デカルトは「我思う、故に我在り」によって、“不完全な存在である我が存在できる”のは“完全な存在である神が存在するからである”ことを証明したと聞きましたが、どうしてこのように考えられるのでしょうか。
不完全・完全とはどういうことか、なぜ不完全な存在だけでは存在できないのか、わかりません。

A 回答 (5件)

そもそも、自分の立場に「不完全性定理」を自力で当て嵌められませんよね。

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まだここを見ていらっしゃるかな。



少し見方を変えてみてください。
デカルトの考えた筋道をたどっていきましょう。

「わたし」は疑ったり、苦しんだり、悲しんだりします。ささいなことで大喜びもすれば、他人の不幸をほくそえんだりもする。そんな自分が「不完全な存在者」であるということは、わたしたちにも実感されるところです。

ところが、わたしたちは「完全な存在者」という観念を持っている。自分のことを「不完全」と感じてしまうのも、実際には見たことも聞いたこともないけれど、頭のなかにある「完全な存在者」と引き比べて、自分の「不完全さ」を理解しているのではないか。

だとしたら、この「完全な存在者」という観念はどこから来たのでしょう。

不完全なものが完全なものを創りだすことはできない。だから、「わたし」がこの観念をつくりだしたはずがない。それなら、「わたし」の外から来たのでしょうか。

けれども、空を見ても、地面を見ても、山を見ても川を見ても、刻々と移ろいゆき、姿を変えて、「完全」なありようとはほど遠い。となると、外からではない。

となると、「わたし」の内に、あらかじめあったとしか考えられないということになる。「完全な存在者」という観念は、完全な存在者、すなわち神から直接に、「わたし」のなかに置かれたのでなくてはならない。

すなわち、神は存在する。

これがデカルトの神の存在証明です(※『哲学原理』の17~21をわかりやすく説明したつもりです)。

> 不完全・完全とはどういうことか、なぜ不完全な存在だけでは存在できないのか

ここらへんは、わたしたちはあんまりこんな考え方をしないから、実感ではつかみにくいかもしれません。これは「実体」ということを言ってるんです。日常「それは実体がない」なんていうときの「実体」とはちがいます。

これはギリシャ時代から西洋ではさまざまな派生を産みつつ、延々と受け継がれていく考え方だから、なかなかぱっと理解できないかもしれませんが、おおざっぱに言ってしまえば、「見かけや姿かたちを超えて、ほんとうにあるもの」ぐらいの感じです。

『哲学原理』の51では、「実体」はこのように定義されています。

「「実体」とは他でもない、存在するために他の何ものをも要しないように、存在するものを意味する。」

「なぜ不完全な存在だけでは存在できないのか」と聞かれてもちょっと困るんですが(笑)、デカルトはそのように定義したのだ、といったん頭に入れて、勉強を進めていけば、もう少し頭のなかで自分なりに整理ができるようになると思います。
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神の存在証明・デカルトと来たら、古典中の古典でしょう。

よっぽど新しい視点・切り口とかがないとそれらに精通している方の反応は無いのではないでしょうか。せいぜい過去のQ&Aを見ろとか、『省察』を読めとか。mmkyさんもデカルトの証明そのものには触れられていませんね。もしかしたら親切な回答を誰か用意して居られるかもしれませんが、その前に素人の見解=思い付きを一つ。
デカルトの証明は措いて、「完全・不完全」について。
数理論理学上の「完全性」とかであれば定義される訳ですが、「哲学」あるいは常識的な意味でのものは、定義しがたいですよね。その概念は言葉の使われ方で、推測する訳ですが、歴史上の巨人哲学者であるデカルトとなると、「完全・不完全」について誰かが論文を書いているでしょう。そんな学術的な話と無関係に、ふと思いました。「全体・部分」と同じに見ているのではないか?
「部分」というのは「全体」が有って部分なのだから、「部分」ということは「全体」を前提としている。それと類似的にというより、全く同じ論理で、「不完全」であるということは、「完全」ということを前提としているのだ、と考えているのではないか?
デカルト本人としては、人間の不完全な認識が、何故「完全な存在=神」という「観念」を持つことが出来るのかを、説明しているつもりであるようですが、何でそこで「神」が出てくんねん、と突っ込みを入れたくなる説明ばかりで、『省察』は一通り目を通しただけだったと、昔を思い出しました。
すなわち、「なぜ不完全な存在だけでは存在できないのか」という問いは、デカルトにとって無効な質問であるのではないですか。「不完全」であるという認識そのものが「論理的に」「完全」を求めており、「完全」であるのだから、存在もしている、という、「自明な」論理なのでしょう。

不信心な私は、その「神」は、ゼウスなのか、アッラーなのか、天照なのか、とさらに突っ込みたくなりますが。
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追伸


>>では、もし始まりが完全な存在なら、どうして不完全な存在が生まれたのでしょうか?
完全である以上、何の変化もないはずです。

○ 確かに1番目に造られたものは指摘のように考えられますね。完全なものが造ったのですから完全に近いと考えられますね。では1番目が2番目を造ったとすれば少し完全から外れますね。2番目が3番目をこれを繰り返して10番目・・20番目となればかなりずれるでしょう。
完全からのずれはいつ誰に造られたかということに帰着するでしょう。
ただし、元をたどれば誰しも完全なものにたどり着くことは明らかですね。完全からのずれが小さいとか大きいとかはそのように考えられますね。
実際にも最初(1番目)に造られたものは少ないんですよね。
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>>なぜ不完全な存在だけでは存在できないのか、わかりません。



ですか。
例えば、人間がロボットを創ったとしましょう。それが原因でロボットは自己増殖しロボットの社会を創ったとします。ロボットがいくら賢くとも本来創られたものですからロボット以上を望んでもかなうわけがありませんし、普通のロボットはロボットであることを疑うこともないでしょう。でもごく一部のロボットが何故ロボットであって犬でも猫でもないのかとなどと考えはじめると話は違ってきます。
つまり、そのような疑問に答えを持たないことに気づくわけですね。答えを持たないということは答えを持つもの(完全なもの)の存在が推定されるわけですね。
それを素直にとれば、デカルトのようになるでしょう。
ロボットであれ人間であれ同じわけということですね。

この回答への補足

不完全な存在→完全に近い不完全な存在→より完全に近い不完全な存在→……→完全な存在
というわけですか?
では、もし始まりが完全な存在なら、どうして不完全な存在が生まれたのでしょうか?
完全である以上、何の変化もないはずです。

補足日時:2009/05/23 15:50
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Qデカルト and self

今、self, individuality, subject, subjectivity について勉強しているんですけど、今回まずデカルトとselfについて質問があります。

デカルトはまず全てに懐疑的に考え、そこから『cogito ergo sum』に辿りついたと思いますが、彼は体と思考を本当に分けて考えたんでしょうか?彼は”meditation2”の中で蝋燭を論点として論述していますが、その中の一節でこのように述べています。

i comprehend, by the faculty of judgment alone which is in the mind, what i believe i saw with my eyes (Descrtes).

蝋燭に火を灯せば、やがてその物体は以前とは違う形に変わって行きますが、その残り(remain)から、私たちはそれが何であるか想像することができる、と述べた後のこの一節なんですが、”思考により理解する”また”目で見た物”とデカルトは述べていますが、”目で見る”行為はすでに五感の一つであり、これは体と思考の繋がりを述べているようにも思えるのです。デカルトは肉体と思考の関係(二元論)をどのように考えていたのでしょうか? またデカルトはselfとworldを分けて考えていたのでしょか?

今、self, individuality, subject, subjectivity について勉強しているんですけど、今回まずデカルトとselfについて質問があります。

デカルトはまず全てに懐疑的に考え、そこから『cogito ergo sum』に辿りついたと思いますが、彼は体と思考を本当に分けて考えたんでしょうか?彼は”meditation2”の中で蝋燭を論点として論述していますが、その中の一節でこのように述べています。

i comprehend, by the faculty of judgment alone which is in the mind, what i believe i saw with my eyes (Descrtes).
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Aベストアンサー

 端的に申し上げますと、デカルトの叙述自体は曖昧で、感覚は身体に属するとしながらも思惟が感覚を持つと述べることは珍しくありません。しかし、デカルトが辿り着こうとした結論が、思惟と身体(物体)とは別の実体であるという二元論であるということには、あまりブレはないと思われます。それは、デカルトが哲学に取り組んだ動機にあります。
 デカルトは、ガリレイなどと同時代の自然科学者であり、自然界を数学的原理に基づいて認識することができることを主張することをライフワークとしていました。しかし、自然界が数学的に観測可能なものであるためには、それが生き物のように不規則な変化をしない、という前提を要求します。すなわち、後の時代に「ラプラスの魔」と評されるように、自然界は、(人間の肉体をも含めて)数学的必然性と原因性とに支配されていなければならなかったのです。
 ところが、当時の自然界についての考えの正当な流れは中世以来のスコラ哲学であり、その考えに従えば、自然界は神の意志に充たされたものであり神の意志によって息づいていました。福音書の言葉で言えば、神の許しがなければ一羽の雀も地に落ちることはない(マタイ10:29)、ということになるのです。そのため、デカルトは自然の諸現象の説明原理から、物体に内在する意志とか魂のようなものを払拭する必要があったのです(また、デカルトよりも少し前の、ルネサンス期は、自然界を汎神論的に捉える神秘主義的傾向を強く有していたという問題もあります)。
 そのため、デカルトの、cogito ergo sum はデカルト自身の身体(物体)と思惟とを媒体にして物体と精神との分離を試みる考察をなしています。デカルトは、自分自身の身体が無かろうと疑っているかぎり思惟する精神は存在するのであるから、精神は物体とは独立に存在するとし、精神が物体とは別物であるならば、物体(身体)には何の精神的属性も、例えば、意志だとか欲求だとか思惟だとかいったものは属さない、とすることによって物体から精神的性質のすべてを除去することができると考えたのです。このような証明が果たして妥当なものかは、大きな疑問を残しますが、物体から精神的なもの全てを取り除くことによって、数学的要素、デカルトが重きを置くものとしては、特に幾何学的性質、すなわち、幅とか長さとか奥行きなどによって、自然界を精密に観測することが可能になると考えられていたのです。
 ですから、デカルトは、self と world とを、より厳密には、mental なものと corporeal なものとを分けて考えていましたし、少なくともそれらを分けて見せようとしていました。
 それゆえ、また、肉眼によって何かを見てそれが心の中に入ってくる、という立場は、基本的には、デカルトの存在論に反するものです(とはいえ、デカルトの研究には視神経がどのように脳に情報を伝えるのかを扱ったものなど、『省察』とは異なった性格の著作物もあります。私は、これらが、一体どのような企図からなされた研究なのかちょっと分かりません)。デカルトの認識論は、心の中に散在する様々な観念のうち、正しい観念とは何か、宇宙を忠実に再現(represent)している観念はどれなのか、を見出すことに終始しておりそれは一貫して心の中でのみ展開されます。
 示して下さったテクストのラテン語原文が手もとに無いのでちょっと自信がありませんが、英文テクストで指摘させていただくと、

what i believe i saw with my eyes

となっており

what i saw with my eyes

とはなっていないことがポイントです。つまり肉眼で何を見ていようとそれはどうでもよく、私が肉眼で見ていると「信じている」もの、心の中のものが認識の直接的な対象なのです。デカルトの立場に従えば、身体は身体で独自に感覚を持ちますが、それとは全く別に感覚についての観念が心の中でうごめいているのです。デカルトは、このような立場を支持する例として幻影肢すなわちケガや手術などで失った手足の感覚を持つという奇妙な現象を挙げていたと思います。すなわち、身体は感覚を持っていないのにもかかわらず、心はその感覚があるという観念を抱くのです。
 したがって、デカルトの理論によれば、自然界には魂を抜かれたパペット人形のようなものが練り歩いているのであって、その心はどこか別のところで自然界とは関係ない観念をあれこれと抱いているのです。このような結論は、あまりにも非常識で、デカルトという一人の人間が全面的にこれを支持していたとは少々考えにくいところがありますが、自然界を数学的に観測可能なものとして捉え直すというデカルトの哲学の動機に基づくかぎり、理屈上、物体(身体)の中に精神の諸属性を溶け込ませるわけにはいかなかったのです。
 そしてまた、この理論には、重大な欠陥がありました。それは、心の中において正しい観念を捉えたとして、それは、自然界とどう関わっているのか、それが自然界についての数学的な認識である以上、何らかの仕方で自然界と関わっているはずなのに、心と自然界とが完全に切り離されているとしたら、数学的な自然科学の基礎付けはやはり不可能になってしまうのではないか、という問題です。デカルトは、この問題を意識していた著作を残していなかったようです。それゆえ、これらの問題は、マールブランシュ(「すべての事物を神において見る」)、スピノザ(神という一個の実体の中での精神と物体という二つの属性)、そしてライプニッツ(予定調和説)といったいわゆる大陸合理論の大家に引き継がれていきます。なお、subject という哲学用語を今日のように「主観」「主体」の意味へと転換したのはライプニッツの業績です。それ以前は、subjective というと主観的なものではなく人間の思惟とは独立にある実体に関するものを指していたのに対し、objective というと客観的なものではなく人間の思惟に現れてくるものを指していました。

 端的に申し上げますと、デカルトの叙述自体は曖昧で、感覚は身体に属するとしながらも思惟が感覚を持つと述べることは珍しくありません。しかし、デカルトが辿り着こうとした結論が、思惟と身体(物体)とは別の実体であるという二元論であるということには、あまりブレはないと思われます。それは、デカルトが哲学に取り組んだ動機にあります。
 デカルトは、ガリレイなどと同時代の自然科学者であり、自然界を数学的原理に基づいて認識することができることを主張することをライフワークとしていました。し...続きを読む

Q我思う、故に我有り(デカルト)への根本的疑問

 世界が存在すること、或いは実在という概念に対してその全てを疑ってなお自らの思惟体験は揺るぎ無いものであることから観念は自ずから存在する、としたこの主張に対していささかの疑問を持ちました。そこで次の様な妙な問題を考えました。

 ある子供が産まれた。彼は目が見えず、耳が聞こえず、何かに触れてもそれを感じることが出来なかった。およそ感覚と呼べるものが欠落し機能しない。しかし彼を診察すれば血液の循環や心肺機能は正常で,感覚器官と、それらに関連する神経系以外の、脳やその他重要器官には何ら問題が無い事が判明した。そして生命維持装置にかけて栄養補給すれば延命させることが可能と結論した。母親は延命を望んだ。そのようにして子供は10歳になった。

 さて、彼は自分の手や足が「そこ」にあることを知ることが出来るでしょうか?それどころか外に世界があることを知り得るでしょうか?また、自分自身を知っているのでしょうか?彼の精神はあるのでしょうか?無論、脳は医学的に見て損傷はなく、栄養補給も絶えず受けつづけたとします。彼は「見る」ことも「聞く」ことも「触る」ことも「味わう」ことも「嗅ぐ」ことも経験出来ないので、夢を「見る」ことも「聞く」ことも・・・~も出来ないでしょう。

 そういうことから、「我思う」為には外界の刺激が必要であって、「我有り」の方は根本にはなり得ないように思うのですが、いかがですか?長い質問でした。

 世界が存在すること、或いは実在という概念に対してその全てを疑ってなお自らの思惟体験は揺るぎ無いものであることから観念は自ずから存在する、としたこの主張に対していささかの疑問を持ちました。そこで次の様な妙な問題を考えました。

 ある子供が産まれた。彼は目が見えず、耳が聞こえず、何かに触れてもそれを感じることが出来なかった。およそ感覚と呼べるものが欠落し機能しない。しかし彼を診察すれば血液の循環や心肺機能は正常で,感覚器官と、それらに関連する神経系以外の、脳やその他重要器...続きを読む

Aベストアンサー

 
  デカルトの懐疑は、存在物が自明的に存在するということは、自明的に真かという懐疑であったはずです。
  中世哲学では、存在物(レース)が存在することは自明的に明らかであり、それは、神が存在することが自明的に明らかであるからですし、存在物が存在することが自明的に明らかであるので、神の存在も自明的に明らかなのです。
 
  神が存在するのは自明であるという中世哲学のテーゼは、トートロジーのように聞こえますが、デカルトが考えていたよりも、その存在についての構想は、深度があったのです。つまり、現実存在(エクシステンティア)の成立という話になれば、それは現象の存在の自明性に繋がり、また現存在の存在了解にも繋がっていたのです。
 
  現象の存在の自明性は、フッサールが西欧の哲学の歴史のなかで、反復的に主張したことで、「人間の現存在」による、存在物の「存在了解」は、ハイデッガーが考えたことです。
  現象の存在が自明であるということは、現存在の存在了解によって自明であるのです。デカルトの懐疑は、思考のモデルであって、疑っている自分が存在していることは疑いがない、つまり、思考主体=主観の存在の自明性は、最小の答えであって、デカルトや他の人が見、聞き、触れている、様々な事物の存在性も疑いがないものだということです。つまり、悪魔が幻覚をデカルトあるいは私たちに見せているのだとしても、その幻覚の事物は、幻覚という実体規定のもとで、自明的に現象として存在しているからです。
 
  わたしが思考している、わたしが懐疑しているという時の主観的世界の構造のなかでは、思考している主体、懐疑している主体の現なる思惟存在、懐疑存在が自明であり、思惟存在や懐疑存在の「存在の構造」解析は、存在事実の自明性によって乗り越えられているというべきでしょう。
 
  つまり、貴方 robking さんは、貴方の思考モデルで、思考実験してみたのですが、まったく感覚から遮断された子供とか、その子供のまわりの生命維持装置とかに言及し、それを思考モデルで使用している以上、「外界の存在物や、その感覚刺激」が、「思惟する我の存在」に先行して存在しなければならないなどと言ってみても、そういう思考内容の現象的存在が、現に、貴方自身の思考の構造解析以前に、自明であるということです。
 
  ポイントは二つで、一つは、存在は、現に phyein しているものであるということと、もう一つは、存在物の存在了解を主体が行えないとしても、そのことは、主体にとって、存在物が存在しないことにはならないということです。つまり、貴方の問いかけは、根本的に無意味に、わたしには思えるということです。
 
  注)「存在の構造解析」とは、現なる現象存在を、構造の設定で整序しようとすることを意味します。つまり、形而上学的構造を措定することで、現なる現象世界のありようの説明または根拠付けを行おうとすることです。

  それは具体的に言えば、一切の感覚刺激のない子供の脳における主体意識というものを一方で考えながら、同時に、そのような主体にとっては、超越的な、外部世界の存在を、簡単に自明的に述べている(構造措定している)ということです。主体に超越的な世界の存在を措定しておきながら、主体の成立にとっては超越的な世界の存在が先行すると言ってみても、何の意味もないということです。
 
  なお、アプリオリな認識・知識については、わたしは、統覚精神実体の存在を構想していますから、それは自明的にあり得るだろうという考えです。イデアー世界は存在するだろうという考えです。
 
---------------------------
  どうも、何を述べているのか、分かりにくい人もいると思いますので、補足的に易しく説明します。
 
  つまり、robking さんが考えている、思考実験を行っているという場合、思考している robking さんの思考している主体の現象存在は疑いがないということです。しかし、仮に robking さんが、AB歳だとして、AB年ほどの色々な記憶を甦らせて、色々な経験をしてきたなあ、と考える時、考えている事実・事態・現象は、現実存在ですが、記憶にあるAB年は本当にあったのか、あるいは、5秒前、宇宙人が、robking さんの脳に、そういう嘘の記憶を投射し注入したのではないのか、本当は何なのか分からないということです。これがデカルトの懐疑の意味なのです。
 
  感覚を完全に遮断された子供の脳に宿ると仮定した主体意識にとっては、実は、外部世界は超越的で、いま上で述べた、AB年の人生が、本当にあったのか、宇宙人が5秒前に記憶を注入したのか、どちらか分からないと言うのと同じ意味で、外的世界があるかないか、子供の主体には分からないということです。これは感覚遮断しているので分からないのではなく、私たちであっても、窓から外をみて、美しい風景を見て、素晴らしいと思っても、それは、よく見ると精巧な壁の絵だったとかいう可能性から考えると、外的世界の現象的立ちのぼり(pyein)は疑いがないが、そういう世界・風景が、例えば「物質実体」として存在しているかどうかは(超越的命題であって)分からないということです。
 
  robking さんの思考のなかで、感覚遮断された子供の主体意識が考えられており、また、外部の生命維持装置などが考えられているのであって、これは、robking さんの思考のなかでの現象存在であり、図式であって、最初から子供の主体にとって超越的な外的世界を設定しているので、それでは、子供の認識の成立に外的世界からの刺激が不可欠になるのは当たり前の話だということです。(カントの主観の構造のような話です)。
 

 
  デカルトの懐疑は、存在物が自明的に存在するということは、自明的に真かという懐疑であったはずです。
  中世哲学では、存在物(レース)が存在することは自明的に明らかであり、それは、神が存在することが自明的に明らかであるからですし、存在物が存在することが自明的に明らかであるので、神の存在も自明的に明らかなのです。
 
  神が存在するのは自明であるという中世哲学のテーゼは、トートロジーのように聞こえますが、デカルトが考えていたよりも、その存在についての構想は、深度があ...続きを読む

Qデカルト『方法序説』は何が言いたかったのか?

 デカルトの『方法序説』を読みました。
疑問に思うのは、『方法序説』で彼は何が言いたかったのでしょうか?
 単なる自分の今後の予定と自分の自慢話を展開させているだけに思えたのですが・・・。
 自分としてはセカネの着眼点に関心しただけでした(セネカの本を岩波文庫は出版しろよ!と思ったり)。
 デカルトの偉そうな口調に耐えて、耐えて、疑問に思ったのですが、デカルトは医者だったのでしょうか?
心臓の仕組みに詳しくないですか?(デカルトが、『方法序説』の中で書いていた心臓に対する記述が正しいものかは不明ですが。)
 あの傲慢な口調からして見れば、「こいつ知ったかだろ。」としか思えないです、汗。

1・デカルトは『方法序説』を通じて、何を言いたかったのでしょうか?
2・何故、人間の身体の仕組みについて、あれ程詳しいのでしょうか?

Aベストアンサー

なるべく平たく書きます。高尚な考察ではない、俗っぽい文章であることをご容赦ください。


最初に余談ですが、我らがデカルト先生は
「疑うことを教えてくれたから、間違った理論を教えてくれた教師たちには本当に感謝してる」
というような趣旨の発言をしちゃう、元々からして嫌な奴です。
とはいえ、それを指し引いても偉そうな口調は自身を権威付ける第一歩であり
近代以前では当時ではごく普通の論調であると思います。
自信の無さそうな文を書いても誰も納得しませんよね。
最後は朝起きて講義しなきゃいけないストレスで早死にしたとも言われてますし
実際は繊細な人がそういうスタイルを演じていたのかもしれません。好意的過ぎるかな?




1:『方法序説』について。
従軍時代の経験から、4つの方法論(精神を導く基準)を導き出しました。
一言で言うと要は「疑え」。つまり「自分で考えて検証しろ」。
その上で信ずるに足る基準を見つけたのならば、それを変えないということです。
この方法論こそが、日本語訳のタイトルになっているんでしょうね。


この考え方で現在の数学の根幹部分を作り上げ人類史に名を刻んだデカルト先生は、
世界の学問の根幹部分である"哲学"に飛び込んでいきます。

真理を求め、数年の旅で世界を観察したデカルト先生はあることに気づいてしまいます。
社会が信じる基準とは絶対的な真理ではなく、みんなが広く認めている旧来の風習であると。
最終的には真理へ変えることが必要であっても、
今現在において「幸福な生活を送るためにはその国の習慣やルールに従う必要がある」
と考えるようになります。
最後に付記されているガリレオの話や、公表しなかった自身の「宇宙と光の考察」は
その端的な例であると言えます。


では、真理が世界に無いのなら、いったいどこにあるのか?
デカルト先生は驚くべき結論に達します。
その結論により人類という生物は最後の進化を遂げることとなったのです!



続きは「方法序説」でね☆




2;人間のしくみについて
もちろん、学生時代にも勉強していますが
デカルト先生は真理を探究する過程で、「自然科学」者と多くの交流を持っています。
現在の常識とはことなり、当時は現在「応用科学」に分類される医学であっても
その「自然科学」に含まれるのです。

当時の自然科学の探求者が物理学と医学の両方を修めているという例は普通のことです。
デカルト先生が最も影響を受けたという従軍時代に会った人物も、多数の学問を修めていました。

なるべく平たく書きます。高尚な考察ではない、俗っぽい文章であることをご容赦ください。


最初に余談ですが、我らがデカルト先生は
「疑うことを教えてくれたから、間違った理論を教えてくれた教師たちには本当に感謝してる」
というような趣旨の発言をしちゃう、元々からして嫌な奴です。
とはいえ、それを指し引いても偉そうな口調は自身を権威付ける第一歩であり
近代以前では当時ではごく普通の論調であると思います。
自信の無さそうな文を書いても誰も納得しませんよね。
最後は朝起きて講義し...続きを読む

Q反症してください。我思う、故に我あり。

デカルトのこの言葉、どこかおかしい気がします。反症できますか?

Aベストアンサー

 No.9です。もう少しくわしく書きます。

 アウグスティヌスの《われ あやまつならば われ有り》から デカルトが 《われ考える ゆえに われ有り》を導き出したことには 独自性があると パスカルが 議論しています。わたしとは何か? あるいは 主体のあり方がどうであるか? の問題です。

 ● (パスカル:デカルトのコギトについて)~~~~
 わたしは公正な人々に尋ねたい――とパスカルは言う―― 《物質は自然にかつ絶対に 思考する能力を持たない》という原理と 《わたしは思考する ゆえに わたしは存在する》というそれとは 果たしてデカルトの精神においてと 同じことを千二百年前に言った聖アウグスティヌスの精神においてと 同一であろうか。
 (パスカル:《幾何学の精神について》2. 1657)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 パスカルは デカルトの《コギト エルゴ スム》という《原理》は アウグスティヌスの《われあやまつなら われ有り(われ欺かれるなら われ有り。 Si fallor, sum. )》の焼き直しであるが 独自性があると言おうとしている。

 アウグスティヌスの語るところは たとえば次のようである。

 ◆ (アウグスティヌス:あやまつならば・・・) ~~~~
 だから 精神は自己自身をよく知るようにという命令を聞くとき 自己自身をよく知ることに何ものも付加してはならない。

 ・・・だから精神は 知解力が存在し 生きるように 自己が存在し 生きることを知っている。だから 例えば 精神が自己を空気であると思いなすとき 空気が知解すると思いなすのである。しかも 精神は自己が知解することを知っている。
 精神は自己について思いなしているものを分離せよ。自己について知っているものを認めよ。

  *(ぶらじゅろんぬ註) 念のために この点についてのデカルトの文章です。――
  ▼ (デカルト) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  そして最後に われわれが目覚めているときにもつすべての思想
 がそのまま われわれが眠っているときにも またわれわれに現われ
 うるのであり しかもこの場合はそれら思想のどれも 真であるとは
 いわれない ということを考えて 私は それまでに私の精神に入り
 きたったすべてのものは 私の夢の幻想と同様に 真ならぬものであ
 る と仮想しようと決心した。
  (方法序説 4)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 それにも拘らず すべての精神は自らが知解し 存在し 生きていることを知っている。しかし精神は知解することをその知解するものに関係づけ 存在することと生きることを自己自身に関係づける。

 さて 生きていないものは知解しないし 存在しないものは生きていないことを誰も疑わない。


  * この点をデカルトは 《物質は自然にかつ絶対に 思考する能力
   を持たない》と言ったと パスカルは書いていた。


 だから 必然的に 知解するものが存在し 生きていることは 生存しない死体が存在するようにではなく また知解しない動物の魂が存在するようにでもなく 独特な したがって卓越した仕方による。・・・

 さて 生きる力 想起する力 知解する力 意志する力 思惟する力 認識力 判断力が 空気(*あるいはその他の元素)であるのか・・・どうか人々は疑ったのであった。或る人はこれ 或る人は他のことを主張しようと努めた。それにも拘らず 自分が生き 想起し 知解し 意志し 思惟し 知り 判断することを誰が疑おうか。たとい 疑っても生きており 疑うなら なぜ疑うのか 記憶しており 疑うなら 自分が疑っていることを知解し 疑うなら 彼は確実であろうと欲しているのだ。疑うなら 彼は軽率に同意してはならないと判断しているのだ。それゆえ 他のことを疑う人も精神のこのすべての働きを疑ってはならない。もし この精神の働き(*または《わたし》)が存在しないなら 何ものについても疑うことは出来ないのである。・・・
  (アウグスティヌス:三位一体論10・10 c.399-421)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



 もう少し つづります。途中に差し挟んだ引用文のあとつづけて デカルトが

 ▼(デカルト) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 そうするとただちに 私は気づいた 私がこのように すべては偽である と考えている間も そう考えている私は 必然的に何ものか〔の存在〕でなければならぬ と。そして 《私は考える ゆえに私はある》というこの真理は・・・
 (方法序説 2)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 と書いたことは よく知られているところである。

 これらに対してパスカルは このアウグスティヌスからのデカルトの独立性を ある別の議論(つまり幾何学と論理学との関係について)の途中に一例として 軽く触れた。

 ● (パスカル) ~~~~~~~~~~
 デカルトがこの偉大な聖者(アウグスティヌスのこと)を読むことによって初めてそれを知ったにしても 彼(デカルト)がそれの真の唱道者でないということは わたしには実際 思いもよらぬことである。・・・

 なぜなら デカルトがその志向において果たして成功したと想定し この想定の上に立って この言葉が彼の書物にあっては 他の人々が偶然に言った同じ言葉と違っていること あたかも生命と力とに満ちた人間が死人と違っているのと同様であると わたしは言いたいからである。
 (パスカル:幾何学の精神について 2)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~

 パスカルは アウグスティヌスが 上に引用した文章のことばを《偶然に言った》と述べて けなしているのですが 大目に見ておきましょう。

 《あやまつなら われあり》というとき あやまちに気づいたわたしは とうぜん そのことを 振り返って 考えます。その考える主体は あやまちに気づいて いわば我れに還った我れであるのですから そこの部分だけを 取り出せば 《考えるとき われあり》となるはずです。

 我れに還った我れをもうたがうなら それは悪しき無限に落ち入ります。と我れは知っているようです。

 No.9です。もう少しくわしく書きます。

 アウグスティヌスの《われ あやまつならば われ有り》から デカルトが 《われ考える ゆえに われ有り》を導き出したことには 独自性があると パスカルが 議論しています。わたしとは何か? あるいは 主体のあり方がどうであるか? の問題です。

 ● (パスカル:デカルトのコギトについて)~~~~
 わたしは公正な人々に尋ねたい――とパスカルは言う―― 《物質は自然にかつ絶対に 思考する能力を持たない》という原理と 《わたしは思考する ゆえ...続きを読む

Q原爆はデカルトがつくった?

原爆はデカルトがつくった、という言葉を聴きました。
デカルトの説いた合理主義、心身二元論といった言葉がキーワードになっているようです。

もちろん、原爆の理由をデカルト一人に帰すつもりはありませんが、
近代科学や近代資本主義に対して、デカルトがどういう役割を果たしたのか、教えていただけないでしょうか。

Aベストアンサー

人類のあらゆる文明や文化で大局的に見て合理的でなかったものはありません。そんな一般的な歴史的経験の中で、ヨーロッパの中世の暗黒時代というキリスト教に毒された非合理的な経験は、特殊な事例だと思います。ですから合理主義であれば現在が出てくると言う主張は、何も情報を含んだ主張ではなく、人間なら現在の状況が出て来たという以上のことを言ってはおりません。従って、現在を理解するキーワードが合理主義であるはずがありません。

原爆に関しては、自然界を数学を使って記述しようと言う神懸かったことを言い出したことが、本質的に重要なことだと思います。この神懸かりは多分西洋文化を除いて、他の文化には出て来なかった不思議な視点だと思います。確かに、ピタゴラスがそのことについて触れておりますが、ギリシャも凋落し、アラビヤが辛うじてギリシャやローマの知的集積を細々と伝えていた状況でした。やはり、それより千数百年を隔てたガリレオの数学に対する神懸かりを待つしか無かったのでしょう。ガリレオがその当時知っていた数学は、現在日本で言う、足し算引き算掛け算割り算の算数と、幾何学と言う超初等的な数学だけでした。微分積分などの高度な数学は、ガリレオより数十年後に生まれたニュートンを待たなくては,生まれて来ませんでした。こんな未熟な算数しか知らないガリレオが、「数学は自然を記述する言語である」などと、ほとんど証拠もなしに言い出し狂気が、現在の技術と原爆への道を切り開いたのです。デカルトは、ガリレオの引いたレールの延長上を歩いていただけです。

また、近代科学と近代資本主義を並列に置くとは、何とも乱暴な対置ですね。例えば、現在の銀行制度のほとんど全ての制度が、戦国時代の堺の町で存在していたそうです。その堺人で知らなかった制度はクレジットカードだけでした。何故なら、その時代まだプラスティックが発明されていなかったからだ、という古典的なジョークがあるくらいです。

金儲けの資本主義制度と、科学的認識を一緒くたにするとは、何ともはや、乱暴と言うか、物の本質を見ていない見解ですね。経済活動は合理的でなくては出来ませんが、必ずしも科学的でなければ出来ないわけではありません。非科学的ではあるが合理的である社会の良い例が、現在のアメリカです。今現在アメリカ人の80%以上がダーウインの進化論を認めておらず、キリスト教の神による創造説を信じていると言う統計結果が出ています。しかし、アメリカ人は本質的にビジネスマンですので、彼らは大変合理的です。合理的でなければ,ビジネスは出来ませんからね。また、経済活動は軍事力の発展も促すのもであり、その結果、欧米が経済的にも軍事的にも覇を握っているのです。覇権を握っていることと、高度な知的文化を持っていることを混同しては行けません。

こと程左様に科学的であるとこと、合理的であることは,同じことではないのです。それなら何処が違うのか、質問者さんご自身でその答えを見付けて下さい。我々は、科学的な社会を目指しているのか、合理的な社会を目指しているのか、それともそれとは何か違った社会を目指しているのか、面白い問題ですね。

人類のあらゆる文明や文化で大局的に見て合理的でなかったものはありません。そんな一般的な歴史的経験の中で、ヨーロッパの中世の暗黒時代というキリスト教に毒された非合理的な経験は、特殊な事例だと思います。ですから合理主義であれば現在が出てくると言う主張は、何も情報を含んだ主張ではなく、人間なら現在の状況が出て来たという以上のことを言ってはおりません。従って、現在を理解するキーワードが合理主義であるはずがありません。

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Qデカルトの神の存在証明

デカルトは方法序説で神の存在を定義していますが、ここで言っている神は第一部で述べた良識と同等に考えて良いのでしょうか?
なぜそうなのか等、詳しく教えていただけるとありがたいです。

Aベストアンサー

 誰も回答していないようですので、素人ですが、お邪魔します。
 デカルトは神と良識を同等とは考えていないと思います。デカルトにおける良識とは何か。これはこれで大変な問題だろうと思いますが、恐らく人間に備わっている判断能力、学問だけにとどまらず、日常生活において出会う様々な事柄に対して、判断している能力ということになるのではないでしょうか。
 恐らく、疑問が生じた箇所は、方法序説の第4部以降だろうと思います。しかしあれがくせ者でして、デカルトは、第4部以降で自分の哲学を説明していますが、その説明が、ほんの概略でしかない。ですので、あれだけで、デカルトの考えを理解するのは難しいらしいのです。もっと詳しく書いた「省察」とか「哲学原理」を読まないと、実は第4部以降は、理解しづらい。そういうことがあるようです。でも、そんなの面倒ですよね。
 というわけで、1つの案なのですが、もう少し、疑問点を具体的に書かれると良いのではないでしょうか。つまり、方法序説の(できればどの訳か。訳でなく原著でしたら大変失礼しましたなのですが。岩波文庫なのか中公文庫なのか、ちくま学芸文庫なのか、さらには何ページなのか)第何部のどういった文章についての疑問なのかを補足されると、適切な回答が得られるかと思います。いかがでしょうか。

 誰も回答していないようですので、素人ですが、お邪魔します。
 デカルトは神と良識を同等とは考えていないと思います。デカルトにおける良識とは何か。これはこれで大変な問題だろうと思いますが、恐らく人間に備わっている判断能力、学問だけにとどまらず、日常生活において出会う様々な事柄に対して、判断している能力ということになるのではないでしょうか。
 恐らく、疑問が生じた箇所は、方法序説の第4部以降だろうと思います。しかしあれがくせ者でして、デカルトは、第4部以降で自分の哲学を説明し...続きを読む

Qチョムスキー「デカルトの問い」

ノーム・チョムスキー著
「Language and Problems of Knowledge: The Managua Lectures」
本書第一章、A framework for Discussionの中から質問です。
原書、訳書をもっておられましたら、ぜひご回答よろしくお願いします。
カテゴリーが英語、文学、科学…どれに当てはまるかわからず、 その他(学問&教育)で設定しました。


p.5~から「デカルトの問い」について記述されています。
我々が何を言い、なぜそう言うのかということに関係している「The production problem(発音に対する問い)」がデカルトの問いであり、それは我々が、言語使用の創造的一面とでも呼ぶモノを説明している。
(大雑把な解釈で申し訳ありません)
その後に、
Descartes and his followers observed that the normal use of language is constantly innovative, unbounded, apparently free from control by external stimuli or internal states, coherent and appropriate.
(訳:デカルトと彼の弟子たちは、通常の言語使用は制約がなく、斬新で、刺激や抑制から独立したものだが、それでいて、首尾一貫して状況にふさわしいものであることを発見した。)

とあります。
デカルトの思考は
「無生物の物体や生物の世界と人間の身体の作用のあらゆる現象は、機械のふるまいという観点から説明することができ、すべて機械の部分部分の振る舞いと外部環境から決定することができる」
(デカルトの身体論より引用)
ではないのですか?
これでは上記の文と相反する内容になってしまうと思うのですが…

デカルトの問いに関して、チョムスキーが何を述べているのかよくわかりません。
ご回答よろしくお願いします。

ノーム・チョムスキー著
「Language and Problems of Knowledge: The Managua Lectures」
本書第一章、A framework for Discussionの中から質問です。
原書、訳書をもっておられましたら、ぜひご回答よろしくお願いします。
カテゴリーが英語、文学、科学…どれに当てはまるかわからず、 その他(学問&教育)で設定しました。


p.5~から「デカルトの問い」について記述されています。
我々が何を言い、なぜそう言うのかということに関係している「The production problem(発音に対する問い)」がデカルトの...続きを読む

Aベストアンサー

チョムスキーがデカルトやフンボルトを援用したり、ソシュールやスキナーを批判すると、必ずその道の「専門家」に「それは違う」「そんな一面的な理解では話にならん」と言われるのですが。

ま、それはともかく。

デカルトにとって、人間は心臓を熱機関とする精巧な自動機械であると同時に、動物と違って精神をもっており、その意味で人間は単なる精神でも物体でもない第三の独特な世界を形づくっている、ということになります。

単純な「人間機械論」とは一線を画しているとは思いますが、私の専門ではないので、あまり深入りしないことにしましょう。

さて、チョムスキーが「言語使用は創造的だ」というとき、それは、「人はこれまでに見たことも聞いたこともない文を発することができるし、理解することができる」と言う意味です。

また、「言語使用に制限がない」とは、「人は無限の数の文を発する(理解する)ことができる」ということです。

とすると、人間の「心/脳」(mind/brain)の中に、全ての言語表現が収められているはずがない。では、「心/脳」には何があるのか? 無限の数の文を発する(理解する)ためのシステム、つまり文法である。言い換えれば、無限の言語表現を生成できる有限の計算機構である。

システム(文法)自体は一種の機械のようなものです。
これでつながりませんか?

チョムスキーがデカルトやフンボルトを援用したり、ソシュールやスキナーを批判すると、必ずその道の「専門家」に「それは違う」「そんな一面的な理解では話にならん」と言われるのですが。

ま、それはともかく。

デカルトにとって、人間は心臓を熱機関とする精巧な自動機械であると同時に、動物と違って精神をもっており、その意味で人間は単なる精神でも物体でもない第三の独特な世界を形づくっている、ということになります。

単純な「人間機械論」とは一線を画しているとは思いますが、私の専門では...続きを読む

Q「我思う、故に我あり」とは?

デカルトの「我思う、故に我あり」という言葉の意味が良く分かりません。

何かを見たり触ったりしているのも、夢の中の出来事かもしれないけど、どれだけ疑ったとしても疑っていると思っている事実は動かない・・・ということだと思うのですが、だから何が言えるのか良く分からないです。

また、疑っていると思っていることも夢かもしれないと思うのですが、どうなんでしょうか?

どなたか分かりやすく説明をお願いします。

Aベストアンサー

6番さんのおっしゃること、アホとは全く思わないですが、伝統的なデカルト解釈からはかなり外れているように見受けます。

私なりに噛み砕いてまとめてみます。

当時、デカルトが、真理を探究していこう!とまじめに思って回りを見渡してみると適当なことばかり言ってる人ばかりだった。

特にスコラ哲学者は、偉そうな顔して適当なことばっかり言ってた(デカルトは仮想敵として、スコラ哲学を思い浮かべていることが多いようです。だからデカルトを真に理解するためにはスコラ哲学を腰をすえて十年は読まないといけない、とされてます)。

そこで、そこから出発したら、絶対まちがわん、という一点を必死に探した。あらゆるものを疑ってみて、論破できたら、全部疑わしいものとして切り捨てた。

で、感覚的世界も全部私を間違わせるから、全部無視して、自分がどこにいるのかも分からなくなりながら、必死に疑いえない一点を探した。

あらゆる命題を疑い、論破し、苦しんだあげく、最後に「われ思うゆえにわれあり」を見つけた。
これはどんなに疑いの目を向けても、真実だ、とデカルトには思えた。

というわけでここから出発して真理を探究することにした。全ての学問の出発点はここ以外にありえない、と。

そこから哲学について、感情について、いろいろ探求したけれど、一番凄いのは神様の存在証明まで考えたことだと思います。
われ思う、から出発して、神様まで証明しちゃう。
『省察』のその戦いっぷりは偉大です。
全然デカルト主義者じゃないですが、泣けます。

話がそれましたが、「われ思うゆえにわれあり」は、全ての哲学が、全ての学問がそこから出発すべき一点だ、とデカルトは主張します。

感覚的なものは私を間違わすことがあるので、切り捨てます。だからこの「われ」は肉体ではなく精神です。(デカルトは肉体と精神を思いっきり分けて考えます)

夢の中で思っていても精神としての私はある。
ホントは体を全て失っていて、実験室で脳に電極さされて、本当は肉体なんてないのに、あるように思わされていたとしてもかまわない。
究極的には脳なんて物質があろうがなかろうが、どうでもよい。
それでも、もし私が考えてるなら私の精神は存在する。

そんな感じだと思います。

6番さんのおっしゃること、アホとは全く思わないですが、伝統的なデカルト解釈からはかなり外れているように見受けます。

私なりに噛み砕いてまとめてみます。

当時、デカルトが、真理を探究していこう!とまじめに思って回りを見渡してみると適当なことばかり言ってる人ばかりだった。

特にスコラ哲学者は、偉そうな顔して適当なことばっかり言ってた(デカルトは仮想敵として、スコラ哲学を思い浮かべていることが多いようです。だからデカルトを真に理解するためにはスコラ哲学を腰をすえて十年は読...続きを読む

Qデカルト主義者について教えて下さい

 質問はタイトルどおりなんです。
デカルト主義者と呼ばれる人たちが、近代科学の
発展にいかに貢献し、またときには邪魔してきたか
ということ知りたいのです。

1)デカルト主義者とはどうゆう人たち(その定義は?)
2)デカルト主義者と呼ばれた人には具体的に 
 どんな人がいたのか?(具体的名前、その活動)
3)デカルト主義者たちは、アイザック・ニュートンの
 物理学書プリンキピアをどう捉えていたのか?

 以上の3点、もしくは3点の参考になりそうなこと
お教え下さい。
 また、私の疑問に答えてくれそうな本などありました
ご紹介下さい。洋書、和書を問いません。英文はOK
ですが、フランス語の文献も、それが1番いいと
お勧めならトライしてみます。ドイツ語は専門書の
レベルは今すぐ読みこなせないと思いますが、
これがお勧めということでしたら、ご紹介下さい。

Aベストアンサー

1)「デカルト主義者」(Cartesian)というのは、本来はただ「デカルトの思想あるいは方法を信奉する人」という意味で、それ以上の定義はありません。

1.一番狭い意味での「デカルト主義者」というのは、「17世紀後半から18世紀前半にかけてのフランス、オランダで、デカルトの思想を支持した人たち」のことです。その中には、日本でよく知られている人はほとんどいません。

2.広い意味で「デカルト主義者」という場合、デカルトの思想のどの部分を重視するかによって意味がちがいます。比較的共通する特徴は
(1)理性によって吟味して確実と思われることしか信じない。(感覚や経験や常識を疑わしいものとする)
(2)感情に左右されず、理性と意志に基づいて生きる。
(3)精神と物質を全く違ったものとみなす。
(4)「考える私」の存在を絶対に確実なものとする。
といったところでしょうか。

2)「狭い意味でのデカルト主義者」は、フランスでは、レジス、アルノー、フォントネル、マールブランシュ
オランダではレギウス、ゲーリンクスなど。
「広い意味でのデカルト主義者」ということになるといろいろで、極端な場合は、(経験主義者でない)「合理主義者、理性主義者」のすべてを指すこともあります。
20世紀の哲学者では、「現象学」の創始者であるフッサールに『デカルト的省察』という著作があり、彼は自分がある意味でデカルト主義者であることを認めています。
また、文学者、詩人として有名なヴァレリーも、デカルト主義者であることを自認しています。

3)デカルトの自然学では、「真空」というものはなく、力は接触している物体の間でしか働かないものとされていました。だからデカルトの説の支持者たちは、力を伝える物質なしに離れた物体に作用する万有引力は、神秘的で不合理なものであるといって、プリンキピアを批判しました。

3)のように、自然学(物理学)の上でデカルトの思想が果たした役割が知りたいのであれば、次のような本が参考になるでしょう。

山本義隆『重力と力学的世界』
バターフィールド『近代科学の誕生』
コイレ『コスモスの崩壊―閉ざされた世界から無限の宇宙へ』

1)「デカルト主義者」(Cartesian)というのは、本来はただ「デカルトの思想あるいは方法を信奉する人」という意味で、それ以上の定義はありません。

1.一番狭い意味での「デカルト主義者」というのは、「17世紀後半から18世紀前半にかけてのフランス、オランダで、デカルトの思想を支持した人たち」のことです。その中には、日本でよく知られている人はほとんどいません。

2.広い意味で「デカルト主義者」という場合、デカルトの思想のどの部分を重視するかによって意味がちがいます。比較的共通す...続きを読む

Q我思う故に我あり

デカルトの言葉だったと思うのですが、
「コギト・エルゴ・スム」って何語ですか?
つづりも教えていただきたく、
宜しくお願い致します。

Aベストアンサー

ラテン語です。
Cogito, ergo sum. ですね。
cogito=「私は考える」
sum=「私は存在する」(英語のbe動詞)


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