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こんばんは。


「罰せられないのが一番苦しい罰」みたいな言葉がありますが、
それは誰にでも、どのような状況にでも当てはまるのでしょうか?

過去の経験を思い出してみると、
たしかに当てはまるケースも多いと思うのですが、
中には「苦しそうに見えない人」も居ます。

たとえば、他者から無礼なことをされた場合、
「相手にするのも馬鹿らしい」等の理由から、
無礼なことをした人に罰を与えないケースは多いと思います。

そのような状況において、無礼なことをした人の多くは「苦しい」と感じると思います。

しかし、中には「苦しい」どころか、勝ち誇ったような態度を示す人も居ます。
(「相手にされていない」等という状況を理解できていない?)

そのような人であっても、「罰せられないのが一番苦しい罰」なのでしょうか?


また「罰せられないのが一番苦しい罰」は無条件で成立するのでしょうか?


宜しくお願い致します。

A 回答 (10件)

すこしずれるかと思いますが、このようなことがあります。

ある病気では、早期から痛覚が鈍麻してきます。患者はナイフの刃を握っても釘を踏んで怪我をしても痛くないので放置してしまいますが、その結果早晩手の指は欠け脚は先端が感染症などで脱落してしまいます。本人は大変惨めな思いをします。痛覚はいわば罰なのです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2009/07/16 23:39

 回答番号:No.8補足:


 回答番号:No.8で、〔★多くの場合、省みると、悔いの残る言動をしてきており、時に罰せられるべきであるにもかかわらず、〕と書きました。私たち人間って、実は完全な行為はできるようにはなっていませんでしょう。
 ですから、もし仮に神が(神から見ればみな全部、責任を負わせる、つまり罰するべき行為ではないでしょうか)そういう行為を全部そのときそのときに罰していたら、人間はどうなるのでしょう。
 神は罰するものではない。これが宇宙の原則なのでしょう。
 人はこの原則に合致し、それに対応して生きていくのでしょうね。
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この回答へのお礼

アドバイスありがとうございます。

お礼日時:2009/07/16 23:39

罰せられるということは罪を犯した代償を受けるということです。


これは犯した罪に対して償いができているという効果をもたらします。
ですから罪に苦しんでいる人からすれば罰せられることは償いをしているということで心の重荷は軽くなるでしょうね。
身近な例で言えば嘘ついていて心苦しい人がばれて怒られたらなぜかホッとする心境みたいなものでしょうか。

一方、罪を感じていない人には効果はないでしょうね。
もともと罪悪感がないのに罰も何もないでしょうから。
ばれた事に対して不満がでることはあるでしょうが。

また、自分の罪を自覚していない場合がありますね。
親が子供をしかることの効果の一つに罰で罪を認識させるというものがあります。子供は怒られてその行為が悪いことだったと認識するのです。

>罰せられないのが一番苦しい罰」は無条件で成立するのでしょうか?

ですからこれに対する回答はNOですね。
罰がなければ罪を認識できない人がいるわけですから。
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この回答へのお礼

アドバイスありがとうございます。

お礼日時:2009/07/16 23:39

 ☆ご質問者⇒「罰せられないのが一番苦しい罰」みたいな言葉がありますが、それは誰にでも、どのような状況にでも当てはまるのでしょうか?


 ★多くの場合、省みると、悔いの残る言動をしてきており、時に罰せられるべきであるにもかかわらず、罰せられないでいることもあります。罰せられる時期と罰せられる仕方が、自分の思いとずれていたと判ることもあり、判らないでいることもあります。つまり一部重複しますが、罰せられていても気づけないときもあります。それでも自分として思う罰せられ方がないことは、いつまでも心に残り続けます。

 ☆ご質問者⇒しかし、中には「苦しい」どころか、勝ち誇ったような態度を示す人も居ます。(「相手にされていない」等という状況を理解できていない?)そのような人であっても、「罰せられないのが一番苦しい罰」なのでしょうか?
 ★kaitara1さんの回答番号:No.7のご回答が示唆的と存じます。ご質問の文言の方は、自覚的には苦しくないでしょう。植物や岩石に自覚的参加とか自己の意識がないという事と通じると存じます。岩石や植物の意識になった記憶がないのですが、苦痛を感じないとすれば、苦痛の有無の問題ではないと存じます。

 ☆ご質問者⇒また「罰せられないのが一番苦しい罰」は無条件で成立するのでしょうか?
 ★時期と罰せられ方(態様)がずれても、為した行為の原因責任は果たされなければ、消滅することはないと存じます。罰せられる時期まで苦しまないということはありましょうが、それは自覚していないということかも知れませんし、或いはご質問の仰せの事は木石状況の意識を問題にする事柄ではないと存じます。
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>そのような人であっても、「罰せられないのが一番苦しい罰」なのでしょうか?


:そうではないように思います。
罰というのは、わかりやすく言えば悪いことをしたから与えられるものなのでしょうが、罰せられない場合、悪いことをしたという自覚自体を持たない人もいますから。
しかし、ではそういう人は苦しまないのかと言えば、それも違うでしょう。
そのような気づきが無いということは人間の関係性における無知を意味しますから、どこか他の場面で必ず苦しむことになると考えるのが自然です。

このような人がこのようなことに気づくのは、やはり何らかの意味で罪の意識を持った場合です。
自ら気づく場合もあるでしょうが、限りない回数を罰せられてやっと気づく場合も可能性として残されているでしょう。
その可能性を狭めるという意味では、
>「罰せられないのが一番苦しい罰」は無条件で成立する
:と言ってよいのかもしれません。

>たとえば、他者から無礼なことをされた場合、
「相手にするのも馬鹿らしい」等の理由から、
無礼なことをした人に罰を与えないケースは多いと思います。
:これは、「無礼」の基準が人それぞれ、という大きな問題が絡んでくるでしょうね。
人間は、理性だけではどうしようもない感情というものを持った生き物ですし、その感情は過去の経験によって、時には無意識的に脳に刻印された記憶によって左右されています。
これを自己分析し論理的に乗り越える作業ができる人はあまり多くはないでしょう。
罰を与えるという感覚は自己正当化が原点にあるわけですが、その判断自体が間違っている場合も往々にしてあるのだろうという気がします。
他者に対しては(自己に対してもですが)できることしかできませんし、人は誰もが自らのキャパシティを抱えています。
それを超えるようなことを自分に課したり、相手のそれを超えるような追い詰め方をするのは不毛のことです。
対手に対する想像力の限界ということも含めて、何事も強要は好ましくない、ということになるのかもしれません。
ちょっと横道に逸れたかもしれませんが、こんなところです。
 
 
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2009/07/16 23:39

こんばんはー。



下の方の回答と似てますが、
勝ち誇ったという態度の人の場合、そもそも相手にされたくないのじゃないかなと。
勝ち誇りたいー優位に立ちたいのであれば、相手にされる=対等扱いされるのは、多分不快です。

普通の人が赦されなくて苦しい場面で、その人がそうに見えないのは、元々苦しいからです。
その罪を許されない苦しさを上回る辛さを、あらかじめ持っている人が、多分そういう態度を取る可能性がある、と思います。
苦しさを、苦しさで帳消しにする、という感じは分かられるでしょうか?

苦しいからこそ、少しでも優位に立ったり優越感などで快感を得ないと、辛くてやってられない、という背景があります。
勝ち誇った笑みは、無意識にため込んだ辛さを、いくらかでも解消できた、その分楽になってうれしい、という笑みです。

苦しい気持ちを抑圧抑えつけて我慢して無意識に封じ込め、その辛さを前提にその上に、新たに人格を打ち立てたときに、そのあたらしい自分は、苦しさを紛らわせることばかり発想します。
苦しさは前提条件となり、変更できないと思いこんでるので、手を打つとしたら、自慢したり、お酒や薬だったり、暴力だったり、ということでしょうか。

たぶんでもこれを本人に聞いても無駄です。もう苦しいことははじき出して、彼の人格内には、なにも苦しいことは見あたらないですから。


なんでそんあまのじゃくかというと、理由は多々あると思いますが、心理学的な分析でそれは十分理解できると思います。


人の意識や、意識の管轄内の人格を対象にするなら、この言葉は成り立たないですが、
上の条件も含めて、つまり相手が無意識裏に気付かずに抱え込んでる苦しさも含めて考えるんだったら、「罰せられないのが一番苦しい」は、常に成り立ってると思いますし、だれにでも共通の心理だろうと思います。
なかなかシビアな・・・
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この回答へのお礼

アドバイスありがとうございます。

お礼日時:2009/07/16 23:39

あらゆる人間関係・社会関係の基礎には


呼びかけを聞いたら応答するという、最低限の関係があります。
呼びかけられた時、「応える」か「応えないか」の選択は、自由です。
無礼なことをして、相手が訴えかけて来たときでも
その呼びかけを、無視することもできます。
しかし これは、人間関係の基礎を、拒否したことになります。
他者からの呼びかけを、いっさい聞かないとするならば
他者が存在しないところに生きるしかなく
社会から自分自身を追放しなければならなくなります。
逆に、相手の訴えに応じて、罰を受け、償いをすることで
社会関係の中に自身を置き直すこと、と解釈できたとき
「罰せられないのが一番苦しい罰」と、なるのではないでしょうか。
このような人にとって、罰を受けるということは
社会から追放されることと、正反対の意味になるのだと思われます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2009/07/16 23:39

 「罰せられないのが一番苦しい罰」みたいな言葉があるとか。


 
 罰せられると罪滅ぼしをした、という気持ちになります。
 
 罰してもらって、罪滅ぼしをして許された、という気持ちになって、安堵するのが、凡人の心。
 
 「そうして許されたいのに、罰してくれない。このままではつらくてしょうがない。どんな罰でも受けるから許してくれ!!」

 凡人の心情とはこんなもの。

 でも、もっとハイレベルの回答をしてくれる人が現れるかもしれませんね。
 
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この回答へのお礼

アドバイスありがとうございました。

お礼日時:2009/07/16 23:39

また「罰せられないのが一番苦しい罰」は無条件で成立するのでしょうか?


この世では#1さんの回答どおりですね。

あの世では、無条件で成立します。 あの世の閻魔の前では誰も逃げられませんからね。この場合は、「知って犯した罪と知らずに犯した罪」に対する裁きと量刑は同じですが、知らずに犯した罪のほうが精神的落差が大きいのでより苦しいことになりますね。
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この回答へのお礼

アドバイスありがとうございました。

お礼日時:2009/07/16 23:39

専門家ではないですが意見させていただきます。


>「罰せられないのが一番苦しい罰」は無条件で成立するのでしょうか?
しないと思います。
それは罰とは罪の意識だからです。
罪の意識がない人にはびくともしません。

ちょうど呪いを信じないのと同じです。
呪いを信じない人には呪いはありません。
呪いを信じるから呪われるのです。
つまり呪いを信じない人に呪いがかかっても本人は「ついてない」の一言で片付けてしまうのです。

あなたの求めた回答と違っていたらすいません。
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この回答へのお礼

アドバイスありがとうございました。

お礼日時:2009/07/16 23:38

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