奥州藤原氏のことでお聞きします。
藤原秀衡は源義経を受け入れ、大軍を擁して源頼朝に対抗しようとしましたが、藤原秀衡の死後どうしてあっけなく滅ぼされてしまったのでしょうか。
源義経が自害においこまれ、藤原秀衡が病死したという個人の死が原因だというにはあっけなさすぎるように思えるのですが・・・。
奥州藤原氏の東北地方の支配体制が制度疲労を起こしつつあったにもかかわらず、藤原秀衡という一人のカリスマによって維持されていたのでは?と推測しているのですが、奥州藤原氏の東北支配体制とはどのよなものだったものなのでしょうか。
また奥州藤原氏滅亡後、鎌倉幕府に対して東北地方で反乱等は起こったのでしょうか。奥州藤原氏滅亡後の東北地方と鎌倉幕府との関係についても教えてください。

A 回答 (3件)

藤原氏の武力は奥州17万騎といわれていた。

これほどの軍勢がなぜ抵抗らしい抵抗をせずにあっさり敗れ去ったのか
この当時。少なくとも源氏軍は保元・平治の乱や平氏との戦いをくぐりぬけた実戦部隊、いわば歴戦のツワモノ達でした。これに対して100年の奥州藤原氏三代の太平の中で戦いを忘れて弱体化した、平和を愛する蝦夷達が太刀打ちできるはずがなかったのです。

それともう一つ。
東北武士は当然、鎌倉にできた新政権がどんなものか知っていたでしょう。
鎌倉政権はそれまでの貴族政治に代わる、武士による、武士のための国づくりを目標とした政権だったのです。

それに引きかえ藤原氏は奥州の覇者ではあるが、その実態は律令政治(それまでの貴族政治)とそれほど違いがあるわけではない。

藤原氏は、朝廷から陸奥守鎮守府将軍に任命され、
奥州の王として黙認されているだけではないか・・・。

当主泰衡は父祖に似ず凡庸ということもあって奥州武士達は、政治体制として鎌倉政権の方により魅力を感じたのではないでしょうか

頼朝は、陸奥国に関東の武士を地頭として配置し、奥州土着の武士を配下にした。鎌倉以来の移住地頭と地元武士が戦国時代まで陸奥国に割拠した。その中で、葛西清重ら葛西氏が下総国葛西郡から奥州へ移り、平泉の統治を任され、「奥州惣奉行」職に就任した。
 
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この回答へのお礼

なるほど、勉強になりました。

お礼日時:2009/06/24 07:09

制度疲労を起こしつつ



逆に制度ができてなく、当主個人のカリスマに依存した支配体系だったため、有効な反撃もできず、関東武家勢力が奥羽に来てもこれといった反乱が起こっていないのだと思います。

確か戦国期の研究家である黒田 基樹氏の後北条家の書籍であったのですが、後世の人間から見ると、後北条家は代々嫡子が後を継いでいるように見えるが、実際には、先代が早めに引退し、家督を息子に継がせている。さらに、その息子は武家の頭領として、実績を作ることで、権威と権力を掌握した。
というような事が書いてありました、つまり戦国期でも当主個人のカリスマ依存が強かった。統治組織ができていない、それ以前においては、より一層個人のカリスマ依存が強かったと推測します。
また、奥州藤原家においては
初代清衡
実力で、奥羽の覇権を握る
二代基衡
兄弟間の闘争を経て、権力を握る
三代秀衡
父の死を受けて家督相続
ということで、実際の闘争での実績がなかったので、秀衡の権力基盤は意外と弱かったんじゃないかな?
そして四代泰衡に至っては、実戦での実績がないので、奥羽の武士にとって「あんまり、信用できないよな」というのが実感だったかと思います。
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なるほど、勉強になりました。

お礼日時:2009/06/24 07:10

こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

まず、奥州歴史を数年前に遡って検証してみましょう。

奥州藤原氏の祖と言われる「清衡」から。
(1)清衡は、父藤原経清が討たれた後、奥州を統一した清原氏によって育てられました。
(2)やがて、清原氏の当主が亡くなると、後継者として、3人の息子(清衡を含む)が争いを始めました。(後三年の役)。しかし、長男は、そうした中で病死をし、次男の家衡が先手を打って清衡を攻め清衡の妻子などを殺しました。
(3)清衡は、当時の陸奥守源義家に援軍を頼み、義家は、朝廷に従いつつも、源氏の勢力拡大をもくろみ、清衡に加勢し、家衡を打倒。
(4)清衡は、奥州最大の勢力である清原氏の当主となりました。
(5)しかし、源義家は、「義家が討ったのは朝敵ではなく、私事で加勢をしたものである」と裁定され、朝廷より陸奥守を解任されてしまいました。
(6)清衡は、いかに朝廷の力が大きいかを思い知らされました。
(7)この頃を境として、清衡は父の藤原氏を名乗り、藤原清衡として奥州を束ねていました。
(8)そして、朝廷への忠誠心を見せかけるため、次のように朝廷に対して書状を送りました。
「私は、分不相応にも、蝦夷の長(おさ)の座に座ることとなりました。今や、出羽、陸奥の民の心は、風に草がなびくように従順でございます。忠義と貞節を持ち国に尽くす思いを決して忘れません」
この書状と共に(奈良時代にすでに開発されていた、と言われる)奥州の黄金と産物を朝廷に献上し、見せかけの忠誠心を示すことで朝廷の介入を阻止したのです。

基衡から秀衡へ
(1)基衡は、特に目立った動きは見せず、平穏に奥州を統治し、その子の秀衡の代になると、養和元年(1181)8月、秀衡は陸奥守鎮守府将軍に任命され、奥州一帯の独立国を形成し、まさに、絶頂期でありました。
(2)一方、治承4年(1180)8月、源頼朝が鎌倉で関東武士団の棟梁となり、頼朝もまた、奥州藤原氏と同じく、地方において地方の武士団をまとめることに成功。
(3)寿永2年(1183)、頼朝は、関東武士団の推挙により、朝廷に働きかけて関東の支配を認めさせる。
(4)元暦元年(1184)1月、義経上洛。この威勢に乗って頼朝は奥州をも手に入れようと画策する。
(5)頼朝は朝廷に進言し、秀衡を陸奥守から解任。
(6)秀衡は動かなかった。頼朝の挑発であっても許可なく関東に攻め込めば、「反乱」とみなされる、と判断。
(7)文治元年(1185)3月、義経が壇ノ浦で平氏を滅ぼす。
(8)これにより、頼朝は、いよいよ、奥州討伐を決意するが、まず手始めに、
「貢馬貢金などは、まず、鎌倉に沙汰進ずべし」(吾妻鏡)
と、藤原氏が朝廷と直接のつながりを分断する作戦で藤原氏を追い詰めた。しかし、秀衡は、黙ってそれを受け入れた。
この背景として考えられることは、当時、奥州武士団は17万騎いると言われており、戦をしても十分に戦えると考えられていたが、仏教文化を取り入れた「穏やかな暮らし」を求めていました。
(9)ところが、追い討ちをかけるように、壇ノ浦の戦いなどで活躍した源義経が兄頼朝の怒りを買い、朝敵とされ、奥州藤原秀衡を頼って来ました。文治3年(1187)2月のことでした。
(10)秀衡は二つの決断を迫られました。
1.義経を匿って朝敵となる覚悟で頼朝と戦うか。
2.朝敵義経を差し出して、朝廷や頼朝に従うか。
(11)秀衡は、苦渋の決断として、1.の頼朝を迎え討つ決断をし、阿津賀志山(あつがしやま=福島県)に巨大な土塁を巡らし、着々と軍備を整えていきました。
(12)しかし、そのわずか8ケ月後、文治3年(1187)10月に秀衡は病死。
(13)遺言として、
「奥州藤原一族は源義経と力を合わせ頼朝を討て」
と、明言しました。

泰衡
(1)藤原氏の当主となったのは泰衡でした。
(2)文治5年(1189)2月、頼朝は、朝廷に、「朝敵である義経を匿う罪は重い」として、藤原氏追討を願い出た。
(3)(確かに、NO1.の方の言われるように)泰衡は、凡庸であったためと、戦のノウハウを知らなかったため、戦意喪失。頼朝打倒で結束していた奥州武士団に亀裂が入った。
(4)文治5年(1189)閏4月、泰衡の軍勢が義経の館を襲撃し、義経を自害させた。
(5)泰衡は、義経の首を頼朝に送り、服従する意思を示した。
(6)しかし、頼朝は、藤原氏が義経を匿った罪を再度朝廷に訴え、頼朝自ら大軍を率いて奥州を目指した。
(7)結束を失った奥州勢は、あっけなく敗れ、奥州藤原氏の終焉となった。

こうして、見ていくと、
(1)確かに、関東の荒武者軍団は、後々、語り継がれることとはなりましたが、奥州武士団としても、決して、戦いが劣っていたわけではなく、泰衡の棟梁としての力量がなく、結束力を欠いた。
(2)また、泰衡は、従者の河田次郎により殺害された、といわれており、まさに、内部分裂であった。
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お礼日時:2009/06/24 07:10

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Q奥州藤原氏と東北地方について

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Q鎌倉幕府滅亡後、鎌倉は政治的にどういうところだったのでしょうか

幕府消滅後も、鎌倉公方などとか言う役職があったかと思うのですが、なにか政治的役割を担い続けたのでしょうか。その後の鎌倉の政治的遷移について知りたいのですがお願いします。

Aベストアンサー

足利幕府は鎌倉公方をここに置き、尊氏は弟の直義を成良親王を奉じて鎌倉に下向させますが、その直義と不仲になり、これを平定した後には次男の基氏を鎌倉公方として派遣します。その意味では副首都的な意味を持ちますが、管領の上杉が実権を握り、さらにはその家臣が上杉に叛乱を起こすなどして収まりがつかなくなり、鎌倉公方が廃止されて以降は戦国の争乱の中に埋没してしまいます。そして関東は小田原に本拠を置く北条氏の手に落ちてしまいます。

Q奥州藤原氏の滅亡はなぜ?

なぜ奥州藤原氏は滅亡したのでしょうか?
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後三年の役より約100年。
戦の仕方を忘れてしまった奥州藤原氏の軍は、保元・平治の乱を戦い抜いた源氏軍の敵ではなかったのでしょうか?
また、奥州藤原氏が滅び去った後の陸奥・出羽はどうなったのでしょうか?

Aベストアンサー

俗に奥州17万騎と言われる兵力は、あくまで農民の延長線上にある数で、いつでも戦える武力ではなかったと思われます。

頼朝の奥州攻めの中で、最もキーポイントとなるのは「阿津賀志の戦い」ですが、この戦いが行われのは8月8日~10日の3日間・・・この8月8日というのは、もちろん旧暦で、しかもこの年は4月に閏月があったため、この日を太陽暦に換算すると1189年9月28日となり、東北の刈り入れ時期とぴったり重なります。(もちろん頼朝の計算です)

結局、現実に動員された人数は1万~2万ほどではなかったかと言われています。
かたや、鎌倉側は24万4千騎と発表してますが、その前の源平での戦ぶりを見ると、実際には数万騎くらいではなかったか?と思います。

それでも奥州の2倍~3倍はありますが、もちろん、この米の収穫時期を狙ったのが頼朝の計算である事は藤原泰衡も承知しています。

倍以上の兵力を少ない人数で迎え撃つためには、山中のゲリラ戦か、一点集中の防御かになると思いますが泰衡は後者を選びます。

それが、阿津賀志に柵を設けての合戦です。
もし、ここでゲリラ戦に挑んでいたら勝てたかも知れませんが、それは、この後の結果を知っているから言える事で、少なくとも、この時点では、どちらをとっても一か八かの賭けのようなものだったと思います。

もちろん、泰衡も、「もし、ここが破られたら・・・」というその先の計画も考えていたでしょう。

それが、ここを破られたら、あっさりと北へ逃げる事です。
鎌倉幕府の正史である『吾妻鏡』では、この泰衡の行動を、敵に背を向ける臆病者呼ばわりしていますが、それはあくまで鎌倉側の言い分で、おそらくは、泰衡は、時間をかせいでいたのではないか?と思います。

東北の冬は、早いですから、もう少しだけでも時間を稼げば、農期は終わり、あたりに雪が降り始めますから、そうなると、例の奥州17万騎がフルに活用できる上、雪中での戦いにおいて、彼らは鎌倉武士よりはるかに有利です。

しかし、残念ながら、泰衡は、その冬が訪れる前に、信じていた家臣からの騙まし討ちで命を落します。
さすがに、これは計算できません。

いや、逆に頼朝側から見れば、この戦いを冬にまで持ち込まれてしまっては、負ける確立大ですから、それこそ、騙まし討ちであろうが何であろうが、泰衡を討ってしまう事を最優先にした可能性もアリですね。

よって、
>なぜ奥州藤原氏は滅亡したのでしょうか?
の回答としては、泰衡が家臣に殺されたから・・・と考えます。

雪の季節まで彼が生きていたら、巻き返しがあったかも知れないという期待を込めて・・・以上は、あくまで私見ですが・・・参考にしてみてください。

俗に奥州17万騎と言われる兵力は、あくまで農民の延長線上にある数で、いつでも戦える武力ではなかったと思われます。

頼朝の奥州攻めの中で、最もキーポイントとなるのは「阿津賀志の戦い」ですが、この戦いが行われのは8月8日~10日の3日間・・・この8月8日というのは、もちろん旧暦で、しかもこの年は4月に閏月があったため、この日を太陽暦に換算すると1189年9月28日となり、東北の刈り入れ時期とぴったり重なります。(もちろん頼朝の計算です)

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Q鎌倉幕府が滅亡したとき…

単刀直入に伺います。
鎌倉幕府が滅亡した時(した後というべきか)、傀儡であった宮将軍はどうなったのでしょうか。(幕府の事実上の頂点である執権・北条高時が一族ともども自刃、で幕府滅亡ということだったと思いますが、名目上の頂点である将軍はどうだったのだろうかと。)

Aベストアンサー

では要点をしぼってお答えします。
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征夷大将軍を辞任して出家しました。ただし、同年、死去しました。
病死?他殺?自殺?いろいろな憶測があるそうです。享年33才。
ちなみに当時の執権は北条守時です。もちろん、権力は高時が握って
いたんでしょうけど。

Q藤原道長と奥州藤原氏?

はじめまして。ちょっと疑問があります。
奥州藤原氏は、東北らへんに住んでいたんですよね。でも、藤原道長は京都で摂政をしていたってことは、藤原一族は京都から東北地方まで移り住んだってことですか??徒歩で?!@@
それとも藤原道長と奥州藤原氏は親戚ではないんでしょうか,,,
教えてください。

Aベストアンサー

まず最大に注意しないといけないことは、奥州藤原氏は藤原秀郷の子孫を「自称」していたことです。
つまり、実際に藤原摂関家と血がつながっている証拠はないのです。

これは多くの武家にいえることですが、自分の家を有名な人の後裔にすることで、格式に箔をつけるのです。

戦国に至るまで多くの家系が藤原氏の出であるとなのっています。そうですね・・・後北条家の家臣だけで見てみると・・・まず成田氏(藤原道長後裔)、内藤氏(同後裔)、清水氏(不明、しかし藤原姓を名乗っていた)といった具合に、結構な数が藤原氏後裔を名乗っています。

理由は二つです。
1つ目は後裔を名乗っている家の独自改竄。
当時家系図といっても、あちこちに散逸している一族の家系図をすべてまとめてはいません。そういうわけで「自分たちのさかのぼれる先祖を、ここにくっつけてしまおう」というのが横行しました。
なお、架空の人物が家系図に入っているわけではないため、どこがどう改竄されたのかがわからないのです(そもそも改竄した家、つまり勝手に名乗っている家は、それより前の記録がない)。
2つ目は、藤原氏が売り渡したもの。藤原摂関家は没落して財政難となったのですが、そのため自分たちの戸籍を売り渡して、ばら撒いていたようです。
こちらもどう改竄されたのかはわからないのです。

奥州藤原氏は前者ですね。実際に本当の家系と認識されるのは清衡までです。それ以前は怪しい、というのが現状です。
でも、ある程度家系図がしっかりしていると、そうであると認められるのが世の常。奥州藤原氏もそうです。

なお、実際に藤原氏は日本中に散布しています。理由は律令官制の国主などのせいです。また、嫡男以外は別系列を作るしかないですから、子孫が別家系を作り、またその子孫が別家系を・・・という具合に、どんどん増えたのです。で、もちろん嫡男以外は中央からは遠ざかりますから、端のほうはどんどん遠ざかります。
その中には守、介を拝領してその地に赴いて、そこに土着した人もいました、中には罪人となり僻地に流された人もいました。中には敗戦したのちに落ち延びた人もいました。次男がそのまま土着した例も数多いです。
で、そういった人の実際の子孫か、それを利用して家系をくっつけた家が全国には大量にいるのです。奥州藤原氏もその一つです。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/奥州藤原氏

まず最大に注意しないといけないことは、奥州藤原氏は藤原秀郷の子孫を「自称」していたことです。
つまり、実際に藤原摂関家と血がつながっている証拠はないのです。

これは多くの武家にいえることですが、自分の家を有名な人の後裔にすることで、格式に箔をつけるのです。

戦国に至るまで多くの家系が藤原氏の出であるとなのっています。そうですね・・・後北条家の家臣だけで見てみると・・・まず成田氏(藤原道長後裔)、内藤氏(同後裔)、清水氏(不明、しかし藤原姓を名乗っていた)といった具合に、...続きを読む

Q鎌倉幕府執権北条氏の集団自害

北条氏が滅びたとき得宗家、六波羅探題をはじめ地方の出先機関の一族の多くが集団自決をしてるようですが、日本の歴史のなかで戦に敗れて集団自決したのは平家と北条氏と先の大戦の一般市民だけだと思われますが他にもあるのでしょうか?北条氏は平家の子孫ですから先祖の例に倣ったのでしょうか?また切腹という自害方法は鎌倉時代以前にもあったのでしょうか?その思想はどこからうまれたのでしょうか?腹切といえば薩摩武士が思い浮かびますが、やはり島津家の鎌倉時代の名残なのですか?

Aベストアンサー

初めて切腹をしたのは、平安時代末期の武人で、弓の名手、鎮西八郎と呼ばれた勇将、源為朝だそうです。彼は戦い敗れた時、敵に捕まり首を落とされるのを嫌い、自ら切腹して果てました。彼の潔い鮮烈な死は、敵方にも感銘を与えたと言われます。後の鎌倉時代に武士道が広まるに従って、敵に捕まり斬首されるよりは、源為朝を見習って切腹するという考えが定着していったと言われます。

北条氏が平氏に倣って集団自決したのかはわかりません。その可能性はあります。ただ、戦いに破れ、もはや再起を諦めた者が自決の道を選ぶのは決して珍しい事ではありませんでした。湊川の戦いに敗れた楠木正成は弟の正季以下50余名と共に自決しています。

Q藤原氏と奥州藤原氏の関

中臣鎌足の子孫である藤原家と、義経をかくまったので有名な奥州藤原氏(三代目の藤原秀衡など)は、どういった関係なんでしょうか?

Aベストアンサー

奥州藤原氏の前身は、東北の豪族であった清原氏で、
その地盤を引き継いで基礎を固めたのが、藤原(清原)清衡です。

その清衡ですが、もともとは藤原経清の息子で、
父親の死亡後に母親が再婚して清原氏に嫁いだため、
連れ後として清原氏に入った事情があります。

後三年の役で、清原氏の内紛を制した後で、
出自のために清原氏で冷遇されていたこともあり、
元々の姓である藤原を改めて名乗りました。
「藤原」と名前がつくのはこのためです。

そして藤原本家との関係ですね。
一番の祖先である藤原経清ですが、
これは鎌足以来の藤原氏の末裔である秀郷流藤原氏の流れを汲みます。
本家からは相当はなれているので、傍系もいいところですが…。
藤原氏には傍系がたくさんあって、
その中には武家となったものもあり、
秀郷流藤原氏はその中でも比較的名門の部類に入ります。
残念ながら、そこでの経清の位置まではわかりません。

というわけで、名前が示すと通り、
奥州藤原氏と藤原本家には一応の血縁関係があります。

Q鎌倉幕府、室町幕府の直轄領

江戸幕府の直轄領(天領)は400万石くらいあって、いかなる雄藩もはるかに上回るものでした。
それでは鎌倉幕府や室町幕府の直轄領はどのくらいあって、それは有力な御家人や守護大名
と比べてどれだけの規模だったのでしょうか?
どの範囲までを直轄領とみなすかにもよりますし、江戸時代と鎌倉時代や室町時代では土地の制度も
政治制度も違うから、一概に比較は難しいかもしれませんが。

Aベストアンサー

鎌倉 室町 江戸
三つの幕府ともでき方が違うので、一概には言えませんが。

鎌倉幕府では、関東御料が将軍直轄領になりますがこれの中核になったのが、平家没官領500余所になります。
500というのがどんな感じかというと
東大寺の荘園数が80
大覚寺統の基盤になった八条院領が152
持明院統の基盤となった長講堂領が180
これを見ると、ああ平家はすごかったんだな、頼朝もねとなりますが、関東御料の各荘園も御家人に分配されたので、直轄なのかというとあやふや。特に摂家将軍や宮将軍になると将軍直轄領はなかったようです。
直轄領に裏付けられた直轄軍がありませんでしたから。

室町将軍家は、直轄軍としては奉公衆がおり、最大で一万程度と言われています。逆算すると江戸時代の換算では、35万石くらいになります。
室町期の人口が1000万≒1000万石(全国)だったはずなので、江戸期の3000万人≒3000万石 に換算すると江戸時代における100万石くらいではないでしょうか。

結構、鎌倉将軍も室町将軍も、直轄軍を持っていません。
結果として鎌倉将軍も、室町将軍も江戸期の将軍よりも専制的でなかった、鎌倉期も室町期も内乱だらけですが、江戸期は内乱がほぼありませんでした。
逆の見方をすると、鎌倉将軍は主敵である平家を滅ぼして、建前上は、武士の統領(=つまり、みんな部下)であり、室町将軍も主敵である南朝を滅ぼして、建前上はすべての守護大名の上司でありました。比較の仕様ありません。立ち位置が違うので。
ところが、江戸将軍は関ヶ原の後も江戸=大坂二重公儀制を保ち、豊臣家を滅ぼしても、完全には仮想敵を滅ぼしきっていません。全部が部下になりきらなかったから、徳川家直轄領が残ったのかもしれません。
最後の二重公儀制にかんしては、戦争の日本史 17 (17) 笠谷 和比古よりです。

鎌倉 室町 江戸
三つの幕府ともでき方が違うので、一概には言えませんが。

鎌倉幕府では、関東御料が将軍直轄領になりますがこれの中核になったのが、平家没官領500余所になります。
500というのがどんな感じかというと
東大寺の荘園数が80
大覚寺統の基盤になった八条院領が152
持明院統の基盤となった長講堂領が180
これを見ると、ああ平家はすごかったんだな、頼朝もねとなりますが、関東御料の各荘園も御家人に分配されたので、直轄なのかというとあやふや。特に摂家将軍や宮将軍になると将軍直轄...続きを読む

Q奥州藤原氏は東北弁だった?

当時奥州藤原氏は京に負けないような華麗な文化を誇っていたといわれていますが、日常の言葉は現在の東北弁に似たものだったのでしょうか、それとも京都弁のようなものだったのでしょうか?

Aベストアンサー

私見です。

奥州藤原氏は近年「五代」といわれるようになり、その期間は百年をこえますが、ご質問は最盛期秀衡の時代のことで宜しいのでしょうね。

一般的なイメージよりも、都と奥州との人的交流は活発だったようです。
元々多賀城国府とのやりとりは密だったでしょう。また秀衡の舅は都の貴族ですし、多賀城国府の元官人や、追放刑に処された下級貴族などが平泉に留まり、藤原氏に仕えるようになったりしたこともあったらしいです。
また商人も盛んに行き来しています。新猿楽記という古典は平安末期の各種職業のカタログ的な内容ですが、その中の商人は「北は陸奥から南は貴賀島 (鬼界ケ島)まで」を行動範囲にしています。
また平泉には大きな寺がいくつもあったので、僧侶の交流もあったことでしょう。都ではありませんが、熊野や白山とのつながりも指摘されていますね。

こういう状況であれば、当時の平泉で京言葉を聞く機会はそれなりにあったのではないでしょうか。それならばコミュニケーションのために言葉の上でお互いが歩み寄ることはあったと思います。しかしそれは理念的に言葉を取り入れるのではなく、必要に迫られて・あるいは日常生活上、少しずつ影響を受けたものではないかと感じます。基本的には地元の言葉を使っていたのではないでしょうか。秀衡はおそらく奥さんが京言葉でしょうから、多少バイリンガルかと……

この件について言語的な資料を見つけることは難しいかと思います。ご存知のように、奥州合戦で平泉はほとんど焼けておりますので。行政資料も焼けてしまって困ったという話もありますし。……目下奥州が書いた文字資料はほとんど寺関係のものばかりで、今ひとつ日常を伝えてはくれません。
毛越寺では曲水の宴が開かれたといいますから、和歌の一つも詠まなかったはずはないのですが、今後の発掘に期待をかけるしかないようです。

ちなみに「東北弁」のようなという部分ですが、質問者さまは多分「地元の言葉」という意味を仰りたいのですよね。
というのは、現東北弁と当時の地元の言葉がどれだけ似ていて、また違っているかというのはまた別の問題になるかと思うので。#1の方が仰っていることですね。

では失礼します。

私見です。

奥州藤原氏は近年「五代」といわれるようになり、その期間は百年をこえますが、ご質問は最盛期秀衡の時代のことで宜しいのでしょうね。

一般的なイメージよりも、都と奥州との人的交流は活発だったようです。
元々多賀城国府とのやりとりは密だったでしょう。また秀衡の舅は都の貴族ですし、多賀城国府の元官人や、追放刑に処された下級貴族などが平泉に留まり、藤原氏に仕えるようになったりしたこともあったらしいです。
また商人も盛んに行き来しています。新猿楽記という古典は平安末期の...続きを読む

Q織田信長は平氏?源氏?藤原氏?橘氏?忌部氏?

『尾張の織田家は元々は藤原氏、橘氏に連なるものであり、熱田神宮とも深いつながりがあったようです。
尾張の物流を司る津島神社の宮司家に連なる者であり、津島港を押さえていたため、尾張守護の斯波氏や尾張守護代の織田本家もうかつに手を出せない立場にあったようです。

尾張における海運の発祥は、日本武尊が東国遠征から帰ったあと婚姻すると約束した美夜受比売の兄、建稲種命。
この人が尾張水軍を率いてた人で、尾張氏。
藤原氏を中心とした物部連に連なる人です。
この美夜受比売がのちに日本武尊から預かった剣こそ、通称、「草薙の剣」と呼ばれる「天叢雲剣」です。
そして、その剣を収め、祀ったのが熱田神宮です。
今でも熱田神宮の奥には「天叢雲剣」が御神体としてあるらしい。
このように熱田神宮は常に、尾張の物流の根幹を握っていたようです。」

という内容を読み聞きしたのですが、本当に織田氏は藤原氏=熱田神宮に関係する家系なのでしょうか?
(信長が平氏を名乗ったのは知っています。)

Aベストアンサー

『織田系図』・『織田家譜』では平重盛の子資盛の遺児、親真を祖とし、初めは近江国津田荘に、そして越前国丹生郡織田荘の織田剣神社の神官へ養子となり織田氏を称したとあります。
 しかし、永正15年(1518)に守護代織田達勝が円福寺に出した禁制では「藤原達勝」とあり、信長も天文18年(1549)に出した禁札に「藤原信長」と署名しています。信長が平姓を名乗ったのはご承知の通り天下統一に向けて、源氏である足利家への抵抗からでしょう。そのため、平氏の落胤に結びつけた系図を作成したというのが妥当ですね。

 ですから織田氏は、藤原氏であり越前国丹生郡織田荘を本拠としていたというのが、通説となっています。ただ信長が途中から平と氏を変えたように、「織田は藤原氏だった」というよりも、「織田は藤原氏を名乗っていた」ぐらいに見るのが妥当ではないでしょうか。昔は地方ほど無姓の者は「藤原」を名乗って、ステータスとしていた時代もあったのですから。それが大量に藤原氏の流れを汲む一族が生まれる一因となります。

 また藤原だったから攻めなかったというのも、後世の後付の域を出ない内容でしょう。今目の前にいる肉親ですら平気に争っていた時代に、そんな大昔の氏族つながりがどれほど意味があったでしょう。

「氏神というものは複数存在するものなのでしょうか」
氏神が本来の“氏の祖神、祖先を祀った神社、あるいは神”という意味ではなく、郷土の産土神や有力神を氏族の守護神としたものという意味で使われているのであれば、複数存在してもおかしくはないでしょう。それ以前に藤原氏であれば氏神社は奈良の春日神社ですが、藤原といっても鎌足や不比等の流れを汲むものではなく、ステータスとして名乗っていた藤原であれば、そほど意識はしないでしょうね。

 尾張氏(おわりうじ)は天火明命を祖神とし、本宗家は天武天皇13年(684)に姓(かばね:氏とともに朝廷より賜る称号)を連(むらじ)からより高いの宿彌(すくね)に改められます。

 熱田神宮は当初、尾張氏が奉斎していましたが、12世紀初頭からは藤原南家の熱田大宮司流が大宮司を勤めます。

『国史大辞典』吉川弘文館
『日本史諸氏諸家系図大辞典』講談社

『織田系図』・『織田家譜』では平重盛の子資盛の遺児、親真を祖とし、初めは近江国津田荘に、そして越前国丹生郡織田荘の織田剣神社の神官へ養子となり織田氏を称したとあります。
 しかし、永正15年(1518)に守護代織田達勝が円福寺に出した禁制では「藤原達勝」とあり、信長も天文18年(1549)に出した禁札に「藤原信長」と署名しています。信長が平姓を名乗ったのはご承知の通り天下統一に向けて、源氏である足利家への抵抗からでしょう。そのため、平氏の落胤に結びつけた系図を作成したというのが妥当で...続きを読む


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