ではありませんか? 次の聖句に照らし合わせると。
すなわち その5:19の《人々の罪の責任を問うことなく》に注意することができるではないでしょうか?
▲ (コリント後書5:12-21) ~~~~~~~~~~~~~~~
5:12 わたしたちは、あなたがたにもう一度自己推薦をしようというのではありません。ただ、内面ではなく、外面を誇っている人々に応じられるように、わたしたちのことを誇る機会をあなたがたに提供しているのです。
5:13 わたしたちが正気でないとするなら、それは神のためであったし、正気であるなら、それはあなたがたのためです。
5:14 なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。
5:15 その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。
5:16 それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。
5:17 だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。
5:18 これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちをご自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。
5:19 つまり、神はキリストによって世をご自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。
5:20 ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。
5:21 罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ クリスチアニスムの事例を挙げましたが どの思想であるかは自由に ご見解をお寄せください。おしえを乞います。ただしわたしが納得するまでお尋ねしてまいります。
No.11ベストアンサー
- 回答日時:
因果応報説は 愚の骨頂ではないか? 補足
意識レイヤーを
1).5感が知覚ができるスコープの範囲の世界観(物質界)=【有限、物質至上主義】
2).1)と3)を意識し、ある意図の下で実行する精神世界(心の世界)=上下それぞれを観察し行動する自分
3).本質の形作る世界観(魂的世界)=【無限、魂至上主義】
と3種類に分類した。
上記観点をもっと簡単に整理すると
1).肉体の自分(エゴ)
2).心(エゴと本質の間に発生するパーソナリティー)
3).魂(本質)
*心はエゴと本質のそれぞれからの情報を取得しうる。
*顕在意識下においては「エゴ+心」で意識し、潜在意識下においては「魂+心」で意識する。
と定義しておきます。
>★ 魂的世界から発せられたことばと物質界の自分を心の世界で解釈し物質界にて実行するという見方かと思います。
了解しました。
>★ よって、魂的世界における主体は物質界における主体とはことなる概念であろうと想像できます。
>☆ これは わたしの言葉に置き代えるなら こうです。
>○ わたしなる存在は 経験思考〔および感性〕の主体と 非経験(=無根拠)に対する非思考つまり信仰の主体とに分けられる。
>○ 経験行為の主体(いわゆるコギト)にとっては 《人々の罪の責任を問うことなく》ということが現実となったのならば ひとりの存在において もはや因果応報説が当てはまることはない。
>○ 何故なら わたしの悪の行為が原因となって その罪の責任をこの同じわたしに問われることはないと言うのだからである。
>○ わたしの原因が 別の人間に結果となって現われるなどという場合にしか当てはまらなくなる。それはもはや因果応報説ではない。
【主体観の定義と因果応報説】
上記の「この同じわたし」についてですが、
「□3.因果応報説を2)が1)と3)からの観察点それぞれ意識し、1)の世界観で実行する場合」という観点で論ずるなら
「魂的世界から発せられたことば(A)」と「物質界の自分(B)」を心の世界で解釈し物質界にて実行するという見方のうちの(B)の視点のみの主体で判断しているのではないかと思います。
私がいいたかったのは
・「魂的世界から発せられたことば(A)(ならびにをれを理解する魂的主体)」
と
・「物質界の自分(B)(顕在意識を知覚する主体)」
の両方の観点を意識にもち物質界にて意図を実行する、ということです。
これは、「エゴ+心」の主体と「魂+心」の主体が同時に機能している状態であり、
コリント後書の言葉でいいかえると、
「エゴ+心」の主体=あなたがた
「魂+心」の主体=神、キリスト、そしてあなた
ということで、あなたの視点と神の視点が同時に存在するということになります。
よって、因果応報説をこの観点から評価すると
「エゴ+心」の主体の観点のみから考えると、原因と結果を別々の主体が受け取れる為、因果応報説は無効であるが、
「魂+心」の主体の観点から考えると、私はキリストや神の一部分であり、主体は1つなので、因果応報説は有効
といえるのではないかというこです。
なぜ、「魂+心」の主体の観点から考えると私はキリストや神と同じなのかといいますと、
・魂的世界の主体観と物質界の主体観が異なる。
・因果応報説に矛盾がでるのはこの主体観が異なっているため。
・魂的世界の主体観が因果応報説に矛盾しないならどのようなものか。
ということから「魂的世界における主体観とは個は個と同時に全体である」という仮説を導いた訳です。
つまり、主体観をこの観点で説明すると
「エゴ+心」の観点では、自分の肉体が主体で他の肉体が客体である。
「魂+心」の観点では、魂が主体で肉体が客体である。私の肉体は主体の観察点に過ぎず、相手の魂も自分と同じ主体となる。
ということになります。
【因果応報説と般若心経】
因果応報説が唱える因果とは意図が関連しています。意図を単純に善悪とされることが多いようですが、無意識を含めた全ての意図が関連していると思います。
因とは意図して行動することで、果とは意図して受け取ることとすれば、因果とは心における解釈の方法次第で完結しうるものかもしれません。
不幸を不幸と思うのがそれを思う心であるなら、それを不幸と感じる心がなければ不幸はなくなる。
仏説摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。舎利子。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識亦復如是。舎利子。是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。是故空中、無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。無眼界、乃至、無意識界。無無明、亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。無苦・集・滅・道。無智亦無得。以無所得故、菩提薩?、依般若波羅蜜多故、心無?礙、無?礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃。三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。故知、般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚。故説、般若波羅蜜多呪。
即説呪曰、羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶。般若心経
ここに答えが書いてあるように思います。
全ての目に見える事象はそれを受け取る心が解釈し意図として受け取っているのであるなら、
それを受け取る心がその事象を空として受け止めた場合、カルマはもはや存在し得ない。
因果応報説を超越した心のあり方もあるという意味では、因果応報説は愚の骨頂となるのかも知れない。
因果応報説が愚の骨頂かどうかは、それを受け取る心のあり方次第という結論となりました。
stsmart さん ご回答をありがとうございます。
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
全ての目に見える事象はそれを受け取る心が解釈し意図として受け取っているのであるなら、
それを受け取る心がその事象を空として受け止めた場合、カルマはもはや存在し得ない。
因果応報説を超越した心のあり方もあるという意味では、因果応報説は愚の骨頂となるのかも知れない。
因果応報説が愚の骨頂かどうかは、それを受け取る心のあり方次第という結論となりました。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 完璧だと思いました。脱帽します。
そしていまから思えば
★ 因果応報説が愚の骨頂かどうかは、それを受け取る心のあり方次第という結論となりました。
☆ ゆえに ひとに対して――つまりあるいは社会一般の通念として誰にでも当てはまると言うかのように ひとに対して―― 因果応報説を説いたり その説にのっとって話を進めてみたりしては 独り善がりであっておかしい。という社会人としての礼儀が得られる。のではないでしょうか? つまり わが主観内面を一歩出たら
☆☆ 因果応報説は 愚の骨頂
☆ だと心得るべきではないでしょうか?
我田引水 牽強付会ですが。
No.10
- 回答日時:
>>>
☆ もしここから議論を伸ばせば
○ 一般に因果関係を具体的な事柄として特定することさえ難しい。しかもそこへその事柄ごとに善悪の価値判断を加えた上で 善因は善果を生み悪因は悪果を招くという説を唱えたところで それはまったく主観の中の嵐のごとくだ。一般性がない。
☆ とすでにおっしゃっているとも読めます。それなら そのように明確にご回答いただくと分かりやすいです。
<<<
いえいえ、「一般論」としてすべてをひっくるめて考えることは、さらなる混沌の世界に足を踏み入れるだけのことです。
「なんらかの関連性」を「因果・非因果・相関・偶然・必然・遇有性・・・」といった言葉で「区別」するときには、本来は、その両側に位置するものの価値判断を保留すべきものです。
『両側に位置するもの(たとえば、善行と天国)の価値判断に影響されて「その間の関連性」を「○○」(たとえば「因果」)と規定するならば、それは手順を誤っている。』と述べているだけです。
ある行い(たとえば善行)と、ある結果(たとえば天国)とがあった場合、それは「因果なのか、非因果なのか、相関なのか、偶然なのか、必然なのか、遇有性なのか」を一般論として論じることは、すなわち、上述の「誤った手順」を踏襲するだけのことです。
個別の人々にとって、それぞれがどうであるかが問題であり、個別の人々にとって「因果なのか、非因果なのか、相関なのか、偶然なのか、必然なのか、遇有性なのか」が意味をなすでしょう。そういったレベルにて考察する場合に、両側(たとえば善行・天国)の価値判断を一旦保留したうえで、関係について深く考える必要はあると思います。(そういったことしか述べていませんし、それ以上のことは言えません)
そのように深く考察した上での関係として(両側にぶら下がっているものの価値判断を抜きにしてもなお)「因果」だといったとき、他の人々の視点からは「そうではない」と看做されうるかも知れない。。。
しかしながら、当人が「そうではない」という意見を頑なに拒み続けるだけの理由があるかもしれないと思います。
そういった事柄については、一般論として論じるべきものではないと思います。
>>>(コリント後書5:12-21)
5:17 だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。
<<<
もし彼が、「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、」の箇所にて、「私はキリストとは結ばれていない」と考えるのなら、
>>>
5:19 つまり、神はキリストによって世をご自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。
<<<
にての「罪」や「和解」は、意味をなしえないでしょう。
この場合、両側には「罪、和解」があり、関連性には「キリストとの関係」が入るでしょう。
「罪」や「和解」を最初に価値判断することで、「キリストとの関係」をどうするかを考えるといったときには、誰しもが「おかしい」と考えるのではないでしょうか?
まずは、自身と「キリストとの関係」がどのようなものであるかを「罪や和解」の価値判断とは切り離して考えるべきではないのでしょうか?
その上で、彼自身が「キリストとの関係」とはこうあるべきだと自身の立脚点にのっとって頑なに信じるに至った時にこそ、「罪に対する和解」が真の意味をもって彼に理解されるのではないでしょうか?
この回答への補足
k_jinen さん ご回答をありがとうございます。
ですが あなたも そうとうな変人ですね。以前の応答のときにも感じはしましたが そうとうひもが結ぼれてしまっていますね。――これが正直な感想です。
☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
○ 善悪は あくまで主観が善あるいは悪だと思うという場合に生じる概念だと狭く解釈してくださってかまいません。
○ 善行を積めば 極楽ないし天国へ行ける。そして悪行を重ねるなら 地獄へ落ちる。と考える思想と規定して 扱ってください。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ という趣旨説明に従ってください。ですから この上で 因果応報説をとなえるなら
★ いえいえ、「一般論」としてすべてをひっくるめて考えることは、さらなる混沌の世界に足を踏み入れるだけのことです。
☆ という状態に陥るのですから 愚の骨頂だと言うという質問なのです。
そのように言ってもらっていると思いますよ。
★ まずは、自身と「キリストとの関係」がどのようなものであるかを「罪や和解」の価値判断とは切り離して考えるべきではないのでしょうか?
☆ これにつきましては 確かにいささか背景として複雑な事情があると考えます。ただし 問題は 言ってみれば事後の分析という場に自身を置いてもらえば 話はかんたんです。
▲ 人々の罪の責任を問うことなく
☆ ということ・すなわち 過去のことが原因となってその報いがさらにあとに来るという考えは――つまり ここはこの単なる主観の考えを扱っています その考えは―― 無効となったということ これを確認することを問題としています。確認できれば いいわけです。考え違いや見落としがあってはいけないという思いから 質問をしてみなさんの知恵を拝借というところです。
つまり整理しますが
▲ キリストと結ばれる人はだれでも
☆ という条件 この条件のもとに話をすすめるというかたちです。この《結ばれる》も そのひとの主観でじゅうぶんだという前提です。ここではです。
質問者としましては 趣旨に同感する方向でご見解を述べていただいたと理解します。それとして一件落着――というのも変ですが――です。ありがとうございましたとなるのですが なおまだ不満が残りますか?
ここは 因果関係とそれをめぐる行為や事象についての科学的・哲学的な詳細を求めるということではありません。もしこの方針が間違いだということでしたら その旨お知らせください。
No.9
- 回答日時:
No.7です。
>>>
☆ 因果関係という事実関係――科学の見方ですね――と 価値判断を加えた因果応報として世界を見る思想とは まったく別ではないですか。
<<<
思想の異同は無関係です。「因果」といった用語を用いるに辺り、すでに「価値判断の有無」と(なるべく)切り離して考えることを暗黙裏に前提としているでしょう。そうして、そういった「因果関係にある」として価値判断を行うかどうかは次のレベルになり得ます。
逆に、そういった価値判断を一端保留にした状態にて事実を確認することにて、因果関係が鮮明になると思います。
>>>
★☆ 一日中起きていると寝ている / 生きる あるいは 死ぬ
☆ といった事柄について それらは いったいどういう意味があるのか。善と悪という意味を規定したとすれば それらの善悪としての事柄の時間的な継起関係および相関関係を どう捉えるのか。こういった問題です。
いま確かに善および悪の定義をしないままに質問していることに間違いありませんが ここでは
○ 善行を積めば 世界と和解し得て 社会の中で高い地位につけるし 救われるであるとか 悪行をしたのだから 地獄行きだと決めつけるであるとか
☆ こういう因果応報の説を 意味がないのだと言って それについて教授をお願いしております。
<<<
たとえば、
1.疲れている母の手伝いをしたら、「ありがとう」と褒められ、おやつを頂いた。
2.A氏が先祖供養をしていたから、A氏の病気が治った。
3.B氏が祈祷したから、A氏の病気が治った。
4.A氏が前世で悪行をなしたから、今生で苦しんでいる。
(個々の事象が事実であるかどうかの判断を排除し、価値判断を排除しても、)これらに「因果関係」が「ある」とみなしうるのかどうかです。
たとえば、最も因果関係があるようにみえる1の場合でも、「ありがとう」と褒められたのは、「手伝った」からではなく、別の何かの理由だったからかも知れません。たとえば、それまで「おやつは無しよ」と、叱られていた子供が、急に態度を変えて手伝ってきたので「おやつ欲しさに手伝ってもダメよ」と言うよりも、教育的配慮から「ほめる」ことを重要視し、そのように言ったのかもしれません。
また、褒められたことに因果関係があったとしても、「おやつ」をもらったことについては、手伝わなくてももらえたかも知れません。別の因果関係で言うならば、おやつを与えないでいると、脳へのブドウ糖の供給が少なくなったり、カルシウムが不足すると情緒不安定になるとか、いろいろ考えられた「結果」でしょう。あるいは、単に時間との相関関係なのかもしれません。
特に2,3,4については、「因果関係があるのか、相関関係があるのか、擬似相関なのか、単なる事象の羅列なのか」といったレベルにて、どう捉えるかがあってこそ、価値判断が意味をなすと思いますし、逆に、「当初から価値判断ありき」といった思想にて因果関係の有り無しを判断しようとすると、「擬似相関にすら因果関係を見てしまう」ということをアドバイスしたつもりです。
k_jinen さん ご回答をありがとうございます。
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
特に2,3,4については、「因果関係があるのか、相関関係があるのか、擬似相関なのか、単なる事象の羅列なのか」といったレベルにて、どう捉えるかがあってこそ、価値判断が意味をなすと思いますし、逆に、「当初から価値判断ありき」といった思想にて因果関係の有り無しを判断しようとすると、「擬似相関にすら因果関係を見てしまう」ということをアドバイスしたつもりです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ もしここから議論を伸ばせば
○ 一般に因果関係を具体的な事柄として特定することさえ難しい。しかもそこへその事柄ごとに善悪の価値判断を加えた上で 善因は善果を生み悪因は悪果を招くという説を唱えたところで それはまったく主観の中の嵐のごとくだ。一般性がない。
☆ とすでにおっしゃっているとも読めます。それなら そのように明確にご回答いただくと分かりやすいです。
そうでないとすれば あらためて趣旨説明をします。
○ 善悪は あくまで主観が善あるいは悪だと思うという場合に生じる概念だと狭く解釈してくださってかまいません。
○ 善行を積めば 極楽ないし天国へ行ける。そして悪行を重ねるなら 地獄へ落ちる。と考える思想と規定して 扱ってください。
☆ この因果応報説は 愚の骨頂であるというのが ここでの命題です。真偽についておしえてください。となります。どうでしょう。
No.8
- 回答日時:
因果応報説は 愚の骨頂ではないか?
意識レイヤーには
1).5感が知覚ができるスコープの範囲の世界観(物質界)=【有限、物質至上主義】
2).1)と3)を意識し、ある意図の下で実行する精神世界(心の世界)=上下それぞれを観察し行動する自分
3).本質の形作る世界観(魂的世界)=【無限、魂至上主義】
と仮定し、
それぞれにおいての立場を明確にしないと「因果応報説」の議論は混乱するのではないでしょうか。
なぜなら、本来「因果応報説」というのは3)の意識レイヤーに根ざした概念にもかかわらず、1)の意識レイヤーで観察しなければならないと思うからです。また、この記述自体1)の世界観の手法で記述することになる訳ですが、議論の中にもそれぞれのレイヤーに割り振られそうな内容が混在していそうです。
よって、少なくとも1)の意識レイヤーと3)の意識レイヤーからの情報として2)の意識レイヤーがどのように知覚するという前提条件で検証してみたらどうかと思いました。
□1.因果応報説を2)が1)からの観察点のみで意識し、1)の世界観で実行する場合
「5:19 つまり、神はキリストによって世をご自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。」
質問の意図がよくわからなくなります。
心の観察点からみて、魂的世界観を無視し、物質界の事象だけで観察した場合、物質界に具現化されるものはなにがあるのでしょうか?
神もキリストも物理的に観察できないわけですから、不毛な議論となりそうです。
因果応報説にしても因果応報説のそもそもの言葉の成り立ちから行って、この物質界と同じ世界観のものでないでしょう。なぜなら行動の善悪が原因を形作るのではなく、客観的な行動そのものが原因となって物理法則に応じて結果を形作るからで、意図は関係ないとこの意識レイヤーの我々は信じているからです。
もし科学者の善悪といった意図が実験結果に影響をあたえるような学問があれば別ですが。
よってこのような観察の仕方をする心にとっては因果応報説が「愚の骨頂」という解釈も妥当だと思います。
□2.因果応報説を2)が3)からの観察点のみで意識し、1)の世界観で実行する場合
「5:19 つまり、神はキリストによって世をご自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。」
魂的世界から発せられたことばを心の世界で解釈し物質界にて実行するという見方かと思います。
だたし今回の場合、物質界に観点がないので、肉体が希薄という意味で、「人々の罪」という部分で微妙な感じがします。なぜなら、人=物質界に観点をおく人々に向けての言葉のように受け取れなくもないからです。
因果応報説という見方からすると、「意図による行動(原因)によって導きだされる結果」が観察できるということになるのでしょう。
なぜなら、一つの人生で完結しない過去や未来に起因する原因や結果の相関関係を確認できることになるからです。また、魂的世界は思いから形作る世界観であるなら、意図が結果を形作るという法則そのものがマッチしているそうです。
このような観点の場合、因果応報説は「愚の骨頂」と否定できないのではないでしょうか。
ただし繰り返しになりますが、物質界における観点がないので、この場合、因果応報説もどうでもよいかも知れません。
□3.因果応報説を2)が1)と3)からの観察点それぞれ意識し、1)の世界観で実行する場合
「5:19 つまり、神はキリストによって世をご自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。」
このパターンでやっと対比が実現します。
魂的世界から発せられたことばと物質界の自分を心の世界で解釈し物質界にて実行するという見方かと思います。
上記の内容は「キリストのおけげで物質界における罪をチャラにしてくれるので結果をもちこすことはない」ということでしょう。
因果応報説でいうと「意図による行動(原因)によって導きだされる結果」が現在の人生において断片的に現れうるという意識をもって受け止めることができることになります。
しかしながら、キリスト教でいうチャラというルールがある場合、因果応報説の理論と一見矛盾するような気がします。なぜなら原因と結果を別々の主体が受け取れるルールもOKというふうに聞こえるからです。
よって、魂的世界における主体は物質界における主体とはことなる概念であろうと想像できます。
つまり主体=主体(主体はあるおおきな主体の一部)という可能性を考える必要がありそうです。
因果応報説の話にもどると、魂的世界における因果と物質界における因果を相対的に観察できることでしょう。魂的世界において起因する原因が物質界にてどのほうにあらわれているかということです。
このような観点の場合、因果応報説は「愚の骨頂」とは決して(絶対)否定できないのではないでしょうか。
質問者が上記どの意見を採用してもよいとおもいます。
その人が意識レイヤーをどこに持つかによって感じ方が異なるのではないかということがいいたいことです。
この回答への補足
stsmart さん ご回答をありがとうございます。
ううーむ。そうですね。《愚の骨頂》説をとっている質問者のわたしとしましては
★ このような観点の場合、因果応報説は「愚の骨頂」とは決して(絶対)否定できないのではないでしょうか。
☆ と説かれた
★ □3.因果応報説を2)が1)と3)からの観察点それぞれ意識し、1)の世界観で実行する場合
☆ に焦点をあてます。すなわち
★ 魂的世界から発せられたことばと物質界の自分を心の世界で解釈し物質界にて実行するという見方かと思います。
☆ の場合を取り上げ検討させていただけばよいようです。
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
しかしながら、キリスト教でいうチャラというルールがある場合、因果応報説の理論と一見矛盾するような気がします。なぜなら原因と結果を別々の主体が受け取れるルールもOKというふうに聞こえるからです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ ここからわたしの場合すでにすぐに 《因果応報説は 愚の骨頂》に導かれるのですが 《主体》論について 念入りに検討されているようですね。
★ よって、魂的世界における主体は物質界における主体とはことなる概念であろうと想像できます。
☆ これは わたしの言葉に置き代えるなら こうです。
○ わたしなる存在は 経験思考〔および感性〕の主体と 非経験(=無根拠)に対する非思考つまり信仰の主体とに分けられる。
○ 経験行為の主体(いわゆるコギト)にとっては 《人々の罪の責任を問うことなく》ということが現実となったのならば ひとりの存在において もはや因果応報説が当てはまることはない。
○ 何故なら わたしの悪の行為が原因となって その罪の責任をこの同じわたしに問われることはないと言うのだからである。
○ わたしの原因が 別の人間に結果となって現われるなどという場合にしか当てはまらなくなる。それはもはや因果応報説ではない。
☆ ところが
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
因果応報説の話にもどると、魂的世界における因果と物質界における因果を相対的に観察できることでしょう。魂的世界において起因する原因が物質界にてどのようにあらわれているかということです。
このような観点の場合、因果応報説は「愚の骨頂」とは決して(絶対)否定できないのではないでしょうか。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ たぶん次のような意味だと理解します。
○ 《人々の罪の責任を問うことなく》という命題を あくまで 非経験に対する非思考(=信仰)の主体という領域でのみ妥当する話だと受けとめた場合 それはどうなるか。
○ その場合には 信仰主体としてのわたしに関して因果応報説は当てはまらないが 思考主体としてのわたしに対しては まだ分からない。決められないのではないか。
☆ さて どうでしょう? どうなりましょうか?
stsmart さんは 残念ながらですが これについての推論を省いておられませんか?
(1) 経験主体としての存在のみを扱う場合:
経験行為としての原因が 経験行為としての結果を導く。ここには 科学的な因果関係のみが認識される。言いかえると それに反してUFOの話をしたいならそれとして ご自由にと言っておけばよい。
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
心の観察点からみて、魂的世界観を無視し、物質界の事象だけで観察した場合、物質界に具現化されるものはなにがあるのでしょうか?
神もキリストも物理的に観察できないわけですから、不毛な議論となりそうです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(2) 信仰主体としての存在を 経験主体が捉えようとするのだが 経験事実と対応していなくても 想像において信仰の内容をわざわざ言葉で想定する場合:
これは 良心・信教の自由にもとづいて 自由にその因果論を形成してもいいはづだが なにせあくまで前提としての《想定》の範囲に留まるものだ。実際上の事柄に対応させるには 人びと共同の同意を取り付けなければならない。
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
魂的世界から発せられたことばを心の世界で解釈し物質界にて実行するという見方かと思います。
ただし今回の場合、物質界に〔実際としての〕観点がないので、肉体が希薄という意味で、「人々の罪」という部分で微妙な感じがします。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ どうでしょう。補足要求してもよろしいでしょうか?
No.7
- 回答日時:
因果応報の「因果」すなわち「因果関係」について、判っているであろうことについて、基本的事項ですが、少し。
。。「因果関係」と対比されるものに「相関関係」があります。
「相関関係」といっても、「擬似相関」レベルから「量子相関」に代表されるようなレベルまであります。
擬似相関から誤った因果関係の導出の例
>>>
一日中起きている人と寝ている人を分けて、それぞれが1年以内に死ぬ確率を求めたら、寝ている人の方が圧倒的に多かった。(←擬似相関)したがって、寝ずに起きていると、死ななくなる。(←誤った因果の捉え方)
<<<
ブラウン運動(ランダムウォーク)の例
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9% …
粒子が液体や気体分子の熱運動によってランダムな動きをし、その動きは統計確率的な予測しかできない。
ただし、ランダムな動きが媒質中の分子の動きによってなされる。
すなわち、「どこに移動するかは、媒質中の分子との相関関係であり、分子との相互作用で移動するということは因果関係」
量子相関の実験例(動画がTVでも何度か放映されています)
http://www.hitachi.co.jp/rd/research/em/doublesl …
リンク先の中央左に「ビデオクリップ1」がありますので、実際の動画を見ることが出来ます。
一つ一つの電子が順番に打ち出され、二重スリットを通ったとき、その到達点は統計確率的な予測しかできない。
ただし、二重スリットを含めての波動関数(虚数を含む)にて、その到達点の確率を計算することはできる。
すなわち、「どこに到達するかに関しては、相関関係であり、電子を射出することでどこかに当たるは因果関係」
k_jinen さん ご回答和おありがとうございます。
そうですね。
★ 「因果関係」と対比されるものに「相関関係」があります。
☆ は 《因・縁・果》のことではないですか。
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
擬似相関から誤った因果関係の導出の例
>>>
一日中起きている人と寝ている人を分けて、それぞれが1年以内に死ぬ確率を求めたら、寝ている人の方が圧倒的に多かった。(←擬似相関)
したがって、寝ずに起きていると、死ななくなる。(←誤った因果の捉え方)
<<<
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 因果関係という事実関係――科学の見方ですね――と 価値判断を加えた因果応報として世界を見る思想とは まったく別ではないですか。
★☆ 一日中起きていると寝ている / 生きる あるいは 死ぬ
☆ といった事柄について それらは いったいどういう意味があるのか。善と悪という意味を規定したとすれば それらの善悪としての事柄の時間的な継起関係および相関関係を どう捉えるのか。こういった問題です。
いま確かに善および悪の定義をしないままに質問していることに間違いありませんが ここでは
○ 善行を積めば 世界と和解し得て 社会の中で高い地位につけるし 救われるであるとか 悪行をしたのだから 地獄行きだと決めつけるであるとか
☆ こういう因果応報の説を 意味がないのだと言って それについて教授をお願いしております。
No.6
- 回答日時:
仏教の基本的教えは「縁起」ですから、「善因善果」「悪因悪果」は仏の教えそのものですね。
此岸から彼岸にわたる方法論として信仰を説いてますが確率論は否定しているのですね。
確率論の否定が因果論ですね。だから因果論を知らぬといった時点で仏教にあらずなんですね。
☆ この《親鸞の悟り》を超える人間は いないということではないでしょうか? と分かっていることが さとりではないでしょうか?
親鸞の善人も悪人も念仏するだけ。因果論などしらない。では確率論にしかならないのですね。親鸞本人は叡山で学び、それなりの学問も修めてますのでそれでいいでしょう。それを信じて実践した者は確率論でということになってしまうのですね。親鸞の信仰はある意味立派だが広げるほどの仏教的信仰ではないですね。仏教ではなく救世主(阿弥陀)信仰としては認められますね。この阿弥陀信仰はキリスト教信仰と非常に酷似してますね。それ故、日本にはキリスト教が広まらないという説もありますね。
☆ という命題においてこそ この説に もっとも基本的な批判を与えていると考えます。
同じようにコリント後書もつまるところ、信者には確率論でしかない。といったほうが明確ですね。
mmky さん ご回答をありがとうございます。
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
親鸞の信仰は・・・仏教ではなく救世主(阿弥陀)信仰としては認められますね。この阿弥陀信仰はキリスト教信仰と非常に酷似してますね。
それ故、日本にはキリスト教が広まらないという説もありますね。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 《それゆえ》以下は 一般に《絶対》という概念を知らない・知ろうとしないという原因説もありえますので 保留しますが おっしゃるとおりだと考えます。
すなわち この質問に限っては 《ブッディスム》だからこうだとか これがブッディスムだという主張は 信用しないことにしています。クリスチアニスムにしても同じです。中身で勝負です。
いまは たしかに信仰がからまっていますが ここでの探索の基本はやはり哲学です。早い話が
○ 因果応報の実態を――つまりは縁起=空観を――だれが完全に認識しかつ実行できるか?
☆ という問いと同じことにもなります。ふつうの自然科学的な事実としての因果律にもとづく経験認識〔だけ〕ではないのですから。
★ 確率論
☆ とおっしゃる意味が採りかねていますが
★ 確率論の否定が因果論ですね。
☆ というところを見ると
○ 賭け
☆ の問題なのでしょうか? それなら 信仰のその踏み出しに当たると言っていいと思います。
これ以上すすめると 輪廻転生説に行きつくでしょうから 自重します。
○ 自然科学によって認識しうる因果律と 因果応報説とは同じではない。
○ 後者では けっきょく主観の数だけの説がある。
○ いえいえ 一人のひとの主観が 事件ごとに次々とその見方を変えるとまで言い得るほどに 因果応報説は起きている。起きていると言っても 中身は定まらずのままであるはづだ。
☆ とまとめます。どうしても間違いだというときには ご指摘をお寄せください。
No.5
- 回答日時:
因果応報って、そのまま、あったりまえじゃないのかな。
因っていうのは、即、果っしょ。応報ってのは、おきまりみたいな
もんだし、賢も愚も、良いも悪いも無いようなかんじ。
まね、果をどうにかしたいから因をどうかするってのとか
果がどうあっちゃダメから因をどうしちゃダメのは
即がないから意味わかんねーけど。
そんダケ~~
ukiyonohae さん ご回答をありがとうございます。
No.1のやり取りをご覧になってください。
《応報》そして《説》という表現に注目してください。
新インフルエンザのヰルスという原因とその人の体調などの間接的な原因(縁)から 結果がほぼ決まります。
因果応報説というのは――生まれ変わり(転生)の問題は扱いませんが―― ヰルスに感染する前にうそをついたとか ひとを騙したとか 《悪因》をおこなったからその報いとして結果を得ているという考えを言うのです。
ご見解は?
★☆ そんダケ~~
No.4
- 回答日時:
因果応報説を批判しているともしていないとも言えない。
☆ というご見解でしょうか?
● その通りです。因果応報というのは原因結果の連鎖をあらわしますので、
「人々の罪の責任を問うことなく」を因とすれば果がないからですね。
「罪」を因として「責任を問うことなく」を縁としても果をワープしているので因果応報説を批判しているともしていないとも言えない。ということですね。
☆ 善因楽果・悪因苦果というのは 一般的に言ってブッダのおしえであるのですから とうぜん親鸞も知っているはづです。それを《知らない》というのは 明らかに否定して言っていませんか?
否定ではないですね。
親鸞は善因楽果・悪因苦果を良く知っていましたね。だから妻帯(悪因)で叡山には戻れなかった(悪果)ですね。
ここでの意味は念仏という因のみで浄土にいけるという果が得られるかどうか知らないという意味ですね。法然さえ知らなかったと思いますね。ただそれを信じたかったのは理解できます。
本人はそういってますが浄土宗系が広がったのは念仏で浄土にいけると信じさせた連中がいたからですね。・・・これ完全な詐欺ですね。
どの仏典にも念仏のみで救われるという教えは無いからですね。だから因縁果はわからないけれども「我は念仏のみを信じる。」ということでしょう。しかし実際は「念仏で浄土にいける。(善因善果)」と後代の弟子はみな詐欺ってますからね。宗教というのは広めるために割りとそういうとこあるんですね。それは否定しませんけど。それにくらべて親鸞は正直ですね。わからないといいながら、念仏のみでは地獄へ行くかもしれないといってるのですから(悪因悪果)。
どちらにせよ親鸞の悟りでは(善因善果)なのか(悪因悪果)なのかわかりようが無い。たとえ、修行すればそれがわかるといわれてもすでに破戒僧になり修行のよすがさえない。という状態ですね。
この回答への補足
mmky さん ご回答をありがとうございます。
ですが 今回は いただけません。なんぼ mmky さんでも だめです。
理由を述べます。
★ それにくらべて親鸞は正直ですね。わからないといいながら、念仏のみでは地獄へ行くかもしれないといってるのですから(悪因悪果)。
☆ これは 最後の《(悪因悪果)》は 取り払ってください。そうすれば 親鸞の信仰(=非思考)がよく分かるはづです。
1. 掬われる(救われる)=つまり ブッダないし世界とわたしが和解するというのは この経験世界における原因結果の関係には拠らない。と言っています。
2. 人間の思惟もしくは行為に絞りましょう。そうすると たしかに一般にそして部分的には 因果関係がよく分かる場合があります。
3. たとえばいい加減な考えと思いで かのじょと付き合っているとします。たぶん肘鉄をくらうでしょう。ここには悪因悪果が見て取れます。
4. ですが 因果応報説というのは もっと深刻な善と悪の因果関係の問題ですね。――そんなものは 人間の考えでは捉えることは出来ず まして能力と努力とで善因善果の道を歩むということが出来るかの問題になります。
5. 親鸞は この救い=和解をめぐる《因縁果はわからない》と言っています。あるいは 分かっても《知らない》と言います。つまり 人間に分かるように救い=和解が決まっているのではなく 人間に自分の心の持ちようや努力次第でその成仏をえらぶ力があるというのでもないと言うのです。
6. すなわち 因果応報説を知らない。つまり否定しています。もしくは 肯定し得ないと言うことによって 因果応報説をひとが説くこと・心に思うことを 否定しています。
★ 「人々の罪の責任を問うことなく」を因とすれば果がないからですね。
☆ 親鸞のばあいとほぼ同じ考え方において この思想にかんしては
★ 果がない
☆ のではなく 微妙に違ってそうではなくこの《人々の罪の責任を問うことなく》がこの世界と人間にとって現実となったときから 因果関係が断たれたのです。つまりは 因果応報説が旧いものとなり あたかも割礼や板に書かれた律法が廃れたのと同じように廃れたのです。原罪が そのときから同じくもう問われなくなったのと軌を一にしています。
もっともすでに モーセの前に アブラハムのときには やはり因果応報説は否定されたのだと見ます。子をいけにえにささげよという注文をつけてその形の中で因果応報説を破り――なんで子を殺さねばならないのかという思いを抱かせることで 因果関係に破れを見させるようにして―― しかも翻ってその命令した子殺しをやめさせたことにおいて因果関係の問題をさらに超えよと伝えようとしているでしょう。信仰は 非思考だからです。
因業応報説を たしかにおっしゃるように《超えていて 知らない》のでしょうが これは《肯定しない》ことにおいて 《肯定することをやめなさい》と言っているでしょう。
つまりは 善行を積めば天国ないし極楽に行けるという人間の思考における思い込みは 意味がないとおしえています。悪行をつづける人間に対して おまえは地獄行きだと 他人が決めつけるような因果応報説は 意味がないとおしえています。きみたちは何さまだというわけです。神であるか あるいは ブッダになったというのなら まだ話は別なのでしょう。
★☆ 因果応報説を批判しているともしていないとも言えない。
☆ という命題においてこそ この説に もっとも基本的な批判を与えていると考えます。
★ 親鸞の悟りでは(善因善果)なのか(悪因悪果)なのかわかりようが無い。
☆ この《親鸞の悟り》を超える人間は いないということではないでしょうか? と分かっていることが さとりではないでしょうか?
No.3
- 回答日時:
参考程度に
5:19 「人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。」、
5:21 「わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」
● そのように信じる。ということでしょうから、以下の親鸞の言葉「良き人の仰をこうむって信じているばかりで」と同じでですね。元から因果律などに言及していないですね。親鸞は続けて、「浄土へ生まれる因であるか、・・・・私はちっとも知らないのです。」といってますから「因果応報もわからん」。と正直ですね。
歎異抄から抜粋:
【この親鸞は「ただ念仏して仏に助けていただくのだ」という良き人の仰をこうむって信じているばかりで、ほかに訳はありません。念仏するということは、まことに浄土へ生まれる因(たね)であるか、それとも地獄へおちる因であるか、私はちっとも知らないのです。もし万一、法然上人にだまされて念仏して地獄に落ちたとしても、さらさら後悔することはありません。】
● つまり、コリント後書5:12-21に因果応報に関する意味は微塵もないんじゃないですかね。あの親鸞ですら念仏が因果応報になるかどうかも分からんといってるんですから、コリント後書にあるわれわれも言及できるはずも無いんじゃないでしょうか。ちょっときついですが。
ちょっと肩透かしのようですが、因果応報の反論の例にはなりそうもないような。
実際に、親鸞は念仏で浄土に戻り、親鸞を信じて念仏に明け暮れた者の多くが地獄に落ちたという笑えない話もありますよ。キリスト教徒もまったく同じですね。なぜなら因果応報の教えが無いからですね。
mmky さん ご回答をありがとうございます。バトルは続きますね。
★ (わたし bragelonne の要約): わが意志行為をめぐる因果関係については 扱っていない議論であるから その議論をもって 因果応報説を批判しているともしていないとも言えない。
☆ というご見解でしょうか?
まづ親鸞の文章については 明らかに因果応報を否定しているのではないでしょうか?
★ ・・・念仏するということは、まことに浄土へ生まれる因(たね)であるか、それとも地獄へおちる因であるか、私はちっとも知らないのです。・・・
☆ 《知らない》というのは 《嫌う》という意味である場合が一般ではないでしょうか? 善因楽果・悪因苦果というのは 一般的に言ってブッダのおしえであるのですから とうぜん親鸞も知っているはづです。それを《知らない》というのは 明らかに否定して言っていませんか?
★ コリント後書5:12-21に因果応報に関する意味は微塵もないんじゃないですかね。
☆ のほうですが けれども
▲ 人々の罪の責任を問うことなく
☆ というように
▲ 罪
☆ と言っています。罪は とうぜん意志行為から来ます。《原罪》については 別の質問でご討議いただきましたが いまは措いておきますが 一般に罪は 自由意志の曲がりであり曲げによって生じると言えるはづです。でしたら 原因と結果の関係は 明らかです。その因果関係にある罪にかんして
▲ 人々の罪の責任を問うことなく
☆ と言います。
○ へそ曲がり―→善(存在ないし自由意志)に傷―→神に対して・もしくは相手に対して罪
☆ と来た一つの結果からさらにこれを原因として別の結果――つまり責任のことですね――が出るという見方をあつかっていますよ。それが 因果応報説ですね。
ですからこれを
▲ 人々の罪の責任を問うことなく
☆ ですから 明らかに 因果応報を断ち切っています。のではないでしょうか? いかがでしょう?
No.2
- 回答日時:
僕もそう思います。
実生活で「因果応報」と言われても納得いかないことの方が多いです。
また、他人に「因果応報」であることを納得させることも困難だと思うからです。
※回答する側に回ってみました。
※普通の人が普通に回答するとき、「愚の骨頂」と書かれているからといって
「この上なく馬鹿げている」とは思わなくても「ある程度馬鹿げている」と思えば
わざわざ「愚の骨頂」の正確な意味を挙げて、少しでも当てはまらないのであれば同意・共感しないような回答はしません。
それは「人が何かを伝えたいときは少しオーバーに、少し極端に表現したくなるもの」だと思うからです。
それなのに「その部分」を突くのは「揚げ足取り」や「配慮が足りない」と思うのです。
★
> ただしわたしが納得するまでお尋ねしてまいります。
これには答えられそうにありません。ごめんなさい。
この回答への補足
ferpeaus さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。
ご質問【Q:仏の対応】で わたしは あなたから見てしくじりをやらかしたようですので もうお話をする機会はないのかなと思っていました。しかも直前のNo.1への応答で触れましたように このわたしの質問には 回答がつかないのではないかと思っていましたので 意外な結果をいま迎えています。
さてさて しかも 賛同のご投稿ですね。さらには
★ 「人が何かを伝えたいときは少しオーバーに、少し極端に表現したくなるもの」だと思う。
☆ というふうに わたしの表現のくせについても擁護していただきました。たしかに極論で話を持ち出すなら 対話が案外しやすいものです。そして すでにわたしは【Q:・・・は 愚の骨頂】という題名の問いをいくつか行なっていますので 安易になっていたかも知れません。
ご賛同をいただいたのですが 早くいえば
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
実生活で「因果応報」と言われても納得いかないことの方が多いです。
また、他人に「因果応報」であることを納得させることも困難だと思うからです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 止まりということでしょうか。とは言え このご指摘だけでも 鋭く迫るものがあると考えます。例のヰキぺの定義は
▲ 定義:因果応報とは、「善い行いをすれば、感謝などの善い行いで返り、悪い行いをすれば、懲罰などの報いで返る」と、いう意味である。
☆ ですが おそらく――話を端折るならば―― 自分の主観における善因善果と悪因悪果という考え(というより推測や予測と言ってもいいでしょうね)が 現実の事態と合わないとき そのときにこそどうするかが 問題だと考えられるからです。
★ 実生活で「因果応報」と言われても納得いかないことの方が多いです。
☆ 自分の内面において納得しえないことを ましてひとに話して説得しうるとは思えません。
つまりは いわゆる《神義論 theodicy 》という問題にもなると思います。神が善であるなら なぜ世に悪があるかなどなどです。ヨブの嘆きのそれでもあるようです。――言いかえると たとえばこのヨブにおいてすでにこの《因果応報説》の愚は証明されていたのではないでしょうか。
またむろんブッディスムの側からも ご見解を明らかにしていただくならうれしいです。
わたしはすでに【Q:輪廻転生説は 愚の骨頂】を問うています。
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4927327.html
そしてこの場合は 生まれ変わりがあるという説を前提とした議論でした。ここでは 死後そして誕生以前のことをあまり前提としません。一般にこの百年内外の生涯における因果応報説をあつかいます。
言いかえると 虚構つまり物語において死後の地獄極楽天国を持ち出す場合も いまここなる人生において 因果応報説をどう見るか こういう問題として取り扱っていきたいと考えています。
このような出で立ちです。よろしければ奮ってご投稿をお寄せください。
* なおお礼欄と補足欄とは 字数に応じて使い分けをしています。あしからずご了承ください。
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