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こんばんは。
今、世界史の資料を読んでいるのですが、わかりづらい点があるので質問させて頂きます。

「明・清王朝時代」の、「北慮」について読んでいるのですが、
「永楽帝の死後、内モンゴルが明に侵入したことを北慮という」
と書いてあるのですが、


・「内モンゴル」という概念というか、枠組みができたのはいつなのでしょうか。1920年代でしょうか。明の時代から「内モンゴル」はもうすでに存在していたのでしょうか?

・もしまだ明の時代に「内モンゴル」が存在していなかったとしたら、この資料の文章は「内モンゴル」の部分をどう変換して読んで理解すればいいですか?

回答お待ちしています><

A 回答 (2件)

・「内モンゴル」という概念というか、枠組みができたのはいつなのでしょうか。

1920年代でしょうか。明の時代から「内モンゴル」はもうすでに存在していたのでしょうか?

 概念的に文献で確認できるのは、1920年代以降です。
 枠組みとして不明確なものですが、歴史的には独自性をもった時代もありますので、内モンゴルという用語では別に規定することもできそうです。

・もしまだ明の時代に「内モンゴル」が存在していなかったとしたら、この資料の文章は「内モンゴル」の部分をどう変換して読んで理解すればいいですか?

 大変難しい質問なので、回答できません。
そもそも、この話は領土画定問題にもかかわる大問題ですから適切な回答がないともいえます。
 
 ただ、ここでいう内モンゴルは、オイラート部・タタール部と考えるのが通例です。
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北慮のモンゴル系主戦力は、実は


オイラート部(カルムイク人)、タタール部(韃靼)だったりします。

ちなみに南倭は、おなじみジャパニーズ・パイレーツ倭寇(^^♪

内モンゴル・外モンゴルの区分は、清朝から

1859年の「蒙古游牧記」、1884年の「皇朝藩部要略」で、「外蒙古」「内蒙古」という分類がされています。
外蒙古4部
チェチェン・ハーン部
トシェート・ハーン部
サイン・ノヤン部
ジャサクト・ハーン部

内蒙古6盟
ジェリム盟
ジョソト盟
ジョーウダ盟
シリーンゴル盟
ウラーンチャブ盟
イェケジョー盟

と分類されています(この他にも青海・新疆などの諸部族があります)。
内蒙古は主にチンギス・ハーンの弟の子孫やチンギス・ハーンの子孫ダヤン・ハーンの後裔などの部族です。
外蒙古は主にダヤン・ハーンの末子ゲレセンジェの子孫です。

中国に清朝が興た際に早々に帰順したのが内蒙古、ゴビ砂漠を挟み暫く抵抗したのが外蒙古。内はチンギス・ハン裔の部族が多かったのに対し、外には非チンギス系部族がいたことで、同じ民族でも違いがある。

満蒙の権益が日露戦争により、
清帝国の版図であるのに、
ロシア・・北満・外モンゴル
日本・・南満・内モンゴル
と分割され、
辛亥革命の影響で、外モンゴル諸部族が活仏であるジェプツンダンバ・ホトクト8世をホクド・ハンに推戴「モンゴル国」独立宣言、
1915年の第二次キャフタ条約で、
清朝が外モンゴル自治を承認、
1921年、中華民国軍を撃退、ホクド・ハンのもとにソ連が支援するモンゴル人民党社会主義政権が確立され、
事実上、国家領土としても、外モンゴルと内モンゴルは分離した。
ホクド・ハン逝去により、外モンゴルは君主制から人民共和国に移行し、
世界二番目の社会主義国家となる。
 一方、内モンゴルは、東条英機関東軍参謀長の後押しでジンギス・ハン三十世徳王が軍閥統治したが、
内モンゴル東部が満州国に割譲され、中国の国民感情を刺激したくない日本の意向で、
国家としての独立はあきらめ、
中華民国南京汪兆銘政権のもとの蒙古自治邦に、とどまり、現代にいたる。
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