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 こんにちわ。
先日、老人(70代後半~80代前半の女性。戦争当時、東京在住)と話をする機会があったので、
戦時下の生活について聞いてみました。

その人が言うには、
・戦前は結構のんびりしていた
・中国での戦争は、違う国の出来事に感じていた
・食べ物に苦労することは無かった
・戦時中なのに、あまり緊張感が無く、外来語は使われていた
・昭和19年ごろから、とたんに戦争が急に身近になり、
生活のすべてが変わった

こんな感じです。
テレビが言う戦時下の日本は、「外来語の使用を禁じるなど、著しい言論・思想弾圧が横行、国民は陰鬱な窮乏生活を強いられている」感じですが、本当はどちらなんでしょうか。
その辺に詳しいサイトがあれば、教えてください。
よろしくお願いします。

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A 回答 (11件中1~10件)

(1)庶民はこんな歌を歌ってウサ晴らしをしていました。


「愛国行進曲」(見よ東海の夜は明けて)の替え歌
見よ東条の禿頭
ハエがとまればツルッと滑る
滑って止ってまたすべる
止って滑ってまたとまる
おおテカテカの禿頭

(2)防空壕の中の屁は臭い!
サツマイモを食べると屁が良く出ます。
防空壕の換気は悪い。

◎昭和19年ごろから悪くなったのは事実。
◎戦前は暗い社会だったというのは、特高や憲兵に痛めつけられた左翼系の文化人の宣伝です。
庶民は、替え歌を歌い、防空壕で臭い屁を嗅ぎながら、元気に生きていました。
◎それでも、今の人(戦後生まれの人)だと、辛抱できないだろうな。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。回答を締め切るのを忘れてしまって、いました。こちらのお礼はすべての回答者様に向けるものとさせていただきます。
皆様のお知恵を拝借することにより、本当の姿にまた一歩近づくことが出来ました。
「戦時中は物資が極端に不足し、軍部による抑圧の結果、国民は厳しいものに...」と言うのはうそっぽいですね。
英語の話は聴いたことがあります。禁じられていたけど、ほぼザル法だったとか。
何より潜水艦のニュース映画で「ブロウアウト!」と叫んでました。英語が禁止されたら、「噴出!」とかでも良いような気がしますが。
本当に重ね重ね、ありがとうございました。その頃を知る世代は日に日に少なくなってしまいますが、もっとがんばって聴いていこうと思います。

お礼日時:2009/07/20 09:41

No8です。


>戦争中でも歌謡曲は明るい曲が好まれはやっていました。

暗い歌や哀しい歌は、検閲で禁止されていました。冗談のような話ですが、「奥床(ゆか)しい」の形容詞が黒く塗りつぶされたそうです。
 なぜかというと、奥に床(とこ)があるのはいやらしい連想を生むからだそうです。こんなレベルの検閲が行われていたのです。

>母も戦後になってアメリカから缶詰やビン詰がはいてきたときに、親戚の戦中に女学生だった人が英語のラベルをスラスラを読んでいたそうで戦中でも英語の授業はあったと言っていたらしいです

 使用は遠慮されていても英語を読むところまで禁止されていたわけではないので、海軍兵学校では英語の授業も継続されています。

 アメリカの日本人は収容所に押し込められ、財産も差し押さえられましたが、日本では別にアメリカ人だからといって、敵性外国人として拘留したわけではありません。生きにくい時代でも人間は明るく生きようとするものだと思います。アウシュヴィッツ収容所でも明るく生きたユダヤ人はいました。もし戦争だからといって暗い顔をしていたら非国民とののしられたことでしょう。心の中の暗さと顔の表情の暗さは比例しているわけではないでしょう。
 戦後に暗いのは、思いを顔に出してよくなったからだけではないかと推量します。戦争が終わり、密告政治がおわったので、偽善を演じる必要がなくなったのだと考えます。
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戦前は世の中真っ暗は嘘です。

戦争中でも歌謡曲は明るい曲が好まれはやっていました。野球のセーフ、アウトを使わなくしたとか、そんな野球を見た人などいないはずです。外来語の使用は禁止されたものがあったかもしれないが不便を感ずるほどのものではなかったのではないかと思う。食糧も敗戦までは配給でなんとか空腹をしのいでいたが敗戦後は
配給制度が崩壊してヤミ米を手に入れなければ生存出来ない世の中にになり米軍の食糧援助がなければ日本人に多くの餓死者が出たかもしれません。日本人が敗戦時まで満州、朝鮮、台湾、南洋諸島、で生活していた人々が2、3年の間に全員が日本内地へ帰国させられたわけだから米軍の食糧放出がなければ日本人が飢え死にすることは米軍にも判っていたはずです。従って昭和24年までの食糧事情は悲惨なものがありました。しかし昭和25年に朝鮮戦争が勃発すると戦争景気で食糧事情もよくなり復興景気に突き進んでいきます。戦争による暗い時代は敗戦後の3、4年間だけで戦時中も国民は明るく生活していたのが本当のようです。いつの時代でも暗い面と明るい面があるものです、戦前の暗い面ばかり語れば暗くなるが明るい面ばかり語れば明るく思われます。戦前を暗く語りたい人々が今の教科書を支配している関係で、戦前の明るい話を聞かされない不幸があります。日本人は米軍に遠慮してあの戦争で米軍の行った日本人に対する非戦闘員を空爆による虐殺を批難する必要があります、戦争によって非戦闘員の殺傷はハーグ条約で禁止されているはずです。広島、長崎は言に及ばず東京大阪名古屋その他の中小都市で
爆撃で殺された一般住民が何万人いるのか、日米安保条約締結しているからその虐殺のことを不問にしているようだが、機会があればアメリカはこの問題をどのように考えているのか明らかにしておくべきだろう。
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この回答へのお礼

有難うございます。
「アメリカは正義」、これをアメリカ国民の上から下まで、殆どが疑わないでしょう。それだから、アフガンやイラクに攻め込んでるんですから。
アメリカにとどまらず、規模の大小の如何を問わずして、国軍による全ての無差別爆撃は非難されてしかるべきです。
そのアメリカがワールドスタンダードな人権や人道を説くなんて、笑ってしまいます。

お礼日時:2009/07/20 10:04

地方でも学校のグラウンドを畑にしたり、食料の確保に苦労したことを聞いています。

スイトンや菜っ葉のおつゆが多く、いやになったと聞いています。
 昭和18年生まれの兄の小さい時の写真では、アフリカの飢餓児童のようにおなかがプックリ膨らんでいました。
 戦前は川にもたくさんの魚や川蟹、なまずがいたらしいのですが、父の話では戦争末期の飢餓がはじまり、戦争後しばらくの間で急激に数を減らしたとのことです。もとろん、食料として捕獲したからです。
 質問者が話を聞かれた東京在住の老人はかなりいいお家の方ではありませんか。映画「ほたるの墓」にみられるように地方都市は飢餓が蔓延していたと思われます。
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母から聞いた話では戦時中は20年になっても一応配給もあったし治安も警察もいた、とくに社会体制に逆らうことをしなければ生活はしていた。


しかし、8月15日に日本の敗戦になったあとは、配給や社会制度が崩壊したため
今まで抑圧されていた人々が、「日本は負けた国だ、**国独立とさけび日本人にたいして、好き勝手無法状態、警察も機能せず手が出せない無法ぶりの人々がいたそうで、戦後の闇市を牛耳っていたのはその方面の人だったそうです
 別の話ですが、女学校に行っていた人の話しでは英語の授業も廃止になったわけではなく、勤労奉仕で労働に行って授業が無かっただけで英語が禁止されたわけではないそうです

母も戦後になってアメリカから缶詰やビン詰がはいてきたときに、親戚の戦中に女学生だった人が英語のラベルをスラスラを読んでいたそうで戦中でも英語の授業はあったと言っていたらしいです
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本名も著者も忘れてしまいましたが、茨城の方で


「戦時中は、天国だった」といった内容の本を読んだことがあります。
戦時中、、というと、日本中が、大変な思いをしてたように思ってましたが、場所によっては、あまり影響を受けずに、普通に暮らしてた処も多かったようです。
その著者は、当時、6年生くらいだったようです。
毎日、伸び伸びと遊び回ってたようです。

また「戦争論」の著者、小林よしのり氏の叔父(伯父?)さんも外地に戦争で行かれてたそうですが、
そこでは、食料もたっぷりあり、毎日が楽しい生活だった、、と言ってた、、というのをマンガに書いてあるのを読んだことがあります。
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4です。


戦前はのんびりどころか、普通の暮らし、華の東京です。庶民はアメリカ文化に浸り、芸術家はフランス、軍人と科学者はドイツ、勉強なら英国と。戦前の国力は昭和13年がピークなのですが、大陸での戦争は父の周囲にちょっとあり、蒲田に引っ越す前の高輪では、突然町内会の人がきて、
「今晩3人たのみます」
これは、品川駅に全国の軍が集まって、各地に送り出していたためで、師団単位でくると宿がないので、一般家庭に分宿させていたのです。1度や2度ではなかったそうです。一回は機関銃と将校がきて、目の前で機関銃を分解整備していたとか。無礼者はひとりもいなく、必ずお礼を言って去ったそうです。品川駅前の道が広いのは、あれは軍用道路だからです。

開戦後、12月8日16時でアメリカ映画の上映は打ち切り、タイトルは「スミス都に行く(DVDあります。いい映画です)」

ウチは通信機器や最後は電探のパーツもやっていたので、外来語禁止もなにも無かったそうです。食事は、粗末になったが特にそれ以外は変化なし。泥棒とか活動家が軒並みいなくなったので、かえってよかったそうです。ただ、クチコミとは恐ろしいもので、ミッドウェーで空母ゼンメツなんて、みんな知っていたそうです。
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ウチのオヤジは東京中央区の中学生でした。

大空襲までは特になにも無かったそうです。ただ、ビールなどが配給制になったので、曾祖父のビール(軍需工場の労働者には配給券がでます)を銀座の配給所(麒麟麦酒のあったところ)に取りにいって、大瓶4本荒縄に締めて持ち歩いていると、憲兵に「もしもし」と声をかけられたそうです。もちろん、ゴルァッ、ではありません。
で、配給券を見せ、事情を話すと「時局下、お疲れさまです」とお辞儀して敬礼してくれ、「ありがとうございます」、と。

父は東京の空襲をドゥーリットルから3月10日のまで全て特別区で食らった経験の人ですが、ドゥーリットルのときは、野球していて、
「あ、飛行機だ。でかいなあ。海軍だよ」
「みんな外地にいるんじゃない?」
「あ、くるねぇ」
アメリカのマークみてびっくり。蒲田にいたので、
「下丸子の戦車工場に爆弾おとしにきたんだ(下丸子に三菱の戦車工場がありました。74式までやっていたはずです)」
息を殺してみていたけど、飛び去っただけ。プレイ再開。なんかサイレンが……
自転車のお巡りさん登場。
「家に帰れッ、空襲警報だぞっ」

こんな感じです。3月10日の時は、焦げた電信柱がいい燃料になるという事をみんな知っていたので、ナタ持った人がみんなで割って持って行ったそうです。当然父もそうしていました。
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基本的にはサイパン失陥から状況が変ります。



それまでは外地での戦争だったのですが、日本領(正確には信託統治領)が占領されて日本への攻撃が現実帯びてきたのです。

それまでは、
国民服なんてダサイ
戦争って何処でやってるの?
という状態だったそうです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
やはりサイパン陥落以降ですか。
勉強になります。

お礼日時:2009/06/28 19:46

防空壕を作ります


深さ2~3メートルの穴を掘って木を梁渡してから板を敷いて土を載せるのです
敵機が来るとその中に隠れてやり過ごすのです
防空壕の上は畑にするのです

叔父が食品会社に勤めていたのですがそこの倉庫が爆撃で燃えてしまいました
沢山の食料が燃えたのですが缶詰はラベルが燃えただけで助かった物がかなりありました
戦地に送る食料だったのですが燃えた物を送ってはいけないということで従業員に配給されました
外側は燃えてしまって中身が何か分かりません
おかずにしようと開けたら蜜豆だったりおやつと思って開けたら鰯の煮付けだったりで今なら笑い話です

そのうちに食べるものがなくなってきて犬を殺して食べたこともありました

飛行機の代用潤滑油を採るひまの実を炒って食べて大勢が下痢をしたこともあります
ヒマの油は下剤なので下痢をするのは当然ですがアーモンドのような味でおいしいのです
これも今では笑い話ですね
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
鰯の煮付けの話、面白いですね。
そういう話、大好きです。

私の祖母の話ですが、終戦間際にどういうわけか大量の粉末しょうゆ(?)をもらったと言ってました。その量、トラック一杯分だったそうです。もちろん困ったみたいです。
それとどっかの倉庫で大量のグルタミン酸ソーダ(味のx)を見て、「まだまだ戦争はできる」と確信したそうです。

お礼日時:2009/06/28 20:10

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Q戦時中の日本国民の生活は、本当はどうだったのか?

数日前、家でNHKのファミリーヒストリーという番組をたまたま観ていました。
この番組は各界の有名人の家族の歴史を探って紹介しており、私が観た時は女優の余貴美子の家族でした。
余貴美子さんはお爺さんとお婆さんが台湾人で、日本で一旗上げる為に来日し商売を起こし、東京で手広くビジネスを展開していたそうです。
その中で、私が"あれっ"と思った事があったのですが、余貴美子さんのお爺さんは戦時中には乾燥バナナを台湾から輸入して、大儲けし大豪邸を建てたという事でした。
戦争中と言えば、物資が不足しているイメージがありますが、豪邸なんて建てられるのでしょうか?
それに国家の命運がかかっている時期に豪邸を建てるなんて贅沢な事を世間は容認したのでしょうか!?
私は、戦争中にそんな事をすれば批判されそうな気がします。
戦時中に、それも台湾出身者が日本でビジネスをし、その上、大儲けをする。
台湾人がそうなんですから、日本人や朝鮮人などでも大儲けし、景気の良かった人はたくさんいたのではないでしょうか!?

それから話は変わりますが、数週間前の読売新聞の日曜版の中の新刊本を紹介する欄で、本の名前は忘れましたが、戦時中の事が書かれた本の内容が一部紹介されており、戦争中に日本国内で温泉旅行ブームが起こったと書かれていました。

戦争中に温泉旅行ブームは意外な気がしたしたが、戦況の悪化に伴い日本国民の生活はどんどんと厳しくなっていったのは確実だとは思いますが、これまで日本国民がメディアから聞かされてきた様な、戦争中は主食に芋やすいとんを食べていて非常に貧しかったというのは、数ヶ月、半年、一年間の事なんでしょうか?
私は、戦争が始まる頃からか、その少し前頃から日本国民は自由がなく、食べる物にも事欠いて、窮乏生活を強いられていたと思っていました。

事情通のみなさん、実際はどうなんでしょうか?

数日前、家でNHKのファミリーヒストリーという番組をたまたま観ていました。
この番組は各界の有名人の家族の歴史を探って紹介しており、私が観た時は女優の余貴美子の家族でした。
余貴美子さんはお爺さんとお婆さんが台湾人で、日本で一旗上げる為に来日し商売を起こし、東京で手広くビジネスを展開していたそうです。
その中で、私が"あれっ"と思った事があったのですが、余貴美子さんのお爺さんは戦時中には乾燥バナナを台湾から輸入して、大儲けし大豪邸を建てたという事でした。
戦争中と言えば、物資が不足...続きを読む

Aベストアンサー

「戦時中」と言われるておられる時期(期間)と、庶民生活に影響が及んだ期間についてのイメージが錯綜されて伝えられているために判り難いのか思います。

イメージが錯綜してしまう原因はおそらく次の2点の影響が大きいのかと思います。
(1)歴史本や教科書は政治史が中心になっています。
(2)表現の自由や報道の自由というものが、昭和初期から徐々に制限され始めました。特に共産主義思想や社会主義思想への弾圧が強化され続けました。
これに対する反動として、第二次世界大戦後の暫くの間、いわゆる左翼系思想に基づいた教育が続いた結果、左翼系思想に対する制限の強化が殊更に強調されて伝わってしまっています。

(2)の影響で
「私は、戦争が始まる頃からか、その少し前頃から日本国民は自由がなく」
というイメージを持たれたのだと思います。

庶民生活への経済的影響は昭和2年の金融恐慌が発端となりました。
昭和12年の盧溝橋事件を切っ掛けに軍事費が財政を圧迫し始めました。
同時に米英を中心とした今で言う経済制裁が始まりました。

昭和12年 9月 東京市内の円タクの深夜営業禁止
      10月 東京市内の銭湯の朝湯禁止
      12月 東京に木炭バス出現
昭和13年    代用品と呼ばれる品物が出現
           陶製のナベ、竹製のスプーン、鮫皮の靴、鮭皮のハンドバッグ、木製バケツetc
昭和14年 6月 料亭の営業を午前0時までに制限
      12月 歳末大売出し禁止、門松廃止
昭和15年 1月 後楽園球場で炭焼きが始まる。神宮球場が木炭倉庫に転用される。
       5月 東京市が外米(輸入米)6割混入の米を配給する。
       8月 「ぜいたくは敵」「ぜいたくは出来ない筈だ」などの標語が発表された。
           同時に啓蒙と称する取り締まりが始まる。
      10月 浅草で「代用食展」が開かれる。
          ダンスホールの営業禁止
昭和16年 4月 六大都市で米穀配給通帳が発行され配給制度が始る。外食券が発行される。
       5月 「肉なしの日」が実施される。・・・実質的には市中の食肉は欠乏していました。
       8月 食堂や料理屋での米食を禁止し、販売時間制とする。
       9月 砂糖、マッチ、小麦粉、食用油の集成配給切符制度が設けられる
      10月 配給米の輸送をトラックから電車に切り替える。(ガソリン不足)
      12月 東京市内の妊婦診断の結果、
           栄養不良により半数が罹病しているかあるいは障害があることが判明
昭和17年11月 家庭用蔬菜の登録販売が始まる。
      12月 東京市内ガス使用が一戸一孔に制限される
           「欲しがりません勝つまでは」の標語が発表される。
昭和18年 4月 鉄不足を補うために銀座の街路灯が撤去される。
       6月 東京の昭和通りの街路樹が取り払われ畑に転用される。
昭和19年 3月 バー等の飲酒サービス店閉鎖
       4月 六大都市の学童給食用に米を一人7勺配布する
       9月 学童給食の米を廃止しパンを支給する。 
       11月 都民食堂と称する雑炊食堂が設けられる
           物価が高騰し始める 前年比13,3%上昇
昭和20年 6月 都民食堂(雑炊食堂)600軒が外食券食堂となる。朝食25銭夕食50銭
       8月 六大都市の主食配給が一人2合1勺となる

以上で、徐々に物資が手に入り難くなり、食糧事情が悪化して行く様子がイメージできましたでしょうか。
余貴美子さんのお話や、温泉ブームの話については、何時の時代でも金をかき集める才能がある方はおられます。

終戦と同時に、都市という都市が焼け野原になり、工場という工場が破壊されたところへ、満州や朝鮮半島、台湾などから着の身着のままの引揚者や復員兵が帰ってきたのですから戦後の窮状は惨々たるものでした。
この記憶と、戦前戦中の物資の欠乏との記憶が混同して伝えられているのも止むを得ないことかと思います。

社会が暗かったか明るかったかは、その日その日を送っていた人達がどのように受け取っていたか次第です。
当時の流行歌がyou yubeに沢山投稿されていますので聞いてみて下さい。
昭和11年 わすれちゃいやよ、ああそれなのに、東京ラプイソディー
昭和12年 青い背広で、人生劇場、人生の並木道、妻恋道中、マロニエの木陰
昭和13年 別れのブルース、支那の夜、満州娘、初j恋、雨のブルース
       (エノケン一座が旗揚げ)
昭和14年 名月赤城山、東京ブルース、港シャンソン、懐かしのボレロ、一杯のコーヒーから
       (後楽園球場の入場者2万人)
昭和15年 湖畔の宿、誰か故郷を想わざる、ラバウル小唄
       (東京競馬場第九回ダービー入場者6万人、銀座のお汁粉屋が19軒を越える)
       (芸能人の英語風芸名禁止)
昭和16年 北上夜曲、明日はおたちか、船頭さん、たきび
       (街頭でのスナップ写真が流行する)
昭和17年 婦系図の歌、新雪、勘太郎月夜唄、湯島の白梅、鈴懸の径
昭和18年 十三夜、南国の夜、スキー
昭和19年 惜別の歌
       (俳優座が結成される)
昭和20年 りんごの歌
       (12月31日 NHK第一回紅白歌合戦が実施される)
戦前も戦中も庶民は軍歌ばかり歌っていた訳ではありません。

出典:江戸東京年表 小学館




      

「戦時中」と言われるておられる時期(期間)と、庶民生活に影響が及んだ期間についてのイメージが錯綜されて伝えられているために判り難いのか思います。

イメージが錯綜してしまう原因はおそらく次の2点の影響が大きいのかと思います。
(1)歴史本や教科書は政治史が中心になっています。
(2)表現の自由や報道の自由というものが、昭和初期から徐々に制限され始めました。特に共産主義思想や社会主義思想への弾圧が強化され続けました。
これに対する反動として、第二次世界大戦後の暫くの間、いわゆる左翼系思...続きを読む

Q戦争中、普段通りの生活をしていた人の話を聞きたい

戦争中、普段通りの生活をしていた人の話を聞きたい

戦争体験としてよく語られるのは、原爆や空襲などの攻撃によって肉親が死んだり、家が焼かれたりというものが中心ですよね。
戦後世代の人は、戦時中は1億人の国民全員がこのような辛酸をなめ、苦しい生活を送っていたと信じ込んでいます。
戦時中を過ごした1億人の国民全員が苦労人で、戦後の日本があるのはその人たちのお陰で、その人たちに感謝しなくてはならないという論調が多く見られます。

でも、これってちょっとおかしいですよね?確かに戦争で軍人、民間人合わせて310万人の人が死亡し、都市面積の30%が消失したと言われています。
しかし、310万人の死者は一見多いように見えますが、1億人の人口から見たら3%で、97%の国民は生き残っているわけです。
また、国土が焼け野原になったと言われますが、都市面積の70%は無傷だったわけです。

これらのことから見ても、当時の国民で、肉親や親戚に死亡した人がおらず、空襲も受けなかった人はかなりの数がいるはずです。
その中でも、農村部に住んでいる人であれば、食料にも不自由せず、普段通りの生活をしていた人も多くいたと推測されます。
もちろん時代が時代ですから、派手なパーティーをやったり、観光旅行にでかけたりということはできなかったでしょう。
しかし、戦後世代の人が教わったような、日本中が地獄絵と化したというのはちょっと大げさなのではないでしょうか。

当時は情報も統制され、日本がどんどんやられているというような情報は入って来なかったでしょうから、いずれ自分たちも攻撃を受けるというような危機感もなかったと思われます。
当時の国民の、少なくない数の人たちが、実は普段通りの平和な生活を送っていたと推測されます。
戦時中、実際にこのような普段通りの平和な生活を送っていた方の体験談を聞かせていただけませんか。
また、そのようなことを紹介したサイトなどがあれば教えて下さい。

なお、私が聞きたいのは「戦争中、普段通りの生活をしていた人の話」であって、「そんな人はいない」とか、「そのような質問は不謹慎だ」というような回答はお断りします。
質問の趣旨を理解した上で回答をお願いします。

戦争中、普段通りの生活をしていた人の話を聞きたい

戦争体験としてよく語られるのは、原爆や空襲などの攻撃によって肉親が死んだり、家が焼かれたりというものが中心ですよね。
戦後世代の人は、戦時中は1億人の国民全員がこのような辛酸をなめ、苦しい生活を送っていたと信じ込んでいます。
戦時中を過ごした1億人の国民全員が苦労人で、戦後の日本があるのはその人たちのお陰で、その人たちに感謝しなくてはならないという論調が多く見られます。

でも、これってちょっとおかしいですよね?確かに戦争で軍...続きを読む

Aベストアンサー

 母は田舎にすんでいたので、まったく戦争の影響はなかったそうです。
確かに統制品は手に入りにくかったらしいですが、食べるのにはまったく困らなかったそうですよ。
 よく、都会から食べ物を分けてくれって人が来たらしいです。

 父は逆で都会で生活していたので疎開をしました。
疎開には、集団疎開と縁故疎開ってのがあるんです。
中でも悲惨なのが集団疎開です。学校の力関係が24時間中です。いじめっ子はずっといじめ、いじめられっこはそれこそ現代で言うイジメなんかと比較できないほど酷かったらしいです。

 また、縁故疎開っていうのも、ようするに都会のこじゃれたガキが、自分の親戚をたよって田舎に疎開するんです。すると、もちろんその子のキャラにもよりますが、めちゃ人気者になった人もいたみたいです。

Q太平洋戦争中の食生活は?

この時期になると太平洋戦争時のことがとかく問題になります。
今年も靖国参拝問題とか戦争責任とか・・・。とはいえ、現在の日本を見れば、
不況だ不況だといいながらも飽食を貪っている。戦争自体は毎年語られるけど
戦争中に国に残って生活していた人たちについては忘れられがちな気がして。
どのような生活で、どのようなものを食していたのか良くご存知の方、教えてください。

Aベストアンサー

この時期の人々は既に高齢化しています。

私が昭和8年,1933年生まれ、戦争の終結が昭和20年,1945年。現在68歳
戦争の前線に出た人々は70歳を越えています。

私の体験は小学生の2年から6年まで、この間の体験は到底このようなところで
総てを書くことは不可能です。

育ち盛りの年齢、最後には食べ物の話になります。
生活していた場所、環境により違いはありますがこと食べ物については農村が
有利でした。

粟、稗こそ食べませんでしたが、大豆の絞り粕、小麦のふすま、かぼちゃ、
薩摩芋、干し杏、大麦、等が主食の座を占めたことも有ります。

白米のご飯と梅干は最高のご馳走。肉などお眼にかかることも有りませんでした。
総ての生活物資は国の統制下、一人にどれだけかの割り当てが有りましたが、

戦争末期になるとこの割り当ても有名無実でした。
履物、衣類も総て同じ、年々大きくなる子供は履物には苦労しました。

右左大きさの違う靴を貰って喜んでいましたが最後にはこれも無くなり
草鞋を履いていましたがこれも新しい物は学校で盗まれました。

欲しがりません勝までは、この標語の下に耐乏生活をしていました。

海に魚は多く居たようですがこれを獲りに行く漁船も軍の管理下、
漁をする人も少なくなり、漁船も海に出ると爆撃の標的になりました。

私は戦争終結後、微熱が続きましたが飢餓熱、栄養失調の発熱でした。
私達年代の人が戦争の体験を語るとき最後には食べ物話で終わります。

日本の大中都市に暮らした人々の殆どは爆撃の恐怖を体験し、衣食住総てで
辛酸をなめた筈です。

このような生活が精神的な重荷になり語ることを拒否する人もあると聞きました。
野坂昭之(字が違うかも)のアメリカひじきと言う小説が終戦前後の食生活を書き賞を貰った筈です

確かこれをもとにしたアニメが有りました。
見ていて目頭が熱くなりました。

私の姪がこのような話を聞きたがり話し事が有りますが2時間くらい話しても
終わりませんでした。

このような生活をしてきても人間は生きています。改めて生命力の強さを
実感するときも有ります。

この時期の人々は既に高齢化しています。

私が昭和8年,1933年生まれ、戦争の終結が昭和20年,1945年。現在68歳
戦争の前線に出た人々は70歳を越えています。

私の体験は小学生の2年から6年まで、この間の体験は到底このようなところで
総てを書くことは不可能です。

育ち盛りの年齢、最後には食べ物の話になります。
生活していた場所、環境により違いはありますがこと食べ物については農村が
有利でした。

粟、稗こそ食べませんでしたが、大豆の絞り粕、小麦のふすま、かぼちゃ、...続きを読む

Q戦争に行かなくて済んだ人達って?

昭和10年代後半、大学生でさえ召集されたあの時代に五体満足で健康な20~30代の男子で
戦争に行かなくて済んだのはどんな人達なんでしょうか?
わざと徴兵回避して村八分になった人達を除いて召集されなくても
堂々としていられた人達の場合です

Aベストアンサー

『軍事板常見問題』のキャッシュより
http://mltr.free100.tv/index02.html
(現在、上記サイトの項目が閲覧できないので…)
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq08k03.html#draft

【質問】軍に召集されなかった人には、どんな人がいますか?

【回答】旧日本陸軍に於いて、召集を担当するのは、各県にほぼ一つ配置された連隊区司令部です。この連隊区司令部で、参謀本部、陸軍省と言った中央が決定した動員計画に基づき、該当者を召集令状を作成します。
 これは、充員召集令状と言い、前年度に作成し、予め警察署に保管、動員令が下令されると発行するものです。
 また、中央とは別に、その地区を管轄とする師団から、戦死、戦傷、戦病などの要員で人員の不足があった場合、管轄地域で召集令状を発行しました。
 これを、臨時召集令状と言い、師団毎に随時作成されています。
 比率から言えば、日中戦争勃発後、後者の令状が多く発行されています。

 この発行の基礎資料になったのが、各市町村役場の兵事課から提出された在郷軍人名簿です。
 これには軍隊の経歴、召集回数、健康程度、家族関係、思想関係、治癒見込(病気の場合)などが記述され、このほか体格等位に徴兵検査の結果を記入、役種に兵役種類が記入され、更に特・分業、特有の技能が記入されています。

 充員召集令状を発行する場合、特・分業、特有の技能に注目し、中央が作成した動員計画の必要技能召集する部隊の練度、任務の軽重なども勘案して、召集を決定します。
 他に、体格等位、健康程度などを重視して必要兵を抽出していきます。
 海軍の場合は、更に思想関係も重要視されたようです。

 さて、召集記録の欄の末尾に「召集延期者」略して「召延」という朱印が押されると、召集対象外となり、召集令状は来ることがありませんでした。
 これには甲、乙と二つの区分があり、甲は絶対召集しない人、乙は人がいない時に初めて召集対象となる人です。
 この召集延期の制度は昭和2年から開始され、制度が年ごとに拡大していっています。
 ちなみに、この規定は、陸軍動員計画令(永年動員計画令)に記載されたものです。

 例えば、1943年当時の戦時召集延期者は以下の通りです。

1.侍従、侍医、東宮傅育官、皇宮警察官吏、皇宮警察部消防夫
2.陸海軍部隊に在職し余人を以て代うべからざる者、及び特種の雇用人、工員にして必要欠くべからざる者
3.鉄道又は通信業務に従事し、必要欠くべからざる者(一般国民対象)
4.船舶(50t以上のもの)乗組員にして必要欠くべからざる者(一般国民対象)
5.民間航空乗組員にして必要欠くべからざる者(一般国民対象)
6.国土防衛に直接関与する業務に従事し必要欠くべからざる者
7.陸軍大臣の指定する工場又は事業上に従事し必要欠くべからざる者(一般国民対象)
8.都道府県、地方事務所、警察署、市区町村の官公吏にして兵事事務を主管する者各一名(一般国民対象)
9.帝国外の地に於いて執務を執行する帝国官吏中、必要なる者、並びに外地最高司令官、朝鮮台湾軍管区司令官
10.帝国議会の議員
11.国民学校教員中必要なる者(一般国民対象)
12.上記の外、国歌総力戦遂行の為に緊要なる業務に従事する者にして、必要欠くべからざる者

 つまり、一般人は輸送、通信関係の職員、陸軍大臣指定工場技術者、兵事係などの召集業務担当者が全面的に免れ、教師も一部が召集対象から外れています。
 また工場の熟練労働者も対象となっています。
 但し、工場などに於いてその選出は各工場に任されていた為、工場幹部の親戚が事務屋として入っていて、召集延期者として選出させた事例もあります。
 この場合は、発覚すると即座に召集されるようになっていました。

 1944年からは、臨時召集延期制度が始まります。
これは、航空機工場、特に重点機種(疾風とか飛燕とか言った戦闘機、飛龍などの爆撃機)の生産従事者は全員この対象となって、召集を延期されています。
 また、これ以外の航空機生産従事者、交通関係従事者、鉱山技師、炭坑夫、造船関係従事者、特攻兵器製造従事者は、例え徴兵検査で入営することが決まっていても、一定期間その入営を延期する「入営延期制度」対象者となっています。
 この制度も1944年から開始されています。

 これより先、1943年3月からは、既に入営した人で、軍需生産に必要な人でなおかつ、「軍の統率、団結、軍の士気上差支えなき範囲内に於いて」召集解除し、職場に復帰させると言う「特別召集解除制度」がありました。

 また、本土の食糧不足が深刻化していた1945年には、根刮ぎ動員があった反面、「召集要考慮制度」というもので、軍需生産だけでなく、農林水産業従事者も対象にしています。

 これらの総数がどれくらいあったかと言うと、召集延期制度が、1941年には10万人程度だったのが、1945年には85万人、臨時召集延期制度は不明、入営延期制度は、1944年で20万人、1945年で6万人、特別召集解除制度は1943~45年で4。3万人、召集要考慮制度は160万人が対象となっています。
 戦時中の在郷軍人数は約500万人、召集要考慮制度を除くと、総数で115万人以上に上っています。
 また、充員召集計画で召集令状を発行されていたのに、その充員召集計画自体が取りやめとなった為、結果的に召集されなかった人も多かったようです。(眠い人 ◆gQikaJHtf2)

うちの母方の祖父。福井出身で戦争当時大阪にいた。
薬剤師だったので徴兵されずに済んでいた。(戦局が悪くなっても製薬する人が内地に必要だったので)

 休みの度に薬をたくさん持って福井に帰り、薬を配って換わりに越前米をもらう。
 ↓
 福井から船でまだ稲作技術が発達していない北海道へ渡る。
 ↓
 米を売ってお金に換えて大阪に戻る。

と、いうのを延々とやっていたそうです。(生活板)

『軍事板常見問題』のキャッシュより
http://mltr.free100.tv/index02.html
(現在、上記サイトの項目が閲覧できないので…)
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq08k03.html#draft

【質問】軍に召集されなかった人には、どんな人がいますか?

【回答】旧日本陸軍に於いて、召集を担当するのは、各県にほぼ一つ配置された連隊区司令部です。この連隊区司令部で、参謀本部、陸軍省と言った中央が決定した動員計画に基づき、該当者を召集令状を作成します。
 これは、充員召集令状と言い、前年...続きを読む


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