頭の良い方(できれば東大、京大生)、視野が広い方、(くだらないことかもしれないけど)思索をよくする方にお尋ねします。

驕りってなんなんでしょう?そしてどうすればよいでしょう?

私は自意識過剰で人に見せることばかりを考え、自分のやりたいこともわからないし、(謙虚になって)自分をちゃんともっていないので色々矛盾したり混乱し、気もそぞろに生きています。

私は驕っていないときはしっかりした人間だし、頭脳明晰で、とても魅力があり人気者になるのです。というのは過去にそうだったし、今も瞬間的に驕りが消えたときそうなのだとわかります。

しかしいつからか驕りがひどくなり、自分を保っていられなくなりました。私は外見においても才能においても昔から人より優れて尊敬されていて、驕ってしまうだけの正当な理由があったと思います。しかし苦しめられています。驕ると浅薄になって才能も失います。

ゴーゴリの小説に「肖像画」という小説がありますが、今の私はあんな感じです。今後目を開くときがあったら、たぶんこれまでの人生にとても怒りを覚えることでしょう。でも人生ずっとこのままよりはいいかと思います。

驕りについて感じるところ、教えてください。
驕りってなんなんでしょうね?とても不思議じゃないですか?

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A 回答 (13件中1~10件)

>頭の良い方(できれば東大、京大生)



たったこれだけの言葉で貴方の未熟さがにじみ出ています。その未熟さに驕りが重なったら目も当てられず、刹那的な錯覚はいざ知らず、深みのある幸福感は一生味わえないでしょう。ですから、

>たぶんこれまでの人生にとても怒りを覚えることでしょう。でも人生ずっとこのままよりはいいかと思います。

という言葉に同感です。

でもご心配無く、貴方が余程業の深い方でない限り、成長と共に目から鱗が落ちる経験をして、今あなたのいる未熟な段階から抜け出せるものです。そんなときに自然と驕りも消えて、それに悩まされなくなりますから。

蛇足ですが、東大生や京大生が他の方と違う一番大きな点は彼等がそこの学生になってみて、そうなったからと言って自分が他の人達と比べてみて特別に異なった人間になったわけではないと言うことを知っていることなのです。博士然り、政治家然り、授賞経験のある学者然り、事業の成功者然りです。その方たちがそうならなかった方と違う一番大きな点は、上の東大生や京大生の例と同じで、彼等がそうなったからと言って、自分が他の人達と特別に異なった人間になったわけではない、実は皆と同じレベルにいる人間だと言うことを知っていることなのです。別な言い方をすると、所謂成功者達とは、自分の実力にではなく、自分の幸運さに素直に感謝できる人間になれた人達のことです。
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この回答へのお礼

初めての投稿なのでよくわからずお礼です

全体に関して、今回の質問に、本当はもっと哲学的な回答ーー驕りのメカニズムなどを期待していたのですが、予想外に説教的な回答でがっかりしました。

正直驕っている自分にははっと気づかされるなどはなかったですが、しかしこんな人間に何人も回答をくれたことがありがたかったです。昨日は(今日はまた消えてしまいましたが)少し視野が広がった(自分の小ささを快く感じた)気がしました。

そこで感じたのは、実生活で、幼稚な自分は見せられず大人ぶっているので、むしろそれが原因かもということです。閉じこもって悪が溜まっていくというか… 驕っていても本音で対話ができれば、視野が広がっていくはず。今回対話してくれたことが嬉しかったという感じです。

chototuさんの回答は一番適切で頭のよい方だと感じました。(またこの言い方幼稚なんでしょうね)驕らないっていうのも才能のひとつなんでしょうね。羨ましい

いつかみんなの回答を見直してもっと意味がわかるといいと思います

お礼日時:2009/07/31 13:38

こんにちは、summerwintさん。



驕りとは何ぞや?


うーん…なんだろう?

先の回答に‘欲’ってひとつことばがあがってましたよね?

わたしも‘欲’が何か関係しているような気がするんです。

もう夏休みに入って数日、いつの頃でしたかね

終業式を終え渡された通知簿(あゆみ)を開けば下の方に

[1学期]担任の先生からのことばが記されてあります。

――――――――なんたらかんたら…云々――――――――

学習面であともう少し欲がでればと、夏休みを大事に過ごしましょう。



欲って、生命エネルギーのひとつ

驕りたかぶる―――――何くそう-!と

いままでピクリとも動かなかったものが動く

内に眠っている何かが

荒療治と恨めしく思えたことがときに必要なこともある
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 補足



 意味が解らないようでしたら
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5129664.html
こちらを御覧ください。
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 で、結論を言ってしまえば、驕りか、驕りでないかの違いは程度の問題ではなく 質 の問題であるわけです。



 単なる、分不相応の自負であれば驕りであり、実感と経験と、出た結果による客観的な分析に基づいた自負であれば自身であるわけです。

 少しの驕りでも、驕りは驕りであり、多すぎてもそれが単なる無知と傲慢さから出たものであれば、驕りです。

 少しの自信でも、強い自信でも、それが上記のような客観的見方によるものであると「仮に判断する」なら、それは自信です。 これは、言葉の解釈で言えば、そうです。
 「自信とは言っても客観的でないかもしれない、思い込みであるかもしれない」という主張をするなら、それはそれでまた別の問題であることは、先に言っておきます。

 でも、これって言うまでもない、当たり前のことなんでは...

 やはり、相手の意図思惑の奴隷となり、脳の中枢神経に取り付かれ、ヤラレてしまった人間に言っても、解らないかな?
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 驕りとは分不相応の自負心を持つことであって、経験と実感における自身、自覚ではない という意味において、 程度の問題ではないのは明らかなのだが、それを程度の問題であるとして嘘偽り、欺瞞に満ちた見解を示す人間が驕りに満ちているということなんでしょう。



 さーて腕の見せ所です などと相手から、いかにも自分が上位にいるという姿勢を見せ付けられたことにより、その相手の意気込みに飲まれてしまい、相対的な相手の意図思惑を受け入れてしまったことで 変わりに絶対的な視点、判断力を失ってしまった人がいるとすれば、それは残念に思います。

 ○~~~
 ●~~~

 このように相手の言ったことと自分の言ったことを並べて論じることにより自分と相手を同格におき、場合によっては相手の文章を切り取り、一字一句を分解して述べることで相手を貶め、相手に取り憑き、エネルギーを吸っているんでしょうね、養分を吸われて気づかないのは、寄生されている人間のみか。

 『とりあえず何でも言っておけば、相手は自分が該当するかもしれないと思うことを勝手に思いつき、勝手に解釈して論じてくるだろうから、その中で矛盾していると思われるところを適当に指摘すれば、相手は 「なるほど、そうなのか」と勝手に自分で納得するかも知れないから、なんでもとりあえず思いついたことを言っておけ、それで私の信奉者が増えればラッキーだ、増えなければそれで もともと、しょうがない』 と考えている精神分裂病者に対して、真摯にマトモに取り合う必要はあるでしょうか?
 究極的には、他者との分別をつけるのが人間としての存在意義ではないですか... 

 卵が先か、鶏が先か、どちらでしょう。どちらでもないのです。自分の思考、意思によって変えた環境や、食生活が精神に影響を与え、精神、思いがまた環境や自分の行為振る舞いを変えていく。

 そういう意味で 順序がぎゃく とはいえないのは明白です。
 環境論のみに偏っている人間に対しては確かに ぎゃく と言えなくもないですが、少なくとも精神論のみに偏っている 精神異常者の言うことではないわけです。
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 追伸



 驕る気持ちが薄まると、新たによい方向への力がつくのではないでしょうか。

 ‘驕り’は‘自信’に変換できるのかもしれません。

 brgelonneさんの回答はこのことを言っているようです。
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この回答へのお礼

素朴なアドバイスですがありがとうございます。
bragelonneさんの回答は私は簡単に解釈しただけですがもっと大きな意味があるんでしょうか

驕りは自信に変換できる…わからないので考えてみます。

お礼日時:2009/08/01 17:44

 ‘欲’というものは薄めることが出来ます。

努力しだいで。

 ‘驕る気持ち’

 これも、消すことは出来ませんが薄めることは出来そうです。

 知的な事柄については、自分より頭がよいと思われる人と接して、自分の劣っている部分を自覚すること。

 また、自分より劣っていると思う人と接して、その人の優れた面を見て、認めること。

 肉体的にも、自分より優れた面を他者に見るように、日ごろから努めること。

 こんなことを心掛ければ、自分はそれほどでもないことを知り、他者に学ぶべきことが多々あるということを、知ることが出来るのではないでしょうか。

 もっとも、驕る気持ちがよい方向に向くのであれば、brgelonneさんの回答も捨てたもんじゃありません。

 でもsummerwintさんは自分の‘驕り’を、わずらわしく思っているようですね。

 それならば試してみてほしく思います。

 私自身もうぬぼれ家ですが、馬鹿にしていた人に、優れた面を見せられて、よく反省したものです。

 

 

 
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 こんにちは。



 ○ 奢りとは 程度もんだいである。
 ☆ と知るべきでしょう。
 おそれて縮こまるのではなく 積極的にその姿勢をも採って突き抜けて行ってみてください。

 * ゴーゴリを知らなくて澄みません。
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 ちょいと言葉をならべてみましょう。


 奢り、驕り、驕慢、傲慢、酒盛り・・・
 自己としての形態、皮膚、甲殻類、骨格。
 これら親戚ですね。

 あぁ、謙遜、謙虚、警戒心の不要、無心、・・・
 これは上記の超克ですね。
 人に典型的なのが、自分としても形を持ちたいということですね。
 だから、人はみな齊天大聖(孫悟空)なんですね。
 仕事をし、価値ある存在、価値あることをしている。とおもっていても釈尊とやらの手のひらを雲に乗ったつもりで、大飛行したつもりでいる。
 殆どの人は、そうじゃなきゃ一瞬もいられませんね。
 この、人たるの枠をどう超克するか。summerwintさんの教えを賜りたいですね。
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驕り(自慢する)と同音異語の奢り(振舞う)は、どちらも虚栄心のな


せる技ですね。そうはいっても、「おごる」ために苦労したり出費した
ことが今後に生かせて投資となるのか、勉強代となるか、単に浪費で終
わるのかは冒険とか博打と同じことをしてる訳です。

私は学こそないものの、海外で働いたことがあって「チップ」の習慣や
概念(年季を積んだところで昇給や出世の見込みがない人から受けたサ
ービスに対しての心づけ)がなくて、それも現地の人より日本人という
ことで(物価が高いから?)奮発もされ戸惑ったことがあります。

日本人としてお返ししなきゃって恩義を感じてしまうものもあって。
日本人の硬直さは施す側からすると失礼だ!驕りだとイギリス人に説教
されましたが!?英語も得意ではないのですが、多分そういうことを怒
鳴ってたと思います。
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Q驕りとは何ぞや

頭の良い方(できれば東大、京大生)、視野が広い方、(くだらないことかもしれないけど)思索をよくする方にお尋ねします。

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私は自意識過剰で人に見せることばかりを考え、自分のやりたいこともわからないし、(謙虚になって)自分をちゃんともっていないので色々矛盾したり混乱し、気もそぞろに生きています。

私は驕っていないときはしっかりした人間だし、頭脳明晰で、とても魅力があり人気者になるのです。というのは過去にそうだったし、今も瞬間的に驕りが消えたときそうなのだとわかります。

しかしいつからか驕りがひどくなり、自分を保っていられなくなりました。私は外見においても才能においても昔から人より優れて尊敬されていて、驕ってしまうだけの正当な理由があったと思います。しかし苦しめられています。驕ると浅薄になって才能も失います。

ゴーゴリの小説に「肖像画」という小説がありますが、今の私はあんな感じです。今後目を開くときがあったら、たぶんこれまでの人生にとても怒りを覚えることでしょう。でも人生ずっとこのままよりはいいかと思います。

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Aベストアンサー

>頭の良い方(できれば東大、京大生)

たったこれだけの言葉で貴方の未熟さがにじみ出ています。その未熟さに驕りが重なったら目も当てられず、刹那的な錯覚はいざ知らず、深みのある幸福感は一生味わえないでしょう。ですから、

>たぶんこれまでの人生にとても怒りを覚えることでしょう。でも人生ずっとこのままよりはいいかと思います。

という言葉に同感です。

でもご心配無く、貴方が余程業の深い方でない限り、成長と共に目から鱗が落ちる経験をして、今あなたのいる未熟な段階から抜け出せるものです。そんなときに自然と驕りも消えて、それに悩まされなくなりますから。

蛇足ですが、東大生や京大生が他の方と違う一番大きな点は彼等がそこの学生になってみて、そうなったからと言って自分が他の人達と比べてみて特別に異なった人間になったわけではないと言うことを知っていることなのです。博士然り、政治家然り、授賞経験のある学者然り、事業の成功者然りです。その方たちがそうならなかった方と違う一番大きな点は、上の東大生や京大生の例と同じで、彼等がそうなったからと言って、自分が他の人達と特別に異なった人間になったわけではない、実は皆と同じレベルにいる人間だと言うことを知っていることなのです。別な言い方をすると、所謂成功者達とは、自分の実力にではなく、自分の幸運さに素直に感謝できる人間になれた人達のことです。

>頭の良い方(できれば東大、京大生)

たったこれだけの言葉で貴方の未熟さがにじみ出ています。その未熟さに驕りが重なったら目も当てられず、刹那的な錯覚はいざ知らず、深みのある幸福感は一生味わえないでしょう。ですから、

>たぶんこれまでの人生にとても怒りを覚えることでしょう。でも人生ずっとこのままよりはいいかと思います。

という言葉に同感です。

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Q私の考え方は「驕り」でしょうか?

私は人と意見が合わない時、とことん話し合うのは重要な事と思っています。
理由は、自分の考えを狭いものにしたくないから、いろんな人の意見を聞きたい。
自分が間違っていれば、それに気づき、直す努力ができる。逆に相手が間違っていれば、その人の人間性が高まるのでその人の為にもなると思う。
つまり話し合う事で、お互い今以上に人間性を高められるんではないかと考えているのです。

ですが、それをある人に言ったら「驕りだ」と言われました。相手の為にもなると言うが、自分が優越感にひたる為であって、自分の意見を主張して従ってほしいだけなんじゃないか、と。

とてもショックでした。
私は誰にでも相手の間違いを指摘して、こうじゃないかと忠告するような事はしません。
この人には自分の考えを知って欲しい・他の人から嫌な人間だと思われてほしくないと思う、自分にとって大切な人にだけにしています。

ですが、これってやはり「驕り」なんでしょうか。
自分の間違った考えを教えてもらうのはいいとして、相手が間違った事をしている場合にそれを教えてあげる事は驕りですか?

ちなみにそんな考え方は疲れるだろうって言われました。もっと楽に生きろと。
私はちっとも苦じゃないし、そうやって人の意見を聞いて自分を高めようとする事は大事じゃないんでしょうか。
こういう考えは固すぎますか?


皆さんのご意見を聞かせて下さい。

私は人と意見が合わない時、とことん話し合うのは重要な事と思っています。
理由は、自分の考えを狭いものにしたくないから、いろんな人の意見を聞きたい。
自分が間違っていれば、それに気づき、直す努力ができる。逆に相手が間違っていれば、その人の人間性が高まるのでその人の為にもなると思う。
つまり話し合う事で、お互い今以上に人間性を高められるんではないかと考えているのです。

ですが、それをある人に言ったら「驕りだ」と言われました。相手の為にもなると言うが、自分が優越感にひたる為で...続きを読む

Aベストアンサー

こんにちは。

意見交換をすることは僕も好きですが、それをするにも時と場合そして相手によると僕は思っています。
そんなことはないと思いますが、人と意見が合わなかった時はいつでも、その内容にかかわらず意見を述べ合おうとしている事はないですか?
貴方の文を読んでいて、何となくそんな疑問が湧きました。
貴方のような考え方は疲れないか?と聞いてくる人も、同じような所に引っかかりを感じているかも知れません。

>相手が間違っていれば、その人の人間性が高まるのでその人の為にもなると思う。
この部分は僕にはやはり驕りに見えます。誰しも向上心のような物はありますが、それが同じ方を向いているとは限らないでしょう。
自分が伸びていきたいのはそういう方向じゃない、と思っている人にとって意見を繰り出すことは、押しつけと取られても仕方ないでしょうし、良かれと思ってそうしているとしても、それは貴方の価値観の中で良いと思えるだけであって、相手にとってはどうか分かりません。
自分にとって良いことは、誰にとっても良い筈だ。と言う発想は驕りではないでしょうか。

自分を高める為にいろんな事を知りたい、いろんな人の意見を聞きたい。という事には大いに価値があると思います。
が、そのために望まない相手に意見交換を持ちかけたり、意見を述べることを強要する場合があったとしたら、それは貴方のわがままに相手を付き合わせている事になるのではないでしょうか?

こんにちは。

意見交換をすることは僕も好きですが、それをするにも時と場合そして相手によると僕は思っています。
そんなことはないと思いますが、人と意見が合わなかった時はいつでも、その内容にかかわらず意見を述べ合おうとしている事はないですか?
貴方の文を読んでいて、何となくそんな疑問が湧きました。
貴方のような考え方は疲れないか?と聞いてくる人も、同じような所に引っかかりを感じているかも知れません。

>相手が間違っていれば、その人の人間性が高まるのでその人の為にもなると思...続きを読む

Q人生がつまらない。 保育園児は自分の人生がつまらないとは言わない。 幼稚園児は自分の人生はつまらない

人生がつまらない。


保育園児は自分の人生がつまらないとは言わない。

幼稚園児は自分の人生はつまらないとは言わない。

小学生は自分の人生はつまらないとは言わない。

中学生は自分の人生はつまらないと言う。

高校生は自分の人生はつまらないと言う。

大学生はつまらないことを楽しむ。

社会人になると人生はつまらないと言う。

老後に老人は人はつまらないとは言わない。

人生のつまらないって何なんでしょう?

保育園児、幼稚園児、大学生、老人は人生はつまらないとは言わない。

人生がつまらないと言うのは中学生と高校生と社会人だけです。

この2つをヒントにすると人生がつまらないのは何が原因か分かるのではないでしょうか。

そうです。勉強が人生をつまらなくしているのでは?

Aベストアンサー

「この2つをヒントにすると人生がつまらないのは何が原因か分かるのではないでしょうか」
⇒そうですね。
もちろん、原因はあります。

「そうです。勉強が人生をつまらなくしているのでは?」
⇒そうではありませんね。
原因は自分なのです。

人間社会には様々な世界そして生き方があるのですが、その中で自分がどのように生きるかが重要なのです。
自分に合わない生き方をしていれば”つまらない”のです。
自分に合った生き方をすれば”つまらなくない”のです。
学校の勉強が合っていれば楽しいでしょう。
逆に、合っていなければつまらないのです。
つまり、親や先生が言ってることが正しい生き方とは限らないのです。

さあ、あなたはどのような生き方が自分に合っているんでしょうか。
よく考えてみましょう。

Q意味を研究する事って

こんばんは。
今、授業で「認知意味論」を学んでいます。私は「意味を研究する事に意味があるか」という質問に答える事になったのですが、意味が無いと言ってしまうと授業が成り立たないので意味があると答えるべきだと思いました。
しかし、その根拠となる事柄がなかなか思いつきません。「どんな語にも意味があり、言語活動は意味を伝達する事であるから」ということだけでは、意味を研究する意味の根拠としては乏しいと思うのです(語の持つ意味が重要だとしても、言語によって意味は違い、その全てを網羅するのは不可能に近く、また、ある一つの言語に限っても、類似した意味の区別をつけることは困難、つまり意味というものは曖昧なものだから。)
そのような訳で、意味を研究する事の意味はどこにあるのか、皆様の考えをお聞かせ願いたく、質問しました。
また、私は専門家ではないので難しいことは分かりません。もし上の私の考え方でおかしなところがあれば訂正頂ければ助かります。

Aベストアンサー

意味論というのは定義が難しくて定義も様々ですが、共通して確認できる前提としては、意味というものは社会的な性質を持っているということです。要するに、言葉の意味とは事物の中に隠れているものが発見され命名されるのではなく、人間がその言語を通して事物に意味を与えていくものだということです。

将棋をさす時にある駒が足りなければ、そこらの石でも牛乳瓶のふたでも、何でも代用することができますが、これは駒そのものが重要なのでなく、将棋というゲーム全体の関係性の中においてその駒に与えられた意味が重要だからです。逆にいえば、ある駒を見つめていてもその駒の持つ意味というものは決して理解できません。

これと同様に、意味というものは全体の関係性の中で言葉に付与されるものですから、孤立した単語を眺めていても決して浮かびあがってくるものではありません。言葉の持つ意味とは、他の単語との関係の中に捉えられる、ある体系内の価値である、という風に認識できるでしょう。言語とは網のようなもので、意味とはその中の流動的なひとつのマスに過ぎません。これが意味論の根本的なスタンスと言って良いでしょう。
そう考えると、ご質問にある「言葉の意味を考える」ことは、すなわち社会制度としての言語の意味のネットワークを考える、ということに直結するわけですから、文化・社会・歴史全般にわたる広がりを持つという意義もわかるでしょう。裾野が大変に広いわけです。

言葉がご指摘のように曖昧な意味を担っていて、周辺のぼやけというかある幅を有することも事実ですが、先の意味から考えればこれは逆に、意味が他律的に周囲との関係の中で定まるものであるがゆえに、意味の中心が存在せず、せいぜい最大公約数的なものしか認識できない、という風に言えるでしょう。

要するに、明快な意味が定義できないから駄目なのでなく、そこをスタートとして、それなのに曲がりなりにも意味が通じ合うのはどういうことなのか、という風に意味の意義を求めてみてはどうでしょうか。
「言葉はモノの名称リストではなく、我々の世界認識の結果である」というのが、現在の言語観の基本です。

また、意味というものは意外と動的なもので、単純なものではありません。意味論の初歩でデノテーションとコノテーションを学ばれることと思いますが、例えば『ユダヤ人は所詮ユダヤ人さ』というせいりふの意味を考えてみると、最初のユダヤ人は「ユダヤ民族に属する人」という外示的意味(デノテーション)を指すのに対し、あとの方のユダヤ人とは「狡猾でずるいやつ」という共示的意味(コノテーション)を担っています。

これはひとつの些細な例にすぎないのですが、コノテーションを深く知れば、表現を通じて人間の意識というものを知ることにもつながります。言葉の意味は一定しないもので、常に既成の意味体系に限定されていく人間の意識が、言語の表現作用を通じて解放されていく様がコノテーションには見られるからです。
意味というのは世界の分節化であり限定性を本質的にもつものですが、それに抗って新しい意味生産を行うこと、つまり、言語の網の目の改変、という点で言葉の意味をたどることは人間の意識や思考方法そのものを見つめることに直結します。無意識のレベルで言葉の音と意味がどのように関わりひとつの語として紡がれるのか、というプロセスを研究する人達もいます。

さらに、認知意味論というのは特に人間が意味を認識する過程を問題にするわけですから、意味を考えること、ひいてはどうやってその意味が認識されているのか、ということは人工知能や認知哲学など広い分野に活用されるべき知識です。
例えば、海に浮いているメッセージボトルを見たとき、我々はすぐにそこに何らかの意味があることがわかるのですが、これはなかなか容易なことではありません。内部情報(中の紙に書かれている意味)を理解する以前に、外部情報(例えば「この文章が日本語で書かれている」といったこと)、さらにフレーム情報(つまり「このボトルの中には意味のある情報が入っている」ということ)が適確に理解されなければなりません。
「これは意味のあるモノである」という情報それ自体もメタ情報として意味を担っているわけで、実は語やモノの意味を理解することはそれ以前に多くの意味の解釈を必要としているのです。我々にとっては無意識の作業ですが、そういった事柄が我々の頭の中でどのように認識し処理されているのか、大変興味深い研究テーマだと思います。その困難さは、人工知能にこれらの行為を代替させようとした時にどれほどの困難が伴うことかを想像してみればわかることでしょう。

※少しご質問の内容とはずれがあるかもしれませんが、あまり意味論を理解していない回答が多いようなので、敢えて考え方のヒントとして書いてみました。ご参考までに。

意味論というのは定義が難しくて定義も様々ですが、共通して確認できる前提としては、意味というものは社会的な性質を持っているということです。要するに、言葉の意味とは事物の中に隠れているものが発見され命名されるのではなく、人間がその言語を通して事物に意味を与えていくものだということです。

将棋をさす時にある駒が足りなければ、そこらの石でも牛乳瓶のふたでも、何でも代用することができますが、これは駒そのものが重要なのでなく、将棋というゲーム全体の関係性の中においてその駒に与えられ...続きを読む

Q思慮の浅薄さを直す方法

私はかなり浅薄のようなのです。あ~ここは、こうでこうなんだな、なるほど!と思って意気揚々としていても、見落としがあったり、穴が開いていたり、要するに井の中の蛙のような状態なのです。それで、先生など長けた方に相談すると、そういうもろもろの取りこぼしが更に浮かび上がってきて・・・といった感じです。そんなこんなで自分の浅はかさに嫌気が差しました。もっと思慮深く、老熟した脳内思考回路を持ちたいんです。名探偵コナンのような、あそこまで事態を細かく分析し緻密に一から構造できるようなまでになりたいんです!!本でもトレーニングでもなんでも構いません。
よかったらお知恵をご享受ください。

Aベストアンサー

大好きなことでもいいので、1つのことを「なぜそうなのか?」で徹底的に分析してみるとその経験からしっかり(徹底的に)考えることができるようになると思います。

あと、私のオススメの本は
苅谷剛彦『知的複眼思考法』講談社 2002年です。
私も読破しましたが、自分で考える力をつけるにはうってつけだと思います。

以下のように紹介してあります。
--引用開始--
常識にとらわれた単眼思考を行っていては、いつまでたっても「自分の頭で考える」ことはできない。自分自身の視点からものごとを多角的に捉えて考え抜く――それが知的複眼思考法だ。情報を正確に読み取る力。ものごとの筋道を追う力。受け取った情報をもとに自分の論理を組み立てられる力。こうしてこそ、自分の頭で考えていくことができる。
--引用終了--
うん、中味もオススメです。

Q悪い意味からいい意味へ、またその逆。

こだわる、という言葉は本来「そんなことにこだわるな」というようにネガティブな意味だったものが「味にこだわる」というようにポジティブな意味でも使われるようになってしまいました。「すごい」や、最近では「やばい」も本来悪い意味がいい意味でも使われるようになったと思います。悪い意味からいい意味、いい意味から悪い意味に変化した言葉を他にあれば教えてください。またこういう変化のことを専門用語では何といいますか。(意味の昇華?意味の降下?)

Aベストアンサー

「素晴しい」(すばらしい)現在ではほとんどの場合いい意味で、「大変優れている」「程度がはなはだしい」時に使いますが、古くは良くないことに対して、「ひどい」「とんでもない」の意味で使いました。辞書には「この女ゆゑにやア素晴しい苦労をして」という例文が載っています。また大正時代の新聞の関東大震災の写真の説明に「素晴しい被害」という表現を見つけて驚きました。

Q思索する時。。。空っぽの私

いつもお世話になっております。
少し病的な範囲の質問かも知れませんが、お気軽に回答下さると嬉しいです。

「思索」等と言うと高尚な感じで恥ずかしいのですが。。。
*思索する時、皆様は「どんな感覚」でしょうか?
(私は只ひたすらに「自分の心に潜って行く」感覚です)

思索する時「前提を疑って掛かる(=白紙撤回の限界に挑戦?)」と思うのですが、
(そうではない場合がありましたら、ご教授下さい)
*自己の内部(?)に反発/拒絶を感じる事はありますか?
(私は磁石が反発し合うような感触で「近付く事も許されない」と言った感覚を感じる事があります)

曖昧な表現になりますが「自己認識の感覚」は、
*枠でしょうか?
*核でしょうか?
(私は「枠」と感じます。あまり自分の内部に「中身」を感じません。
言わば「空っぽの容器」の感覚です。以前(二十歳前迄)はとにかく「中身を見つける(無い気がしていたから)」事に必死だったように思います。ひと事件ありまして「今は内容量を増やす受容の時期」かも知れない、と考えてからは「容器の感覚」が強いです。自己暗示の成果でしょうか。汗)

単に表現に固執しているだけかも知れませんし、
個々人の感覚/言語化の違いもあるかも知れませんが、
出来ればこんな感覚に「実感」がある方にお答え頂けたら、と思います。
よろしくお願い致します!

いつもお世話になっております。
少し病的な範囲の質問かも知れませんが、お気軽に回答下さると嬉しいです。

「思索」等と言うと高尚な感じで恥ずかしいのですが。。。
*思索する時、皆様は「どんな感覚」でしょうか?
(私は只ひたすらに「自分の心に潜って行く」感覚です)

思索する時「前提を疑って掛かる(=白紙撤回の限界に挑戦?)」と思うのですが、
(そうではない場合がありましたら、ご教授下さい)
*自己の内部(?)に反発/拒絶を感じる事はありますか?
(私は磁石が反発し合うよう...続きを読む

Aベストアンサー

「自己認識の感覚」を、核とか枠とか言った概念で捉えようとしておられるのは、興味深いことです。とくに「枠」といった概念ですが、私は「境界」といった言葉をもちいています。別の所に投稿したものを一部改変して下記に書いておきます。ご参考になれば幸いです。
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「この私のこの心」が、「今・ここにいる」私によって考えられるとき、「今・ここにいる」私を離れて「この私のこの心」は存在し得ない。「心」の定義がどうであれ、「今・ここにいる」私が思い・考えるということを離れては存在し得ない。

それがいつ始まり、いつ終わるのか、どこから来て、どこに行くのかということは「今・ここにいる」私を離れることができない故に、想像の域を出ることができない。
そうして、「この私のこの心」が、生命活動を行っている実体としての私(特に脳)と密接な関連を持っていることと離れては存在し得ない。私とは、そのようなものである。
 
観念論的に「この私のこの私のこの...心」を自己言及という点にまで相対的に極限化することは比較的難しくはない。
一方、「この私のこの」心に境界を設定することは不可能であることも事実である。すなわち、「全宇宙」に「この私」が広がっているという概念すら否定されえない。

「この私のこの」心は、周囲の環境と密接な関係を保っており、「切り離す」ことは不可能なのである。それでいて個々に存在している。

すなわち、「この」わたしを突き詰めようとするときに、私と(全宇宙というよりも、概念的にもっと広い)総体との境界問題が発生するといってもいい。

では、「この」わたしとして「認識」している「もの」は一体何なのであろうか。。。?

私が私を私として認識するとき、時間の流れと記憶との問題が取りざたされうる。すなわち、「自己同一性」である。

「この」わたしが、それを考えているこの一瞬にあると思ってしまうのは、まさに総体から私を切り離しうるという知的に切断された面(以降、知的切断面)そのものであり、切り出された断面に張り付いた私を眺めているに過ぎない。

では、眺めているのは誰か?

それこそが「総体から切り離し不可能な私」であろう。。。

すなわち、逆説的に言えば、「総体」とは、空間的にも時間的にも切断されうるものであるがゆえ、時空間を含み、相互関連しうる、ありとあらゆる「全て」である。

なおかつ、眺めている主体は、知的切断面(境界)にて周囲から区分可能な存在でもあるわけである。
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「自己認識の感覚」を、核とか枠とか言った概念で捉えようとしておられるのは、興味深いことです。とくに「枠」といった概念ですが、私は「境界」といった言葉をもちいています。別の所に投稿したものを一部改変して下記に書いておきます。ご参考になれば幸いです。
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「この私のこの心」が、「今・ここにいる」私によって考えられるとき、「今・ここにいる」私を離れて「この私のこの心」は存在し得ない。「心」の定義がどうであれ、「今・ここにいる」私が思い・考えるということを離れては存在し得ない...続きを読む


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