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デカルトは「我思う、故に我在り」によって、“不完全な存在である我が存在できる”のは“完全な存在である神が存在するからである”ことを証明したと聞きましたが、どうしてこのように考えられるのでしょうか。
不完全・完全とはどういうことか、なぜ不完全な存在だけでは存在できないのか、わかりません。

A 回答 (5件)

そもそも、自分の立場に「不完全性定理」を自力で当て嵌められませんよね。

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まだここを見ていらっしゃるかな。



少し見方を変えてみてください。
デカルトの考えた筋道をたどっていきましょう。

「わたし」は疑ったり、苦しんだり、悲しんだりします。ささいなことで大喜びもすれば、他人の不幸をほくそえんだりもする。そんな自分が「不完全な存在者」であるということは、わたしたちにも実感されるところです。

ところが、わたしたちは「完全な存在者」という観念を持っている。自分のことを「不完全」と感じてしまうのも、実際には見たことも聞いたこともないけれど、頭のなかにある「完全な存在者」と引き比べて、自分の「不完全さ」を理解しているのではないか。

だとしたら、この「完全な存在者」という観念はどこから来たのでしょう。

不完全なものが完全なものを創りだすことはできない。だから、「わたし」がこの観念をつくりだしたはずがない。それなら、「わたし」の外から来たのでしょうか。

けれども、空を見ても、地面を見ても、山を見ても川を見ても、刻々と移ろいゆき、姿を変えて、「完全」なありようとはほど遠い。となると、外からではない。

となると、「わたし」の内に、あらかじめあったとしか考えられないということになる。「完全な存在者」という観念は、完全な存在者、すなわち神から直接に、「わたし」のなかに置かれたのでなくてはならない。

すなわち、神は存在する。

これがデカルトの神の存在証明です(※『哲学原理』の17~21をわかりやすく説明したつもりです)。

> 不完全・完全とはどういうことか、なぜ不完全な存在だけでは存在できないのか

ここらへんは、わたしたちはあんまりこんな考え方をしないから、実感ではつかみにくいかもしれません。これは「実体」ということを言ってるんです。日常「それは実体がない」なんていうときの「実体」とはちがいます。

これはギリシャ時代から西洋ではさまざまな派生を産みつつ、延々と受け継がれていく考え方だから、なかなかぱっと理解できないかもしれませんが、おおざっぱに言ってしまえば、「見かけや姿かたちを超えて、ほんとうにあるもの」ぐらいの感じです。

『哲学原理』の51では、「実体」はこのように定義されています。

「「実体」とは他でもない、存在するために他の何ものをも要しないように、存在するものを意味する。」

「なぜ不完全な存在だけでは存在できないのか」と聞かれてもちょっと困るんですが(笑)、デカルトはそのように定義したのだ、といったん頭に入れて、勉強を進めていけば、もう少し頭のなかで自分なりに整理ができるようになると思います。
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神の存在証明・デカルトと来たら、古典中の古典でしょう。

よっぽど新しい視点・切り口とかがないとそれらに精通している方の反応は無いのではないでしょうか。せいぜい過去のQ&Aを見ろとか、『省察』を読めとか。mmkyさんもデカルトの証明そのものには触れられていませんね。もしかしたら親切な回答を誰か用意して居られるかもしれませんが、その前に素人の見解=思い付きを一つ。
デカルトの証明は措いて、「完全・不完全」について。
数理論理学上の「完全性」とかであれば定義される訳ですが、「哲学」あるいは常識的な意味でのものは、定義しがたいですよね。その概念は言葉の使われ方で、推測する訳ですが、歴史上の巨人哲学者であるデカルトとなると、「完全・不完全」について誰かが論文を書いているでしょう。そんな学術的な話と無関係に、ふと思いました。「全体・部分」と同じに見ているのではないか?
「部分」というのは「全体」が有って部分なのだから、「部分」ということは「全体」を前提としている。それと類似的にというより、全く同じ論理で、「不完全」であるということは、「完全」ということを前提としているのだ、と考えているのではないか?
デカルト本人としては、人間の不完全な認識が、何故「完全な存在=神」という「観念」を持つことが出来るのかを、説明しているつもりであるようですが、何でそこで「神」が出てくんねん、と突っ込みを入れたくなる説明ばかりで、『省察』は一通り目を通しただけだったと、昔を思い出しました。
すなわち、「なぜ不完全な存在だけでは存在できないのか」という問いは、デカルトにとって無効な質問であるのではないですか。「不完全」であるという認識そのものが「論理的に」「完全」を求めており、「完全」であるのだから、存在もしている、という、「自明な」論理なのでしょう。

不信心な私は、その「神」は、ゼウスなのか、アッラーなのか、天照なのか、とさらに突っ込みたくなりますが。
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追伸


>>では、もし始まりが完全な存在なら、どうして不完全な存在が生まれたのでしょうか?
完全である以上、何の変化もないはずです。

○ 確かに1番目に造られたものは指摘のように考えられますね。完全なものが造ったのですから完全に近いと考えられますね。では1番目が2番目を造ったとすれば少し完全から外れますね。2番目が3番目をこれを繰り返して10番目・・20番目となればかなりずれるでしょう。
完全からのずれはいつ誰に造られたかということに帰着するでしょう。
ただし、元をたどれば誰しも完全なものにたどり着くことは明らかですね。完全からのずれが小さいとか大きいとかはそのように考えられますね。
実際にも最初(1番目)に造られたものは少ないんですよね。
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>>なぜ不完全な存在だけでは存在できないのか、わかりません。



ですか。
例えば、人間がロボットを創ったとしましょう。それが原因でロボットは自己増殖しロボットの社会を創ったとします。ロボットがいくら賢くとも本来創られたものですからロボット以上を望んでもかなうわけがありませんし、普通のロボットはロボットであることを疑うこともないでしょう。でもごく一部のロボットが何故ロボットであって犬でも猫でもないのかとなどと考えはじめると話は違ってきます。
つまり、そのような疑問に答えを持たないことに気づくわけですね。答えを持たないということは答えを持つもの(完全なもの)の存在が推定されるわけですね。
それを素直にとれば、デカルトのようになるでしょう。
ロボットであれ人間であれ同じわけということですね。

この回答への補足

不完全な存在→完全に近い不完全な存在→より完全に近い不完全な存在→……→完全な存在
というわけですか?
では、もし始まりが完全な存在なら、どうして不完全な存在が生まれたのでしょうか?
完全である以上、何の変化もないはずです。

補足日時:2009/05/23 15:50
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Qデカルトの身心二元論、わかりやすく教えて!

デカルトの身心二元論をわかりやすく説明してください。
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という考え方です。ここでいう「延長」とはなんのことなんですか?
急ぎの用なので本を読む時間がありませんでした・・・
至急お願いします!!!!!m(._.;)m

Aベストアンサー

デカルトが流行ってらっしゃるのでしょうか^^;
心身二元論については下の方の質問にも答えているので
それを参考にして頂けるとありがたいのですが、
さらに「延長」について説明します。

延長は、物体を語るうえで重要な概念です。(観念論じゃなくてよかった^^)
物体を定義しろ、という時に何を思い浮かべます?
重さはないけれど、物があるってことありますよね。真空とか。
で質料とかもかなり微妙ですし、不可入性とかも言われたりしますが、
まず何よりも先に立つのは延長です。
延長は広がりとか言ったりしますが、要するに、縦、横、高さ(3次元なので)
があることです。1つでも2つでもいいんですが。
でもどれもないってことは物体である以上ありえないですよね。
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空間を一定の量占めて、そこにあるという存在の形式でもあります。
デカルトはこれを実体「物質」の属性(本質)とします。
これはスピノザやロックも受け継いでいきます。

分かってしまうと何でもないことなんです。少なくともデカルトにおいてのみ言うなら^^;
ただいかにも専門用語!といった感じなので戸惑われるかもしれません。

「方法序説」なんかは薄いし、肝心のところさえ読めばすぐです。
意外と分かりやすいので、気になるようでしたらご一読を。

デカルトが流行ってらっしゃるのでしょうか^^;
心身二元論については下の方の質問にも答えているので
それを参考にして頂けるとありがたいのですが、
さらに「延長」について説明します。

延長は、物体を語るうえで重要な概念です。(観念論じゃなくてよかった^^)
物体を定義しろ、という時に何を思い浮かべます?
重さはないけれど、物があるってことありますよね。真空とか。
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まず何よりも先に立つのは延長です。
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Qデカルトの神の存在証明

デカルトは方法序説で神の存在を定義していますが、ここで言っている神は第一部で述べた良識と同等に考えて良いのでしょうか?
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 誰も回答していないようですので、素人ですが、お邪魔します。
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デカルトの「我思う、故に我あり」という言葉の意味が良く分かりません。

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6番さんのおっしゃること、アホとは全く思わないですが、伝統的なデカルト解釈からはかなり外れているように見受けます。

私なりに噛み砕いてまとめてみます。

当時、デカルトが、真理を探究していこう!とまじめに思って回りを見渡してみると適当なことばかり言ってる人ばかりだった。

特にスコラ哲学者は、偉そうな顔して適当なことばっかり言ってた(デカルトは仮想敵として、スコラ哲学を思い浮かべていることが多いようです。だからデカルトを真に理解するためにはスコラ哲学を腰をすえて十年は読まないといけない、とされてます)。

そこで、そこから出発したら、絶対まちがわん、という一点を必死に探した。あらゆるものを疑ってみて、論破できたら、全部疑わしいものとして切り捨てた。

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そんな感じだと思います。

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私なりに噛み砕いてまとめてみます。

当時、デカルトが、真理を探究していこう!とまじめに思って回りを見渡してみると適当なことばかり言ってる人ばかりだった。

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Qデカルト形而上学

デカルトの実体論では、実体を有限実体と無限実体に分けているようなんですがこれは一体どういうことなんでしょうか?

Aベストアンサー

フーコーはルネサンス期の終焉と古典主義時代の幕開けをベーコンとデカルトの登場に見て取っていますよね。
ルネサンス期には「類似」が知の基本的な経験であったのに対して、まずベーコンはそれを「種族のイドラ」として誤りであると指摘します。
そうしてデカルトは、「類似」から「比較」へと向かっていくのです。

「デカルトは、人間の精神の働きは、ほとんどすべてが比較という操作によって行われることを指摘しながら、数と量の比較と秩序の比較を重視する。特に重要なのは秩序の比較の方法であり、ある項から別の項へ、さらに第三の項へと、比較によって連続的に系列を形成していくのである。デカルトの学問体系は、理性の力によって確実に認識できたものを連続的に結びつけることによって、大きな秩序を形成しようとするものであった。」
(中山元『フーコー入門』p.83)

> 実体を有限実体と無限実体に分けているようなんですが、と言ってしまったのですが、そうすると二元論的な感じになるのですがどうなんでしょうかね。

そうなんです。デカルトがフーコーが指摘したような「同一性と相違性」の比較によって系列を形成していったと考えると、「実体」が「有限実体」と「無限実体」の二元論としてとらえられるのも必然ということになります。

たとえば「神は無限なる実体である」とデカルトがいうときの「無限」ということにしても、『省察』のなかでは「現実無限」、すなわちあらゆる完全性が、可能的にではなく、同時に現実に実現されてあるということで、人間にある完全性をだんだんと実現していくという「継起的無限」とは異なるものである、というふうに言っています。
ほんと、「比較」が古典主義時代のエピステーメーだと指摘されると、一気に目の前が開けてくるような感じがしません?
この手際の鮮やかさというのはやっぱりフーコーだなあ、って気がしますね。

オアシスといっていただいてありがたいのですが、わたしも所詮素人なので、どうか眉に唾をお忘れなく。ただ、ここで質問をなさる場合、その質問が何を問うているかを理解するための前提を共有しない方からの書きこみがあることは避けられない事態であると思います。どうか冷静な対応をなさってくださいますよう。わたしが回答したくなるような質問を出してくださる方はそれほど多くはないので、余計なひとことを失礼しました。

フーコーはルネサンス期の終焉と古典主義時代の幕開けをベーコンとデカルトの登場に見て取っていますよね。
ルネサンス期には「類似」が知の基本的な経験であったのに対して、まずベーコンはそれを「種族のイドラ」として誤りであると指摘します。
そうしてデカルトは、「類似」から「比較」へと向かっていくのです。

「デカルトは、人間の精神の働きは、ほとんどすべてが比較という操作によって行われることを指摘しながら、数と量の比較と秩序の比較を重視する。特に重要なのは秩序の比較の方法であり、あ...続きを読む

Qニーチェのいう超人とは一体どのようなものですか?

連続投稿ですみませんm(_ _;)m
哲学でニーチェ先生を勉強しているんですが、難しくてさっぱりです…;

極論ですが永劫回帰とは、ようは地獄(現実)が繰り返される事を意味するんですよね?;
それを受け止め(運命として)精神的に乗り越える人のことを「超人」と呼ぶ、でいいんでしょうか?;
運命を変える人の事を「超人」というわけではないのですね;

なんだか納得できるような納得できないような…;
あと、個人的に「虚無」についても勉強してるんですが、これに打ち勝てるようなものは存在しないのでしょうか?(この質問は任意で結構です;)
もし、何か御存知でしたら教えて頂けないでしょうか?
勉強し始めたばかりで、誰が何が良いかも分かりません(><;)
本も難しいのが多くてどれがよいやら…;

Aベストアンサー

ANo.1 ANo.2です。

◎「そもそも何故、『人間の人生も無意味な無限の繰り返しをしている』となるんでしょうか…;」について

 あらゆるものが救済も保障もされないで、同一の形で回帰するというのは、究極のニヒリズムの形式をいったもので、それは根拠に基づいた真理ではありません。ニーチェの独創的なインスピレーションによって考え出されたものです。しかし、もしそうした究極のニヒリズムの状況に立たされたなら、一般人は運命に流され、主体性を放棄し、ニヒリズムにからめ取られてしまうでしょう。しかし「超人」は、永劫回帰のニヒリズムに対してさえ、「これが人生だったのか、よし、さらばもう一度!」と自己の生を肯定して、より強く生きていこうとする人なのです。またさらに言うなら、「超人」とは、自らが自分の運命をつくり出していく意志を持った人ともいえます。

◎「きみたちが、きみたちの父祖の子孫であることを、きみたちは、きみたちの子孫たちによって償うべきだとは、『過去に囚われるな、未来を見よ』という事なのでしょうか?」について

 この文章の私流の解釈は、「自らの過酷な『運命』や悔恨の『過去』(ある意味では運命とも言える「過去」)を、きみたちは、積極的に『未来』に働きかけることによって、その意味をプラスにすべきなのだ」といった具合です。つまり、肯定的な「未来」を創造することによって、過酷な「運命」や「過去」は自分にとって大切な存在になるのです。ところが、それに「囚われ」ているということは、「運命」や「過去」を呪っている結果であり、「超人」の創造的な生き方ではないのです。

◎「運命(過去?)を愛せよ、という割には「償う」という表現を使うのは矛盾しているような…」について

 自分の「運命」を呪い、現にあるものと違ったものであればよかったのにという考え方は、能力や財力のある者・健康な者に対するねたみや恨みが隠されており、それは弱者の考え方なのです。「超人」は、あらゆる「運命」と向き合い、それを必然なものとして受け入れ愛する人間なのです。なぜならば、その過酷な「運命」が自己を高め、より強大にしてくれる起爆剤を内包していることを、「超人」は知っているからなのです。そして、その過酷な「運命」を、自分にとってプラスの意味あるものにすることが「償う」ということであり、またそれは、過酷な「運命」から逃げず、それと向き合い、それを必然なものとして愛する「超人」にこそ可能なのです。なお最後に、またニーチェの言葉を紹介して締めくくります。 

「いまだに決して歩み行かれたことのない千の小道がある。生の千の健康があり、生の千の隠れた島々がある。人間と人間の大地とは、依然として汲みつくされておらず、また発見されていない」
  

ANo.1 ANo.2です。

◎「そもそも何故、『人間の人生も無意味な無限の繰り返しをしている』となるんでしょうか…;」について

 あらゆるものが救済も保障もされないで、同一の形で回帰するというのは、究極のニヒリズムの形式をいったもので、それは根拠に基づいた真理ではありません。ニーチェの独創的なインスピレーションによって考え出されたものです。しかし、もしそうした究極のニヒリズムの状況に立たされたなら、一般人は運命に流され、主体性を放棄し、ニヒリズムにからめ取られてしまうでしょう。...続きを読む

Q我思う、故に我有り(デカルト)への根本的疑問

 世界が存在すること、或いは実在という概念に対してその全てを疑ってなお自らの思惟体験は揺るぎ無いものであることから観念は自ずから存在する、としたこの主張に対していささかの疑問を持ちました。そこで次の様な妙な問題を考えました。

 ある子供が産まれた。彼は目が見えず、耳が聞こえず、何かに触れてもそれを感じることが出来なかった。およそ感覚と呼べるものが欠落し機能しない。しかし彼を診察すれば血液の循環や心肺機能は正常で,感覚器官と、それらに関連する神経系以外の、脳やその他重要器官には何ら問題が無い事が判明した。そして生命維持装置にかけて栄養補給すれば延命させることが可能と結論した。母親は延命を望んだ。そのようにして子供は10歳になった。

 さて、彼は自分の手や足が「そこ」にあることを知ることが出来るでしょうか?それどころか外に世界があることを知り得るでしょうか?また、自分自身を知っているのでしょうか?彼の精神はあるのでしょうか?無論、脳は医学的に見て損傷はなく、栄養補給も絶えず受けつづけたとします。彼は「見る」ことも「聞く」ことも「触る」ことも「味わう」ことも「嗅ぐ」ことも経験出来ないので、夢を「見る」ことも「聞く」ことも・・・~も出来ないでしょう。

 そういうことから、「我思う」為には外界の刺激が必要であって、「我有り」の方は根本にはなり得ないように思うのですが、いかがですか?長い質問でした。

 世界が存在すること、或いは実在という概念に対してその全てを疑ってなお自らの思惟体験は揺るぎ無いものであることから観念は自ずから存在する、としたこの主張に対していささかの疑問を持ちました。そこで次の様な妙な問題を考えました。

 ある子供が産まれた。彼は目が見えず、耳が聞こえず、何かに触れてもそれを感じることが出来なかった。およそ感覚と呼べるものが欠落し機能しない。しかし彼を診察すれば血液の循環や心肺機能は正常で,感覚器官と、それらに関連する神経系以外の、脳やその他重要器...続きを読む

Aベストアンサー

 
  デカルトの懐疑は、存在物が自明的に存在するということは、自明的に真かという懐疑であったはずです。
  中世哲学では、存在物(レース)が存在することは自明的に明らかであり、それは、神が存在することが自明的に明らかであるからですし、存在物が存在することが自明的に明らかであるので、神の存在も自明的に明らかなのです。
 
  神が存在するのは自明であるという中世哲学のテーゼは、トートロジーのように聞こえますが、デカルトが考えていたよりも、その存在についての構想は、深度があったのです。つまり、現実存在(エクシステンティア)の成立という話になれば、それは現象の存在の自明性に繋がり、また現存在の存在了解にも繋がっていたのです。
 
  現象の存在の自明性は、フッサールが西欧の哲学の歴史のなかで、反復的に主張したことで、「人間の現存在」による、存在物の「存在了解」は、ハイデッガーが考えたことです。
  現象の存在が自明であるということは、現存在の存在了解によって自明であるのです。デカルトの懐疑は、思考のモデルであって、疑っている自分が存在していることは疑いがない、つまり、思考主体=主観の存在の自明性は、最小の答えであって、デカルトや他の人が見、聞き、触れている、様々な事物の存在性も疑いがないものだということです。つまり、悪魔が幻覚をデカルトあるいは私たちに見せているのだとしても、その幻覚の事物は、幻覚という実体規定のもとで、自明的に現象として存在しているからです。
 
  わたしが思考している、わたしが懐疑しているという時の主観的世界の構造のなかでは、思考している主体、懐疑している主体の現なる思惟存在、懐疑存在が自明であり、思惟存在や懐疑存在の「存在の構造」解析は、存在事実の自明性によって乗り越えられているというべきでしょう。
 
  つまり、貴方 robking さんは、貴方の思考モデルで、思考実験してみたのですが、まったく感覚から遮断された子供とか、その子供のまわりの生命維持装置とかに言及し、それを思考モデルで使用している以上、「外界の存在物や、その感覚刺激」が、「思惟する我の存在」に先行して存在しなければならないなどと言ってみても、そういう思考内容の現象的存在が、現に、貴方自身の思考の構造解析以前に、自明であるということです。
 
  ポイントは二つで、一つは、存在は、現に phyein しているものであるということと、もう一つは、存在物の存在了解を主体が行えないとしても、そのことは、主体にとって、存在物が存在しないことにはならないということです。つまり、貴方の問いかけは、根本的に無意味に、わたしには思えるということです。
 
  注)「存在の構造解析」とは、現なる現象存在を、構造の設定で整序しようとすることを意味します。つまり、形而上学的構造を措定することで、現なる現象世界のありようの説明または根拠付けを行おうとすることです。

  それは具体的に言えば、一切の感覚刺激のない子供の脳における主体意識というものを一方で考えながら、同時に、そのような主体にとっては、超越的な、外部世界の存在を、簡単に自明的に述べている(構造措定している)ということです。主体に超越的な世界の存在を措定しておきながら、主体の成立にとっては超越的な世界の存在が先行すると言ってみても、何の意味もないということです。
 
  なお、アプリオリな認識・知識については、わたしは、統覚精神実体の存在を構想していますから、それは自明的にあり得るだろうという考えです。イデアー世界は存在するだろうという考えです。
 
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  どうも、何を述べているのか、分かりにくい人もいると思いますので、補足的に易しく説明します。
 
  つまり、robking さんが考えている、思考実験を行っているという場合、思考している robking さんの思考している主体の現象存在は疑いがないということです。しかし、仮に robking さんが、AB歳だとして、AB年ほどの色々な記憶を甦らせて、色々な経験をしてきたなあ、と考える時、考えている事実・事態・現象は、現実存在ですが、記憶にあるAB年は本当にあったのか、あるいは、5秒前、宇宙人が、robking さんの脳に、そういう嘘の記憶を投射し注入したのではないのか、本当は何なのか分からないということです。これがデカルトの懐疑の意味なのです。
 
  感覚を完全に遮断された子供の脳に宿ると仮定した主体意識にとっては、実は、外部世界は超越的で、いま上で述べた、AB年の人生が、本当にあったのか、宇宙人が5秒前に記憶を注入したのか、どちらか分からないと言うのと同じ意味で、外的世界があるかないか、子供の主体には分からないということです。これは感覚遮断しているので分からないのではなく、私たちであっても、窓から外をみて、美しい風景を見て、素晴らしいと思っても、それは、よく見ると精巧な壁の絵だったとかいう可能性から考えると、外的世界の現象的立ちのぼり(pyein)は疑いがないが、そういう世界・風景が、例えば「物質実体」として存在しているかどうかは(超越的命題であって)分からないということです。
 
  robking さんの思考のなかで、感覚遮断された子供の主体意識が考えられており、また、外部の生命維持装置などが考えられているのであって、これは、robking さんの思考のなかでの現象存在であり、図式であって、最初から子供の主体にとって超越的な外的世界を設定しているので、それでは、子供の認識の成立に外的世界からの刺激が不可欠になるのは当たり前の話だということです。(カントの主観の構造のような話です)。
 

 
  デカルトの懐疑は、存在物が自明的に存在するということは、自明的に真かという懐疑であったはずです。
  中世哲学では、存在物(レース)が存在することは自明的に明らかであり、それは、神が存在することが自明的に明らかであるからですし、存在物が存在することが自明的に明らかであるので、神の存在も自明的に明らかなのです。
 
  神が存在するのは自明であるという中世哲学のテーゼは、トートロジーのように聞こえますが、デカルトが考えていたよりも、その存在についての構想は、深度があ...続きを読む

Qデカルトとベーコンについて

『デカルトとベーコンにおいて確立した、近代の自然観とはどのようなものであったか』という問題がでました。自分なりに考えてみたのですが、納得のいく答えにたどり着くことができません。デカルトやベーコンがどのようなプロセス、影響をうけて近代自然観を確立するにいたったのか、誰か教えてください。

Aベストアンサー

 
細かいことは忘れましたので、基本的と思えることを述べますので、自分で敷衍して考えてください。

基本的には、キリスト教の教義と密接な関係にあった、スコラ哲学(晩期スコラ哲学)での世界の把握方法を鵜呑みにせず、また、既成概念や先入見に囚われず、権威から自由に、みずからの「合理的・理性的」な、明晰だと判断できる思考によって、世界を認識し、把握するということが、その指導原理であったということです。

デカルトの自然観には、実は、超越的な「神」が要請されていたのですが、デカルトは、明晰に合理的に、偏見や先入見に捕らえられず、新しく、最初から世界を把握しようとすると、どういう世界認識が可能かということで、明晰で理性的な「思考の方法」の原理を考え、これを世に明らかにし、自分も、その方法に従って、世界を思索したということです。

無論、晩期スコラ哲学の自然観の基本概念などは、援用したのです。ただ、権威や偏見や先入見を排して、合理性的に、整合的に自然観を立てようとすると、デカルトのようなヴィジョンになるということです。

ベーコンは、スコラ哲学の問題点を含め、「合理的に考える」という面で、何が妨害しているかを考え、それらを排して、思考する必要性を説いたと云えます。

世のなかの人がみなそう言っているので、「神は存在する」というのは、理性的な判断ではない、などといえます。

晩期スコラ哲学は、訓古学のようなものになっており、膨大な命題を抱えて、「論理的演繹」によって真理を論証しようとしましたが、ベーコンは、アリストテレスは何よりも観察を重視したことを強調し、アリストテレスの「オルガヌム」に倣って、第二の自然認識の方法論として、「ノーヴム・オルガヌム」を著します。

ベーコンは、実験と観察を重視し、先入見による判断や、演繹の形式的導入ではなく、観察や実験から何が言えるかが重要としたと云えます。

ベーコンは、観察・実験、そこからの事実に基づく、帰納的方法による、法則の定立という、近代科学の基本的な原理を提唱したと云えます。

宗教改革を通じ、また宗教改革が成功した背景にある、西欧社会の構造的変化に応じて、カトリックの影響力は低下し、またスコラ哲学の威信も低下した訳で、ガリレオやブルーノが、新しい宇宙観を提唱し、観察を重視する思想で、スコラ哲学的な既定宇宙観に対抗し始めた時代に、ベーコンやデカルトの思想もまた、育成されたと言えるでしょう。

あまり、参考にならないかも知れませんが、以下のページを見てください。なお、「機械的自然観」つまり、「理神論的自然観」は、ニュートンの力学などの成立の後の自然観です。

ベーコンやデカルトの自然観は、デカルトなら、精神は「思惟実体」であり、物質は「延長実体」で、両者は影響関係を基本的に持たない、ということから、「超自然」とか「奇蹟」とかを排除できたとも云えます。

デカルトの「神」は、理性の直観の明晰性の真理性の保証としてあり、延長実体=物質を、独自の法則で自立させた同じ考えが、「倫理性」や「善」の基礎つけとしての「神」の援用を不可能にしているのです。

ここから、参考ページのスピノーザの哲学が展開したとも云え、むしろ、スピノーザの自然観の方が、現代の物質的自然観と類似しているというか、その基礎にあるとも思えるのです。

>参考1:No.294200 質問:スピノザについて
>http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=294200

>参考2:No.230196 質問:現実であることを確かめるには?(No.6 回答)
>http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=230196
 

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=294200,http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=230196

 
細かいことは忘れましたので、基本的と思えることを述べますので、自分で敷衍して考えてください。

基本的には、キリスト教の教義と密接な関係にあった、スコラ哲学(晩期スコラ哲学)での世界の把握方法を鵜呑みにせず、また、既成概念や先入見に囚われず、権威から自由に、みずからの「合理的・理性的」な、明晰だと判断できる思考によって、世界を認識し、把握するということが、その指導原理であったということです。

デカルトの自然観には、実は、超越的な「神」が要請されていたのですが、デカル...続きを読む

Q人間は考える葦である とは?

ふと頭をよぎったのですが、、
「人間は考える葦である」とはどういう意味なのでしょう? また誰の言葉なのでしょう? 簡単な質問ですみません。 よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 
  「人間は考える葦である」というのは、フランスの17世紀の思想家・数学者であったブレーズ・パスカルの手稿にあった言葉の翻訳です。普通、『パンセー Pensee(思索)』という著作のなかの言葉だとされますが、『パンセー』はパスカルの著作ではありません。パスカルは、もっと系統的に、人間、世界、神の秩序や矛盾などを考察した、体系的な浩瀚な著作を著すことを計画していて、そのメモを多数書いたのですが、構想が難しかったのか、または若くしてなくなった為か、計画した著作を完成させずに死去しました。
  
  残された膨大なメモを元に、パスカルが計画していた著作に似たものを編集することも考えられたのですが、とても、それは無理なので、断片集として、計画のまとまりや、内容の関連性などから、おおまかに断片メモを整理してまとめて、一冊の本に編集したのが、『パンセー』です。当然、パスカルの死後出版されましたし、内容は、緩やかなつながりで、長短の断片文章が並んでいる構成です。従って、本のなかの文章はパスカルのものですが、本は、パスカルの「著作」とはちょっと云えないでしょう。ほとんどできあがっていて、足りない部分などを、他の文章で補ったりして、計画通りかそれに近い本を作ったのならともかく、当初の計画とは違う、「箴言集」か「随想集」のような本になってしまっていますから。
  
  それはとまれ、「葦」が弱いものの代表として人間の比喩に取り上げられているのは事実ですが、何故「葦」だったのか、という疑問が起こります。例えば、「人間は考える蟻である」とか、「人間は考える蝶である」とか、また「人間は考えるクローヴァーである」とか、幾らでも考えられます。
  
  これは、誰かの説明であったのか、わたしが勝手に考えたのか記憶がはっきりしないのですが(おそらく誰かの説明です)、人間が「葦」であるということの比喩は、ナイルの河畔に生える葦は、強い風が吹くと、弱いために、すぐしなって曲がってします。風に抵抗できない。いや抵抗せずに、しなって敗北するのである。しかし、その他方で、偉大な樫の樹などは、風が吹くと、しなることはせず、抵抗するので風に勝利するが、しかし、繰り返し風が襲って来た時、何時か強い風に倒され、根元から折れてしまうのです。しかし、賢明に自らの分を知る「葦」は、風が吹くとそれに身をまかせてしなり、逆境のなかで、一見屈服したように見えるが、しかし、風がやむと、徐々に身を起こして行き、再びもとのなにごともない姿に戻って微風に揺れているということが、人間への「比喩」の意味だったはずです。
  
  少しの風が吹くとしなり、風の前屈して曲がるが、風が去ると、また元のように立ち上がる。人間とはこのように、自然や運命の暴威に対し無力であるが、それに従順に従い、そして暴威をくぐり抜けて、また元のように、みずからの姿で立ち上がる。自然界のなかでたいへん弱く、簡単に風にしなるが、柔軟性があり、運命にも暴威にも屈しない。そして何よりも、「考えることができる」すなわち「精神を持つ」ことで、ただ、自然の力、暴威として、力を無自覚に揮う風に較べて、遙かに賢明で、優れた存在である。……このような意味の比喩ではなかったかと思います。
  
  この葦の比喩は、パスカルという人がどういう人だったかを知ると、パスカル自身のことのようにも思えて来ます。パスカルは、四十に満たないで亡くなっています。彼は、少年の頃から神童と言われたのですが、病弱で、一生、病気や身体の苦痛とたたかいながら、思索し実験し、研究し、晩年は、修道院に入って信仰生活を送ることを決意して、自分自身でも、そのことについて、悩み考えつつ、世を去りました。パスカルは、自分に襲いかかる不条理な病や、身体の不調などと、「たたかう」というより、それを受けて耐え、病の苦しみのなかで思索や研究を続け、「精神」において、自然が与えた病の暴威などを、乗り越えて生涯を送った人だとも云えるのです。
  
  暖めた流動食でないと、喉を通らないというようなこともしばしばあったということは、解説書などには必ず記されているはずです。弱々しい「葦」のように、襲って来る風に身をまかせつつ、思索した精神、それがパスカルなのでしょう。パスカルは「人間とは、運命に従順であるが、しかし、精神で、運命に抵抗し、不屈の意志で、思索することで、運命や自然の暴威を乗り越える自由の存在なのだ」という意味で、この言葉を記したのではないかとも、思えるのです。
  

 
  「人間は考える葦である」というのは、フランスの17世紀の思想家・数学者であったブレーズ・パスカルの手稿にあった言葉の翻訳です。普通、『パンセー Pensee(思索)』という著作のなかの言葉だとされますが、『パンセー』はパスカルの著作ではありません。パスカルは、もっと系統的に、人間、世界、神の秩序や矛盾などを考察した、体系的な浩瀚な著作を著すことを計画していて、そのメモを多数書いたのですが、構想が難しかったのか、または若くしてなくなった為か、計画した著作を完成させずに死去し...続きを読む

Qカントの物自体について

彼の理性批判のキーとなった物自体ですが、彼はこれを
観念論者の「思考する者だけが存在する」というテーゼへの反論として
提示しています。では、単純に、彼が物自体があると思ったのはなぜなのでしょうか。
それが超越論的な表象をみとめることによって合理論者と経験論者どちらか一方への
傾斜を避けるためならば、彼はなぜその立場をとる必要があったのでしょうか。
三大批判を読んでも結局このところが見えてきません。
いったいいかなる背景が彼をその「間」に置かせたのでしょうか。

結局最後は哲学者自身の「信」にいきつくのでしょうか。

Aベストアンサー

昔のノートを引っ張り出してきました。
これでちょっとは正確なことが言えるかも。

では、まず答えやすいところから。

>「合理論か観念論」という双方どちらかの立場を避けようとさせたのはなんなのか、ということであります。

カントは合理主義と経験主義を統合した「超越論」を主張しました。だから、カントの哲学を「超越論的観念論」っていうんですね。
哲学の教授は「哲学することというのは、哲学史を学ぶことだ」と言っていました。つまり、従来の哲学的体系をふまえ、それを批判的に継承・発展させるのが哲学である、と。
カントも当然その例外ではなく、というより、従来の哲学の流れを継承し発展させることに、非常に自覚的な存在だったのだと思います。

>to believeの部分、これをもちうる背景、その立場をとる理由、というのが究極的にはなにによっているのだろう?

これね、ヒュームは途中、日和っちゃうんです。
いかなる原因が物自体の存在を信じさせるようにするか、考えれば考えるほどわからなくなるから、やめてしまおう。考えてもきりがないから、なかったことにしちゃおう、と言っている(ほんとです)。

で、そこを日和らずに、ぐぐっと考えを進めていったのがカントの『純粋理性批判』なんです。

質問者さんの問題意識は、『純粋理性批判』のキモの部分だと思うんです。
ですから、もう少し丁寧に見ていきましょう。

“序説”をあらっぽく要約すると(そのまえに、理性、悟性など用語の定義付けは押さえておいてください)

1. 認識には先天的なものと経験的なものがある。われわれはある種の先天的認識を持っている。
2. 数学は空間と時間という純粋直観にもとづいた総合的判断である。
3. 物理学は経験的な世界を対象としているが、経験によらない総合的判断が含まれている。 
4. 形而上学は完全に総合的な命題を経験によらずに探求することである。
5. 純粋理性はまったく経験によらない認識原理を提供する能力である。形而上学を展開するためにはこの純粋理性の源と限界を明らかにしなければならない。

要は理性という一本の線の両端をあきらかにしようとしたのが『純粋理性批判』なんです。

カントは「二律背反」ということを考えます。

・世界には空間的・時間的な限界があるのかどうか
・世界の構成要素は単純なものかどうか
・世界に自由はあるのか、必然性が支配しているのか
・世界には絶対的なもの(=神)があるのかどうか

理性は正命題、反対命題、どちらも正しいと証明できるのです。
さらに、両者とも証明不能とすることもできる。

その結果、カントがたどりついたのは、
“理性が対象とできるのは現象の世界に限られる”
“無限、自由、神の存在といった事柄は、物自体に属することであって、人間には認識できない”。

「物自体」の対象はこのように厳密に措定しています。

以上、自分のノートを非常に乱暴にまとめてみました。
質問者さんの理解の助けになれば幸いです。

あと、考え違いや理解の至らない点ありましたら、どうかご指摘ください。

昔のノートを引っ張り出してきました。
これでちょっとは正確なことが言えるかも。

では、まず答えやすいところから。

>「合理論か観念論」という双方どちらかの立場を避けようとさせたのはなんなのか、ということであります。

カントは合理主義と経験主義を統合した「超越論」を主張しました。だから、カントの哲学を「超越論的観念論」っていうんですね。
哲学の教授は「哲学することというのは、哲学史を学ぶことだ」と言っていました。つまり、従来の哲学的体系をふまえ、それを批判的に継承・発...続きを読む

Q直観 (ベルクソン)

よく「直感」と誤表記される「直観」についてなんですが、ベルクソンは「意識を直観する」という言い方をしています。意識は直観そのものだと思っていたのですがベルクソンはどういう意味でそう言ったのでしょう。

Aベストアンサー

こんにちは。

話の脈絡をちょっと復習してみましょう。

まずベルクソンは人間の生命や意識の本質を「時間」ととらえていますよね。
ここでいう時間というのは、意識の外側にあって、等質で計測可能な、空間化された時間のことではなく、自分の意識の連続的な変化としての、内側から感じられる「持続」のことです。

この「持続」は概念によって把握することはできず、自分で感じとるしかない。それも、外部からの刺激を受けて感覚器官が感じるのではなく、自己の内側から感じ取ること。持続として自分を貫き流れる生の躍動を直接に感じ、それを生きるということが、ベルクソンのいう「直観」にはこめられています。
つまり、「直観」というのは、文字通り、「直接に観る」、感覚器官を媒介せず、内側から観ずるということです。

さて、おおまかな筋道を頭に入れた上で、もうちょっと細かく見てみましょう。

あるものを外側から見ようとするときには、見る人はそこから外にいなければなりません。そのものを見る「立場」が必要です。
上から見る、横から見る、下から見る、斜め上から見る。ひとつのものをさまざまな角度から見ることで、その像はそれぞれに変わってきます。
このとき、得られる認識もいくつもあります。
外から見ることで得られる認識というのは、多数ある中のひとつ、ということになります。

それに対して内から見る、というのはどういうことか。
澤瀉久敬の『ベルクソン』にはこうあります。

「内から見るとは、例えば一軒の家を外から眺めないで内部にはいって構造やそこに置かれている家具を観察するといったことではなく、対象そのものになるということなのである。腕を動かす場合、その腕の動きを外から見るのではなく、自分で腕を動かすことによって、その動きを自ら感ずるのである。

 このように、自分自身を対象とする場合には、もはやそれを眺める立場は必要ではない。自分がその対象自体なのであるから、外から眺めるための立場は要らない。また自分で腕を動かすのだから、それを表わすための記号など不要で、動きというものをそのまま実感する。それは記号を介さずに直接に内的に体験されるのである。このように内から知ることをベルクソンは直観というのである。intuition は in tueor である。

 このようにして、ベルクソンにあっては直観とは内観である。では内観はすべての認識において可能なのか。そうではない。私たちは家になることは出来ないし、机や鉛筆になることもできない。しかし少なくとも内から見うる対象あるいは現象が一つある。それは意識である。前述した通り、私たちは自分の腕の動きを内観できるのである。いや意識は内観できるだけではなく、内観という方法に寄ってしか正しく把握できないのである。」(『ベルクソン』p.127-128)

こうした直観によって、意識とは持続であるということがとらえられる。

「直観」と「意識」の関係というのは、これで整理できたでしょうか。

こんにちは。

話の脈絡をちょっと復習してみましょう。

まずベルクソンは人間の生命や意識の本質を「時間」ととらえていますよね。
ここでいう時間というのは、意識の外側にあって、等質で計測可能な、空間化された時間のことではなく、自分の意識の連続的な変化としての、内側から感じられる「持続」のことです。

この「持続」は概念によって把握することはできず、自分で感じとるしかない。それも、外部からの刺激を受けて感覚器官が感じるのではなく、自己の内側から感じ取ること。持続として自分を...続きを読む


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