クリスチャンではないのですが、自分の人生問題に関するヒントがあるのでは、と聖書(4福音書がメインですが・・・これを読むだけでも難しい)をよく読みます。
特に、最後の晩餐からイエスが十字架にかけられるまでの話は、毎回泣いてしまいます。
しかし、何度か読むうちに「他のことを全部信じたとしても、これだけは信じられない!」というところがありまして、3日ぐらい恐怖でほとんど眠れなかったことがあります。
ヨハネの福音書第13章の最後の晩餐でイエスがユダの裏切りを予告する場面ですが、ペテロがイエスの隣にいた弟子に、裏切り者が誰なのかを質問するように促し、イエスが「私がパンを浸して与えるものだ」と言い、実際にユダに与えます。

ここまでやったら、誰の目にもユダが裏切り者であることがわかるはずです。

何故、他の11人の弟子は分からなかったのでしょうか?
それだけではなく、その後、イエスが実際に捕まる場面に出くわすまで、他の弟子はユダの裏切りに気づいている様子が見られません(イエスが捕まったときに皆逃げた、というのを「他の弟子だって裏切ったのだ」と見なす人もいますが、私はむしろ「何が起こっているのかを実際に見るまで分からなかったから、パニックになったのだ(あらかじめ分かっていればそこまであわてない)」という意味で、無罪の証拠ととらえています)。
何人かのクリスチャンに訊いてみても分からず困ってます。ある牧師さんは笑いながら「人生の縮図ですから」と答えましたが、これではわかりません(というか、ショックでした。ここでユダを逃がしたらイエスが死ぬ、という場面が笑い事なのでしょうか?)

百歩譲って、この場面は一種の興奮状態で気づかなかった、としても、その後、オリーブ山に行ったときは、財布を預かっていたらしいユダはいなかったわけです。誰か「ユダはどこに行った?」「お使いから帰ってこないのか?」などと言い出しそうなものなのに、ユダがいないことを問題にする弟子はいなかったのは何故なのでしょう?

また、この言葉はユダにだけ聞こえるように言ったのだ、という人もいますが、イエスとユダしか知らないはずの言葉が、何故福音書に書いてあるのでしょうか? ヨハネの福音書の作成にユダはかかわっていないはずです。
(イエスキリスト自身は、最初から全部何が起こるかわかっていたので問題はないし、この質問の答えも知っているはずなのですが、本人に訊くわけにもいかないので困ってます。)

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A 回答 (49件中1~10件)

{1}「律法は証拠にです。

もし、彼らがこの御言葉に沿って言わないならば、それは彼らの中に光がないからである。イザヤ8:20」                                                                          光は御言葉であり、人々に永遠の命を与えるイエスキリストです「ヨハネ福音1:1~14」                                                                       律法は、狭い意味では十戒とその付属法を指しますが、広い意味では守るべき御言葉、すなわち聖書全体を指します。                                                                          だから、聖書を語る人はその出所の証拠として聖書から根拠を出さなければなりません。                                                                    これに従わない者は全て偽り者です。                                                                            ただ、根拠として挙げられた聖書の部分が合ってるか無いかが問われるべきです。                                                                                聖書の根拠をがむしゃらに書いても根拠にはなりません。                                                                     そのような人は非真理を広めた罪からは自由がありません。                                                                   彼は神様と人々には偽り者です。                                                                                    私はヨハネ以外は聞いた人が無かった根拠としてヨハネ福音13:28~29を挙げました。                                                                        他の弟子達も聞いたならば、13:28~29は書く必要が無かったでしょう。                                                                                  {2}パン切れを与える者が裏切ると言われたので意味を理解する問題ではないでしょう。                                                                                      事実確定として信じるだけです。                                                                                {3}ヨハネは、ペトロが聞いても、答え無かったはずです。                                                                    ヨハネはいかなる厳しい状況でも冷静に落ち着いて信心深い行動をとる人だからです。                                                                                        例えば、他の弟子達はみな逃げたのに、ヨハネだけは主の晩餐の時から十字架事件の最後までイエスから離れず、いつも側にいました「18:15、19:26」。                                                                                        また、主の遺体が無くなったという知らせを聞き、ヨハネとペテロが墓に走って行きました。                                                                                       ヨハネが先に着きましたが、墓に入らずペテロが来るまで待っています「20:5」。                                                                                             主の遺体が無かったことについてペテロというのもう一人の証人が必要だったからです。                                                                                   {後書き}カトリックは人は神様が作ったから全ての人は兄弟だと言います。                                                                            彼らによるとユダがイエスを裏切らなかったならば、十字架事件は無く、原罪も無くなって無いはずだ。                                                                          だから、彼は楽園に行ったはずだと言います。                                                                        彼らによるとカレーに毒物を入れて人を殺した人は、カレーに毒物を入れると人が死ぬことを教えてくれたから、よい人でしょう。                                                                   ヨハネ啓示録18:3は「それは、全ての民族が彼女の淫行による激怒のぶどう酒に酔ったので~」と言われます。                                                                               淫行は淫らな行動です。                                                                                     自分の夫を裏切った女は淫行した女です。                                                                             神様の御言葉を自分勝手に解釈する人は霊的に淫らな女です。                                                                     使途言語録1:25は、ユダは犯罪を犯した故に自分の居場所に行ったと言われます。                                                                                          自分の居場所は地獄のことです。                                                                               今度、教皇はイスラムの国と手を握りました。                                                                                                           カトリックはあらゆる宗教と手を握る宗教一致運動をしています。                                                                   だから、聖書は予め彼女に付いて予言し、淫らな女だと言われたのです。                                                                      啓示録18章の彼女はカトリックです。                                                                         ユダが楽園に行くぐらいなら、全ての人は楽園に行けるはずです。                                                                    それなら、別に神様を信じなくてもよいはず。                                                                        世の中の全ての民族がこのようなカトリックの淫らな行為に酔っ払っています。

この回答への補足

非常にきちんとしたお答えをしていただきました。ありがとうございます。
実は、現在、かなり深刻な人生問題があったのですが、昨日、貴方のお答えを読んだ後に、気持ちが楽になり、今日、問題解決ができました。

実は私は聖書に「神」とか「精霊」とか書いてあるので、その言葉を使いますが、実は理解しているわけではないのです。
ただ、イエスキリストは、何とかしてイエスを殺そうと誘導尋問のようなものを何度もされているにもかかわらず、軽く一蹴されています。これを読むと、何か精霊とかいうものの働きがある、ということは認めざるを得ません。
だから、聖書の中でも少なくともイエスの言葉だけは本当にどのような言葉を言ったのか正確に訳して欲しいのです。しかし、訳によって意味ががらりと変わってしまう箇所がいろいろあるし、英語の聖書と日本語の聖書ではニュアンスがかなり違うところも多々あります。

ここの回答では、あまりにも惑わされてしまうものが沢山あったために、感情的になってしまったこともあります(No.51さんには悪いことをしてしまいました)。私の心情としては、「何故、皆、ここでユダを止めないのだ!?」という気持ちが強いので、このような質問になってしまったのですが、No.14でご指摘があったように「ここでユダが裏切り者であることをばらしてしまったら、ユダの命が危ないではないか!?」という疑問もあって、悩んでいたのです。裏切り者がいる、という予告があるのは問題ではないのですが、どう考えても、イエスがここの場面で誰にでも分かるように「ユダが裏切り者だ」とはっきり言ってユダの命を危険に晒すということは絶対に有り得ない、と思うのです。あるいは、「そこまではっきり明示しても、他の弟子たちは理解できない」という理由が存在するはずだと思うのです。

私は理数系の人間ですので、非科学的な話は生理的に受け付けないのですが(従って、貴方の言葉が助けになったとしても、盲目的に信じるというわけにはいかないのです。ここら辺では、どうしてもいっぺんの妥協もできないのです)、しかしそれでも何か非常に深い意味があると感じています。
一番困るのは、自分はキリスト教信者だと口では言っているにもかかわらず、実際にはイエスキリストを全然信じていない人が沢山いることなのです。
私の経験では、教会に行くにしても片隅で目立たずにひっそりと通うような方たちの方が、私の質問に対して、分からないなりにも真剣に悩んでくれたのです。教会でも偉い人の方がかえってイエスの言葉をないがしろにしているように感じます。イエスキリストは律法学者を厳しく批判していますが、少なくとも当時の律法学者は(旧約)聖書について質問されたら、それなりにきちんと答えたはずです。非クリスチャンが聖書に躓いて真剣に質問しているというのに、笑って答えをはぐらかす牧師さんはいったい何なのでしょうか?

取り合えず、今は疲労困憊していていてお礼しか言えません。文字数が足りないので、補足欄に書かせていただきました。もし、何か追加でコメントをつけたいと思ったときにはお礼に書かせていただきます。

補足日時:2009/05/28 20:04
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個人的な見解ですが…



誰にぶどう酒に浸したパンを与えたのか、与えられた本人にしか
わからない方法で与えられたのではないでしょうか?
それにより、この事を直接聞いたヨハネや(もしかしたらペテロも)、
少なくとも自分が裏切り者ではないことを知ることができ、
安心させられたのではないでしょうか?(でもユダ・イスカリオテ
が裏切り者であることまでは知らされていない…)

>それだけではなく、その後、イエスが実際に捕まる場面に出くわすまで、他の弟子はユダの裏切りに気づいている様子が見られません

この時までに、本当にイエスが処刑されるなどと、弟子たちには夢
にも思わなかったことでしょう。この出来事の前に、イエスが自分が
殺されることを言った後、ペテロが「そのようなことはありません。
ご自身を大切にしてください」と言い、これに対しイエスが
「私の後ろにさがれ、サタンよ!!」と叱責したくだりがありますから。
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この回答へのお礼

ご回答、ありがとうございます。
そこら辺のことは散々考えたのですが、どうしてもうまく辻褄が合わなかったのです。
取り合えず、自分なりの問題解決ができましたので、締め切らせていただきました。
せっかくご回答いただいたのに申し訳ございません。

お礼日時:2009/06/09 09:35

個人的問題はかなり改善されました。


ならば回答閉めてもよろしいかと思います。問題はこれですから。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
そうですね。
私も、自分の問題が解決した以上、更なる答えはいらないかな?と思っておりましたので。

お礼日時:2009/06/08 19:20

 No.6&32&56&61です。



 やはりこの問題は 信仰つまり非経験思考の次元に のがれなければ納得のいく理解は得られないように思いますが どうでしょう?

 ▲ わが神 わが神 なにゆえ われを見捨てたまいしや。
 ☆ とイエスが――やがて その訴えを転調させて 神をたたえることになるように――発したのと同じように ペテロ以下の弟子たちも 思わず不本意ながらも イエスから離反しかれを否定してしまったという事件を通る必要があった。
 これは どう考えても あとづけなのですが 一たんは イエスをつまり神を見失う経験を通らなければならなかった。
 ▲ わたしたちは 肉を欲望や欲情もろとも 十字架にはりつけにしてしまったのです。
 ☆ という死とそれからの再生の過程をくぐらなければならなかった。それが 人間なのだと知る必要があった。また じじつ 弟子たちは そうは思ってもいなかったのに そのようになった。
 
 つまり 何の論証もしていないわけです。非思考において そうであったろうと言っているだけです。でも そうであったろうと思っています。
 《一たん 神を見失う》という事例を 類型的に 次の文章は言っていると考えます。
 ▲ (パウロ:ローマ書) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ユダヤ人がつまづいたということは 倒れてしまったということでしょうか。けっしてそうではありません。かえって かれらの罪によって異邦人に救いがもたらされることになりましたが それは かれらを奮起させるためだった。(11:11)

 兄弟たち 自分を賢い者とうぬぼれないように 次のような救いの隠れた計画をぜひ知ってもらいたいと思います。この計画とは 一部のイスラエル人がかたくなになったのは 異邦人全体が救いに達するまでであり その後 全イスラエルが救われるということです。聖書に次のように書いてあります。

    救うかたがシオンから来て
    ヤコブから不信心を遠ざける。
    これこそ わたしが かれらの罪を取り除くときに 
    かれらと結ぶわたしの契約である。
          (イザヤ書59:20-21)

 福音との関連からすれば イスラエル人は あなたたちのために神に敵対していますが 神の選びとの関連からすれば 先祖たちのおかげで神に愛されています。あなたたちも かつては神に不従順でしたが 今はかれらの不従順によって神からのあわれみを受けています。それと同じように かれらも 今はあなたたちが受けたあわれみによって不従順になっていますが それは かれら自身 今もあわれみを受けるためなのです。(11:25-31)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ べらぼうな話ですが このほうが 納得がいくのではないでしょうか? 個々の人については また 話が別だと思います。

 ユダの裏切りに無頓着だったのは むしろ神をみつめて その心に従った結果である。つまり イエスが去っていくという計画のほうが 大事であり それに従ったのであるが じっさいには 弟子たちは そのことを知らずに 従った。
 イエスの逮捕のあと かれから離反するのは これも 今度は神を一たん見失って そのことにおいて 神の心に従ったことになる。
 むろん かれらは それぞれ 自分の自由意志で行動している。
 選ばれたというのは そういうことだと考えます。
 ユダは かれ自身の救いのため イエスが 選んだのでしょう。それは成就しました。そのあとは わたしたちの知ったことではありません。ユダも 自由意志によって したいように振る舞いました。
 ひとには イエスないし神との関係が それぞれ一人ひとりにおいて――なぜなら 《わたしは アブラハムの神 イサクの神 ヤコブの神である》―― 成り立っていて それぞれ 救いへの道程が用意されているのだと考えます。

 あらためて言って これは あとづけであり べらぼう話であり 覆いかぶせの理論です。でも 解釈――つまりその意味で 《預言》――として 一人ひとりが自由に受け容れればいいものだと考えます。いかがでしょう?
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この回答へのお礼

何回もご回答ありがとうございます。
まあ、皆が納得するまで議論するのは100年たっても難しいと思います(^^; 特に、非経験思考の領域では。
確かに、経験的思考だけでは行き詰まるところに当たったので、質問したのですが、ある程度の納得は得られましたし、沢山回答が出てしまったのにここは議論には向かない場所ですので、いったん締めさせていただきました。申し訳ございません。
確かに、ある意味、神を一旦見失う必要があったのかもしれない、というのはかなり賛成します。

お礼日時:2009/06/09 21:21

 結局のところ、あなたの知りたいことが何なのかわからないことが、この長い対話の原因ではないのかとおもいます。

どうします?

この回答への補足

ここで質問する、ということは「この問題について、これから皆で考えてください」という意味ではなく、「この問題について答えを知っている人、教えてください」ということです。

求めていたのは情報なんですが、投稿した直後に「しまった、このカテは議論好きな方が沢山いるんだった」と思いました。

私の質問を読んでから考える、という方でなく、既にこの問題に関して研究して自分なりの答えを持っている人、「私の通っている教会(宗派)では、この問題についてはこのように教えてます」とか「私は知らないけれど、~という人がこれに関して発表してますよ」「このサイトに行って見たら?」、あるいは質問を読んだ「直後」に「ああ、この問題か」とすぐ分かって「即答」できる方、などの答えを期待してたのですが。

質問の意図の一部に分かりにくいところがあるのは、私からははっきり言えなくて「ここら辺は察してくださいよ」という部分があるからかもしれません。私はできるだけキリスト教を弁護しようとの立場で発言していますが、悪く取るとこんなふうにだって受け取れるよ、などというと「それ見たことか」とパッシングを受ける可能性があるし。それなのに、かえって弟子たちに不利な回答をされると、お礼の仕方が難しくて、時間がかかってしまったのが長い対話です。

質問では私ははっきり、裏切りに関してはユダ以外は無実だと主張してます。そしてそれを信じています。しかし、悪魔の証明という言葉もあるとおり、無実を証明することは非常に困難なのです。だから安易に「他の弟子たちも裏切ったのだ」と言う人には、お前は命が危なくなったときに冷静に振舞える自信があって言っているのか?と聞きたくなります(私はとんでもない醜態を晒しましたが)。しかし、最後の晩餐の場面では、弟子たちの命は危なくない・・・。

私はクリスチャンではないので、その気になれば神を冒涜することを考えることもできます(しないだけです)。「3日ぐらい恐怖でほとんど眠れなかった」のは、福音書にこんなことを書いたら、キリスト教に反感を持った人が悪意を持って読めば、とんでもないデマをでっち上げることだってできるんじゃないか?という「キリスト教にとってやばいではないか」という恐怖なんですけど。No.58「聖書の根拠をがむしゃらに書いても根拠にはなりません」ということは、こじつければどんな話だって可能ということですから。

>どうします?
実は、きちんとした回答をいただいた方がありまして、私の個人的問題はかなり改善されました。規約を読むと締め切り後にお礼を書くこともできるらしいし。ただ、弟子全員が裏切ったんだ、などという話を放っておいてよいのか?というためらいもあって締め切りを伸ばしてるだけです。まあ、私は痛くもかゆくもない問題ですのでそろそろ締め切るしかないと思いますがよろしいでしょうか?>クリスチャンの方々。

補足日時:2009/06/07 19:13
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ずれた回答します。

このまえユダヤ教の人と話をしたら聖書きちんと読んでないからイエス様のことわからない・・・・なんて言ってたそうな。
神学的な質問されてもわかりません。本当に聖書は何回読んでも新しいものを発見してしまう。ユダの話なんて何回も読んで知ってるのにまた新しい切り口を見つけてしまった。自画自賛~
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この回答へのお礼

ご回答、ありがとうございます。
キリスト教信者でないと、聖書の世界って、本当に分からないんですよ。
No.64では書かなくてもいいようなことを書いてしまいました。申し訳ございません。取り合えず、福音書は4つあるのに何故ヨハネを持ち出したか?という理由と、クリスチャンでも「何故、私を見捨てたのか」という言葉が絶望の言葉としか思っていない人に何人も会ったので、少々ストレスがたまって書きすぎたようです。
ご容赦ください。

お礼日時:2009/06/09 21:27

 知性を超えたどのような世界にジャンプされようとしているのかが、非常に興味深いのですが、お教えいただけますでしょうか?

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この回答へのお礼

どうも、わざわざ。
私もtryしているだけで、成功したわけではないし、そもそも言葉で説明不可能なことなんで、ご期待に沿うのは難しいのですが。
もしかしたら、ここでは削除される可能性もありますので、無理は承知で先日軽いヒントのみ別の場所に書かせていただきました。ううむ、やっぱりうまく書けないや。

お礼日時:2009/06/07 18:05

 少し、聖書から離れたほうがよろしいかと思いまして、現実に起きた話をいたします。


 今から20数年前、まだ日本が電子産業の最先端を自負していた時のことです。
 私の義弟は、そのようなパーツを作る中小企業に勤めておりましたが、その技術によって独立し企業オーナーになろうとしておりました。
 しかし、私は各種の情報により、そのうち韓国などにお株を奪われるだろうと予測し義弟にも伝え考えの再考を促しました。
 結果はみなさんご存知でしょう。『「現状に安住」しがちな大前提を基にしてもおかしいな?と思った』あなたの疑問への回答はこの辺りにもあるのでは?
 つまり、ある考えなりを持ったときに、その考えなりをどう評価するか? 主観的にとらえるか客観的にとらえるかによって、現状に安住できるのかどうかが変わってくるのでは?と思います。義弟夫婦は、韓国などに簡単に追いつかれることはないという、私から見れば単なる主観的な希望的観測を基にした判断の上に安住したとしか思えませんので。
私にすれば、私の言うことをやっと20~30年後に皆が納得するという事は、ごく当たり前の日常風景です。情報をどう客観的に判断するかの問題ですので、慣れてない人にはできなくて当たり前、ちっとも不思議はないです。もっとも、20~30年前の私にはそれが分かっていませんでしたので、確かに不思議でしたが。
 一昔が、100年から10年や1年になったにもかかわらず、今だに私の言うことに相手がなっとくするには20~30年かかるのには困った面がありますが、教育内容が対応していないので、いたしかたないでしょう。
 また削除対象に触れますが、例えば、最近の事件で、京教大の『集団準○○』に関しても、直前の京大やずっと前の帝京等に関しての総合的客観的判断をすると、あるところには『集団○○』の伝統があるのではないか?と思い、『集団○○コンパ』(略称・強コン)なる造語を行いまして使用しましたが、即削除となりました。問題は、言葉ではなく『集団○○コンパ』卒業的教員(社会人)が、実はどれほど社会に紛れ込んでいるのかなのですが、かっての、『見物渋滞』が使用禁止とされたのと同じく、行為を行った者たちへの戒めを込めた造語が、善悪の十分な討議も無く削除対象とされてしまうことに、危機感を感じます。まあ、あと20~30年もすると、判断が変わってくるのかもしれませんが。
 今後の戒め・注意喚起に直感的に訴える、この『集団○○コンパ』(略称・強コン)なる言葉を、安易に削除して済ます様な行為こそ、まさしく「現状に安住」している行為と言えるでしょう。12使途がとった対応が、「現状に安住」的ものであったとするならば、少なくともその点に関しては12使途も普通の人であったと言えるのでないでしょうか?
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この回答へのお礼

現実的な問題まで取り混ぜていただいて、ありがとうございます。
>単なる主観的な希望的観測を基にした判断の上に安住したとしか思えませんので。
>私にすれば、私の言うことをやっと20~30年後に皆が納得するという事は、ごく当たり前の日常風景です。
何となく、目に見えるような気がします。
そんな長いスパンでなければ、私も何度もそのような経験があります。
少し常識的に考えれば、20~30年どころか、数年で潰れる末期的症状だとわかるはずなのに、全然楽観的だったり。ただ、私の場合、病気持ちで身動きが取れないため、転職もできなかったのですが。
部落問題以外にも差別問題は沢山ありまして、当事者になったこともあります。
「赤信号、皆で渡れば怖くない」という言葉が、昔、流行しましたが、外国では知りませんが日本では、「いや、俺は怖いんだ!渡りたくない!」と下手に逆らうと、かえって「何言っているんだ。大丈夫、安心しろ」と強制的に渡らされ、暴れたために一番危ない目に合う傾向があるように思われます。
で、質問とあまり離れるとまずいので、私が「イエスキリストに関しては問題ない」と書いたのは、あくまでイエスキリストだから問題なかっただけで、一般人の私などがイエスの立場に立ってしまったらとんでもないことになるのです。
普通の人だったから、という回答は、確かにありとは思いますが、そうだとすると、普通の人ほど怖いものはないのではないか、と危機感を感じます。

お礼日時:2009/06/07 22:10

59の続きです。

ルカ書に書いてないような気がするんですよ~

そうなんでばらしたのか?イエス様に尋ねたらよかったと思いませんか?「もし出来るならならないようにしてください」って
「そうならないようにする方法を教えてください」って
しかし悪魔が入って行ってしまうんだよね・まあ聖書が成就するために使われた一人かな?だから裏切ったとも思ってない。
最後に悔い改めればよかった。ここがペテロとユダの違いかな~
考え気がつくポイントはたくさんありますね。

この回答への補足

再度のご回答、ありがとうございます。
前回はちょっと失礼なことを言ってしまいました。すみません。
そう、ルカには裏切り者が誰かまで示唆する話はないんですよ。

聖書を独学するのには高いハードルが沢山あるんですが、そのひとつに「ユダヤ人にとって預言は絶対だった」ということを理解するまでが大変でした。イエスの正当性を主張しようとして、イエスが預言を成就したとしつこい程に書いてあるんですね。お釈迦様の説いた相手はバラモン教信者、イエスの説いた相手はユダヤ教信者、というのもわきまえないと・・・。マタイ27-46の「なぜ、私をお見捨てになったのですか?」という言葉も、絶望の言葉ではなく、福音書の作者は詩篇22をイエスが朗読して、この詩篇内容と十字架の場面が一致していると主張している、と解釈する方がよさそうです。アラム語(でしたっけ??)がわざわざ書かれてることから、実際、イエスが朗読した可能性は高いですね。(それにしても、預言者は大変ですね。預言の的中率が100%でないと偽預言者になってしまうわけでしょうか(やはり、それだと死刑?)。今のそこらの予言者たちでは生き残れませんね)。
だから、イエスが十字架にかけられると預言したからには、絶対に成就しなければいけないわけで、石打の刑などで死んでは駄目なんですよね。

マタイ・マルコの最後の晩餐では少々微妙で、「私と一緒に鉢に食べ物を浸している者」と言ってますので、これをやってるのがユダだけだったら、やはりユダを示してることになりますが、それ以外にもいたかどうか?
マタイはきわどい! ユダが「まさか、私のことでは?」と訊くのに対し「それは、あなたの言ったことだ」と返しています。
ある意味、これは非常にイエス様らしい!
● この言い方だと、他の弟子たちには名指ししたとは受け取られないけれども、ユダ本人には「私には、ちゃんと分かっているよ」とはっきり告げている、と読むこともできます。
しかし、これも訳によりまして、「あなたのことだ」という訳もあったような。これだと完全に名指ししてますね。
ともあれ、まあ、共観福音書なら、まだ他の弟子たちが気づかなかったともとれますが、ヨハネの福音書のイエス様は少々やりすぎでは?と思って質問した次第です。

>しかし悪魔が入って行ってしまうんだよね
ヨハネではユダだけにサタンが入ったように書かれていますが、ルカ22-31では「サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた」とありますから、こっちだと他の弟子たちにもサタンの手が及んでいたとも読めます。それだったら、他の弟子たちにも分からなかった、という辻褄も合います。

ともあれ、回答ありがとうございました。文字数の関係で補足に書かせていただきました。

補足日時:2009/06/01 19:14
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この回答へのお礼

すみません。
マタイでの「エリ、エリ、・・・」はヘブライ語で、マルコでの「エロイ、エロイ、・・・」がアラム語、という説が多いようですね。
ううむ、よくわからない。
お礼の補足まで。

お礼日時:2009/06/02 01:26

 塩野七海作「ベネツィア共和国の一千年」の導入部、八世紀の頃、アドリア海の最奥部に住む人たちが、ゴート族の略奪に怯え、沖合の沼沢地に避難して命を守ろうとしたが、それでもまだ安全ではないと多くの人たちが判断した。


 「たとえこの命を賭けてでも、戦うしかない。」。多くの人々が覚悟を決めた時、少数の人たちが陸地とも言えないような、さらなる沖合を指して避難を提案した、「神のお告げ。」として。
 人々は、人知を超えた存在の言葉を《きっかけ》として、水漬いたところに土地を作り、家を建て、広場と井戸を整備し、少しづつ何百年をかけて、後にナポレオンに滅ぼされるまで約1000年間も続く、ベネツィア共和国の礎を築いて行った。

 それまでのアイデンティティを支えるパラダイムから、新たなアイデンティティを支えるパラダイムへシフトするためには、「神のお告げ。」とでもいうべき、何らかの《きっかけ》が必要だったわけです。
 このような全体の安全とは違い、信仰という、個人的なパラダイムを変えるためには、それぞれに応じた、それぞれの《きっかけ》が必要ということです。
 思い込みを含めたそれぞれに必要な《きっかけ》を、自らの命を賭けてでも与えようとした。それほどキリストの信仰心は揺るぎないものだったということではないでしょうか?
 あなたが経験された各種のことも、きっと、与えたほうには窺い知れない、何らかの《きっかけ》があったのではないでしょうか?
 宗教関係者であれば、それこそ、「神のみぞ知る理由」とでも表現するほどの《きっかけ》が。
 私の人生が決まった《きっかけ》は、小学4年に見た「橋のない川」です。しかし、教師たちには当然というかわからなかったようで、その後、宮沢賢治などを読んでいると、「似合わない。」などと宣わりました。しかし、それほど他者のことは分かれないものだということです。
 この話題を振ると、事実を覆い隠そうとする各種の立場の人たちが、コメントの削除を断りもなくしてしまうので、これも消されてしまうかもしれませんが、必要なので書いておきます。消去対策として、私のブログに転載しておきます。ご容赦を。
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この回答へのお礼

ご回答、ありがとうございます。
>それほどキリストの信仰心は
これは、質問にも書かせていただいたように、問題ではないのです。そもそも、日本語の「信仰」とか「信じる」という言葉は弱すぎるように感じましたので、質問の方にも「知っている」などの言葉を使わせていただきました。

>何らかの《きっかけ》があったのではないでしょうか?
ありますよー。ただ、私のような理屈人間タイプは、かえってカルト的な方向に行きやすいので、知性を超えた世界にジャンプするためには知性の限界まで見極めないと危険なのです。

>橋の・・・
私は見てないのですが、こういう世界は、当事者として体験した人でないと外からではどうしても分からないもの、がありますから、見たとしてもコメントできるかどうか疑問です。まあ、タイトルの意味はすぐ分かりましたけど。読まなければいけない本が増えたかも。取り合えず、j59fmk53jhさんの回答はローカルに保存させていただきました。
アインシュタインも「世の中には無限なものが2つある。宇宙の広さと人間の愚かさ。もっとも、前者については断言できないが・・・」と言ってます。

お礼日時:2009/06/03 23:55

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Q「ユダは裏切り者じゃない!?」先日見たニュースより

 哲学・宗教関係の本が好きだったことがある一般人です。

 先日NHKの昼のニュースで
「弟子でありながらイエス・キリストを売り渡し、その後裏切り者といわれるようになった(新約)聖書に書かれているユダが、実は売り渡したのはイエス・キリストによる指示によるものであった」
というのが流れていました。

 気になったので自分でちょっと調べてみようと思って検索かけてみたのですが、最近の話だからなのか私のほしい情報が手に入りませんでした。(検索の仕方が悪いだけなのかもしれませんが…)

 そこでこの件に関して詳しい説明が書かれているような情報やサイトを知っている方教えていただけないでしょうか?具体的な内容としては解読したと言っていた文献についてや、その解読内容・信憑性、どのような影響(論争?)が起こると考えられるのか等です。

 ちなみにそのニュースの中で「イエス・キリストがユダについて弟子の中でもっともよく私の言葉?教義?を理解していた者であったと言っていた」そうです。私見になりますがそうなると、聖書の別のところでイエス・キリストがユダについて「生まれてこないほうが彼のためによかった」いうのがあったはずですが、単なる自分を裏切ったこと対する哀れみの言葉でなく、生まれてこなければこんな苦しい重荷(裏切り者のレッテル)を背負わせてしまう事もなかっただろうにという優秀な弟子を持ったがゆえの苦悩のような気持ちが見えてくるのですが?

 哲学・宗教関係の本が好きだったことがある一般人です。

 先日NHKの昼のニュースで
「弟子でありながらイエス・キリストを売り渡し、その後裏切り者といわれるようになった(新約)聖書に書かれているユダが、実は売り渡したのはイエス・キリストによる指示によるものであった」
というのが流れていました。

 気になったので自分でちょっと調べてみようと思って検索かけてみたのですが、最近の話だからなのか私のほしい情報が手に入りませんでした。(検索の仕方が悪いだけなのかもしれませんが…)...続きを読む

Aベストアンサー

http://www.ngcjapan.com/judas/gospel_judas_09.html

http://www.ngcjapan.com/secretbible/

5月頃質問したほうがよいと思います。

12使徒は全員「裏切り者」ですが、ユダは悔い改める前に死んでしまっただけの違いです。

Qイエスキリストはどうして処刑されたのですか?

イエスがなにか変なことをしたがために処刑されたのでしょうか?

Aベストアンサー

一応、主流となっている説です。

まず、イエスはユダヤ教徒であったことを理解してください。
また、ユダヤ人はローマの支配下にあった事も頭に入れておいてください。

当時のユダヤ教は主に2つの派に別れていました。
議会派(サドカイ派)と民衆派(ファリサイ派)です。
議会派の人々は、その権力の基盤がローマに服従することによっていたので、ローマ人の顔色ばかりうかがっていました。(この意味ではユダヤの王ヘロデも同じ)
そんな彼らを、批判していたのは民衆派ですが、彼らは彼らで「戒律主義」に走っていました。

そんな中に現れたのは、洗礼者ヨハネ(十二使徒のヨハネとは別人)とその教団でした。
彼らは、そんな議会派や民衆派の事を激しく批判していました。
そこに現れたのがイエスでした。
彼は、洗礼者ヨハネの主流2派の批判には納得していました。
しかし、完全には洗礼者ヨハネの言うことに納得は出来ませんでした。
そして、修行をするウチに「救世主(キリスト)」として目覚めていきました。(ただし、イエスは自分では「私は救世主だ」とは言ってません)
そして、ユダヤの各地を遊歴して弟子を得ていきました。

やがて、イエスの主導する勢力はだんだんと大きくなり、その影響力は洗礼者ヨハネをも超えていきました。
また、洗礼者ヨハネはヘロデ王も批判していたので彼に捕まり処刑されてしまいました。

ここに来て、主流2派にとってはイエス派の勢力を無視出来なくなってきました。
特に、議会派の人々はイエス派の人々が反乱を企てローマが怒るのを恐れました。
また、付き従っていた人々の中にもイエスが「救い=ローマからのユダヤの解放」をしてくれないので不満が募ってきました。
そこで、紆余曲折を経てイエスをとらえました。
しかし、イエスを裁判で罪にしても死刑にする権限はユダヤの議会にはありませんでした。
そこで、ピラトの元に行き
「イエスはユダヤの王を名乗り、ローマへの反乱を企てた。死刑にすべきだ」
と言いました。
ピラトはイエスの事を調べましたが、嫌疑不十分であるとして「ユダヤの事はユダヤで決めよ」と言い、ヘロデ王に任せました。(ヘロデ王は、イエスの故郷ガリラヤの支配者でした。)
ヘロデ王もイエスを取り調べましたが、やはり「罪」は無いと言い、ピラトに送り返しました。

ピラトは、「罪が無い」と言っているにもかかわらず、ユダヤの人々は「死刑にせよ」と要求します。
このままでは反乱になると恐れたピラトは、人々に取引をもちかけました。
当時とらえられていた「殺人犯」と「イエス」どちらかを「死刑」とし、どちらかを解放しようと。
「どちらを解放するか?」
とのピラトの問いに、人々は「イエスを十字架に」と叫びました。
この結果、「殺人犯」は解放され、イエスは十字架に架けられることになりました。

と、以上が大まかなイエス処刑の経緯です。
つまり、議会派の人々はローマを恐れる余り、民衆はイエスが「神の国」と言ってるわりには「ユダヤをローマから解放」してくれない事への不満のため、イエスは十字架に架けられることになったのです。
しかし、イエスは一言も「ユダヤをローマから解放する」とも「私は救世主です」とも言っていません。(救世主については、弟子には言わせてましたが、、、。)
そして、イエスのいう「神の国」はあの世の事だったのですが、民衆は理解しませんでした。
結論としては、議会派の人々による「冤罪(ローマに反乱を企て、ユダヤの王を僭称した罪)」に、民衆がイエスを「誤解」していたために議会派の人々の提案(扇動)にのった結果、イエスは十字架上で死んだのです。

余談2・イエスが言った一番良い言葉なのに、キリスト教ではあまり実戦されてない言葉に「皇帝のモノは皇帝に、神のモノは神に」があります。
このことからも、イエスはローマへの反乱の意志はなかったと推測できます。

一応、主流となっている説です。

まず、イエスはユダヤ教徒であったことを理解してください。
また、ユダヤ人はローマの支配下にあった事も頭に入れておいてください。

当時のユダヤ教は主に2つの派に別れていました。
議会派(サドカイ派)と民衆派(ファリサイ派)です。
議会派の人々は、その権力の基盤がローマに服従することによっていたので、ローマ人の顔色ばかりうかがっていました。(この意味ではユダヤの王ヘロデも同じ)
そんな彼らを、批判していたのは民衆派ですが、彼らは彼らで「戒律...続きを読む

Qキリスト教はどうして偶像崇拝をするのでしょう?

教会にはキリストの磔像や絵がたくさんあります。
あれに祈っているようですが、どうしてキリスト教は、偶像崇拝をするようになったのでしょうか?
偶像崇拝をしてはいけないと聖書に書いてないのでしょうか?
イスラム教では厳格に禁止されているそうです。
キリスト経の歴史において偶像崇拝を推し進めたのはだれで、いつの時代でしょうか。

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

質問者は、勘違いをされています。

キリスト教では、偶像崇拝は厳禁です。
現時点で、偶像崇拝をしているキリスト教の宗派はありません。

質問者の方は、キリスト教において、「神」の像を見た事が有りますか?
だれも見た事の無い神の形を、像にすることはできません。

でも、キリストの像を拝む事はありますし、十字架を拝む事もあります。
それが、像であったり、絵画であったりしますが。

もちろん、キリストの像や絵画を拝む事を禁止している宗派もあります。

キリストの像を拝むのは、キリスト教のカルケドンの公会議を認めるグループです。
これには、カトリック、正教会、プロテスタントなど、キリスト教会の80%以上が含まれます。

カルケドン派の教義では、「父なる神と子なるキリスト、そして聖霊は、一体である」とします。
この教義では、「神の像を崇拝する事は禁止されるが、子なるキリストを礼拝する事は、問題ない。」としています。

つまり、神自体の崇拝は禁止するが、子(人間)の形をとった、キリストへの礼拝は、問題ないといっています。

またカトリックでは、神へは崇拝、キリストには礼拝、聖人には崇敬、聖母マリアには、超崇敬を行う事になっています。

私は、キリスト教徒ではありませんので、実際に、崇拝と礼拝、崇敬の祈りの違いは、分かりませんが、キリスト教会の中で、区別されているようです。

当初キリスト教では、キリストの像を拝む事はなかったようです。
ローマ帝国内で国教とされたため、それまでのローマ帝国内の信仰(ギリシャ神話、ローマ神話、マトラ教など)と交わり、信仰の対象としての何かが必要になったため、それができるように解釈を変更する口実として、カルケドン派の三位一体が考え出されたと思います。

イスラム教は、キリスト教が、本来のユダヤ教が持っていた本質から離れた事を批判し、勢力を拡張します。
しかし、その過程で、あまりにキリスト教のキリスト像礼拝を批判しすぎたため、行過ぎた偶像崇拝論が形成されてしまいました。
しかし、信仰の対象としての何かが必要である事には変わりが無いため、必要以上の聖典コーランへの信仰と、メッカのカイバー神殿への崇拝となってしまっています。

質問者は、勘違いをされています。

キリスト教では、偶像崇拝は厳禁です。
現時点で、偶像崇拝をしているキリスト教の宗派はありません。

質問者の方は、キリスト教において、「神」の像を見た事が有りますか?
だれも見た事の無い神の形を、像にすることはできません。

でも、キリストの像を拝む事はありますし、十字架を拝む事もあります。
それが、像であったり、絵画であったりしますが。

もちろん、キリストの像や絵画を拝む事を禁止している宗派もあります。

キリストの像を拝むのは、キ...続きを読む

Q最後の晩餐のユダ

最後の晩餐でキリストを裏切ったのはユダですか?
なぜ、彼はキリストを裏切ったのですか?
ユダとはどういう人物なのでしょうか?

Aベストアンサー

裏切り者のユダ というあだ名がついていますが、実際はどうだったのか。

新約聖書が編纂される前までは、福音書は何百だったかしら?
とにかく4つじゃなかったんですね。

エイレナイオスらが新約聖書を作ったわけですが、エイレナイオスはヨハネの福音書が一番真実を語っていると思ったわけです。
彼のお好みはヨハネの福音書だった。
信者も一番好きなのは奇跡のオンパレードのヨハネ書が好きってひとがかなり多いみたいです。


新約聖書ができた背景は、他のいくつもの解釈があり、ある意味エイレナイオスらは、自分達の理解のみを唯一の真実だと信者に押し付けたくて、新約聖書を作って、エイレナイオスらかどうかわかりませんが、4つ以外を燃やすように命令したんです。

だから沢山福音書はあったにもかからわず 4つしかない。

ところが、神のことについて書かれている書物は、たとえ偽物と思えるものであっても 絶対に燃やしてはならない というユダヤ教においての掟があったんですね。

それで実際は命令を受けたふりをして隠した。

それが20世紀になって、出てきたわけです。
ナグ・ハマディーと呼ばれる文書など。

そして先ごろ発見されたのが<ユダの福音書>。
裏切りものどころか、

http://nng.nikkeibp.co.jp/nng/topics/n20060407_2.shtml


新約聖書の最古の写本は紀元4世紀頃のもの。
ギリシャ語でかかれているそうです。

では、福音書となった文章は元々ギリシャ語だったのか?
イエスは弟子達にギリシャ語で解説していたのか。
日常生活はイスラエルの地においてギリシャ語で、ユダヤ教の祈祷はギリシャ語で行われていたのか?


「イエスはギリシャ人でエルサレムでギリシャ語で説教をしていた、ユダヤ教徒である」って考えにくいです。

4つの福音書はそれぞれ成立した地域が違うという見解があるようなんですね。

何故かというとユダヤ人は前からディアスポラしていて、ペトロが信仰開始で、いろいろな地域の名前を挙げ、別の言語を喋っているのに、同じ事をしゃべっているのがわかる、と言ったあの地域、あそこ全部に母国ユダよりはるかに多いユダヤ人がいたんです。


そのディアスポラしたユダヤ人のために書かれたのが福音書。
特にヨハネの福音書は、ヘレニズム色のとても強い地域で成立した可能性がある。
だから、プラトンの思想が強く出ている物語になっていると思える。


で、ユダの福音書はイエスが完成するためにユダに協力を依頼したことになっている。
唯一のイエスの理解者はユダだけだった となっている。


もう一つ。。。。
「裏切るものがいる」という箇所。
その単語には別な意味があり、、、、なんだったかしら?
逆の意味とか 良い意味だったとか そのようなことをどこかで読んだ記憶があります。

「裏切るものがいる」としたら、使徒は大慌てして誰か言及するはずなのに、騒いでいない。

誰が弟子の中で一番か 議論しているところで起こっている。


そしてユダがお金を返したことになっていますが、その投げ返した地域がまた問題だと聞いたことがある。

それはユダヤ教においての教義の中にあり、、、、うわぁ 忘れた。
良い意味で そうでなければ話が成り立たないくらい 重要な意味があることになるらしいです。


イスカリオテのユダ。
どうしてそう呼ばれていたのか、も説として読んだことがあります。

ユダはもしかしたら イエスの師匠だった時期があったのかもしれない。


12使徒たちは漁師とかそういう一般人だったのか?
全員 族長だったかもしれない。
12使徒+1。
イスラエルの子らは12支族です。 その12支族に対してユダヤ教を与えているのが、土地を持たない1族。
彼らのみが祭祀ができた。

後に混乱が起こったようですが、基準は土地を持つイスラエルの子ら12と独占的に祭祀職をやる1。


でもイエスはダビデの子孫であって、それなら祭祀職はできないはず。

いや それよりも族長たちは祭祀職ができないはず。
彼らはあくまで地上の長。


イスカリオテのユダ。
どうしてそう呼ばれていたのか不明です。
イスカリオテ出身のユダ(ユダ国のユダと同じ)

イスカリオテの子 ユダ なのか。
じゃあイスカリオテって誰だろう???
って調べたのですが、どういうシンボルなのかわからない。


イエスたちがクムラン宗団に属していたとしたら、その教団はプラス1族が率いており、信者もそこで住み込んで集団生活ができた。

共同金庫の番人がユダであったら、そこではかなりの地位を持っていたことになる。

クムランの教団は油を使わず、沐浴を重要視した。
油は穢れを付着させ離さないので、塗ることを嫌っていた。

でも地上では油をイエスにぺたぺた塗って清めていた。
それを見たユダは「なんて無駄なことをやっているのだ」と言うのもうなずける。

マリアはクムラン教団の信者でなかったとすれば、ユダが言った意味がわからなかった。
信者であれば、まず油を塗るなんてことはしなかったはず。


と ぶつぶつ考えていくと、ユダってかなりの高位の祭祀だったんじゃないかと。

で、使途たちはイスラエルの子らではなく、それぞれのイスラエルの子らに宗教的なものを与えていたレビ人だったとすれば。。。。

で、ユダの担当がユダ族だったとすれば、、、、


妄想炸裂ですが、全くありえないともいえないし、ユダの人物像が少し明らかになるような気もします。

私独自の推理であって、誰もそんなこと信じないでしょうけど。

裏切り者のユダ というあだ名がついていますが、実際はどうだったのか。

新約聖書が編纂される前までは、福音書は何百だったかしら?
とにかく4つじゃなかったんですね。

エイレナイオスらが新約聖書を作ったわけですが、エイレナイオスはヨハネの福音書が一番真実を語っていると思ったわけです。
彼のお好みはヨハネの福音書だった。
信者も一番好きなのは奇跡のオンパレードのヨハネ書が好きってひとがかなり多いみたいです。


新約聖書ができた背景は、他のいくつもの解釈があり、ある意味エイ...続きを読む

Qギリシアとローマの関係について

高校レベルの世界史もよく把握していないのですが…
古代ギリシアとローマの関係がよくわからないのです。

・ギリシアとローマは戦争していたこともあり、別個の支配体制ですよね?
・それなのに同じ12神を信奉していますし、使用するアルファベットも似ています
・ローマは土木工事等の実学には長けていたが、ギリシアのような哲学や数学は発達しなかったと聞きます。文化面でもだいぶ隔たりがあるように見えます。

結局この2つはどんな関係で、お互いにどんな相手だと見ていたのでしょうか?

Aベストアンサー

 古代ギリシアは都市国家の集まりです。何度か、都市国家連合としての統一国家になろうとしましたが成功しませんでした。その理由は、おそらくは文明・文化の発達でしょう。自立と自由があって、初めて文明・文化が発達します。そして、それを手放してまで、国力だけのために統一国家となることは受け入れにくいのです。

 古代ローマは、文明・文化の発達が遅かったので、早くから統一国家、しかも都市国家連合という緩い結びつきの国ではなく、全域を中央政権が支配する領土国家にまりました。そして、文明・文化は近隣で発展していたギリシア(とりわけ学問先進国のアテネ)に学んだわけです。

 ギリシアの文明に学び、しかも全域が統一されているローマの国力は急速に伸びて行きました。やがて、国力としては劣り、しかも統一できていないギリシアの都市国家を次々と従わせ、ローマの地方都市として、やがてギリシア全域をローマの領土に組み入れることとなります。

 しかし、ローマはギリシアの文明・文化を超えるような独自なことはできませんでした。巨大な建築はできたけど、基本はギリシアのものです。それだけ、ギリシアの文明・文化は発達していたわけです。宗教も、ローマ独自のものはあったのでしょうが、ギリシアの神々と同じものだとしてしまいました。

 キリスト教が広まり、公認されるようになると、ようやくキリスト教由来を加えて、ローマ独自文明・文化が発達し始めました。ローマ帝国が東西に分裂し、西ローマ帝国が滅びても、東ローマ帝国は長く保ち、首都コンスタンティノープルではヨーロッパ有数の文明・文化先進地域であり続けました。

 そういう例は、古代中国にもありました。殷や周は都市国家連合です。一番国力があり、他の都市国家のリーダーととして取りまとめていたのが、殷や周という大きい都市国家でした。その地域を中原(ちゅうげん)と呼んでいて、そこでは早くから文明・文化が発達しました。

 その周の力が衰えていく一方、地方では楚といった文明・文化は遅れていて、中原の都市国家に学んだ国が、早くから領土的にも統一した国家として台頭して行きました。

 周が衰えて、他の国家が力を得て行った春秋時代は、中原ではまだ都市国家連合がひとまとまりとなった国家が多く、非常に多数の小国が乱立していました。小国とはいえ、文明・文化が発達しているので、その周辺地域の領土的に統一された国家から尊敬を受けていました。

 しかし、続く戦国時代となると、ほとんど国家が領土的に統一された国家となります。都市国家は単なる都市となりました。それでも、小国となっても周とその近辺の小国は、秦が中国全土を領土的に統一するまで、長く尊敬を受け続けていました。

 古代ギリシアは都市国家の集まりです。何度か、都市国家連合としての統一国家になろうとしましたが成功しませんでした。その理由は、おそらくは文明・文化の発達でしょう。自立と自由があって、初めて文明・文化が発達します。そして、それを手放してまで、国力だけのために統一国家となることは受け入れにくいのです。

 古代ローマは、文明・文化の発達が遅かったので、早くから統一国家、しかも都市国家連合という緩い結びつきの国ではなく、全域を中央政権が支配する領土国家にまりました。そして、文明・...続きを読む

Qエルサレムに、なぜ3宗教の聖地が在るのですか?

エルサレムでは、紛争が延々続いていますね。
あんなに狭い所に、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教という3宗教が聖地を持っているから、トラブルが起きるのは当たり前だとは、とは思います。その3つの宗教は、ユダヤ教、それから発生したキリスト教、そしてそれらと影響のあるイスラム教、という関連のある宗教ですね。
世俗的には、エレサレムの街自体は、たとえば交通の要所とかではなく、たいして重要な街とは思えません。
それなのに、、なぜ3宗教は、エルサレムに聖地を持っているのですか?
たまたまエルサレムに3聖地が混在するだけなのですか? あるいは、歴史上や宗教上で、何か慨依性を持っているのですか?

Aベストアンサー

まずですね、一神教ってのが興るんです。「世の中に神様と呼ばれるお方はおひとりだけ」という考え方です。
この一神教の神様は、ユダヤ教が呼ぶヤハウェ、キリスト教が呼ぶゴッド、イスラム教が呼ぶアッラー、全て日本語に訳せば同じ「神様」です。
この神様はモーゼさんの前にそのお姿を現したときに、「俺以外の神扱いされてるやつは全部ニセモノのまがいもののファック野郎だ!」とおっしゃいました。そこを起源にしてユダヤ教が始まりました。
ま、いろいろ経緯はありましたが、ユダヤ人一行は今のパレスチナ(イスラエル)の地にやってきて、神様は「よーしお前ら、ここをお前たちに与える」と畏れ多くもありがたくおっしゃいました。しかしそこは当然先住民がおりまして、「なんか、先に住んでる人がいますけどこれはどうすればいいですか?」と伺いましたところ、「お前たちに与えたから殺しちゃってオッケーよ」とおっしゃいました(本当)。かくして彼らはそこにユダヤ人国家を作りました。ユダヤ人がイスラエルを「約束の地」と呼ぶのはそういうことです。
そんなこんなの経緯は旧約聖書に書かれています。

さて、ユダヤ教徒はエルサレムに神様を祭る壮大な神殿を作りました。その頃がユダヤ教とユダヤ王国の絶頂だったといえるでしょう。その後神殿は破壊されてしまい、その一部が残るのみとなりました。その遺跡が「嘆きの壁」と呼ばれるところで、そこでは常に敬虔なユダヤ教徒が祈りをささげていますが、そのお祈りの内容は、「神様、あの栄光の日々がまた訪れますように」というものです。その「また訪れてほしい栄光の日々」とは3000年くらい前の話なんですけどね。

ユダヤ人の国は、あんなこんながイロイロとありまして分裂したりして、やがてローマ帝国の属州となりました。ローマ帝国ってところは実は非常に寛大な帝国で、帝国に従うなら信教の自由も認められていました。日本人レベルでいえば、「それならいいじゃん」というものですが、「この世で神様とお呼びしていいのはおひとりだけ」と信じる彼らにとって異教徒がウロウロしているのが非常に気に障って障ってしょうがないのです。イスラエルでは、ローマ帝国に対するテロ活動が盛んでした。
ユダヤ教徒の歴史では、そういう「ユダヤ人受難のとき」にはエリヤとか神様の言葉を預かる「預言者」が登場して人々を導きました。ユダヤ教徒たちは、そういう「救世主」が出てくることを待ち望んでいたのです。

そういったタイミングに登場したのが、ナザレ生まれのイエスでした。イエスはユダヤ教史上、というか宗教史上において革命的な言葉を発しました。「ベイベー、愛だぜ」と。彼は、あの神様のことを「父ちゃん(アバ)」と呼びました。後になんだかんだでイエスは神の子となりました。マリア様が処女のまま神の子を受胎したお話はご存知でしょ?
それがどれだけ革命的であったのはまた別の機会に譲るとして、「憎みあうより、愛し合おうぜ」と言い出したイエスは人々からローマ帝国を排除する指導者となることを熱望されましたが、「だから俺は憎みあうのは嫌なんだよ。愛し合おうぜ」といって人々を失望させ、エルサレムからすぐ外に出たところのゴルゴタの丘で十字架にかけられてしまいました。
その後、実は一度もイエスと会ったことがないパウロが「イエスは救世主(キリスト)だったー!」と言い出してキリスト教が誕生します。なお、旧約聖書では「救世主はベツレヘムに生まれるよ」と書いてあったので、イエスはベツレヘムで生まれたことになりました。
当然のことながら、キリスト教にとってエルサレムは「イエスが十字架にかけられた場所」ですので極めて重要な聖地であります。

そのイエスが十字架にかけられて50年くらい経ったとき、「もう我慢ならねえ、ローマ人は出ていけ!」とユダヤ人は反乱を起こしました。それ以上にブチ切れたのはローマ人です。「人が下手にでてりゃあ属州のくせにでけえ態度をしやがって。ローマ帝国の恐ろしさを骨の髄まで教えたるわ」と本気で怒り、反乱を鎮めただけではなく、何かとややこしい神殿を破壊し、「ややこしい神を信じてるお前らはこの辺りに住むんじゃねえ」とユダヤ人をパレスチナから追放しました。
これがディアスポラです。以来約2000年、ユダヤ人はイスラエルの地に再びユダヤ人の国を再興することを願いながら世界中でお金を稼ぐこととなります。

時代はずーっと下りまして、メッカの洞窟で、青年ムハンマド(マホメット)の前に大天使ガブリエルが現れて「君が預言者だよーん」と告げました。イスラム教の誕生です。ムハンマドの元にガブリエルを派遣したのはあの、例の、何かとややこしい「神様」でいらっしゃいます。そういや、マリア様の前に「あなたは神様の子を宿したよ。おめでとう」と告げに来たのもガブリエルでした。ガブリエルさんはどうもややこしいお仕事を何度もされているようです。
ムハンマドのあまりに偉大な足跡に関していちゃもんをつけると冗談抜きでアルカイダから死刑宣告されてしまいますので、それについては割愛します。
イスラム教にとって最も重要な聖地は、ムハンマドが神の啓示をうけたメッカです。しかしムハンマドは一神教教徒なわけですから、「死ぬまでに偉大な神殿があったエルサレムで死にたいなあ」と当然といえば当然で、ややっこしくなることを願います。
そして、そのエルサレムの地で天に旅立ってしまったのです。エルサレムはイスラム教にとっても「教祖様が入滅された場所」となってしまったのです。

かくして、エルサレムの地はユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒が俺の場所だ、いいや俺の場所だと大変にややこしい場所となってしまいました。

まずですね、一神教ってのが興るんです。「世の中に神様と呼ばれるお方はおひとりだけ」という考え方です。
この一神教の神様は、ユダヤ教が呼ぶヤハウェ、キリスト教が呼ぶゴッド、イスラム教が呼ぶアッラー、全て日本語に訳せば同じ「神様」です。
この神様はモーゼさんの前にそのお姿を現したときに、「俺以外の神扱いされてるやつは全部ニセモノのまがいもののファック野郎だ!」とおっしゃいました。そこを起源にしてユダヤ教が始まりました。
ま、いろいろ経緯はありましたが、ユダヤ人一行は今のパレスチナ...続きを読む


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