冬の風邪予防は「鼻○○○」が新常識!?>>

織田信長は降伏または和議を今川義元と結び、これを一方的に破棄し奇襲した、という妄想はありえませんか?

どなたか教えて下さい。

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (11件中1~10件)

No6です。



私は、桶狭間の合戦については、

「桶狭間・信長の「奇襲神話」は嘘だった」新書y 藤本正行/著 洋泉社
http://www.7andy.jp/books/detail/-/accd/32172847

の分析がもっとも的確であると考えております。

1) 桶狭間の合戦についての根本史料が、太田牛一の「信長公記」のみといえる状況であり、かつ「信長公記」の記載は様々な理由から事実または事実の一部を記載していると認められる。

例:信長は、今川軍大部隊が尾張に侵入し、今川方の大高城に対して織田家が設置した付け城の丸根砦、鷲津砦が、桶狭間の合戦当日の夜明けから今川軍の攻撃を受けていると聞いてから清州城を出陣している。
信長が、自軍が維持している中嶋砦に到達した時には、丸根砦、鷲津砦は既に陥落していた。両砦を攻撃した今川軍部隊は砦に入り、今川軍の他の部隊が中嶋砦に相対していた。
信長は「今、目の前にいる今川軍は、丸根砦、鷲津砦を早朝から攻撃した部隊であり疲労している。恐れるに足りない」と麾下の部隊 (2千に足りないと信長公記に記載) に言って志気を鼓舞したと信長公記に書いてある。
これは、後知恵で見れば「信長の誤解」であるのだが、この時点で信長は「目の前にいるのが、丸根砦、鷲津砦を攻撃したのとは違う新手の今川軍部隊である」ことを知る由もない。上記の信長の「志気鼓舞の演説」は事実そのままと考えられ、信長公記の記述の確かさを裏づける。

2) 信長公記以外の、例えば今川方の生き残りが敗北の過程を記した手紙が発見されるなどの「新史料の発見」がない限り、藤本氏の分析を覆すのは難しいと思われる。

詳しくは、上記の本をお読み下さい。

今川軍の出兵意図ですが

「尾張に食い込んだ今川家の拠点である鳴海城・大高城に対して織田家が築いた付城を攻略し、両城の守備を確実とし、付近の織田方の城をいくつか攻略することで尾張の今川領を確固たるものにする」

「鳴海城や大高城の西側にある知多半島の緒川城、三河西端の刈谷城を領する水野信元は織田側についていた。鳴海城・大高城の守備体勢が整い、この地域が確固たる今川領になれば、清州方面の織田家と切り離されてしまう。水野信元を今川家に寝返らせれば、尾張における今川家の勢力は大きく伸張し、同時に織田家にとっては大きなダメージとなる」

といったことが想定されます。清州城を攻略して織田家を滅ぼす所までは考えていなかったと思われます。

これに対して、信長は、「ヒットエンドラン方式で、今川家の各部隊を個別に攻撃して鋭鋒を鈍らせよう」と考えて清州城を出撃したと思われます。俗書に書いてある「梁田政綱の諜報活動」は史実とは認められません。「早朝から砦を攻撃して疲れた今川軍」を攻撃したはずが、その部隊があっけなく崩れ、その向こうにいた今川家の本陣 (まさか信長軍がここで攻撃してくるとは予想していない) を攻撃する結果になり、結果として義元の首を取ったわけですが、信長は「まさかこんなことになるとは」とさぞ驚いたことでしょう。

明らかに優勢であった今川義元が、思いもかけない経過で織田信長に討たれる結果となった桶狭間の合戦は、大東亜戦争におけるミッドウェー海戦と類似点が多いと考えます。

1) 日本海軍も今川軍も、敵の主力(米海軍機動部隊、織田軍主力)が出て来ることをあまり考えていなかった。
2) 日本海軍も今川軍も、敵より大きな兵力を持ちながら、その兵力を分散していた。
3) 勝敗は、桶狭間の合戦では「今川軍の本陣が破られ、総大将の義元が討ち取られた」、ミッドウェー海戦では「機動部隊の四隻の空母が米軍の急降下爆撃機の攻撃で炎上し、次々に沈んだ」ことでついてしまい、戦闘開始前は圧倒的に優勢だった今川軍、日本海軍は撤退を余儀なくされた。

桶狭間とミッドウェーでは、時代も戦いの規模も戦い方も全く違うのですが、「戦理」というのは時代を超えて変わらないものなのだなあと感じます。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました!!!!

やはり、上洛が目的というのは現実的ではないのでしょうね。

>大東亜戦争におけるミッドウェー海戦と類似点が

興味深く読ませていただきました。

>信長は「まさかこんなことになるとは」とさぞ驚

米海軍機動部隊は、どうだったんでしょうか?計算どうりだったんでしょうか。

お礼日時:2009/06/17 20:03

加藤廣さんの小説も全くその通りの線で書かれていますね。


そもそも当時の移動に関しては、占領を意図した軍全体では難しくても、小単位での移動は比較的可能であったと思われます。
義輝将軍時代には、信長に限らず上杉謙信なども上京した史実がありますし、上級家臣・貴族レベルでの移動は数限りなく、今川義元の周辺にはその参謀を含め沢山の京育ちが存在しました。
戦国後期になって新しい遣り方が台頭してくる中、過去の常識に囚われていた人も多かったので、信長が通過を黙認する事で合意が行なわれ、合意に反して義元を殺した後で復讐のため出城が落とされた、と言う話でも公記が作られたものであれば、ありえない話ではありません。
そう思っている訳ではありませんが、記述された事が真実とは限らないとすれば、途中経過については何でも在りえると言う事です。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

>そもそも当時の移動に関しては、占領

そうなんですか!なるほど~。



桶狭間の戦いというのは、人を引き付ける魅力があるんですね。皆さんのご回答を拝見しまして、たいへん勉強になりました。

ありがとうございました!!!

お礼日時:2009/06/17 20:33

NO,4


藤本氏の( 信長の戦争 )という著書のなかに ありませんでしたか
勘違いなら お詫びします 一度お読みになってください 
桶狭間戦は 特に研究家が多く読み物や小説多くあります
ミッドウエーと類似するといわれる方もけっこうおられますね
全然似ていなとおもうんですけどね(笑い)
それから質問者さんへ
水野氏史研究会というサイトを訪ねてみてください
水野家を専門に研究されておられる方々です
非常におもしろいですよ
 
西三河に限らず 土地の所有はいまとよく似ている点があります
金で売買される加地子といわれるものですが
この権利関係が複雑に入り組んでおりまして この面で見ると国境なんて線さえ引けない そんな裏面とか
水運の世界の今川派と信長派 つまり大雑把に統制経済か自由経済か
東三河の田原の水運業者は家康が竹千代のころ 今川に人質として送られるときに ぶんどりって織田方に売り飛ばしています 金ほしさではなくてね  今川の勢力範囲の中でですよ 当然 このあたりの頭目 地侍はあとで やられちゃいましたがね でも支配下の水運勢力の突き上げで断れなかったような事情もあったようです ここで今川に敵するのはどうみてもヤバイはずなんですけどね
渥美半島の田原 知多半島の水野 熱田 伊勢 水運は水運としてのつながりのなかでそれぞれの桶狭間があったことを思えば 
興味がつきませんね
勝った 負けた 武勇 だけじゃない スカタン
アホウ もたくさん埋もれています あなたのいう妄想は歴史に最適でしょう だれも何もはっきりとしたことはしりえないのですから(大笑い) 
    • good
    • 0

「藤本正行氏によりますと、桶狭間合戦とミッドウェー海戦には驚くべき類似性があると主張されていますね」



藤本正行氏の著書には「ミッドウェー海戦」のミの字も出てきません。
信長公記の記載による桶狭間の戦いの様子と、史実のミッドウェー海戦の様子に類似点を見出したのは藤本氏ではなく私 buchi-dog ですので誤解されないよう願います。
藤本正行氏の著書は簡単に手に入りますので、ちゃんと読んでから批評してください。

また、今川義元が実際問題として何を目的に尾張に出兵したのかは、彼が尾張出兵の最中に討死してしまい、今川軍関係者の証言などが何も残っていない以上は推定するしかありません。

「今川義元が「相対的に価値は低いが明確な第一目標」として、付け城の排除を目的としてもっていたということ」

実際に、尾張出兵の最初の段階で大高城に対する付け城の鷲津砦、丸根砦を排除しています。この史実から「第一目標は付け城排除」であったと導けるでしょう。史実に立脚すれば、当然に行き着く帰結です。

「今川義元が「価値こそ高いが不明確な第二目標」として、信長主力の補足撃破を目的にしていたという史実があること」

残念ながら、今川義元の霊を呼んで語って貰わないと「証明」できませんね。それとも、義元が尾張出兵の意図を記した新史料でもお持ちですか?(笑)
    • good
    • 0

NO,4再度です


NO,6の方のミッドウェー論ですが 藤本正行氏の二重目標説ですね
その説が成り立つには以下のことを証明しなければなりません
今川義元が「価値こそ高いが不明確な第二目標」として、信長主力の補足撃破を目的にしていたという史実があること。
今川義元が「相対的に価値は低いが明確な第一目標」として、付け城の排除を目的としてもっていたということ。
ミッドウエー海戦時の日本海軍当事者が矛盾する目標をもっていたということ。
そもそも「相対的に価値は低いが明確な第一目標と価値こそ高いが不明確な第二目標」を持っていると失敗を招くのは、どういう場合か。つまり、そんなに悪いことなのか、ということ。

藤本正行氏によりますと、桶狭間合戦とミッドウェー海戦には驚くべき類似性があると主張されていますね そして、それが信長が桶狭間で勝利し義元が首を失った主たる理由であるといっています ここが藤本氏のまちがいだとおもいますね 基本戦略はミッドウェー島を攻撃することを餌にして、アメリカ機動部隊を待ち伏せるのが本来の作戦だったはず
『信長公記』を読むと、今川方は信長の後詰を封じているのです。完璧に第一優先順位としての手順を踏んでいます。決して、付城攻囲を餌にして信長主力を釣上げようとしているのではない それも御丁寧に信長の後詰方向を中島砦方面からの一ヶ所にしかならないようにしておいて、義元自らは田んぼの中の一本道を後詰に来る信長に対して、漆山に本陣を置いてこれを妨げようとしていたのです。ですから藤本氏のいう2砦排除が相対的に価値が低い目標だなどと言えますかね
義元はきちんと手順を尽しています。信長の補足撃滅が第一の目的ならば、信長を後詰に誘致することに知恵を絞るはずではないのでしょうか。そして、鷲津砦などは絶好の囮にできたはずです。それなのに、それを攻め落としてしまっているのです。駿河勢は信長主力の後詰を受けないように、満潮時を狙って攻撃を計画しているのです。大軍であるはずの今川勢がです、鷲津・丸根を囮にして後詰に出てくるだろう信長を撃てばよかったのですが、それをするどころか、信長が後詰できないように伊勢湾の満潮時を狙って攻撃をしているのです。義元は信長勢の出現を恐れているとしかおもえません。わざわざ満潮時に攻撃を企画して、信長主力との決戦を回避していたとしかおもえませんよ。義元は信長が確実に後詰するだろうことを「明確に予想」していたはずです。ですから、アメリカ航空艦隊が現れるか否か判らなかったミッドウェーの南雲艦隊の場合とは違います。ただ、どういうわけか、その信長は遅れて現れた。信長の主力が目的ならば、付け城を餌にして誘い出して決戦することは、十分に実現可能な作戦だったのです。そして、それを織田方も承知していたのですから、これをもって、信長を米軍航空艦隊と同じとすることはできません。なにしろ、通説では義元には自らが率いる本隊が予備兵力として沓掛城にあるわけですから。つまり、義元にとって、信長主力は価値の高い第一目標でも、不明確な第一目標でもなかったということでしょう
それから陸戦と海戦の違いですが、近代海戦では大海原で敵艦隊に遭遇するのは至難の業でしょう。しかし、陸戦では違います。日本の場合は行軍できる道自体が少ないのです。それに大軍を展開して戦場にできる場所も限られているのです。とにかく日本の国土は利用可能な地域は限られているのです。それに戦国時代には国土のいたるところに城砦が乱立していたのです。もしかすると村落ごとに砦があったかもしれません。しかし、大軍を集結させられる場所は限られています。戦略要地にしろ戦術要地にしろ、敵も味方も考えることは同じなのです。敵に見落してもらうことは、そうそう期待できるものではありません。ですから、信長の居所がわからなかったということなどは論外だと思うのです。
ついつれづれに書いてしまいまして 質問者さんの和議の件ですが
大軍を展開できる場所でもなく さりとて一気に清洲を攻めるわけでもなく 沓掛に予備兵を置いて 領土確保拡張といった 決戦なんてめっそうもないことであるがごとく (戦国時代は決戦なんてしません 決戦をさけて領土確保の方法を考えるのが第一番 数で脅かす それを確実に物語っている戦いは川中島でしょう 何度も対峙しながら回避しているでしょ)和議をむすんで油断させ奇襲するは 歴史読み物として書いてください 
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました!!!!!!

>ついつれづれに書

やはり無理があるんですね。



tenkadego さんと buchi-dog さんのご意見を拝見しまして、感嘆というか感動しました。いや~、すごいですね!

お礼日時:2009/06/17 20:17

「織田信長は降伏または和議を今川義元と結び、これを一方的に破棄し奇襲した、という妄想はありえませんか?」



妄想でよいのなら、証拠は要りませんからいくらでもストーリーを作れますね。

例えば

1. 今川義元が軍勢を率いて尾張に出陣し、今川軍の大高城に兵糧を入れ、丸根砦・鷲津砦を攻略して大高城周辺の織田の兵力を駆逐した。義元は旗本に守られて今川方の沓掛城を出、大高城に向かっていた。
(史実の桶狭間の合戦の直前の状況です)

2. 織田信長は、今川に偽って降伏を申し出た。即ち、嫡子の信忠 (と称する幼児)を今川方と面識のある有力家臣に伴わせて今川家の本陣に派遣し、
「嫡子の信忠 (この時3歳) を人質に差し出して義元公の麾下に入ります」という口上を述べさせた。
《何の証拠もない妄想です》

3. 義元は、織田が軍門に下ったことに安心し、とりあえず『桶狭間』(具体的にどこかは今でも良く分からない)に陣を敷いて休憩して、『信忠』を引見した。
(「桶狭間に陣を敷いた」以外は、何の証拠もない妄想です)

4. この隙を狙い、信長は直属の精鋭部隊(約三千人とされます)を率いて今川の本陣を襲い、義元を討ち取った。
(概ね史実です)

5. 信長は、(3)のような「偽りの降伏申し入れ」で義元を(4)のように油断させてその隙に奇襲をかけたことは恥であるので、(3)で「信忠」を今川家の陣に連れて行った家臣には固く口止めをした。よって、この事実はその後の歴史には残っていない。
信長に関する最も信頼すべき史料と言える「信長公記」を書いた太田牛一も、この織田家の最高機密は知らなかったので、信長公記には何も書いていない。
(3の妄想を合理化するための屋上屋の妄想です)

こんな感じでいかがですか?「信長の偽りの投降」と「その事実は固く伏せられた」という二つの妄想を作るだけで、桶狭間の合戦の「奇跡の勝利」が説明できてしまいました。

なお、この時点での今川家の勢力ですが、近年は
「義元が駿河・遠江・三河の太守といっても、石高にしたら大したことはない。尾張を概ね統一した信長が地元で迎撃する場合、『圧倒的な兵力差』ではなかっただろう」
という意見もありますが、賛同しかねます。

1. 尾張は木曽川他の大河川の氾濫原が多い。こうした地域は、戦国時代から江戸時代にかけて大規模な治水工事が行われてはじめて安定した耕地になったものである。即ち、桶狭間の合戦の頃の尾張の生産力は割り引いて考えねばならない。

2. 駿河・遠江・三河の今川領国については、「大河川の氾濫原」と言える地域は少なく、その生産力は戦国時代も江戸時代もさほど変わらなかったと思われる。

3. 今川家は、相模の北条氏、甲斐の武田氏と三国同盟を結んでいた。これは、三大名が「戦うより和睦して背後を固めた方が良い」と考えたことによるもので、三大名の勢力は概ね均衡していたと思われる。
ざっと考えて、各大名は100万石前後の勢力を持っていたと考えられる。(桶狭間の合戦の段階では、武田家が一番少なかったと思われます)

4. 桶狭間の合戦の時点で、今川家の領地は、駿河・遠江・三河 (三河の西半分は今川傘下の松平家の領地)に加えて尾張の4分の1程度であった。石高に換算して100万石を超えていたと考えられる。
http://homepage3.nifty.com/ksatake/fkunu1.html
の数字から、戦国時代のこれらの国の石高を推定して下さい。

5. 桶狭間の合戦の時点で信長の確実な領地は30万石程度ではないか?

6. 今川家は、本国に氏真を守備に置いており、武田家・北条家との三国同盟が機能していることもあり、本国にはさほどの兵力を残さずに尾張に遠征できたはず。

7. 桶狭間周辺に両家が動員できた兵力は、今までの通説どおり、今川と織田が3対1から4対1程度だったと推定できる。
野戦でまともにぶつかれば、織田家に全く勝算がない程度の兵力差となる。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。専門家の知識というのはすごいですね!!!

兵力差(石高)に関しては結構ばらつきがありますよね。

buchi-dog さんにお時間があればでいいのですが、buchi-dog さんのシナリオがご回答の中では書かれていないので、是非是非お聞かせ下さい。やはり一般的な説が有力なのでしょうか?

お礼日時:2009/06/16 15:09

現在、愛知県の西半分と静岡県、どちらが


人口が多いでしょうか?たぶん今も昔も
そんなに両地域の差は変わらない、あの当時
でも尾張は人口が多いところで
尾張が全部、結集したら駿河遠江の軍勢でも
対抗できる勢いであり、今川は尾張が
統一していない情勢をみて侵攻したのです。
つまり今川方の有利な展開は織田信長が
領有した南部尾張と敵対する同族織田の
北部尾張も今川の侵攻と同時に南下攻撃したら
たぶん織田信長は討たれていたでしょうが
そうはならず、たぶん北部尾張も南部尾張が
滅んだら次は自分らが今川の餌食になるため
静観の構えをしたため信長は背後を気にせず
今川の迎撃に集中できたのでしょう
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。なるほど~、北部尾張ですか。

織田方の諜報活動によって、今川方は見誤ったのでしょうか。

近視眼的発想ではだめですね。ありがとうございました!

お礼日時:2009/06/16 15:16

残念ですが ありえません


まず最初に奇襲ではない  ということは近年の研究でわかっています   和議ですか
ではどんな条件なら今川は飲んだでしょうか
信長が西三河からはすべて引き上げ差し上げますということですかね
天白川を越しますと(鎌倉街道上の道) 清洲まで(20Kmもない)山もなく地理的にも何の障害もありませんので一気にかこまれてしまいますので 終わりですですから西三河で踏ん張るわけです 敵を自国に入れない
(油断させるためにだとしても現実的じゃない)
この戦は桶狭間戦ではなく西三河の国境紛争戦なんですよ どうみても
この時点まで 信長の鳴海 大高城への締め付けがきつくて 大高城の守将 今川方の鵜殿は本国に頻繁に兵糧の催促を送っています (つまり泣きを入れている) 兵糧の確保もままならなかったという事情を物語っています 
今川家文書に残っています 
つまり信長の優勢ということになります
この状況を変えることが 今川方の第一の目的だったのですよ
鷲津 丸根の砦をつぶして 大高に兵糧と新しい守兵(家康が交代要員)をたっぷり入れる
あわよくば 中島 善照寺 丹下 もつぶしたいが ムリはしない
  が出陣まえの今川の基本戦略です
間違っても 上洛なんてことは 考慮外です 
尾張を攻めつぶし 隣の美濃に何年かかるか そして近江 やっと京ですから とても現実的な話ではありませんね

それと知多半島の水野家の動向に対しても 恫喝する意味もありましたね 水野も一族としては織田方でしたが この紛争時は 積極的に動いていません この勢力がもしはっきりと織田方に付くとなれば 今川の戦略はまったく違ったものになっていたでしょうし 義元も死ぬこともなかったのかもしれませんね 水野も自家保存もありますから一族の中
で今川と二股をかけたり 通じたり 信用させた面もあったのでしょう
水野は刈屋の城を差し出しています 一応義元は油断せずの方針で
西三河に出張してきたというわけです 出張です そんな感じ
まさか 義元が こんな紛争に直接現場に出てくるとは信長も考えなかったのではと 岡崎か沓掛で指揮をとるのが 普通 

一度 信長公記と三河物語をお進めします 読んでください
どちらがより信憑性があるかは 議論がいりますけど

それは義元が襲われる前 東を向いていたか西だったかということです
信長公記はいまいちはっきりしませんが 
巷では 大高へ進軍(西へ)中に乱戦になり・・・・
三河物語は 初期の目的(大高兵糧搬入守兵交代、丸根鷲津のつぶし)を達して本隊は沓掛城へ撤退中と読みとれるのですよ(先鋒朝比奈はその時もう岡崎城まで戻っています、義元死亡は岡崎で聞いています)

最後に 桶狭間一帯は大軍が展開しにくい地形ですよね
となりで何があってもわからない分散形布陣(連絡連携不十分)だったようですし

信長は一度も奇襲なるものをしたことはないようです
国内統一戦は勝ったり負けたりしながら学習したみたいですね 下手な戦もあったみたいですね これは譜代の家来衆(職業、戦争のプロ)や一門衆を使いにくかった面があって(ほんとうはいろいろトップダウン型の信長にはめんどう)
ほとんどは小姓馬廻り衆の直属800人ぐらいで 戦っています
相手に 団結さえさせなければ 結構この人数で勝っちゃうんですね
もちろん数の優位のため 一応 出陣の触れは出しますが 来るこないは それほど気にしなかったんじなかったかと おもいます
戦闘においてはですよ 正攻法一本  
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。確かに、上洛が目的であるという説は、
tenkadego さんのご意見からすると、ちょっと非現実的ですね。なるほど。そうですね。


>まさか 義元が こんな紛争に直接現場に出てくるとは信長も考えなかったのではと 岡崎か沓掛で指揮をとるのが 普通 

軍師がいれば変わっていましたかね。確か5年前に亡くなったんですよね。

お礼日時:2009/06/16 15:27

桶狭間で今川勢を休ませるために、諜報活動で織田方に降伏、和議の動きがでているとの情報を流した可能性はあります。

しかし、信長にとって今川はいつか倒さなければならない相手であり、今川にとっても京都への道に居座る邪魔者でしたから、たとえ和議を結ぼうとしてもまったくの偽りにしかみえませんので、無駄なことはしなくても倒せると考えているからこそ、京へ進発したのでしょう。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。可能性はあるんですね?なるほど~。

ただし、効果はないということですね?

ありがとうございました!

お礼日時:2009/06/16 15:32

2万から4万の兵力を持っている今川軍に対し5千ほどの兵力しか持ってない織田軍。

このような兵力の違う両勢の中で和議を結ぶと言うことは絶対に行われない。今川から見た織田は飛んでくる蚊みたいなもんだから踏み潰せば良い。逆に相手を”蚊”に見立てた今川は桶狭間で負けてしまった!と思います。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0% …

ここのサイトを見てください。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

>逆に相手を”蚊”に見立てた今川は

そこまで油断していたのですか。負けるのもうなずけますね。

お礼日時:2009/06/16 15:35

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q桶狭間の戦いについて詳しく述べてある参考文献を教えて下さい。

桶狭間の戦いについて詳しく述べてある参考文献を教えて下さい。


出来るだけ多く教えて頂きたいです。

最近信長に興味を持ち始めました。

もしよろしければ教えて頂く際、それぞれに述べられている桶狭間の戦いの考察の違いについても教えて頂けたら幸いです。


では回答お待ちしております。

Aベストアンサー

藤本正行『【信長の戦い(1)】桶狭間・信長の「奇襲神話」は嘘だった』(洋泉社新書y 2008)

上記の著書が近年ではまとまった桶狭間の戦いの研究書だと思います。
『信長公記』に基づく「正面攻撃説」の論者ですが、「正面攻撃説」批判への反論や他の諸説についても言及されていますので、その中で興味のある説があれば、参考文献から参照されるとよろしいかと。
ただ、信長を天才視する従来の歴史観ではなく、過大評価ではない等身大の信長に迫ろうとする観点で著されていますので、小説などの一般的な信長像から興味を持たれたのであれば、ギャップが大きすぎるかもしれません。
なお、

谷口克広『織田信長合戦全録』(中公新書 2002)
同『信長の天下布武への道』(吉川弘文館 2006)

これらの著書も合戦の経過について詳細に記述されています。

Q信長が義元に降伏しなかった理由

信長が義元に大軍で攻められた時に降伏しなかった理由はなんだと思いますか?
運良く勝ちましたが
あれだけ戦力差があれば信長も降伏することが多少なりとは頭をよぎったと思うのですが

信長は圧倒的状況を作ってから戦うタイプで無理責めなど桶狭間以外では特に見当たりません
不利と見れば他者と和睦したり遜ったりしています

桶狭間の時には和睦や降伏を全くしようとしなかった理由はなんだと思いますか?

Aベストアンサー

実力差が圧倒的にありすぎるため、降伏したところで許されるわけがない、というのが理由でしょう。信長の和睦策は、力量が拮抗しているとき又は優先順位の低い争いごとをとりあえず収めるためにに採用されたケースが殆どです。

義元にとっては尾張は将来的に京への通り道となるため、信頼の置ける家臣に管理を任せるはずです。信長やその家臣には利用価値が無く、下手に生かしておくと将来反乱軍となる恐れもあるため皆殺しにするのが一番の解決策です。それを信長も十分に理解していたので、降伏という選択肢は最初から無かったものと思われます。

喩えて言えば、地球に直径500キロの隕石が間違いなく落ちてくる。その難を逃れるためには隕石を破壊するしか方策が無く、隕石にいくらお祈りしても無駄、といったところでしょう。

Q桶狭間の戦いの大まかな流れを教えてください。

桶狭間の戦いの大まかな流れを教えてください。

1000字以内でお願いします。

できれば、あまりにも細かくなりすぎないで頂きたいです。

細かな情景や細かな心理状況以外で、尚且つ今川氏と織田氏の桶狭間の戦いの前後を含む大体の流れはきっちり把握したいと思っています。


回答お待ちしております。

Aベストアンサー

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>桶狭間の戦いの大まかな流れを教えてください。

駿河、遠江、三河の太守であった今川治部大輔義元が、かねてより念願の上洛を実現させるべく、25,000の大軍に出動命令を出したのは、永禄3年(1560)5月1日のことであった。
5月10日の先陣に続いて、義元の率いる本陣も12日には駿河を発ち、藤枝を経て13日には掛川、16日には岡崎に到着した。
一方、織田方は、信秀の死後、その子上総介信長が後を継いだが、若干27歳であり、また、世間の風評として「うつけ者」と呼ばれていたので、義元は、簡単に尾張を攻略できると考えていた。
「義元上洛」の報せを受けた信長は、多数のスッパを雇い、今川軍の行動を逐一報告させていた。
今川軍の先方隊5,000、信長軍は総勢で3,000、ここで戦っては信長軍の損失は多大なものとなり、義元の本隊が国境に到着する以前に負け戦になってしまう。
だが、今川軍の動きを知るにつれて、今川軍の弱点が見つかった。
1.今川軍の先方隊は、5月14日赤坂から藤川へ進軍。15日には矢作(やはぎ)、池鯉鮒(ちりふ)に入ったが、本隊はまだ吉田であった。
2.さらに、今川軍の先方隊は16日には沓掛だが、本隊は岡崎。
3.先方隊17日には、早くも大高、鳴海に入るも、本隊が沓掛に入ったのは18日であった。
4.その上、先方隊は、砦の攻略ばかりを気にとられて敵の情報を得る活動は何もしていないらしい。
5.25,000の内の5,000は本隊とかなり離れている。
--これなら勝てるかも知れない--
信長は一瞬そう思った。だが、どこで仕掛けるか・・・。
信長の頭には尾張の領内の地図がめまぐるしく駆け巡った。
鎌倉往還を北上すると、低い丘がだらだらと続く不規則な台地に出る。鳴海丘陵である。
丘と丘の間には「窪」とか「狭間」と呼ばれる窪地が点在する。
丘陵地帯に入って間もなく間米(まごめ)で左に向かうと桶狭間村に出る。間米と桶狭間の間には「田楽狭間」と呼ばれる狭い道となる。いかなる大軍であっても、ここでは縦長に行動せざるを得ない。
--ここで勝負をするか・・・--
そして、スッパに指示を出した。
義元本隊が間米に入ったのは巳の刻(午前11時)頃であった。
近くの住職や神主たちが、手に手に祝いの酒や肴を持参して今川本隊に祝辞を述べた。信長の策略であった。
「ありがたく頂戴しておこう」
義元は輿の上から礼を述べた。
やがて、雲行きも悪くなり、義元本隊は桶狭間に着いた。
「雲行きが良くない。ここで一休みじゃ」
義元も輿から降りて、祝にもらった酒、肴での酒宴が始まった。
「今じゃ!」
信長が一声叫んで丘陵地から駒で一気に駆け下りた。
すっかり酒宴に溺れていた義元本隊は、全くの戦意喪失で手向かう者が一人もいない状態であった。
「義元の首、頂戴したり!」
信長の雄たけびだけが丘陵地に一際大きく響いた。

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>桶狭間の戦いの大まかな流れを教えてください。

駿河、遠江、三河の太守であった今川治部大輔義元が、かねてより念願の上洛を実現させるべく、25,000の大軍に出動命令を出したのは、永禄3年(1560)5月1日のことであった。
5月10日の先陣に続いて、義元の率いる本陣も12日には駿河を発ち、藤枝を経て13日には掛川、16日には岡崎に到着した。
一方、織田方は、信秀の死後、その子上総介信長が後を継いだが、若干27歳であり、また、世間の風評として「うつけ者」と呼...続きを読む

Q桶狭間合戦でなぜ今川義元は信長に敗れたのですか?

僕は歴史が苦手(というか全くのど素人)です。ところで、桶狭間合戦は今川勢2万5千、織田勢2千5百の兵力で、なぜ今川義元が敗れたのか理由が分かりません。

そもそも、

(1)織田方は迂回奇襲をしたのですか?それとも正面攻撃をしたのですか?

(2)大将たる今川義元は、鳴海・大高両城付近から敵が掃討された後、沓掛城を出ればよかったのに、なぜ後方に陣取らず、先陣切って最前線に出てしまったのですか?

(3)織田信長は、義元の首を取った毛利新助よりも、簗田政綱を功第一としたそうですが、これでは毛利新助は怒り出してしまわなかったのですか?

Aベストアンサー

> 織田方は迂回奇襲をしたのですか? それとも正面攻撃をしたのですか?

物語を面白くするために『迂回奇襲説』がこれまで有力でした。 しかし、信長の戦い方は終始一貫正面攻撃です。 彼の性格からして、徹底的に情報を収集し、一気に正面攻撃をかけたと思われます。

> 今川義元は、なぜ後方に陣取らず、先陣切って最前線に出てしまったのですか?

今川義元の尾張・三河遠征は旧領を回復するための布石としてのものであった。 既に前哨戦で丸根、鷲津砦を攻略し、当日も織田軍の佐々政次、千秋四朗ら300を短時間で一蹴し終っていた。 目的は半ば達成できた。 義元は戦果に満足し、同時に織田軍を甘く見ていたのかも知れない。 

そこへ昼過ぎから急に豪雨に見舞われ、急遽休憩に入る。 二万五千と言われる部隊も休憩であり、いくつかに分かれて休憩に入り、本体は五千人だった。 しかも、総大将義元の休憩場所を織田軍の梁田政綱に知られてしまう。 この情報を元に信長は作戦を義元の首に絞る。 篠突く雨に乗じて義元本陣に急接近、雨の上がった瞬間正面から撃って出た。 

信長の武将としての先進性を示すもので、近代戦を戦う武将としての高い資質が伺われます。 

> 毛利新助は怒り出してしまわなかったのですか?

従来の戦であれば、敵の対象の首が最高の論功行賞とされた。 しかし、ここに信長の卓越した人間観察と近代武将としての資質の高さが見て取れる。 情報を齎した梁田を最高に評価。 しかし毛利にも応分の褒章は与えています。 彼も信長の類い稀な指導性に信頼しており、評価に不満はなかったと思います。

貴重な情報こそ最高の富である。 これは21世紀の我々にも妥当する超近代的な考え方です。  伝来したばかりの鉄砲採用への先進性と言い、彼の資質の高さには目を見張ります。 まさに天才としか思えません。 

> 織田方は迂回奇襲をしたのですか? それとも正面攻撃をしたのですか?

物語を面白くするために『迂回奇襲説』がこれまで有力でした。 しかし、信長の戦い方は終始一貫正面攻撃です。 彼の性格からして、徹底的に情報を収集し、一気に正面攻撃をかけたと思われます。

> 今川義元は、なぜ後方に陣取らず、先陣切って最前線に出てしまったのですか?

今川義元の尾張・三河遠征は旧領を回復するための布石としてのものであった。 既に前哨戦で丸根、鷲津砦を攻略し、当日も織田軍の佐々政次、千秋四朗ら...続きを読む

Q『桶狭間の戦い』の謎???

『桶狭間の戦い』に関する記述で「信長公記」に書かれているものは

1.信長は「おけはざま山」近辺の地理(潮の干満、山の勾配など)を完璧に把握していた。
2.義元はおけはざま山に陣をはっている最中に襲われた。
3.義元が襲われた時、雨が止んだいた。
4.地元の人間が酒などを奉納したという事は書かれていない。
5.木下藤吉朗の事はまったく書かれていない。

などが書いてあります。

特に不思議な事は最終場面では信長勢の2000名が、今川の本陣300名に攻撃を仕掛けています。
つまり兵力の逆転現象が起きています。
ということは、やはり奇襲攻撃だったのでしょうか?

司馬遼太郎は信長が桶狭間の戦いで勝利した理由としては
「騎兵の集団活用により、思いもよらぬ速度で今川の陣に突撃したため」といった理由を挙げています。
また、日本史上、騎兵のみで編成された部隊を用いたのは源義経と信長だけと書いていました。
武田の騎馬隊は歩兵との混合部隊なので純粋な騎馬隊とはいえないそうです。
モンゴルやハンニバルのように騎馬隊を用いたのは源義経と信長だけと書いていました。
司馬遼太郎が挙げる桶狭間の戦いで勝利した理由は正しいのでしょうか?

あなたが知っている『桶狭間の戦い』の真実を教えて下さい。

『桶狭間の戦い』に関する記述で「信長公記」に書かれているものは

1.信長は「おけはざま山」近辺の地理(潮の干満、山の勾配など)を完璧に把握していた。
2.義元はおけはざま山に陣をはっている最中に襲われた。
3.義元が襲われた時、雨が止んだいた。
4.地元の人間が酒などを奉納したという事は書かれていない。
5.木下藤吉朗の事はまったく書かれていない。

などが書いてあります。

特に不思議な事は最終場面では信長勢の2000名が、今川の本陣300名に攻撃を仕掛けています。
つまり兵力の逆転現...続きを読む

Aベストアンサー

桶狭間に限らず、戦国期の合戦については、なかなか良質な史料が残っておりません。従って合戦の実態を把握するのに骨が折れます。史料によっては双方の兵数に格段の差も出ていますし、合戦の流れも大きく食い違う場合もあります。

さて、桶狭間の戦いについていえば、江戸時代にベストセラーだった「甫庵信長記」や明治時代に参謀本部が編纂した「日本戦史」の影響により、桶狭間=奇襲、とのイメージが完全に出来上がってしまいました。これらは史料とは言い難い、創作物といっても過言ではない著作物です。

これらを払拭し、桶狭間=正面攻撃を唱えた最初の本が藤本正行氏の「信長の戦国軍事学」(現在は講談社から「信長の戦争―『信長公記』に見る戦国軍事学」というタイトルで出版されています。)ご覧になってみてください。超お勧めです。

なお、個人的には、こういう流れであったと考えています。
・義元本陣(5千くらい?)が桶狭間山に布陣。
・信長、桶狭間山の西方麓まで達する。
・西から東に向け暴風雨が吹き荒れ、雨は止む。
・義元本陣は暴風雨を避け、隊列が乱れ、しかも西に背を向けていた。(まだ風は吹いていた?)
・西より信長突撃。

参考URL:http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4061595784/qid=1130160241/sr=8-1/ref=sr_8_xs_ap_i1_xgl/250-8123918-5272219

桶狭間に限らず、戦国期の合戦については、なかなか良質な史料が残っておりません。従って合戦の実態を把握するのに骨が折れます。史料によっては双方の兵数に格段の差も出ていますし、合戦の流れも大きく食い違う場合もあります。

さて、桶狭間の戦いについていえば、江戸時代にベストセラーだった「甫庵信長記」や明治時代に参謀本部が編纂した「日本戦史」の影響により、桶狭間=奇襲、とのイメージが完全に出来上がってしまいました。これらは史料とは言い難い、創作物といっても過言ではない著作物です。
...続きを読む

Q【日本史・織田信長の死際の行動の謎】織田信長は本能寺に滞在中に家臣の明智光秀が攻めて来たという一報を

【日本史・織田信長の死際の行動の謎】織田信長は本能寺に滞在中に家臣の明智光秀が攻めて来たという一報を受けて、自分が普段座る鎮座に影武者の家臣を置いてその影武者に短い手槍を渡した。

織田信長本人は奥の間に移動して、明智光秀が攻め込む前に自害することを決意してすぐに自害用に家臣を連れて奥の間に行き介錯(かいしゃく)=自ら切腹した織田信長の首を跳ねる役の家臣を同行させて奥の間で自害した。

明智光秀がまだ攻め込こんでいないのになぜ明智光秀が攻め込むという一報を聞いて、明智光秀が攻め込む前に奥の間で自害したのか。

自害する必要がどこにあった?

なぜ織田信長は明智光秀と戦うという選択ではなく、最初から自害の道を選んでいたのか不思議じゃないですか?

おかしな話ですよね。

何かひっかかりませんか?

Aベストアンサー

光秀が攻めるときは、理詰めの確実な方法を取るはず。信長が前に出て戦闘状態になったら光秀の注文通り。
信長自身がしばらく生死不明という状況にするのが、あの夜の最善手だったからでしょう。
 事実、秀吉が引き返して山崎の合戦になったとき、秀吉側は、信長は脱出に成功、自分は信長の指示で指揮を取るという噂を流して、精神的動揺を誘ってます。

Q桶狭間の戦いは奇襲戦じゃなかった?

テレビで
「桶狭間の戦いは奇襲戦じゃなかったんだ!」
というセリフがありますが、本当でしょうか?

Aベストアンサー

今、TVのCMで流れている「ビジュアル日本の歴史」は4年くらい前に発売されたモノと同じモノに付録を付けて発売しているようです。で、4年前のモノを読んだところ、桶狭間の戦いについては奇襲説と正面強襲説の2通りの解釈を載せてあります。

後者の正面強襲説については、私の知る限り藤本正行氏が参考URLで書かれたものが初見で、今回の「ビジュアル日本の歴史」にも藤本氏の名前が出ています。

藤本氏説と従来の奇襲説との大きな違いは、出典の違いによります。藤本氏は「信長公記」を軸に「三河物語」をその傍証史料として新説をうち立てられました。従来説は「甫庵信長記」「総見記」「改正三河後風土記」「桶狭間合戦記」などに基づきます。藤本氏はそれら史料比較を行われ、「信長公記」の方が信憑性が高いが故に、従来説を批判しています。

従来より「信長公記」の信憑性についてはかなり高いとされていましたが、こと桶狭間の戦いについては、発生年があまりにもかけ離れて書かれているために、軽視されてきました。ただ、私もリアリティなどの面からも、藤本氏説の方に軍配を揚げたいと思います。

参考URL:http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4061595784/ref=sr_aps_b_/250-0978986-7926638

今、TVのCMで流れている「ビジュアル日本の歴史」は4年くらい前に発売されたモノと同じモノに付録を付けて発売しているようです。で、4年前のモノを読んだところ、桶狭間の戦いについては奇襲説と正面強襲説の2通りの解釈を載せてあります。

後者の正面強襲説については、私の知る限り藤本正行氏が参考URLで書かれたものが初見で、今回の「ビジュアル日本の歴史」にも藤本氏の名前が出ています。

藤本氏説と従来の奇襲説との大きな違いは、出典の違いによります。藤本氏は「信長公記」を軸に「三...続きを読む

Q今川義元は愚将?名将?

友人たちと“今川義元”について議論をしていて様々な意見が出ましたが、結論は出ませんでした。
今川義元は愚将だと思いますか?
名将だと思いますか?

Aベストアンサー

今川義元は十分に名将と言うべきでしょう。

学問の師(兄弟子)である雪斎を参謀として家督争いを勝ち抜いて今川家の当主となった時、今川の所領は駿河と遠江の2カ国でした。家督相続後、武田家・北条家と同盟し、かつ北条氏が占拠していた駿河の富士川以東部分(河東)を今川領に戻しました。

義元の代で三河を完全に所領化し、尾張も3分の1程度を所領化していました。家督相続後に今川家の所領を2倍以上にしたと言えます。尾張での勢力圏をさらに広げようと出兵した所を織田信長に討たれました。

桶狭間の合戦については、下記の本が詳しいです。

桶狭間の戦い 戦史ドキュメント 小和田哲男/〔著〕
http://www.7andy.jp/books/detail?accd=30723531
桶狭間の合戦について多くの史料を詳細に分析した、現時点で最新の研究成果といえるでしょう。

今川義元が討ち死にした時の状況は、「史実の三方ヶ原の合戦の時期に、徳川家康が、遠江に侵入した武田信玄を討ち取った」に等しい「奇跡の勝利」です。義元は、味方の城の後方の「安全な地域」に陣を張っている所を、予期せぬ織田軍の攻撃に本陣を破られて討ち死にしました。

西洋で史上最高の名将とされるナポレオンは「敵より迅速に機動し、常に自分の全力で敵の一部を叩く」ことを常にできる武将で、そのようにして連戦連勝してフランス皇帝に上り詰めました。信長の桶狭間での戦勝はナポレオンのやり方と理屈は同じです。

「義元は十分に名将といえるが、信長は世界の戦史上も稀な『超名将』であった」ということです。

今川義元は十分に名将と言うべきでしょう。

学問の師(兄弟子)である雪斎を参謀として家督争いを勝ち抜いて今川家の当主となった時、今川の所領は駿河と遠江の2カ国でした。家督相続後、武田家・北条家と同盟し、かつ北条氏が占拠していた駿河の富士川以東部分(河東)を今川領に戻しました。

義元の代で三河を完全に所領化し、尾張も3分の1程度を所領化していました。家督相続後に今川家の所領を2倍以上にしたと言えます。尾張での勢力圏をさらに広げようと出兵した所を織田信長に討たれました。

桶狭間の...続きを読む

Q桶狭間の戦いって

狭間という名前のイメージにすっかり踊らされていましたが 桶狭間の戦いは奇襲ではなく
桶狭間山という山の上に布陣していた今川軍を山を登って攻撃した強襲作戦だったんですね

しかし従来いわれているように当時大雨が降っていたとしても山の上にいれば下から上ってくる織田軍に気づいて先手を取れたはずですが…

今川義元は公家かぶれのぼんくらなんて言われてますが 仮にも海道一の弓取りと言われたほどの男です あっさりと尾張のおつけもの…じゃなかった うつけものに負けるとは思えませんが…

やはり太源雪斎が死んだ時点で今川家の運命は決まったということでしょうか…

Aベストアンサー

・狭間という名前のイメージにすっかり踊らされていましたが 桶狭間の戦いは奇襲ではなく
桶狭間山という山の上に布陣していた今川軍を山を登って攻撃した強襲作戦だったんですね

江戸時代
(おそらく時代小説\(^^;)「信長公記」出版直後から)
から、そういう誤解は、よくあるのですが、
実際には義元が襲撃を受けたのは、
桶狭間の近くの田楽狭間というところで奇襲されたと
複数の史書に書かれており、定説となっています。



http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/8918/okehazamayama.html


追記-桶狭間山






「御敵今川義元は、四万五千引率し、桶狭間山に、人馬の息を休めこれあり」



『信長公記』のこの記述が、今川義元が休息していたのは「桶狭間山」である、という誤解の元となりました。
『信長公記』では、「永禄3年」5月17日~19日に至る桶狭間の経緯をすでに「天文21年」と謝って記しています。

桶狭間の戦い以前、 「今川の大軍は国境を越えれば清須には日ならずして到達してしまうに違いない」と思った信長は、前もって梁田鬼九郎、蜂須賀小六、前野将右衛門らに尾州国境の探索を命じています。

5月17日、今川義元軍は沓掛から大高という砦を目指して進軍を始めます。
今川勢が沓掛城を出た後、大高までの15町の道のりを道なりに真っ直ぐ進むとしたら、唯一木立があるのは桶狭間山の辺りです。桶狭間山の狭間道には樹木が多く茂り、暑さをしのぎやすい。その先は小丘が連なって起伏もあるので「休息をとるにはここ以外にはない」と偵察をしていた小六等は確信したのです。


暑い中の長途で疲れ切っていた義元が、休息をとる為にわざわざ山に登るでしょうか?
義元が休息をとったのは間違いなく桶狭間山の狭間「田楽狭間」であり、山頂に見張りの兵は立たせたものの疲れ切っていたため、兵達は「正体もないありさま」だったのです。


18日夕刻、今川軍に丸根山・鷲津山の砦付近から攻撃されるとの情報が入っても信長は援軍を出しませんでした。援軍として出せるのは、たかが一千程度。援軍を出し応戦の構えを見せれば今川勢も総力をあげて攻撃を仕掛けてくるし、それでは半日もしないうちに今川軍にやられてしまうのは目に見えていたからです。


しかもすでに信長は、狭間道にて今川勢を足止めするよう祐福寺村の村長藤左衛門や百姓に化けた蜂須賀党に命じていたのです。その時彼らは、狭間道に
1.酒         10樽
2.こんぶ       50連
3.米餅        一斗分
4.粟餅        一石分
5.唐芋煮付け    十櫃分
6.天干大根煮染め 五櫃分
を用意させ、義元に直接献上させています。すべてその場で口にしたくなる物ばかりです。

つまり、休息をとりたくなる場所に休息をとるための物を用意し今川軍の到着を待っていたのです。

ここで休息をとるかどうかは「賭け」でした。


そして、義元は信長の策に填りました。
「脇は深田の足入れ、一騎打ちの道」
と『信長公記』が記したような狭間で義元は休息をとったのです。


「無勢の体、敵方より定かに見え候」

信長の奇襲は、生駒屋敷に集う者達のみにしか知らされていませんでした。 奇襲をぎりぎりで聞かされた家老達は、信長がそのような狭い場所に突っ込むのは 「無勢の体、敵方より定かに見え候」・・・こちらの少数軍勢がわかってしまうから止めた方がよい、と必死に止めます。
「無勢の体、敵方より定かに見え候」 とあるのは、信長が前もって偵察を出し、義元の状況報告を具に受けていたことを知らない者達が、「敵からこちらの軍勢の少なさが見えてしまう」と危惧し信長の強行を止めようとしたもので、実際の義元軍は、信長軍が押し寄せてくることなど予想もできないほど疲れ切っており「正体のない様」だったのです。

19日未明「義元、狭間にて休息間違いなし」の情報を得た信長は、疾風のごとく善照寺砦から中島砦を経て桶狭間山を越えて、義元の後方の山頂から、田楽狭間で休息をとっている義元本陣になだれ込みました。 つまり「無勢の様体、敵方からさだかに相見えた」というのは、突っ込もうとした信長から「正体ないさまに三々五々に散った今川勢が相見えた」ということになります。



『信長公記』は言います。

「(義元の)運がつきたるしるしにや、おけはざまという所は、はざまくみて、深田足入れ、高みひきみ茂り、節所ということ根なし。深田へ逃げる者は所をさらず、はいづりまわるを者ども追い付く追い付く。2つ3つずつ手々に頸をとり持ち、御前に参り候。頸は何れも清洲にて御実検と仰せられ、義元の頸を御覧じ、御満足斜めならず。もと御出の道を御帰陣候」

この当時、信長は信長の人物像に疑問を持っている家老達を信頼していませんでした。
信長が信頼していたのは、生駒屋敷に集う蜂須賀党、生駒八右衛門、前野将右衛門らのみだったのです。
奇襲の策は、清洲城の家臣等には全く知らされていませんでした。

池宮彰一郎氏の著書『本能寺』の中でも、「太田牛一の信長の思慮分別への忖度は、並の家士であったものの域を出ない」と書かれているように、私も太田牛一は足軽であり、戦闘そのもののある程度の描写はできても、その裏でどのような画策がなされていたのかまでは、知り得なかったと思っています。

・狭間という名前のイメージにすっかり踊らされていましたが 桶狭間の戦いは奇襲ではなく
桶狭間山という山の上に布陣していた今川軍を山を登って攻撃した強襲作戦だったんですね

江戸時代
(おそらく時代小説\(^^;)「信長公記」出版直後から)
から、そういう誤解は、よくあるのですが、
実際には義元が襲撃を受けたのは、
桶狭間の近くの田楽狭間というところで奇襲されたと
複数の史書に書かれており、定説となっています。



http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/8918/okehazamayama.html


追記...続きを読む

Q今川義元の刀、宗左文字にはなぜ傷がないのでしょうか?

今川義元の刀、宗左文字にはなぜ傷がないのでしょうか?

今川義元は桶狭間で討たれ、愛刀の宗左文字は織田信長のものになりましたが、今のこる、宗左文字には傷がありません。

桶狭間で今川義元は打たれる際に、かなりの抵抗をしたと(毛利新助、服部小平太、小指を食いちぎり・・)歴史小説には大体出てきます。でも、それなら、愛刀に傷がないのは不思議な気がしませんか?

桶狭間は奇襲戦ではないことは、現代ではほぼ間違いないと証明されていると思います。ただ、愛刀に傷がつく前に討たれてしまった、という状況からして、おそらく、今川義元は抵抗をしたり、個人的な奮戦をするようなこともなく、その最後は非常にあっけなく、あっという間に討たれてしまったのではないかという気がするのですが、みなさんどう思われますか?

Aベストアンサー

「信長記」(信長公記)には織田勢の攻撃の後、今川勢は義元の塗輿も捨てて逃げ崩れたが、旗本三百騎ほどが義元を円陣に囲んで後退しながら、織田勢と激戦を繰り広げた描写があります。また、義元に攻めかかった服部小平太が膝の口を斬られた描写もあります。
義元が小平太を斬ったと明言されているわけではありませんが、素直に読めば義元自身が小平太を斬ったのでしょう。
織田勢の攻撃から義元の死まではある程度の時間が経過しているようです。

贈答品という宗三左文字の来歴を考えると、傷がないのは、義元が大切に扱っていたため実戦で使うような位置になかったと考えられないでしょうか。
つまり、義元自身が腰に佩いていたわけではなく、小姓などが持っていた可能性がないかということです。
次々と護衛が討たれていく中で義元が無抵抗で討たれるとは思えません。


人気Q&Aランキング

おすすめ情報