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家光 家綱の側室に養春院という同じ名前の人物がいますが
同一人物なのでしょうか?

A 回答 (5件)

徳川将軍家墓碑総覧


P327には 養春院は家綱の側室で、家光の側室にはいませんね。
徳川諸家系譜 4
P109 にもそのように書いてある

つまりWIKIPEDIAの間違いかなと
http://books.google.co.jp/books?ei=3XIVSvamMobgk …養春院&as_brr=3
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この回答へのお礼

家光の側室のおまさの方をWIKIで養春院と間違え
表示されていましたが、後に削除されたようです
しかし表題の妻の欄には依然残っています(ていねいに赤字で)
WIKIもまちがえが結構ありますね
ご指摘の書籍は間違えはなさそうですね
ありがとうございました

お礼日時:2009/05/22 09:12

私も文献、資料等を調べてみましたが、徳川家光の側室の中に「養春院」を見つけることはできませんでした。


家綱の側室の1人が「養春院」でした(吉田兼起の娘とされています)。

その中で1点もしかしたら…と思ったのは、家綱の側室である「養春院」の俗名というか、大奥での名前が『お振(の方)』だったようなのですが、家光の側室の1人である「自証院」も名前が『お振の方』なのです。

このあたりから、もしかしたら混同があったのでは…と思いました。
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この回答へのお礼

ありがとうございます
私がWIKIだけで質問してしまいました

お礼日時:2009/05/22 16:44

こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

>>家光 家綱の側室に養春院という同じ名前の人物がいますが
同一人物なのでしょうか?

Wikipediaを見られたのでしょうか。
Wikipediaも間違いを起こすことがありますね。

ちなみに、
家光の正室、側室
正室・孝子・・・鷹司信房娘・・・本理院
側室・お夏の方・・・京都の町人弥市郎(のち、旗本藤枝重昌)娘・・・順性院
側室・お万の方・・・公家六条有純娘・・・永光院
側室・お玉の方(お国の方とも呼ばれた)・・・関白二条氏家の家司本庄宗利の義理娘・・・五代家綱生母・・・桂昌院
側室・お楽の方(お蘭の方とも呼ばれた)・・・古河藩領の百姓青木利長娘・・・宝樹院
側室・お振の方・・・幕臣町野幸和娘・・・自証院
側室・お琴の方・・・浄土真宗寺院徳円寺住職娘・・・芳心院
側室・お里佐の方・・・正室孝子の侍女、父親不明・・・定光院
側室・おまさの方・・・不明

家綱の正室、側室
正室・顕子(あきこ)・・・伏見宮貞清親王娘・・・高厳院
側室・お振の方・・・吉田兼起娘・・・養春院
側室・お満流の方・・・佐脇安清娘・・・円明院

家光は8人の側室をもちましたが、家綱は病弱であったため、2人しか側室はもつことができませんでした。
NO1.の方が言われるように、

家光の側室・お振の方・・・自証院

家綱の側室・お振の方・・・養春院

が混同されたためと考えますが、

「徳川実記」によると、家綱の側室・お振の方について、
「お振の方と呼ばれたようであるが、その実つまびらかならず」
と、あり、朱墨で「、」「、」と印が付けられており、武士の娘ではありましたが、父親の吉田兼起は身分が軽るかったため、あまり記録としては残らず、実際には「お振の方」とは呼ばれてはいなかった可能性もあることを窺わせます。
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この回答へのお礼

毎度丁寧な回答ありがとうございます
WIKIを結構信用しておりまして、家光の妻の欄に赤字で養春院と
でていたものですから、家綱が家光より側室をもらい下げで拝領
したのかと思いまして質問してしまいました
中世以前ならともかく江戸で同じ側室を親子が共有することはありませんね、徳川実記等権威のある書物で調べなければいけませんね
結論としてWIKIの単純な間違いのようです(養春院の削除の記録
もありましたが現在も掲載されたままです)

お礼日時:2009/05/22 16:58

こんばんわ。


NO3.です。

>>家綱が家光より側室をもらい下げで拝領
したのかと思いまして質問してしまいました

一瞬、そのような考え方も起きるかも知れませんが、将軍家として、つまり、武家の棟梁として、結構、「秩序」が重んじられました。

※3代家光が将軍になるに当たっても、春日局の尽力があったとは言え、「長子優先」が基本とされましたよね。

※5代綱吉の養女「竹姫」と8代吉宗の関係が、私の脳裏に浮かびました。
「竹姫」

(1)5代綱吉と側室・大典侍局(おおすけのつぼね=寿光院)の養女。

(2)大典侍局は、綱吉の側室でしたが、子に恵まれなかったため、姪の竹姫を養女に望んだ。

(3)綱吉も紀州藩主徳川綱教に嫁いだ一人娘の鶴姫を亡くしたばかりだったため、特別に、側室に養女を迎えることを許可する。

(4)宝永5年(1704)7月、会津藩主松平正容の嫡子久千代(正邦)と婚約するも、宝永12年久千代早世。

(5)宝永7年(1710)、有栖川宮正仁親王と婚約するも、享保元年(1716)、輿入れ直前に親王が没する。

(6)将軍は8代吉宗の代となる。

(7)正室を亡くしていた吉宗は竹姫を継室に望むも、5代綱吉の養女であり、仮にも「大叔母」に当たるため断念。

(8)吉宗は、それでも、竹姫を案じ、養女とする。

(9)一説には、吉宗と竹姫は恋愛関係にあった、とも言われているが定かではない。

(10)さらに、二度の婚約までしても、その相手が立て続けに死亡したことで、婚家探しは難航。

(11)享保14年(1729)、ようやく薩摩藩主島津継豊との縁組が成立。

少々「余談」でしょうかねぇ。
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この回答へのお礼

ありがとうございました
養女として迎えたのに、中にはもっぱら夜のお相手専門という
養女がいたと本で読んだことがあります
夜のお相手が上達したところで越し入れをしたというのは
ほんとうでしょうか?

お礼日時:2009/05/23 08:59

こんばんわ。


NO3.です。

>>夜のお相手が上達したところで越し入れをしたというのは
ほんとうでしょうか?

昔は、例えば、江戸の庶民の実態を見てみると、男60%、女40%でしたので、男は一生涯独身で暮らす人も多かった。
従って、一緒になってくれる女がいれば、処女でなかろうと、子持ちであろうと、所帯を持ちました。

まあ、将軍家あたりでも、実際に、家臣の妻を好きになり、大奥へ入れたりもしていますので、その「逆バージョン」もありましたね。
柳沢吉保なども「染子」を側室としていますが、綱吉の側室であり、下賜された人物ですよね。
しかし、綱吉は、度々吉保の自宅に訪れています。
たぶんに、綱吉と染子の密会場所だつたのでは・・・と、推測されます。

吉宗と竹姫・・・恋愛関係にあった。
と、多くの書物にも書かれていますので、男女の仲はあったのかも知れませんね。
しかし、吉宗が将軍であるがゆえに、「許された」ことであり、逆に、「封印」されて「闇」に葬られたのかも知れませんね。
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この回答へのお礼

竹姫をいろいろと調べましたが
吉宗が竹姫を継室に強く望んだが天英院の猛反対で頓挫した
ようですので、かなりの恋愛感情があったようです、
仕方なく養女にしたようですが、養女というより夜のお相手
が主だったようです、最終的に薩摩藩に越しいれとなりましたが
いろいろもめたようです、しかし幕末に薩摩が台頭してきたのは
竹姫の越しいれがきっかけだったようです

ありがとうございました

お礼日時:2009/05/26 11:41

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