【復活求む!】惜しくも解散してしまったバンド|J-ROCK編 >>

小学4年生の子供に説明したいのですが、歴史に疎く
詳しい方のお知恵をお借りできたらと思います。よろしくお願いします

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A 回答 (8件)

戦乱の絶えない世の中で、分裂状態の尾張の国から明確に天下を狙う計画を立て、それを実行に移したこと。

楽市楽座や街道の整備、異国の文化を取り入れたこと。兵農分離(完璧じゃなかった)や政教分離。多くの恨みを買ってたと思いますが、民からみればかなりありがたい偽政者だったと思います。そして、実質天下を取ったところでしょう。もうすこしで統一できたに違いありません。一言で言うなら一流の「革命者」とではないでしょうか。

悪い所は 宗教弾圧、虐殺をした・・・等と言われてますが、これは間違いです。はっきり言えば宗教を政治に介入してくるのでこれを退けたに過ぎません。実際宗教を禁止などしていません。自分の造る新しい世の中のため政治にわざわざ入ってくるのを排除しただけです。しかも先に仕掛けたのは一向宗のほうで、信長の弟も殺されています。一概に信長を悪魔だの冷酷だの言われてるのはおかしいと思います(罪のない人を殺したわけではないのに)。僕から言えば、戦国の世を治めるには多少荒療治も必要だったと思いますし、現代の感性で信長を低く評価するのはいけないと思います。まあ、唯一の欠点は気性が激しいことでしょうか。これは人物としてはマイナス評価ですが、偽政者や戦国大名としてはマイナス評価につながらないでしょう。 日本史の一部を彩った人物の一人です。
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変態大好き。


変態ハァハァ。
変態ラブ。

木綿藤吉 米五郎左 かかれ柴田 逃げ佐久間。
と農民のプロ化以前に部下がプロ化。
前田利家も戦よりも金勘定に特化しましたね。

すいません、小4じゃあ出来ませんね。
反抗期になった時までとって置いてください。
反抗期には正論よりも反論できないほどのぶっ飛んだ論が良いのですよ。
反抗期は正論よりもこういうぶっ飛んだことが大好きだから。
世間が答えるのも良いのですけど、世間に足りない部分を教えるのも親の務めです。
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武将としてのことは皆さんがコメントされていますので、私は「おまけ」的なお話を一つします。



岐阜県…があります。
この「岐阜」という名を創造したのが信長だということです。信長のリクエストを受けた坊さんが命名したという説もありますが。

岐阜は、中国の故事を背景にしています。
「岐山(きざん)」と「曲阜(きょくふ)」です。
岐山は:殷、周、秦、漢…の周という国の礎を築いた文王(太公望の太公)が出発した地であり、今の陝西省に位置します。文王は周を建国する前に亡くなりますが、その子の武王が殷を滅ぼして周の最初の国王になります。周は、封建制度を初めて確立した国でした。諸将を各地に封じる制度です。例えば、太公望は斉に封ぜられました。そして、「礼」を政治の中心にしました。
曲阜は:武王の弟の周公旦が封された(治めていた)魯という国の都でした。今の山東省に位置します。この曲阜は孔子の故郷でもあります。孔子と言えば「礼」ですが、その「礼」をもって魯という国を治めた周公旦を大変に尊敬していました。

周は、紀元前11世紀(BC1050年頃)に建国、紀元前8世紀(BC770)までは西周と呼ばれて権威も権力も備えていました。内情や外敵によって力は衰えますが、紀元前5世紀の終わり(BC403頃)までは東周と呼ばれて形を残していました。その後は、戦国時代になり、BC221の始皇帝による秦建国へと続きます。

長々と周の歴史を話してきましたが、信長には、群雄割拠の日本の戦国時代を終わらせ、自らの力で新しい時代を築こうとしていたとき、この周建国に学ぶところが大きかったのでしょう。
ちなみに、「天下布武」の「武」は武力を意味するのではなく、徳の「武」を意味するのだと聞いたことがあります。
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(1)商業の活性化


信長は俗に言われる『楽市楽座』という政策を行っています。
当時の社会では地元の大きな寺社などが権力を握っていて、それらが既得権を抑えており、勝手に新規に商売を始める者を排除し、さらには各地に関所を勝手に設けて通行税を徴収していたような時代です。
信長は岐阜など自分の領地ではこうした寺社勢力による既得権を廃止し、誰でも新規に商売をできるようにし、さらには勝手な関所も廃止して庶民が自由に往来できるようにしたのです。
 さらには信長は自分の部下を城下に集めて家を持たせました。
これにより日本で最初に城下町が誕生したと言われています。
それまでは神社や寺の縁日などの人が集まる特定の日・場所でしか市が開かれなかった時代でしたが、信長の城下では城下町が形成されている為、常に人が集まり商業が盛んになり、関所の撤廃により他所から商人たちが大勢集まってくるような賑やかな街を形成したようです。

(2)戦闘員のプロ化(兵濃分離)
この時代の末端の戦闘員は普段は百姓であり、農作業のヒマな時期に戦に参加していた時代です。
この状況は日本中で同じであり、そのため雪が降る冬期や農作業の忙しい時期はどこでも戦はあまり行われていなかった時代です。
信長は商業が活発になったお陰で金銭に余裕ができ、それを元手に百姓の次男・三男といった男連中をプロの戦闘員として金銭で雇ったのです。
信長軍は他の地方の軍隊に比べて弱い軍隊だったのですが、常に戦闘に参加できる状態にしたことにより、長期戦になっても戦える集団になった為、最後には勝つような常勝軍団になっていったようです。
また商業の成功により軍資金があるため、早くから鉄砲を買い集めており、それまでの個々の戦闘員の力量による戦闘から、集団による戦闘へと戦の方法まで変革してしまったことも大きなことです。

(3)政教分離
当時は特定の寺社勢力が強力であり、庶民は領主の命令よりも自分の信仰するお寺の命令を最優先するような時代でした。
このため各地で一向一揆などの宗教の絡んだ一揆が頻繁に起きていた時代であり、その元凶である本願寺や多くの僧兵を擁する延暦寺などの強大な寺社は信長にとって敵対関係になった為、最後の手段として焼き討ちにしたのです。
ただし、信長はこうした寺社勢力と対立はしましたが、決して特定の宗教を禁止するような宗教弾圧は行っていません。
信長のこの行為は単に『寺社は政治には口ださず、宗教的なことだけやってろ』と言いたかっただけです。
現代風にいえば“政教分離”を貫いた政策だったようです。

(4)天下布武
当時は日本中の戦国大名が天下を狙っていたように思いがちですが、実際には当時の戦国大名は、せいぜい隣国と戦をして領土を奪いあっていたに過ぎません。
その点、信長は早くから“天下布武”と称して明確に天下を狙っていたようです。
信長が天下を獲ったことに関しては、運が良かったからとか、地域に恵まれていたとか様様に言われますが、早くから明確に天下を狙っていたから、結果として天下を手中にしたのだと思われます。
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小学生のお子さんに説明するのなら、


「他の大名たちが、自分の国をどうすれば豊かにできるか、
 としか考えていなかった時代に、
 信長は日本全体のことを考えて行動していた。」
というのはいかがでしょうか。

武田信玄や上杉謙信・今川義元等、
名だたる戦国武将は、
室町幕府の存続を前提として、
戦国にある日本を一つに統一するという考えはもとより、
統一後の秩序の維持についても、
これといったビジョンがなかったと聞きます。

付け加えるとすれば、
「信長は、多くの人々が信長の新しいやり方についてこられず、
 また、理解もできなかったために強く反対したにもかかわらず、
 強い意志をもって、自分のやり方を押し通した。
 そして、それまでだれもできなかった、
 日本を戦争のない平和な国にするということを、
 あと一歩のところまで完成させた。」

お子さんが興味を持って、
自分から伝記などを読んで学んでくれると良いと思います。
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政教分離・兵教分離を実現したことが、信長の最大の功績と思います。



それまでの寺社は、強大な経済力と動員(軍事)力・権威を持った
強大な勢力であり、しばしば政治にも影響を与えてきました。
そして当然ですが、戦国時代においても並の大名など及びも
つかない力を持っていました。

信長は、これらから軍事力(とそれを支えるだけの経済力)を
取り上げることにより、16世紀という世界史的にも類を見ない
早い時期に政教分離・兵教分離を実現しました。

無論、これだけの力をもった勢力が、おいそれとそれを手放す
わけもなく、信長とは激しい抗争を繰り返すことになり、
その過程で焼討ちやら虐殺とかを起こすことになります。
これをもとに、信長を残虐とか宗教弾圧とか批判する人も
少なくないのですが、少なくとも無防備に平和に暮らしていた人々を
襲ったわけはありませんし、講和を結んだ後では、寺社そのものの
存続や布教自体も許しています。
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好んで謡い舞った幸若舞の敦盛。

「人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を享(ひとたびしょうをう)け滅せぬもののあるべきか」
(人間というのは遅かれ早かれ死ぬことは解かりきっている、たとえ生き長らえたとしても、たかだか50年。はかないものよ。(大意))

信長は若い時から、こういった死生観を持っていたわけです。
逆に言えば、この短い人生のなかで、自分に何ができるのかを絶えず問い続けてきた事になります。
父信秀は勤皇の志も篤く勇将でしたが、このことは幼き信長に天下というものを意識たらしめたものとは思われます。
母親(土田御前)は弟(織田信行)ばかり可愛がり、実の我が子でもある信長は嫌っていました。この事が幼い信長に落とした心理的影響もあったとも思われます。
信長はお父さん子で、父親の影響を受けて育ちました。

信長はまだ尾張国領主であった若い頃から、天下を取るということを意識していました。
桶狭間の戦いにおける、今川義元に降伏しなかったのもこのためです。
美濃を征服した時に居城を移しますが、この地を岐阜と名付けました。
岐阜には「天下分け目」という中国の故事にならった意味があります。

信長は当時の時代感覚からすれば、恐ろしほどの合理的精神の持ち主でした。無駄を嫌い無駄を排する。
農兵分離、楽市楽座、もこの精神に基づくものです。
農民は農業に専念し収穫を上げ、年貢を納めるのが仕事。兵には給米や給金を与え、戦(いくさ)があれば年中戦える体制にしました。
それまでは足軽などの兵は農民が主体で、農繁期においては戦ができないなどの不都合がありました。天下を狙う信長にとってはそれでは困ります。
物品の販売も昔は寺社などの専売で、業者は寺社が発行する株の購入が必要という、いわば許可が必要でした。寺社はそれで利益をむさぼっていました。(他には特権を持つ業者の座や問丸もあったらしい。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%BD%E5%B8%82% …
それで武器を購入したり武辺者を雇い、武力を誇示する寺などもあったようです。
「いや、あの者たちに儲けさす必要はない、自由に市をたてて売買してよいぞ。ただし運上金として少しばかりもらう。」としたのが楽市楽座の始まりです。
ただし楽市楽座は南近江(滋賀県)の戦国大名六角定頼が始めたもので、信長が始めたものではありませんが、大々的に行ったのは信長です。
関所なども廃止したり、あるいは厳しい検問を緩めるなどし、他国からの業者なども入れました。
この事は他国の間諜(忍者)が入って来て情報漏えいするなど、国の防衛の危険もありましたが、信長は構わず経済発展の方を重視しました。

信長の合理性には人事面にも現れます。古くからの有能な重臣もいましたが、新しい有能な新人を発掘し有効活用します。功があれば地位を上げ重要な仕事をやらせ、更に有効活用していきます。
ただしその内容は過酷で、休みなしと言ってももよいぐらいです。
軟弱な者ではとてもではないが、勤まりません。
現代のように辞表を提出して終わり、という訳にはいきません。ヤクザ並みの厳しい掟があるのです。失敗しても罪は大きいものです。領土を与えられて上手く納められなければ切腹ものです。
信長の場合は特に厳しく、少しでも粗相があれば即手打ち(斬り殺される)なども珍しくありません。

天下を狙うのだから当然敵も多くなり、合戦回数も増えます。並の戦国大名の比ではありません。
それに一々信長は計画を考え、作戦を練ります。他の者の介入を許しません。他の者はすべて手駒であって頭脳ではありません。頭脳は信長一人だけなのです。しかも指示が細かく綿密です。指示通りにしなかったらたちまち激怒し罪は重たいです。
(例、朝倉軍追撃戦。結果的には成功するが、手違いが少しばかりあり、言い訳した佐久間信盛は、後に追放の罪を受ける。)

信長は攻めるだけではなく、冷静な判断力を持っていました。
数多くの合戦の中には、戦況思わしくない状態にも陥りましたが、そういう場合はためらわず退却します。(浅井長政の裏切りによる、第1次朝倉攻めなど。)
あるいは天皇も動かし戦術的和睦をする。(一向一揆の本願寺攻めなど。)
あるいは武田信玄や上杉謙信への、おべっか使い的な外交戦術。

本能寺の変における明智光秀の謀反を知ったときの信長の最後の言葉、「ぜひもなし」(どうしょうもない。)いやはや山あり谷ありの激動の人生でした。信長享年49歳。
私はこんな人生はイヤですよ。しんど過ぎます。部下になるのもイヤですね。同じくしんど過ぎます。その前に2日で手打ちにされてお終いか。(笑)
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勝つ為に『何をすれば良いか?』を追求実戦した事でしょう。


1.領地・地盤を安定させる為に「弟」ですら殺す
2.今川の領地を切り取るチャンスは十二分にあっただろうが、当時の政権中枢と逆方向の領地には見向きもせずに美濃を攻め取り「将軍拝謁」を慣行。地方領主から「天下候補」に名乗りをあげた。
3.職業軍人の導入。半農している掛け持ち武士が多くては天下取りの足枷になるし、非効率な為土地とは係りを持たない「職業軍人」を大量に生み出した。
4.重商主義、楽市楽座の導入。関所の廃止&道路のインフラ整備の他に所謂規制緩和を大々的に実施して大量の資金を生み出す。が、士農工商で身分が上のハズの農政には殆ど手をだしていない。つまりする必要は無い。と判っていた。
5.怠慢家臣のリストラ実施。大抵の場合謀反や内通、反抗的な態度をとらなければ、忠誠を誓っている家臣を斬る事はない。が、信長はやる気の無い職務怠慢を理由に昔からの重臣達をリストラして、織田家家中の内部統制を行っております。
6.鉄砲と言う新兵器の大量導入&技術革新。弓よりも射程距離、殺傷能力に優れ、且つ技術習得が誰でも出来る。新兵器を戦争に大量投入。及び技術開発を推し進めて戦場の脇役から主役へ踊りださせた。
つまり、将来性抜群の兵器と理解し、その為の大量確保&改良を当初から行っている。
7.秘宝中の秘宝『蘭奢待』を得る。大量の資金提供&軍事圧力もあったのでしょうが、武士身分のしかも将軍ですらない信長が蘭奢待の切り取りを許されるとはそれまでの歴史上前例は無い偉業とも言える。
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Q信長のいいところ・・・

信長のいいところってなんでしょうか!?!?
知っている人教えてください・・・

Aベストアンサー

豊臣秀吉や徳川幕府のやり方を見れば分かるように、多くの日本の支配者たちは自分の地位を固定化することに腐心してきたといえるでしょう。
弱い者たちが上へと昇る手段を奪ってきたわけです。
それにより支配者たる自分の地位が恒久的に続くようなシステムをつくろうとしました。
しかし、信長は大変豪快な人物で、現在の地位にかかわらず、有能な人物が高い地位を得られるようにしました。
これは自分を脅かすものなど何もないという、ゆるぎない自信の現れかもしれません。
また、多くの支配者たちは経済活動を統制することで効率よく確実に自分が金を吸い上げる手段を確保することに努めてきました。
「搾取される側は餓えても知ったことじゃない、でもよこすもんはきっちりよこせ。びた一文まからないよ。」という態度でした。
それに対し信長は民衆が富むことで自分に対する見返りも増えるという大変合理的思考の持ち主でした。
自由な経済や流通を認め、民衆の暮らしぶりを良くしようとしました。
外来の、西洋の思想であるキリスト教を布教することを許可したのも信長でした。
支配者の側としては日支配者たちが自分以外のものをありがたがるなどもってのほかのはずです。
支配者たちはいつも自分だけへの崇拝と忠誠を強制しました。
しかし信長は自分への尊敬を強要するような者が尊敬されるはずなどないことをわかっていたのでしょう。
彼は全体を良くすればそれをもたらしてやった自分に対しそれなりの見返りがあるであろうと踏んでいたのでしょう。
そんじょそこいらのチンピラ支配者どもとは何もかも違います。
日本でこれほどの人物が日の光を浴びた例はあまりないでしょう。
日本においては崇高な理想を掲げて戦おうとした人物たちはたいてい早々に葬られてきました。
信長の政治がもっと続けば日本は欧米列強の仲間入りをしていたかもしれませんね。

豊臣秀吉や徳川幕府のやり方を見れば分かるように、多くの日本の支配者たちは自分の地位を固定化することに腐心してきたといえるでしょう。
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これは自分を脅かすものなど何もないという、ゆるぎない自信の現れかもしれません。
また、多くの支配者たちは経済...続きを読む

Q歴史新聞の作り方・・・

夏休みの宿題で歴史新聞作りがあります。
直ぐに出来ると思い今日まで置いていたのですが思ったよりも難しく朝から困っています。簡単な作り方があれば教えて欲しいのですが・・・宜しくお願いします。

Aベストアンサー

下記のサイトに歴史新聞の作り方と見本が載っています。
ご自分でテーマを見つけてオリジナルのものをお作り下さい。
題字はかなりのインパクトのものをつけると受けるでしょう。
下記のようなものはどうでしょうか。
「寺田屋、血の海に 新撰組の襲撃」
「大きさにびっくり仰天 大仏殿」
「光秀 謀反 本能寺焼ける」
「明日未明、決戦 関が原 東か西か」
是非面白い新聞をお作り下さい。

参考URL:http://kids.gakken.co.jp/campus/kids/rekisi/backnu.html

Q織田信長の凄さって何ですか?

信長には様々な美点があります。

迅速さ。実力主義。現実主義。計画性。
実戦で鉄砲を大量に使用するアイデア。あげればキリがありません。


私は地味だと言われるかもしれないですが、
彼の凄さに「決断力(忍耐力・・意思の強さ)」があるように思います。

フランスの文豪、恋愛小説家のスタンダールは若い頃のナポレオンと会ったことがあるのですが、
彼はナポレオンを評してこう言ったそうです。

「24歳の若い男は、一度に200のことを望む。しかし、彼は一つのことしか望まない。」

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信長の凄さ。一言で言うと「柔軟性」ではないでしょうか。

彼は、尾張の有力武将の息子に生まれましたが、彼が家督を継いだ時の身分は「守護代の家老」でしかありませんでした。そこからスタートして比較的短い期間で尾張を統一し、今川義元を魔法のような戦闘指揮で討ち取り、三河の松平と同盟して背後を固めて美濃へ進出、美濃と伊勢を制して日本有数の大名となりました。
(この時点で、近世石高で130万石くらい、武田信玄の最大版図を超えそうな勢いです)

その後、彼は目まぐるしく変化する状況に巧みに対応し、ほとんど間違いませんでした。間違えたのは「明智光秀の扱い」これだけです。その為に「寝首を掻かれ」ました。
※ 光秀は近衛軍団長といった役割です。そこまで深く信頼していた光秀に殺されたのですから、信長の「人事ミス」ですね。
結果を知っての後知恵ですが、近衛軍団長にふさわしいのは、信長の重臣では滝川一益ではなかったでしょうか。上野に置かれた一益と光秀が入れ替わっていたら果たしてどうだったでしょう。光秀は関東での織田勢力の拡大に存分に力を発揮したように思います。

西洋の名将、モルトケか誰かが言ったと思うのですが
「戦いはミスの少ない方が勝つものだ」

我々は全てを知って歴史を結果から見ていますが、歴史が動いている時は全て「五里霧中」です。先のことは誰も分かりません。例えば、3年前にホリエモンを「あいつはインチキだ」といえる人がいたでしょうか?私は「凄いなあ」と素直に感心しておりました。株に興味があったらライブドア株を買って大損したかもしれません。

天下統一まで「ほぼ」ノーミスで行った男、それが信長です。それを可能にしたのは、「限りなく柔らかい頭脳と、限りなく高度な情報処理能力」だったのではないでしょうか。

良く言われることですが、
「信長は桶狭間で小兵力で大兵力を破る奇跡を起こしたが、その後、それに類したことは一切試みてすらいない」
凡人であれば、一度成功したら「味をしめる」ものです。

なお、「墨俣築城」と「長篠合戦での三段撃ち」は、後世の虚構と考えるべきですが、だからといって信長の凄さは何の影響も受けないでしょう。

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Qあなたが尊敬する歴史上の女性を教えてください。

こんにちは。私はよく、歴史上有名な人物の物語や、自叙伝を読んでは「おお!私もこんな風に生きたい」などと、感動してしまいます。(単細胞です。)
そこで、皆さんにお聞きしたいのですが、あなたが尊敬する歴史上の人物で洋の東西を問いません。女性で尊敬できる人物と、思い入れを聞かせてください。ご意見は、男性でも女性でもかまいません。また、現在も健在の方でもかまいません。
ちなみに私が尊敬するのは、
荻野吟子(日本初の女医。夫にうつされた梅毒に苦しみ、同じように苦しむ女性を救うべく、女医の道を志した。)
ぜひ、宜しくお願いします。

Aベストアンサー

歴史上の人物ではないのですけど、
故三浦綾子さん(作家)
人間ってどうしてこういう考えができるんだろう・・・どうしてこんなふうに生きられるんだろう・・・って思います
世の中には欲のない人間だっている、ということを教えられました
「氷点」「塩狩峠」は有名すぎますが何度読んでも考えさせられます。

萩野吟子さん、私渡辺淳一氏の小説で知りました。
輝いている女性って素敵ですよね。是非見習いものです。

Q友達と何して遊びますか??

みなさん休日とかに友達と遊ぶ時って何して遊びますか??
何でもすりゃいいじゃんって感じだと思いますが…本気で何するか決まらなくて困ってます。

だいたいやる事と言えば
買い物
カラオケ
映画
ぐらいしか思いつかなくて。いつも同じパターンで正直飽きてきてます。
でも親友って感じの仲の子とは何かして遊びたいんですよね。

みなさん、何かあれば教えて下さい!!!

Aベストアンサー

この時期しかできないこと、いっぱいあるじゃん。
検索エンジンで、夏とか遊びとかキーワードを
入れてみてよ。

・海でサーフィンとか、体験ダイビングとか
・大きいプールに行ってスライダーたくさん楽しむとか
・野外ライブや夏フェスで騒ぐとか
・花火に行くとか
・ビアガーデンに行くとか
・愛・地球博見ました?
・桃やぶどう狩りとか

ほかにもたくさんあるじゃん。
・遊園地や水族館に行くとか(行くと意外と面白い)
・サッカーや格闘技の観戦とか
・映画じゃなくてお芝居や演劇を観るとか
・展覧会とか(報道写真展とか面白かった)
・ちょっとドライブに行くとか

休日は、平日の間に計画しておいて、
こんな感じで遊びます。
挙げていったらきりがないですね・・・

私も買い物・カラオケ・映画は隙ですが、
いつも繰り返しはやだなあ。

Q適正試験がSPIとは気がつかなかった・・・・  数日間で対策はできないでしょうか?

転職活動中です。
一次面接が通過して、近々二時面接があります。

採用側からは、
「二次面接は、適正試験と簡単な面接を行います。時間は2時間半程度です。」

と連絡がありました。簡単な面接とのことなので、面接時間は30分くらいで、残りの2時間を適正試験するのかと勝手にイメージしています。

それで、適正試験なんですが、このサイトでも過去のものを検索して調べたのですが、適正試験はSPIといわれるものらしいですね。
僕はSPIが凄く苦手です!学生時代に何度か受けたことがありますが苦手でした(自分の性格についてや、何通りあるかなどの問題)同じような問題が次から次と出てきて、・・・。

でも思ったのですが、2時間もかかったかなと思いました。学生時代に受けたときは1時間くらい、多くても1時間半くらいだったと思います。

次の二次面接は、適正試験がもしイメージ通り2時間だと、苦手な僕にとってはどんどんマイナスに向かっていきます。

明日一応書店に行ってSPIの本を見てこようと思っていますが、面接まで後数日。数日間でできるようになるものでも無いと思うし・・・・・。
「あー、もうだめなのかなー」と、もう落ちた気分になってきました。

二次面接の連絡があってから、二次面接までの時間は、GWをはさんで2週間ありました。時間は沢山なったけど、適正試験がSPIとは気がつかなかった・・・・・。

因みに、一次面接では、筆記試験(一般常識レベル:簡単な数学や時事問題や英語)が30分くらい。
面接が30分くらいの合計1時間くらいでした。

自分に「チキショー!!」って感じです。

これから、3日位で何とか対策できる方法は無いでしょうか?
お願いします。

転職活動中です。
一次面接が通過して、近々二時面接があります。

採用側からは、
「二次面接は、適正試験と簡単な面接を行います。時間は2時間半程度です。」

と連絡がありました。簡単な面接とのことなので、面接時間は30分くらいで、残りの2時間を適正試験するのかと勝手にイメージしています。

それで、適正試験なんですが、このサイトでも過去のものを検索して調べたのですが、適正試験はSPIといわれるものらしいですね。
僕はSPIが凄く苦手です!学生時代に何度か受けたことがありますが苦手で...続きを読む

Aベストアンサー

私も転職活動中です!! 

 4月にSPI、3回受けました。性格判断のSPIはどこも似たような内容でした。しかし、言語・非言語は会社によってレベルがまちまちでした。本当にあせりました。突破できるのか?と思いました。学力低下に改めて驚きました!!
 
 性格判定のSPIだと、最大で45分ぐらいだと思います。なんぼなんでも2時間はありえません。もしかしたら、言語・非言語のSPIもあるかもしれませんね。そうすれば、言語30分・非言語45分・性格判定30分。面接30分。休憩15分で確定だと思います。(一次の筆記は、最低限の能力テストポイです。通常のSPIとは違う気がします。人数を絞り込む為のテストかな?という気がします。)

 性格SPIは、前向きな気持ちで受けるしかありません。自分の理想を想像して答えていくべきです。

 但し、嘘発見機的な質問があります。例)いままで一度も嘘をついたことがありません。○だと、引っかかります。 後は、気持ちを前向きに答えていくしかないでしょうね!! 社交的で、組織は絶対、行動力があり、責任感がある、かつ思慮深く。

 でも、偏りすぎるのも不可です。行動力と、思慮深いは相反します。極端な言葉が使われていれば不可です。適度にバラスのが正解です。

 SPIの言語・非言語も、適正判断に使われます。正確性とか、これも一種の性格判断的にも使われます。

 こちらは、対策をすれば点がとれます!! 逆に対策をしないと厳しいです。SPIとしてのクセがありあるためこちらの方が重要かも?と思いますが。

 後、面接、1時間30分。適正検査45分。休憩15分の可能性もありますね。面接の準備の方が重要かもしれませんよ。グループ面接+個人面接なら十分可能な時間ですし。

 ちなみに、私の買った本は、「史上最強のSPIワザあり解法」ナツメ社です。まあまあかな?

 まあ、終わってしまえば所詮SPIですよ。面接の方がウエイトは確実に高いので、そちらの方を重視されたほうが良いと思います。

私も転職活動中です!! 

 4月にSPI、3回受けました。性格判断のSPIはどこも似たような内容でした。しかし、言語・非言語は会社によってレベルがまちまちでした。本当にあせりました。突破できるのか?と思いました。学力低下に改めて驚きました!!
 
 性格判定のSPIだと、最大で45分ぐらいだと思います。なんぼなんでも2時間はありえません。もしかしたら、言語・非言語のSPIもあるかもしれませんね。そうすれば、言語30分・非言語45分・性格判定30分。面接30分。休憩15分で確...続きを読む

Q夏休みの宿題 税についての作文

夏休みの社会の宿題で、
「税についての作文」というものがでました。
一応、書いてみたので時間がある方は読んでいただけないでしょうか?
枚数は3枚以内ということで、これだと2枚とちょっとくらいです。
題名がまだ決まっていないので、もし何かあればお願いします!


 私は、正直に言うと、今まで「税」というものについてよく知りませんでした。
自分が払っている税金と言うと、消費税くらいしかないし、
その消費税は、何かを買うと付いてくるし、
「税金なんかなくて良いのに。なんで払うんだろう。」と思ったこともありました。
 そこで、税金の使われ方について調べてみました。
すると、税金は、私たちが毎日学校で勉強するために使われていたり、
私たちの生活や安全を守るために使われていることが分かりました。
また、税金によって、医療費が安くなっていたり、ゴミ処理がされているということも分かりました。
 もし、誰も税金を払わなくなったら、どうなるだろうか。
と考えてみると、
私たちが今まで当たり前のように通っていた学校には通えなくなってしまうし、
私たちはこれから安心して暮らしていけません。
税金がなくなっても、毎日学校で勉強をしようとすると、
私たち中学生は、月々約7万9千円、つまり年間94万3千円を払わなければなりません。
他にも、税金がなくなれば、警察・消防費として、国民一人当たり約4万5百円、
ゴミ処理費用として、国民一人当たり約1万7千9百円を払い、
医療費は今よりも高くなります。
これらは、税金を払っている今は、税金によってまかなわれているのです。
そう考えると、税金は私たちにとって、とても必要なものだと思います。
 今まで、「税について知りたい!」とか「税金は必要だ。」と思ったことは
一度もありませんでしたが、今回調べて、税についてよく分かったし、
税金は必要だと思いました。
私たちは、いつも「勉強したくないなあ。」と思いながら学校に通っていますが、
こうして、当たり前のように毎日学校で勉強ができるのも、
税金があるからできるのだと分かりました。
 私たちはまだ、税金を払う立場ではなく、税金を使う立場の方です。
税金によって、私たちは色々な面で支えられています。
日本全国の人々が、税金を払い、
その税金によって、私たちは支えられています。
だから私も、将来、もっと税金を払うようになったら、
他の人たちを支えたいと思います。

夏休みの社会の宿題で、
「税についての作文」というものがでました。
一応、書いてみたので時間がある方は読んでいただけないでしょうか?
枚数は3枚以内ということで、これだと2枚とちょっとくらいです。
題名がまだ決まっていないので、もし何かあればお願いします!


 私は、正直に言うと、今まで「税」というものについてよく知りませんでした。
自分が払っている税金と言うと、消費税くらいしかないし、
その消費税は、何かを買うと付いてくるし、
「税金なんかなくて良いのに。なんで払うんだろ...続きを読む

Aベストアンサー

>消費税くらいしかないし、
>よく分かったし、

この「~し、」というのを書き直しましょう。
作文ではあまり使いたくない言葉使いです。

税金というと、一番身近なのは消費税でしょうか。
良くわかりました。

>だから私も、将来、もっと税金を払うようになったら、
>他の人たちを支えたいと思います。

この部分が???となる文章でした。
税金を払うことに支えるとありますが、何を支えるのかを書く。
または最後の〆の言葉自体を変更してもいいかもしれません。


これくらいでいいと思います。
中学生なので十分ではないでしょか。

Q織田信長と徳川家康の弱点

織田信長と徳川家康の弱点を教えてください。
学校の授業で、討論をします。
私は、豊臣秀吉派です。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 弱点というのは討論になりえるのでしょうか?ちょっとその辺りがピンと来ないのです。何故なら信長も秀吉も家康も歴史上では勝者です。弱点と言われて思いつきませんでした。欠点や失敗ならいくらでも出るのですが(笑)。
 何か参考になる部分があれば、そこだけ拾って下さいね。

 まず信長ですが、この人の欠点と言えば、気性や性格だったでしょう。小さい頃から負けず嫌いで、人を見下すことによってしか自我を保てない人だったと思われます。それは大人になっても続き、自分より強そうな信玄や謙信には強攻策を出さない代わりに、弱い大名や烏合の衆である百姓一揆、非戦闘員に対しての無差別の虐殺を多数行いました。それだけでなく、神仏を破壊し続け、将軍だけでなく天皇をないがしろにすることはなはだしかった等々の記録が多数残っています。それだけに留まらず、部下に対しては恐怖政治を行い、吝嗇家(ケチですね)であったようです。
 その結果、当たり前ではありますが、多数の人に恨みを買いまくり、非業の死を遂げました。自業自得ですね。

 秀吉はひょうきんで人に愛される人柄で、工夫上手であったことから、一介の農民から前代未聞の出世を遂げました。しかし、本人は名も亡き家出身ということを常にコンプレックスを持っていました。将軍になりたかったのに、それができなかったのは家柄のせいですね。実績は問題ありませんから。
 一番人気のある人に思われることが多いですが、それは太閤記という御用作家の書いた書物(曲げられて書かれた事実)と、没後十数年で豊臣家が滅亡したことに対しての同情があったものと思われます。
 この人の欠点は、やはり家柄コンプレックスだったと思われます。自分の出身階級である農民層に対する虐殺や、農民を非人間的目的で使った戦闘などの記録が残っています。また、全国統一した後に、信長の夢であった朝鮮・中国(明)支配目的とした出兵を行ってしまったこと・・・これは許されることではありません。これにより、戦乱で疲れていた国内はますます疲弊し、豊臣家の支配に対する疑念を各大名に与えることになりました。また、晩年は一子秀頼のことしか頭になく、為政者としての責任を果たしたとは言えなかったと思います。

 最後に家康ですが、幼年時より苦渋の人質生活を余儀なくされ、そんな中で強いものにうまく巻かれる生き方を学び、信長の同盟者として、秀吉の同盟者として、難しい時代を生き抜きました。この忍耐力はまことにすばらしいでしょう。大器晩成の見本のようです。
 豊臣秀吉の没した直後は、一応の天下統一が成った後とはいえ、まだ安定とは程遠い時代でもありました。そこで五大老の筆頭という立場にいながら、豊臣家家臣に相互不信の種をまき、戦乱で疲れた日本に、無駄な戦乱を起こしました。関が原の戦いや大阪の陣は、日本一の所領を持つ家康にとっては、避けて通れたものであったと私は考えます。家康が、そうまでして豊臣家を滅ぼしにかかったのは、「徳川家が政権をとる形で平和な日本を作ること」であって、「日本を平和にできるのなら、誰がそれを行ってもかまわない」という民百姓の心とは無縁なものでした。
 その証拠に、信長が実行して秀吉が模倣した民百姓への仕打ちを継承し、「民は生かさず殺さず」という江戸時代が出来上がっていったのです。戦乱の収まった平和な時代に士農工商制度が必要だったとは私は思いません。大勢の貧しい人の上にあぐらをかく武士、その上で更にのんびりしている将軍・・・そういった中で、民衆に不満が溜まり、いくつかの乱に発展したと思われます。
 また、徳川家の政治をひっくり返されることを恐れての鎖国政策もうなずけません。これがあったからこそ、明治の幕開けで、日本は西欧諸国に大きな遅れをとるのです。そして、その遅れが焦りにつながり、西欧諸国に負けないような国になろうと奔走した結果、朝鮮や中国への出兵となり、暴走した軍部がアメリカに戦争をしかけて敗戦となるわけです。
 敗戦の責任が徳川だけにあるとは言いませんが(笑)。

 弱点というのは討論になりえるのでしょうか?ちょっとその辺りがピンと来ないのです。何故なら信長も秀吉も家康も歴史上では勝者です。弱点と言われて思いつきませんでした。欠点や失敗ならいくらでも出るのですが(笑)。
 何か参考になる部分があれば、そこだけ拾って下さいね。

 まず信長ですが、この人の欠点と言えば、気性や性格だったでしょう。小さい頃から負けず嫌いで、人を見下すことによってしか自我を保てない人だったと思われます。それは大人になっても続き、自分より強そうな信玄や謙信に...続きを読む

Q織田信長は何故関所を廃止したのでしょうか(?_?)。確かに、物の流通は

織田信長は何故関所を廃止したのでしょうか(?_?)。確かに、物の流通はしやすくなると思いますが、関所による収益がなくなると思います。

Aベストアンサー

自国の中間搾取構造の破棄による直接統治。
実態経済を知るには、当然生産力の調査がいりますよね
後日検地等はそれです

戦国領主は大体が合力体 いくつかの地頭、豪族の集まりで
そのなかから、代表者を選ぶという構造です
信長のおやじの信秀も、それで苦労しました。
いちいち合議制では、力も銭もある意味、国の中で分散しています。

めいめいが、関所を立てて関銭を取っていたのでは
いつまでたっても、覇権を立てられない

盟友ではなく家来化することでの決定権の集中が図れ
他国がいつまでもそうであるなら、その弱点をつけることにも
なります。
中間問屋(関所)の数だけ物の値段も上がり、ひいては
領民の可処分所得の低下を生みます。
微々たる銭より、集中の力と富の方がいいと
商売人の信長は考えたんでしょう

Q織田信長・豊臣秀吉・徳川家康が行った事、功績を教えて下さい。

織田信長・豊臣秀吉・徳川家康が行った事、功績を教えて下さい。
サイトなどを見ても難しい言葉ばかりでよく分かりません。
簡単に分かりやすく詳しく3人を比較して書いてくださると嬉しいです。

Aベストアンサー

質問者様の意思を尊重して回答します。あいまいですが、ご了承ください。

☆織田信長
貿易の自由化、楽市楽座は大変な功績です。
能力主義で人材を登用した功績。⇒秀吉の登用。

☆豊臣秀吉
私的には、あまり功績は無いと思います。
基本的に、信長の遺志を引き継いだ人物。
子(後継者)に恵まれなかったのが、短命政権となってしまった。
やはり、家康の存在が大きすぎました。

☆徳川家康
戦国時代を終わらせたという功績。

すべては家康で終息しています。
脱線しますが、家康が「本能寺の変」の主犯格との一説もあります。
家康のブレーンに「天海」という人物がいました。
「天海」=「明智光秀」という説があります。明智光秀は生きていたという説です。

歴史に「たら」「れば」はないですが、織田政権とあるいは豊臣政権が続いていたらどうなっていただろうか?と思うとさらに興味が湧いてきます。


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