日本の1960年代と1970年代、それぞれの特徴を教えてください。
簡単でもかまいませんので、よろしくお願いします。

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A 回答 (3件)

2つの年代を分かつエポックメイキングな事は、1964年の東京オリンピックと1973年のオイルショックでしょう。


戦後復興を確信させたオリンピックの開催を挟み、日本は「奇跡」と言われる経済成長を実現し、家庭には次々に新しい家電が増えて行き、学校ではプールなどの新たな施設が、一般では新幹線や空港・道路等が作られて行き、「今日より明日が良くなる」と皆が信じた時期でした。
政治的には、世界中の先進国で主に米国のベトナム戦争反対から出発した学生運動が激化し、日本でも日米安保条約の改定を前に学生運動が空前の盛り上がりを見せた時期でもありました。
単純に言えば、「全てに積極的な発展途上」と言う事と、「真面目に日本・自分の人生」を考える事ができ、それを恥ずかしげも無く公言出来た時期と言う事ができます。
1973年に発生したオイルショックはその楽観主義に鉄槌を加え、人々は緊急避難的に自己保身に走りました。
最近話題になった「内定取り消し」は当時始めて大量発生しましたし、初任給6万円が翌年には10万円を越えるといった狂騒インフレにより、多くの人々は「これまで得てきた」成果を守る方向で考え出しました。
一種のファッションでもあった学生運動の熱は一気に冷め、他の国で在った様に再燃する事は二度とありませんでした。
一旦落ち込んだ経済を立て直すため、国を論じていた人達は「食うための所属企業」を栄えさせる為に、一種の悲壮感・使命感を混在させた企業戦士として仕事に没頭し、結果的にはオイルショックに最も早く順応した強みを生かし、再度長い右肩上がりの経済成長を復活させました。
生活的には「家を買う」と言うのが一つの大きな目標となり、新たな家電は買い換え需要はあっても「夢」とは成りえないまで、個人の所得は大きくなっていました。
言葉にすれば、「夢を語る程初ではなく、現実的小さな目標を追う」時代で、経済発展に伴い新しい文化が発信され始めた時代でもありました。
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まず電気製品が違う。


60年代は洗濯機、冷蔵庫、テレビが三種の神器。洗濯機以前は金ダライに木製の洗濯板に粉石けんでゴシゴシだ。洗濯機も初めは脱水層のない物で、手回しのローラー式絞り機がついておった。
冷蔵庫も今の物とは違って随分小型で、1ドアの物。冷蔵庫以前はアイスボックスといって氷を中に入れて冷やすものだった。ゆえに昔は氷屋がいて、ノコギリで氷を切り自転車付きの大八車に乗せ、氷の上にムシロを被せて注文配達しておった。(60年中頃までは、こういう光景はよく見られた。)

テレビも最初は白黒テレビで真空管式の小型の物。チャンネルもガチャガチャと回すヤツでリモコンも無し。それでも大事なものだから、上から別珍のような緞帳を垂らして、ブラウン管を保護していた。馬鹿にしてはいけない。当時の貨幣価値としては、テレビは随分な高額商品であった。思えば現在はテレビも随分と安くなってはいる。

プラスチック製品が普及しだしたのも60年代に入ってからである。
それまではオモチャも木製、竹製、紙製、ブリキ製品が主流であった。
プラモデルなども子供たちの人気商品となる。人形もセルロイド製やビニール製が主流となる。
70年代でもこの傾向は残るが、オモチャは操作系のものが増える。ラジコン製品、レーシングカー、人形なども工夫を凝らしたもの。(正確にいえば、60年後半からである。)

バスも60年代は、前部が出っ張ったボンネットバスが主流で、鉄道もまだ蒸気機関車が走っていた。70年代に入るとこれらは急速に姿を消し、今ある形状のバス、蒸気機関車に代わってディーゼルカーや電車が主流になる。(正確には60年後半からである。)

70年代に入ると三種の神器は、カラーテレビ、クーラー、車、いわゆる3Cにとって代わる。
しかし当初は、カラーテレビも相変わらずのチャンネルガチャガチャでリモコンなし、クーラーもエアコンと違って暖房や除湿は無しで冷房のみ、洗濯機は脱水層付きの物が主流、冷蔵庫も2ドア式の物が主流となる。
車も1600cc以下の小型車が主流だった。(トヨタカローラ、ニッサンサニー、三菱ギャラン、マツダファミリアなど。)

60年代の代表的イベントは、東京オリンピック。重量挙げの三宅選手やバレーボールの東洋の魔女たちは、特に注目を集める。マラソンのアベベ、悲運の円谷幸吉。スポーツ根性がまだまだ神聖視されていた時期だ。マンガやテレビでもスポ根ものや青春ものが人気を集める。
70年代の代表的なイベントは70年の大阪万国博覧会、通称大阪万博。
「人類の進歩と調和」がテーマとなるも、あまりの入場行列の長さから、「人類の辛抱と長蛇」と揶揄される。(アメリカ館と日本館が多かったが、その他はそうでもなかった。)
特に月の石を陳列したアメリカ館は何重にも行列をなし、待ち時間が4~5時間だったか、炎天下のさなか、冗談はよし子さんよとばかり筆者はとうとう入れなかった。
帰りの電車の中で年配者はクタクタになって床のうえにへたり込み、筆者は当時まだ中学生だったが、満員電車のなかで手が若い女の尻に触れてしまい、もの凄い剣幕でくってかかられた事もあったが、女もそうとう疲れて苛立っていたものと思われる。
とんだイベントもあったものよ。

総括して言えば、60年代はまだ人力に頼るところが多かったため、人は能動的であったが、70年代に入ると急速に便利化が進んだため、人は受動的になったといえよう。
どうも60年後半と70年初めあたりが重なるが、60年代と70年代に境があるというよりも、昭和40年あたりを境界線にした方が正確かもしれない。
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Q1940-50年に起こった大きな出来事

戦争、経済関係中心で、お願いします。

また、日本と世界の2つの観点から教えて下さい。

Aベストアンサー

●1940年

・9月27日 - 日独伊三国軍事同盟成立。

●1941年

・10月18日 - 東條英機が内閣総理大臣となり、東條内閣を組閣。
・12月9日 - 中華民国(重慶政府、蒋介石政権)、日独伊に宣戦布告。

●1942年

・1月18日 - ベルリンで日独伊軍事協定調印
・2月15日 - 日本軍がシンガポール陥落
・6月5日 - ミッドウェー海戦( - 6月7日 )

●1943年

・1月14日 - アメリカのルーズベルト大統領とイギリスのチャーチル首相によるカサブランカ会談
・4月18日 - 山本五十六大将、米軍機の攻撃を受け戦死

●1944年

・7月18日 - 東条内閣総辞職
・11月7日 - ゾルゲ事件: リヒャルト・ゾルゲ・尾崎秀実が処刑される。
・12月7日 - 東海道沖で東南海地震発生(軍需工場の崩壊により戦争敗北が早まったと言われる)

●1945年

・2月4日 - ヤルタ会談開催
・3月10日 - アメリカ軍が東京を空襲(東京大空襲)
・4月1日 - 米軍が沖縄本島に上陸
・4月30日 - 独総統アドルフ・ヒトラーと妻エヴァ・ブラウンが自殺
・7月26日 - ポツダム宣言発表。連合国は日本に降伏を要求する
・8月6日 - 午前8時15分米軍が広島市へ原子爆弾投下
・8月9日 - 午前11時02分、米軍が長崎市へ原子爆弾投下。
・8月14日 - 午前11時、天皇が御前会議でポツダム宣言受諾の意思を表明。日本政府としての戦争終結
・8月15日 - 午後0時、昭和天皇の玉音放送で日本国民にとっての戦争終結
・8月30日 - マッカーサー元帥が沖縄本島より厚木飛行場に到着し、米太平洋軍総指令部GHQを横浜税関に設置。
・9月2日 - 東京湾上の戦艦ミズーリ艦上で、重光葵・梅津美治郎らが降伏文書調印

●1946年

・1月1日 - 天皇の人間宣言
・1月10日 - 国際連合総会第1回開催
・2月28日 - 公職追放令公布
・5月3日 - 極東国際軍事裁判所開廷
・7月1日 - 米ビキニ環礁で原爆実験
・11月3日 - 日本国憲法公布

●1947年

・5月3日 - 日本国憲法施行
・7月3日 - GHQ: 財閥解体の一環として三井物産・三菱商事の解体を要求
・9月14日 - カスリーン台風来襲

●1948年

・1月26日 - 帝銀事件発生。警視庁は旧731部隊員を調査するが、GHQが調査停止命令
・2月16日 - 朝鮮民主主義人民共和国樹立宣言
・3月17日 - イギリス、オランダ、フランス、ベルギー、ルクセンブルクにより、ソ連に対抗するブリュッセル条約締結(NATOの前身)
・6月28日 - 福井大地震
・7月20日 - 李承晩が大韓民国初代大統領に当選
・8月15日 - 大韓民国樹立宣言
・9月9日 - 朝鮮民主主義人民共和国成立

●1949年

・3月7日 - 日本、ドッジ・ライン(財政引き締め)実施
・4月4日 - アメリカ合衆国を中心に北大西洋条約を調印。NATO発足
・7月5日 - 下山事件発生(自殺説・共産党員、国鉄労働組合員による他殺説)
・7月15日 - 三鷹事件発生(日本共産党員をGHQが調査)
・8月17日 - 松川事件発生)日本共産党員をGHQが調査)
・9月7日 - ドイツ連邦共和国(西ドイツ)正式に発足
・10月1日 - 中華人民共和国成立
・10月7日 - ドイツ東部のソ連占領地区にドイツ民主共和国(東ドイツ)成立

●1950年

・6月25日 - 朝鮮戦争勃発

です。

●1940年

・9月27日 - 日独伊三国軍事同盟成立。

●1941年

・10月18日 - 東條英機が内閣総理大臣となり、東條内閣を組閣。
・12月9日 - 中華民国(重慶政府、蒋介石政権)、日独伊に宣戦布告。

●1942年

・1月18日 - ベルリンで日独伊軍事協定調印
・2月15日 - 日本軍がシンガポール陥落
・6月5日 - ミッドウェー海戦( - 6月7日 )

●1943年

・1月14日 - アメリカのルーズベルト大統領とイギリスのチャーチル首相によるカサブランカ会談
・4月18日 - 山本五十六大将、米軍機の攻撃を受け戦死

●1944年

・7月1...続きを読む

Q60年代、学生運動について教えてください。

 村上春樹さんの本を読んでいて、気になったので質問したいのですが、学生運動というのは一体何なのですか??
彼らをそういった行動に駆り立てたものは何なのですか??勉強不足ですみません。。
 またその辺りのことが詳しく書かれた本などを知っている方も教えていただけたら幸いです。

Aベストアンサー

 大学生が中心となって、大学側や政府といった
社会における体制側、つまりいろいろな
権力を持った側と戦ったんですね。

 大学の先生たちも体制側と言われて、
ときに学生たちにつるし上げられて
いたんです。今でも大学側の教育方針とか、
教授の授業の進め方、授業内容に
みんなが不満を抱いていることって結構ある
と思うのですが、下手に文句を言って、
就職に差し支えたらとか思うと
結局何もできません。つまり、学生に
とって大学側や先生たちは、大学環境を
自由にできる権力を持っているわけです。


 大学生は、政党みたいに主張を同じく
するセクトと呼ばれるグループに分かれて
活動のための資金を集めて、集会を
開いたり、政府に対する抗議運動を
していたんです。

 60年代は、アメリカとの間で結ばれて
いる安全保障条約の更新の時期に当たって
いて、学生側は安保反対を唱えて機動隊と
衝突していたりしたんです。
 安全保障条約は、更新時期というのがあって、
この時期に日米どちらか一方が条約破棄を
宣言すると以後この条約は無効になります。
しかし、何もしないと自動的に
更新されてしまうんです。
 学生たちはこの自動更新を阻止しようと
したんですね。

 今でも問題になっているように、安全
保証条約は、有事の際、アメリカが日本を
助けてくれる可能性を含んでいるものの、
日本もアメリカの戦争を助けなければならない、
つまり日本がアメリカの戦争に参戦する可能性を含んで
いるです。

 今の学生が抗議デモしないほうがむしろ
おかしいのかもしれません。

 東大の安田講堂は長い間、封鎖
されていました。ここに大学生たちが
立てこもり、機動隊と戦ったんです。
この安田講堂事件の後、公には
講堂が荒れ果ててしまい、修理の
予算がないという事で、封鎖して
いるということでしが、実際には
学生たちに再占拠されてしまう
事を恐れての封鎖でした。

 学生運動は60年代の事とされていますが、
実際には90年代まで関係当局がおおっぴらに
監視の目を光らせていました。

 例えば、日本大学の文理学部だったと
思いますが、少なくても90年代前半
まで、文化祭が禁止されていました。
屋台などの収入が、学生運動の資金源に
なるという事で、警察から大学側に
文化祭禁止の命令が出ていたんです。

 90年代後半から、学生運動の拠点になって
いたいわゆる有名大学の様相が大きく変わり
始め、今では面影もありませんが、
例えば、明治大学のお茶の水の
校舎の周りには、深い堀が掘ってありました。
入り口を閉鎖すれば、学生立たちが
学内に侵入できないようにするためです。
 
 東京神田、駿河台の付近では、道路の
舗装に、タイルやレンガの使用が
90年代後半まで禁止になっていた
地域がありました。
 学生運動の際、学生たちが石田畳
作りの道路から、タイル状の石を
引き剥がし、機動隊への投石に
使ったため、その再発防止のためでした。


>彼らをそういった行動に駆り立てたものは何なのですか??

 セクトと呼ばれるグループに分かれていた
くらいですから、主張はいろいろあったと
思いますが、一言で言うと、政府など権力側に対する
不満でしょう。

 今でも同様の問題は残っていると
思います。抗議デモやれとは言いませんが、
同じような不満は、よく考えると
今の学生も持っているはずです。

 大学生が中心となって、大学側や政府といった
社会における体制側、つまりいろいろな
権力を持った側と戦ったんですね。

 大学の先生たちも体制側と言われて、
ときに学生たちにつるし上げられて
いたんです。今でも大学側の教育方針とか、
教授の授業の進め方、授業内容に
みんなが不満を抱いていることって結構ある
と思うのですが、下手に文句を言って、
就職に差し支えたらとか思うと
結局何もできません。つまり、学生に
とって大学側や先生たちは、大学環境を
自由にできる権力を持ってい...続きを読む

Q今から60年前(昭和16~24ぐらい)の暮らしについて

最近、戦後60年記念類の番組をよく目にします。
今から60年前(昭和16~24ぐらい)の暮らしに興味が出てきました。
その時代と現代を比べれば物質(アイテム)が変わりましたが暮らしそのものは
今も昔も変わらない気がします。
あの当時、庶民より少し上の人達はどんな暮らしをしていたのでしょうか?
車・カメラ・8ミリカメラなど持っていたのでしょうか、後テレビは無いですから
ラジオが主流でしたよね、しかも民放がないのでNHKだけでしたよね
当時のラジオ放送は娯楽性があったのでしょう?(これは戦中と戦後では
違いますが、それぞれの人気番組とか教えてください)
さらに当時の裕福層の三種の神器とはいったいどんな物だったのでしょうか?
また、その時代に発売された商品で今日でも売られている商品はありますか?
後、仕事は週休1日だったのでしょうか?労働時間は?女性の社会進出は?etc
当時の世相がわかる人がいましたら色々教えて頂ければと思います。

Aベストアンサー

 わたしも書き物をするために、おもに親や当時を生きた方々から昔話として聞きながら、このような時代の資料を集めたり考証を重ねていますが、なかなか興味深いものがありますね。

 ひとつ大きく言えることは昭和16年から昭和20年までの太平洋戦争のいわゆる戦時中、そして昭和20年の8月に終戦を迎えてから昭和24年頃まで。このふたつの期間にはおどろくほど違いが見られます。終戦以降についてはもう#1さんからかなり詳しいご回答がありますので、それ以前の戦時中を中心に書いてみます。

 まず昭和16年から昭和20年までの戦時中。真珠湾攻撃で始まった戦争ですが、最初の勢いはともかく年々戦局は厳しいものに。米や麦、塩やタバコなどは配給制、食料はもとより物資がとにかく無くなって窮乏生活。
 ただ、わが家にはダットサンという小型車と人力車がありましたが、車引きの方も運転する人もみんな戦地に。それに、ベビーパールとツァイスイコンという2台のカメラにバーディーという8ミリのセット、それに電蓄というオーディオに沢山のレコードもありました。これらは戦前からあったようですが、終戦間際の空襲で全部焼失してしまったということです。

 ラジオはNHKの第一と第二だけですからほとんど選局しなくてもいいという便利さ?も。番組についてはまだ調べ切っていませんが、ラジヲ体操に落語に講談、浪花節などは人気番組。それらに挟まるように「今日の戦果は米戦艦1隻に巡洋艦4隻」なんて臨時ニュースが入るのも毎日のこと。今考えてみれば毎日そんなに戦果が上がるはずもないウソばっかり。そして空襲警報とともに「和歌山上空に敵B29爆撃機が100機編隊で関西方面に向けて侵入中」などとの軍の発表も。当時の子供の歌としては「お山の杉の子」、この歌知っています。

 当時の食事は、かなり裕福だったわが家でも玄米におかずは一品、それにお味噌汁。派手な服や和装、パーマなどは「非国民」と非難されたとか。よそ行きの高級なお召しをリフォームして作ったモンペと白い割烹着姿で国防婦人会というタスキをかけた祖母の写真も。これ、男性はほとんど戦地に出征していて女性が「銃後を守る」、つまり国土を守るということの現われ。
 宝石や貴金属類はもとより、鉄や銅のものなどはお国のためとなかば強制的に「供出」。当時の三種の神器といえば、氷で冷やす冷蔵庫、ハンドルを回して交換台を呼び出してつないでもらう電話、それにラジオぐらい。とにかく「欲しがりません、勝つまでは」がスローガンの時代でしたから。

 当時からの製品といえば、メンソレータム、花王石鹸、中将湯、ライオン歯磨き、三菱やトンボの鉛筆、ナショナルや東芝、シャープなどのラジオや電気アイロン、扇風機といった家電製品。まだ沢山あります。

 とにかく男性が足りない時代とて、家庭の主婦をはじめ女性が職場に。女子高(旧制)などの若い女性も挺身隊として学業そっちのけで職場や軍需工場、そして農村へ。勤務時間などはあってないようなもの、とにかく働けるだけ働くか、空襲警報で避難の毎日だったとか。そして終戦。。。。。。

 あとは#1さんがお答えの通り。終戦の時点ではたしかに車を持っている人はほとんどなかったと思います。空襲で焼け残った親戚にはカメラも8ミリもあって、まだ幼少の頃にそんな古いものを見せてもらった記憶がありますが。
 「尋ね人」、それに戦災孤児を扱った「鐘の鳴る丘(ラジオドラマ)」なんかはとても象徴的ですね。この時代ではとにかく食料が乏しく、まして甘いものがなかったとか。まるで今の北朝鮮さながら。

 ラジオではそのほか、「三太物語」「えり子とともに」、「大学を出たけれど」などラジオドラマや「日曜娯楽版」などが大人気、これやがてのちの大ヒットドラマとなった「君の名は」につながって行く。#1さんよくご存知ですね。

 当時流行した歌に「一万三千八百円」というのがありましたが、これは当時の平均的サラリーマンの給料の額。
 電気洗濯機、電気冷蔵庫、白黒テレビが三種の神器と言われたのはわが国が戦後の復興期から高度成長期にさしかかった昭和30年のこと。もうこの時代ともなるといろいろな分野で今と同じブランドの製品が出ています。こんな話、好きですが書ききれません。

 わたしも書き物をするために、おもに親や当時を生きた方々から昔話として聞きながら、このような時代の資料を集めたり考証を重ねていますが、なかなか興味深いものがありますね。

 ひとつ大きく言えることは昭和16年から昭和20年までの太平洋戦争のいわゆる戦時中、そして昭和20年の8月に終戦を迎えてから昭和24年頃まで。このふたつの期間にはおどろくほど違いが見られます。終戦以降についてはもう#1さんからかなり詳しいご回答がありますので、それ以前の戦時中を中心に書いてみます。

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Q1960年代の音楽&映画

今回、1960年代の音楽ついてプレゼンすることになり、↓の様に大まかに(大まかすぎてすみません^^:)調べたのですが、各ジャンルに代表されるミュージシャン、その他これは付け加えた方が…っというような事を教えて頂きたいです!それと同時に、60年代の洋画についてもご存知の方がいらっしゃいましたら、そちらについても教えて頂きたいです。宜しくお願いします。

1960-1963:R&R全盛期(ビートルズ・ローリングストーンズなど)

1964-1966:フォークロック流行(ボブディラン?)

1967-1969:サイケデリック・サウンド流行(?)

Aベストアンサー

どうも、ブルースバカです。

どうも60年代というとサイケデリックとフラワームーブメント、ヒッピーといった枝葉の部分にばかり触れている人が多いですが、実は根底にはブルースがあることはあまり知られていません。

ビートルズもストーンズもディランもデビューはさほど変わらない時期なのですが、彼らに大きな影響を与えたのが50年代のロックンロールの神様 チャック・ベリー で、彼を見出してデビューさせたのがシカゴ・ブルースの父 マディ・ウォーターズ(芸名でピンのミュージシャン) です。マディの影響でブルースにのめり込んでいったのがキース・リチャーズ、ブライアン・ジョーンズ(ローリング・ストーンズ)、ピ-ト・タウンシェント(ザ・フー)、エリック・クラプトン、ジェフ・ベック、ジミー・ペイジ(70年代以降レッド・ツェッペリンを結成)…と多くのミュージシャンが影響を受けました。
というのも1960年にマディ・ウォーターズはロンドンで講演を行い大きな「ブルース・ムーブメント」がロンドンで巻き起こったのです。その時ビートルズはリバプールの片田舎にいたうえハンブルグに巡業に行っていたためブームに乗り遅れてしまったのです。言ってみれば後にアメリカを席巻する「ブリティッシュ・ロック・ムーブメント」はマディ・ウォーターズによって用意されたと言って過言ではないでしょう。

この頃アメリカでは南部を中心に公然と人種差別が行われており、時のスーパースター エルビス・プレスリー は軍隊に入隊、チャック・ベリーなどの黒人ミュージシャンは軒並み逮捕や事故死などで活動停止、最もセクシーと言われた黒人R&Rスター リトル・リチャード は飛行機事故に遭うも奇跡的に無傷で助かり改宗し牧師になってしまい完全にR&Rは死んでしまいました。
この背景には「罪深い」黒人に対する差別と、黒人音楽への弾圧がありました。辛うじて生き残ったマッディ・ウォーターズやハウリン・ウルフといったブルース・ミュージシャンはヨーロッパに活動の拠点を移すことになったのです。

ビートルズがアメリカを席巻するのが1964年、それまではポール・アンカ等のかったるいキャンディ・ポップスやベンチャーズなどのインスト、せいぜいがビーチ・ボーイズのサーフ・ミュージックくらいしかありませんでした。これは白人による最も健全な音楽としてラジオ局(当時はテレビより普及していた)で積極的に流されていた影響によるもので、今ではごく一部が聞かれるに留まっています。
これだけかったるいポップスの中にあってビートルズはセンセーショナルなものとして映り、ご存知の通り「ビートルマニア」という現象が全米を席巻しました。
その後ビートルズに続けとばかりにローリング・ストーンズ、アニマルズ、ヤードバーズ(初代ギタリストはエリック・クラプトン、70年代にレッド・ツェッペリンと改名)、ザ・フーなどがアメリカに上陸、一台センセーションを巻き起こします。
全米がブリティッシュ1色かと思ったら、反面フォーク(プロテスタント・ソング)界に貴公子と呼ばれる男がデビューしました。これがボブ・ディランで「白人が黒人の歌を歌うなんてケシカラン」という保守的な白人層を取り込んで人気が爆発しました。元々プロテスタント・ソングは白人のブルースなので時代の流れの中で当然多くの支持を得ることになります。

60年代の音楽が大きく動くのはディランがエレキ・ギター(黒のフェンダー・ストラトキャスター)を持った時からです。元々ロックンローラー志望だった彼は一時衰退したR&Rに夢を諦めプロテスタント・ソングの道を選んだのですが、ブリティッシュロックの対等に触発されスタイルを変えて行ったと言われています。
この変化が黒人音楽のR&R、R&Bと白人音楽のフォークソングを融合した フォーク・ロック というスタイルにつながり、HIGHWAI61 REVISITED(邦題:追憶のハイウェイ61)~BROND ON BROND という世界初の「トータル・コンセプト・アルバム」へと続きます。

1965年になるとアニマルズはドラッグ不法所持で逮捕が連発・解散、ヤードバーズはクラプトンがアイドル路線に嫌気が指し仲たがい(後にクラプトンは脱退、後釜に天下ごめんの天才ジェフ・ベックが加入)、と変化が現れます。アメリカではアイドルでデビューしたビートルズは当初はダイアナ・ロス&ザ・シュープリームスなどに代表される モータウン・サウンド とチャック・ベリーなどのロックンロールのパクリバンドでしかなかったのですが、ディランの方向性に触発されて RUBBER SOUL あたりから音楽性を重視したバンドへと熟成していきます。
ビートルズの最初のトータルコンセプトアルバム REVOLVER が発売される頃(1966年)にローリング・ストーンズは AFTERMATH というトータルコンセプトアルバムを発表し、ザ・フーはライブ・バンドとして精力的にツアーを組み、イギリス組みの勝ち残りはこの3つのバンドとなっていきます。

1967年にはそれまでの混沌とした音楽界にひとつの結論がでます。1966年に一切のライブ活動を停止したビートルズが最高傑作と称される SGT.PEPPER’S LONLEY HEARTS CLUB BAND を発表。タダのアイドルがミュージシャンとして開花した瞬間でした。反面ローリング・ストーンズの中枢である ミック・ジャガー、キース・リチャーズ、ブライアン・ジョーンズ がドラッグ不法所持で逮捕、事実上の活動休止に追いやられてしまいました。ディランは突然活動を休止、まるで申し合わせたようにそれまでの流れが変わってしまいました。
この年ヤードバーズを脱退したエリック・クラプトンはジンジャー・ベイカー、ジャック・ブルースとともに新バンド クリーム を結成、ホワイト・ブルース と呼ばれる新しいスタイルが受け入れられるようになります。この頃からクラプトンの早弾きを「スローハンド」と称されるようになります。
またアニマルズの元メンバーがとてつもない天才を見つけたと黒人ギタリストをレコードデビューに持っていきます。この黒人の名は ジミ・ヘンドリックス。史上最高のライブ・バンドと称されるようになったザ・フーの出演する モンタレー・ロックフェスティバル でギターを燃やすというパフォーマンスでセンセーショナルなデビューを果たします。またアメリカ中部の片田舎から出てきたヒッピーの少女が独特なハスキーボイスでセンセーショナルなデビューを果たしたのもこの頃で、この少女こそ ジャニス・ジョップリン。1967年はヴェトナム反戦運動と新しいスターの出現で新たな方向へと動いていくのです。

ブルースを基盤にして様々なミュージシャンが輩出された60年代に唯一ブルースの影響を受けなかったバンドがデビューしたのがこの頃で、カリフォルニア出身の彼らはネイティブ・アメリカンの音楽にインスパイアされたという特殊なものでした。これが ドアーズ です。1968年はヘンドリックス、ジョップリン、ドアーズというメイド・イン・USAのミュージシャンが台頭していきます。

しかし面白くないのは黒人で、言ってみれば「白人にブルースを奪われた」わけで、それも「罪深い音楽でケシカラン」といっていた連中に奪われただけに「ざけんな、man」なわけです。さらに LOVE&PEACE なムーブメントから BLACK IS BEAUTIFUL と黒人の自我が目覚めた年といわれる時期に入り、白人に取られたブルースを演奏しなくなりファンクやソウル(オーティス・レディング、スライ&ザ・ファミリーストーン、リトル・スティービー・ワンダーなど)という新しいブラック・ミュージックが生まれていくのです。アフロ・ヘアが生まれたのがこの時期で、元々縮れ毛の黒人はそれまで白人の文化慣習に習ってポマードなどで強制的に直毛にすることを強要されてきましたが、「黒人はこれが自然で美しい」という主張として縮れた毛を伸ばしたアフロ・ヘアが流行したのです。

ビートルズはこの頃になるとポール・マッカートニー対ジョン・レノン、ジョージ・ハリスンの冷戦が深刻化していました。この年通称ホワイトアルバムを発表するも「ひとつひとつの楽曲はいいんだけどアルバムとしてのまとまりがない」と酷評を受けます。加えてハリスンのソロアルバム発表、レノンがオノ・ヨーコと平和活動に本腰を入れるなどグループとしての活動よりそれぞれが勝手に活動して「ビートルズ解散説」が巷を駆け巡るようになります。
反面ストーンズは67年に発表した THEIR SATANIC MAGESTIES で「ビートルズの質の悪い亜流」と酷評されサイケデリックから徹底的に軌道修正を行い名盤 BEGGAR’S BANQUET をリリースし完全復活します。現在CMで流れている JUMPIN’JACK FLASH はもともとこのアルバムに入れる予定でしたがレコード会社側の催促で急遽シングルカットして先行リリースしたと言う逸話が残っています。

そんな激動の60年代は68年のショッキングな事件から崩れていきます。67年の逮捕以降露骨に薬物依存が進行していたストーンズのブライアン・ジョーンズが自宅プールで変死体で発見されたのです。それに続くかのようにジミ・ヘンドリックスが自宅のベッドで、ジャニス・ジョップリンが、ドアーズのジム・モリスンが立て続けに変死体で発見されたのです。当時キング牧師やロバート・ケネディ上院議員の暗殺の記憶が新しかっただけに影響力の強い彼らはまとめてCIAに暗殺されたというまことしやかな噂が囁かれたほどです(もちろん証拠はありませんが)。
ニューヨーク郊外のボブ・ディランの広大な家の敷地内で行われたロックフェスティバル ウッドストック・フェスティバル は現在でも語り継がれる伝説のフェスティバルです。参加した聴衆は「輝かしい70年代」を確信しただけにここで STARS AND STRIPES BUNNER(星条旗よ永遠なれ) を演奏したヘンドリックスの変死はショッキングなものでした。
さらに追い討ちをかけるようにカリフォルニア州オルタモントで開催されたストーンズ主催のロック・フェスティバル(これは当初「西海岸のウッドストック」と期待されていた)で警備に当たった暴走族・ヘルス・エンジェルスのメンバーが観客の黒人を刺殺するというショッキングな事件で幕を閉じます。この時アメリカでは「夢は終わった」と、フラワームーブメントの終焉を迎えることになるのです。

…と長くなりましたが、60年代は「黒人音楽と白人音楽の融合」が根源にあり、様々な音楽的実験が行われた時代だったのです。ここでは書ききれませんでしたが ハービー・ハンコック や マイルス・デイビス などのジャズ・ミュージシャンがロックを取り入れた ジャズ・ロック というスタイルを確立したのもこの時期です。
ここではざっと(?)ミュージシャンと音楽の流れを追ってみましたが、当時の事件(ケネディ大統領暗殺、マルコムXやKKKなど)や時代背景(アメリカのヴェトナム戦争泥沼化)等を照らし合わせていくといいプレゼンができると思いますよ。

追記として、ロック・フェスティバルはその後 ライブ・エイド や最近行われた ライブ・エイト として受け継がれ、黒人の人権確立のきっかけになるなど、実は今でも夢は終わってなかったりするのです。

長くてごめんなさいね。

どうも、ブルースバカです。

どうも60年代というとサイケデリックとフラワームーブメント、ヒッピーといった枝葉の部分にばかり触れている人が多いですが、実は根底にはブルースがあることはあまり知られていません。

ビートルズもストーンズもディランもデビューはさほど変わらない時期なのですが、彼らに大きな影響を与えたのが50年代のロックンロールの神様 チャック・ベリー で、彼を見出してデビューさせたのがシカゴ・ブルースの父 マディ・ウォーターズ(芸名でピンのミュージシャン) です...続きを読む

Q1980年代の日本

80年代の日本の状況についての質問です。

91年にバブルが崩壊するまで景気は良好だったようですが、なぜ89年に消費税を導入する必要があったのでしょうか?
またバブル当時の日本ではこの異常な好景気に対して疑問や対策はなかったのでしょうか?

また国際的には冷戦の終末など、不安定な時期ですがその中での日本の立場と政治的な方針について詳しく教えて下さい。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

何がベストの政治判断なんてのはないわけです。
ベストがあるならば、その段階で、政治の対象である社会は静止状態になっていないとならない。

財政赤字と公共事業の民営化
これは、19世紀の課題を20世紀の百年かかっても解決できていない事。
19世紀の課題とは、経済成長の分け前をどう分配するか?という課題。
※ 現在の経済成長は19世紀初頭から始まっています。
経済成長がないのであれば、だれが我慢するか?という問題になります。ゲーム理論で言うところのゼロサムゲーム。四人でやる麻雀の総得点は一緒で、取り合うというヤツです。
19世紀後半から、分配の問題が政治課題となりました。ビスマルクが社会保険制度を作ったり、マルクスが共産主義を唱えたり、イギリスが「ゆりかごから墓場まで」と言い出すのは、大きく言うとこういう背景がある。
で、20世紀半ばでの政治的回答が「大きな政府で国民の福祉の均質化」となります。経済理論で言えばケインズとなります。
ところが、福祉の分配は、一般的な企業活動と比較して、評価基準が不明確。企業の幸せは、利益が出るかどうかという明確な指標があります。利益が出ないと潰れますので、わかりやすい。国民の幸せは、それぞれの国民一人一人で違ってきます。企業における利益のような、わかりやすい指標がありません。近似的な指標が、各政党の「得票率」となります。より幸福を与えそうな政党が政権を握る。
しかし これも近似的な値でしかない。そのための不効率が生じます。

この不効率が、財政赤字を産みます。
経済的には儲からなくても、やらなければならないと投票されると、お金を回収できない高速道路を造ったり、その高速道路を運営するための公共企業が生まれるからです。

さて 消費税
税金は効率よく取りましょう。
税金を取る方の考え方は、煎じ詰めるとこうなります。
税金を取るために、税金より多くの金を使っては意味がありません。

日本の古代の戸籍が生まれた理由は、一人一人から税金を取るためです。その戸籍を作り続ける意欲と効果がなければ止めます。ということで、いろいろあって、江戸時代は 村受けとかの単位になります。
さて、戦前の日本の税金は、金持ちからの直接税と、酒税などの間接税が主力です。金持ちは人数が少ないので把握しやすい、また酒税は、酒を造るところを押させれば把握したい(密造酒以外は)。貧乏人まで含めた国民一人一人から納税させるのは大変なわけです。貧乏人に少ない税金を出させるための税務官の人件費の方が高くなってしまう。

んで、戦後の日本は、みんなが金持ちになると共に、みんなが俸給生活者になりました。つまり企業を捕まえれば、確実に所得税を取ることができる。しかも国民の数より、企業の数の方がずっと少ないので効率がいい。

やがて、見えてきたのが、高齢化社会。
高齢化社会では、老人は企業に勤めていませんから、企業を通じて収入を把握することができません。
若いころのお金を運用して、その運用金で生活をできるヒトもいれば、そうでないヒトもいる。千差万別なわけです。
税務署が、一人一人を把握することができなくなるわけです。
で、思いついたのが消費税。
商品を売る企業を捕まえて、そこから税金を取る。
これならば、国民一人一人を捕まえるよりも効率がいい。

ということで、消費税を導入したのです。

何がベストの政治判断なんてのはないわけです。
ベストがあるならば、その段階で、政治の対象である社会は静止状態になっていないとならない。

財政赤字と公共事業の民営化
これは、19世紀の課題を20世紀の百年かかっても解決できていない事。
19世紀の課題とは、経済成長の分け前をどう分配するか?という課題。
※ 現在の経済成長は19世紀初頭から始まっています。
経済成長がないのであれば、だれが我慢するか?という問題になります。ゲーム理論で言うところのゼロサムゲーム。四人でやる麻雀の総得点...続きを読む

Q「ご連絡いたします」は敬語として正しい?

連絡するのは、自分なのだから、「ご」を付けるのは
おかしいのではないか、と思うのですが。
「ご連絡いたします。」「ご報告します。」
ていうのは正しい敬語なのでしょうか?

Aベストアンサー

「お(ご)~する(いたす)」は、自分側の動作をへりくだる謙譲語です。
「ご連絡致します」も「ご報告致します」も、正しいです。

文法上は参考URLをご覧ください。

参考URL:http://www.nihongokyoshi.co.jp/manbou_data/a5524170.html

Q今と昔(1960年代)の経済の違い、経緯を教えてください

現在の経済状況と昔(1960年代)の経済状況の違い、経緯を教えてください。また、それに対しての皆様の考え、意見が聞きたいです。経済のことがよくわからないのでよろしくおねがいします。

Aベストアンサー

はじめまして、40代後半のおっさんです。
1960年代は、ちょうど私が幼稚園から小学校の時代です。
日本は経済成長率が平均10%前後でと今の中国並みでした。私は幼かったので経済成長率なんてもちろん意識していませんが成長は実感です。
64年の東京オリンピック、70年の大阪万博をへて日本中が高度成長に沸いていた時代ですね。
一回り年上の人たちは街頭テレビの時代ですが、私の時代は普通の家にはテレビが普及し、車も多くの人が手に入れていた時代です。
テレビも60年代後半にはカラーに変わり、新幹線が開通し、高速道路が建設され始めたモータリゼーションの幕開けです。
霞ヶ関ビルが建ち、本格的な高層ビルの時代が始まり、戦後の復旧期を終えた日本が、世界に羽ばたき始める時代だったと思います。

でも、今から思えば大部分の日本人はまだまだ貧乏だったと思います。(1ドル360円の時代ですから)輸入品は舶来品と言われ外国製品=高級品の時代です。
大学進学率も低いし、学校は公立が当たり前、私学に進学するのはごく一部のお金持ちだけでした。
私は大阪ですが、経済的な理由で中卒で働く人もいました。半分が高卒で大学進学率が大幅にあがったのは昭和40年代以降でしょう。

最近よく言われる、格差(お金持ちと貧乏人、東京と地方)は今の何倍もあったと思います。
この時代は、仕事と豊かさを求めてたくさんの人が東京へ東京へ集まった時代、地方の若者は東京へ進学し、または職を求めて東京に出てくる。農家のお父さんは出稼ぎに東京に出てきました。
ともかく、健康な人は働かないと食えない時代です。皆必死で職を求めいて、パラサイトシングルで気ままな独身生活なんて許されなかったと思います。

最近思うところあって、調べたのですが、犯罪発生率は現在の3倍あったそうです。(人口は現在の60%なので件数はもうちょっと差は縮まりますが)、未成年の凶悪犯罪に至っては現在の4倍だそうです。(犯罪発生率のピークは1963年だそうです物騒な世の中だったようです)

ともかく最近盛んに言われる、「格差社会」「東京と地方の格差」「犯罪発生率の増加」「犯罪の低年齢化」ってのは思い起こしてみると全く逆で1960年代の方が圧倒的に酷かった。

ちょっと、話がそれてしまいましたが、経済に話を戻します。当時は為替レートが1ドル=360円の時代です。単純に考えても購買力は今の1/3で、日本製品は海外でも評価が低く、「安物」扱いされていた時代です。
今より日本の経済力は何分の1の時代です。経済成長も著しかったけれど、インフレも激しく給料のアップとどっち?って感じです。
私は幼かったけれど、親父の稼ぎ以上に物価が上がり、袋がぼやいていたのを覚えています。

でも!(ここからが本題です) 日本中「成長感」に満ちあふれていたと思います。池田勇人首相が「所得倍増計画」をぶちあげ、東京オリンピック、大阪万博と国家をあげてのイベントが続き、新幹線、高速道路、高層ビルが建ち始める時代に、「成長」を感じないはずはないと思います。
企業は?当時の花形企業の繊維産業に続いて製鉄、造船業が飛躍し大企業となり、消費者からは松下やソニーの様な家電メーカーが飛躍し、トヨタ、ホンダがモータリゼーションと共に業績を伸ばしていました。

その後70年代にはいり、ドルショック、石油ショックの一服はありましたが、80年代に入りバブルへと一直線。90年代に入りバブル崩壊と続きました。
今、格差が広がっている、東京と地方の格差拡大、犯罪率の増加とか盛んに言われていますが、それはバブル時代と比べるからでしょう。

とりとめもない話に終始しましたが、1960年代は貧乏・物騒な時代でしたが、経済が成長し豊かになってゆく生活が実感できて、日本人が成長を無条件に信じていた時代だと思います。

はじめまして、40代後半のおっさんです。
1960年代は、ちょうど私が幼稚園から小学校の時代です。
日本は経済成長率が平均10%前後でと今の中国並みでした。私は幼かったので経済成長率なんてもちろん意識していませんが成長は実感です。
64年の東京オリンピック、70年の大阪万博をへて日本中が高度成長に沸いていた時代ですね。
一回り年上の人たちは街頭テレビの時代ですが、私の時代は普通の家にはテレビが普及し、車も多くの人が手に入れていた時代です。
テレビも60年代後半にはカラーに変...続きを読む

Q企業からの電話は必ず受けないと落とされる?

就職活動中の者です。
会社説明会に出席しているだけでまだ、選考は受けていません。
合否を電話で知らせてくる企業が多いと思います。
ですが、もしもその電話にたまたま、出られなかった場合はすぐに落とされてしまうのでしょうか?
例えば、トイレやお風呂に入るだろうし、電車やバスに乗っていて携帯電話に出られない。折り返しの電話を入れるにも、万が一非通知でかかってきた場合はどの企業が掛けたのかわからないと思います。
聞いた話によると、一回電話に出なかった場合、即落とされた人もいるみたいです。その人が受けた会社は大手らしいですが、大手企業は結構冷たいと言っていました。

選考中は携帯電話を四六時中持っていないといけないのでしょうか?

Aベストアンサー

落とされません。

でも、留守電はONにしておいたほうがいいかも。
大抵は、留守電にメッセージを残しておいてくれる企業が多く、
その場合は、また後でかけなおします。または、都合のいい時に○○まで連絡下さいとメッセージが入っています。

また、留守電をONにしていなくても、
大抵は、後からかけなおしてくれます。

>一回電話に出なかった場合、即落とされた人もいるみたいです。

これ、デマだと思いますよ^^;
どうして、一度は受かったのに電話にでなかったから落とされたと、その人はわかったのでしょうか?一度着歴が残っていたのに、後日不合格の連絡が入ったからですか?ちょっとおかしくないですかね?


また、企業が電話してくるのは、
殆どの場合は、合格の場合のみです。不合格の人にまで電話していたらいくら人手があっても足りませんから。
つまり、企業側はあなたに会社にきてほしいと思っているわけです。
そんな人を、電話に出られなかっただけで落とすなんてこと。一体新卒採用一人に莫大な費用をかけているのに、一本の電話に出られないだけで落とすということはないでしょう。企業ももちろん、24時間テレアポのように学生がでられないことは百も承知です。


また、もしそんな電話一本でられなかっただけで不合格にするような会社があれば、相手の都合も考えることができないようなつまらない企業だから行く価値はないと思えばいいと思います。


就活、頑張ってね。
あんまり変な情報に踊らされないように^^;

落とされません。

でも、留守電はONにしておいたほうがいいかも。
大抵は、留守電にメッセージを残しておいてくれる企業が多く、
その場合は、また後でかけなおします。または、都合のいい時に○○まで連絡下さいとメッセージが入っています。

また、留守電をONにしていなくても、
大抵は、後からかけなおしてくれます。

>一回電話に出なかった場合、即落とされた人もいるみたいです。

これ、デマだと思いますよ^^;
どうして、一度は受かったのに電話にでなかったから落とされたと、その人はわ...続きを読む

Qひとむかし前の大学受験は?

1960~1980頃の大学受験がどんな感じだったのか知りたいのですが
当時のことを書いてあるサイトや書籍をおしえてください。

Aベストアンサー

60年代末期~70年代初頭にかけては大学紛争がピーク。
東大医学部の学生がインターン制度に抗議。これに端を発し、またたく間に全国の大学に広がりましたね。東大に限らず以前より他大学医学部でも登録制度に対する問題はあったようで、また、多くの国公立・私立でも学費値上げ等に対する反対や抗議はあったようで、ここにきて一気に紛争に発展。
確か東大はその年の入試を中止したと思います。それほどに国を揺るがす出来事だったのです。

あと、国立大は一期校と二期校があり前者が一流(メジャー)、後者が二流(マイナー)というイメージがあり受験生や家族もそういった色眼がねで捉えていて、特にへんぴな地方国立大に行くより華やかな都市部の私立大へ行く傾向は当時からあったようです。

入試偏差値は当時も今も大きく変わりはないかと。今も昔もいい大学は入試の難易度が高いのも変りません。
東大・京大、をはじめ旧帝大、一橋、東工大、東京医科歯科、全国の国公立医学部・歯学部、をトップとし(偏差値:60以上)、私立では関東の早・慶、立教、明治、中央。関西では同志社、関学、といった特に伝統的名門校が上位で、理系単科大では東京医科、日本医科、順天堂医学部、東京理科、芝浦工大、東京歯科。女子大は津田塾、東京女子、日本女子、など。(偏差値:概ね、文系60以上、理系55以上)

60年代末期~70年代初頭にかけては大学紛争がピーク。
東大医学部の学生がインターン制度に抗議。これに端を発し、またたく間に全国の大学に広がりましたね。東大に限らず以前より他大学医学部でも登録制度に対する問題はあったようで、また、多くの国公立・私立でも学費値上げ等に対する反対や抗議はあったようで、ここにきて一気に紛争に発展。
確か東大はその年の入試を中止したと思います。それほどに国を揺るがす出来事だったのです。

あと、国立大は一期校と二期校があり前者が一流(メジャー)、後者...続きを読む

Q卒業検定に落ちた人!

卒業検定に落ちた人!
(ペーパー試験じゃなくて、実技の方)

どの理由で落ちたか教えてください。
あと10日程で、卒業検定です。
参考にさせてください。

Aベストアンサー

一般的なことは,皆様が書かれている通りです
自分は一発合格でしたが
私の卒業した学校であった,変わったエピソードがあります
参考まで

交差点手前でで一台のトラックが止まっていたのですが
検定車5台の内,先頭の運転手が信号待ちと判断
トラックの後ろに停止,残り4台も同様に停止しました
ところが,トラックは信号待ちではなく
交差点近くの電話ボックスで電話する為に停車していただけだった
検定者は誰も気付かず教官に指摘された
ところが,車間距離が近すぎて,免許所持者なら切り返しで
抜けられるところ,未熟なため列から抜け出せず
全員が100点原点で不合格になった(実話ですよ)

ポイントは状況判断ミスと走行不能による検定中断になったため
一般的なことは皆様書かれているようなことで
おそらく,質問者様もある程度予測できていることも
あると思います
上のような,予測不可能な事態に巻き込まれたとき
如何に判断して抜け出せるかだと思います

運とか,こういう場面に出くわす確立とか
ありますが,平常,冷静を保つことが大事です!!

一般的なことは,皆様が書かれている通りです
自分は一発合格でしたが
私の卒業した学校であった,変わったエピソードがあります
参考まで

交差点手前でで一台のトラックが止まっていたのですが
検定車5台の内,先頭の運転手が信号待ちと判断
トラックの後ろに停止,残り4台も同様に停止しました
ところが,トラックは信号待ちではなく
交差点近くの電話ボックスで電話する為に停車していただけだった
検定者は誰も気付かず教官に指摘された
ところが,車間距離が近すぎて,免許所持者なら切り返し...続きを読む


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