まづ 《ていねい語》は 別とします。(次の意味あいから その理由は 自明になると思います)。

 ▲ (ヰキぺ:敬語) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%AC%E8%AA%9E

 敬語は、
 ○ 言葉で表現する主体(書き手、話し手など)と
 ○ 客体(読み手、聞き手)や その話題中の対象となる人との
 ○ 上下関係、
 〔あるいは〕
 ○ 話題中の人物同士の上下関係
 などを言葉の内に表現するために用いられる語法。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ とあります。考えるに おそらく 別の側面があると思われます。
 ○ 社会的な上下関係にかかわりなく 相手や人をうやまうゆえに 語法において その心を示そうとして 表現を形成する。
 ☆ そこで 質問です。

 【Q:敬語は (A) 上下関係が社会身分として成ったから 出来たのか。それとも (B) はじめに 人びとの間で 互いにうやまう気持ちを表わそうとして 出来たのか】

 ☆ もし (A)であれば 敬語は 要らないと思います。結果としてでも 上の者が 下の者に そういう表現形式を使うようにと 押しつけたものだと考えられるからです。
 果たして どうなんでしょう? 

 * 質問者じしんの考えをも述べます。(1) じつは あいまいです。
 (2) 分かっていることは 仮りに(B)の場合が 歴史的な事実だとした場合 それでも (A)のような使い方は あまり愉快ではないと感じます。
 (3) 尊敬するかしないかが決まっていなくても 一般に―― 一般に―― 敬語という語法を用い合うことによって コミュニケーションが 障りなく実り多く 進められるのなら そのほうがよいではないかという議論があるかと思います。ということは 敬語という語法がなければ 社会の人間関係は 滞りなく 進むことは むつかしいということでしょうか? 
 (4) だとすれば それは 尊敬語というよりは 最初に挙げた《ていねい語》という語法ではないでしょうか? 表現にあたって その内容および形式(語の選びや文の形態)を みづからのためにも 相手のためにも より良く形成しようと つとめる語法です。
 おしえてください。

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A 回答 (3件)

 「敬」という字は会意文字ですよね。

確か、図らずも羊の角に触れて、はっと驚くような意味合いだったと思いますが、そういう意味の文字を当てている以上、相手を敬う言葉としての意味よりも「敬」という文字の意味が先立つのではないでしょうか。
 こういうのって、ブラジュロンヌさんの方が詳しそうですが。

 ある程度の年齢以上の方(七十歳くらい以上)ならきっと、「敬」という字は人が屈んだ姿勢を現わす文字だという理解があると思います。
 では、なぜ屈むのか? 
 それを三十代くらいの人に聞いてみると、「それは相手より頭を低くすることで、相手を敬う自分の態度を現わすからじゃないか」という返事が多いんじゃないでしょうか。
 質問は、これって本当の意味なのか? と理解して以下に答えてみます。

 単刀直入に言えば、相手が「敬語」を口にしたとき、きっと心のどこかで相手は避けようとしているんだと思います。うまく身をかわして羊の角を避けたいのだと、こう判断したんだと思うんですね。
 その判断は、この相手とはむやみに言葉を交わしてはならない――そういう心理に裏付けられている。意識してか、無意識かはわからない。けれど、敬語ってそういうものだと僕は思います。
 
 どうしたんですか、ブラジュロンヌさん。どこかで、敬語を口にされた?
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この回答へのお礼

 ri_rong さん お久し振りですね。ご回答をありがとうございます。

 漢字や語源(字源)から 説き起こすのは 中村元の専売特許かと思っていたら お使いになるのですね。やや 皮肉交じりです。中村のばあい あまり成功していないように思っていたものですから。
 さて なるほど 《敬》の字源は 藤堂と白川とで 説が分かれていますね。
 ▲ (ヰクショナリ:敬) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 http://ja.wiktionary.org/wiki/%e6%95%ac

 会意形声。「攵(攴:動詞を表す)」+「苟」(キョウ:現在、「コウ」と読む文字とは同形別字)。
 苟は、羊の角+人+口の会意文字で、角にふれかしこまる様子を表す(藤堂)。
 又、「羊の角+人」で、中原の西部に住んでいた、羌人を表し、「口(神器)」の上に置いて、羌人の生け贄を捧げ、神をうやまうことを意味するとも(白川)。
 はっとしてかしこまるの意は「警」「驚」に含まれる。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 わたしが この質問を挙げたのは 敬語を学ぶという人がいたからです。
 で お答えは けっきょく 《敬遠》ということになりましょうか?
 ★  単刀直入に言えば、相手が「敬語」を口にしたとき、きっと心のどこかで相手は避けようとしているんだと思います。うまく身をかわして羊の角を避けたいのだと、こう判断したんだと思うんですね。
 ☆ 敬遠の四球というところですね。
 ★  その判断は、この相手とはむやみに言葉を交わしてはならない――そういう心理に裏付けられている。意識してか、無意識かはわからない。けれど、敬語ってそういうものだと僕は思います。
 ☆ ううむ。ただ ただですね ただ これほど 普及していますよね。そして 敬語を使って 話を引き出そうとしたり 相手を味方につけようとしたりしますね。交通の手段のようなものでもありますね。
 積極的に使っている場合も 少なくない。ということになりませんか? なった場合 どう捉えるかだと思うのですが どうでしょう?

お礼日時:2009/05/21 20:46

こんばんは。



敬語表現という呼称にあまり囚われない方がよろしいのではないでしょうか。
思うに、ある国語学者が待遇表現をさらに細かく分類しようとした結果、その一部について、たまたまその時代・社会を支配していた日本的、儒教的美徳?の影響を受けて《敬語》と呼び、それが今日まで存続してきただけと考えた方が無難ではないでしょうか。

要するに、敬語表現を用いる話者の意識裡に、本当に相手に対する敬意が認められるかと問われれば、「必ずしもそうとは言えない」という程度のことは、誰しも経験的に理解しているのではないかということです。

申し上げるまでもなく、相手に対する話者のいろんなレベルでの気遣い、配慮、思惑等々からいろんな待遇表現が生み出されたきたわけですが、その中の敬語表現だけに限れば、話者が相手から有形無形の利益を引き出さんと謀ったり、そのために相手のプライド、自尊心を擽ったり、相手の歓心を買ったりすることが、敬語を用いる際の動機、目的、意図等になっているのではないでしょうか。
したがって、ご指摘の通り、相手を「敬遠」することで自己防衛しようとするときも、敬語は重要な働きをするわけです。

同じような心理は、日本語にはいわゆる目上の人に使える二人称代名詞がないことや日本人特有の対人恐怖症的傾向等にも認められるのではないでしょうか。
もしかして、日本語における敬語表現とは、日本人がいかにアカの他人の他者と面と向かって対話することを苦手としてきたかを立証しているのかもしれませんね。

その意味でも、ときどき日本語の敬語表現がかつての封建的な差別社会、身分社会の残滓であるかのごとく言い張る人もいますが、あまりにも底の浅い謬見だと思います。

この回答への補足

 kadowaki さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 思うに、ある国語学者が待遇表現をさらに細かく分類しようとした結果、その一部について、たまたまその時代・社会を支配していた日本的、儒教的美徳?の影響を受けて《敬語》と呼び、それが今日まで存続してきただけと考えた方が無難ではないでしょうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ううむ。kadowaki さん これだけでは 納得しましたと申し上げるわけにはまいらないと まづ 考えます。まづ そのように反応いたします。こうなれば
 ○ 起源
 ☆ をしっかりと捉えて 論じないことには 上滑りになりかねない。もしくは 歴史の途中の段階からの議論になる。とお考えになりませんか?
 この疑問が先に立って 決してそうではないのですが いわば粗探しをするかのように 話を継ぎますが この質問の思うところにしても
 ★ 敬語表現という呼称にあまり囚われない方がよろしいのではないでしょうか。
 ☆ というように囚われて 何かを訴えようとしているわけでもないのです。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 要するに、敬語表現を用いる話者の意識裡に、本当に相手に対する敬意が認められるかと問われれば、「必ずしもそうとは言えない」という程度のことは、誰しも経験的に理解しているのではないかということです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ と たしかに なるでしょうね。その上で どうして この語法がつづいているか ですが
 ★ したがって、ご指摘の通り、相手を「敬遠」することで自己防衛しようとするときも、敬語は重要な働きをするわけです。
 ☆ というNo.1説に賛成のご見解ということになりましょうか。詳しく述べてももらっています。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 申し上げるまでもなく、相手に対する話者のいろんなレベルでの気遣い、配慮、思惑等々からいろんな待遇表現が生み出されたきたわけですが、その中の敬語表現だけに限れば、
 ・ 話者が相手から有形無形の利益を引き出さんと謀ったり、
 ・ そのために相手のプライド、自尊心を擽ったり、
 ・ 相手の歓心を買ったりすることが、
敬語を用いる際の動機、目的、意図等になっているのではないでしょうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ こうなれば――つまり このように分析されていることが まちがいだと言うのではなく そうではなく まちがいではないゆえに そのまま 敬語の理論としていいかとなれば それは 待ったがかかると思われ それは―― やはり 起源から説き起こした上でないと この《敬遠》説を 胸に落とし込むわけにはいかないように感じます。
 たしかに なお説いて述べられることには 日本人には 社交下手といった性格があるということのようですね。
 ★ 日本語にはいわゆる目上の人に使える二人称代名詞がない
 ★ 日本人特有の対人恐怖症的傾向等
 ☆ が証拠として挙げられるのだと。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 もしかして、日本語における敬語表現とは、日本人がいかにアカの他人の他者と面と向かって対話することを苦手としてきたかを立証しているのかもしれませんね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ こうして
 ★ 封建的な差別社会、身分社会の残滓
 ☆ の説をも破って むしろ
 ○ 敬語にかんする《敬遠》説は 起源としての敬遠をも含んだ《敬遠語法》理論である。
 ☆ という様相を呈しています。そういう日本人論でもあるようです。

 たとえば わたしは 日本人には 進取の気風をも感じ取るのです。隣の半島や大陸に対して けっして 目をそらせていたわけではない。引っ込み思案であったのではない。こう捉えます。
 この一事からしても 《敬遠》説は ことの半分をしか言い当てていないという感触を まづ 持つものです。率直な感想は まづ これなのです。
 少し時間をください。考えてみます。
 また お礼欄では 字数が足りないので もういちど 何でもよいですから ご回答を寄せておいていただけないでしょうか。
 急ごしらえの状態です。あらかじめ そのための試行錯誤によるご不便などについて おわびを申し上げておきます。このような出で立ちですが よろしくお願い致します。

補足日時:2009/05/24 09:02
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この回答へのお礼

 起源についての第一考。
 ○ めし(召し・飯 ← 見し)
 ▲ (万葉集一・50)・・・国を見(め)し給はむと〔売之賜牟登〕=《お治めになろうと》
 ▲ (同上 一・52)・・・見(め)し給へば〔見之賜者〕=《ご覧になると》
 ◆ (大野晋・古語辞典) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 めし:《見る》の尊敬語
 1.ご覧になる
 2.お治めになる
 3.お呼び寄せになる
 4.結婚の相手となさる
 5.お取り寄せになる
 6.お取りあげになる
 7.〔目の前にご覧になる意から〕飲む・食う・着る・乗る・引く・買うなどの意の尊敬語
 8.他の動詞の連用形について 厚い尊敬の意を添える。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ シは スルという動詞。見ナサルというように 能動性をつけ加えている。メは ミの母音交替形。
 見ナサルゆえ そのものを《身近に寄せる》。(2)から(6)までについて 不都合無し。(7)は 《寄せた》あとの動作について 直接に触れず 遠回しに言う。
 ここで 別の解釈をします。
 シを 使役の意に採る。見ナサルではなく 見セル・見セシメル。すでに権威を帯びた偉い人が みづからの姿を ひとに見セル。このようにも 解釈できる。ただし モノを取り寄せるという用例では 合わない。おそらく この使役の語法は 第二次的であろう。
 高貴な人が 召し使いに 食事や入浴や着替えのときに みづからの姿を見セル。ゆえに 《めし(召し・飯)・召しあがる・お召し物》という意味。

 メシのシ つまり 他動相ないし使役相の動詞・シをとおして 第一次と第二次の用法が見られる。第二次の用法は ヰキぺで言う《上下関係》にもとづく尊敬語法。表面的でもある。
 第一次の用法は では 人びとの生活から 自生的に 起こったか。
 レル・ラレルという敬語法を見てみるとよい。古語で ル・ラル。これは 自然生成の相。《出来る》という可能の相も 自然生成の相をもって 能力の有無を表わそうとする。
 能力があるという相を その表現に使えば 敬うかたちになる。見ラレルや食ベラレルは あまり使わないが 第一次的なうやまいの気持ちを添えようとしてはいまいか。身分関係にかかわらず 発生したのではないか?
 《敬遠》の語法は どうあつかうべきか。

お礼日時:2009/05/24 13:43

オコリザルです。


難しい話は付いていけないので世代間の変容の話です。
最近の若者は年配者の前でわざと乱暴な言葉を使うこともあります。
私もそれにならっていい年をして「バカ」又は「アホウ」を連発します。
この心情とは「私は若いゆえに至らない」と自覚した上での逆説的な謙譲です。
尊敬できる大人を見分けるための若者の処世術でもあります。
一見凶暴な暴言を吐く若者は、やりこめてくれる尊敬できる大人の見分け方を探しています。
ややこしいかもしれませんが、実践した経験から行くと、理解してもらえない場合でも自分だけは納得できます。更にウマの合わないお年寄りは、自動的に去っていきます。
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この回答へのお礼

 primeape さん ご回答をありがとうございます。

 敬語について 起源をさぐるよりも いま どのように言葉一般を用いているか これを捉えるなら 敬語の扱い方もわかるのではないか。こういった探究の道であるように思いました。
 
 ★ 尊敬できる大人を見分けるための若者の処世術
 ☆ として
 ★ 最近の若者は年配者の前でわざと乱暴な言葉を使うこともあります。
 ★ この心情とは「私は若いゆえに至らない」と自覚した上での逆説的な謙譲です。
 ☆ つまり 見栄を張らず 慣れない敬語などを飾りとして使ったりしない。そのことまでをも分かって欲しいからか かえって 乱暴な言葉を わざと使う。

 ここからのわたしの理解は こうです。若い人びとで 敬語を使いこなせていない者の思っていることは 言葉使いに関しても ひとに対する尊敬の念を 表わしたい気持ちはある。ということ。
 もしくは ぎゃくに 言葉使いにおいて それとして尊敬を表わす用法を使わなくても 実質的に 尊敬の気持ちを表わすことはできる。と思っているのではないか。
 
 そうですね。わたしは 自分の見方に引き込もうとしてのように 《ていねい語》があればよいという方向を見てしまうのですが どうでしょう?

お礼日時:2009/05/23 05:47

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Q哲学の実効性について

このカテで初めて質問します。私も読書の一環として哲学書を手にし、その面白さがわかるような気がしてきました。
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 哲学全般は考察を検証するに熱心でも、効果を測定するに無関心ではないか、あるいは回避に努めているのではないか。とどのつまり哲学とは堂々めぐりなのではとの考えが頭を離れません。
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哲学で飯を食べている方を哲学者と呼びますが、日本では哲学者ではなく、哲学学者とか、哲学輸入業者と呼ばれる先生方も多くいると聞きました。ただし、これは日本にだけある特異な現象ではないようです。質問者さんは、もうすでに知っているかもしれませんが、ソーカル事件と言うのがありますね。もしまだご存じなかったら、ウェブサイトのウィキペディアなどで調べてみて下さい。人間て何だろう、学問をするって何だろう、哲学って何だろう、哲学者って何だろう、哲学学者って何だろうと言うことを、良く分かるように抉り出してくれる大変良い反面教師です。また、哲学を一生懸命考えている質問者さんのような方に、頭休めの大変良いエンターテイメントでもあります。

Q【宗教・禅】禅の○と書いて、完璧な○はないみたいな○、1字の絵?は誰の作品なんですか? あの○は、

【宗教・禅】禅の○と書いて、完璧な○はないみたいな○、1字の絵?は誰の作品なんですか?

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禅を始めた教祖って誰ですか?

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Aベストアンサー

茶室に掛けるやつですね。円相は、十牛図の八番目の絵です。十牛図は廓庵禅師が残したものとされ、臨済宗で良く見かけます。

意味は、、、、、禅でいう「無」でしょうか。
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禅僧が書くものですが、ととのった真円がいいというものではなく、書く人によって、味わいや趣が現れるのが面白みとされます。
円相は、書く人による違いがあるだけでなく、見る人によっても感じ方が様々なので、見る人それぞれの世界観を開く窓、とも考えられています。

Q実存主義・イギリス経験論・大陸合理論・批判哲学・ドイツ観念論

哲学のテストが今月にありまして、誰にしようかなと思いながら何冊か著作を読みましたがいざ書くとなると何と絡めて書けばいいのかわからず・・・(つまり理解できてない・・・)別のにしようかと思ったのですが、正直時間がありません。

実存主義・イギリス経験論・大陸合理論・批判哲学・ドイツ観念論(マルクス・キルケゴール・マルティン・サルトル・ニーチェ・ヘーゲル・ルソー・ロック・ヒューム・スピノザ・ライプニッツ・カント・パスカルなど等)
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Aベストアンサー

ヒューム

Q《宗教の国連》? どうなんですかねぇ。

 ▽ (ローマ法王に「宗教の国連」提案 イスラエル前大統領) ~~~
 http://news.nicovideo.jp/watch/nw1221182

 共同通信社 2014年9月5日(金)9時28分配信

 【ローマ共同】 ローマ法王フランシスコは4日、イスラエルのペレス前大統領とバチカンで会談した。ペレス氏は法王に、宗教対立などの問題に対処する「国連形式の宗教組織」の創設を提案した。ローマ法王庁(バチカン)が明らかにした。

 ペレス氏はカトリック専門誌に対しても、世界で起きている戦争の根底には宗教があると指摘し、神の名の下に人を殺害するテロに立ち向かうためには「宗教国連」が最善だとの考えを示した。

 バチカン報道官によると、法王はペレス氏の考えを慎重に聞き、関心を示していた。今後、宗教間対話の担当者が内容を検討するという。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ (あ) スサノヲ市民社会( S 圏)の上に・第二階として アマテラス公民圏( A 圏)が乗っかっている。そのような《 S - A 連関制》として成る国家の上にさらに仲裁・調停などのためメタ・アマテラス普遍語を扱う機関として 国連がある。――こんなものが 果たしてふつうに・うまく機能するのだろうか?

 (い) シュウキョウは そもそも 個人の信仰とは別だ。信仰から得られたとは言え そのオシエを あろうことか 信じよと言う。人が信じるのは オシエではなく そのみなもとのナゾのほうだ。おまけに そのためのヒエラルキアとしての組織までをもつくった。――これは 支配欲に支配された人間が 好んで参加する組織でなくて ほかにどういう中身があるだろうか? 金儲けという目的のほかに。

 (う) イスラエルは ユダヤイズムのままでは やはり立ち行かないのではないか? なぜなら あたらしい契約――つまり無契約――へと脱皮しないことには 自己主張すら出来ないはずだ。なぜなら 聖書に《民族浄化》に似た殲滅作戦を神が命じているかぎり ナツィのショーアなる悪行を ほんとうには批難・批判しがたい。

 (え) 戦争は 《宗教》でおこなうものなのですか? シュウキョウを組織としてつくるのが ニンゲンであったように 戦争をもシュウキョウの旗を掲げるにせよ何にせよ やはりニンゲンが起こすに過ぎないのではなかろうか?



 ご教示を請います。

 ▽ (ローマ法王に「宗教の国連」提案 イスラエル前大統領) ~~~
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 共同通信社 2014年9月5日(金)9時28分配信

 【ローマ共同】 ローマ法王フランシスコは4日、イスラエルのペレス前大統領とバチカンで会談した。ペレス氏は法王に、宗教対立などの問題に対処する「国連形式の宗教組織」の創設を提案した。ローマ法王庁(バチカン)が明らかにした。

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Aベストアンサー

こんにちは。

友人は、結局聖書が戻らないので、こちらから送った質問だけに手短かに答えてきました。まず下の個所ですが、erはやはりすべて「悪魔」を指すのではないかとのことでした。訳を訂正します。

Ich halte nämlich dafür, daß er, einmal Fürst unter dem Himmel geworden, auch nach dem Sündenfalle seine Herrschaft nicht verloren hat. - "Der noch jetzt", heißt es weiter, "in den Söhnen des Unglaubens wirksam ist". Siehst du, daß er nicht mit Gewalt und Zwang, sondern durch Überredungskunst verführt? Er gebraucht den Ausdruck Unglaube, was so viel besagen will als: durch Betrug und Überredungskunst zieht er alle an sich.
つまり私は思うのだが、かつて天の下の頭となった悪魔は、罪に堕ちたあともその支配権を失わなかった。―こう続く、「不信心の息子たちの中で未だに威力を発している者」お前は、悪魔が権力や強制ではなく、説得術で誘惑しているのがわかるか。悪魔は不信心という表現を使うが、これは、欺瞞と説得術ですべての者を自分に引き付ける、と言うよりもはるかに重要なことを言おうとしている。

友人はここで、(悪魔が誘惑しているのは人間ではなく女)、とカッコつきで書いてきたのですが、これは多分、無断で聖書を貸してしまった奥さんへの皮肉を込めたジョークだと思っています。あの国の人たちは、真面目な発言と不真面目な発言の境目が不明瞭なので迷惑します。ただ、悪魔の行為については、わかりやすくこう書いてくれました。

人間をまんまとだました後、悪魔は神に悪態をつく、「見てみろ、お前の創造した者たちを、哀れじゃないか」と。

そして、下の個所なのですが、「was er anführt」のerは「神」でよいそうなので、No.22でした訂正は誤訂正ということになります。ただ、最初の訳はbragelonneさんのおっしゃるように、意味が通りにくいと思います。たぶん、anführtの方が誤訳だと思います。「手引きしているのは」ではなく「理由として挙げていることは」の方が正しいと思います。

"Erbarme dich meiner nach deiner großen Barmherzigkeit". "... um seiner großen Liebe willen, womit er uns geliebt hat." Der Apostel zeigt, woher die Liebe Gottes zu uns stammt. Denn das, was er anführt, verdient nicht Liebe, sondern Zorn und strengste Strafe. Also muß sie aus seiner großen Erbarmung stammen.
「あなたの大いなる慈悲で私をお憐み下さい。」「神が我々を愛した、その大いなる愛のために。」使徒は、神のわれわれへの愛がどこからくるものか示す。なぜなら、神が指摘していることは、愛ではなく、怒りと非常に厳しい罰に値するようなことだからだ。つまり神の愛は、神の大いなる憐みからきている。

これなら少しわかりやすいと思いますが、いかがでしょうか。
この件について、もう一つだけ補足します。昨日、偶然、スイスの若い神父の説教を見つけました。その神父が読んでいるのは、完全な現代ドイツ語訳で非常に分かりやすいのですが、「空気」という言葉はもう使用してありませんでした。もしかすると、ἀήρはもう空気とは訳さなくなっているのかもしれません。冒頭部分だけ書き取っておきました。

Auch euch hat Gott zusammen mit Christus lebendig gemacht. Ihr wart nämlich tot aufgrund der Fehlungen und der Sünden, die euer frühes Leben bestimmten. Ihr hattet euch nach den Maßstäben dieser Welt gerichtet und wart dem gefolgt, der durch die Mächte der unsichtbaren Welt zwischen Himmel und Erde herrscht.

最後に、この御質問本来の話題に戻します。
「宗教の国連」については、外国のネット上でもまだ報道のみの情報が多く、賛否については把握できません。ただ、自然発生的なものとは言えないようです。また、メタ・アマテラス的なものでもなさそうですし、世界宗教者平和会議(WCRP)とも目的が異なるものです。
「宗教の国連」が提案された理由の一つは、この数年、国連内での宗教間の問題解決が行き詰っていることのようです。つまりこの点に関しては、国連はもう機能していないということです。宗教の非難に関する決議が、西側諸国とイスラム協力機構の不和を招き、決議は放棄されました。また、宗教に対する非難により、特定の宗教を信仰するという理由で個人が差別されることになり、人権問題や、意見の自由に触れることになります。そういう事情から、「宗教の国連」は、今の国連とは違う憲章を立てる方向だそうです。つまり、現在世界で宗教の名のもとに行われている殺人や大量虐殺は、宗教とは無関係な行為、つまり、いかなる宗教によっても正当化されない行為であることを明言するつもりのようです。世界宗教者平和会議(WCRP)は、宗教に関するあらゆる問題を扱うのに対して、「宗教の国連」は、戦争やテロ行為に対することを主目的としており、国連が今のシステムで機能できないのならば、今回の提案はそれなりに理解できます。ただ、トップにローマ法王を据えるということになると、どうしても西側先導という印象になりますので、その辺がどう出るかです。
以上のような事情から、御質問(あ)~(え)は、「宗教の国連」の構想に至る経過と目的を考えると、お答えできなくなります。

とりあえず、これでまとめとさせていただきます。

こんにちは。

友人は、結局聖書が戻らないので、こちらから送った質問だけに手短かに答えてきました。まず下の個所ですが、erはやはりすべて「悪魔」を指すのではないかとのことでした。訳を訂正します。

Ich halte nämlich dafür, daß er, einmal Fürst unter dem Himmel geworden, auch nach dem Sündenfalle seine Herrschaft nicht verloren hat. - "Der noch jetzt", heißt es weiter, "in den Söhnen des Unglaubens wirksam ist". Siehst du, daß er nicht mit Gewalt und Zwang, sondern durch Überredu...続きを読む

Qパスカルのデカルト批判について質問です。

パスカルのデカルト批判について質問です。
センター試験のために倫理を勉強しているものですが、パスカルについて、参考書に以下のような解説がありました。

このように、無限と虚無の双方に広がる宇宙の中で、人間は最も弱い悲惨な存在ですが、同時に思考の力により宇宙全体をも包み込むことが出来る偉大な存在でもあります。
(中略)
パスカルは「私はデカルトを許せない」などと激しくデカルトを批判します。
パスカルは、無限の宇宙に対して人間の理性が無力なことを認識しています。
このため、人間の理性の力だけで絶対確実な第一原理に到達できるとするデカルトの考えを徹底的に攻撃したのです。


「宇宙全体をも包み込むことが出来る偉大な存在でもあります」
という記述と、
「パスカルは、無限の宇宙に対して人間の理性が無力なことを認識しています」
という記述が矛盾するような気がします。

どういうことなのでしょうか?

Aベストアンサー

ご質問は、要するに、その参考書の記述は合っているのか、あるいは、ということですよね。
矛盾しているように読めるので、
1)読者の自分の読み方に問題がある。
2)参考書に問題がある。
3)パスカル本人が問題を持っている。

その部分の解釈ですが、??哲学史上の専門の意見は他の方に任せます??
1)矛盾をお感じになることについては、全く同感です。矛盾に感じるということは、正当なことのように思います。「宇宙全体をも包み込むことが出来る」と「無限の宇宙に対して人間の理性が無力」は相矛盾しています。「偉大な存在」と「最も弱い悲惨な存在」は矛盾していますが、見方に依ればという感じですね。
2)受験参考書というものは、微妙な問題でも、「正答」を決めているものです。即ち、出題するからには「あれかこれか」を確定しなければならないので、誰それの考えはこういうものだと、特徴を際立たせています。そこの記述は、間違いではないにしろ、??他の部分でフォローしているかも知れませんが??強調過多で、両者が立つ同一点を見難くしているように思います。したがって、参考書の記述は、受験用に記憶するに留めるべきでしょう。これはいいこととは思いません。本来なら云々、と言うのはやめておきましょう。
3)これは試験には出ないと思いますが、『パンセ』はキリスト教護教論として構想された断片の集成を柱としていますが、体系的著述にまだなっていない。加えて別のノートも含んでいる、したがって、内部に矛盾的な部分を持っていて当然でしょう。

で、「どういうことなの」?と突っ込まれそうなので、追加します。

デカルトとパスカルは、実年齢でも親子ほどの関係で、一度会って、パスカルはいい印象を持たなかったようですが、
デカルト??世知に長けている、宗教論争に巻きこまれるのを避けようと苦労した。
パスカル??繊細な感受性の持ち主だけど英才教育を受け理屈では誰にも負けないと自負している、特定の宗派に肩入れする。
二人とも数学・自然科学に関して大きな足跡を残しています。
と見ますと、パスカルの激しい言葉は、近い関係にあるからこそ出た言葉と読めますね。デカルトの開いた地平の先に出ようと、もがいている面がある、のではないでしょうか。

で、他の方の御意見も参考に、その矛盾に見える記述の解釈を??受験対策とは別に??、考えられたら如何と思います。

ご質問は、要するに、その参考書の記述は合っているのか、あるいは、ということですよね。
矛盾しているように読めるので、
1)読者の自分の読み方に問題がある。
2)参考書に問題がある。
3)パスカル本人が問題を持っている。

その部分の解釈ですが、??哲学史上の専門の意見は他の方に任せます??
1)矛盾をお感じになることについては、全く同感です。矛盾に感じるということは、正当なことのように思います。「宇宙全体をも包み込むことが出来る」と「無限の宇宙に対して人間の理性が無力」は相矛盾してい...続きを読む

Q《非思考の庭(信仰)》は 誰からも 汚され得ない。

 たたき台を述べます。自由にフルボッコでたたいてください。



 《非思考の庭(信仰)》は 誰からも・何ものからも 汚され得ない。

 なにしろ 《思考に非ず》なのですから 内からも外からも人間がその知恵やチカラでどうにかしようとしても出来るものではなく 出来たと仮りに思ったとしても 何も出来ていないし 出来たと思ってみたところで何にもならない。



 《神は死んだ》という人間の発言は 信仰を知らない。
 
 《神は生きている》と人間が発言したところで 神が変わるものではない。






 信仰は ただただ 神――しかもその名〔のみ〕――をわが心に受け容れる行為である。
 (受け容れないと言っても 同じことである。心には その拒むことにおいて・指先がかろうじて触れたかのごとく 触れた恰好であり そこに非思考の庭が成っている)。

 受け容れるのは 人間のおこなう意志行為である。

 何を受け容れるかと言えば それは まったくのナゾである。




 このナゾを 神とか霊とかと 昔から言って来た。分からないから そんな言葉を使うということだ。

 つまり重ねて述べるなら この《神》も 人間がそのチカラでどうにかしようとしても 何一つ出来っこない。
 (しかも 人間は 時として 自分がそうあって欲しいという中身を想像し考えてこれを神の像とする。おまけに をがんでさえいる。初めからそのような想像の神は 人間の思いやオシエとしては《生きて》いても 神としては死んだ状態にある)。




 神および信仰は 人間の経験世界を超えている。

 この非思考の庭なる神を どうして人間が汚すことが出来ようか? どうやって 貶(けな)すことが出来ようか?
  
 内からも外からも どうにもすることが出来ないはずだ。

 神の冒涜というのは 言葉の矛盾である。


 これが 神である。これが 良心・信教の自由である。



 無条件・無制約のもとに ひとはこのかみにあまえていけばよい。

 まったく自由にというのは 神が経験合理性を超えており神とわれとの関係は思考に非ずということであり ならばあまえは 聖なるあまえである。何でも自由に願えばよい。それが 神である。名は何でもよい。《無い神》でもよい。

 たたき台を述べます。自由にフルボッコでたたいてください。



 《非思考の庭(信仰)》は 誰からも・何ものからも 汚され得ない。

 なにしろ 《思考に非ず》なのですから 内からも外からも人間がその知恵やチカラでどうにかしようとしても出来るものではなく 出来たと仮りに思ったとしても 何も出来ていないし 出来たと思ってみたところで何にもならない。



 《神は死んだ》という人間の発言は 信仰を知らない。
 
 《神は生きている》と人間が発言したところで 神が変わるものではない。


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Aベストアンサー

少しルールを逸脱しますが、私は螺旋階段さんの言うことはわかる気がします。というのもブラジェロンヌさんの言う神の訪れの予感なる心的現象、見神体験とも見えてしまうそれが、個人的経験であるという事実です。その事実が、ブラジェロンヌさんに絶対の自信を与えると同時に、その論理が普遍性を保有することを難しくしているのです。なぜ私がブラジェロンヌさんの話に曲がりなりにもついていけるかというと、私にも、一種の見神体験が過去にあって、遍在する神ともよびうるそれの存在を体感したからです。その自己の経験と照らし合わせることで、何となくこうではなかろうか、ということで話をさせてもらっているのです。

また、空に関して猫さんの言うことは最もで、異存はないのですが、イデアの究極、空の空たる所以とも言うべきものがあり得ると知った時には、空の形而上学なるものもあり得ると思うのです。仏教の言うところの色界や無色界の話です。

以上の話は補足です。

次に自然本性について認識を深めたいと思います。自然本性はそれを善悪で判じることはおそらく出来ない。性善説や性悪説とは異なる次元だと思います。それがそれそのものであるという事実を以って本性と言い、それが元来のものという意味で自然と言っています。難しく考えず、もっと軽やかな捉え方も自然本性にはあるでしょうが、掘り下げるために、ここではあえて難しく言ってあります。そんな自然本性との対話ができるなら、それは何によって可能でしょうか。ただしがらみを除けば、残った部分が自然本性でしょうか。自然本性は神のような遍在ではなく、全く固有の何かであるゆえに、万人において普遍であり、誰しもに宿っているそれであると思います。これは一体何でしょう。今になって言いますが、我々は自然本性というものがあるという前提で話してきました。存在を支える存在があるはずだという見方に基づいて。
固有とは一体どういうことでしょう。私を私たら占めているものは一体?そんな風に考えると、魂とも呼ぶべき領域が存在するのではないかと思えてきます。
長文失礼しました。

少しルールを逸脱しますが、私は螺旋階段さんの言うことはわかる気がします。というのもブラジェロンヌさんの言う神の訪れの予感なる心的現象、見神体験とも見えてしまうそれが、個人的経験であるという事実です。その事実が、ブラジェロンヌさんに絶対の自信を与えると同時に、その論理が普遍性を保有することを難しくしているのです。なぜ私がブラジェロンヌさんの話に曲がりなりにもついていけるかというと、私にも、一種の見神体験が過去にあって、遍在する神ともよびうるそれの存在を体感したからです。その...続きを読む

Qパスカルの三角形と未使用での展開

前にも質問したのですが本格的に入りすぎた感じもあり、
今回もう一度お尋ねします。

前回このような質問をしました。
「たくさんの次数がついた展開はどうすればよいのか?」
そして、最初に帰ってきた答えが「パスカルの三角形」を使用すれば簡単にできるということ。
さっそく調べて見ました。

・ちょっと書く形がちがいますが一応パスカルの三角形です。
1111
1|1111
1|1234
1|1369
1|149

これを応用して(a+b)~3 を展開したとしたら…

(a+b)^3 = a^3 + 3a^2b + 3ab^b + b^3

これは公式でもあるのでパスカルの三角形を使用しなくてもスラスラ書けます。
問題はここから。
途中 3 という係数ありますよね。この係数はパスカルの三角形からどのように求めているか?です。

実際は(a+b)^7 になるとパスカルの三角形はドンドン高くなる一方ですね。
果てしなく東京のビルディングみたいに。

・最終的な問題は
最初はパスカルの三角形の応用からで、こんどパスカルの三角形を使わずどう展開するかです。




☆今週は事情があってよく質問すると思いますのでよろしくお願いします。

前にも質問したのですが本格的に入りすぎた感じもあり、
今回もう一度お尋ねします。

前回このような質問をしました。
「たくさんの次数がついた展開はどうすればよいのか?」
そして、最初に帰ってきた答えが「パスカルの三角形」を使用すれば簡単にできるということ。
さっそく調べて見ました。

・ちょっと書く形がちがいますが一応パスカルの三角形です。
1111
1|1111
1|1234
1|1369
1|149

これを応用して(a+b)~3 を展開したとしたら…

(a+b)^3 = a^3 + 3a^2b + 3ab^b + b^3

これは...続きを読む

Aベストアンサー

>それで…「!」ってどのような意味でしたっけ?

x!は、「xの階乗」と読んで、
x!=1*2*3*・・・・*x
と順番にかけ算する計算をひとまとめに表す記号です。

>xCy=x!/y!(x-y)!

は、ぱっとみややこしそうな式ですが、具体的に、x、yに数値を入れて考えてみるとわかりやすいと思います。結構、約分できて、実際の計算上は、違ったイメージで頭の中に残ると思いますよ。

Q《絶対》の概念をなぜ日本人は理解したという姿勢を見せないのでしょう?

 一般論です。つまり 一般論として提出することができるほどだという観察があります。
 すでに一度 問うたことがあります。
  Q:《絶対》の概念を日本人は理解していないのですか
   http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3061598.html

 たとえば 仏教では 人間を初めとして有情には 仏性があると言います。例外がなければ この事態は 絶対なのではないですか。
 八百万の神々は 絶対でしょうか。そうでないでしょうか。あるいは わざと あいまいにしておくのでしょうか。もしそうだとすれば それは なぜでしょう? 
 曖昧にするということは 絶対と相対との区別を知らないわけではない。知っていて 最後の結論を言わないという事態であるはづです。
 
 司馬遼太郎が 短い文章として 《絶対》の概念と日本人という主題で語っています。参考にどうぞ。
  http://www.asahi-net.or.jp/~pb5h-ootk/pages/S/sibaryotaro.html
(第一段落の《(開高健への弔辞)》のみで いいと思います)。
 このように効用もあるはづですが もし理解したという姿勢を見せないのだとすれば それは なぜでしょう? おしえてください。

 一般論です。つまり 一般論として提出することができるほどだという観察があります。
 すでに一度 問うたことがあります。
  Q:《絶対》の概念を日本人は理解していないのですか
   http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3061598.html

 たとえば 仏教では 人間を初めとして有情には 仏性があると言います。例外がなければ この事態は 絶対なのではないですか。
 八百万の神々は 絶対でしょうか。そうでないでしょうか。あるいは わざと あいまいにしておくのでしょうか。もしそうだとすれば ...続きを読む

Aベストアンサー

「鬼頭秀一氏は、ちゃんと『自然保護を問いなおす』(ちくま新書1996)のP21でちゃんとこう指摘してくれている。  「ただし、ツイアビの演説はサモア人の普通の話し方とは異なるし、サモアの演説の形式も踏んでいないことから、文化人類学者の間では疑問視されてきた。そして、最近これが偽者であることはほぼ明らかになっている」 」

「そう、鬼頭氏が指摘するように文化人類学者の間では、パパラギが偽者であることは常識だったのだ。パパラギ・ブームもあいまって日本のサイトには、こうした写真が掲載されているのだが、「ツイアビ」という人物も存在しない。ツイアビとはただ「酋長」を意味する言葉にすぎず、ツイアビの本名はアガエセ(Agaese)といった。そして、実際のアガエセは、反文明思想とはほど遠い人物で、当時サモアにいたドイツ軍の軍属でキリスト教徒ですらあった。加えて、アガエセは、ヨーロッパを一度も訪れたこともなければ、仲間のサモア島民にスピーチもしていないのだ。このことは、実証もされている。オーストラリアのシドニーのニューサウス・ウェールズ大学のグラント・マッコール(Grant McCall)教授が、サモア島民にパパラギの内容を講義してみたところ、サモアの人々は、その内容に首をかしげるばかりだったのである。」

「では、パパラギを書いたのは誰なのか。そもそもパパラギが誕生したサモアがどのような地なのかその背景から探ってみよう。」

「サモアは、ニュージーランドの北2,300km、ハワイの南3,700kmの南太平洋上に位置しする。東はクック諸島、南はトンガ、そして北にはトケラウ諸島が連なる。海峡を挟んで18km離れたサバイイ島とウポル島の2つ島を中心とした群島だが、全部合わせてもその広さ2,935平方キロで鳥取県ほどでしかない。人口も9割以上がポリネシア系のサモア人で、残りは、サモア人とヨーロッパ人の混血である。」

「農業と沿岸漁業中心で、タロイモなどが生産されているが、その80%以上が自給用である。宗教は、キリスト教がほぼ100%である。」

「さて、サモア諸島には、紀元前1000年から人々が定住し始めていた。だが、西洋史に登場するのは、1722年にオランダの探検家ヤーコプ・ロッヘフェーンが「発見」してからである。その後、1768年にフランスの探検家ルイ・アントワーヌ・ブーゲンビルが訪れ、「イール・デ・ナビガトゥール(船乗りの島々)」と名付けている。1828年には、メソジスト派宣教師上陸、その後、各派宣教師が上陸し布教活動が活発化していく。そして、1850年以後は、商売を目的とした移住も増えた。」

「1839年には米国のウィルケスがサモアの部族と通商協定を結び、1878年には米国は海軍の石炭供給所確保のため、東サモアのパゴパゴを併合した。イギリスもサモアに通商の拠点を置き、捕鯨船の補給港として栄えた。」

「ここで、ドイツが登場する。植民地政策で他の列強に大きく後れをとったドイツは、その隙間を埋めるかのように、アフリカや南洋諸島に進出し、植民地を建設していく。1857年、ハンブルクのゴーデフフロイ商会が南洋事業の拠点をサモアに置き、南洋各地の商人と取引を始めたことから、イギリスや米国と権益が衝突する。」

「1888年にサモアの2部族間で起こった争いに米、英、ドイツが介入したことから、混乱が広まる。事態収拾のため、翌年ベルリンでドイツ・アメリカ・イギリスが協議し、サモアでの3国の権益に制限が設けられ、形だけは住民自治が認められた。だが、部族たちは押しつけられた自治を認めず、パパラギの謀略も手伝って、再び1899年に内乱が発生。この混乱に乗じた米国は、イギリスと同盟を結び、ドイツが本拠地としていたウポル島のアピア(Apia)を攻撃した。」

「事態収拾のための協議が再び1899年12月にワシントンで行われ、ドイツは西サモアを、米国は東サモアを、そして、イギリスはサモア諸島から退く代わりにトンガ諸島とソロモン諸島を分割統治することで折り合いがついた。」

「こうしてドイツはニウエ、トンガ、ソロモン諸島から撤退し、ドイツ人知事が西サモアを統治することになる。当然のことながら、これに反対する住民運動も活発化した。」

「さて、アガエセの演説をドイツ語に翻訳したというエーリッヒ・ショイルマン (Erich Scheurmann)は1878年にハンブルグで生まれ、画家、作家、童話作家、人形使い、教師と様々な面を持つ人物だった。19歳のときには全ドイツを放浪し、1903年からは、ボーデン湖畔で暮らしていた。このショイルマンが、サモアや南洋のドイツの植民地を訪れたのは、1914年のことだった。だが、1914年8月、第一次世界大戦が勃発すると、同月に早くもニュージーランド軍がイギリス軍、フランス軍、オーストラリア軍の援護を受けてドイツ領のサモアに侵攻。ドイツはサモアを失い、1919年からはニュージーランドの委任統治領となっている。」

「ショイルマンも第一次世界大戦が起きると抑留された。パパラギを書いたのは、まさにショイルマンである。つまり、自分の思想を売り込むために、ツィアビが語ったことにしたのである。しかも、ショイルマンの思想もオリジナルなものではない。パパラギの基調をなす思想は、同じくドイツ人であり、アフリカや南洋諸島を調査していたハンス・パッシェ(Hans Paasche)の「pacifistic Tolstojan」に基づいている。しかも、ショイルマン本人は、植民地主義を正当なものと考え、後には、ナチのための宣伝文さえ書くような人物だった。」


「ショイルマンは、1918年の戦争終結の直前にドイツに帰国し、1930年からはアルムスフィード(Armsfeld)で暮らし、1957年に79歳で死んだ。」

「南の理想郷は、まさに第一次大戦の厭戦気分にかられたショイルマンの空想のものだったといってよい。」

「ショイルマンが自ら吐露したように「パパラギ」は嘘つきなのである。西サモアが独立したのはその後の1962年で、東サモアは事実上、今も米国の統治下にある。パパラギの中に描かれた理想郷とはほど遠い。だが、スロー・ライフ・ブームに乗って、「へぇー、やっぱり伝統的な民族の文明批判力にはすごいものがあるよなー」とその嘘にだまされてしまっている日本の若者たちは、サモアの人々よりもさらに不幸としか言いようがない。」
http://pub.ne.jp/cubaorganic/?entry_id=293974より引用

「Actions speak louder than words.(人はことばより行ないで判断される)」
http://www.mock-examination.com/mosi_kotowaza.htmlより引用

「鬼頭秀一氏は、ちゃんと『自然保護を問いなおす』(ちくま新書1996)のP21でちゃんとこう指摘してくれている。  「ただし、ツイアビの演説はサモア人の普通の話し方とは異なるし、サモアの演説の形式も踏んでいないことから、文化人類学者の間では疑問視されてきた。そして、最近これが偽者であることはほぼ明らかになっている」 」

「そう、鬼頭氏が指摘するように文化人類学者の間では、パパラギが偽者であることは常識だったのだ。パパラギ・ブームもあいまって日本のサイトには、こうした写真が掲載され...続きを読む

Q音圧のパスカルと騒音のデシベルとの関係

音圧のの単位の「パスカル」と騒音の単位の「デシベル」との関係について質問します。
(1)まず第1段階で、実際の音圧(音のエネルギー)を測定して得られた実測値(パスカル)を先に取得して、
(2)その次の第2段階で、上記の第1段階で取得した実測値(パスカル)を対数に変換することにより、騒音レベルの値(デシベル)を算出する、
と考えてよいのでしょうか?

Aベストアンサー

デシベルというのは「AはBの100倍」といった場合の100に相当する数字です。

騒音がCデシベルというとき騒音がAパスカルとするとBは何かということが気になります。

これは国際的なルールがあって基準音圧p0(20μPa=20*10^(-6)Pa)の何倍かという

ことになっています。そしてデシベルはこの何倍という数字を対数に変換しています。

整理すると

(1)まず第1段階で、実際の音圧(音のエネルギー)を測定して得られた実測値(Pパスカル)を先に取得して、

(2)その次の第2段階で、実測値(Pパスカル)と基準音圧p0(=20μPa=20*10^(-6)Pa)の比を

  対数に変換することにより、騒音レベルの値(デシベル)DBを算出する。式で書けば


  騒音の大きさ=20×log(P/P0)DB


この式の意味するところは、騒音が大きくなって基準音圧の10倍になると騒音は20DB、

基準音圧の100倍になると騒音は40DB、、、、と言うということです。

現在、騒音が50DBで、ジェット機が通過して70DBになったとすると騒音の音圧の大きさは

10倍になったことになります。

デシベルというのは「AはBの100倍」といった場合の100に相当する数字です。

騒音がCデシベルというとき騒音がAパスカルとするとBは何かということが気になります。

これは国際的なルールがあって基準音圧p0(20μPa=20*10^(-6)Pa)の何倍かという

ことになっています。そしてデシベルはこの何倍という数字を対数に変換しています。

整理すると

(1)まず第1段階で、実際の音圧(音のエネルギー)を測定して得られた実測値(Pパスカル)を先に取得して、

(2)その次の第2段階で、実測値(Pパスカル)と基準音圧p...続きを読む

Q究極の悪とは――存在について――

 《Q:悪は 存在しない》=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4642854.html を承けて あたかもその一見 例外であるような形態を この質問で 取り上げます。
 ○ 《究極の悪(または 人間にとっての真の敵)》とは 何か。
 ○ じつは 神学には 悪の究極の形態について 理論がつくられています。その実在性を問います。

 悪は こころのへそ曲がりに発します。うそ のことです。
 ウソと言う限りで ウソでない心のありか または あり方があるはづです。それを 善と呼ぶとすれば 悪は 善のひねくれ・ねじ曲がりであり それが くせとなれば 善が損傷を受け 欠けていきます。
 つまり 悪は 悪というものが なにか・どこかに 他の一切のものから独立して存在するのではなく 善が減少していくにつれ 現われると考えます。自然本性と言うべき心としての善が減ること・また善を減らすこと これを 悪と呼び 善が減った状態のことも 悪と呼ぶという見方です。

 さすれば 悪の究極とは 人間存在にそなわった善が すべて 欠如した状態を言うと推し測られます。

 これは 単純な例として 身体の抹殺(つまり 殺すことですね) あるいは 精神的に 無視し無関心となること(あるいはつまり 虫けらとして ひとを扱うこと)を挙げることができます。
 言いかえると 悪の究極とは 身体にとっても精神にとっても 死のことです。存在の消滅のことです。
 ところが 《悪は 存在しない》という基礎命題は この究極の悪としての《死》が死ぬということを 内包しています。善が欠けただけなのですから 埋め合わすことができるという主張です。減った分を 増やせばよいとなります。すっからかんとなって なくなっても まだなお 善を回復すればよいという考え方です。

 ここで 悪の究極の究極とは この《〈善の完全な欠如である究極の悪である死〉が死ななくなる》ことだと言います。初めの死が 第一の死だとすれば その死が死ななくなるということは 死の確定・固定を意味するようです。つまり 善の欠如のままであるという意味です。
 これが 《第二の死》と呼ばれる《とどのつまりの悪》だという説明です。俗に言う《生けるしかばね》でしょうか。
 果たして この もはや元の善に戻ることのない《第二の死》としての最終的な悪は 実在するものでしょうか。ぜひ ご教授ください。

 * わたしの感触としましては いまのところ このように《第二の死》としての悪が 想像上で考えられているというその理論を知れば 初めの善なる存在ないし《わたし》に戻ることができる。というふうに捉えるなら それだけで じゅうぶんなのかも知れないという捉え方です。果たして どうでしょう。お知恵を拝借します。

 《Q:悪は 存在しない》=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4642854.html を承けて あたかもその一見 例外であるような形態を この質問で 取り上げます。
 ○ 《究極の悪(または 人間にとっての真の敵)》とは 何か。
 ○ じつは 神学には 悪の究極の形態について 理論がつくられています。その実在性を問います。

 悪は こころのへそ曲がりに発します。うそ のことです。
 ウソと言う限りで ウソでない心のありか または あり方があるはづです。それを 善と呼ぶとすれば 悪は 善のひ...続きを読む

Aベストアンサー

オコリザルです。
前に反物質おばけってのを話した憶えがありますが、このおばけは反物質についての論理武装をした特異な知性でした。
私は無学なのでその手の知識はありません。要するに経験に無い自らが生み出したものでない魔物でした。
このおばけは光、神、存在、あらゆる面で人知に想像しうる正反対の性質を備えた知性です。地球上の生命に想像しうる第二の死を、いわば転生の目標とした困った存在です。
お相手はメチャンコ悪魔君が担当しました。
このおばけには言葉がありません。
マナ識の、要するに私自身の声の、代理として、メチャンコ悪魔君がその知性を解きほぐし復活蘇生させました。
神様がいずこからか連行してきた縁の無いおばけでしたが、私の脳と体はこのおばけに反応しましたので生命に内包しうる知性でもありました。このときの脳の反応が、(エヴァンゲリオンみたいに)知性の暴走により無意識が浮き彫りになる状態です。
人間の手で克服することが人間の普遍性を記憶する上で重要であったと推測します。
primeapeなんて気取っていますが実際は神様のモルモットです。
第二の死の究極の姿さえも救いえます。
ですから勝負は全て買って下さい。

無意識の話ですが個を超えて連携している無意識は地上で起きている事象で理解できないことは何も無い状態にする目標でしょう。
理解の行き届かない影が闇の子です。

オコリザルです。
前に反物質おばけってのを話した憶えがありますが、このおばけは反物質についての論理武装をした特異な知性でした。
私は無学なのでその手の知識はありません。要するに経験に無い自らが生み出したものでない魔物でした。
このおばけは光、神、存在、あらゆる面で人知に想像しうる正反対の性質を備えた知性です。地球上の生命に想像しうる第二の死を、いわば転生の目標とした困った存在です。
お相手はメチャンコ悪魔君が担当しました。
このおばけには言葉がありません。
マナ識の、要す...続きを読む


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