ある本によれば、1945年8月15日のアジア・太平洋戦争終結時、およそ700万の日本軍将兵が日本の内外に展開していた、と書いてあります。
別の本には、その当時、外地には330万余の将兵がいた、とされています。
算出根拠が異なっているとしても、内地には約半数の将兵がいたことになり、その多さに驚いています。
いったい、内地にはおよそ何人くらいいたのでしょうか。
近衛師団は分かりますが、どのような業務に従事していたのでしょうか、教えてください。

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A 回答 (3件)

 太平洋戦争での人的数字の統計に関しては、旧厚生省援護局が作成した物がやはり一番信頼できるものであるといえます。



 その援護局によれば、昭和19年11月時点での日本陸軍軍人総数は、現役147万9千人、応召260万人、在郷585万5千人(このうち応召不可の者が155万3千人)だったようです。このうちの現役と応召の合計407万9千人が陸軍在隊者となっており、そのうち南方や満洲などの外地(沖縄・小笠原を含む)を除くと本土・内地には86万8千人がいたことになります。

 大本営はこの数字を元に、徐々に悪化する戦局に備えて第1次から第3次までの「応急兵備」を整備することとし、とりあえず増加兵力として本土に150万人の兵力を手当てするという数字が、陸軍自体の有形無形の組織的再編とともに目標として挙げられました。この増加兵力には内地での充足ももちろんですが、外地部隊からの引き抜きも当然考えられていました。

 結果的に昭和20年8月15日現在での陸軍兵員数は、その部隊の実像や兵器類の装備の充足率を考えないとして、小笠原の1万5千人を含めて238万7700人が残っていたということになっています。この記録には沖縄の4万900人も記載されていますが、これは明らかに員数あわせというか、数字上だけでの存在だと考えるのが妥当です。因みに陸軍全体の総兵員数は約547万人ということになっています。

 これは陸軍総数の6割が外地に散らばっていたことになります。内地の部隊の装備の貧弱さや兵士の錬度の低さを考えれば、外地で過酷な戦闘に揉まれていたこれらの兵士が何割かでも帰国できていれば、本土決戦も多少は違ったシミュレーションが組み立てられていたかもしれませんが、すでにシーレーンがずたずたになっていたことを考えれば意味がないことかもしれません。

 話が飛んでしまいましたが、最後にこれらの部隊がどのような業務、あるいは役目を果たしたかということに関しては、はっきり言って語るべきものはないといっても過言ではありません。昭和20年1年間の動員数は300万人以上を数えましたが、これらのほとんどは文字通り机上の空論的な数字遊び以外の何物でもなく、実際に防衛線と名づけられた任地へ送られた少数の、いわゆる実戦部隊でさえ最初から肉弾攻撃以外は何も教えられなかった程度の状況でしたので、他の回答者の方たちの言われるように、その現状は推して知るべしといったところです。
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この回答へのお礼

詳しく教えて下さってありがとうございます。
陸軍についてはすっきりしました。
質問で示した「およそ七百万の日本軍将兵」の根拠は、吉川弘文館発行・吉田裕編『日本の時代史26』です。
また、「およそ七百万」については、次のサイトでも裏づけされていると思いますので、この数字と今回のKITAIKKI様のご回答を基に、海軍について調べてみます。

日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働者状態
http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rn/senji1/rnse …
適齢壮丁の徴集者に加えて、再度の召集者および長期の応召者による終戦時の兵力動員数は七一九万三千人に達した。

お礼日時:2009/05/22 14:04

そりゃ、根こそぎ動員すればです。

(^_^;)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%B9%E3%81%93% …

決号作戦
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%BA%E5%8F%B7% …

本土決戦
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%9C%9F% …

当時の関東地方の配置図が入手出来ないのが残念ですが、
鹿島灘~相模湾にかけて大規模にに配置されていました。
(第二線含む)

しかし、天皇には陸軍の言う程の兵力と武器弾薬などは存在しないと
言う正しい上奏があり、大局を見誤る事はありませんでした。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
このような数字は、調べれば調べるほどいろんな数字が出てきて、結局、掴みきれないということが分かりました。
Wikiの「決号作戦」によれば、内地に490万人いたことになります。
工業や農業従事者から主に動員して、毎日塹壕掘りや竹槍作りをしていたとは、驚きです。

お礼日時:2009/05/21 16:05

宍戸幸輔著「広島 軍司令部壊滅」(読売新聞社)によれば、20年秋までに本土防衛体制を確立するために5月まで3次にわたる増強計画を立てていたそうです。



既存兵力内地の10コ師団35万人にくわえ兵力150万人、兵站その他の諸部隊をあわせると200万人の増強計画で、合計およそ235万人が本土防衛にかり出される計画にあったと言います。

これらの新設師団は何をしていたかと言うと、一応編成後は各地で防備にあたることになっていました。

ただし、装備は全く足らない状態で、被服はとりあえず人数分あったとしても小銃は5人に一挺、弾薬も一挺当り60から90発、銃の支給のない兵隊は勤務として竹槍を作ったりしていたそうです。
手投げ弾もなく、仕方なく陶器で手投げ弾を作ったりもしていました。
陣地構築用のシャベルやつるはしも払底していたので近郊農家から借用ですませたり、農村出身の兵隊に特別休暇を与えて、実家や近隣から必ず器材を持参せよと言う命令?をだしたり、そういった状態でした。

と言うわけで、特に本土決戦用の新設部隊はまともな兵力とは言えるものではなかったと言うことのようです。
従事していた業務は、機材の調達や代用兵器の調達、作成(竹槍とか)訓練、などなどのようです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
「合計およそ235万人が本土防衛にかり出される計画にあったと言います。」
このような数字もあるのですね。
私が調べたところ、第一総軍、第二総軍合わせて225万人という数字もありますから、これに合致していると思います。
考えてみますと、敗戦直前に多くの書類を焼却し、残った書類も爆撃で燃えたり散逸したりしていますから、正確な数字が出てこないのは当然だと気づきました。

お礼日時:2009/05/21 16:04

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Q日本軍について

1900年代前半の日本軍について知りたいです。
つまり日本軍が東南アジアなどの国を占領していた時代の日本軍について聞きたいです。

1.旧日本軍について何も知らない人に旧日本軍のことを説明するとすれば
あなたならどう説明しますか?(基本的なことから詳しいことでもいいので。)

2.日本軍の勢力はアジアや世界の国々から見ればどう写っていたのか?

どちらか片方でもいいのでよろしくお願いします。

Aベストアンサー

とりあえず、思い出せる話を幾つか。


・日本は、イギリスの植民地だったミャンマー(当時はビルマ)
 を解放するため、南機関という組織を設立します。

 南機関はアウン・サン(スーチーさんの父親です)
 を中心としたタキン党の青年をビルマに送り込み、
 ビルマ独立義勇軍を結成します。

 太平洋戦争が始まると、ビルマ独立義勇軍はラングーンに
 進軍し、ビルマを解放させました。


・太平洋戦争がはじまると、日本軍はオランダの植民地
 だったインドネシアを占領します。

 そして軍政を敷きますが、それまでのオランダの愚民政策
 と異なり、行政にはインドネシア人を採用し、また
 インドネシア人に軍事訓練を施しました。

 太平洋戦争が終わると、オランダは再びインドネシアに
 軍を進め、インドネシアを植民地支配しようとします。

 しかし日本の軍政下で民族意識の高まったインドネシア人は、
 オランダに強く反発。ここにインドネシア独立戦争が
 始まります。

 独立戦争が始まった直後のインドネシアには、まだ
 引き上げ前の日本軍が残っていましたが、インドネシア人に
 強く同情した日本軍は、こっそりと武器弾薬を引き
 渡したり、あるいは日本軍の中から、義勇兵として
 独立戦争に参加する人も出てきました。(全部で二千人
 ほどいたと言われています)

 戦争の犠牲は大きかったですが、インドネシアは独立を
 達成し、現在に至っています。


※最近は書店でもあまり見なくなりましたが、『教科書が
 教えない歴史(1)~(4)』は、学校教科書で歪んだ
 歴史観を軌道修正するために、一度は読んだ方がいいですね。

参考URL:http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4594020402/qid=1100012479/sr=1-21/ref=sr_1_2_21/249-9607433-2251524

とりあえず、思い出せる話を幾つか。


・日本は、イギリスの植民地だったミャンマー(当時はビルマ)
 を解放するため、南機関という組織を設立します。

 南機関はアウン・サン(スーチーさんの父親です)
 を中心としたタキン党の青年をビルマに送り込み、
 ビルマ独立義勇軍を結成します。

 太平洋戦争が始まると、ビルマ独立義勇軍はラングーンに
 進軍し、ビルマを解放させました。


・太平洋戦争がはじまると、日本軍はオランダの植民地
 だったインドネシアを占領します。

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Q太平洋戦争で海に沈んだ将兵は、およそ何名くらい?

太平洋戦争で繰り広げられた海戦で、海に沈んだ将兵の人数は、世界でおよそ何人くらいいたのでしょうか。

また、そのうち、日本海軍将兵の人数は、およそ(海上での死者数が)30万人とみて良いでしょうか?

人数を計算しようと色々なキーワードでグーグル検索してみましたが、入れるキーワードがよくないのか、いまいち数えられませんでした。
どなたかご存知の方が居たらお願いします。

Aベストアンサー

具体的な数字は忘れてしまいましたが、日本軍の総死者数300万のうち、最も多い死因が「餓死」と「水没死」だったそうですから、30万よりははるかに多いのではないかと思います。
(ただし輸送船なども含まれるので陸軍の数もまざってしまいますが)
参考URLの本には、具体的な数字が載っていた記憶あがありますので、図書館にでもあればご参考になさってください。

参考URL:http://books.yahoo.co.jp/book_detail/30868332

Q旧日本軍の従軍慰安婦は遊女だった?日本人は本気で戦

旧日本軍の従軍慰安婦は遊女だった?日本人は本気で戦争時に現地人の女性を拉致って強姦していないと本気で思っているのだろうか?

いち旧日本軍の兵士が強姦したら、いち個人の責任なので旧日本軍に責任はないと平気で言える神経がわからない。いち旧日本軍兵士の強姦は旧日本軍の責任では?

日本人は本気で戦争中に強姦がなかったと思っているのでしょうか?

Aベストアンサー

今の時代の戦争中に強姦は珍しいでしょうが、一昔前の戦争中に強姦は当たり前でしたからね。

まったくなかったとは大多数の日本人の皆さんは思ってないですよ。

ただ私が思うのはいつまで従軍慰安婦問題を韓国は誇張して言い続けアメリカなどもその主張を肯定したりしているのかとゆう所ですね。

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それを今更、引っ張り出し誇張して主張する事はただの嫌がらせ、チンピラのゆすりのようなものです。

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Q師団兵務部長と師団司令部附少将

以前どこかで師団の兵事事務を統括する職務を師団司令部附の少将が担当していたが、後にそれを兵務部長としてポストを新設したって読んだ気がします。

 兵務部創設のくだりが掲載されていそうな書籍を教えて下さい。

Aベストアンサー

『陸軍成規類聚研究資料』松本 一郎 森松 俊夫 編 2009年 緑蔭書房

 の「師団司令部各部の変遷」に「兵務部」に関する記載があります。一部引用しますと、

>兵務部の前身は師団司令部附少将の設置とす。最初に師団司令部附少将を設けたるは大正八年第一、第四師団司令部に対して行われたるときであった。当時その任務に関し次の如く規定された。師団司令部附少将ハ師団長ノ命ヲ承ケ主トシテ徴兵簡閲点呼勤務演習及在郷軍人ノ監督ニ関スル業務ヲ掌ル次いで翌大正九年に至りその他の一般師団にも設置せされた。その趣旨は徴集人員在郷軍人の増加並びに社会の進運に伴い国軍のため最も重要なる業務の一たる兵事業務特に徴兵在郷軍人の教育指導を適切完全ならしむるにあり。而してこの種業務は各師管ごとにこれを統一して指導する必要あるを以てその統括機関して司令部附き少将以下の人員の特に増加せられたるものなり。その後久しきに亘り本制度を持続せられたるもこの間参謀部及び副官部との間の権限争い師団長衛戍司令官の代理権の有無その他任務の不明確に基因する紛争少なからざりき。然れども昭和十六年に至り陸軍兵務部令を制定して司令部附少将以下を之に吸収しその組織権限を明定せられた為、従来の紛争に終止符を打つことを得た。(以下略

『陸軍成規類聚研究資料』松本 一郎 森松 俊夫 編 2009年 緑蔭書房

 の「師団司令部各部の変遷」に「兵務部」に関する記載があります。一部引用しますと、

>兵務部の前身は師団司令部附少将の設置とす。最初に師団司令部附少将を設けたるは大正八年第一、第四師団司令部に対して行われたるときであった。当時その任務に関し次の如く規定された。師団司令部附少将ハ師団長ノ命ヲ承ケ主トシテ徴兵簡閲点呼勤務演習及在郷軍人ノ監督ニ関スル業務ヲ掌ル次いで翌大正九年に至りその他の一般師団にも設置せされ...続きを読む

Q『旧日本軍』って???

テレビなどで「旧日本軍」という言い方をすることがありますが、日本軍に旧も新もあるんですか?
もしかして、自衛隊のことを「現日本軍」と言いたいんでしょうか?

Aベストアンサー

はい、現在の日本には軍隊がないことになっています。(実際に自衛隊を軍隊とみるかどうかは別のことですが)ですから日本軍とは全て「旧」がつきますよね。
今はないが昔あったものには「旧」使いますよね。
言い換えれば「当時の」という意味で考えるとわかりやすいと思います。

「旧ソ連」「旧東ドイツ」「旧満州」・・・

Q日本陸軍第11師団(第55師団)

四国の第11師団(第55師団)は、軍備更改計画では、師団司令部、特科部隊の衛戍地は善通寺です。
歩兵第12連隊も善通寺です。
日清戦争時の歩兵第10旅団、歩兵第12連隊は、丸亀が編成地、衛戍地です。
日露戦争時では、第11師団までも、丸亀、善通寺とする資料が混在し、歩兵第10旅団、歩兵第12連隊も混在します。
昭和になっても、丸亀には連隊区司令部、練兵場が所在した資料があります。
ちなみに、ウィキでは、歩兵第12連隊が、明治44年に丸亀に移駐となっています。
昭和7年の国防大辞典の常備団隊配備表によると、歩兵第12連隊が丸亀。
歩兵第10旅団、特科部隊が善通寺となっています。
太平洋戦争開戦時の第55師団では、第55歩兵団、歩兵第112連隊の衛戍地が、丸亀、善通寺とする資料が混在します。

この四国師団の流れの本当のところは、どうなのでしょうか?
アジア太平洋~を見ても、イマイチ見つかりません。
戦史叢書にも見つかりません。

教えて下さい。
よろしくお願いします。

戦史資料室へ行けは、お断り。

Aベストアンサー

 『陸軍常備団隊配備表』『軍編合竝配置表』によって衛戍地の変遷をしめしますと、

1)明治29年3月16日 送乙第963号

 第11師団 司令部:丸亀 

       歩兵第22旅団:丸亀  歩兵第12連隊:丸亀 歩兵第43連隊:丸亀

       歩兵第10旅団:松山  歩兵第22連隊:松山 歩兵第44連隊:松山


2)明治40年9月18日 軍令陸第4号

 第11師団 司令部:善通寺 

       歩兵第22旅団:善通寺 歩兵第43連隊:善通寺 歩兵第44連隊:高知

       歩兵第10旅団:徳島 歩兵第12連隊:丸亀 歩兵第62連隊:徳島


3)大正11年9月23日 軍令陸第10号

 第11師団 司令部:善通寺 

       歩兵第22旅団:善通寺 歩兵第43連隊:善通寺 歩兵第44連隊:高知

       歩兵第10旅団:徳島 歩兵第12連隊:丸亀 歩兵第62連隊:徳島


4)大正14年3月27日 軍令陸第1号

 第11師団 司令部:善通寺 

       歩兵第22旅団:徳島 歩兵第43連隊:徳島 歩兵第44連隊:高知

       歩兵第10旅団:善通寺 歩兵第12連隊:善通寺 歩兵第22連隊:松山


5)昭和15年7月10日 軍令陸乙第19号「中部軍編合竝配置表」

 第55師団 司令部:善通寺 

       第55歩兵団司令部:善通寺 

       歩兵第112連隊:善通寺 

       歩兵第143連隊:徳島

       歩兵第144連隊:高知

 
 付け加えますと、団隊の衛戍地が移転することは特異なことではありませんでした。 

 ついで、団隊の衛戍地移転に関して完了できない部隊は、表規定外の衛戍地に在ることを得とされました。丸亀の場合、支那事変中から部隊を編成補充していたため、太平洋戦争中も補充業務をしていました。


7)第55師団留守部隊 特臨編第8号 「陸軍部隊調査表其一」

 留守第55師団 司令部:善通寺

         歩兵第112連隊補充隊:丸亀

         歩兵第143連隊補充隊:徳島

         歩兵第144連隊補充隊:高知


8)善通寺師管区部隊 軍令陸甲第34号 のち四国軍管区部隊 

  善通寺師管区司令部:善通寺      

        善通寺師管区歩兵第1補充隊:丸亀

        善通寺師管区歩兵第2補充隊:徳島

        善通寺師管区歩兵第3補充隊:高知

 

 また、丸亀連隊区司令部は、昭和16年4月に高松連隊区司令部と改称されましたが、これも引き続き同地区から徴集業務を継続しています。

  

       

 

 『陸軍常備団隊配備表』『軍編合竝配置表』によって衛戍地の変遷をしめしますと、

1)明治29年3月16日 送乙第963号

 第11師団 司令部:丸亀 

       歩兵第22旅団:丸亀  歩兵第12連隊:丸亀 歩兵第43連隊:丸亀

       歩兵第10旅団:松山  歩兵第22連隊:松山 歩兵第44連隊:松山


2)明治40年9月18日 軍令陸第4号

 第11師団 司令部:善通寺 

       歩兵第22旅団:善通寺 歩兵第43連隊:善通寺 歩兵第44連隊:高知

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Qなぜ第二次世界大戦時にアメリカ軍は日本軍の暗号通信

なぜ第二次世界大戦時にアメリカ軍は日本軍の暗号通信を解読出来ていたのにハワイのパールハーバーの奇襲攻撃を許したのでしょう?

日本軍がハワイのパールハーバーを攻撃することは,アメリカ軍は知っていたはずですよね?

アメリカ軍は日本軍にパールハーバーを攻撃させて,自国で開発していた核爆弾を実戦で使ってみたかった。

だから日本軍にパールハーバーの攻撃を許して,自国の離島民を殺すのと引き換えに核兵器の実験ではなく実際に使う口実を作った。

違いますか?

なぜ日本軍の秘密暗号を解読していたアメリカ軍がパールハーバーだけ攻撃されるようなヘマをしたのか謎です。

Aベストアンサー

 1941年当時、米国は日本軍の暗号解読に成功していません。
 米国が暗号解読に成功していたのは日本の外務省の通信暗号です(ちなみに、日本も米国の外交通信暗号の解読には成功していました)。

 また、「米国はパールハーバーが攻撃をされることを知っていた」というのは語弊があります。
 米軍は通信信号の傍受(信号の内容を解読できてはいなかったが、どの地点からどれだけの通信電波が発信されているかは探知できていた)から、日本海軍が千島列島に集結しているらしいということを察知(日本軍はほかの軍港から通信電波を盛んに発してそこに艦隊がいるように偽装し、単冠湾に集結していた軍艦は完全に電波封止していたが、フィリピンや中国大陸にある通信傍受施設の測定誤差範囲に両方の地点が入っていたため、偶然にも日本の偽装電波の発信源が単冠湾であると誤って断定してしまった)し、「少なくとも空母1個戦隊(空母2隻以上)の艦隊が北太平洋に出撃したまま行方不明である」と分析していただけです。
 その分析結果から「パールハーバーが奇襲を受ける可能性がある」という危機感を抱き、12月6日までの一週間は警戒態勢をとるように太平洋艦隊に命令が出されていました(パールハーバー攻撃は偶然にもその翌日だった)。
 米軍がパールハーバー奇襲について「知って」いたのは、それだけです。具体的に「12月8日の早朝に大規模な空襲が行われ、停泊中の太平洋艦隊が壊滅する」とまで知っていたわけではないのです。

 そして、開戦直前に日本の暗号を解読して攻撃の1時間前には日本が開戦に踏み切ることを米政府は知りますが、それは日本の外交暗号(日本政府から駐米日本大使館へ送られた対米宣戦布告の文面)を解読したものであって、日本軍の暗号を解読して作戦内容を知っていたというあなたの理解とはだいぶ違います。


>アメリカ軍は日本軍にパールハーバーを攻撃させて,自国で開発していた核爆弾を実戦で使ってみたかった。
>だから日本軍にパールハーバーの攻撃を許して,自国の離島民を殺すのと引き換えに核兵器の実験ではなく実際に使う口実を作った。
>違いますか?

 全然違います。
 開戦当時、原爆はその製造の可能性を検討されていた段階です。核分裂兵器の開発が決定されたのは1941年12月18日のことであり、真珠湾攻撃よりも10日も後のことです。
 さらに、原爆開発のための組織であるマンハッタン工兵管区が立ち上げられたのは翌年のことです。
 原爆を使いたいがために真珠湾攻撃を許したというのは、時系列的につじつまが合いません。
 謎があるとすれば、なぜちょっと調べればわかるような矛盾に満ちた陰謀論を簡単に信じてしまうあなたの思考の仕組みのほうです。

 1941年当時、米国は日本軍の暗号解読に成功していません。
 米国が暗号解読に成功していたのは日本の外務省の通信暗号です(ちなみに、日本も米国の外交通信暗号の解読には成功していました)。

 また、「米国はパールハーバーが攻撃をされることを知っていた」というのは語弊があります。
 米軍は通信信号の傍受(信号の内容を解読できてはいなかったが、どの地点からどれだけの通信電波が発信されているかは探知できていた)から、日本海軍が千島列島に集結しているらしいということを察知(日本軍はほか...続きを読む

Q陸軍姫路39師団もしくは第10師団で

終戦後にシベリア抑留された部隊を教えて下さい
私の亡き祖父は父が言うには39連隊にいたと言いますが39連隊は南方で終戦を迎えたとwikiにあり違うと思いました
39師団も一部連隊がwikiでは南方に出撃したとあり最後まで満州に残り終戦後にシベリア抑留された部隊が把握できませんでした
父の記憶も曖昧で詳しい情報が解らず困ってます
でも確かに祖父は抑留されたと平成3年に慰労彰状が届いて今も認知症を患った祖母の暮らす家にあり一体どの文献が正しいのか解りません
今年で戦後69年当時を知る人が身近におらず誰から聞いていいのかも解りません
まだ私は30歳で語り継ぎ部として未来に伝えたくせめて祖父の経験した戦争だけでも知っておきたいです
詳細が解る人は是非教えて下さい、よろしくお願いします

Aベストアンサー

> 防衛省の問い合わせ電話番号など

部隊の異動については、防衛省の防衛研究所が最も詳しいです。
http://www.nids.go.jp/
HP最下段に電話番号があります。ただし、個人単位では資料が膨大になりすぎていて、回答が困難だと思われますから、部隊が判明してからの方がよいでしょう。


どの部隊かは軍歴証明書で良いのかな? と思いますが、終戦時に本籍のあった都道府県の社会福祉担当の部署で発行してもらえます(大抵の都道府県では恩給担当の部署になると思います)。終戦時に本籍がどこにあったかが分からないとそれ以上は調べられません。

ただし、個人情報にもなるので電話ではほとんど答えてもらえないように思いますし、所属部隊がどこにいたのかは書かれていないと思われます。
本人が亡くなっていても取れるのかどうかは自信がありませんが。


他の手段として戦友会に問い合わせてみるという方法もあるようですが、こちらもどの部隊かはっきりしないと何ともいえません。

Q硫黄島の日本軍の戦法について

硫黄島では日本軍が無数のトンネルを掘ってアメリカ軍とたたかって

日本軍以上の死傷者を出したことで有名になりましたが、その戦法は

ベトナム戦争などの弱小国の戦法にいかされていたって本当でしょう

か?この戦法は日本軍が考案したものなんでしょうか?

Aベストアンサー

> 硫黄島では日本軍が無数のトンネルを掘ってアメリカ軍とたたかって日本軍以上の死傷者を出したことで有名になりました

 硫黄島の戦いが、戦史上注目されるのは、制海空権を完全に失った側が、相手に自軍以上の損害を与えた、という点にあります。

 その観点から言うと、回答者No.1の方が指摘されるのは完全な誤りであって、アメリカ軍の場合は、制海空権をえたうえで負傷者を救護することが可能だったために死亡までに至らなかったのであって、日本軍の場合はそれが出来なかったゆえに死亡した、というのが事実です。したがってそもそも戦死者数だけを比較するのは意味がありません。

>その戦法はベトナム戦争などの弱小国の戦法にいかされていたって本当でしょうか?

 ヴェトナム人が、硫黄島の日本軍の戦訓を知っていた、という証拠がない以上、直接的な関係はない、といえます。

>この戦法は日本軍が考案したものなんでしょうか?

 硫黄島の日本軍の戦法は「籠城戦」の象徴のように捉えられています。古今東西の戦史をみるかぎり、いわゆる「籠城戦」という戦法はそう珍しい物ではありません。興味がおありならば、いちど本格的に調べられてはいかがでしょう?

 しかし、栗林中将の考えた戦法の最大の特徴は、古典的な「籠城戦」といよりも「トラップ」(罠)に近い発想であって、陣地を完全に隠匿し、上陸軍が島の内陸部に侵入した時点で、一挙に殲滅するというものでした。ところが、アメリカの上陸舟艇群をみた擂鉢山の日本軍砲兵部隊が我慢できずに砲撃したために所在を明かしてしまい、本来の計画が崩壊してしまったのでした。

 それから、日本軍とヴェトナム戦争の大きな違いは、日本軍は正規軍であったのにたいして、ヴェトナムのばあいは「民族解放戦線」(ベトコン)と称する民間人によるゲリラ戦術であった点です。ベトコンは農村に浸透して様々な隠れトンネルを作り、武器を隠匿したり、直接戦闘に利用しました。そのため、アメリカ軍および南ヴェトナム軍は、疑わしい村を焼き払い、容疑者をかたっぱし射殺することで応じるしか対処できませんでした。そのために無実の農民が犠牲者となったのでした。ゲリラ戦術が国際的に禁止されているのはこういう無関係の犠牲が多く生まれることによっています。少なくとも硫黄島の戦闘において、日本軍は正規の軍隊として戦っており、ヴェトナムそのほかのゲリラ戦術とは明らかに異なっている、ということを述べておきます。

> 硫黄島では日本軍が無数のトンネルを掘ってアメリカ軍とたたかって日本軍以上の死傷者を出したことで有名になりました

 硫黄島の戦いが、戦史上注目されるのは、制海空権を完全に失った側が、相手に自軍以上の損害を与えた、という点にあります。

 その観点から言うと、回答者No.1の方が指摘されるのは完全な誤りであって、アメリカ軍の場合は、制海空権をえたうえで負傷者を救護することが可能だったために死亡までに至らなかったのであって、日本軍の場合はそれが出来なかったゆえに死亡した、とい...続きを読む

Q冷戦の終結について アメリカとロシア間の冷戦は1989年に終結しましたが、勝敗はどのようになっている

冷戦の終結について
アメリカとロシア間の冷戦は1989年に終結しましたが、勝敗はどのようになっているのでしょうか?
ソ連が崩壊し、ロシアの国力の低下と衰退が進んでいったため、勝者を決めるのなら西側のアメリカだと思うのですが、まず勝敗を決めること自体が好ましくないのでしょうか
また、冷戦終結の一番の原因も教えてもらえると嬉しいです

Aベストアンサー

勝敗はどのようになっているのでしょうか?
  ↑
冷戦は、資本主義と社会主義の戦いです。
そして、ソ連が崩壊し、ロシアとなって
社会主義を捨てました。
だから、ソ連の負けです。


まず勝敗を決めること自体が好ましくないのでしょうか
   ↑
そんなことはありません。
社会主義は間違った思想だ、ということを明確にする
ということは好ましいことです。
社会主義が産んだのは、独裁と貧困と自国民の大逆殺
でした。



冷戦終結の一番の原因も教えてもらえると嬉しいです
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国家の要は経済です。
社会主義ではその経済が成り立たなくなったのが
一番の原因です。
その欠陥を米国レーガン政権が軍拡競争で攻撃して、見事ソ連を
崩壊させたわけです。

どうして社会主義経済はダメだったのか。
知的エリートが集まって計画を建て、それに従った
経済活動をやれば理想的な国になれる、と考えたのが
傲慢でした。
そんなことは人間の手に余ることだったのです。

自然の成り行きに任せる資本主義経済の方が
優れていたのです。


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