いやなことを言われると、相手が嫌いになって
いいことを言われると、素直に受け止める
何か屈折しているようですが
これは「感情」が邪魔をしているのでしょうか。

またはどういったものにどういう風に
動かされているのでしょうか。

A 回答 (6件)

こんにちは。



>いやなことを言われると、相手が嫌いになって
ここでの、“いやなこと" が、馬鹿とかブサイクなどと言う等ならば、そうする人は他人への思いやりに欠けるから と思うから、嫌いになります。

ですが、頭が良いとかカッコ良い等の、聞き心地の良い事を言われても、
相手が上辺だけで言っていたり、愛情を感じないならば、遮断します。

些細な事からも、その深い意味を感じる心 がちゃんと作動しているかどうか。
かな???。。。。。

聞き難いことをその時は言われても、自分の為を思って言って貰えている。愛情を持って言ってくれた。と悟った時に、そこに、信頼 が生まれるのだろうと思います。

余談ですが。
不倫中の人は、これが通じないことが多い気がします。
些細な事からも、その深い意味を感じる心 がちゃんと作動していないのだと思います。
善悪の判断力 なのかな???
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質問の意味が良く分かっていないかもしれないけれど、回答してみます。


主旨と外れていたらすみません。m(_ _)m

そして読解力に自信がないので、短時間では他の回答者さんの質問を読みこなせそうもなく、きちんと読んでおりません。
回答が被っていたら皆様失礼をお許し下さい。


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>いやなことを言われると、相手が嫌いになって
いいことを言われると、素直に受け止める
何か屈折しているようですが
これは「感情」が邪魔をしているのでしょうか。


“屈折”と言う言葉が引っ掛かったのですが、もしや、
「嫌なことを言う人も、良いことを言う人も同一人物である」と言うことですか?
それならば、屈折している様にも取れますよね。
同じ人なのに、好きと嫌いの感情が行き来するのですから。

また、絶対に言っては欲しくない酷い言葉を投げつけられて、拒絶され続けたら、どんなに良いことを言われても、今度は「嘘だ」と信じられなくなることもあると思います。
これは、何やら調子の良いことを言って誤魔化そうとしていると、相手を疑って掛かる状態です。
自分が相手を嫌っていたり、もしくは好かれているとは思えないと、良いことを言われてもあまり良いことには聞こえないと思います。

逆に相手に好かれたい気持ち、慕っている気持ちが強いと、嫌な言葉は矢のように刺さるでしょうし、良いことは、素直に喜びとなって自分の心が満たされると思います。
質問者さんは、相手に好かれたい気持ちがあるのだと思います。



“「感情」が邪魔をする”の下りが良く分かりませんでした。
嫌なことを言われると相手が嫌いになり、良いことを言われると素直に受け止めるというのは、ねじれのないストレートな感情だと思います。

相手が本当はどんな人か分からなければ、言葉でどの様な人か推し量るものではないかと思います。
自分の中に相手に対しての確固たる固定観念がない状態だと、そのような行動を取ると思います。
また、自分が相手にどう思われているのか、確固たる自信がなければ、そうなるのは自然だと思います。
子供が正にそうだと思います。
初めての相手に持つ、率直な感情だと言えるのではないでしょうか。

質問者さんが相手を主観的にしか見られない、客観視できないと思い、そのことを“「感情」が邪魔をしている”と思われたと言うことでしょうか?
自分のその時の気持ちに左右されずに、その人の本質を見極めたいと言うことでしょうか?
でも、相手も感情の動物。いつも本心を言うとも限らなければ、気まぐれなところもあると思います。
同じ人でも日々変化するので、本人にも分からない部分があると思います。


>またはどういったものにどういう風に
動かされているのでしょうか。

相手に対して“信頼関係を築きたい”と思っていると、嫌なことを言われると相手が嫌いになり、良いことを言われると素直に受け止めるのだと思います。

また、脱線して、出だしの話に戻りますが、信頼関係が持てそうもないと思うと、相手がどんなに良いことを言っても、猜疑心から白々しい言葉に取れて、心には響かないのだと思います。そして嫌な言葉も刺さると言うよりも鬱陶しいものになるのだと思います。
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>いやなことを言われると、相手が嫌いになって


>いいことを言われると、素直に受け止める
>何か屈折しているようですが
いいえ、ぜんぜん屈折してなんかいませんよ。
ごく普通です。
屈折しているというのは、
いやなことを言われても相手が好きになったり、
いいことを言われても素直にはうれしく思えない、
そんなことをいうのでしょう。
>いやなことを言われると、相手が嫌いになって
これも貴方の素直な感情の反応です。

>これは「感情」が邪魔をしているのでしょうか。
そうでしょうね。貴方の自然な感情の働きです。
「邪魔」だと感じられるのは、素直な自分の反応が嫌で、貴方の理性はもっと違う反応をしたいと考えておられるのでしょうか。
そういう場合もあります。しかし、
むしろその方が”屈折している”に近いです。

>またはどういったものにどういう風に
>動かされているのでしょうか。
そんな複雑なものではまったく無いと思います。

貴方は感情に左右されない人間になりたいと思っておられる?
貴方は現在は感情に左右されていて、しかしこれではだめだ、と自覚している、自分はいわゆる”天然人”にはなりたくないと自覚しておられるのでしょうか。それとも自分は素直が似合わないと思っておられるのか。
感情に素直になれるのは素敵なことです。
でもそのために友人を傷つけないように、マイナスの反応はできるだけ気づかれないようにするのがおとなの最少のエチケットだと思います。
感情そのものはどんどん磨かれるのがいいでしょう。

回答になっているでしょうか?
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お聞きになりたいことが整理されていないのではないかという印象を持ちました(回答の冒頭からスミマセン)。

でも、出来るだけ表現されたことばに沿って感想を述べてみます。

まず
>いやなことを言われると、相手が嫌いになって
 いいことを言われると、素直に受け止める
について。

「自己愛」ということばがあります。ひとは誰しも自分自身(のこころ)と四六時中向き合って生きています。自分がこの世界の中にいて(あるいは投げ出されていて)、たいていは家族という血縁集団(という人間関係)の軋轢の中で自我を形成します。自我は自己と他者を区別し、他者との関わりなしに自己が存在できないことを了解します。しかし目の前にいる他者が自己と同じ「こころ」を持つ存在であると「うっすら」分かるのみで、生きている間は他者を十全に(自己と同じように)理解することが永久に不可能であることも経験から分かってきます。自己は肉体という物質的条件の枠の中でしか存在できません。生物としての肉体は自己保存や自己維持活動を不断に行い、その活動は欲求充足を中心としたものになります。欲求は、本能的なもの(睡眠、食欲など)から、その一員として形成している「社会」の中で構成員であることで求められる外的要求(「ああしろ、こうしろ」または「これをするな」)に応えることまで千差万別です。
 
「自己愛」は、自分を一番知る者は自分であり、かつ自分でしかないという変えようのない現実を知り、自分の肉体を含めて世界で一番大切なものは結局「自分」だという意識です。
人は肉体的条件からくる「快・不快」への反応、その所属する社会集団からの「認知・評価」という「快・不快」への反応が行動原理の中心となります。「おいしいものを食べたい」「快適な生活をしたい」「楽して暮らしたい」その手段として「お金が欲しい」といった形而下の諸問題から、「先生に認められたい」「ひとに褒められたい」「望む学校に進学したい」といった「社会的評価」もまた行動原理たりうることになります。

さて
>いやなことを言われると、相手が嫌いになって
 いいことを言われると、素直に受け止める
は、「いやなこと」は「不快」ですから、その「不快感」をもたらした相手は「不快の原因」であり、原因を消滅させることが犯罪であり(実行すれば罰という大きな「不快」が待ち受けている。下手をすれば自己にとって一番大切な「自分」が他者から強制的に「殺される=死刑」から)そこまでして「不快」を消滅させることが不可能な場合、命と同じくらい大切な「自己」とそれを慈しむ「自己愛」がそれ以上のダメージを受けずにいるためには、「相手を嫌いになる」つまり「相手はわたしに不快感を与える異物である」として関心の埒外に放り出す(それが消極的な反応であれば「嫌いになる」となり、積極的な反応であれば「相手を消滅させる」になります)か、自罰的な傾向があれば「相手が嫌なことを言うのは自分が原因であり、相手はそれを正そうとしてわざと嫌なことを言っているのだ」と受け止めるかでしょう。すなわち「快・不快」の原因が自己の外にあるか内にあるかの違いになります。

「いいことを言われる」と自己愛が満たされます。自己にとって「快」であることは受け入れることができます。「素直に受け止める」は言われた相手によるでしょう。また「素直」であることが「受け手」にプラスの意味がないと「素直」であることは難しいでしょう。

>何か屈折しているようですが
 これは「感情」が邪魔をしているのでしょうか
については、「感情」は外的刺激に対する主に「好悪」の感覚がそれを外部に向かって表現するときに「喜怒哀楽」のいずれかの形態をとることでしょう。「いえ、秘めたる感情というものもあります」であっても、発生した「感情」を外部に表出するかしないかの問題であって、「秘める」からといって「感情」がないわけではないでしょう。「秘めた方がいい」と判断したから(意識的無意識的を問わず)表出しないだけのことです。

ですから
>「感情」が邪魔をしている
のではなく「自己愛」が「快・不快」の基準で態度を決めているのだと思います。

>またはどういったものにどういう風に
 動かされているのでしょうか。
これは「ご質問の意図」がよくわからないので何ともお応えのしようがありません。「こころ」が「動かされている」のかという問いであれば、上述した範囲で回答としていただければいいのではないでしょうか。もう少し「質問の範囲」を狭めていただければ的外れでないお応えもできたかもしれません。

長々と書き連ねましたが、質問者さんの「聞きたかったこと」を応えられているか気になります。
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自我意識が強いからです。

自我が強いと、好き嫌いが激しくなります。また現代は脳を刺激する事が多いから、自我が強く成りやすいです。対策としては、自我の源である脳を休ませる、または自然の情緒で自我を中和して弱くする方法があります。仏教の座禅や伝統文化の茶道、書道、詩吟、などで脳を休ませると良いでしょう
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むかーし、進化の過程の、最初のほう、アメーバのころは、1が0かで判断していました。

近づいてプラスか、マイナスか。
その判断の積み重ねで、生きるか死ぬか。
エサをてに入れられるか、入れられないか。

人間も、生まれたての最初の段階では、そうです。
自分にとって、プラスかマイナスか。
食事を与えてくれる人か、そうでない人か。
いやなことを言う相手は、自分に好意をもっていない。
近付かない方がよいと判断して、嫌いになる。
いいこと言われると、自分に好意をもっている、近付こう、で、好きになる。

でもね、人間も成長してくると、イヤなことをいわれても、すきになることもあり、いいこと言われても、イヤになる・・・って、こともあります。苦いコーヒーを美味しいと感じるように。

ようするに、成長段階が浅いということです。
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