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ふと思ったので皆さんの意見をお聞かせ下さい。
携帯小説は漫画の絵がないものだと思っています。
ただ、だらだらセリフを読んでいるだけのどこがいいのかが分かりません
じゃ~読まなければいいじゃんと言われたらおしまいなので勘弁して下さい。
例えばですけど、「おはよう」と主人公と誰かが会話を始めたら小説は、そこから自分の思考、行動、情景が書かれはじめますが、携帯小説は、「おはよう」、「よっおっは~」みたいな感じになるわけです。

全部が全部こんな感じではないかもしれませんが結局なにが言いたいかといますと、これのどこが小説なのかって言うことです。
書籍化された携帯小説は、縦書にすればいいものをご丁寧に横書(一部)にするなど、どこをどう見てもし小説じゃないと思うのは自分だけでしょうか?

漫画化された携帯小説をみてみると文が漫画と原作がほとんど変わらないなどレベルの低さが出まくっています。(普通省略されて物足りなさがすぐわかるけど、携帯小説が漫画化されるとほとんどいじらなくても出来るので違和感を感じない)
こんな感じではだらだら意見を書いてみましたが、何か気になる事がありましたら書き込みよろしくお願いします。否定、肯定、大歓迎です(笑)

A 回答 (3件)

とても同感です。


小説と言うより、その前の段階のプロット以下のレベルの文だと思います。携帯小説と呼ばれ、再び若者が読書にはげみだした・・・なんて言われたくありません。あれは漫画を読むより酷いです。
とは言っても、ああやってストーリーだけを追い、文学的な愉しみ(文章の技巧や言い回しや・・・)を求めないのが昨今の若者(私も若者ですが、後者を好みます)です。時間がないという忙しさ、深く考えることの愉しみの欠落(これは現在の詰め込み教育・幼少期の活字離れが影響していると思います)、そして携帯で読めるという手軽さが、「受け」る理由でしょう。

尤も、携帯小説に深い描写を求めても、読みにくい変な文章で終わってしまいます。短文用のサイズでは小説はまず不可能です。
ですから私は、携帯小説は変える必要もないですが、せめて「小説」と呼ばないで欲しいと思っています。(もしくは小説とは全く別物という認識が必要)
あればっかり書店に並んだ日には、もう二度と本屋に入り浸ることはなくなるでしょうね。
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瀬戸内さんが仮名を使ってケータイ小説を書いていましたが、書く人に左右され、著者の情熱も巧も感じないような物もある。

玉石混交で大した玉も出てこない。漫画の方が遥かに読者も楽しいだろう。文化は人が廃れると文化も廃れますから今の時代にピッタリかもしれません。私は、携帯で小説なんて目が悪くなりそうなので読みません。
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 今回は私の評論を書きたいと思います。

偏見が山ほどありますが。
 携帯小説は女子高生や女子大生に人気があるらしい。私のイメージにあるのは「恋空」なのである。やや不良っぽい少年と少女の恋を描くもので、彼が病気なり彼女と再会という内容である。つまり、純粋なラブや恋愛系の小説とは違う。
 なぜ、普通の少年が作者に描けなかったのだろうか。「切ない恋物語」という帯にはあるが共感できない。つまり、ラブストーリーは恋愛の姿を描くべきであって、誰もが体験し少し違うような世界を描かないといけないと感じる。つまり、いろんな可笑しさがこの小説にはある。
 携帯小説と文章について触れる。小説とは人に感動を与えるものではないだろうか。小説の名文に心に惹かれるものなのかもしれない。それには、文章の構築のレベルや質がある。司馬遼太郎は、古本屋で古書を買占め、それを読み、少しの嘘で文章を描いた。彼の文章は、人々に共感を与え死後も読み継がれている。司馬遼太郎が得意としたのが解説文であり、彼が新聞社という過去の経歴からだと思う。私は、彼の文章が好きだ。その点だけで見ても、携帯小説の文章の質は粗悪である。
 携帯小説は小説かを考えたい。小説とは読み手に感動や面白さを感じさせるために書き、上手い小説は作者に心地よい快感を与える。例えば、村上春樹の文章のリズムやテンポはよく、私は読み手として心地よい文章だと感じる。彼は60歳であるが、1980年に書かれた「風の声を聴け」は、今だに小説としては目新しい視点も感じ取れる。村上春樹は散文を得意として、独自の世界をつくっている作家なのだ。彼の思考が面白いとも感じられる。
 携帯小説は、人に面白さや心地よさを与えるのだろうか。携帯小説は素人が素人なりに考えた立派な作品に思える。しかし、読者に感動を与えるレベルには到達していないように感じる。第一、言葉を粗末に使っているようにさえ感じる。小説家にとって言葉は表現の一つで生命にも値するから慎重に選ぶはずである。作家が選んだ言葉は、その言葉が一番に良い表現だと感じているからだ。言葉を思いつくがままで書く携帯小説に感動はない。
 「ライトノベルの書き方」という480円の小説の書き方の本が宝島社より発売された。しかし、この本は文章読本として、この本自体がいい文章の見本にはならない。つまり、小説家として一つの方向性と名文を自分の文章で示すのがプロの方法である。保坂「書きあぐねている人のための小説入門」は文章としてのよさもある。つまり、プロは教える時にも自分の味のある文章を書き、魅了させるものだ。つまり、文章読本も作家の質に大きくかかわる。
 ダメな小説の書き方を読むから文章力がつかないのである。保坂は小説の書き方の本を読んでも小説は書けないという。それは小説にはマニュアルがないからなのである。私にとって、三島由紀夫「文章読本」が小説家志望の人に良いと感じる。彼は名文をよく理解している。もう古典としか思われない文章だが、彼のアドヴァイスがとてもいいように描かれている。その点、現在のマニュアル式小説の書き方に違和感がある。
 携帯小説の作家に足りないものは何か。まず、小説を味わうという読書の習慣がついていないのではないか。彼らは、小説を読もうとはせず、いきなり書き始めてデビューしようとする。小説をこの上なく愛する人しか面白い小説が書けない。小説を学ぶとは、よい小説を真似て書くことから始めないといけない。文章技術を付けるや言葉を多く理解する以前に、小説の文章や小説の面白みに目覚めてほしい。過去の作家を無視して小説は書くべきではない。
 小説を読むとは、好きな小説を好きなように読む事である。つまり、自分にとって好きな読み方をしないといけない。自分で読み方を考えないと、真の意味で小説の面白さは分からないだろう。
 読み手にとって、どのような点を見るのか。キャラクターが魅力があり、弱点がなくてはいけない。常に完璧なキャラクターを描かないようにしなくてはならない。ストーリーも風景をうまく描いていないといけない。それが名文だ。
 キャラクター小説を書く人に一言言いたい。小説は商品であり読み手の反応を考えて書いていますか。ただ、小説を書くのが好きではプロにはなれません。まず、分かりやすい日本語を書きましょう。幼稚な文章を書いて自分の恥が露呈するのは好きですか。小説書くなら、まず小説を読んで勉強しましょう。
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