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蒲原有明の「歓楽」という詩を、文春文庫PLUS『教科書でおぼえた名詩』で知り、その語感に惹かれました。しかし一部意味がよく分かりません。高校時代の古語辞典などで調べてもみましたが自信がありません。情けないのですが口語に訳していただけたら思います。以下にその詩を引用します。カッコ(  )はその本に付いていたふりがなです。また大カッコ[  ]は、私がとくに分からない点です。

歓楽

埋(うず)もれし去歳(こぞ)の樹果(このみ)の
その種子(たね)のせまき夢にも、
いかならむ呼息(いき)はかよひて
触れやすき思ひに寤(さ)むる。  [後半2行がよく分かりません] 

さめよ種子、うるほひは充つ、
さやかなる音をば聴かずや、
流れよる命の小川
涓滴(したたり)のみなもと出でぬ。

夢みしは何のあやしみ―――   [あやしみ、の意味は?]
身はうかぶ光の涯(はて)か、  [光の涯とは?]
ゆくすゑの梢ぞかなふ
琴のねの調(しらべ)のはえか。[2~4行目の意味が分かりません]

うづもれし殻にはあれと、  [あれと、は、あれど、の誤植?]
なが胸の底にしもまた    [しもまた、が特に意味不明です]
歓楽(よろこび)を慕ひつくすと
あくがるるあゆみ響くや。  [何を憧れているのでしょうか?]

萠(も)えいでてさらば一月
菫草(すみれ)こそ君が友なれ、
生ひたちて、やがてはある夜
真白百合(ましらゆり)君に添はまし

たぶん自分の息子、あるいは男の孫(あるいは一族の小さな男の子)の健やかな成長を見守っていきたい、という願いの詩だと思います。
また蒲原有明は、文壇から長期間無視されていたらしいのですが、その理由もご存じでしたらお教えください。どうかよろしくお願いします。

A 回答 (1件)

大意を書きます。



去年の木の実の中にあった種子は小さいけれども息づいていて、いつでも夢から覚める(発芽する)準備が整っている。〔第一連〕
さあ覚めなさい、種子よ。したたりの集まりから生まれた小川の、生命の流れ寄る音を聴いていないのか(いや、聴いているはずだ)〔第二連〕
種子よ、どんな不可解な(常ならぬ、妖しい)夢を見ていたのか。光のとどくはてに浮かぶ自分というものの存在か。将来大樹となって、琴の音のしらべのように梢を揺らすことか。〔第三連〕
そうした将来を持つ身の、土に埋もれた殻でありたいと、あなたの胸の底にもまた喜びを慕い尽くす憧れが足音のように響いているのであろうか。〔第四連〕
やがて発芽して一ヶ月も経てば、スミレの花も咲いて友となり、夜には白百合の花も添うように咲いてくれるだろう。〔第五連〕

「なが胸」は「あなたの胸」、「底にしも」は「底にも」を強調した「し」が入って語調をととのえたもの。
ほかの疑問は大意をお汲みとりになれば、おおむねは見当がおつきになるかと思います。
あくまで私のつたない解釈です。浅薄だろうし、間違ってもいるでしょう。
鵜呑みになさることはありません。

それよりも大事なことは、と私は思うのですが、詩はなにより韻律(言葉の響きとリズム)です。
音楽をお聴きになるとき、その音楽の意味するところうんぬんより、まず雰囲気ないし気分を味わわれるのではないでしょうか、くりかえしくりかえし。
詩も音楽に似たところがあります。
語句の一つ一つを明確にすることも大事ですが、あまりこだわらずに、何度も読みかえし、言葉の組み合わせの妙や情感を汲まれたほうが楽しめる場合も多いかと思います。

お書きのように、将来のある若い親族へのことでもいいし、もっと一般化された若さへの賛美でもいい。若さがすでに喪われた詩人の嘆きが込められていると受け取ってもいいでしょう。そうしたさまざまな諧調が伝わってくる、憧れに満ちた繊細さを感じますね♪


蒲原有明は日本における象徴詩のもっとも傑出した実践者と一般にいわれています。

象徴主義(サンボリズム)とはボードレールを嚆矢とするヨーロッパ近代の芸術運動の一つで、自然の具体物や日常的光景を通して(そうしたものを象徴として)超自然的な宇宙の神秘を感知しようという万物照応(コレスポンダンス)の考えが中軸をなし、ここから詩の分野だけでもランボー、ヴェルレーヌ、マラルメと続くフランス詩の輝かしい系譜がありますが、有明の場合はイギリス、ラファエル前派の画家であり詩人であったガブリエル・ロセッティ(妹のクリスティーナ・ロセッティも魅力的な女流詩人)からの影響が見逃せないようです。

ま、こうしたことは今回どうでもいいとして、蒲原有明の孤立に移ります。

文明開化後まもない明治時代の日本には、せいぜい付け焼き刃の近代しかなく、本格的な市民社会の到来もまだずっと先のことでした。ここへヨーロッパの、文化・歴史と密接に結びつき必然性を持った近代芸術思潮が矢継ぎ早に紹介されても消化しきれるものではなく、皮相な一過性の流行を招くばかりでした。
北村透谷、初期の島崎藤村などの浪漫主義も、この象徴主義も、当時の日本にあっては畢竟は根なし草であるという点で、例外ではありませんでした。

加えて、このご質問の詩がそうであるように、五音・七音の組み合わせで代表される、ある音数の組み合わせで一行をなし、それをくりかえす「文語定型詩」と呼ばれる詩形式です。その文語は、かならずしも古典に忠実な用法とはかぎらない、それだけに奇異で失敗もある、創意工夫を凝らしたものだったとされています。

すでに小説や批評の分野では口語文が一般的になりつつあった時代に、ひとり詩のジャンルにおいてのみ、いまだ擬古文であるのはおかしい、これでは「現代」は表現できないとして、詩の革新、今のわれわれになじみ深い「口語自由詩」の試みが多くの詩人によって果敢に実作されてゆくのですが、有明はまさにこの直前の時代に位置していました。

有明の詩魂は多くのひとも等しく認めるほど高いものでしたし、そのための技巧も確かでした。詳しい人なら現代でも『茉莉花(まつりか)』をはじめとして愛唱にあたいする詩をただちに幾つも挙げることも可能です。

けれどもそれにもかかわらず歴史の皮肉により、わずかのあいだに、完全に時流から取り残される古めかしいものとなりはてたのです。
晩年に至っても有明は、自らの詩の理念に反する「口語自由詩」というラディカルな試みに不信を隠すことはありませんでした。
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この回答へのお礼

早速にも回答をお寄せくださって感激しています。
詩に対する用語も知らず、第一段落というのか、第一節とでも言うのかなと思っていましたが、一連、二連、と数えるのですね。また私は「語感」という言葉を使ってしまいましたが、「語調」、「韻律」という言葉を使用するのですね。そして「擬古文」、「文語定型詩」などの用語の件、ほんとうに勉強になりました。

そしてまた詳しい解説にも、ただただ感謝するばかりです。暗唱するくらい何度も読んで大意はだいたい分かったつもりでしたが、第三連と第四連がさっぱり分からなくて・・・、「しもまた」の説明は大変よく分かりました。
また、まさか「なが胸」が「汝が胸」だとは思いもよりませんでした。てっきり「長い胸」=「大きな胸」なのだろうと思いこんでいました。

私は五七調のリズムと選ばれた言葉の響きが特に気に入っていました。紹介してくださった外国の詩もそのうち読んでみたいと思います。

ただ新たな疑問が生じました。第四連の、「うづもれし殻にはあれと、」はどうやら「あれど」の誤植ではなさそうですが、この中の「は」は強調の意味で宜しいのでしょうか。だとしたら「ぞ」ではダメなのでしょうか。

御礼のつもりで書き始めましたが、再び質問の形式となってしまいました。もし余裕がございましたならまた教えていただけたら幸いです。

お礼日時:2009/07/19 22:03

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