日本の歴史人物の中で、豊臣秀吉のように、農民出身で大名になった人は、他にいますか?田中吉政みたいに「農民であったという説もある」でも可です。ただし、土豪(土地の小豪族)は除きます。

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (5件)

こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

私が1番にあげたいのは、

木下秀長(豊臣秀長とも呼ばれた)

すでに、苗字でわかる通り、豊臣秀吉の弟です。

秀長は23歳まで、尾張国中村で、秀吉が武士となったため、農業をして、家族を養っていました。
天文9年(1540)、秀吉は織田家の足軽頭となっていましたが、秀吉の家来となった者は、すべてが「寄せ集め集団」でした。
誰にも心を許して相談できる者がいない。
そこで、秀吉は尾張国中村で百姓をしていた弟小竹(こちく)を説得して、秀吉の家臣とし、同時に、信長の家臣としても推挙しました。
この時、秀吉26歳、小竹23歳。

秀長は、戦国時代でしたので、数々の戦で兄秀吉を援けました。

(1)永禄10年(1567)8月、織田軍が美濃攻略をしようとしていた時、当時は「山賊」と呼ばれて、誰の支配をも嫌っていた「川並衆」を説得して秀吉の配下とし、これにより、あの有名な「一夜城」が完成し、信長は美濃の斉藤氏を滅亡させました。

(2)元亀元年(1570)4月、信長が朝倉氏を攻めた時、背後から浅井軍が挟み撃ちにしてきました。そこで、信長は一旦後退することとし、織田軍の「しんがり」を秀吉に命じましたが、実際には、弟秀長軍が一番最後尾で、4時間余り奮戦し、無事に信長を美濃まで退却させることに成功しています。

(3)天正10年(1582)6月2日、織田信長が討たれる。
秀吉は、まずは、山崎の戦で明智光秀を破り、その後は、柴田勝家を破り、天正11年(1583)大阪城を築城。
この頃、秀長は姫路城主として姫路城に入りました。
とは言っても、戦乱の世でしたから、姫路城で優雅に暮らしたわけではなく、城は城代に任せ、自らは大阪の兄のもとで働いています。
後の、家康や上杉景勝なども城主ではありましたが、大阪に住んで5大老などとしての仕事をしています。

(4)天正14年(1586)10月26日、家康が上洛をしましたが、秀長は、自分の住まいを提供し、接待をしています。
そして、密かに兄秀吉を呼び寄せ家康と対面させ、
「家康殿、明日は、名前を呼ばれたら、形ばかりで良い、頭を下げて欲しい」
と、頼みました。
そして、謁見の日(10月27日)、多くの大名が居並ぶ中で、家康が名前を呼ばれ頭を下げると同時に、
「上洛大儀!」
と、秀吉。
これで、家康が秀吉の臣下になったと言われていますが、ここでも、秀長の兄を事前に家康に引き合わせる、という作戦が見え隠れしています。

(5)秀長は、天正19年(1591)1月22日、51歳で亡くなっています。

(6)秀吉の弟ということもありますが、一介の百姓から武士、それも、いきなり指揮官になったわけですから、かなりの努力家だったと考えられます。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

詳しいご回答ありがとうございました。

そうですよね!秀長もいたのを忘れていました。彼の功績は大きいですよね。bungetsu様のご回答を拝見して、よい弟の支えがあったからこそ、秀吉も天下人になれたと言っても過言ではないと、改めて思いました。おっしゃるとおり、秀長は努力家だと思います。

お礼日時:2009/05/27 23:08

回答No4です。


ごめん ちゃんと設問読んでなかった。

大名・・・大名か・・・。

ごめん、秀吉・秀長しか思い浮かばない。
大名家家臣のなかには以外と農民出身の人多いねんけど・・・。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

農民出身の大名って、マイナーなところで何人かいるのではないかと思い、質問させていただきましたが、なかなかいないですね…。
農民と武士の境目がはっきりしていない時代に、「土豪は除く」という質問の仕方も、ちょっと変だったな…と、少し反省しています。(^^;

時代が違うけど、伊藤博文→農民から総理大臣はすごいコトですよね。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2009/05/29 22:00

藤堂高虎は農民というより土豪ですねぇ。


父親も浅井家につかえていたようですし。

伊藤俊輔はどう?
長州藩の農家の長男で、後に初代内閣総理大臣 伊藤博文です。
    • good
    • 0

藤堂高虎さん。


こちらは農業に飽きて腕っ節で稼ごうとしたけど失敗続き。
丁度長浜に居た羽柴秀長とか言う農業で生計をしていた経験がある人に仕官しに行ったら今までにない待遇を得たらしいですね。
類は友を呼ぶのでしょうか。
なんだかんだと大名に上り詰めましたね。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

>藤堂高虎さん。
新撰組の藤堂平助のご先祖様かもしれない人ですよね。
藤堂の名前だけは聞いたことがありましたが、初代当主が農民だったのは知りませんでした。

>類は友を呼ぶのでしょうか。
なるほど…おっしゃるとおりかもしれません。生まれながらに家柄の良い人だったら、家柄も重視して採用するケースが多くなりますよね。秀吉の関連人物でよく調べていったら、面白いかもと思いました。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2009/05/27 23:44

豊臣秀吉は「農民の子」というより


「出自が明らかでない、史料の記述が入り乱れてよく分からない、名もない庶民の出身」
と表現する方が正しいです。
そのような身分から大名にまでなった者と言いますと、

1) 松永久秀
出自について確たる史料がなく「不明」です。
「不明」ということは「名もない庶民の出身」と判断できます。
恐らく、大名になった武士の中で、スタート時の身分が最も低い者と言えましょう。

(2) 福島正則
父は「尾張国海東郡ニ寺村の住人 福島市兵衛正信」とされていますが、現存する諸史料では矛盾する情報が入り乱れて「結論:よく分からない」とされています。
参考文献:中公新書「福島正則」
http://www.amazon.co.jp/dp/412101491X/
なお、「福島正則の出自が分からない程度」は、「豊臣秀吉の父親が何者だったのかが分からない程度」と同程度と言えます。

他の大名クラスの武士については、少なくとも「**の地侍であった」程度は判明しているのが普通です。

なお、恐らく「斎藤道三」と言う回答が出るものと思われますが、
「僧侶から油売りを経て美濃の土岐氏の重臣に成り上がり、さらに主家を追い出して美濃国主となった」
という一般に流布している説は、作家の司馬遼太郎の「国盗り物語」の記述が史実として一般に広まったものであり、真実は
「斎藤道三の父親は、京の妙覚寺の僧であったが、美濃へ来て土岐氏に仕え、長井新左衛門尉と名乗るに至った」
「長井新左衛門尉の息子(斎藤道三)は、土岐氏重臣の斎藤家を乗っ取り、斎藤左近大夫と名乗るに至った」
ということだというのが現在の定説です。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

詳しいご回答ありがとうございました。

松永久秀は知らなかったので、興味を持ちました。いろいろ調べてみたいと思います。

福島正則も、出生にいろんな説があるみたいですね。情に厚い性格や恐妻家なところ(笑)とかもあって、好きな人物の一人です。ご紹介いただいた本も、ぜひ読んでみたいと思います。

司馬遼太郎の影響力は、すごいですよね!フィクションであっても、彼の影響で、歴史好きになった人がたくさんいらっしゃいますから。油売り説を信じている人は、多いですよね。

お礼日時:2009/05/27 22:57

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q農民兵は農繁期に出兵できない事はないのに・・・・

A「農民兵は農繁期に出兵できない。」
B「信長だけは兵農分離して常備軍を作って農繁期でも出兵できた。」

歴史小説ではおなじみのAとBですが、間違いです。
旧暦と新暦の違い、田植えと稲刈りの時期の変化を計算にいれると、
桶狭間は田植えの真っ最中。川中島の5回の出兵期間もすべて稲刈りシーズンにかかります。今川も上杉も武田も農繁期に出兵できています。
そもそも、源平合戦も南北朝も農民兵が「器量に堪うる者」として出兵できているのに、戦国時代にだけ出兵できないのはおかしいです。

作家だけで無く、小和田先生も2008年以前は似た事を書いていました。私は、作家や出版社に配慮した大人の事情で仕方なく書いたのだと思っていました。しかし、先日、70年代の永原先生の本にも「農民兵は農繁期に出兵できない。」の言葉が。

歴史学者の間でも、農民兵は農繁期に出兵できないとされていた時期があったのでしょうか?出兵期間を調べれば、間違いに気づくのに。

Aベストアンサー

>「研究者」とはどういうカテゴリーなのでしょうか。学者?作家も含む?
基本的に学者を中心とする史料に基づいた考察ができる人を指して使っています。
大学に所属していなくても作家でも史料をちゃんと自分で読んだ研究をしている人であれば研究者とみなしています。
よって歴史評論家やら『逆説の日本史』の作者やらは含みません。

戦国期の戦争の実態についての研究はあまり進んでいません。
さしあたって下記の雑誌が最新の研究状況と論点を示していると思います。よければご参照ください。
http://www.maroon.dti.ne.jp/rekikakyo/magazine/contents/zengou.html

Q今学校で、豊臣秀吉について勉強しているのですが、豊臣秀吉の家族や、豊臣

今学校で、豊臣秀吉について勉強しているのですが、豊臣秀吉の家族や、豊臣秀吉に関係している人のことが、よく分かりません!!
どなたか、詳しく教えていただけないでしょうか。

Aベストアンサー

愛知県名古屋市在住のオバサンです。

豊臣秀吉は、現在の名古屋市に該当する地域の出身のため、毎年、名古屋市で開催されている「名古屋まつり」の『郷土英傑行列』にも登場します。
今年(平成22年)の名古屋まつりは 10月16日(土)、17日(日)に開催されますが、名古屋開府400年の年ということで、例年とは少し趣向が変わっています。

『郷土英傑行列』は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という、名古屋市にゆかりの深い戦国武将に扮したパレードです。
それぞれに関連のある人物などによって一団が形成され、名古屋市の中心部をパレードします。

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康(「三英傑」と呼ばれる)は、公募(名古屋市在住or在勤の人)で選ばれます(2004年は、名古屋まつり50周年記念ということで、中日ドラゴンズOBの谷沢さん、彦野さん、今中さんが演じられましたが)。

そして、三英傑の「隊」は、栄地区にある3つのデパートがバックアップしています。
豊臣秀吉隊のバックアップをするのは、「丸栄」というデパートです。

ご質問からは少し話がそれてしまいましたね。
ごめんなさい。

豊臣秀吉は、その「出自」については正確なことは分かっていません。
秀吉自身もいろいろなことを「書かせている」んですよ。
母親については、後に「大政所」と称された「なか」という人です。
父親については、「木下弥右衛門」という人だとされていますが、この「木下弥右衛門」については、詳細が不明なんです。一般的には「百姓」と伝えられていますが、この当時、「百姓」にもいろいろな「種類」があり、どのような百姓であったのかは分かっていないんです。
きょうだいについては、姉、弟、妹が1人ずついたとされています。
姉は、同父同母のようですが、弟と妹については異父であるという説の方が大勢ですね。
この弟が、#2さんが紹介されている「秀長」です。
#2さんは有名ではないと仰っていますが、私が住んでいる地域で郷土史を齧った人間ならば知らないはずがない人です。
豊臣家のナンバー2として、なくてはならない人物で、大層興味深い人ですよ。

ご質問者さまは、来年の大河ドラマの主人公が誰かはご存知ですか?(演じるのは上野樹里さん。)
来年の大河ドラマの主人公は、「江(ごう)」という名前の人なんですが、この人は「豊臣秀吉の甥の妻」でもあった人なんです。
最終的には、「徳川家康の三男の妻」になりましたが、その人の2番目の夫が「豊臣秀吉の姉の息子=豊臣秀吉の甥」だったんです(死別)。
ちなみに「江」は、「織田信長の姪(妹=市の子)」でもありますし、「豊臣秀吉の義理の妹(秀吉の側室である茶々の妹)」でもあります。

さらに「江」に関連して申し上げれば、豊臣秀吉の直系の血筋は途絶えていますが、「豊臣秀吉の姉の息子・秀勝」と「江」の間には女の子が1人生まれています。
この女の子は後に「九条幸家」というお公家さんの妻になり、「道房」という息子を産みます。
その血筋が現在の天皇家につながっているんですよ。
九条幸家→九条道房→娘→九条輔実→九条幸教→二条宗基→二条治孝→九条尚忠→九条道孝→節子→昭和天皇→今上天皇 というカンジです。

豊臣秀吉には3人の実子がいたとされていますが、先ほども申し上げましたとおり豊臣秀吉の直系の血筋は途絶えています。
2人の子は幼くして亡くなっていますが、側室である「淀殿」が産んだ「豊臣秀頼」は成人し、側室との間に男の子と女の子がありました。
女の子(後の「天秀尼」)は、鎌倉にある東慶寺に入って出家して生涯を終えました。
男の子(国松)は、大阪の陣のあと徳川方に殺されていますが、こういった人にはつきものの「生存説」があります。

> 豊臣秀吉の家族や、豊臣秀吉に関係している人
とのことでしたので、ちょっと話を飛躍させてしまいました。

妻である「北政所(おね)」、上司にあたる「織田信長」、同僚だった「前田利家」あたりは、わざわざ上げるまでもないと思いましたので…。

豊臣秀吉関係でしたら「賤ヶ岳七本槍」も調べるキーワードの1つにされるとよろしいかと思います。
「賤ヶ岳七本槍」と呼ばれる武将のうち、「福島正則」と「加藤清正」は、「豊臣秀吉」と親戚だったと言われています。

愛知県名古屋市在住のオバサンです。

豊臣秀吉は、現在の名古屋市に該当する地域の出身のため、毎年、名古屋市で開催されている「名古屋まつり」の『郷土英傑行列』にも登場します。
今年(平成22年)の名古屋まつりは 10月16日(土)、17日(日)に開催されますが、名古屋開府400年の年ということで、例年とは少し趣向が変わっています。

『郷土英傑行列』は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という、名古屋市にゆかりの深い戦国武将に扮したパレードです。
それぞれに関連のある人物などによって一団が形成さ...続きを読む

Qなぜ、大昔は農民でも米なのにその後は違うのですか?

 教科書の情報でいくと

 古墳時代や飛鳥時代の頃の農民は、玄米を食べていたとありますが

 その後、戦国とか江戸になると

 農民は年貢で苦しいので、あわ・ひえを食べていたとありますが

 なぜ、昔は農民でも米が食べれたのでしょうか?

 逆にあわ・ひえが貴重だった?

 

Aベストアンサー

いや、古墳時代や飛鳥時代は玄米のほかにも、小麦・大麦・蕎麦・粟・稗も食べられていました。ただ教科書を書いている人は馬鹿なので、農民なら誰でも玄米を食べていたと勝手に思い込んでしまう。日本は狭いようでも広く気象・水利・土壌の条件が同じではありませんから、地域特性に応じて作付けされていました。
戦国時代や江戸時代だって同じです。粟や稗も食べたでしょうが、玄米だって食べています。小麦・大麦・蕎麦だって食べています。ただ教科書を書いている人は馬鹿なので、農民は領主に搾取されて貧しかったと勝手に思い込んでいるわけです。

米は収穫量も大きく美味なのですが、その分気象・水利・土壌に求める条件が厳しく、わずかな気象の変動で大凶作になってしまうのです。米はハイリスク・ハイリターンな農産物です。大凶作になると、わずかな収穫も年貢に取られてしまうので、農民は米を食べられない。それが何年も続くと粟や稗さえ食べるものがなくなってしまう。それが飢饉です。米に対して粟や稗は、収穫量も食味も劣ります。しかし稗や粟は、米が育たないような気象条件でも育つのです。雨が降らない、気温が上がらない、そんな時でも粟や稗は育つのです。だから米が取れない時の保険として農民は粟や稗も育てていました。凶作・飢饉の備えて、粟や稗を倉庫に備蓄していました。

そういったことは古墳時代や飛鳥時代も戦国時代や江戸時代も同じです。リスク分散なんですね。米一辺倒では、米が取れなかったときにお手上げですから、万一の保険をかけておく。

品種改良、土壌改良、農薬、肥料の進歩によって米の収穫量が安定するようになったのは戦後のことに過ぎません。1993年は北海道・東北地方で戦後最悪の不作となり、平成の米騒動と呼ばれる問題になりましたが、その程度の不作は江戸時代以前はごく普通のことで、珍しくもなんともなかったのです。まず質問者さんに認識してもらいたいのは米は収穫量が安定しない不安定な作物だったということです。現代人は何でも現代基準にものごとを考えて、現代のことが当たり前なのだと思い込んでいるから歴史を正しく捉えれないのです。1993年の平成の米騒動は長く続く安定に慢心して保険をかけることを忘れてしまったことが一因です。舌が贅沢になった現代人は、冷害に強い品種でも、味に劣る品種の米を食べようとしない。ましてや粟や稗なんか食べません。そういう消費者に合わせて、北海道や東北地方といった歴史的に冷害が多い地域でも冷害に強い品種の作付けをやめてしまっていた。ましてや粟や稗など、もう誰も育てては居ない。米価が高騰し、問屋は売り惜しみ・売り渋りで市場に出荷しない。それが平成の米騒動でした。

ただし古墳時代や飛鳥時代の頃と戦国時代・江戸時代で何も違いが無かった訳ではありません。

1点目は人口が違います。古墳時代や飛鳥時代は日本の人口は500万人前後だったと推定されていますが、戦国時代には1000万人を超えていたと推定されています。古墳時代や飛鳥時代は条件に恵まれた土地しか開拓されていなかったということです。北海道や東北地方では、まだ稲作は行われていない。もっとも北海道は江戸時代でも稲作は行われていない。

2点目は気象が違います。1400年から1850年は世界的に寒冷化が進んだと考えられています。寒冷化といって平均気温が1,2度下がるぐらいで、氷河期になるわけではありませんが、それでも温暖な気候を好む稲の作況を不安定にする重大要因でありました。

戦国時代・江戸時代は人口が増えて、条件が不利な土地でも稲作が行われている上に、気温が下がるわけですから、より米は不作になりやすく、その影響が大きかったわけです。

3点目は戦国時代・江戸時代は、作付けの品目に農民の裁量権が無かったことです。1643年に田畑勝手作禁止令が発せられたように、農民が栽培する品目を自分で決める権利が無いのです。何事も領主の承認が必要。というのは建前で、実際は時代が進むと田畑勝手作禁止令は形骸化して、やはり農民は換金性が高い作物を育てようとしていました。

4点目は貨幣経済の進展です。米は大阪に運べば高く売れますが、稗や粟などは売れません。領主(大名)は、商人からの借金を返済する為にたとえ凶作であっても情け容赦なく年貢を取り立てる必要があった。また農民も米より高く売れる商品作物を栽培したがった。中には米を全く作らずに木綿・煙草・菜種といった米より高く売れる商品作物だけを栽培して、その販売代金の一部で他所から米を買ってきて年貢として領主に納める農民もいたぐらいです。それは貨幣経済が進展したから、可能になったことです。

そんな具合に農民が米作りをおろそかにして、金儲けに夢中になってしまったことが田畑勝手作禁止令が発せられた社会背景であり、米不足になり粟や稗などの雑穀を食べざるを得なくなった背景です。貨幣経済が進展すると、貧富の格差が拡大します。要領のいい人間にはいくらでも儲けるチャンスが生まれる。その一方で要領の悪い人間は、農業や商売に失敗して借金を作ってしまう。借金を返済する為に食べる米があるくらいなら、市場で売って返済原資にして、自分たちは売れない稗や粟を食べようと考えます。

以上のように、教科書では説明していないでしょうが、古墳時代や飛鳥時代と戦国時代・江戸時代では共通点もありますし、相違点もあります。

歴史の勉強は、教科書の解釈学ではない。頭の悪い人が書いた文章の言葉の上っ面だけをとらえて、妄想を繰り広げることが歴史の勉強ではない。文章をどう理解するかが歴史の勉強ではない。

教科書は、これから始める勉強のとっかかり、出発地点に過ぎないということです。出鱈目な海図でも何も地図がないと東に行けばよいか西に行けばよいか分からない。それでは未知の大海に船出することはできません。教科書の役割はそうしたものなのです。

日本人は古来より五穀豊穣を神に祈願してきました。五穀とは何か。古事記によれば、稲・麦・粟・大豆・小豆。日本書紀によれば、稲・麦・粟・稗・豆。

五穀豊穣にご利益がある神社を護国神社といいます。これは嘘ですけど。

米が採れない土地、米が採れない気象でも粟や稗は実るのです。こういう大事なことを教えない日本の教科書って何なのでしょうか。

いや、古墳時代や飛鳥時代は玄米のほかにも、小麦・大麦・蕎麦・粟・稗も食べられていました。ただ教科書を書いている人は馬鹿なので、農民なら誰でも玄米を食べていたと勝手に思い込んでしまう。日本は狭いようでも広く気象・水利・土壌の条件が同じではありませんから、地域特性に応じて作付けされていました。
戦国時代や江戸時代だって同じです。粟や稗も食べたでしょうが、玄米だって食べています。小麦・大麦・蕎麦だって食べています。ただ教科書を書いている人は馬鹿なので、農民は領主に搾取されて貧しか...続きを読む

Q豊臣秀吉の子供は本当に豊臣秀吉の子供か?

豊臣秀吉の子供は本当に豊臣秀吉の子供なんでしょうか。53歳で最初の子供が生まれたなど信じられません。あの頃の武将は子供を沢山もうけて、他の武将との政略に使うわけだったのに、若い頃に子供が出来ずに50何歳から子供がやっとできたなど、本当に豊臣秀吉の子供かと疑問に思います。秀頼など、石田光成の種なんではないでしょうか。もっとも、私は歴史音痴ですが。誰も今まで、疑問を呈していた人はいなかったのでしょうか。

Aベストアンサー

淀殿はとくに秀吉が死んでからは、けっこう大っぴらに大野治長と密会していたらしく、秀頼も大野治長の子なんではないかと結構広く噂されていたそうです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%80%E6%AE%BF
真ん中らへん。

Q農民と百姓の違い

百姓は農民と重なる部分が多いけど、近世の百姓と農民は完全に同義ではないみたいなのですが、どの部分が重ならないのでしょうか><
2つほど説明してくださると嬉しいです^^v

Aベストアンサー

 単純にお話しします。
「百姓」とは元々「ひゃくせい」と読む言葉です。意味としては「様々な職業の人」から派生し、多くの人々との意味で使われる表現です。「民草(たみくさ)」などと同じです。
 これに対し「農民」とは文字どおり「農業に従事する人」「農業を生業とする人」として「職業別の階層」を指す呼称です。
 こうした国語的表現とは別に日本史学での扱いですが、江戸時代に「小前の百姓」「大前の百姓」との呼び方が登場します。前者は「村役人以外の百姓」であり後者は「村役人を務める百姓」のことで、「村役人」とは代官や郡奉行の下で農村支配の末端機関の役割を果たした農民のことであり地方毎に大庄屋・名主、庄屋・肝煎などの呼び方がある職掌の下に組頭・百姓代などが置かれる組織構造を示します。
 江戸時代と仰られても、それが「どの様な史料に記されているのか」によっても内容は変化します。儒学系の書物ならば、儒教原理に則って記されていることから古典の意味としての「ひゃくせい」である場合もあれば、高札などの「下」では近郷近在の農業に携わる者に対する通達などの意味で使われる場合もありますので、「どの様なシチュエーションで使われているかを識別して考えること」が肝要です。

 単純にお話しします。
「百姓」とは元々「ひゃくせい」と読む言葉です。意味としては「様々な職業の人」から派生し、多くの人々との意味で使われる表現です。「民草(たみくさ)」などと同じです。
 これに対し「農民」とは文字どおり「農業に従事する人」「農業を生業とする人」として「職業別の階層」を指す呼称です。
 こうした国語的表現とは別に日本史学での扱いですが、江戸時代に「小前の百姓」「大前の百姓」との呼び方が登場します。前者は「村役人以外の百姓」であり後者は「村役人を務める百姓」のこ...続きを読む

Q小田信長と豊臣秀吉と徳川家康三人の中で誰が一番好きですか? 信長が本能寺で光秀にころされていなかった

小田信長と豊臣秀吉と徳川家康三人の中で誰が一番好きですか?
信長が本能寺で光秀にころされていなかったら、その後の歴史はどう変わっていたのでしょうか?1もちろん長生きした。2違う武将にころされた。その場合はその武将とは誰?3誰にもころされなくても信長は早死にする運命だった。歴史上の事って教科書で習うことが必ずしも正解ではない時があるそうです。ぜひとも推理してみて下さい。

Aベストアンサー

日海を囲碁の名人(後の初代本因坊算砂)として取り立てた織田信長が好きです。

殺されていなかったら、外か内かはわからないが違う武将に殺されていたのではないでしょうか?

Q農民一揆と百姓一揆について

農民一揆と百姓一揆の違いを教えてください。後、テストで回答が農民一揆だった場合に百姓一揆と書いてしまった場合は、やはりアウトですかね?教えて頂きたいです。

Aベストアンサー

一揆は民衆の抵抗運動ですが、時代により呼び名が違います。江戸時代の一揆を「百姓一揆」、明治時代のそれを「農民一揆」として、呼び分けることが多いようです。
http://kids.gakken.co.jp/jiten/6/60011740.html
http://kids.gakken.co.jp/jiten/6/60000470.html

ただこれは教科書的な用語の使い方で、国語辞典などでは百姓一揆をはじめ、農民を中心とした一揆の総称が「農民一揆」とされています。
http://www.weblio.jp/content/%E8%BE%B2%E6%B0%91%E4%B8%80%E6%8F%86
この場合は、「農民一揆のうち、江戸時代に起こったものを特に百姓一揆と呼ぶ」ということになります。

> テストで回答が農民一揆だった場合に百姓一揆と書いてしまった場合は、やはりアウトですかね?
正解が「農民一揆」なら、明治時代に関する問題でしょう。「百姓」という身分は明治政府により、一応廃止されていますから、不正解にされると思います。
なお、「正解が百姓一揆なのに、農民一揆と書いた」場合には、厳密には間違いとは言えません(国語辞典的な意味では、百姓一揆は農民一揆の一種なので)。ただし学校のテストで問われるのは、やはり教科書の知識です。これも不正解とする採点者の方が多いでしょう。

一揆は民衆の抵抗運動ですが、時代により呼び名が違います。江戸時代の一揆を「百姓一揆」、明治時代のそれを「農民一揆」として、呼び分けることが多いようです。
http://kids.gakken.co.jp/jiten/6/60011740.html
http://kids.gakken.co.jp/jiten/6/60000470.html

ただこれは教科書的な用語の使い方で、国語辞典などでは百姓一揆をはじめ、農民を中心とした一揆の総称が「農民一揆」とされています。
http://www.weblio.jp/content/%E8%BE%B2%E6%B0%91%E4%B8%80%E6%8F%86
この場合は、「農民一揆のうち、江戸時...続きを読む

Q豊臣秀吉の「

末裔いますか???

Aベストアンサー

いると思います。

Qドイツ農民戦争の意義は?

高校の世界史で宗教改革を勉強するとき、ドイツ農民戦争が出てきますよね?

ところが、せいぜいこの戦争でルターが「うそつき博士」というあだ名をもらって保守化したことが分かるくらいで、わざわざ教科書に載せる事項でもないような気がしてきました。

教科書に出てくるということは、ドイツ農民戦争がアウグスブルクの宗教和議にいたる宗教改革史、またはドイツ史になんらかの影響を与えているのだと思うのですが、ではどんな影響を与えたのか、農民戦争の意義をどなたか教えてください。

Aベストアンサー

ドイツ農民戦争(大農民戦争)は中世の終わりを象徴づける
決定的な出来事であって、
実はルターの宗教改革よりも重要な出来事なのです。
だから宗教改革とは同じ時間軸で進展して
ともに関連して影響しあってはいますが
これは宗教改革が起こらなくても起こったであろう
ヨーロッパ最初の農民の革命であって
宗教改革が起こったことでより残忍になり
血なまぐさい歴史の惨事として記憶されますが
別に理解する必要があるのです。

貨幣経済と発展による農民の地位向上と
逆にその貨幣経済によって
支配の基盤であった荘園制が揺らいた領主が
農民に重税を課そうとしたときに、
ちょうどルターの教会改革、聖書への回帰を求める運動がおきて
福音主義のもとづくキリスト教原理主義の考えが
農民の間に浸透したことから
キリスト者の自由という平等を求める社会革命に発展しました。

ミュンツァーらは革命の神学をうちだして
ドイツに農民の理想郷を築こうと農民団を集結しますが
宗教改革をただの教会内の教義闘争としか考えてなかった
ルターはこれに恐れをなして悪魔の手先だと糾弾しはじめ
諸侯との同盟をつよめて
「(反乱農民は)何者でも刺し殺し、打ち殺し、絞め殺せ」という
過激な主張をルターがし始めるのはこのためです。

ドイツ農民戦争はほとんど新教側の諸侯によって弾圧されていて
農民戦争の後で新旧両派の宗教戦争が始まるわけで
この期間は事実上の停戦に近い感じですから
これが宗教改革を停止してでも潰す必要がある
重大問題だったということがわかるでしょう。
宗教改革も要するに宗教の名を借りた
諸侯や皇帝、教皇間の勢力争いにすぎません。
三十年戦争は最初の欧州大戦ではありますが
信仰とはあまり関係ありません。(実際、新旧どちらにも多くの転向がある)

だから社会の根底を揺るがした出来事として
大農民戦争は決して省けない重大事で、
封建制度の打倒と、平等を目指した革命運動として
その後の市民革命のさきがけであるのです。

ドイツ農民戦争(大農民戦争)は中世の終わりを象徴づける
決定的な出来事であって、
実はルターの宗教改革よりも重要な出来事なのです。
だから宗教改革とは同じ時間軸で進展して
ともに関連して影響しあってはいますが
これは宗教改革が起こらなくても起こったであろう
ヨーロッパ最初の農民の革命であって
宗教改革が起こったことでより残忍になり
血なまぐさい歴史の惨事として記憶されますが
別に理解する必要があるのです。

貨幣経済と発展による農民の地位向上と
逆にその貨幣経済によって
...続きを読む

Q豊臣秀吉のお墓

豊臣秀吉のお墓はどこにあるのでしょうか?また秀吉を祭っている神社もどこにあるのでしょうか?

Aベストアンサー

以下のとおりです。

http://www.m-network.com/sengoku/haka/hideyoshi450h.html
http://www.apsara.ne.jp/houkoku/


人気Q&Aランキング