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織田信長の直轄の版図は、北条、大友、宇喜多、徳川等の完全に又は半分以上従属したような大名の版図を抜かして計算しても600万石から800万石あったといいます。
対して豊臣秀吉の直轄領は220万石といいますが、この差はどこからくるのでしょうか?
豊臣秀吉は織田信長の後継者としてさらに版図を拡大させて人ですよね。

それと、織田信長の版図の600万石から800万石という話しですが、その間の200万石はどこのことなのでしょうか?
ご存じの方がいたら、あわせてお願いします。

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A 回答 (3件)

信長と秀吉の違い


現在の会社の感覚で言えば
秀吉は分社化したので、系列子会社(前田とか弟の秀長とか)とかは含まない。本社の単体計算。
信長は分社化する前なので、オール織田家。
という違いです。

信長600~800万石
早い話が太閤検地までは、正確な石高理解なんて無かった。
戦国時代の○○家■■万石というのも、太閤検地からの逆算ですので。
だいたい、石高制度ってのがまだないっす。信長の時代は。
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この回答へのお礼

返事が遅くなって申し訳ありません。
ありがとうございました。

600万石~800万石ってのは、勢力圏の判断が難しいとかではなくてそういう問題だったのですね・・
考えてみると、織田の場合は直轄領だけの数字ですからね。

お礼日時:2009/07/12 21:11

農民視点では


戦国の村を行く (朝日選書) (-)
藤木 久志 (著)
百姓から見た戦国大名 (ちくま新書) (新書)
黒田 基樹 (著)
この辺の本にあるのですが、我々が大名領国図で見ているのとは違う実態が出ています。両勢力の中間地帯は、両方に年貢を払う(上記の書籍では、金で平和を買うと表現しています)というようなことをしています。この意味で、全国政権として確定した豊臣時代とは信長の時代はファジーです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2009/07/13 08:56

>この差はどこからくるのでしょうか?


加賀100万石辺りと子飼い大名その他引いてみて下さい。
決して1人でぶん取った訳ではありませんし、褒美を重視します。

600万石から800万石あったといいます。
理由は家臣軍団には大名たる由緒(正当性)が無かったからですね。

※禄を頂いたのであり、国と城を頂いた訳ではありません。

>その間の200万石
当時は貫高制であり、
実際の貫高は表貫高よりもはるかに高い国も少なくありません。

蔵入地は、少ないと言えば少なく、
石田三成は盛んに算盤を打ったと言います。(兵糧の備蓄)

当時は金銀山は元より、海や山河までもが天下人の物であると言う認識があり、(侍は禄を頂く)大量の金銀が大阪に送り込まれます。

これによって豊臣政権は財力を高めます。
これによって大量の兵糧を買い付け、一気に送り込み、
大兵力を長期に渡って運用する事が可能となります。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

>600万石から800万石あったといいます。
理由は家臣軍団には大名たる由緒(正当性)が無かったからですね。

そうだったんですか。
よく羽柴秀吉が姉川の戦いの功績で長浜(でしたっけ?)の大名になったとか、明智光秀が丹波に国替えされたとか聞きますが、正確が表現ではなかったわけですね。

お礼日時:2009/07/12 21:15

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Q戦国大名の最大版図

タイトル通りなのですが、戦国大名の最大版図の石高がどれくらいになったのかが大変興味があります。

関ヶ原後の石高はかなり有名なのですが、その前に最大版図を迎えた武将も多いと思います。

人数が多いですが下に書いてある武将の石高を教えて頂けると幸いです。


・伊達政宗
・北条氏直
・上杉謙信
・上杉景勝
・武田信玄
・徳川家康
・豊臣秀吉
・織田信長
・柴田勝家
・明智光秀
・長宗我部元親
・毛利元就
・毛利輝元
・島津義久


人数が多くて申し訳ありません。

よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

No1です
まだ出ていないところを書かせていただきますね。

柴田勝家(清洲会議後)
基本的には越前一国の領主でしかありませんから約50万石だろうと思います。清洲会議で北近江も柴田側の領地になっています。
ここで問題なのが、
佐々成政(越中)佐久間盛政(加賀)前田利家(能登)
この人達は信長亡き後、勝家の家臣と言い切れないところなんだと思います。単に「味方陣営」なのでしょう。その「味方陣営」まで含めるならば180万石くらいあります。

明智光秀
近江国滋賀郡と丹波一国をあわせると30万石を越える程度はあったようです。

上杉謙信
越後の半分程度が直接的に支配できているところなんだとは思います。
揚北衆と呼ばれる(本庄、色部、新発田)勢力は北越後の広大な範囲を領地にしていましたが、家臣という感じではなく「協力者」というイメージが近いです。勝手に外交したり人事権も及ばない状態でしたから。
そういう独立勢力を束ねて越後、北関東、越中、能登まで支配している感じです。最大版図は私もどこまで含めて良いのかさっぱりわかりません。
味方と言い切れない独立勢力が大勢いるということです。

信長、秀吉、家康のそれぞれの時代によって最大版図のとらえ方も様々に違っているようには思いますね。

No1です
まだ出ていないところを書かせていただきますね。

柴田勝家(清洲会議後)
基本的には越前一国の領主でしかありませんから約50万石だろうと思います。清洲会議で北近江も柴田側の領地になっています。
ここで問題なのが、
佐々成政(越中)佐久間盛政(加賀)前田利家(能登)
この人達は信長亡き後、勝家の家臣と言い切れないところなんだと思います。単に「味方陣営」なのでしょう。その「味方陣営」まで含めるならば180万石くらいあります。

明智光秀
近江国滋賀郡と丹波一国をあわせ...続きを読む

Q徳川家は八百万石なのに、どうして江戸の面積は狭いのでしょうか。

こんにちは。

私の手元に、「江戸(嘉永)時代大名紋章及び城郭図」という地図があり、それを見ていて疑問に思ったのですが・・・。
徳川家は八百万石という力を持っていたにも拘わらず、江戸と呼ばれる範囲はあまりにも小さいと気が付きました。
他の裕福な藩は(加賀など)広々とした領土なのに、どうして徳川家の領土(城下町?)はこんなに狭いのでしょうか。
江戸以外にも、直の領土があったのでしょうか。
それとも、広い城下町を持つ必要がなかったのでしょうか。

教えていただけたら、ありがたいです。

Aベストアンサー

徳川家は八百万石なのに、どうして江戸の面積は狭いのでしょうか。

日本全国の総石高が3000万石といわれている中、幕府直轄領の石高が400万石(13%)~450万石(15%)、旗本領が約400万石、合わせて800万石(27%)を上回り、全国の30%近くを占めます。面積について乱暴な言い方をすれば、同じ様な比率で直轄領及び旗本領を持っていたものと考えられます。ですから、全国の1/4近くの支配地を持っていたことになります(直轄領だけでいえば1/7程度)。
直轄領は、江戸時代には御料、御領、御料所などと呼ばれ、明治以降は天領と呼ばれますが、天領と呼ぶのが一般的です。全国に散在し、直轄地がなかったのは蝦夷地くらいのものでした。ただ、蝦夷地も、寛政11年1799に東蝦夷地を直轄領とし、文化4年1807には西蝦夷地も直轄領にします。この処置は、文政4年1821に東西共に松前氏に返却しています。
大きな直轄領としては、九州の日田地方、石見東部、愛媛東部、備中西部、播磨西部、但馬西部、大坂・堺・京都周辺、近江南部、大和南部、飛騨一国、中期以降の甲斐一国、三河・遠江・駿河・伊豆の過半、武蔵・安房・下総・上総の過半、常陸南部、会津西部、山形北部、秋田南部など全国に及んでいます。
一般に10万石以上の地域を支配する場合は郡代を、それ以下は代官を派遣して支配をしています。また、一部では譜代大名などに預けている場合もあります。
この他に全国の主要都市を、江戸・京都・大坂以外に、伊勢神宮門前町の山田、貿易港長崎、金山の佐渡、旧貿易港堺、他に奈良、伏見を直轄地として、遠国奉行を派遣しています(幕末には神奈川、下田、兵庫、新潟、函館などの開港地も直轄領化し、奉行を派遣)。
佐渡、伊豆、生野、大森などの主要鉱山も直轄地ですから、全国展開していました。

以上、参考までに。

徳川家は八百万石なのに、どうして江戸の面積は狭いのでしょうか。

日本全国の総石高が3000万石といわれている中、幕府直轄領の石高が400万石(13%)~450万石(15%)、旗本領が約400万石、合わせて800万石(27%)を上回り、全国の30%近くを占めます。面積について乱暴な言い方をすれば、同じ様な比率で直轄領及び旗本領を持っていたものと考えられます。ですから、全国の1/4近くの支配地を持っていたことになります(直轄領だけでいえば1/7程度)。
直轄領は、江戸時代に...続きを読む

Q豊臣200万石、徳川250万石

一般に言われている秀吉死去時の両家の石高、豊臣の直轄領は徳川よりも少なかったという評価。
でもこれっておかしくないですか?
豊臣の200万石には譜代大名の石高は入っておらずに代官管轄の直轄領と旗本領のみ、しかし徳川の250万石には10万石を超える徳川三将(本多、榊原、井伊)、それ以下でも大久保や酒井の万石級の所領や与力にあたる結城秀康の所領も含まれている数字です。
もっとも秀吉存命時は全ての大名は秀吉の家臣だったから、それなら全国全て豊臣領とも言えますが、徳川以外の大老や外様大名は除いて考えればよいと思います。
具体的な譜代・外様の区別は秀吉の手で万石取りになった大名を指せば良いかと。
つまり有名どころでは両加藤、福島、浅野、石田、大谷、藤堂、蜂須賀、山内、堀尾、中村等です。
これを含めれば徳川の250万石をゆうに凌ぐと思うのですが、この解釈はやはり無理があるのでしょうか?
ご意見をお願いいたします。

Aベストアンサー

秀吉の家臣から大名になった者の多くが、関ヶ原の際、東軍についたので、単純に合計するのは難しい気がします。豊臣と徳川の石高を比較する目的にも、よるでしょう。
ちなみに豊臣を二百万石とする数え方でいくなら、家康の直轄領は百万石程度になるようです。ただ徳川家の家臣団は家康の命令通りに動きますので、まとめて二百五十万と数えて問題ないかと。
なお豊臣家へは毎年、全国の鉱山から莫大な金銀(米になおせば一千万石以上でしょうか)が上納されていましたので、経済力では圧倒的に豊臣が上でした。(秀吉の死後、家康によって停止されます)

Q江戸時代、藩がどう分布していたかがわかりやすい日本地図を探しています。

たとえば、
今の山口県のあたりには長州藩があり、藩主は毛利家
ということが見てわかりやすい日本地図を探しています。
そのような地図がおいてあるサイトをご存知の方はいらっしゃいますか?

Aベストアンサー

江戸時代初期は大名の取り潰しが多かったので、いつの時代が必要なのか難しいですが、一応300藩と言うことで参考URLをご覧ください。
地方ごとに分かれています。

参考URL:http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/hantop.html

Q戦国時代の六角氏の勢力範囲と敗退原因について

 六角氏は信長に、あっという間にやられてしまった大名というイメージです。
 ですが、実態はかなりの勢力があったと思います。
 
 六角は南近江の大名というイメージですが、勢力範囲は伊勢・大和・伊賀にも
 相当あったのではないでしょうか?

 伊勢の関氏の六角氏の重臣、蒲生氏と通婚しています。当然重臣の家臣は
 主君の許可がいるでしょうから、蒲生と関氏は同格の上、関氏は六角氏の息がかかっていると
 思います。逆に、南の北畠氏と単独では対抗できませんから、六角氏を頼ったのでしょう。
 伊賀三郡も六角氏の間接支配です。

 近江は太閤検地では77.5万石と高い石高です。伊賀も支配、伊勢も石高が高く
 近江は北近江に浅井がいるとはいえ、相当な領域支配、動員が可能だったと思います。

 ついては、六角氏の勢力範囲と敗退原因についてどう考えるか、お書きください。

 (1)六角氏は南近江(近江の石高の7割程度)+伊賀3郡+北伊勢+大和一部で
   おそらく100万国を超える領域をもっていたのではないか?
 

 (2)信長に攻められあっけなく敗退したのは、それは戦略(いつもの六角氏の)であったが
   ただ、観音寺騒動等で、家臣団の信頼が揺らぎ、統一的な動員・対抗ができなかった
   のでは?

 どのように考えますか?
 

 
 

 六角氏は信長に、あっという間にやられてしまった大名というイメージです。
 ですが、実態はかなりの勢力があったと思います。
 
 六角は南近江の大名というイメージですが、勢力範囲は伊勢・大和・伊賀にも
 相当あったのではないでしょうか?

 伊勢の関氏の六角氏の重臣、蒲生氏と通婚しています。当然重臣の家臣は
 主君の許可がいるでしょうから、蒲生と関氏は同格の上、関氏は六角氏の息がかかっていると
 思います。逆に、南の北畠氏と単独では対抗できませんから、六角氏を頼ったのでしょう。
 ...続きを読む

Aベストアンサー

>(1)六角氏は南近江(近江の石高の7割程度)+伊賀3郡+北伊勢+大和一部で
   おそらく100万国を超える領域をもっていたのではないか?

●回答・・・その可能性はあります。
六角氏の最盛期を築いた六角定頼の晩年と、その子、六角義賢が当主になった初期には、もしかしたら100万石程度はあったかもしれません。
六角定頼の弟は北伊勢の梅戸氏(南近江に接する北伊勢を領地にする国人)に養子に入っていますし、関氏なども六角氏につきましたから北伊勢にもかなりの勢力があったでしょう。

一つの目安として1560年に六角義賢は浅井氏と「野良田の戦い」を行いましたが、ここで2万5千人の兵力を動員しています。
豊臣政権での軍役制度では一つの目安として、1万石あたり250人の動員をしました。
ただし、戦場に近い場所の武将は兵を多く動員し、遠い場所の武将は兵を少なく動員するのが普通であり、100石あたり4人とか、5人を動員する場合もありました。
六角氏も他方面への備えから全力を浅井氏に当てる事はできないでしょうから、この2万5千という兵力から考えれば、この頃は100万石程度はあったかもしれません。
ただし、この「野良田の戦い」で六角義賢は敗北しますから、その勢力を減退させた可能性があります。

また、織田信長は南近江侵攻前に北伊勢に侵攻しています。
それにより北伊勢八郡を信長の支配圏にしていましたから、北伊勢での六角氏の影響力は無くなったと見てよいと思います。

ですから、六角氏最盛期には100万石程度はあったかもしれませんが、信長侵攻時にはかなり勢力を減らしていたと思います。この時は既に100万石は無かったのではないかと思います。



>(2)信長に攻められあっけなく敗退したのは、それは戦略(いつもの六角氏の)であったが
   ただ、観音寺騒動等で、家臣団の信頼が揺らぎ、統一的な動員・対抗ができなかった
   のでは?

●回答・・・いつもの戦略とは思いませんが、観音寺騒動等で家臣団の信頼が揺らぎ、統一的な動員・対抗ができなかったという考えには賛成です。
実際、観音寺城の戦いで主力は和田山城に6千。義賢自身は千しか率いていません。唯一戦いになった箕作城の兵が3千。
他に支城に兵を配備していたにしても、1560年に浅井と戦った時に動員した2万5千や、1562年に京で三好勢と戦った時に動員した2万人に比べると、例え北伊勢を既に失っていたにしても、主力の数があまりに少なすぎるように思います。
やはり、1563年の観音寺騒動の影響と、織田信長の調略が大きく響き、対抗できなかったのではないかと思います。
観音寺城より南に大きく六角氏の領地はあったわけで、その南近江の南方で信長に抗戦する事なく、伊賀まで六角親子が退いたというのは、やはり国人衆に裏切られていたからではないかと思います。
実際、永原氏などは信長の侵攻五ヶ月前から信長と誼を通じていたと言われますが、永原だけが信長と通じていたというよりも、他の国人衆にも信長が調略をかけていたと考える方が自然な気がします。南近江の国人衆は殆どが信長と戦う事なくその傘下に入っていますし。

○六角親子と同じような負け方をした大名に今川氏真がいます。
「薩埵峠の戦い」で今川の国人衆の多くが戦う事なく兵を退いて武田信玄に付き、それを見た今川氏真は駿府で戦う事なく逃亡を余儀なくされました。武田の調略が良かったのか、氏真が酷すぎたのか、両方かもしれませんが。
六角義賢と義治も今川氏真と同じく、結局、器量の問題で国人衆に背かれたのではないかと思います。

まぁ尾張、美濃、北伊勢を手中にし、三河の徳川と、北近江の浅井と同盟している織田信長と戦っても勝ち目は無いと思った南近江の国人衆が多くいても不思議ではないかと思います。
何せ、六角氏親子は浅井長政とだけ戦う時でも、浅井を滅ぼす事ができませんでしたから。

>(1)六角氏は南近江(近江の石高の7割程度)+伊賀3郡+北伊勢+大和一部で
   おそらく100万国を超える領域をもっていたのではないか?

●回答・・・その可能性はあります。
六角氏の最盛期を築いた六角定頼の晩年と、その子、六角義賢が当主になった初期には、もしかしたら100万石程度はあったかもしれません。
六角定頼の弟は北伊勢の梅戸氏(南近江に接する北伊勢を領地にする国人)に養子に入っていますし、関氏なども六角氏につきましたから北伊勢にもかなりの勢力があったでしょう。

一つの目安として15...続きを読む

Q関ヶ原以降の豊臣石高について

関ヶ原以前豊臣家の石高は二百万石ですよね。
で関ヶ原以後の石高は家康によって六十五万石になりましたよね。で不思議に思うのですが関ヶ原の戦いは豊臣家対徳川家の戦いではなく豊臣家の内部争いでそれを東軍の総大将家康が豊臣をまとめたわけでこの時点では少なくても形式上は家康は豊臣家の家臣なわけで関ヶ原の戦い後家康が豊臣家を二百万石から六十五万石したけどなぜ家臣である家康が豊臣家を二百万石から六十五万石にできるのですか?
普通出来ないですよね。
そこらてへんがよくわからないので教えてください。

Aベストアンサー

豊臣家に逆らった、石田三成などの逆臣を倒した、徳川家康を始めとした、忠臣に、豊臣家の大老である徳川家康が恩賞を出すのは当たり前であります。

忠臣に報いるために厚く恩賞を出すべく、豊臣直轄領を減らすことなど、当たり前のことです。

というようなロジックです。

Q100万石は今で言うとどのくらいすごい?

戦国武将が100万石の領土を持っているのって
今でいうと、どのくらいの資産・土地を持ってるくらいすごいのでしょうか?

100億円持ってるぐらいすごいですか?
100戸の家を持ってるぐらいすごいですか?

ご回答よろしくお願いします。

Aベストアンサー

戦国時代の石高なら、下の説明をみてください。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1011269740
http://bit.sakura.ne.jp/tuwamono/tizu-tougou1.htm
http://sengokutan9.com/sengokukassen/sekigaharazengokokudaka.html
 
石高は、領土の大きさを米の生産量に換算した『ような』ものです。
人口にも関係しますし、産業の状態にも、畑作や米作にも関係します。
単純には言えません。
 
石高は、一応、年間の経済力(その領土の年間総生産高)を示しているようなものですから、預金や資産の額との比較は出来ません。
1石を年間一人の生活費と考えれば、100万石は100万人の生活費相当ということになります。
 
領土全体の総生産高ですから、住民の生活費も、戦国武将の家臣や家臣の家族の生活費も、この中で賄います。戦国時代の武将ならば、築城費、河川改修費、干拓や開墾費、武器弾薬の購入費もこの中から出します。
 
なお、現在のように戸籍制度や帳簿制度、通貨制度がはっきりしていて、集計をする人が同じ方法で集計しているのではないですから、石高1万石と公表されている地域が10箇所あれば、10箇所が全部違う実態で、7000石~16000石程度にはばらばらだったでしょう。
また、天候などにも生産高は大きく左右され、戦争があれば農地も荒れたり、兵隊や労役にかり出されたりしたでしょうから、いつも同じ生産があるとは言えないと思います。 

戦国時代の石高なら、下の説明をみてください。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1011269740
http://bit.sakura.ne.jp/tuwamono/tizu-tougou1.htm
http://sengokutan9.com/sengokukassen/sekigaharazengokokudaka.html
 
石高は、領土の大きさを米の生産量に換算した『ような』ものです。
人口にも関係しますし、産業の状態にも、畑作や米作にも関係します。
単純には言えません。
 
石高は、一応、年間の経済力(その領土の年間総生産高)を示しているようなものですから、預金や資...続きを読む

Q加藤清正と福島正則はのちに石田三成に着いたほうが良かったと思ったのか?

石田三成は民にはやさしい男であったが、頭が切れて気真面目すぎるために、加藤清正と福島正則のやり方と相容れることはできず仲は悪かった。
関ヶ原の戦いのとき、清正と正則は三成を気に入っていなかったので、豊臣政権の未来を徳川家康に託して東軍に着いた。しかしそれは家康の勢力拡張政策に貢献することになってしまい、家康は天下を手に入れるために豊臣家を滅ぼしてしまった。清正と正則はあとで関ヶ原の戦いのときに、気に入らないが三成に味方したほうがよかったと思ったのだろうか。

こんな疑問が浮かんだのは理由があります。
今まで清正と正則は家康の勢力拡張政策に貢献するかたちを取ってしまったので、こいつらは馬鹿だと思っていた。三成が頭が切れて気真面目すぎてうまがあわないといっても、冷静に考えたら三成のほうが秀頼を大切にする可能性が高いので、なぜわからないのだろうと思っていた。
しかし僕の目の前に石田三成に近い人間が現れたとき、最初は良かったのですが、最終的に
「この人のやり方が合理的に合っていても、僕のやり方を無視しているものなので、心情的にこの人に賛成できない」
と強く思うことになったのです。僕の今の心情から思うと、清正と正則も似たような心情になり、三成が死んで家康が勢力が増大しても、「三成に味方したほうがよかった」なんて思っていないと考えています。清正と正則もどうしようもなかったのかなあと思うようになりました。

●みなさんは清正と正則は三成に味方したほうがよかったと思ったと思いますか。

石田三成は民にはやさしい男であったが、頭が切れて気真面目すぎるために、加藤清正と福島正則のやり方と相容れることはできず仲は悪かった。
関ヶ原の戦いのとき、清正と正則は三成を気に入っていなかったので、豊臣政権の未来を徳川家康に託して東軍に着いた。しかしそれは家康の勢力拡張政策に貢献することになってしまい、家康は天下を手に入れるために豊臣家を滅ぼしてしまった。清正と正則はあとで関ヶ原の戦いのときに、気に入らないが三成に味方したほうがよかったと思ったのだろうか。

こんな疑問が...続きを読む

Aベストアンサー

>清正と正則は三成に味方したほうがよかったと思ったと思いますか。

思わないでしょう。
加藤清正や福島正則は、他の回答にあるように尾張時代からの秀吉の子飼いの武将であるとともに戦国の世を生き抜いた武闘派の武将です。
これに対して石田三成は秀吉の近江時代からの部下であり、有能な官僚タイプの人です。

群雄割拠の戦国期を生き抜いた武将たちにとっては、例え敵味方に別れて過去に戦った相手だったとしても共に同じ部類の仲間としての意識があるようです。
そういう意味では、徳川家康に対しては同じ武将として自分たちと同類の仲間という意識であり、さらに『東海一の弓取り』といわれるように尊敬する大先輩といえる存在だといえます。

これに対し官僚である石田三成に関しては全く共感できない存在であり、『偉そうにしているイヤな奴』という認識でしかなかったようです。

豊臣恩顧といっても、加藤清正や福島正則にとっては秀吉と北の政所への忠誠心が主であるのに対し、石田三成にとっては淀の方や秀頼などを含んだ豊臣家に対する忠誠心だったようであり、各々の感覚が異なると思います。

加藤清正や福島正則は戦国期を生き抜いてきた武将として、力のある武将(徳川家康)が天下を取ることになっても致し方ないという感覚があったと思われますが、石田三成はあくまでも天下は豊臣家のものだという考えのようですからこういう基本的な考え方が違うと思われます。

>清正と正則は三成に味方したほうがよかったと思ったと思いますか。

思わないでしょう。
加藤清正や福島正則は、他の回答にあるように尾張時代からの秀吉の子飼いの武将であるとともに戦国の世を生き抜いた武闘派の武将です。
これに対して石田三成は秀吉の近江時代からの部下であり、有能な官僚タイプの人です。

群雄割拠の戦国期を生き抜いた武将たちにとっては、例え敵味方に別れて過去に戦った相手だったとしても共に同じ部類の仲間としての意識があるようです。
そういう意味では、徳川家康に対し...続きを読む

Q長生きしてたら武田信玄は信長に勝てたと思いますか?

全国1億2千万信玄ファンの皆さん、こんにちは。

自宅で資料整理をしていたら、往年の名作「信長の野望 戦国群雄伝」のガイドブックが出て来てしまいました。仕事で忙殺されてるというのに、思わずよみふけりですよ!(嗚咽

生来の里見家フリークな私は、別に武田信玄に対して悪意を抱いているわけではないのですが。
果たして信玄が長篠の戦いまで存命であったなら、信長に勝てたのでしょうか?

どう考えても、無理ゲーと申しますか、馬で柵は突破できないだろ的な考えを抱いてしまいました。

甲斐の虎、戦国最強の呼び声も高い武田信玄のファンの皆さまからの熱いご意見をお待ちしております。
(煽っているわけではありませんので念のため。徹夜明けでテンションが高いだけです)

Aベストアンサー

 他の回答者の方々が指摘していない点について

・織田軍と武田軍の性格の違い
 織田軍は、専業兵なのに対して、武田軍の兵力の主体は農民兵です。

 織田軍は、戦闘を専業とする兵を主体としており、兵糧をはじめとする兵站部門を持っていました。
 それに対して、武田軍は騎馬が多く、他の戦国大名と比べて物資輸送能力は高かったものの、織田軍のような兵站と言うレベルの軍需物資輸送ではありませんでした。特に物資の海上輸送能力は織田軍の方が格段に高かったようです。
 これには、内陸を領地としていた武田家に対して、木曽・揖斐・長良の河川運送と伊勢湾の海上輸送に基礎を置いた津島や熱田の商業都市から始まって、琵琶湖の水運に基礎を置く近江商人の活動域、瀬戸内海運と淀川の水運に基礎を置く商業都市である堺を支配することにより、織田領では平時にも大規模な物品流通が確立しており、徳川領も織田経済圏の東の部分を形成していました。


・武田軍の戦い方について
1、三方ケ原では、武田軍は圧倒的に有利な位置に陣を構えながらも、徳川軍との戦端をなかなか開こうとは  しなかった。
  結局開戦は、午後4時ごろから始まったようだ。
2、武田軍は、有力な領主の連合体によって形成されている。
3、織田軍のような高度の兵站能力は持っていない。

 1・2・3から見て、信玄の場合、「上洛」とは、甲斐・信濃から西に向かって、有力な戦国大名を傘下に収めて領土を拡張して京に至るというやり方であるようだ。

 三方ケ原の戦いでは、信濃を領地化した時と同じように、遠江・三河を領地に編入することが第一目的であって、その結果上洛できる条件が整うなら、実行に移すという考えではなかったかと思う。

 つまり、信玄の上洛は、徳川軍が武田軍の軍門に下り、その戦力が武田軍に加わるということが条件であったのではないかと推測している。
・三方ケ原の戦いでは、両軍の対峙が長く、開戦時間が夕刻と言っても良い頃になった。
・敗戦の程度の割に、徳川軍の武将の死者が少ない。
・三方ケ原の戦いの後、浜松城に対して包囲攻城戦が行われていない。
この様な疑問に対する答えとして、信玄が家康を武田軍に組み込むことを考えていたと見ている。



 

 他の回答者の方々が指摘していない点について

・織田軍と武田軍の性格の違い
 織田軍は、専業兵なのに対して、武田軍の兵力の主体は農民兵です。

 織田軍は、戦闘を専業とする兵を主体としており、兵糧をはじめとする兵站部門を持っていました。
 それに対して、武田軍は騎馬が多く、他の戦国大名と比べて物資輸送能力は高かったものの、織田軍のような兵站と言うレベルの軍需物資輸送ではありませんでした。特に物資の海上輸送能力は織田軍の方が格段に高かったようです。
 これには、内陸を領地としてい...続きを読む

Q戦国武将 加賀00万石 前田利家のすごさを教えてください。

戦国武将 加賀00万石 前田利家のすごさを教えてください。

Aベストアンサー

前田利家が参戦した戦は37です。
その中でも、近江箕作城の戦い及び越前金ヶ崎城の戦いでは槍をふるって敵の首を取っている。また、摂津・春日井堤の戦いは「堤の上の槍で」と信長に讃えられている。武勇に優れていた事は間違いありません。

慶長4年(1599年)2月、病躯をおして、利家は和解の実を示す為に伏見に家康を訪ねている。
また、同年3月、家康は病気見舞いと答礼をかねて、大阪城に利家を訪ねている。その際、利家は病状が悪化し、やっと床を這い出て中の間で家康と対面している。この二つの状況からも利家の「律儀さ」が窺えると同時に、家康が一目置いてた大大名利家の存在感を現しています。

石田三成は病中の利家を訪ね、看病と称して前田邸に詰めた。加藤清正、黒田長政、浅野幸長、池田輝政、福島正則、細川忠興、加藤嘉昭の七大名から逃れるためであった。七大名も利家の顔を立てて、三成に手だしをしなかった。ここでも、利家のすごさが窺えます。

意見の分かれるところですが、もし利家があと10数年生きていたならば、徳川幕府は生まれていなかったかもしれません。


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