中世ヨーロッパの城の建設期間が知りたいです。
用途や規模、増改築などで差があるとは思いますが大体何年ぐらいかかる物なのでしょうか?
この城は何年かかった等でもいいです。
よろしくお願いします。

A 回答 (1件)

 モット・アンド・ベーリー型(城と砦の中間みたいな存在ですが…。

)の城だと8日で建造した例も有ります。
   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%83% …

 「女王陛下の宮殿にして要塞」と呼ばれるロンドン塔(スクエア・キープ型)は1078年に建造を始め、本体が完成するまでに20年位かかっています。(しかし全体の完成は1216年即位のヘンリー3世の時代まで…。)
   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%B3% …

 シリアにあり、「騎士の砦」の名を冠するクラック・デ・シュヴァリエ(コンセントリック型の城)は1144年に聖ヨハネ騎士団に譲られ、1170年にはほぼ完成しています。
 (ただし途中に戦闘がありました…。)
   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%A9% …

 石造りの城はやっぱり数十年単位の時間がかかるようです…。
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この回答へのお礼

やはり数十年ですか。
参考になりました。
ありがとうございました。

お礼日時:2009/06/01 01:54

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Qお城の建設費や工期はどのくらい?

お城の建設費や工期はどのくらい?


仮に日本でお城を作るとしたらどのくらいでしょうか。

日本の城ではなくヨーロッパの古城のイメージです。


数十億で済むのか、数百億はかかるのか

規模にもよるでしょうが

たとえば都心から1時間圏内でルパンの「カリオストロの城」みたいな

Aベストアンサー

法的にS造、RC造でないと許可が下りないので、構造は決まってきますね。
後は外側に石などを貼っていく感じになるのかな、規模、仕様によるけど
カリオストロの城なら、ざっと一千億以上 工期は五年から十年はかかるでしょうね。

勿論これはざっとした話ですよ。厳密な話になれば、工費工期とも増減します。 

Q秀吉が作ったと言われている「一夜城」について

今、PSソフトの「太閤立志伝2」をやっていて、ふと疑問に思ったのですが…。

木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が織田信長に命じられ、「一夜城」とも言われる「墨俣城」を蜂須賀小六らと建設したのは有名な話ですが、これについて詳しく知りたいと思いました。

どうも私は検索が下手で「これだ!」というのに、うまいこと巡り会えません。

1)墨俣城を作るまでの歴史的背景
2)実際の建設までにかかった日数、人員。また関わった武将
3)どのような方法で、建設中の城を隠していたのか?
4)墨俣城の主な役割

など知りたいのですが、詳しい方はおいででしょうか?
1つでもお答えいただければ幸いです。
どうぞ、宜しくお願いいたします。

Aベストアンサー

元々美濃は土岐氏という守護の治める国でした。土岐氏は室町幕府の重臣です。それを斎藤道三が乗っ取りました。
また、織田信長は城代家老の織田本家を潰そうとしてました。

そこで、少しでも外敵の心配を無くすために手を結びました。織田家は北に斎藤道三、東に今川義元、内に他の織田家と敵を多く抱えてましたから。
そこで内の他の織田家を抑えるためにも斎藤道三と同盟を組んだのです。

最初はお互いに割り切った不可侵同盟だったのですが、お互いに顔を合わせてからは、お互いを認める仲になりました。

また斎藤道三の息子の義龍は斎藤道三の息子ではなくて土岐氏の血を受けづいてるという噂が流れました。
真偽の程は判りませんが、義龍は信じました。そして道三を親として接しませんでした。
また道三も義龍を疎んじました。

そして道三は美濃を信長に譲るという遺言を書きます。
つまり信長を息子のように思ってたのです。

そして道三と義龍が戦を起こし、義龍が勝ちます。そのとき、信長はいち早く援軍を送ります。信長も道三を親のように思ってたのでしょう。
しかし、道三も信長と義龍がぶつかるのは時期尚早と見て、勝てないとみるやいなや、信長の軍が来る前に早々に自害して果てました。
こうして信長は美濃を攻める大義名分を得たのです。この時代、大義名分は重要でしたからね。

また、美濃は非常に作物が多く取れる実りの多き国です。
美濃の名前もそこから来ています。

そして交通の要衝でもあります。
後に有名になる関ヶ原は北に北陸街道、南に伊勢街道、東西に中仙道と主要な街道が交わる重要な土地です。
ですから、天下取りを目指す信長にはぜひ手に入れたい国なのです。

そして義龍の代になっても攻めきれなかったのは義龍の力ではなく、美濃の国人の力です。
この頃の大名は完全な主従の関係ではなく、国人たちと契約を交わしてるだけにすぎません。
結構気を使わなければ上手くやっていけなかったようです。
信長が子飼いの部下(その代表が秀吉)を大事にしたのはそういう気苦労を避けるためです。

さて、道三が亡くなってからはこの国人たちを自分の陣営に引き込むための工作が水面下で行われていました。
しかし義龍は元の主君である土岐氏の血を引くと皆が信じていたし、本人もそう宣伝していたので結束は意外と高かったのです。
しかし龍興の時代になって、徐々に国人との信頼関係が揺らいできます。

蜂須賀小六というのはそんな国人の頭の1人です。ですから、小六にならって信長についた国人も一夜城築城には関わっていると思われます。

そして人数ですが、それは正式な記録がないのでなんとも言えません。

さて、墨俣に城を築く理由ですが、これも交通の要だからです。
墨俣は稲葉山(今の金華山)のふもとを流れる川の三角州です。
また稲葉山城のような山城は戦時中にこもるだけの城で平時はふもとに住んでいます。そして篭城に備えて食料をためています。

篭城戦は根競べです。大きな城を攻めるときは攻め手が食料がなくなって引き上げるということもあるのです。
普通は篭城は援軍の当てがあって初めて篭城できるといわれ、援軍の当てのない時は攻め手に有利な戦いに見えますが、実は攻め手にも不安要素はあるのです。野営では常に敵の攻撃を恐れているので兵の消耗が激しいです。しかし城があれば見張りを除いてゆっくりと寝る事が出来ます。
また、川の脇にあるということで、城への補給を断つことも出来ます。
こういう山城では川は重要な補給路になるからです。夜の闇にまぎれて船を出せば補給が可能ですからね。

そして城側への心理的な影響もあります。目の前に城を作られた。これは自分の国が滅びる不安をかきたてます。この頃の戦は士気を無くした方の負けです。死者はそんなに出ず、1割の兵が死んだら大敗と言われます。

そこで信長は柴田勝家らに命令して城を作らせましたが失敗に終わりました。そこで秀吉が名乗りを挙げました。
城の作成は他の方が答えたように上流からいかだを組んでもって来ました。
上流の地理に詳しい蜂須賀小六がいたからこその計画です。上流には木曾杉と言うよい木材の産地があったのです。そして小六の案内で、やすやすと敵国に侵入し木材を切ることが出来ました。

そして他の家臣たちに出来なかった墨俣城を築城できたことで秀吉の名は織田家・その家臣の間にに知れ渡り、それから出世街道をひた走るのです。

そして墨俣に城が出来たことで美濃側に動揺が走りました。

上記で書いたように国人は大名と完全な主従の関係ではありません。となると新しい国主になりそうな信長に傾くのは当然の帰結です。
極端な話、彼らは自分の領土を安堵してくれれば国主が誰でも構わないのです。
そして美濃三人衆と呼ばれる稲葉一鉄(良通)、安藤守就、氏家卜全(直元)の3人を味方に引き入れ、さらに竹中半兵衛(重治)を秀吉がくどき落としました。
この美濃三人衆は有力国人で、3人が団結すれば国主(この場合は斎藤家)も逆らえないほどの力を持っていました。

そして、ここが攻め時と判断しやっと稲葉山城を攻め落とすのです。

このとき龍興は越前の朝倉氏の下へ逃げ込みました。

また秀吉は一夜城が得意で、小田原攻めの時も一夜城を作っています。
もっとも、この一夜城は森の中に城を作って完成してから城との間の木を伐採して城から見るとあたかも一夜で出来たように思わせる心理的な作戦でしたが。

元々美濃は土岐氏という守護の治める国でした。土岐氏は室町幕府の重臣です。それを斎藤道三が乗っ取りました。
また、織田信長は城代家老の織田本家を潰そうとしてました。

そこで、少しでも外敵の心配を無くすために手を結びました。織田家は北に斎藤道三、東に今川義元、内に他の織田家と敵を多く抱えてましたから。
そこで内の他の織田家を抑えるためにも斎藤道三と同盟を組んだのです。

最初はお互いに割り切った不可侵同盟だったのですが、お互いに顔を合わせてからは、お互いを認める仲になりまし...続きを読む

Q戦国時代の馬の速さを知りたいです。

サラブレッドと違い、当時は小型(ポニー)というのは有名ですが、実際、速度はどれ位まで出たのでしょうか?

鎧をつけた人間が乗ると、速度も落ちると思いますが、通常の状態でどのくらいまで走れたのか、情報お待ちしています。

Aベストアンサー

秀吉の中国大返しは、6/6(当然旧暦)に始まり、6/10尼崎着で、一日約40kmの移動です。これは徒歩の兵士に合わせた移動スピードです。馬にとってはつらい移動でもないでしょう。

当時の馬に一番近い馬体は、木曾駒だそうです。小型で足の太いズングリムックリ型の馬型で、モンゴル馬とも全く異なります。従って最速でも30km/hはやっとで、何キロも走られるとは思えません。日頃TVや映画で見る騎馬シーンとは全く違っていたようです。八代将軍の吉宗は、長身であった為、足が地に着きそうであったとの伝聞もある位です。

秀吉は若き頃、信長の野駆けに走って従った様です。特別足が速かったとの伝承はないので、10~15km/h位のところがいいとこでしょう。伝説の武田騎馬隊も、世界水準よりまるで劣っていたようです。こんな訳で日露戦争当時もまだコサック騎兵に遠く及ばず、後方かく乱と斥候、伝令にしか使用されなかったようです。


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