源頼朝や北条政子、とにかくココらへんの人物がでる漫画を教えてください。出てこなくても近い時代の漫画なら全然構いません(源氏物語以外)。

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A 回答 (3件)

市川ジュン「華の王」(北条政子が主人公)と「燁輝妃」はいかがでしょうか。

同時代のヒロインが属するのが一方は鎌倉幕府ともう一方は京都の朝廷、というのが結構興味深いです。

参考URL:http://www.geocities.jp/onyadosuzume/newpage9-ic …
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「マンガ 日本の歴史」.


その辺の人物は出ます. その辺でない人物も出ます.
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ますらお ~秘本義経記~ 著 北崎拓

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Q北条政子は源政子という名で呼ばれない理由?

北条政子は源頼朝の妻となったのに、「源政子」と言われずに、「北条政子」と呼ばれるのはなぜなのか。

疑問1
この時代に妻となっても、夫の姓を名乗らないのが習慣であったのか。

疑問2
政子の手紙などには、署名を「源政子」としたものはないのか。また、「北条政子」としたものはあるのか。

疑問3
通称で言えば、細川ガラシャは夫の姓で呼ばれるが、これは、戦国時代へと時代が下り、習慣が変わったからなのか。あるいは、キリスト教徒という特殊な理由でなのか。

Aベストアンサー

1・明治の戸籍創設以前では女性が自ら姓や苗字を
 名乗ることは極めて稀であったと思います。
 女性は公式な地位を持ちませんから文書の署名も
 遺っていません(例外はあります)。

2・源政子の署名は目にしたことがありません。
 鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』には
 「平政子」もありますが、より多いのは「二品禅  尼」という敬称で記載され
 ています。
 「源頼朝卿妻」などでなく「平政子」という記載は 女性としてはたいへん珍し
 く、政子の特別な地位 が考慮されているものと思 われます。
 また『吾妻鏡』の時代になると政子は婚家(源氏) から実家(北条=平氏)
 への帰属を強めたのではないでしょうか。

3・細川ガラシャの呼び名の来歴は知りませんが、
 もしかするとイエズス会の僧によるカトリックの
 慣習からきているかもしれませんね。
 日野富子についてはよく知りません。

Qもし平清盛が源頼朝と源義経を処刑していたらその後の展開はどうなりますか?

もし平清盛が源頼朝と源義経を処刑していたらその後の展開はどうなりますか?

Aベストアンサー

源氏の生き残りは 誰かを統領にして戦うでしょう
隠れている源氏はいくらでも居る
平家は必ず 滅ぼされたでしょう
言い切れる理由に
平家に有能な人が居なかったと言う事と
復習は怖い と言う事です
 
注目したい事は 世界史等からも
この時代から 日本だけでなく
世界規模で戦争の時代に入った
と言う事 

其の発端が 日本は僧侶(保元の乱)
西洋は教会(十字軍)なんですね
ここにも注目

聖職者の堕落が戦争の発端

Q北条政子(鎌倉時代)

北条政子が、日本史に重要な人物として登場してくるのは、頼朝と夫婦になってからですよね?それなのに、私の知識不足かも知れませんが、なぜ、「源政子」ではないのでしょうか?当時は、夫婦別姓だったのですか?

「源政子」と記述されている文献はありますか?現代の教科書みたいなものでも構いません。

それとも「北条政子」という、私の質問のタイトルが、そもそも間違っているのでしょうか?鎌倉時代というのは、どうも「源」よりも「北条」の印象が強いですよね。

Aベストアンサー

中国や韓国では今でも妻が婚家の姓を名乗ることはなく一生実家の姓で通します。
妻が婚家の姓を名乗るようになったのは明治維新のときに西洋の風習をまねてそういうようにしただけで、江戸時代以前は妻は一生実家の苗字・姓で通しました。
系図などにも妻はなんとか氏というように実名はかかれなくても実家の苗字は書かれるのがふつうでした。
※署名のときは、
正式文書などに書く場合は姓名を書きましたが、この場合の姓とは北条家は平氏で、
源平藤橘の平で北条は苗字ですからその場合は平政子と書いたと思われます。

Q源頼朝の絵について

最近源頼朝の画像が違うって言ってますが、徳川家康も例の画像を頼朝と思ってたのですか?結構昔から間違えてたのでしょ?

Aベストアンサー

あの京都の神護寺が持っているあの絵のことですよね。

あれについては本当に頼朝のものかどうかは論議の的でした。ですからいちよ源頼朝であろうと伝わっているとして”伝源頼朝”と紹介しています。

歴史のことですからこんなことは日常茶飯事です。なんせ言われ不確かなものなんてあるのが当たり前。ですから後から説が修正されるのも当たり前です。

家康だってこれがそうです言われればそうかと思うでしょう自分にそれを否定するものがなければの話しではありますが。

Q北条政子と源実朝の墓

先日、寿福寺へ北条政子と源実朝の墓を見に行ってきました

ですが、説明には「北条政子と源実朝の墓と伝わる」とありました
これはいったいどういうことなのでしょうか?
北条政子が建てたお寺(寿福寺)の台帳にお寺を建てた人のお墓がどこにあるかが記載されていなかったのでしょうか?そんな事があるのでしょうか?
政敵で打ち首になり捨てられた人達なら解らない事もないですが、実朝は別として北条政子はそれには当らないと思います

源氏の庶流の方々が嫡流(本家)の墓がどこにあるか解らなくなってしまうなんて事があるのでしょうか?
現在でも、ある程度の家柄なら本家の家の墓がどこに在るか解らなくなるなんて事はまず無い話ですよね

よろしくお願いします

Aベストアンサー

「伝~」というものや五輪塔は
供養墓や供養塔であることが多いです。
たとえば信長の墓や供養塔は多々存在します。
安土城や本能寺、建仁寺や高野山など。
建仁寺にあるものなどは庭の片隅にあるただの石塔で
説明がなければ見逃すものですが
弟の織田有楽斎が建てたものだと言われています。
寿福寺も元来の墓というよりは供養塔であると思われます。
「吾妻鏡」にも寿福寺に葬られたという記述では載っていないらしいです。
http://www.tamagawa.ac.jp/SISETU/kyouken/kamakura/sanetomo/index.html

Q源義経、頼朝などの苗字って?

源義経、源頼朝、平清盛、大江広元などには、北条時政たちのように苗字はなかったのでしょうか?

       苗字  氏   諱
北条時政  北条  平   時政
安達泰盛  安達  藤原  泰盛
源 義経  ?    源   義経
平 清盛  ?    平   清盛

Aベストアンサー

苗字(名字)は所領や屋敷の場所などを自称するうちに家名として定着したものですから、法律や権力者の命令によって全国一斉に名乗るのが義務付けられた、というようなものではありません。苗字が定着しても、明治5年までは公式な名称は氏であり、苗字は通称にすぎません。

また、本人が名乗ったかどうかは定かではありませんが、歴史学者の角田文衛は、源頼朝の一族を鎌倉家、平清盛の一族を六波羅家と称した上て、源平合戦という表現は誤解を招くと力説しています。

蛇足ですが、大江広元の子の季光が毛利入道と号し、その孫の時親が安芸国吉田に所領を得たのが毛利家の始まりです。

Q北条政子らへんの漫画

源頼朝や北条政子、とにかくココらへんの人物がでる漫画を教えてください。出てこなくても近い時代の漫画なら全然構いません(源氏物語以外)。

Aベストアンサー

市川ジュン「華の王」(北条政子が主人公)と「燁輝妃」はいかがでしょうか。同時代のヒロインが属するのが一方は鎌倉幕府ともう一方は京都の朝廷、というのが結構興味深いです。

参考URL:http://www.geocities.jp/onyadosuzume/newpage9-ichikawa.html

Q北条政子の有名なエピソードを教えて下さい。

北条政子の有名なエピソードを教えて下さい。
出来れば物語風にお願いします!

Aベストアンサー

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

政子は駆けた。
暗闇がどこまでも続き、そぼ降る雨が容赦なく政子を打った。我が家の家人たちの追っ手も、もうそこまで政子を捕らえようと迫っていた。
履いている草履も擦り切れ、両足のいたるところから血が滲んでいた。
それでも政子は必死に走り続けた。
愛する男性(ひと)、頼朝さまはもう目の前にあった。
政子は必死の形相で追っ手を振り切り、ついに熱海の「伊豆山神社」の境内にたどり着いた。
当時、伊豆山神社には、古くより僧兵が強い力を持っており、追っ手も伊豆山神社に踏み込むことは、戦を覚悟しなければならなかった。
追っ手は、鳥居の下までは来たが、神社の境内を取り巻く僧兵の一団を見て、少ない手勢ではこれ以上の無用な戦いは避けねばならず、すごすごと引き返して行った。治承元年(1777)のことであった。

政子は、保元2年(1157)、伊豆の豪族で平氏の流れをくむ北条時政の娘として生まれた。
なお、政子という名前は、頼朝と一緒になり、幕府が力をつけていた建保6年(1218)に朝廷から従三位を贈られたとき、父時政の一字「政」を取って命名されたもので、それ以前は何と呼ばれていたかは不明である。

頼朝と政子の出逢いは、平治元年(1160)に起きたいわゆる「平治の乱」に頼朝軍が破れ、同年3月頼朝は伊豆の「蛭ケ小島」(ひるがこじま・現、伊豆の国市)へ流され、監視役であった北条時政の館に呼び出された時、その接待役として政子が酒宴の席にはべったことから、政子は一目で頼朝の将来のあるべき姿を感じ取ったとも言われている。
頼朝が伊豆に流された、とは言っても、決して「土牢」などに閉じ込められるわけではなく、伊豆付近から出なければ割合自由な身であったのである。
そして、頼朝は源氏の本流の嫡男(棟梁)であったため、時政に呼び出されたとは言っても、詮議は形ばかりで、それ相応の扱いであり酒宴が開かれたのである。
しかし、父時政は「大番役」という京都の朝廷を守る役目であったため、まもなく京都へと出立をした。
政子は、この時とばかりに頼朝との密会を重ねていた。
そのことを手紙で知った時政は、伊豆で平氏一族の目代(代官)となっていた山木兼隆と婚姻させるべく手を尽くしたが、政子は、心に決めた頼朝への想いを断ち切れず、ついに、屋敷を飛び出し、かねてより打ち合わせてあった伊豆山神社へと駆け込んだのであった。政子21歳、頼朝31歳の時であった。
やがて、政子は娘を出産し、父時政も二人の仲を許し、北条氏は頼朝の有力な後援者となったのである。
娘は大姫と呼ばれたようであるが、元々は高貴な人の長女を大姫と呼ぶ慣習もあり、実際のところは不明である。
養和2年(1182)8月には、2代将軍となる男子(万寿・頼家)を出産。
当時は一夫多妻が当たり前であり、頼朝も伊東祐親の娘(八重姫)との間にも男子が生まれたが、平氏一族の怒りを恐れた祐親は、この幼児を殺害している。
また、政子の妊娠中に頼朝は「亀の前」と呼ばれる女性と親密になるが、これを知った政子は怒り心頭して亀の前が寄宿していた伏見広綱の屋敷を打ち壊させ、亀の前はほうほうの体で逃げ出したという。
頼朝は他にも多くの女性と関係を持っているが、政子の嫉妬により、ことごとく引き裂かれている。

その後、寿永3年(1184・治承8年)2月7日に摂津国福原および須磨で行われた戦い(一ノ谷の戦い)や治承4年(1180年)から元暦2年(1185年)にかけての6年間にわたる大規模な内乱(壇ノ浦の戦い)で平氏を破った頼朝は、ついに、建久2年(1192)7月征夷大将軍に任命され鎌倉幕府を開いた。
そして、政子も「北の政所」(きたのまんどころ)と呼ばれ、頼朝を良く援けた。
頼朝の死後(建久10年(1199)1月11日に出家し、18日に死去した。享年53歳)は、2代頼家や3代実朝なども援けたが、実質的には北条氏が実験を握り、その中でも政子の権勢は一際大きく「尼将軍」とさえ呼ばれたという。

建久3年(1193)、頼朝は富士の峰で大規模な狩りをしたが、その時、頼家が鹿を射ったことを大層喜び、早速、使者に手紙を託して政子に知らせたが、政子は、
「武家の跡取りが鹿一匹を仕留めたくらいで騒ぐことではない」
と、使者を追い返したとの話もある。

嘉禄元年7年(1225)7月11日死亡。法名安養院(あんにょういん)。合掌。

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

政子は駆けた。
暗闇がどこまでも続き、そぼ降る雨が容赦なく政子を打った。我が家の家人たちの追っ手も、もうそこまで政子を捕らえようと迫っていた。
履いている草履も擦り切れ、両足のいたるところから血が滲んでいた。
それでも政子は必死に走り続けた。
愛する男性(ひと)、頼朝さまはもう目の前にあった。
政子は必死の形相で追っ手を振り切り、ついに熱海の「伊豆山神社」の境内にたどり着いた。
当時、伊豆山神社には、古くより僧兵が強い力を持っており、追...続きを読む

Q北条政子は言われるように悪い女でしょうか?

こんばんは。

何でしょう、人間が古いのでしょうか?
別にそんなに酷く言わなくてもいいのにと思うのですが、
皆さんも北条政子さんはやはり悪い女性ですか?

Aベストアンサー

おはようございます。

>北条政子は言われるように悪い女でしょうか?

私が彼女に持つイメージは、NHK大河ドラマ『草燃える』で政子を演じた岩下志麻さんと相当部分被ってしまうのですが、頼朝すら憚らせた気性の激しさ、そして或る種の酷薄さと並外れた嫉妬深さを物語るエピソードには事欠かない女性といったところ。

一方に於いて、例えば義経の愛妾の静御前に対する命乞いに見られる情け深さといった側面も見逃せず、北条政子というお方は、良くも悪くも愛憎の振幅が非常に激しい気性であられたようですね。

その点を考えますに、一つには生な感情を押し殺す都ぶりの風習とは無縁の東国の田舎育ちであった事、加えて鎌倉幕府を創設した頼朝糟糠の妻という自負が余りにも強かった事、その辺りでしょうか。

他方彼女に関する最大の非難は、恐らく息子頼家に対する仕打ちにあるのでしょうが、幕府・北条家と親子の情念の板挟みになった点を、少しは酌量して差し上げるのがいいのでしょう。
少なくとも日野富子・淀君と並び称される3大悪女との評価は少々酷かな、そうは思いますが・・。

ところで歴史とは面白いものでして、例えば平将門辺りがその好例ですが、時の政権の立ち位置に依り評価が大きく異なる事を思えば、北条政子に対する後世の評価は概ね肯定的に終始している、私としてはそう認識しております。

さて話は大きく変わりまして、例の波谷守之さんに関してですが、実在したやくざで誰に魅かれるかと言えば、私にはもうこの人を置いて考えられません。

ことやくざに関する著書・映画の類が、よいしょと綺麗事に終始しているのは百も承知ですが、作家の正延哲士氏も、生き方の基本線が他のやくざと大きく異なると激賞されておられるほどです。

例えば、若い頃多少世話になった清水春日・山口波之助という二人の老博徒に対し、その義理を終生忘れず、それはもう実の親子ですら真似の出来ない世話をした由。

ところで「仁義なき戦い」の頃の広島極道世界では、若いながらも既に重きを成し、当時日の出の勢いの山村辰雄にカチコミすら掛けており、波谷さんが登場しないのは如何にも不自然なのですが、一方で美能幸三氏の手記をベースにした飯干晃一さんの「仁義なき戦い」を何度も読み返しましたが、波谷守之の名前は一句一行も出て来ない、発刊の段階で端折られたのでしょうか。

まあ彼を登場させれば、当然準主役クラスの俳優を起用し、「ボンノ」こと元山口組若頭補佐の菅谷政雄氏との関係にも言及せねばならず、仰る通り話が広がり過ぎて収拾がつかなくなってしまった事でしょうが。

それにしましても「悪魔のキューピー」大西政弘・「仁義なき戦いの主役」美能幸三・そして波谷守之が兄弟分、何とも興味深い話です。

さて最後になりますが、まだ御読みでなければ大下英治著「実録・広島やくざ戦争(上下巻)」(幻冬舎アウトロー文庫)を是非御覧になって下さい。
当作は、「仁義なき戦い・完結篇」で松村に擬した共政会山田久3代目にスポットを当てた作品ですが、仁義なき戦いの側面が窺え知れる誠に興味深い本です。

以上長くなりました。

おはようございます。

>北条政子は言われるように悪い女でしょうか?

私が彼女に持つイメージは、NHK大河ドラマ『草燃える』で政子を演じた岩下志麻さんと相当部分被ってしまうのですが、頼朝すら憚らせた気性の激しさ、そして或る種の酷薄さと並外れた嫉妬深さを物語るエピソードには事欠かない女性といったところ。

一方に於いて、例えば義経の愛妾の静御前に対する命乞いに見られる情け深さといった側面も見逃せず、北条政子というお方は、良くも悪くも愛憎の振幅が非常に激しい気性であられたようですね...続きを読む

Q北条政子はどこで亡くなったんですか?

北条政子はどこで(場所)亡くなったのですか?
彼女の墓と伝えられる「やぐら」は、鎌倉の寿福寺に残っているようですが…

歴史に詳しい方、是非よろしくお願いします。

Aベストアンサー

「尼将軍政子」 青木重敷著 新人物往来社 によると嘉禄元年7月11日 鎌倉勝長寿院の奥の政子の屋敷で亡くなったそうです。  不確実ですが彼女の「やぐら」と伝えられる「唐草やぐら」も裏山にある由。  


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