイユの「もしも私の対象が恍惚に達するまで私を感動させるのならば、存在も虚無もありはしない。」の状態でしょうね。
ところが、仏教の「諸法無我」の境地は、このような単純な「恍惚感」を意味しているのではないですね。
例えれば、梵鐘が突き棒と坊主、梵鐘の釣り部分や屋根、梵鐘のおかれている大地、周りの山河と一体となって存在しているということを体得しながら認識する状態ですね。
「諸法無我」の意味は、もろもろの事象のなかの一部である我を発見するという意味で外的に与えられる恍惚感とは違うものですね。
「もろもろの事象のなかの一部である我」というのは言い換えれば「生かされている我」ということですから有神論に帰着するのですね。

この回答への補足

mmky様、ご回答をありがとうございます。

なるほど、このような明確な差異があるということなのですね。
納得です。ありがとうございます!

もう2点ほど、詳しくお伺いさせていただきたいのですが、

>「諸法無我」の意味は、もろもろの事象のなかの一部である我を発見するという意味で外的に与えられる恍惚感とは違うものですね。
>「もろもろの事象のなかの一部である我」というのは言い換えれば「生かされている我」ということですから有神論に帰着するのですね。

この「生かされている我」というのは、森羅万象、生きとし生ける者としてあらゆる諸事象の恩恵によって生かしてもらっている、という意味なのでしょうか。
「有神論に帰着する」というくだりが、納得できそうで、いまいちよくわかりません。

また、「諸法無我」は「我が無い」境地でありながら「もろもろの事象の中の一部である我を発見する」とは、何とも不思議な認識に思えるのですが。
バタイユの外的要因による「存在も虚無もありはしない。」とは真逆の内的要因(自身の悟り?)だけで「もろもろの事象の中の一部である我を発見する」境地に至るということなのでしょうか。
で、こういった思想というのは世界中で仏教だけなのでしょうか。

以上の点につき、御手数ですがご教授頂けましたら光栄です。
なにとぞよろしくお願い申し上げます。

補足日時:2009/05/19 22:48
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こんにちは。




バタイユのマダム・エドワルダを読んだことがあります。
引用してもいいのかな。


「分かってるでしょう、あたしは神なのよ・・・」
「おれは頭がおかしくなったのか・・・」
「とんでもない、見なくっちゃだめ。見るのよ!」

断っておくが、私が、マダム・エドワルダは神だというとき、
それを皮肉だと思うのは間違っている。
だが、神が売春宿の娼婦で、気の狂った女だというのも、筋のとおらない話だ。
ともかく私は人が私の悲しみを笑ってくれればそれで満足なのだ。



そして、いまのところは、無意味だ!「無意味氏」がものを書く。
この男は自分が狂人であることを承知している。恐ろしいことだ。
だが、この男の狂気、この無意味は――突然「確かな」ものとなって――
それこそが「意味」になるのだろうか?


リストカット、風俗嬢、40代?、病人、カトリック信者
離婚経験者、アニメオタク。インターネット依存症。金の話ばかり。

神はいますよ。

この回答への補足

yukiyama20様、ご回答をありがとうございます。

せっかくだから、もいちどマダム・エドワルダを読んでみます。
明日いっぱい、お待ち下さいませ(ぺこり)

>リストカット、風俗嬢、40代?、病人、カトリック信者
>離婚経験者、アニメオタク。インターネット依存症。金の話ばかり。
>神はいますよ。

「40代?」にわたくし、該当しちゃうわけなんですが(昭和40年代、笑)
「神」がいてもいなくても、全くもって、個人の信仰の自由だと思っております。
ちなみに…yukiyama20様は「神」がいる、と思っていらっしゃるのですね。
何か「神」に求めていらっしゃるのです?

補足日時:2009/05/19 22:47
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この回答へのお礼

『マダム・エドワルダ』を読みました。

>「神」はいますよ。

たしかに。
バタイユの描く神が「いた」とわたくしも思います。

それってキリスト教の「神」ではないのですよね?

お礼日時:2009/05/20 21:13

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Aベストアンサー

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『ガダラの豚』(呪術ネタ)
『人体模型の夜』(ホラー)
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 ファンの間ではこの二人の関係は禁句なのか掲示板ではその後語られることはないので、らもブランクが数年ある私にははっきりとしたことは解りません。
 この推察の間違いを御指摘いただければ幸いです。

Q酒の中に真実がある in vino veritas〈ラテン語〉

まことにごもっとも、です。
酒の中には"真実"がありますね。

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お酒に弱い私は日本酒ならお銚子二本まで。三本のむと動物人間となり、あらぬ事を言ったりしたりしているようです。自分ではわからないので人から聞いた話です。

車の運転が好きだから、勤めている会社の社長の手から車のカギを無理やり奪って、後部座席に社長を乗せ暴走したとか、スナックの女性客にダンスを強要したり、心に抑え込んだうっぷんを暴言にしたりとか、いろいろあったらしい。

だから、そのことを知ってからは外で飲むときはお銚子二本までと決めてます。

酒の中の真実。
まことにごもっとも。

文句ありますか?

Aベストアンサー

>文句ありますか?

「謳ひ文句」「威し文句」「殺し文句」「決り文句」等、さまざまです。先日は御回答ありがたうございました。五七調に関連して、韻律についてギリシャ悲劇を読んでゐましたら、「真実の言葉は簡潔」と書いてあつたので、質問してみました。今後も御教授よろしくお願ひいたします。

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>スナックの女性客にダンスを強要したり

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中島らもさんの
本名は、中島裕之(なかじま ゆうし)さんだそうですが、
そこで、ふと、
なぜ、「らも」っていうペンネームっていうか、芸名っていうかに
彼はしたのかなと思いました。
「らも」ってなんだ?
ご存知の方、教えてください。

Aベストアンサー

下記ページに一般的な説として、
「戦前から戦後にかけて時代劇映画で活躍した、俳優の羅門光三郎の名前にあやかって付けた」
としてあります。
http://www.d4.dion.ne.jp/~warapon/topics/today/info_0304.htm

参考URL:http://www.d4.dion.ne.jp/~warapon/topics/today/info_0304.htm

Q〈父、子、聖霊〉の《三位一体》は、等質かつ等価であるか?

私は、キリスト信仰における《三位一体》を、普遍的位相とは認めるものの(キリスト教全会派に共通する教義ではない)、三位のそれぞれの位格が、等質かつ等価であるとの見解を、咀嚼しかねております。

 もちろん、会派ごとの教義は尊重します。しかしながら、私自身がプロテスタント無派閥に所属していた、元不良信者であります。通っていた教会では、三位一体を大変に重視していましたが、私が師に、「《主》とは、すなわち〈父なる神〉ではないのか?なぜ新約では、《主イエス・キリスト》に変わっているのか?〈人の子〉が、なぜ救世主を超越して、《主》と呼ばれるのか?〈御霊〉は、キリストの血によらなければ授けられないのか?」と問い質すと、逆に不信仰を諌められてしまいました。

 そこで、皆さんにお尋ねします。

【Q-1】 〈父、子、聖霊〉、それぞれの、役割とは何でしょうか?

【Q-2】 〈父、子、聖霊〉、それぞれは、等質といえるでしょうか?

【Q-3】 〈父、子、聖霊〉、それぞれは、等価といえるでしょうか?

【Q-4】 〈父、子、聖霊〉、それぞれが、等質でも等価でもないとしたら、どれが最も重要なのでしょうか?

【Q-5】 《三位一体》とは、何でしょうか?

 以上、皆さまの私見でもかまいませんので、よろしくお答え願います。

私は、キリスト信仰における《三位一体》を、普遍的位相とは認めるものの(キリスト教全会派に共通する教義ではない)、三位のそれぞれの位格が、等質かつ等価であるとの見解を、咀嚼しかねております。

 もちろん、会派ごとの教義は尊重します。しかしながら、私自身がプロテスタント無派閥に所属していた、元不良信者であります。通っていた教会では、三位一体を大変に重視していましたが、私が師に、「《主》とは、すなわち〈父なる神〉ではないのか?なぜ新約では、《主イエス・キリスト》に変わっているの...続きを読む

Aベストアンサー

 pokoperopo さん 投稿を受け容れてくださったようですので No.3&5に引き続き 回答を寄せてまいります。

 いちど 教条のごとく述べてみます。

 ☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 父なる神は 子なる神を生みたまうた。また父なる神は 人間を生みたまうことが出来る。父は この権能を 子なる神を生むとき 子なる神が 量的・質的な差なくして 持ちたまうように 授けた。
 父が子を生んだというのであるから 経験的な概念で言っても 父は子を愛したまうた。子を愛したまうたと同じように 人間を愛したまうた。そして父は子に 人間を愛する権能をも 十全に 欠けることなく 授けたまうた。

 父が子を生みたまうことと 愛したまうこととには 量的・質的な差異がないと考えられる。言いかえると 生みたまい得る存在ということは 愛したまう存在であることに等しく 父である権能は愛である能力と同じであり この愛は そしてほかの権能も残らず 十全に子である権能に与えられた。(ただし この与える・授かるに 時間の隔たりはなかった)。

 父が子を生みたまうたとき 何らの時間的なへだたりなくして そこに――つまり言いかえると 父から及び子から つまりさらにあるいは 父と子との交わりから――愛が 父や子と同じ存在・同じ力として 発出したまう。

 子の父は 父の子を および 両者のまじわりである愛を 人間の世界に 派遣されたと考えられる。子は 人間となって派遣された。つまり みづからを空しくされ 肉(身体および精神)となって現われたまうた。それは かれの神性を欠如させてではなく そのまま 父なる神の独り子なる神として現われたまうたと察せられる。(《人間であると同時に 神である存在》が――茶化して言えば 《現人神》なる存在が―― 地上に現われたまうた)。言いかえると 第三の愛なる神を発出したまう神として この地上にやって来たまうた。

 第二の子なる神が 人間となってやって来る前にも 父と子は 愛つまり言いかえるとこの第三の聖霊なる神を 同じくこの地上に派遣したまうたと考えられる。子なる神は これらの神のみ心を 人間の言葉で 告知したまうた。つまり 聖霊は 人間に派遣され 人間の肉に宿りたまうのであると。
 ところが 子なる神は人間となられたが 聖霊なる神は そうはならなかった。聖霊も子も 互いに等しい神であられるが 聖霊が 固有の意味で神の愛として 人間に与えられ人間の内に宿りたまうのであると。父も子も愛であるが 固有の意味では 人間にならなかった聖霊なる神が 愛であると捉えられる。
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 ☆ これは まづは次の疑問に答えようとしたものです。 
 ★ (No.3お礼欄)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 《三位一体》には、それぞれの位格を等しくする必然性がない、さらにいえば、等しくすべきではないと考えております。ここから、確認してまいりましょう。
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 ☆ あらためて 論理の問題として 議論をからませるなら。まづ
 ★ 必然性 あるいは べきである・ないという当為
 ☆ これは 人間の相対的で経験的な世界に属します。人間の判断によって 決めるものです。絶対というなぞの世界(?)には 通用しません。そういう想定です。逆に言うと 必然性や当為性の問題があったりすれば それは 絶対の世界ではありません。

 無神論でさえ この《絶対》という仮想じたいは 想定しています。そのあと 絶対とは無であると 仮りに 表現しておくというものです。
 有神論は そこに《神》と呼ぶあたかも存在をさらに想定します。しかも あれこれかれそれ観想をとおして この中身までをも 詮索しました。その暗示を与えたのが イエス・キリストです。その記録をもとに さらに 観想をたくましくして とうとう 《三位一体》説にまでたどり着いたというものです。
 ★ (No.5補足欄) 他のご回答は間違いなのでしょうか?
 ☆ 《絶対》の想定をあつかっていないという点で 《三位一体》を説明するものではありません。相対世界における人間の想像や理論としてなら 自由にどうとでも 論理的にも抒情としても 組み立てたりまとめたりして描くことが出来ます。
 上に述べた《観想》にしたところで けっきょくは 人間の描いた神学ですが 今度は その《絶対》の世界とそしてこの《経験世界》との 現実的なつながり しかも整合性をもったつながりを 説き明かすことが求められると思います。
 
 ほんとうは このような探究ともなれば 人間と世界とその歴史の全部が 三位一体の説き明かしにかかわっているわけですから 大海の水をバケツで汲み出すようなものでしょうけれど ぼちぼち まいりましょう。

 * ★(No.5補足欄) 図形的に捉えた場合、《三位一体》は、水平に横たわる正三角形になるのでしょうか?
 ☆ 神を観想するとき 《図形的に》何らかの表象が思い浮かぶことがあるかも知れません。ですが そのことと 神の実態がそうであることとは まったく別です。後者は なぞです。規定できません。
 もし仮りに何らかの図形で説明せよとなれば 全世界・全宇宙が かたちとして 三つあるとします。これらが互いに等しくて そのまま重なっているような描像は どうでしょうか?

 pokoperopo さん 投稿を受け容れてくださったようですので No.3&5に引き続き 回答を寄せてまいります。

 いちど 教条のごとく述べてみます。

 ☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 父なる神は 子なる神を生みたまうた。また父なる神は 人間を生みたまうことが出来る。父は この権能を 子なる神を生むとき 子なる神が 量的・質的な差なくして 持ちたまうように 授けた。
 父が子を生んだというのであるから 経験的な概念で言っても 父は子を愛したまうた...続きを読む


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