プリン+醤油=ウニみたいな組み合わせメニューを教えて!

戦争中、米英連合国によりあらゆる対日輸送ルートは遮断されていたそうです。
ガソリン一滴は血の一滴といわれていたとか。
現実には、石油はどうやって調達していたのでしょうか?
中国や満州にあったのでしょうか。

よろしくお願いします。

A 回答 (4件)

 <参考>


 当時の日本のエネルギー源は石炭が中心で、石油の産業消費のかなりの部分が石炭で代用可能でした。

 ところが、急激に出力を変えたりする高性能エンジンは、液体燃料が必要、つまり石油が不可欠なのです。
 この代替のきかない「液体燃料」を使う高性能エンジンを大量に使っていたのが『軍』なのです。(当時、日本の石油消費の半分以上は、軍で使われていました。)

 アメリカからの石油の供給がなくなれば、泥沼化していた日中戦争の撤退・敗戦は決定的となってしまいます。
 まさにガソリンは、兵士の血の一滴に相当する戦略物資でした。
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日本国内でも石油は生産していました。

とはいえ、そのほとんどが
列国に比べれば小規模なもので、昭和12年から20年(終戦)までの
生産高合計は政府目標の11%ほどしか生産されませんでした。
よって、東南アジアの石油は日本軍の第一目標となったわけです。





しかし占領後、この運用も有効に機能していませんでした。
終戦後のアメリカ側の調査により公表された資料によると
「日本海軍にはシーレーン防衛の概念が無かった」そうです。

どういうことかというと、石油運搬船・補給船にあまり護衛を付けて
いなかったようなんです。無防備な補給船はアメリカ海軍の格好の
餌食となり、日本は追い詰められていきます。

海洋国といいつつ、常に短期決戦であったわけで
持続的な戦争経験、つまり補給の概念が薄かったんでしょうね。
終戦間際になって、戦艦として使える運搬船での輸送計画が持ち上がる
んですが、この運用のための石油も足りず、結局浮遊砲台として呉市に
係留されていました。





掘れない、運べない、となると結局日本はどうしたのか?
実は代替エネルギーの研究が行われていました。
例えば車は木炭で走るバスが開発されましたし、石油自体も「シェール」
という石油成分を含んだ鉱石から液化石油を人工的に合成するということを
行っていました。特にシェール油プラントは大正時代から法律を整備し、
国策会社を設置し莫大な費用を投入していたんです。



さて、戦後の米軍の報告書では、このプロジェクトこそが日本を追い詰めた
原因としています。まず木炭バスは出力が足りないので、坂道では乗客が
バスから降りて手で押して運用していました。
そして肝心のシェール油プラント。前述のとおり莫大な資金が投入されました。
しかしその技術力は本場のドイツやロシアと比べて数段劣り、
この穴埋めのための負担が日本を追い詰めていったのではないか?という分析です。




そしてこれは昔の日本人に限った話ではありません。
最近では資源を節約するためにリサイクルをする、という言説がありますが
一方で、実際には国内リサイクルの為に莫大な資源がまさに"浪費"されています。

結局のところ偽科学に踊らされ、実務を軽視し、財源を明確にしないまま
新技術へ狂奔する政策は、日本の伝統でもあるわけですね。
ことエネルギー問題に関しては、不足している、足りてないという思い込みから
今も昔も、日本人は冷静さを保てないでいるわけです。
実際は無ければ買えばいいわけで、買うには戦争しなきゃいいわけです。
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太平洋戦争初期の最大の目標は



蘭印(オランダ領インドネシア)の石油です。

そのために、ジャワ、ボルネオ島上陸作戦、バレンバン油田への空挺降下
それに先立つオランダ艦隊との数度の海戦が
行われました。

また、英東洋艦隊空爆、マレー上陸作戦は
英軍に、それを邪魔させないため、
真珠湾奇襲、フリッピン占領は
米軍に、それを邪魔させす、原油を
日本本土に運ぶ海路を安全にするため。
初期の作戦は、全て蘭印の石油確保のために、ありました。

当時、中東油田は開発途上で、
北樺太や日本国内の油田では
とうてい間に合わず、
当時世界最大の油田
ソ連のバクー油田は独ソ戦で機能停止、
しかも日本は、日本の最大の石油供給源である
アメリカと対立して石油を禁輸されるという
戦略的ミスを犯し、開戦を決意したのです。
 
※最大の原油生産地は スマトラ
南方(ボルネオ、ジャワ、スマトラ) の原油生産量は、開戦前年の昭和15年 度には17.8万バレル/日(年1,033万キ ロリットル)であったが、日本軍が上 陸・占領した昭和17年度は7.1万バレ ル/日(年412万キロリットル)と、対 15年比39.8パーセントになっていた。 石油部隊の活動により、昭和18年度に は13.6万バレル/日(年788万キロリッ トル) 、対15年比76.7パーセントと、占
27. 目的を達したかに見 えた石油資源の確保
昭和14年8月から開戦直前の昭和16年 11月まで、陸軍軍務局軍務課に高級課 員として勤務し、武藤章軍務局長の下 で開戦前の日米交渉、国策決定方針の ほぼすべてに関与した石井秋穂大佐は、 戦後、太平洋戦争の開戦目的について 次のように述べている。 「大東亜共栄圏の確立と言った見方を 声高に説く論者もいるが、私は当時の 開戦名目案の骨子を作った者としてそ れは違うと言いたい。開戦目的はあく までも自存自衛であり、日本は国家と して石油の備蓄が無くなり、南方に頼 らざるを得なかったと言うことである。 あの時の国家政策に携わった者は、石 油が無くなったらどうしようと言う恐 怖感が大きかったと言う認識で一致し ていた。 」
( 「陸軍良識派の研究」 、保阪正康、光人社)
出され、石井大佐は後者を推していた。 この対立調整のため陸軍省の武藤軍務 局長が現地に入り、最終的には昭和17
70,000 65,100 (1,033) 60,000
単位:1,000バレル/年(万キロリットル)
50,000 40,000 40,000 25,917 (412) 6,100 15,697 19,000 630 9,600 0 (昭 1 9和 4 15 0年 )度 (昭 1 9和 4 17 2年 )度
49,614 (788)
36,916 (586) 32,079 22,321
30,000
スマトラ ジャワ ボルネオ
20,000
3,650 13,885 (昭 1 9和 4 18 3年 )度
2,830 11,765 (昭 1 9和 4 19 4年 )度
10,000
6,545 (104) 5,020 313 1,210 (昭 1和 9 4 20 5年 )度 4 ~ 7 月 末
出所:米国戦略爆撃調査団石油報告

南方原油の生産量のピークは昭和18 年第3四半期(10~12月)で、14.6万バ レル/日と開戦前の82パーセントにま で回復していた。高品位の石油製品の 生産が期待されたパレンバンの第1製油 所は、昭和17年5月には航空ガソリン (オクタン価87)の生産を開始してい る。第1製油所は昭和17年9月に、第2製 油所は、昭和18年1月に部分操業を開始 した。 なお、中部スマトラでは昭和19年9 月、帝国石油隊により戦後インドネシ ア最大の油田となるミナス油田(カル テックス鉱区)が発見されている。 ロリットル、昭和18年度27.1万キロリ ットル、昭和19年度26.7万キロリット ル、昭和20年度24.3万キロリットル 坑井は140坑、これが昭和16年度、17年 度には零、昭和18年度20坑、昭和19年 度90坑、昭和20年(4~9月)128坑とな っている。輸送ルートの途絶による南 方石油の還送量減少と共に、再度国内 生産増に方針が変更され、昭和19年度 以降の掘削坑井数が急増している。

・しかし、タンカーの多くが、戦争後半には、米潜水艦に撃沈され、日本本土では松根などから油を抽出するなど、絶望的な状態に、おちいりました。
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戦争初期の頃は、備蓄がありました。


山本五十六が「1年は暴れて見せます」といったのはこれに基づきます。

その後ですが、何も最初から輸送ルートが完全に遮断されてたわけではなく、一定の時期まではインドネシア、マレーシアからの輸送ルートは
あったわけですから、その時期には輸送され備蓄されました。
※1 戦争初期の頃、アメリカ軍の魚雷には重大な欠陥があって貨物船を攻撃しても沈められないということがよくありました。

※2 アメリカアジア艦隊の魚雷の膨大な備蓄が、フィリピンで一気に吹っ飛んだということもありました。
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