こんにちはー。えーと、長文になりますが、お許しください。一応今の考えです。どうおもわれますか?
赤ちゃんの気持ちを追いかけてみました。
赤ちゃんにとって、当初、お母さんは全く赤の他人、見知らぬ人です。その見知らぬ人を、赤ちゃんはお母さんと呼ぶほど好きになるからこそ、それはとても意味がある、とおもいます。そのギャップのすごさ、つまり全くの赤の他人と、同時にもっとも大事なお母さん、というこの2つが両立するところがすごいです。
親子が、最初から親子なら、それは、意味がない、というといいすぎでしょうか?
赤ちゃんにとって、お母さんはいつまでも赤の他人です。そして同時にもっとも大事な人です。他人であることを下敷きにして、最も好きな人になる、ということがすごいなーとおもいます。自立してるので安易な自他同一がありません。その赤ちゃんの、そしてお母さん内部の赤ちゃん人格の、自己外部を全面的に愛する能力に対してです。
これは、たとえば、孤児で育った人や、養子で育って、血縁関係もない、人種も違う人を、自分の母親だと紛れもなく言い切る人がいることからもわかるとおもいます。
つまり、それは、血縁関係ではありません。DNAを超越している、とおもいますし、血のつながりがある、というDNAに由来する感情とも違います。母性本能、という言葉もへんだと思います。血のつながり、という概念は依存心です。母子の愛情は血のつながりではありませんし。
母性本能というのは、想像ですが、お母さんの内面の、赤ちゃんの人格が引き出されるのだろう、とおもいます。お母さん内部の赤ちゃんの人格が、自分の蓄えた大人の知識と知恵を取り扱うときに、それを母性本能、と呼ぶのではないでしょうか?
それは、単純に愛だとおもいます。
なにがいいたいかというと、赤ちゃんは「自立してる」ということです。愛ある人は自立している、という意味です。
もちろんメンタルの意味です。大人から観察して未熟なのは当たり前ですが。僕自身赤ちゃんに感情移入して、その気持ちをなぞってみると、多分こうだなーとおもいます。このあたりは心理学とちょっとぼくは意見が違います。
赤ちゃんのエゴイズム、というのはもちろんわかりますが、それは、やはり、赤ちゃんの立場に立つのでなく、赤ちゃんを外部から心理学者が観察したからこその意見だとおもいます。間違いじゃないですが。赤の他人を母親とおもうほどの愛の強さ、愛が強いがゆえに、自分をがんがん自己主張することに対する平気さ。大人でなかなかこのレベルの人はいません。0.1%以下かしら。赤ちゃんと対等か、それを上回る大人は、知る限り、悟りを開いた人、神とともにある人など、きわめてわずかしか見つけられません。
言い換えると、大人が赤ちゃんを自立して扱わないから、赤ちゃんの自立は成長とともに崩れる、とおもいます。
それは、老人ホームで、年長者に対して、知らず知らず悪気無しに赤ちゃん言葉や子供言葉で、老人をあやすヘルパーさんみたいです。決して悪気はないのですが。それは、本気でお年寄りに感情移入せず、お年よりはこんなもの、という決め付けて現実をみないことから起こる、とおもいますが、赤ちゃんも同じだと思います。そして未熟者扱いされた赤ちゃんはわがままになります。これは赤ちゃんに限らず、大人でも老人でも人間なら同じです。これだけハイレベル・の赤ちゃんが、年齢とともにレベルが下がる理由は、周りの大人が未熟者扱いするからだ、というのもありますが、人格を認めてもらえない腹立たしさは経験があります。
赤ちゃん個人のメンタルとして考えると、赤ちゃんには自覚がない、ということが、覚者や神への真の信仰ある人との違いだとおもいます。この自覚のあるなしによって、自覚のない赤ちゃんは、レベルを下げることが普通ですが、悟りを開いた人は、レベルを下げません。精神レベルは同じでも、自覚ある悟りの人は、それがいいと知っているので、そこから出ません。
つまり、生後、大きくなる途中で獲得した矛盾や恐怖などによって分裂した自分を、自己同一、自他同一などのアイデンティファイによって元に戻し、取り込んでいた自分を、自己の対象化として、自分本体から切り離す、それによって自覚的に再びもとの自分に戻す、というのが大人のすることかなとおもいます。
赤ちゃんは、自分のことを赤ちゃんとは決して思っていないし、未熟とも考えていません。一方、大人は、あれは大人だ赤ちゃんだ、と考えてます。全然人格みてません。ぼくもですが。一人の人という自覚のもとに、赤ちゃんにも老人にも接する人は少ないとおもいます。その意味でも、大人は赤ちゃん以下の人が多い、と感じます。キリストが、赤子のようでないと、天国の門はくぐれない、とはこういう理由かなと想像します。た、足りない~

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A 回答 (2件)

難しい。

。。

赤ちゃんも人格があるから

尊重しようってことかな。。。
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この回答へのお礼

あ、よかった、返事もらえた、うれしいですー。

そ、そうですねーー。ぼくは、「普通の人」や、常識、みたいなのが大好きで、
普通や常識の、うそ、を見るんでなくて、
普通ってなにかな? 現実ってなにかな? と、かなり、尊敬と少しのコンプレックスの混じった目で、普通や、「なんでもない」、ということを分析してます。
宗教や哲学や心理学の力も借りてですが。
それで考えてたら、そうですねーー、赤ちゃんも尊敬しよう、ってことになったんでしょうか・・・。
別に諸手を挙げて尊敬とか変なこというのでなく、
事実は事実、現実は現実、人格として尊敬しながらも、やっぱり未熟でなにもできない赤ちゃん、その両立、というスタンスが、「理屈上」は、正しいんでないかなー?と思いました。
自分でやるには、それは・・まあそれは棚に置いてのことで、ほんとのお母さんが怒らないか不安ですが。

お礼日時:2009/05/29 20:07

刷り込みです。


http://ja.wikipedia.org/wiki/刷り込み
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この回答へのお礼

こんにちは。
回答ありがとうございます。
まさにいわれるとおりです。

その刷り込みが、上記のような重大な意味を持っている、と、僕は考えていますが、いかがでしょうか?

刷り込みという把握は正しいのですが、この事実のたくさんあるたった一つの側面ー生物学的な客観視、というとても一面的な見方だ、と思ってます。
それは刷り込みでありながら、同時に愛でもある。同時に悟りでもある、という多面的な、各分野の連携が、必要じゃないか?と思うんです。
言い換えると、科学者は、刷り込みを、把握できるからと行ってあまりに簡単に考えすぎてますし、
逆に言うと、愛と刷り込みの、2つの認識にギャップがあることこそ、大問題ではないでしょうか?
この2つの現実が、違う単語で表現されている、同じものを違う表現でしか捉えることができていない、その捉える人の方の、僕やtanuki4uさんの人格の分裂こそが問題ではないか? と言うふうに考えるのですが、どうでしょうか?

刷り込みだ、というのは、「赤ちゃんは未熟だ」という外部からの客観視の視点そのものだと思います。
刷り込みを起こしている鳥の気持ちになられたことはあるでしょうか?それをすれば、有意義な情報が得られる、と思って、僕はやっています。
またご意見お待ちしています。

ありがとうございました。

お礼日時:2009/05/29 17:42

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赤ちゃんの名前について


来月出産を控えています。
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 來久(ライク) ってどうでしょうか?

響きと、みんなから好かれる子になってほしいという、両親の願いをこめての名前です。
皆様のご意見聞かせてください。

Aベストアンサー

あまりお勧めはできません。
赤ちゃん~小学校入学~思春期~社会人~更年期~老人~位牌
の一生の中で、ずっとその名前を名乗ることを考えてあげた方が良いと思います。
特に思春期に、もし名前とその子の雰囲気が全く合っていなければ、つらい思いをするのでは…と心配してしまいますが。
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Q【宗教】親鸞は修行の末に人生はありのままで良いという悟りに行き着いたという。 親鸞は悟り後はありの

【宗教】親鸞は修行の末に人生はありのままで良いという悟りに行き着いたという。

親鸞は悟り後はありのままに自分のしたいように生きて亡くなった。

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女の子の赤ちゃんを来月に出産予定です。名前は”蒼由菜”で、読みは”あゆな”です。名前の響き及び”蒼”という漢字が好きで今回決めようとおもいますが、一般的に"あゆな"と読めますでしょうか少し心配しております。最近ではいろいろな当字の名前がありますが大丈夫でしょうか・・?

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あゆなちゃん。本当に可愛らしい響きですね(^^)

パソコンの小さい字だと「蒼」が「若」「茉」に見えて少し迷いましたが…なんとか「あゆな」と読めました。
最近は「愛→あ」「夏→な」など、一文字目の読み方のみ使っているお名前のお子さんが多いので、そこから推測して…という感じですね。

娘の保育園に「蒼衣(あおい)ちゃん」がいるので、個人的にはそんなに「男の子限定の漢字」というイメージはないですね。
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ちなみに蒼衣ちゃんは、凛とした強い女性・ナウシカをイメージしたそうです(笑)。青い衣ということで。
ただ、今時の名前に慣れていない上の世代の方だと読みづらい・「鬱蒼」などのイメージを持たれるかもしれませんから、ご両親に相談されるのもいいかもしれませんね。

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あゆなちゃん。本当に可愛らしい響きですね(^^)

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まあこういう文字に対する感覚は人それぞれですから、小生の考えを否定していただいても結構ですが。

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Q無の悟りとは、そもそも無を捨てることだ。

私は実在する仮面ライダー「黒き明星」だ。
初の男子プリキュアでもある。
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無を捨ててこそ無を悟れる。
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よろしい。
私が教えてあげよう。
無である事こそ人間の全てだと教えられ、無に至る事こそ信仰だと教えられ、そして無を望む。
これだけだと、望みではないのだよ。
誰かから聞いた事を自らの望みだと解釈しているだけだ。
この場合、自らが無の結論に至り、無を望む、自分自身の願いではない。
誰か他者が望んだ事を、自分も望むと言う事は、それ自体が欲望だ。
たぶんうらやましいんだろうよ。
心当たりはないかい?
無の悟りは何か知らないと言う事なら、無の悟りを理解していないのだよ。
そして来世に期待しないかい。
それだけなら無の教えは聞き流しただけで、無を望んでいないのだよ。

今日はここら辺でやめとこう。
研究のために、正義を名乗る悪の勇者を募集しています。

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無を捨てることを捨てる。

これは流れに身を任せるといったところでしょう。

要するに「執着を捨てる」ことそのものを捨てるってことですね。

言葉であえて説明するなら、「執着を捨てたオレエライ」ってだけでは、
結局、「執着を捨てられた自分」や無に執着していることになる。

だから、自然体でいよう。

執着してるなら、それを無理にはがさず、受け入れる。

してないなら、してないで受け入れる。

価値を置かない、評価をしない。

そんなところでしょうか。

ちなみにあなたのおっしゃるような宗教がらみの「執着を捨てろ」はニセモノです。

だって、教祖が儲かってる。(笑)

教祖が儲かるために「執着捨てろ」って言ってるんです。

これは哲学的な要素は一切なく、単なる詐欺師の物言いということになる。

Q赤ちゃんの名前  心依   ちゃん。 どう読みますか?

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友人が中国人男性と結婚し、今年の冬に赤ちゃんが生まれてくることになりました。赤ちゃんの名前をつけるために悩んでいるのですが、中国と日本両国で通じる名前をつけたいとのこと。中国語の名前(ご主人の提案)は、「心依」ちゃん、由来は「心心相依」という中国の四字熟語で、意味は「国境を越えて、家族の心と心が寄り添う」。二人とも漢字は気に入っているのですが、日本語でも通じる読み方が思い浮かびません。今まで考えた読み方は「しんい」「ここい」です。日本語でも不自然にならない読み方の提案を希望しています。あなたなら、この名前をどう読みますか?

Aベストアンサー

中国読みではシンイーですよね。
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Q自己実現系領域の哲学・悟り 気付き・スピリチュアルに通じる方 経験者の方、 『宇宙の法則・( ✖️

自己実現系領域の哲学・悟り 気付き・スピリチュアルに通じる方 経験者の方、
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①『継続力』②『行動力 』③『 信頼感 』④『決断力 』について いずれか説明してください。

持論、思想、お持ちの方 、なぜ そうなのかという理由を添えながら 、 説明をよろしくお願い致します。

※ それらの 達成後のメリット、それを出来る様にする為の方法(身に付けるまでの方法・過程・順番)も混ぜて 説明してくださると 尚 有難いです。

Aベストアンサー

物質に「目的」はない。
しかし、その「無目的=エントロピー増大」は淘汰となり、二次的に進化を導くのだ。
「いや違う!」と主張する事は可能ですが、厳しい生存競争の中で、生き残るために努力しない個体の遺伝子が次世代に伝わり、種の形質となる事はなく、進化は常に、「生きる事」を目的とするよう導く。
(あなたが死にたいと思っても、死ねばそのような形質は遺伝せず、やはり全体は「生きよう」とする)

一方、どのような行動も、本質的には任意=意志の充足であり、「意志の充足じゃない」というのも一つの意志として、精神的充足の追及という方向性から逃れられない。
生きる事の本質的目的は、人生を通算した充足量の最大化(生理的拡大×欲求の強さ×それを「人生通算での最大」にコントロールする認識力×その達成度×それを把握する認識力)に収束するのだ。

「精神的充足感のため」というのは、刹那的な快楽主義に帰結するのではなく、最大限の大きな目的、最大限の愛と、最大限の認識を兼ね備えたものになるのです(短絡的な快感の帰結は麻薬だが、それが最大充足でないのはご存知の通り)。
であるならば、人が生きるのは、物質的豊かさのためではなく、精神的充足感のためであり、人が働くのは、お金をもらうためではなく助け合いのためであり、その自律的社会行動(精神的充足)としての愛のためなのだ。

しかし今、そうした「他人を助ける」=愛のために働いている人が、どれほどいるだろう?
人がとらわれているのは、“お金(や、その源泉としての出世)”という虚構の価値であって。
原始共産制の助け合いから、組織が分業化&拡大する上で、人の意識の社会性を発達させずに、お金や出世他律的に社会行動の道をとったのだ。
お金は、本来助け合うために集まったはずの社会において、自己チュー的な意識のまま社会行動をとらせるための“矯正具”として発達したものなので(社会生命として生きる事である労働(助け合い)を、お金をもらうために嫌々働く)、当然、自由意志を束縛する機能がある。
本来、社会的生命として助け合うために集まっている人々をして、弱肉強食の擬似ジャングルに変える、悪魔のツールなのだ。
要するに今の人は、自ら喜び(自己存在の本質に根ざした生)に目をそむけ、他律的生=「苦痛から逃げる事による生」に堕しているのです。
(「助け合う喜び」から「奪い合って勝つ喜び(幻想)」への変質)

人類は本来の、認識力の発達により環境に即応して行動を変化させる事で、自然淘汰による遺伝的な変化という速度の遅い方式によらず、環境への適応や多様化による分業を可能にする事で繁栄した。
こうした認識の発達による後天的な適応&組織化という「ヒト型進化」だけが進化の方向性ではないのは、同じく自然界に繁栄しているアリ、ハチなど遺伝的な先天的な形態の多様化&条件反射行動の複雑化&による組織化を可能にしている「アリ型進化」によって明らかだ。

ところが先述のように、近代の工業化による大量生産の市場の拡大&分業化において、その個々の生命性の社会的拡張を認識させる労を惜しんで、他律的に社会性のコースを走らせる方式をとったため、社会生命にとって生きる事そのもの(根源的充足)である労働を「お金をもらうためにイヤイヤ働く」ものにしてしまったのだ。
これはつまり、認識力の発達に基づく「ヒト型進化」の総本山である人類でありながら、歯車人間に堕してしまう「アリ型進化」への分岐に入ったという事なのだ。

もし、このまま「アリ型進化」をとるならば、無意識=肉体的増殖指向=生産量の最大化として、生命本来の“生きる意志”はルールやモラル、常識や組織といった社会的なシステム進化の上に転嫁され、インターネットは歯車を使うための情報収集&命令系統となって、人は他律的に操られる歯車として、中枢コンピュータで処理された物質的な最大生産性に向けてコントロールされる機械群の一部のパーツとなる。
(その果てに人は非効率な機械として淘汰される)

もし「分岐」を元に戻って「ヒト型進化」に復帰するならば、意識=精神的充足指向=充足量の最大化として、精神的活性化の乏しい単純労働から機械化し、人は達成感を感じる情報統合的な頭脳労働&創造的作業に集約し、インターネットによって需給をつなぐ物質(=お金)を再び助け合いとしての情報に還元し、それにより社会生命的自覚(他我愛)を促して自律的社会行動=助け合いとしての労働=生きること自体による充足=最大充足を可能にする。
(その果てに喜びを感じる巨大な脳とメカシステムになる)

もしあなたが、「生きる目的は人生を通算した精神的充足量の最大化だ」と思うならば、現代社会に蔓延する拝金主義、経済的に満足なら政治には興味ないという親方日の丸主義などを排し、助け合っている事を実感できる社会、それを認識できる意識を育てるべきなのだ。

物質に「目的」はない。
しかし、その「無目的=エントロピー増大」は淘汰となり、二次的に進化を導くのだ。
「いや違う!」と主張する事は可能ですが、厳しい生存競争の中で、生き残るために努力しない個体の遺伝子が次世代に伝わり、種の形質となる事はなく、進化は常に、「生きる事」を目的とするよう導く。
(あなたが死にたいと思っても、死ねばそのような形質は遺伝せず、やはり全体は「生きよう」とする)

一方、どのような行動も、本質的には任意=意志の充足であり、「意志の充足じゃない」というの...続きを読む

Q赤ちゃんの名前

来年姉に男の子の赤ちゃんが生まれます^^
義兄が米人なので、日本でもアメリカでも通用する名前を探しているのですが、
なかなかいい名前が思いつきません(^^;
例えば「ジョー(穣)」とか…。
いい名前があったらアドバイスください☆
待ってますm(__)m

Aベストアンサー

健(ケン)・亮(リョウ)翔(ショウ)とかはいかがでしょうか?
もしよろしければ上の名前を基本に下記サイトで参考になるような名前をつけてみてはいかがでしょうか?

参考URL:http://www.emusu.net/seimei/

Q赤ちゃんと大人と動物

こんにちはー。前回の続きみたいですが。
観察の結果なんですが、
赤ちゃんは何も考えてないし、自然のままに生きています。それは大人の悟りを開いた人と同レベルとおもいます。
赤ちゃんは無我夢中で生きています、常に全力投球です。でも大人で無我夢中になる人や、その時間ときたら、驚くほど短いです。全然無我夢中にならない人も多いです(ぼくのことです)自然のままに生きる=全力投球、という意味では、赤ちゃんは動物や覚者や信仰ある人と同レベルです。つまり、動物もレベル高いなーとぼくは感じます。
動物に癒されるのは、動物のほうが、上の意味で大人よりレベルが高いからです。ぼくが親戚の赤ちゃんに癒されるのも同じですねー。
ただ動物も赤ちゃんと同じで自覚がありません。つまり、良くないほうに流されるときに、自分でとめるということを知らない、という意味です。
赤ちゃんの自立が崩れるのは、愛されないことと人格を尊重されないことですが、それぞれ、女性性の不足と、男性性の不足、という風に対応している、と、これは、まだ想像ですが。赤ちゃんは自立している、というのと同じ意味で、赤ちゃんは完全性、「無」、赤ちゃんには感情がないし自分もない、とおもいます。(無我夢中の人は感情を感じる暇も自分を感じる暇もないことは経験上わかってもらえるでしょうか?、全力最高の集中をしているので、そんなものは入る余地がないのです)。
幸福が満ちているときは、感情も何も入れません。だからこその、赤ちゃん=天使、ではないでしょうか?なんか赤ちゃん赤ちゃんと馬鹿みたいですが、僕の考える指針になっているので。
大多数の大人は、赤ちゃんや動物よりレベルが低いですが、一部の人は、赤ちゃんや動物と同レベル、あるいはそれ以上だ、と感じます。それは、人間だけが、生命の中で非常に強い自由度を与えられているからだ、とおもいます。
それは、大脳の発達によって、感じたり考えたり、という自由を獲得した人間だけに許される自由度の大きさ、変化の度合いの大きさではないかと。つまり、人間は、赤ちゃん動物以下ーーいわゆる鬼畜、にもなれますし、赤ちゃん動物以上ーー悟りや神との共存、にもなりえます。この幅の広さは、まさに大脳の発達した人間だけに許されたものだなーとおもいませんか?
言い換えると、選択と認識が生むアイデンティティーの獲得が、やはり、動物にも赤ちゃんにもない、人だけが持つあるいは人間の大人だけが持つ唯一の特権じゃないかなとおもいます。つまり、成長の途中で獲得する、人格の分裂(本音と建前理想と現実など)を、自己同一化&自他同一化=客観視によって、自分の内面としてあるものから、観察対象として自分本体から切り離し、自分のものではないとする、人格への依存を自分から切り出して放棄する。そうしようと選択をする決意する。それによって、自己の人格と対応する世界を完全なものに変える。これらは、抽象的レベルでは、厳密ではないですが、赤ちゃんや動物の高いレベルに戻る、という言い方もできるとおもいます。キリストが言う、赤ちゃんのようでないと天国の門はくぐれない、あるいは、父母未生以前の本来の面目、というのはこちらの流れだとおもいます。ただ上に言ったように、赤ちゃんは完璧ではありません。自覚がない、という点においてです。神とともにいても、その自覚はありません。自覚がないので、いくら素敵なところにいてもそこからふらふら出て行ってしまう。赤ちゃんはアダムとイブです。
言い換えると、赤ちゃんは、未熟であり、同時に完成されている、という2重の性質を持ちます。大人は自覚により2次的な作り出した人格を対象化することによって、この世で生きる人格を生きるための道具として、新たに取り扱うことができるようになる、という過程は、ほかの動物にも赤ちゃんにもできるとは、とても思えません。これは自由と選択と自覚を許された人間だけが可能な、内面的作業だ、と感じるのですが、どうおもわれますか?
だからこそ、赤ちゃんは天使ですが、悟りを開いた人や神を信じる人は、目覚めた人なんだ、とおもいます。ただの(?)天使の人と、天使のアイデンティティーを持つ人の違いです。赤ちゃんには生死がないですが、悟った人は、生死がないことを「知っています。」たぶん。
言い換えると、人はみな赤ちゃんとして愛を胸の中に持って生まれてきますが、生きてる間に、その愛を外部全体に対して告白して死ぬかどうかは、人しだいだなーとおもいます。つまり、赤ちゃんとお母さんを比べてみると、赤ちゃんは世界全体に対して愛を告白してますが、お母さんは残念ながら赤ちゃんに対してのみです。この違いは、赤ちゃんの自立が崩れる理由の一つです。お母さんだけじゃなく赤ちゃんに接するすべての人ですが。想像ですが。よろしくお願いします。

こんにちはー。前回の続きみたいですが。
観察の結果なんですが、
赤ちゃんは何も考えてないし、自然のままに生きています。それは大人の悟りを開いた人と同レベルとおもいます。
赤ちゃんは無我夢中で生きています、常に全力投球です。でも大人で無我夢中になる人や、その時間ときたら、驚くほど短いです。全然無我夢中にならない人も多いです(ぼくのことです)自然のままに生きる=全力投球、という意味では、赤ちゃんは動物や覚者や信仰ある人と同レベルです。つまり、動物もレベル高いなーとぼくは感じます...続きを読む

Aベストアンサー

うーん

イエスの話の一見は、確かにアイデンティティーに関することだとは思いますが、、、

聖書で他の箇所でなら、ペトロの異言の一件。
ユダヤ人はディアスポラしてローマ帝国各地に住んでいた。
異言でペトロが言った都市はローマ帝国の領土なわけですが、そこには無数のユダヤ人が住んでいた。

各地からエルサレムの教会にユダヤ人が集まってきたわけです。
みんな言葉が違うわけです。
ユデア以外の地域に生まれ育ったユダヤ人ですから。
ところが言葉は違うが、ペトロと同一の神を信仰していた。
皆祈る言葉は違えど、同一の神への祈りを捧げていたとペトロは知り、神のすごさに改めて驚いたわけです。

言葉は違えど自分と同じ神を信仰している。アイデンティティーは同じであるってことですね。
散らばされても神の元に戻ってくる。
どうしてか。本質がそうだから。自然のふるまいでそうなる。


大人が会堂に集まっているとき、子供たちは無邪気に神を求めた。
弟子は子供たちが騒いでいると思ったが、実は無邪気に本質通り自然の行為として、子供たちは神を求めた。

理屈ぬき、損得抜きで、神を求める行為を邪魔しちゃダメだってことですね。
自分たちは神が選んだ民であり、どんなに散らされようと、神の元に戻るって信念というか、自然のふるまいをやっているってことじゃないかと。

うらやましい限りです。
確信みたいなもので、自然のふるまいでそうしてしまうのだから。

オイデプスの悲劇でも、オイデプスはびっこだが、母親とつながっているからびっこになっている。
糸の切れた凧じゃなくて、母体につながったまま、母の国を離れており、つながっているので、びっこになっているってわけです。

で、結局 母親の国に戻る宿命だったので、それを阻害する父親を殺して、母と交わり融合した ってストーリー。

宿命だったってことですね。
ユダヤ人も神の元に戻る宿命を帯びているとして、世界各地にシオニズム運動がある。

パウロのせいで、ユデアに住んでいたユダヤ人はユデアから追い出されたわけですが、パウロに散らされても、また戻る宿命だったってことで、20世紀に国ができたのですが、既に他の民族が住んでいて、「今更2000年前の土地所有者だと主張されても、、、神が与えた、私らの土地もその神が与えてくださったからこうやって長年住んでいたわけで、、、」って感じかも。


で、これはユダヤ人がユデアに戻るのは自然の振る舞いなのかどうかは、よくわかりません。

子供たちが「神様だぁ」と無邪気に遊んでいたのは、彼らが本当に神を求めていたからなのか、遊びの一種としてやっていたのか、私にはわかりません。


質問内容を読んでいて、何を質問しているのか よくわからないのですが、恐らくそれってエリクソンの研究を読めば、また考えも変るのかもと思いました。

エリクソンは子供たちを観察して、人間には発達段階があるとしたんです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%82%AF%E3%83%BBH%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%82%AF%E3%82%BD%E3%83%B3

獲得の成功で信頼、失敗で不信 など分けていった。

うーんと これなんかいいかな
   ↓
http://pii-desu.hp.infoseek.co.jp/erikuson.htm

これで終わりじゃなく、さらなるステージがある可能性があると言っている。

オイデプスコンプレックスは心理学では、そのサイトのような感じで使われますが、哲学だと、上に書いたような解釈にもなりえる。


で、私は哲学的な解釈の方が納得がいく。

例えば、男だけど人形とかピラピラしたハンカチとか好きだとする。
親は男らしい男の子に育って欲しいと思っていると知っていれば、自分の本質を押し殺して、好きでも無い男もののシャツとか着るしかないわけです。
でも、本当はピラピラしたスカート着たいし、化粧したいし、神はグルグルにしたい。
で、カミングアウトをついにしたら、親から絶縁宣言。
でも、もう親の愛を望まず保護をされなくても生きていけるので、本来の私に戻れるわけです。自分らしさを取り戻したわけです。
「わかってくれとは言わない が これが本来の僕だ。このありのままの僕を親が愛せないのなら、それは親の意志で尊重する。自分も自分の意志を尊重されたいように、親の受け入れられないという気持ちも尊重する」なわけです。


で、これだけじゃない、別の人の例。

例えば私が望む私 と 親が望む私 ってある。
他にも教師が望む私、近所のおばちゃんが望む私 など いくつも私があるわけです。

で、あまりにも他者が望む私を実現した場合、それが自分の望む私なら問題ないわけですが、自分が望まない私の場合で、心にも無い他者が望む発言をするわけです。

ずーーっと演じているうち、どっちが本来の私の考えなのかわからなくなる。
私の本質からくるものではなく、他者が私に望んだ私を演じるという分裂をしたせいで、のちのち、混乱することになる。


どれが自分かわからない、 IlostIなわけです。(本来はI lost meが文法的に正しいのですが、故意に変えました。)

で、<I>は自分で、<me>は他者が望む私。

例えば、学校から帰って、すぐテレビを見たいとする。
先週じらした終わり方をしたあの漫画 続きが見たい。
でも、お母さんは学校から帰ったら勉強をして欲しいと昨日言っていた。
おかあさんのガミガミを止めるために同意してしまっていた・・・。

で、どうするか。
両方実現させる。
Iは今すぐテレビを見たい。
Meは勉強をする。
統合するには、「おかあさん テレビ6時まで見て、その頃夕食できていると思うから、食べて風呂に入ってから8時には勉強を始める。じゃないと、勉強の途中で夕食になり、集中力が中断しちゃうから」と言う。

お母さんが望む私(me)と、自分が望む行為をする私(I)の欲望を同時に満たした新しい(I)ができあがる。

これは人間が発達するから可能になる。

とまあ 最近の研究では こうなっとります。


本来の自分の姿に戻らず、新しい<自分も他人も満足する新たな私>になる。

<ガフの部屋が開く。世界の始まりと終局の扉がついに開いてしまうか>


あ、またしても新世紀エヴァンゲリオンだ。笑
やっぱりあのアニメ 実に哲学的だ。

うーん

イエスの話の一見は、確かにアイデンティティーに関することだとは思いますが、、、

聖書で他の箇所でなら、ペトロの異言の一件。
ユダヤ人はディアスポラしてローマ帝国各地に住んでいた。
異言でペトロが言った都市はローマ帝国の領土なわけですが、そこには無数のユダヤ人が住んでいた。

各地からエルサレムの教会にユダヤ人が集まってきたわけです。
みんな言葉が違うわけです。
ユデア以外の地域に生まれ育ったユダヤ人ですから。
ところが言葉は違うが、ペトロと同一の神を信仰してい...続きを読む


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