クリスチャンではないのですが、自分の人生問題に関するヒントがあるのでは、と聖書(4福音書がメインですが・・・これを読むだけでも難しい)をよく読みます。
特に、最後の晩餐からイエスが十字架にかけられるまでの話は、毎回泣いてしまいます。
しかし、何度か読むうちに「他のことを全部信じたとしても、これだけは信じられない!」というところがありまして、3日ぐらい恐怖でほとんど眠れなかったことがあります。
ヨハネの福音書第13章の最後の晩餐でイエスがユダの裏切りを予告する場面ですが、ペテロがイエスの隣にいた弟子に、裏切り者が誰なのかを質問するように促し、イエスが「私がパンを浸して与えるものだ」と言い、実際にユダに与えます。

ここまでやったら、誰の目にもユダが裏切り者であることがわかるはずです。

何故、他の11人の弟子は分からなかったのでしょうか?
それだけではなく、その後、イエスが実際に捕まる場面に出くわすまで、他の弟子はユダの裏切りに気づいている様子が見られません(イエスが捕まったときに皆逃げた、というのを「他の弟子だって裏切ったのだ」と見なす人もいますが、私はむしろ「何が起こっているのかを実際に見るまで分からなかったから、パニックになったのだ(あらかじめ分かっていればそこまであわてない)」という意味で、無罪の証拠ととらえています)。
何人かのクリスチャンに訊いてみても分からず困ってます。ある牧師さんは笑いながら「人生の縮図ですから」と答えましたが、これではわかりません(というか、ショックでした。ここでユダを逃がしたらイエスが死ぬ、という場面が笑い事なのでしょうか?)

百歩譲って、この場面は一種の興奮状態で気づかなかった、としても、その後、オリーブ山に行ったときは、財布を預かっていたらしいユダはいなかったわけです。誰か「ユダはどこに行った?」「お使いから帰ってこないのか?」などと言い出しそうなものなのに、ユダがいないことを問題にする弟子はいなかったのは何故なのでしょう?

また、この言葉はユダにだけ聞こえるように言ったのだ、という人もいますが、イエスとユダしか知らないはずの言葉が、何故福音書に書いてあるのでしょうか? ヨハネの福音書の作成にユダはかかわっていないはずです。
(イエスキリスト自身は、最初から全部何が起こるかわかっていたので問題はないし、この質問の答えも知っているはずなのですが、本人に訊くわけにもいかないので困ってます。)

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A 回答 (49件中1~10件)

{1}「律法は証拠にです。

もし、彼らがこの御言葉に沿って言わないならば、それは彼らの中に光がないからである。イザヤ8:20」                                                                          光は御言葉であり、人々に永遠の命を与えるイエスキリストです「ヨハネ福音1:1~14」                                                                       律法は、狭い意味では十戒とその付属法を指しますが、広い意味では守るべき御言葉、すなわち聖書全体を指します。                                                                          だから、聖書を語る人はその出所の証拠として聖書から根拠を出さなければなりません。                                                                    これに従わない者は全て偽り者です。                                                                            ただ、根拠として挙げられた聖書の部分が合ってるか無いかが問われるべきです。                                                                                聖書の根拠をがむしゃらに書いても根拠にはなりません。                                                                     そのような人は非真理を広めた罪からは自由がありません。                                                                   彼は神様と人々には偽り者です。                                                                                    私はヨハネ以外は聞いた人が無かった根拠としてヨハネ福音13:28~29を挙げました。                                                                        他の弟子達も聞いたならば、13:28~29は書く必要が無かったでしょう。                                                                                  {2}パン切れを与える者が裏切ると言われたので意味を理解する問題ではないでしょう。                                                                                      事実確定として信じるだけです。                                                                                {3}ヨハネは、ペトロが聞いても、答え無かったはずです。                                                                    ヨハネはいかなる厳しい状況でも冷静に落ち着いて信心深い行動をとる人だからです。                                                                                        例えば、他の弟子達はみな逃げたのに、ヨハネだけは主の晩餐の時から十字架事件の最後までイエスから離れず、いつも側にいました「18:15、19:26」。                                                                                        また、主の遺体が無くなったという知らせを聞き、ヨハネとペテロが墓に走って行きました。                                                                                       ヨハネが先に着きましたが、墓に入らずペテロが来るまで待っています「20:5」。                                                                                             主の遺体が無かったことについてペテロというのもう一人の証人が必要だったからです。                                                                                   {後書き}カトリックは人は神様が作ったから全ての人は兄弟だと言います。                                                                            彼らによるとユダがイエスを裏切らなかったならば、十字架事件は無く、原罪も無くなって無いはずだ。                                                                          だから、彼は楽園に行ったはずだと言います。                                                                        彼らによるとカレーに毒物を入れて人を殺した人は、カレーに毒物を入れると人が死ぬことを教えてくれたから、よい人でしょう。                                                                   ヨハネ啓示録18:3は「それは、全ての民族が彼女の淫行による激怒のぶどう酒に酔ったので~」と言われます。                                                                               淫行は淫らな行動です。                                                                                     自分の夫を裏切った女は淫行した女です。                                                                             神様の御言葉を自分勝手に解釈する人は霊的に淫らな女です。                                                                     使途言語録1:25は、ユダは犯罪を犯した故に自分の居場所に行ったと言われます。                                                                                          自分の居場所は地獄のことです。                                                                               今度、教皇はイスラムの国と手を握りました。                                                                                                           カトリックはあらゆる宗教と手を握る宗教一致運動をしています。                                                                   だから、聖書は予め彼女に付いて予言し、淫らな女だと言われたのです。                                                                      啓示録18章の彼女はカトリックです。                                                                         ユダが楽園に行くぐらいなら、全ての人は楽園に行けるはずです。                                                                    それなら、別に神様を信じなくてもよいはず。                                                                        世の中の全ての民族がこのようなカトリックの淫らな行為に酔っ払っています。

この回答への補足

非常にきちんとしたお答えをしていただきました。ありがとうございます。
実は、現在、かなり深刻な人生問題があったのですが、昨日、貴方のお答えを読んだ後に、気持ちが楽になり、今日、問題解決ができました。

実は私は聖書に「神」とか「精霊」とか書いてあるので、その言葉を使いますが、実は理解しているわけではないのです。
ただ、イエスキリストは、何とかしてイエスを殺そうと誘導尋問のようなものを何度もされているにもかかわらず、軽く一蹴されています。これを読むと、何か精霊とかいうものの働きがある、ということは認めざるを得ません。
だから、聖書の中でも少なくともイエスの言葉だけは本当にどのような言葉を言ったのか正確に訳して欲しいのです。しかし、訳によって意味ががらりと変わってしまう箇所がいろいろあるし、英語の聖書と日本語の聖書ではニュアンスがかなり違うところも多々あります。

ここの回答では、あまりにも惑わされてしまうものが沢山あったために、感情的になってしまったこともあります(No.51さんには悪いことをしてしまいました)。私の心情としては、「何故、皆、ここでユダを止めないのだ!?」という気持ちが強いので、このような質問になってしまったのですが、No.14でご指摘があったように「ここでユダが裏切り者であることをばらしてしまったら、ユダの命が危ないではないか!?」という疑問もあって、悩んでいたのです。裏切り者がいる、という予告があるのは問題ではないのですが、どう考えても、イエスがここの場面で誰にでも分かるように「ユダが裏切り者だ」とはっきり言ってユダの命を危険に晒すということは絶対に有り得ない、と思うのです。あるいは、「そこまではっきり明示しても、他の弟子たちは理解できない」という理由が存在するはずだと思うのです。

私は理数系の人間ですので、非科学的な話は生理的に受け付けないのですが(従って、貴方の言葉が助けになったとしても、盲目的に信じるというわけにはいかないのです。ここら辺では、どうしてもいっぺんの妥協もできないのです)、しかしそれでも何か非常に深い意味があると感じています。
一番困るのは、自分はキリスト教信者だと口では言っているにもかかわらず、実際にはイエスキリストを全然信じていない人が沢山いることなのです。
私の経験では、教会に行くにしても片隅で目立たずにひっそりと通うような方たちの方が、私の質問に対して、分からないなりにも真剣に悩んでくれたのです。教会でも偉い人の方がかえってイエスの言葉をないがしろにしているように感じます。イエスキリストは律法学者を厳しく批判していますが、少なくとも当時の律法学者は(旧約)聖書について質問されたら、それなりにきちんと答えたはずです。非クリスチャンが聖書に躓いて真剣に質問しているというのに、笑って答えをはぐらかす牧師さんはいったい何なのでしょうか?

取り合えず、今は疲労困憊していていてお礼しか言えません。文字数が足りないので、補足欄に書かせていただきました。もし、何か追加でコメントをつけたいと思ったときにはお礼に書かせていただきます。

補足日時:2009/05/28 20:04
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個人的な見解ですが…



誰にぶどう酒に浸したパンを与えたのか、与えられた本人にしか
わからない方法で与えられたのではないでしょうか?
それにより、この事を直接聞いたヨハネや(もしかしたらペテロも)、
少なくとも自分が裏切り者ではないことを知ることができ、
安心させられたのではないでしょうか?(でもユダ・イスカリオテ
が裏切り者であることまでは知らされていない…)

>それだけではなく、その後、イエスが実際に捕まる場面に出くわすまで、他の弟子はユダの裏切りに気づいている様子が見られません

この時までに、本当にイエスが処刑されるなどと、弟子たちには夢
にも思わなかったことでしょう。この出来事の前に、イエスが自分が
殺されることを言った後、ペテロが「そのようなことはありません。
ご自身を大切にしてください」と言い、これに対しイエスが
「私の後ろにさがれ、サタンよ!!」と叱責したくだりがありますから。
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この回答へのお礼

ご回答、ありがとうございます。
そこら辺のことは散々考えたのですが、どうしてもうまく辻褄が合わなかったのです。
取り合えず、自分なりの問題解決ができましたので、締め切らせていただきました。
せっかくご回答いただいたのに申し訳ございません。

お礼日時:2009/06/09 09:35

個人的問題はかなり改善されました。


ならば回答閉めてもよろしいかと思います。問題はこれですから。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
そうですね。
私も、自分の問題が解決した以上、更なる答えはいらないかな?と思っておりましたので。

お礼日時:2009/06/08 19:20

 No.6&32&56&61です。



 やはりこの問題は 信仰つまり非経験思考の次元に のがれなければ納得のいく理解は得られないように思いますが どうでしょう?

 ▲ わが神 わが神 なにゆえ われを見捨てたまいしや。
 ☆ とイエスが――やがて その訴えを転調させて 神をたたえることになるように――発したのと同じように ペテロ以下の弟子たちも 思わず不本意ながらも イエスから離反しかれを否定してしまったという事件を通る必要があった。
 これは どう考えても あとづけなのですが 一たんは イエスをつまり神を見失う経験を通らなければならなかった。
 ▲ わたしたちは 肉を欲望や欲情もろとも 十字架にはりつけにしてしまったのです。
 ☆ という死とそれからの再生の過程をくぐらなければならなかった。それが 人間なのだと知る必要があった。また じじつ 弟子たちは そうは思ってもいなかったのに そのようになった。
 
 つまり 何の論証もしていないわけです。非思考において そうであったろうと言っているだけです。でも そうであったろうと思っています。
 《一たん 神を見失う》という事例を 類型的に 次の文章は言っていると考えます。
 ▲ (パウロ:ローマ書) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ユダヤ人がつまづいたということは 倒れてしまったということでしょうか。けっしてそうではありません。かえって かれらの罪によって異邦人に救いがもたらされることになりましたが それは かれらを奮起させるためだった。(11:11)

 兄弟たち 自分を賢い者とうぬぼれないように 次のような救いの隠れた計画をぜひ知ってもらいたいと思います。この計画とは 一部のイスラエル人がかたくなになったのは 異邦人全体が救いに達するまでであり その後 全イスラエルが救われるということです。聖書に次のように書いてあります。

    救うかたがシオンから来て
    ヤコブから不信心を遠ざける。
    これこそ わたしが かれらの罪を取り除くときに 
    かれらと結ぶわたしの契約である。
          (イザヤ書59:20-21)

 福音との関連からすれば イスラエル人は あなたたちのために神に敵対していますが 神の選びとの関連からすれば 先祖たちのおかげで神に愛されています。あなたたちも かつては神に不従順でしたが 今はかれらの不従順によって神からのあわれみを受けています。それと同じように かれらも 今はあなたたちが受けたあわれみによって不従順になっていますが それは かれら自身 今もあわれみを受けるためなのです。(11:25-31)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ べらぼうな話ですが このほうが 納得がいくのではないでしょうか? 個々の人については また 話が別だと思います。

 ユダの裏切りに無頓着だったのは むしろ神をみつめて その心に従った結果である。つまり イエスが去っていくという計画のほうが 大事であり それに従ったのであるが じっさいには 弟子たちは そのことを知らずに 従った。
 イエスの逮捕のあと かれから離反するのは これも 今度は神を一たん見失って そのことにおいて 神の心に従ったことになる。
 むろん かれらは それぞれ 自分の自由意志で行動している。
 選ばれたというのは そういうことだと考えます。
 ユダは かれ自身の救いのため イエスが 選んだのでしょう。それは成就しました。そのあとは わたしたちの知ったことではありません。ユダも 自由意志によって したいように振る舞いました。
 ひとには イエスないし神との関係が それぞれ一人ひとりにおいて――なぜなら 《わたしは アブラハムの神 イサクの神 ヤコブの神である》―― 成り立っていて それぞれ 救いへの道程が用意されているのだと考えます。

 あらためて言って これは あとづけであり べらぼう話であり 覆いかぶせの理論です。でも 解釈――つまりその意味で 《預言》――として 一人ひとりが自由に受け容れればいいものだと考えます。いかがでしょう?
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この回答へのお礼

何回もご回答ありがとうございます。
まあ、皆が納得するまで議論するのは100年たっても難しいと思います(^^; 特に、非経験思考の領域では。
確かに、経験的思考だけでは行き詰まるところに当たったので、質問したのですが、ある程度の納得は得られましたし、沢山回答が出てしまったのにここは議論には向かない場所ですので、いったん締めさせていただきました。申し訳ございません。
確かに、ある意味、神を一旦見失う必要があったのかもしれない、というのはかなり賛成します。

お礼日時:2009/06/09 21:21

 結局のところ、あなたの知りたいことが何なのかわからないことが、この長い対話の原因ではないのかとおもいます。

どうします?

この回答への補足

ここで質問する、ということは「この問題について、これから皆で考えてください」という意味ではなく、「この問題について答えを知っている人、教えてください」ということです。

求めていたのは情報なんですが、投稿した直後に「しまった、このカテは議論好きな方が沢山いるんだった」と思いました。

私の質問を読んでから考える、という方でなく、既にこの問題に関して研究して自分なりの答えを持っている人、「私の通っている教会(宗派)では、この問題についてはこのように教えてます」とか「私は知らないけれど、~という人がこれに関して発表してますよ」「このサイトに行って見たら?」、あるいは質問を読んだ「直後」に「ああ、この問題か」とすぐ分かって「即答」できる方、などの答えを期待してたのですが。

質問の意図の一部に分かりにくいところがあるのは、私からははっきり言えなくて「ここら辺は察してくださいよ」という部分があるからかもしれません。私はできるだけキリスト教を弁護しようとの立場で発言していますが、悪く取るとこんなふうにだって受け取れるよ、などというと「それ見たことか」とパッシングを受ける可能性があるし。それなのに、かえって弟子たちに不利な回答をされると、お礼の仕方が難しくて、時間がかかってしまったのが長い対話です。

質問では私ははっきり、裏切りに関してはユダ以外は無実だと主張してます。そしてそれを信じています。しかし、悪魔の証明という言葉もあるとおり、無実を証明することは非常に困難なのです。だから安易に「他の弟子たちも裏切ったのだ」と言う人には、お前は命が危なくなったときに冷静に振舞える自信があって言っているのか?と聞きたくなります(私はとんでもない醜態を晒しましたが)。しかし、最後の晩餐の場面では、弟子たちの命は危なくない・・・。

私はクリスチャンではないので、その気になれば神を冒涜することを考えることもできます(しないだけです)。「3日ぐらい恐怖でほとんど眠れなかった」のは、福音書にこんなことを書いたら、キリスト教に反感を持った人が悪意を持って読めば、とんでもないデマをでっち上げることだってできるんじゃないか?という「キリスト教にとってやばいではないか」という恐怖なんですけど。No.58「聖書の根拠をがむしゃらに書いても根拠にはなりません」ということは、こじつければどんな話だって可能ということですから。

>どうします?
実は、きちんとした回答をいただいた方がありまして、私の個人的問題はかなり改善されました。規約を読むと締め切り後にお礼を書くこともできるらしいし。ただ、弟子全員が裏切ったんだ、などという話を放っておいてよいのか?というためらいもあって締め切りを伸ばしてるだけです。まあ、私は痛くもかゆくもない問題ですのでそろそろ締め切るしかないと思いますがよろしいでしょうか?>クリスチャンの方々。

補足日時:2009/06/07 19:13
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ずれた回答します。

このまえユダヤ教の人と話をしたら聖書きちんと読んでないからイエス様のことわからない・・・・なんて言ってたそうな。
神学的な質問されてもわかりません。本当に聖書は何回読んでも新しいものを発見してしまう。ユダの話なんて何回も読んで知ってるのにまた新しい切り口を見つけてしまった。自画自賛~
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この回答へのお礼

ご回答、ありがとうございます。
キリスト教信者でないと、聖書の世界って、本当に分からないんですよ。
No.64では書かなくてもいいようなことを書いてしまいました。申し訳ございません。取り合えず、福音書は4つあるのに何故ヨハネを持ち出したか?という理由と、クリスチャンでも「何故、私を見捨てたのか」という言葉が絶望の言葉としか思っていない人に何人も会ったので、少々ストレスがたまって書きすぎたようです。
ご容赦ください。

お礼日時:2009/06/09 21:27

 知性を超えたどのような世界にジャンプされようとしているのかが、非常に興味深いのですが、お教えいただけますでしょうか?

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この回答へのお礼

どうも、わざわざ。
私もtryしているだけで、成功したわけではないし、そもそも言葉で説明不可能なことなんで、ご期待に沿うのは難しいのですが。
もしかしたら、ここでは削除される可能性もありますので、無理は承知で先日軽いヒントのみ別の場所に書かせていただきました。ううむ、やっぱりうまく書けないや。

お礼日時:2009/06/07 18:05

 少し、聖書から離れたほうがよろしいかと思いまして、現実に起きた話をいたします。


 今から20数年前、まだ日本が電子産業の最先端を自負していた時のことです。
 私の義弟は、そのようなパーツを作る中小企業に勤めておりましたが、その技術によって独立し企業オーナーになろうとしておりました。
 しかし、私は各種の情報により、そのうち韓国などにお株を奪われるだろうと予測し義弟にも伝え考えの再考を促しました。
 結果はみなさんご存知でしょう。『「現状に安住」しがちな大前提を基にしてもおかしいな?と思った』あなたの疑問への回答はこの辺りにもあるのでは?
 つまり、ある考えなりを持ったときに、その考えなりをどう評価するか? 主観的にとらえるか客観的にとらえるかによって、現状に安住できるのかどうかが変わってくるのでは?と思います。義弟夫婦は、韓国などに簡単に追いつかれることはないという、私から見れば単なる主観的な希望的観測を基にした判断の上に安住したとしか思えませんので。
私にすれば、私の言うことをやっと20~30年後に皆が納得するという事は、ごく当たり前の日常風景です。情報をどう客観的に判断するかの問題ですので、慣れてない人にはできなくて当たり前、ちっとも不思議はないです。もっとも、20~30年前の私にはそれが分かっていませんでしたので、確かに不思議でしたが。
 一昔が、100年から10年や1年になったにもかかわらず、今だに私の言うことに相手がなっとくするには20~30年かかるのには困った面がありますが、教育内容が対応していないので、いたしかたないでしょう。
 また削除対象に触れますが、例えば、最近の事件で、京教大の『集団準○○』に関しても、直前の京大やずっと前の帝京等に関しての総合的客観的判断をすると、あるところには『集団○○』の伝統があるのではないか?と思い、『集団○○コンパ』(略称・強コン)なる造語を行いまして使用しましたが、即削除となりました。問題は、言葉ではなく『集団○○コンパ』卒業的教員(社会人)が、実はどれほど社会に紛れ込んでいるのかなのですが、かっての、『見物渋滞』が使用禁止とされたのと同じく、行為を行った者たちへの戒めを込めた造語が、善悪の十分な討議も無く削除対象とされてしまうことに、危機感を感じます。まあ、あと20~30年もすると、判断が変わってくるのかもしれませんが。
 今後の戒め・注意喚起に直感的に訴える、この『集団○○コンパ』(略称・強コン)なる言葉を、安易に削除して済ます様な行為こそ、まさしく「現状に安住」している行為と言えるでしょう。12使途がとった対応が、「現状に安住」的ものであったとするならば、少なくともその点に関しては12使途も普通の人であったと言えるのでないでしょうか?
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この回答へのお礼

現実的な問題まで取り混ぜていただいて、ありがとうございます。
>単なる主観的な希望的観測を基にした判断の上に安住したとしか思えませんので。
>私にすれば、私の言うことをやっと20~30年後に皆が納得するという事は、ごく当たり前の日常風景です。
何となく、目に見えるような気がします。
そんな長いスパンでなければ、私も何度もそのような経験があります。
少し常識的に考えれば、20~30年どころか、数年で潰れる末期的症状だとわかるはずなのに、全然楽観的だったり。ただ、私の場合、病気持ちで身動きが取れないため、転職もできなかったのですが。
部落問題以外にも差別問題は沢山ありまして、当事者になったこともあります。
「赤信号、皆で渡れば怖くない」という言葉が、昔、流行しましたが、外国では知りませんが日本では、「いや、俺は怖いんだ!渡りたくない!」と下手に逆らうと、かえって「何言っているんだ。大丈夫、安心しろ」と強制的に渡らされ、暴れたために一番危ない目に合う傾向があるように思われます。
で、質問とあまり離れるとまずいので、私が「イエスキリストに関しては問題ない」と書いたのは、あくまでイエスキリストだから問題なかっただけで、一般人の私などがイエスの立場に立ってしまったらとんでもないことになるのです。
普通の人だったから、という回答は、確かにありとは思いますが、そうだとすると、普通の人ほど怖いものはないのではないか、と危機感を感じます。

お礼日時:2009/06/07 22:10

59の続きです。

ルカ書に書いてないような気がするんですよ~

そうなんでばらしたのか?イエス様に尋ねたらよかったと思いませんか?「もし出来るならならないようにしてください」って
「そうならないようにする方法を教えてください」って
しかし悪魔が入って行ってしまうんだよね・まあ聖書が成就するために使われた一人かな?だから裏切ったとも思ってない。
最後に悔い改めればよかった。ここがペテロとユダの違いかな~
考え気がつくポイントはたくさんありますね。

この回答への補足

再度のご回答、ありがとうございます。
前回はちょっと失礼なことを言ってしまいました。すみません。
そう、ルカには裏切り者が誰かまで示唆する話はないんですよ。

聖書を独学するのには高いハードルが沢山あるんですが、そのひとつに「ユダヤ人にとって預言は絶対だった」ということを理解するまでが大変でした。イエスの正当性を主張しようとして、イエスが預言を成就したとしつこい程に書いてあるんですね。お釈迦様の説いた相手はバラモン教信者、イエスの説いた相手はユダヤ教信者、というのもわきまえないと・・・。マタイ27-46の「なぜ、私をお見捨てになったのですか?」という言葉も、絶望の言葉ではなく、福音書の作者は詩篇22をイエスが朗読して、この詩篇内容と十字架の場面が一致していると主張している、と解釈する方がよさそうです。アラム語(でしたっけ??)がわざわざ書かれてることから、実際、イエスが朗読した可能性は高いですね。(それにしても、預言者は大変ですね。預言の的中率が100%でないと偽預言者になってしまうわけでしょうか(やはり、それだと死刑?)。今のそこらの予言者たちでは生き残れませんね)。
だから、イエスが十字架にかけられると預言したからには、絶対に成就しなければいけないわけで、石打の刑などで死んでは駄目なんですよね。

マタイ・マルコの最後の晩餐では少々微妙で、「私と一緒に鉢に食べ物を浸している者」と言ってますので、これをやってるのがユダだけだったら、やはりユダを示してることになりますが、それ以外にもいたかどうか?
マタイはきわどい! ユダが「まさか、私のことでは?」と訊くのに対し「それは、あなたの言ったことだ」と返しています。
ある意味、これは非常にイエス様らしい!
● この言い方だと、他の弟子たちには名指ししたとは受け取られないけれども、ユダ本人には「私には、ちゃんと分かっているよ」とはっきり告げている、と読むこともできます。
しかし、これも訳によりまして、「あなたのことだ」という訳もあったような。これだと完全に名指ししてますね。
ともあれ、まあ、共観福音書なら、まだ他の弟子たちが気づかなかったともとれますが、ヨハネの福音書のイエス様は少々やりすぎでは?と思って質問した次第です。

>しかし悪魔が入って行ってしまうんだよね
ヨハネではユダだけにサタンが入ったように書かれていますが、ルカ22-31では「サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた」とありますから、こっちだと他の弟子たちにもサタンの手が及んでいたとも読めます。それだったら、他の弟子たちにも分からなかった、という辻褄も合います。

ともあれ、回答ありがとうございました。文字数の関係で補足に書かせていただきました。

補足日時:2009/06/01 19:14
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この回答へのお礼

すみません。
マタイでの「エリ、エリ、・・・」はヘブライ語で、マルコでの「エロイ、エロイ、・・・」がアラム語、という説が多いようですね。
ううむ、よくわからない。
お礼の補足まで。

お礼日時:2009/06/02 01:26

 塩野七海作「ベネツィア共和国の一千年」の導入部、八世紀の頃、アドリア海の最奥部に住む人たちが、ゴート族の略奪に怯え、沖合の沼沢地に避難して命を守ろうとしたが、それでもまだ安全ではないと多くの人たちが判断した。


 「たとえこの命を賭けてでも、戦うしかない。」。多くの人々が覚悟を決めた時、少数の人たちが陸地とも言えないような、さらなる沖合を指して避難を提案した、「神のお告げ。」として。
 人々は、人知を超えた存在の言葉を《きっかけ》として、水漬いたところに土地を作り、家を建て、広場と井戸を整備し、少しづつ何百年をかけて、後にナポレオンに滅ぼされるまで約1000年間も続く、ベネツィア共和国の礎を築いて行った。

 それまでのアイデンティティを支えるパラダイムから、新たなアイデンティティを支えるパラダイムへシフトするためには、「神のお告げ。」とでもいうべき、何らかの《きっかけ》が必要だったわけです。
 このような全体の安全とは違い、信仰という、個人的なパラダイムを変えるためには、それぞれに応じた、それぞれの《きっかけ》が必要ということです。
 思い込みを含めたそれぞれに必要な《きっかけ》を、自らの命を賭けてでも与えようとした。それほどキリストの信仰心は揺るぎないものだったということではないでしょうか?
 あなたが経験された各種のことも、きっと、与えたほうには窺い知れない、何らかの《きっかけ》があったのではないでしょうか?
 宗教関係者であれば、それこそ、「神のみぞ知る理由」とでも表現するほどの《きっかけ》が。
 私の人生が決まった《きっかけ》は、小学4年に見た「橋のない川」です。しかし、教師たちには当然というかわからなかったようで、その後、宮沢賢治などを読んでいると、「似合わない。」などと宣わりました。しかし、それほど他者のことは分かれないものだということです。
 この話題を振ると、事実を覆い隠そうとする各種の立場の人たちが、コメントの削除を断りもなくしてしまうので、これも消されてしまうかもしれませんが、必要なので書いておきます。消去対策として、私のブログに転載しておきます。ご容赦を。
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この回答へのお礼

ご回答、ありがとうございます。
>それほどキリストの信仰心は
これは、質問にも書かせていただいたように、問題ではないのです。そもそも、日本語の「信仰」とか「信じる」という言葉は弱すぎるように感じましたので、質問の方にも「知っている」などの言葉を使わせていただきました。

>何らかの《きっかけ》があったのではないでしょうか?
ありますよー。ただ、私のような理屈人間タイプは、かえってカルト的な方向に行きやすいので、知性を超えた世界にジャンプするためには知性の限界まで見極めないと危険なのです。

>橋の・・・
私は見てないのですが、こういう世界は、当事者として体験した人でないと外からではどうしても分からないもの、がありますから、見たとしてもコメントできるかどうか疑問です。まあ、タイトルの意味はすぐ分かりましたけど。読まなければいけない本が増えたかも。取り合えず、j59fmk53jhさんの回答はローカルに保存させていただきました。
アインシュタインも「世の中には無限なものが2つある。宇宙の広さと人間の愚かさ。もっとも、前者については断言できないが・・・」と言ってます。

お礼日時:2009/06/03 23:55

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「ドラキュリア」では。
下記のページであらすじをご確認ください。

http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD33818/index.html?flash=1
http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=235848
http://nakaama.web.infoseek.co.jp/movie/draculea.htm

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マタイは律法の完成という側面で描かれており、イスラエル的です。
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「ユダの福音書」でしょ?過去ログに出てますよ。
http://okwave.jp/kotaeru.php3?q=2080665
http://okwave.jp/kotaeru.php3?q=2079008
そちらでも書いた事ですが、改めて。イエスの史実について、全くの同時代文献、つまり紀元30年ごろまでの文献には名前がないので、実在を否定する考えもありますが、マルコ福音書や、失われたQ資料は、明らかにイエスの弟子たちが生きている時代に書かれているため、やはりイエスの実在は動かないと考えられています。で、最古の福音書、マルコによる福音書が学説では40年代~70年までの間に書かれています。これに対してパウロの手紙にはユダは出てきませんし、他の福音書などはマルコより後、少なくとも紀元70~90年あたりに書かれています。新約諸文書の中には2世紀になってから書かれたものもありますが、問題のユダによる福音書は2世紀に、グノーシス派によって作られたものです。
つまるところ間違ってもユダ本人が書いた文書ではない(もっとも新約聖書自体、イエスに直接会った人が書いた可能性があるのはマルコくらいだといわれていますが)ので、またイエスの史実から100年近くたったあたりに書かれた文書でもあり、またグノーシス派をちょっとでも研究してみれば、グノーシスってのは「文書をどんどん作る運動ではないか」と思うくらい自分たちの思想を展開するための文書をつくりまくっているのがわかります。他にユダのそういう行為についての裏事情を書いた文書もないので、そりゃまったく史実の可能性がないか、といえばそうでない証拠もない、というレベルです。
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「ユダの福音書」でしょ?過去ログに出てますよ。
http://okwave.jp/kotaeru.php3?q=2080665
http://okwave.jp/kotaeru.php3?q=2079008
そちらでも書いた事ですが、改めて。イエスの史実について、全くの同時代文献、つまり紀元30年ごろまでの文献には名前がないので、実在を否定する考えもありますが、マルコ福音書や、失われたQ資料は、明らかにイエスの弟子たちが生きている時代に書かれているため、やはりイエスの実在は動かないと考えられています。で、最古の福音書、マルコによる福音書が学説では40年代...続きを読む

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「既に裁かれている。」の意味を解説して下さいませ。できれば信徒の解説を希望します。非信徒であっても信徒の見解を代弁できる自信があれば拒否はしません。
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Aベストアンサー

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信じないものは、光(救い)が来ても闇を愛している(=行いが悪い)ので、光に近寄れない(=救われない)のです。
信じるものは真理を行うものであり、光に来れます。

つまり、ひとり子が言っている事を盲目的に信じれないのであれば、それは信仰ではないということです。

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ニコデモはユダヤの指導者であり、教師である立場ですが、多くの知識を持っているためにイエスに色々反駁します。
しかし、イエスの言っていることを素直に受け容れられないため、イエスとは平行線です。
それでは救われないと言っています。

Q他の弟子は、何故ユダの裏切りに気づかなかったのか?

クリスチャンではないのですが、自分の人生問題に関するヒントがあるのでは、と聖書(4福音書がメインですが・・・これを読むだけでも難しい)をよく読みます。
特に、最後の晩餐からイエスが十字架にかけられるまでの話は、毎回泣いてしまいます。
しかし、何度か読むうちに「他のことを全部信じたとしても、これだけは信じられない!」というところがありまして、3日ぐらい恐怖でほとんど眠れなかったことがあります。
ヨハネの福音書第13章の最後の晩餐でイエスがユダの裏切りを予告する場面ですが、ペテロがイエスの隣にいた弟子に、裏切り者が誰なのかを質問するように促し、イエスが「私がパンを浸して与えるものだ」と言い、実際にユダに与えます。

ここまでやったら、誰の目にもユダが裏切り者であることがわかるはずです。

何故、他の11人の弟子は分からなかったのでしょうか?
それだけではなく、その後、イエスが実際に捕まる場面に出くわすまで、他の弟子はユダの裏切りに気づいている様子が見られません(イエスが捕まったときに皆逃げた、というのを「他の弟子だって裏切ったのだ」と見なす人もいますが、私はむしろ「何が起こっているのかを実際に見るまで分からなかったから、パニックになったのだ(あらかじめ分かっていればそこまであわてない)」という意味で、無罪の証拠ととらえています)。
何人かのクリスチャンに訊いてみても分からず困ってます。ある牧師さんは笑いながら「人生の縮図ですから」と答えましたが、これではわかりません(というか、ショックでした。ここでユダを逃がしたらイエスが死ぬ、という場面が笑い事なのでしょうか?)

百歩譲って、この場面は一種の興奮状態で気づかなかった、としても、その後、オリーブ山に行ったときは、財布を預かっていたらしいユダはいなかったわけです。誰か「ユダはどこに行った?」「お使いから帰ってこないのか?」などと言い出しそうなものなのに、ユダがいないことを問題にする弟子はいなかったのは何故なのでしょう?

また、この言葉はユダにだけ聞こえるように言ったのだ、という人もいますが、イエスとユダしか知らないはずの言葉が、何故福音書に書いてあるのでしょうか? ヨハネの福音書の作成にユダはかかわっていないはずです。
(イエスキリスト自身は、最初から全部何が起こるかわかっていたので問題はないし、この質問の答えも知っているはずなのですが、本人に訊くわけにもいかないので困ってます。)

クリスチャンではないのですが、自分の人生問題に関するヒントがあるのでは、と聖書(4福音書がメインですが・・・これを読むだけでも難しい)をよく読みます。
特に、最後の晩餐からイエスが十字架にかけられるまでの話は、毎回泣いてしまいます。
しかし、何度か読むうちに「他のことを全部信じたとしても、これだけは信じられない!」というところがありまして、3日ぐらい恐怖でほとんど眠れなかったことがあります。
ヨハネの福音書第13章の最後の晩餐でイエスがユダの裏切りを予告する場面ですが、ペテロ...続きを読む

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{1}「律法は証拠にです。もし、彼らがこの御言葉に沿って言わないならば、それは彼らの中に光がないからである。イザヤ8:20」                                                                          光は御言葉であり、人々に永遠の命を与えるイエスキリストです「ヨハネ福音1:1~14」                                                                       律法は、狭い意味では十戒とその付属法を指しますが、広い意味では守るべき御言葉、すなわち聖書全体を指します。                                                                          だから、聖書を語る人はその出所の証拠として聖書から根拠を出さなければなりません。                                                                    これに従わない者は全て偽り者です。                                                                            ただ、根拠として挙げられた聖書の部分が合ってるか無いかが問われるべきです。                                                                                聖書の根拠をがむしゃらに書いても根拠にはなりません。                                                                     そのような人は非真理を広めた罪からは自由がありません。                                                                   彼は神様と人々には偽り者です。                                                                                    私はヨハネ以外は聞いた人が無かった根拠としてヨハネ福音13:28~29を挙げました。                                                                        他の弟子達も聞いたならば、13:28~29は書く必要が無かったでしょう。                                                                                  {2}パン切れを与える者が裏切ると言われたので意味を理解する問題ではないでしょう。                                                                                      事実確定として信じるだけです。                                                                                {3}ヨハネは、ペトロが聞いても、答え無かったはずです。                                                                    ヨハネはいかなる厳しい状況でも冷静に落ち着いて信心深い行動をとる人だからです。                                                                                        例えば、他の弟子達はみな逃げたのに、ヨハネだけは主の晩餐の時から十字架事件の最後までイエスから離れず、いつも側にいました「18:15、19:26」。                                                                                        また、主の遺体が無くなったという知らせを聞き、ヨハネとペテロが墓に走って行きました。                                                                                       ヨハネが先に着きましたが、墓に入らずペテロが来るまで待っています「20:5」。                                                                                             主の遺体が無かったことについてペテロというのもう一人の証人が必要だったからです。                                                                                   {後書き}カトリックは人は神様が作ったから全ての人は兄弟だと言います。                                                                            彼らによるとユダがイエスを裏切らなかったならば、十字架事件は無く、原罪も無くなって無いはずだ。                                                                          だから、彼は楽園に行ったはずだと言います。                                                                        彼らによるとカレーに毒物を入れて人を殺した人は、カレーに毒物を入れると人が死ぬことを教えてくれたから、よい人でしょう。                                                                   ヨハネ啓示録18:3は「それは、全ての民族が彼女の淫行による激怒のぶどう酒に酔ったので~」と言われます。                                                                               淫行は淫らな行動です。                                                                                     自分の夫を裏切った女は淫行した女です。                                                                             神様の御言葉を自分勝手に解釈する人は霊的に淫らな女です。                                                                     使途言語録1:25は、ユダは犯罪を犯した故に自分の居場所に行ったと言われます。                                                                                          自分の居場所は地獄のことです。                                                                               今度、教皇はイスラムの国と手を握りました。                                                                                                           カトリックはあらゆる宗教と手を握る宗教一致運動をしています。                                                                   だから、聖書は予め彼女に付いて予言し、淫らな女だと言われたのです。                                                                      啓示録18章の彼女はカトリックです。                                                                         ユダが楽園に行くぐらいなら、全ての人は楽園に行けるはずです。                                                                    それなら、別に神様を信じなくてもよいはず。                                                                        世の中の全ての民族がこのようなカトリックの淫らな行為に酔っ払っています。

{1}「律法は証拠にです。もし、彼らがこの御言葉に沿って言わないならば、それは彼らの中に光がないからである。イザヤ8:20」                                                                          光は御言葉であり、人々に永遠の命を与えるイエスキリストです「ヨハネ福音1:1~14」                                                                ...続きを読む

Qヨハネによる福音書からの疑問:なぜ腿を兵卒は砕く必要があったのか?

ヨハネ福音書から疑問をもちました。イエスがほかの2人とともに磔刑を受けたあと、兵卒が調べに来ました。ほかの2人はまだ生きていたので、腿(もも)を打ち砕いた、とあります。イエスはすでに死んでいたので、腿を打ち砕かなかったそうです。

なぜ「生きていたら腿を打ち砕く」必要があったのでしょうか?

Aベストアンサー

イエスキリストは既にヨハネ19:30で息を引き取られました。                                                                                                  ですから、19:30から新約聖書が始まります。                                                                                                          遺言は遺言された人が無くなってからその効力が発生するからです「ヘブライ9:15~17」。                                                                                  一ヶ月前に読んだのですが、イランで石叩きの刑が執行される最中、一人が逃げてしまいました。                                                                                     足を砕く事はこのようなことが無いように確認処刑をすることです。                                                                                                  単なる足砕きだけでは無く、梯子みたいなものに上り、鉄棒のようなもので止めを刺すことです。鉄棒が顎に当たると顎の骨も砕かれるでしょう。                                                                                            そのまま放って置いても死にますが、死体は汚れたものであり、そのようなものが祝日の過ぎ越し祭に道に無いようにするためです。                                                                                                     ユダヤ人の一日は午後6時から始まります。即ち、私達の24時が彼らには6時です。                                                                                         だから、6時までは死体を片づけて祝日を迎える思惑がありました。                                                                                                 回答の中には、質問の的を外れ過ぎてしまい、人の足が男根「ペニス」の比喩だという正常な人からは見られない気狂った答弁もありますね。                                                                                              そのような者はGOOから追い出す特別な措置が必要だと思います。                                                                                                    汚れた言葉によって人の知りたい意欲を殺ぐ行為は赦されるものでは無いと思います。

イエスキリストは既にヨハネ19:30で息を引き取られました。                                                                                                  ですから、19:30から新約聖書が始まります。                                                                                       ...続きを読む

Q何故アッシリアはユダ王国を温存したのか

ダヴィデとソロモンの王国はイスラエルとユダに分かれ、前722年にアッシリアはイスラエルを滅ぼしてしまいますが、ユダは前586年にバビロン捕囚されるまで残っていますよね。

そこで疑問に思ったのですが、過酷な統治で有名であったアッシリアは何故ユダを滅ぼさなかったのでしょうか。その気になればすぐにでも滅ぼせた気がするのですが・・・。

やはり宗教絡みの問題でもあったのでしょうか?

Aベストアンサー

アッシリアという帝国はいまだ資料の散逸が多く謎の多いものなので、いわゆる旧約聖書からさぐることになるのですが・・・

まず、紀元前738年ごろ、アッシリア王ティグラト・ピレセル3世(プル王)はイスラエル王国に侵攻、これを荒らした上周囲を威圧、この時期に王であったアハズはアッシリアに貢納することとなります。実質的な臣下ですね。

紀元前700年、ユダは再びアッシリアから攻め込まれます。このときのアッシリア王はセンナケリブ。領内まで攻め込まれエルサレムの城壁は破壊され、陥落寸前まで追い込まれます。そのときの王であるエゼキアは、神殿の装飾に使われている金銀すらもはがしてアッシリアに献上したとされています。
ただし、これは旧約聖書ではヤハウェの天罰による撤退、アッシリア側の資料では理由が残っていないものなので、おそらくこういったことだろう、という程度です。

おそらく臣従状態が続いていたこと、別にアッシリアも完全に屈しているユダを攻める利点はなかった(貢物で財宝は吸い上げたし、それでも毎年なんらかを渡してくる)ため別に攻めなかったことなどが、一応存続していた理由であると思います。

なお、後のネブカドネザル王のときに滅ぼされた理由は、反乱を行おうとしたため、とされています

なお、この時代まだ宗教的なものはあまり関係ありません。いわゆるアブラハム系宗教はまだ無いため(ユダヤ教成立はバビロン収監以降)、この時代の年代史を考える際には、あまり宗教的なものは考えなくても良いかと思います。

ユダ王国が存続したのは、そういった外交的しのぎあいで、なんとか生き残っていた、というのが実情のようです。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/アハズ

アッシリアという帝国はいまだ資料の散逸が多く謎の多いものなので、いわゆる旧約聖書からさぐることになるのですが・・・

まず、紀元前738年ごろ、アッシリア王ティグラト・ピレセル3世(プル王)はイスラエル王国に侵攻、これを荒らした上周囲を威圧、この時期に王であったアハズはアッシリアに貢納することとなります。実質的な臣下ですね。

紀元前700年、ユダは再びアッシリアから攻め込まれます。このときのアッシリア王はセンナケリブ。領内まで攻め込まれエルサレムの城壁は破壊され、陥落寸前...続きを読む

Qユダの福音書の何が注目されるのか

 その意義が飲み込めません。おしえてください。

 ヰキぺディアの記事は まだ 書きかけのようですが  そこに記された次の二点が 一般にも 取り上げられているものでしょうか。
  ▲ (ユダの福音書) ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%80%E3%81%AE%E7%A6%8F%E9%9F%B3%E6%9B%B8
 (1) イエスを裏切ったイスカリオテのユダが 実は イエス・キリストの弟子の中の誰よりも真理を授かっており、
 (2) 「裏切り」自体もイエス・キリスト自身が主導したものであるという。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ですが (1)の事項は もし
 ( a )《誰よりも賢い》ことであるなら 
 ● (コリント前書1:20) 知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。
 ☆ ですから  特別のことではないでしょう。もし
 ( b )《神の霊に満たされていた》のであるなら あとで ほかの弟子たちも そうなったのですから これもまた 特別のことではないでしょう。
 次に(2)の事項についてですが 
 ( c )《裏切り》行為じたいは あまり 問題になりません。弟子たちも残らず皆が 裏切りましたから。あとに残った事項としては 
 ( d )《「裏切り」自体もイエス・キリスト自身が主導したものである》というものです。けれども この事項も たとえば 
 ▲ (ヰキぺディア:イスカリオテのユダ) ~~~~~~~~
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%83%86%E3%81%AE%E3%83%A6%E3%83%80#cite_ref-11
 スイスの神学者のカール・バルトは、ユダは、イエスを十字架に架け〔* そのはりつけの刑による死を通じて かれイエスを 救世主なる神=〕キリストにする重要な役割を果たした人物であり、「神の使わした者」と考えた。この考えは突飛なものではない。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ と知られます。そのことを 『ユダの福音書』は 発見が遅れたとは言え 歴史的に先に指摘したので 注目に値するということなのでしょうか。
 けれども 『ヨハネ福音』(13:26-27)にも すでに あの最後の晩餐において そのたぐいの事柄は 指摘されているようなのです。その席で ユダは イエスから
 ▲ 「しようとしていること(* つまり 裏切り行為)を、今すぐ、しなさい」
 ☆ と言われていますから。

 よく分かりません。ご自身のご見解でもよいですから おしえてください。ヒントが得られることがあります。

 その意義が飲み込めません。おしえてください。

 ヰキぺディアの記事は まだ 書きかけのようですが  そこに記された次の二点が 一般にも 取り上げられているものでしょうか。
  ▲ (ユダの福音書) ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%80%E3%81%AE%E7%A6%8F%E9%9F%B3%E6%9B%B8
 (1) イエスを裏切ったイスカリオテのユダが 実は イエス・キリストの弟子の中の誰よりも真理を授かっており、
 (2) 「裏切り」自体もイエス・キリ...続きを読む

Aベストアンサー

追伸:核心をついてきましたね。まず、「そのように私は聞いています。」
イエスの行動を客観的に見るといくつかの矛盾が見えるでしょう。それは「普遍的な隣人愛」を説きながら「ユダヤ教の予言に従う一面も出している点です。「▲ (ヨハネ福音16:7)」などは「ユダヤ教の予言に従う一面」ですね。イエスは「普遍的な愛」を世界に広める救世主たらんとしたのか、ユダヤというローカルの救世主たらんとしたかということが問われているのです。教えの全体を見るとユダヤのローカル救世主から抜け切れなかったと見るのですね。実際もユダヤの王として処刑されています。ユダヤのローカル救世主が世界宗教になった理由は「普遍的な隣人愛」の教えゆえですね。でも教義にユダヤのローカル思想が含まれている点が悩ましいことなんですね。このローカルの教えが多くの人々に迷いをもたらしているわけです。
ここまでお話しますと、ユダの迷いの原因がイエスご本人にあったものだと考えることができますね。言い換えればユダヤのローカル宗教に縛り付けておこうという力(ユダヤの祟り神)と世界宗教にしようとする力(愛の神=我が父)の両方が働いていたということなのです。イエス様も長生きしていればもっとすっきりしていたと思います。3年は短かすぎますね。
☆ というのであるなら、ユダがイエスを売ったとしても、それは予定の行動であった。ならば、このユダにしてもパウロと同じようにキリスト者として起ち上がって生きたとしてもおかしくないと思えるのですよね。
そのように考えられますね。でもユダはパウロと違って罪の重さに耐え切れるような人物ではなかったということでしょう。パウロは救世主を屠る側に立ち弟子まで石打で殺してます。それでもその罪を背負って信仰に生きました。強くて立派なかたですね。後の親鸞が極重悪人といっているのはパウロであった自身なのですね。救世主やその弟子を屠った極重悪人の自分でも救われるのだからといいたかったんでしょう。宗教的な者の中にはこのようなお方もいるということですね。ちなみにイエスはとうの昔にユダを許していますがユダは2000年後の今日に至るまで地獄(煉獄ですか)にいるようです。自身の過ちが許せないんでしょうね。
更に:弟子の仕事に着目してください。 イエスのような大救世主が世に出る時はその舞台を成功させるために多くの取り巻きが同時に出るのです。縁ある弟子ですね。弟子の仕事は師を守って師により多くの法を説いてもらうのが仕事です。たとえ師が迷っても身を挺して守るのが弟子の務めですね。ペテロよユダよおまえは・・といわれても動じずに守るべきだったという考えもあるのですね。イエスの愛の教えには差別が一切無いのですね、たとえ娼婦・悪人・殺人者であってもです。
「それ故舞台劇には裏切り者も予定されていたのかもしれません。ユダも自殺せずにパウロのように罪を背負って信仰者として生き抜けばまた別の道が開けたと私も思いたいですね。もしそのようであったならユダの福音書にも大いなる福音があったでしょうね。」これは私個人の感想です。

追伸:核心をついてきましたね。まず、「そのように私は聞いています。」
イエスの行動を客観的に見るといくつかの矛盾が見えるでしょう。それは「普遍的な隣人愛」を説きながら「ユダヤ教の予言に従う一面も出している点です。「▲ (ヨハネ福音16:7)」などは「ユダヤ教の予言に従う一面」ですね。イエスは「普遍的な愛」を世界に広める救世主たらんとしたのか、ユダヤというローカルの救世主たらんとしたかということが問われているのです。教えの全体を見るとユダヤのローカル救世主から抜け切れなかった...続きを読む


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