家光 家綱の側室に養春院という同じ名前の人物がいますが
同一人物なのでしょうか?

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A 回答 (5件)

徳川将軍家墓碑総覧


P327には 養春院は家綱の側室で、家光の側室にはいませんね。
徳川諸家系譜 4
P109 にもそのように書いてある

つまりWIKIPEDIAの間違いかなと
http://books.google.co.jp/books?ei=3XIVSvamMobgk …養春院&as_brr=3
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この回答へのお礼

家光の側室のおまさの方をWIKIで養春院と間違え
表示されていましたが、後に削除されたようです
しかし表題の妻の欄には依然残っています(ていねいに赤字で)
WIKIもまちがえが結構ありますね
ご指摘の書籍は間違えはなさそうですね
ありがとうございました

お礼日時:2009/05/22 09:12

こんばんわ。


NO3.です。

>>夜のお相手が上達したところで越し入れをしたというのは
ほんとうでしょうか?

昔は、例えば、江戸の庶民の実態を見てみると、男60%、女40%でしたので、男は一生涯独身で暮らす人も多かった。
従って、一緒になってくれる女がいれば、処女でなかろうと、子持ちであろうと、所帯を持ちました。

まあ、将軍家あたりでも、実際に、家臣の妻を好きになり、大奥へ入れたりもしていますので、その「逆バージョン」もありましたね。
柳沢吉保なども「染子」を側室としていますが、綱吉の側室であり、下賜された人物ですよね。
しかし、綱吉は、度々吉保の自宅に訪れています。
たぶんに、綱吉と染子の密会場所だつたのでは・・・と、推測されます。

吉宗と竹姫・・・恋愛関係にあった。
と、多くの書物にも書かれていますので、男女の仲はあったのかも知れませんね。
しかし、吉宗が将軍であるがゆえに、「許された」ことであり、逆に、「封印」されて「闇」に葬られたのかも知れませんね。
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この回答へのお礼

竹姫をいろいろと調べましたが
吉宗が竹姫を継室に強く望んだが天英院の猛反対で頓挫した
ようですので、かなりの恋愛感情があったようです、
仕方なく養女にしたようですが、養女というより夜のお相手
が主だったようです、最終的に薩摩藩に越しいれとなりましたが
いろいろもめたようです、しかし幕末に薩摩が台頭してきたのは
竹姫の越しいれがきっかけだったようです

ありがとうございました

お礼日時:2009/05/26 11:41

こんばんわ。


NO3.です。

>>家綱が家光より側室をもらい下げで拝領
したのかと思いまして質問してしまいました

一瞬、そのような考え方も起きるかも知れませんが、将軍家として、つまり、武家の棟梁として、結構、「秩序」が重んじられました。

※3代家光が将軍になるに当たっても、春日局の尽力があったとは言え、「長子優先」が基本とされましたよね。

※5代綱吉の養女「竹姫」と8代吉宗の関係が、私の脳裏に浮かびました。
「竹姫」

(1)5代綱吉と側室・大典侍局(おおすけのつぼね=寿光院)の養女。

(2)大典侍局は、綱吉の側室でしたが、子に恵まれなかったため、姪の竹姫を養女に望んだ。

(3)綱吉も紀州藩主徳川綱教に嫁いだ一人娘の鶴姫を亡くしたばかりだったため、特別に、側室に養女を迎えることを許可する。

(4)宝永5年(1704)7月、会津藩主松平正容の嫡子久千代(正邦)と婚約するも、宝永12年久千代早世。

(5)宝永7年(1710)、有栖川宮正仁親王と婚約するも、享保元年(1716)、輿入れ直前に親王が没する。

(6)将軍は8代吉宗の代となる。

(7)正室を亡くしていた吉宗は竹姫を継室に望むも、5代綱吉の養女であり、仮にも「大叔母」に当たるため断念。

(8)吉宗は、それでも、竹姫を案じ、養女とする。

(9)一説には、吉宗と竹姫は恋愛関係にあった、とも言われているが定かではない。

(10)さらに、二度の婚約までしても、その相手が立て続けに死亡したことで、婚家探しは難航。

(11)享保14年(1729)、ようやく薩摩藩主島津継豊との縁組が成立。

少々「余談」でしょうかねぇ。
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この回答へのお礼

ありがとうございました
養女として迎えたのに、中にはもっぱら夜のお相手専門という
養女がいたと本で読んだことがあります
夜のお相手が上達したところで越し入れをしたというのは
ほんとうでしょうか?

お礼日時:2009/05/23 08:59

こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

>>家光 家綱の側室に養春院という同じ名前の人物がいますが
同一人物なのでしょうか?

Wikipediaを見られたのでしょうか。
Wikipediaも間違いを起こすことがありますね。

ちなみに、
家光の正室、側室
正室・孝子・・・鷹司信房娘・・・本理院
側室・お夏の方・・・京都の町人弥市郎(のち、旗本藤枝重昌)娘・・・順性院
側室・お万の方・・・公家六条有純娘・・・永光院
側室・お玉の方(お国の方とも呼ばれた)・・・関白二条氏家の家司本庄宗利の義理娘・・・五代家綱生母・・・桂昌院
側室・お楽の方(お蘭の方とも呼ばれた)・・・古河藩領の百姓青木利長娘・・・宝樹院
側室・お振の方・・・幕臣町野幸和娘・・・自証院
側室・お琴の方・・・浄土真宗寺院徳円寺住職娘・・・芳心院
側室・お里佐の方・・・正室孝子の侍女、父親不明・・・定光院
側室・おまさの方・・・不明

家綱の正室、側室
正室・顕子(あきこ)・・・伏見宮貞清親王娘・・・高厳院
側室・お振の方・・・吉田兼起娘・・・養春院
側室・お満流の方・・・佐脇安清娘・・・円明院

家光は8人の側室をもちましたが、家綱は病弱であったため、2人しか側室はもつことができませんでした。
NO1.の方が言われるように、

家光の側室・お振の方・・・自証院

家綱の側室・お振の方・・・養春院

が混同されたためと考えますが、

「徳川実記」によると、家綱の側室・お振の方について、
「お振の方と呼ばれたようであるが、その実つまびらかならず」
と、あり、朱墨で「、」「、」と印が付けられており、武士の娘ではありましたが、父親の吉田兼起は身分が軽るかったため、あまり記録としては残らず、実際には「お振の方」とは呼ばれてはいなかった可能性もあることを窺わせます。
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この回答へのお礼

毎度丁寧な回答ありがとうございます
WIKIを結構信用しておりまして、家光の妻の欄に赤字で養春院と
でていたものですから、家綱が家光より側室をもらい下げで拝領
したのかと思いまして質問してしまいました
中世以前ならともかく江戸で同じ側室を親子が共有することはありませんね、徳川実記等権威のある書物で調べなければいけませんね
結論としてWIKIの単純な間違いのようです(養春院の削除の記録
もありましたが現在も掲載されたままです)

お礼日時:2009/05/22 16:58

私も文献、資料等を調べてみましたが、徳川家光の側室の中に「養春院」を見つけることはできませんでした。


家綱の側室の1人が「養春院」でした(吉田兼起の娘とされています)。

その中で1点もしかしたら…と思ったのは、家綱の側室である「養春院」の俗名というか、大奥での名前が『お振(の方)』だったようなのですが、家光の側室の1人である「自証院」も名前が『お振の方』なのです。

このあたりから、もしかしたら混同があったのでは…と思いました。
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この回答へのお礼

ありがとうございます
私がWIKIだけで質問してしまいました

お礼日時:2009/05/22 16:44

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Q徳川家光について

徳川家光について詳しくまとめてあるサイトや、武家諸法度、参勤交代、鎖国、大名の統制、慶安のお触書など、家光に関係することが分かりやすく書いてあるサイトがあったら教えてください。

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 こちらはいかが?


http://www.uraken.net/rekishi/reki-tokugawa03.html

http://www.nhk.or.jp/nihonshi/chara68/nwordtop.html

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Q徳川綱豊(徳川家宣)がいるのに徳川綱教が6代将軍候補になっていた理由は?

徳川御三家は徳川宗家の血が絶えたときに、将軍を出す役目を持っていました。
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Q徳川家光は長男か?

1・徳川家光は秀忠の長男ですか?。長丸って言う兄貴がいなかったですか?。

2・長丸が正式な嫡子ですか?。

3・もし、長丸が将軍になっていたら家光、忠長、正之はどうなっていたんですか?。

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5・オヤジの徳川家斉は陰口でオットセイ将軍とか、変態将軍とまで呼ばれてバカにされていましたが、何で汚名挽回しなかったんですか?。

6・水野忠邦、鳥居耀蔵は悪人ですか?。

Aベストアンサー

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

1・徳川家光は秀忠の長男ですか?。長丸って言う兄貴がいなかったですか?。

「次男」です。
長男に「長丸」という兄がいました。
長丸は、
『系図纂要』によると慶長6年(1601年)2月~ 慶長7年(1602年)7月。
「幕府祚胤伝」(『徳川諸家系譜』第2巻)では、慶長6年(1601年)12月3日~ 慶長7年(1602年)9月25日。
となっています。
また、長丸は『幕府祚胤伝』と『御早世被当御灸』によるとお灸が原因で死亡したと言われています。


2・長丸が正式な嫡子ですか?。

嫡子となる可能性はあったと思います。

家康に長子相続を進言したのは春日局ですが、これは、長丸が夭逝していたため、竹千代(家光)に徳川家を継がせようと画策したものと一般的には言われています。しかし、当時の武家社会では大概の場合、長子相続が多かったので、長丸が生きていれば、徳川家を継ぐ可能性はあったと思います。


3・もし、長丸が将軍になっていたら家光、忠長、正之はどうなっていたんですか?。

領土を与えられ「親藩大名」となっていたでしょう。


4・徳川家慶は大御所時代はそんなに頼りない将軍だったんですか?。

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5・オヤジの徳川家斉は陰口でオットセイ将軍とか、変態将軍とまで呼ばれてバカにされていましたが、何で汚名挽回しなかったんですか?。

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6・水野忠邦、鳥居耀蔵は悪人ですか?。

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天保14年(1843年)、幕府が江戸・大坂周辺の大名・旗本領の幕府直轄領編入を目的とした上知令を発令すると猛烈な反発を受けて、家慶の判断で翌年にその撤回を余儀なくされ忠邦は失脚して天保の改革は挫折しました。また、幕府財政再建に乗り出し、諸改革を打ち出したが、徹底的な奢侈の取締りと緊縮財政政策を採用したため世間に支持されなかった。また言論統制も行ない、高野長英や渡辺崋山などの開明的な学者を弾圧した(蛮社の獄)。改革を行おうとする者は、とかく異端者扱いをされるもので、一概に「悪人」とも言えないのではないでしょうか。

鳥居耀蔵:
老中である水野忠邦の天保の改革の下、目付や南町奉行として市中の取締りを行う。渋川敬直、後藤三右衛門と共に水野の三羽烏と呼ばれる。天保9年(1838年)、江戸湾測量を巡って洋学者の江川英龍と対立する。この時の遺恨に生来の保守的な思考も加わって洋学者を嫌悪するようになり、翌年の蛮社の獄で渡辺崋山や高野長英ら洋学者を弾圧する遠因となる。天保12年(1841年)、南町奉行矢部定謙を讒言により失脚させ、その後任として南町奉行となる。矢部家は改易、定謙は伊勢桑名藩に幽閉となり、ほどなく絶食して憤死する。後年の研究では、耀蔵は単なる蘭学嫌いではなく、天保14年(1843年)多紀安良の蘭学書出版差し止めの意見に対して「天文・暦数・医術は蛮夷の書とても、専ら御採用相成」と主張して反対するなど、その実用性はある程度認めていたことが判明している。まあ、権力争いをしましたので、やや「悪人」と言う程度でしょうね。

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

1・徳川家光は秀忠の長男ですか?。長丸って言う兄貴がいなかったですか?。

「次男」です。
長男に「長丸」という兄がいました。
長丸は、
『系図纂要』によると慶長6年(1601年)2月~ 慶長7年(1602年)7月。
「幕府祚胤伝」(『徳川諸家系譜』第2巻)では、慶長6年(1601年)12月3日~ 慶長7年(1602年)9月25日。
となっています。
また、長丸は『幕府祚胤伝』と『御早世被当御灸』によるとお灸が原因で死亡したと言われています。


2・長丸が正式な嫡子です...続きを読む

Q徳川家はどうして秀忠より家光の方が力があったのか?

素朴な疑問です、徳川家はどうして秀忠より家光の方が実験が強くて慶安の御触書や参勤交代、キリスト教の禁止などをできたのですか?
更に将軍になるまで家康に可愛がられていたとか
家康の死後は家光が日光東照宮を家康の墓として建造させたとか
乳母の春日局が家光の実力で乳母(育ての母、養母、教育係)として大奥を支配したとか
孫とはいえ息子の秀忠より孫の家光の方が可愛がられていたのですか?

Aベストアンサー

まず、家光が秀忠より力があったわけではありません。
秀忠の場合、家康が最後まで権力を維持していたため、秀忠が独自に力を発揮できる期間が少なかったことがあると思います。
また、秀忠ははじめから家康の後継者ではなかったこと、家康自体がはじめから天下人ではなかったことがあります。そのため、他の大名との関係が比較的に近かったことがあげられます。
それに対して、家光は祖父も父も将軍であり生まれたときから将軍家の嗣子でした。その上、祖父、父からよい近臣をそば近くにおいてもらい一緒に育ちました。
また、家光の治世は必然的に徳川3代の総まとめの時期であり家康や秀忠が出した決まりを整理していっております。
そういうところで、秀忠より家康が目立ち、権力もあったように感じるのでしょう。

Q徳川家光と人生を交換できるとしたらしますか?

3代将軍 徳川家光が現在のあなたと人生を交換しようと
言ってきました。
あなたは交換しますか?
(徳川政権は磐石であり命の危険はありません。)
今の一般人と400年前の日本一の権力者どちらが幸せか聞いて見たいのです。

もし交換したら何をしたいですか?
できれば3つほど教えてください

Aベストアンサー

家光じゃまだ磐石じゃないような……
それはさておき、なりたくないですね
しきたりとか儀式、儀礼とか大変そう
大名や朝廷との付き合いもつらそうだ

やりたいことは
1 着物の帯を引っ張り人間独楽  
2 家老と密談しお主も悪よのうと言う
3 悪巧みをしている大名屋敷に入り成敗 
そのとき、この顔を見忘れたかと言う

Q歴史的人物と同じ名前の人はいますか?

友人と時々冗談で話すのですが、たとえば、イエスキリストという名のユダヤ人、ゴータマシッダルタという名のインド人、クレオパトラという名のエジプト女性、ユリウス・カエサルという名のイタリヤ人、フビライハンという名の蒙古人、アドロフ・ヒトラーという名のドイツ軍人とか 「歴史上で超有名な人と同じ名前の人」 って、御存知の範囲でいますか?

もし、いないとすれば、スタイルが古すぎて親がつけないのか、あるいは畏れ多くてつけないのか ・・・

昔、ギリシアの船主で、アリストテレス・ソクラテス・オナシスという名前の人がいました。 

また、スペイン語圏の人で、ヘスース、という名の人がいますが、これは 「イエス」 または 「イエズス」 のスペイン語読み、って聞いた事があって興味をもちました。

日本では、蘇我入鹿とか平清盛とか、いかにも冗談っぽくって、親がつけないですが、外国ではどうなのでしょう?

Aベストアンサー

こんばんは。

すみません・・・直接の回答とは違うのですが、「イエス・キリスト」とは人名ではありませんよ。彼の本名は「ナザレ村のイエス」で、キリストとは結局役職(笑)のようなものかしら。「救い主」とか「神と一つになった者」とか「神の子」と言う意味です。
ですので、余程自分から「神の子」として名乗らない限りは「イエス・キリスト」と言う名はありえないでしょう。
あと、ヒトラーという名前も、確か当のアドルフのせいで、一族郎党ヒトラーの名前を捨てて別の名前になったと、歴史の本で読んだ覚えがあります。ですので、アドルフ・ヒトラーも存在はしないでしょうね。

ご参考の一部に加えて頂けたら幸いです。

Q徳川秀忠の側室と徳川家光の正室について

徳川秀忠の子、保科正之の母の静ですがウイキペディアの徳川秀忠
のページでは側室としてかかれていますが、ウイキペディアの大奥の
ページの将軍の側室一覧では側室として記載されていません。
どちらが正しいのでしょうか?
個人的には静が保科正之が誕生前から誕生後も江戸城内に住んでいませんでしたし、
正之が徳川又は松平を名乗っていませんので正之は隠し子
(正室の江与には知れていたが諸大名には内密)であったため、側室
扱いではなかったと思います。

もう一つ質問ですが、
徳川家光の正室である鷹司孝子と家光の仲が険悪であったと言う記録が
あり(様々な書物)事実と思われますが、険悪な理由はなんだったのでしょうか?

Aベストアンサー

まず、側室については大奥にしかるべき部屋をもちお付きのものたちが配され公認されなければ、側室ではありません。質問者さんの解釈で良いと思います。

さて、家光の夫婦仲の悪さですが、普通は朝幕関係の緊張関係が影響してと考えるのが正論でしょう。

鎌倉以降、どんどん実権を奪われつずけた朝廷は豊臣政権下では大きく影響力を回復しました。しかし、徳川政権は家康が禁中並びに公家諸法度を制定するなど朝廷を縛る動きを強めます。二代秀忠は娘の和子を強引に後水尾帝に入内させたり、紫衣事件、春日の局の無位参内など朝廷の権威を失墜させ、後水尾帝を激怒させまくっています。そうした朝廷を代表してきている正室とうまくいかないのは当たり前田のクラッカーです(藤田まことさんのご冥福をお祈りします)。

しかし、本当のところはわかりません。家光はどうも性格異常のような気配がありますし、春日の局との関係は(変な意味でなく、変な意味もあるかもしんないが)ちと異常です。幼児期の親からの虐待からかどこか変です。そのへんが実は本当の理由かもしれません。

Q【日本を創った人物、世界を創った人物】日本を創った人物、世界を創った人物を見ていて傾向が見えて来たん

【日本を創った人物、世界を創った人物】日本を創った人物、世界を創った人物を見ていて傾向が見えて来たんですが、、、

まず

宗教家が世界を作り、

帝国時代を迎え皇帝(天皇も含む)が世界を作り、

政治家が世界を作り、

文化人が世界を作り、

経済人が世界を作り、



経済人の次に世界を作るのは誰だと思いますか?

後世の歴史教科書に載るとしたら安倍首相ではなくアップルの創業者だと思いますし、次に載るならテスラモーターズの創業者かバージングループの創業者だと思うんですよ。

いま世界を作っているのは明らかに政治家ではなく経済人が作っている。

政治家は経済人から金を巻き上げている一昔前の皇帝と政治家の図式と同じなので政治家が世界を作る時代はもう終わりになる気がします。

政治家は汚職ばかりで安倍首相も麻生太郎も汚職してると思います。お金は貰ってないけど口利きはしていると思います。政治家の仕事は口利きですよね。政治家から口利きを取ったら何も残らない。

けどもう口利きで国を作っていく時代は終わったのだと思う。

国を創っている人物は文化人と経済人で政治家は経済人や文化人の口利きに動いているに過ぎない。

その文化人、経済人が世界を創る時代が終わったとして次に世界を創っていくのはどのジャンルの人になるのか予想してください。

民主主義と言いながら民主主義として機能していない政治の時代は終わりました。

政治家は口利きしてなんぼなので口利きしただけで汚職と言われ逮捕される時代が来ます。韓国はまさにそれで日本もそうなると思います。口利きが出来なくなった政治家に存在価値はありません。民主主義という名の口利きの時代は終わりです。

【日本を創った人物、世界を創った人物】日本を創った人物、世界を創った人物を見ていて傾向が見えて来たんですが、、、

まず

宗教家が世界を作り、

帝国時代を迎え皇帝(天皇も含む)が世界を作り、

政治家が世界を作り、

文化人が世界を作り、

経済人が世界を作り、



経済人の次に世界を作るのは誰だと思いますか?

後世の歴史教科書に載るとしたら安倍首相ではなくアップルの創業者だと思いますし、次に載るならテスラモーターズの創業者かバージングループの創業者だと思うんですよ。

いま世界を...続きを読む

Aベストアンサー

貴方にお勧めしたい本があります

古典
史記
文学 特にロシア

よくお勉強してから 質問しなさい

Q徳川家光のお守り袋

徳川家光のお守り袋には「二世権現 二世将軍」と書かれていた紙が入っていたそうですが、どんな本を読んでもこれは父・秀忠を無視して自分こそ二代将軍なりという自負の表れとされています。しかし、単純に父・秀忠の名前をお守りにしていた微笑ましい親子関係という解釈は成り立たないのでしょうか? どんな本を読んでもそういう解釈をしている本が無いのです。いくら幼少時に忠長擁立云々で可愛がられなかったとはいえ、そこはやはり血の繋がった親子の情は絶ち難く…という人情の図式は考えられないのでしょうか?

Aベストアンサー

ご質問者様の考えられている図式ですが、以下の理由から考えられないと思います。

・権現は本来日本の神の神号の一つであること。
・秀忠公は父の家康公と異なり、神ではなく人間として扱われることを希望していたこと。
・秀忠公は、正室お江与の方に頭が上がらず、お江与の方が溺愛していた
 弟の忠長公を将軍に擁立しようとしていたこと
・家光公は、父ではなく祖父家康公の傍にお墓があるように家康公を崇拝していたこと。
・秀忠公が亡くなった後、弟の忠長公を切腹に追い込んだこと。

以上から、微笑ましい親子関係とは考えにくいと思います。

Q「佐々木守綱」とは「佐々木盛綱」のことでしょうか

以前縁あってお世話になった埼玉県さいたま市の「守光院」というお寺は以下のようなご由緒だそうですが
『当時の開基は冶承四年(1180年)源頼朝が伊豆に挙兵したとき、その軍勢を集めるため当地木崎庄太田窪に要害を構えた佐々木三郎守綱です。佐々木三郎守綱は宇治川合戦のとき先陣争いで有名な佐々木四郎高綱の兄に当たります。
守綱は当地に留まること五ヶ月、引揚げるに当たり小堂宇を建立し、持仏の薬師瑠璃光如来と家臣の阿弥陀如来を安置し、寺号を護国山守綱院と号しました。』
http://syukouin.com/
ここにある「佐々木守綱」とは「佐々木盛綱」↓のことと考えて良いでしょうか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E3%80%85%E6%9C%A8%E7%9B%9B%E7%B6%B1
「高綱の兄」となっていることからもそうであろうとは思うのですが、そうしますとこのお寺ではそのようなご由緒にも拘らず諱の文字が間違って伝わっているのでしょうか。
時が経つ間に読みが同じ文字を取り違えるというようなことは十分起こり得るとは思うのですが、ご由緒の通りですと間違ってしまうのは不自然なようにも思います。
ご由緒自体が「伝承」に過ぎないということでしょうか。
「国史大事典」の「佐々木盛綱」の項なども調べてみたのですが、「相模」や「上野」にいたような記述はあっても「武蔵」云々はありませんでしたので、はっきりしたことはわからないような印象も受けます。
また、ご由緒にあるように生前にその人物の諱がお寺の名に冠されるようなことはよくあることでしょうか。
あまり聞いたことがないので、例えば当初は「薬師堂」などと呼ばれていたものが、後の世に建立の経緯からそのような名前に変えられたと考えたほうが自然なように思うのですが如何でしょうか。
推測でも構いませんのでご意見お聞かせ頂ければ幸いです。
宜しくお願い致します。

以前縁あってお世話になった埼玉県さいたま市の「守光院」というお寺は以下のようなご由緒だそうですが
『当時の開基は冶承四年(1180年)源頼朝が伊豆に挙兵したとき、その軍勢を集めるため当地木崎庄太田窪に要害を構えた佐々木三郎守綱です。佐々木三郎守綱は宇治川合戦のとき先陣争いで有名な佐々木四郎高綱の兄に当たります。
守綱は当地に留まること五ヶ月、引揚げるに当たり小堂宇を建立し、持仏の薬師瑠璃光如来と家臣の阿弥陀如来を安置し、寺号を護国山守綱院と号しました。』
http://syukouin.c...続きを読む

Aベストアンサー

 こんにちは。これは難しくてわかりません。
 地方に残っている人名、地名は間違って後世に伝わることが多いですね。今のように全国ネットはありません。地方で無責任に書いたやつを写し間違えて、それが残ってしまうということが、結構多いようです。地名の方がヒドイかな。
 日本名刹辞典で「守光」と「守綱」をキーにして探しましたら、「守光」については1件もなく、「渡辺山守綱寺」というのが愛知県に3軒もありました。渡辺綱の後裔といわれている徳川16将の一人、渡辺守綱の孫が建立したもので、三つとも本物のようです。
 しかし、このように個人名をまともに山号寺号にしているケースはすくないですね。

守光院について
>当初は「薬師堂」などと呼ばれていたものが、後の世に建立の経緯からそのような名前に変えられたと考えたほうが自然なように思う・・・

 私もそのように思います。

>ご由緒自体が「伝承」に過ぎないということでしょうか。

・・・そうでしょうね。下のさいたま市の文化財の紹介でも「伝佐々木守綱(盛綱)守本尊」となっています。「伝」です。 

【さいたま市/文化財紹介】 銅造阿弥陀如来立像どうぞうあみだにょらいりゅうぞう ・南区太田窪5-11-9 守光院. 鎌倉時代。伝佐々木守綱(盛綱)守本尊。銅造。像高47.9cm。善光寺式中尊。 ■関連文献・浦和市文化財調査報告 第2集・浦和の文化財. この文化財は常時公開されていませんので、 ...

 日本人名大辞典で佐々木盛綱を調べたら、「頼朝薨去後出家して面念と号した。かつての越後の領地、加冶荘に伽藍を建立したことがある。」と出ていました。守光院や武蔵地方については出ていません。
 しかし、武蔵地方での事跡の史料が残っていなくても、実際にあったことかも知れません。まあ、お寺を建てそうな人ではあるようです。

 江戸時代に入ってからは、そこそこハッキリしていると思いますが、それ以前のことはよくわからんのじゃないでしょうか。
 「守綱イコール盛綱」には違いないと思います。しかし、佐々木盛綱が開基であると100%証明するものはないのだろうと思います。ということで、そういう言い伝えが残っていて、本当らしいですよ、ということにしておきます。

 こんにちは。これは難しくてわかりません。
 地方に残っている人名、地名は間違って後世に伝わることが多いですね。今のように全国ネットはありません。地方で無責任に書いたやつを写し間違えて、それが残ってしまうということが、結構多いようです。地名の方がヒドイかな。
 日本名刹辞典で「守光」と「守綱」をキーにして探しましたら、「守光」については1件もなく、「渡辺山守綱寺」というのが愛知県に3軒もありました。渡辺綱の後裔といわれている徳川16将の一人、渡辺守綱の孫が建立したもので、...続きを読む


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