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徳川家康は自分に敵対した大名をなぜ存続させたのでしょうか?
例えば上杉家や前田、島津、毛利氏などですが家康の性格なら
滅亡させてもいいのに存続させた理由は何なのでしょうか?

家康の温情でしょうか?

A 回答 (6件)

当時の家康が、東軍の主将とは言えあくまで連合軍のまとめ役でしかなかった立場が多いに関係しています。



黒田長政や藤堂高虎など、すでに豊臣家を見限り家康の臣下になるつもりの大名ばかりではなく、加藤清正や福島正成などは、あくまで石田三成と対立するために家康に加担したのであって、忠誠を尽くす相手は家康ではなく豊臣秀頼だと思っていました。

ですから、関が原の直後に西軍大名を潰そうと思っても、そこに豊臣秀頼を担ぐ大義名分がなければ、豊臣恩顧の東軍諸大名の多くは家康に従わない可能性がありました。せっかく石田三成を討ったのに、再度東軍vs豊臣恩顧+西軍残党という争いになることは避けたい事情がありました。(実際、毛利や島津は関が原の1日で決着がつくとは考えていなかったので、大阪城に篭城するつもりでした。上杉軍も健在でしたし、まだまだ西軍側の大名の多くは家康が徹底的に西軍を潰す気なら戦争を継続するつもりでした。)

また、徳川の力が磐石になった江戸幕府が開かれた後にしても、上杉・前田・毛利・島津は、いずれも雪国や遠い西国でしたので、補給を考えると莫大な戦費がかかります。徳川軍だけで攻撃をしかけると、負けた際の威信にかかわるし、江戸の守りが手薄になるし、徳川家だけが戦費う負担を強いられるので、他家にも動員を命じるほかありませんが、他家も田舎まで戦争に行っても、田舎の領地なんて増えても嬉しくない時代です。大阪の陣ですら、戦争に勝っても領地加増は期待できないため、戦費の無駄遣いに終わると非常に他家から評判の悪かった戦です。それを、豊臣家以外にも行うとなると、さすがに皆の不満を抑え切れなかったでしょう。
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この回答へのお礼

とても詳しくわかりやすく
ありがとうございました

お礼日時:2009/08/10 21:52

すでに良解等が出ていますからあえて別の観点です。



この時代の徳川には、大戦を連発する戦費はなかったと思いますよ。
遠征戦になると、特に食料調達の面で金がかかせないんです。
小荷駄隊では全軍の食料は運べないんです。
限られた兵力が常に移動するなら、イナゴのごとく現地の民衆の食料の略奪でしのげるかもしれませんが、地域殲滅戦や攻城戦を始めると、大商人によるその地方(近隣含む)からの食料買い付けや廻送とうが欠かせないんです。(現地の食料などすぐ食べつくしてしまいます。)
ただ小田原征伐の後徳川は関東移封になっています。
未開の地で金山もなく商業もたいして発達していなく、現金収入の乏しい地です。さらに江戸城の築城(拡張)、街づくり、新田開発と、猛烈に金がかかっています。徳川家は慢性的な金欠で、後に遺恨が残ることがわかっていても、虱潰しにする経済的な余裕がなったんですよ。
よってひとまず戦争を収めてから、平時に難癖をつけて一つづつ取り潰していく道を選んだわけです。

関が原で五奉行(石田光成を含む徳川内政官)を処分し徳川家の金山を奪うことで、経済的にはやっと一服します。そうはいっても家光の時代まで財政難は続いたといわれています。
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この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2009/08/12 21:35

大体回答が出ていますけど、豊臣家の5大老の筆頭に当る徳川家康が、「君側の奸」とも言うべき、石田三成一味を征伐し、幼少の秀頼に代わり、秀吉から後事を頼まれた家康が、代わって豊臣家の領地を管理することにしました。


加藤清正や福島政則は、あくまで豊臣家の重臣である家康に従っただけです。
大名の加増や廃絶は5大老の専任事項ですから、上杉家は秀頼に反逆して、会津征伐軍を送られ降伏したので沈黙、宇喜多家も関ヶ原で破れ当主が処分され意見が言えない、毛利家も謹慎、前田家は徳川家の見方でイエスマン、法制上は徳川家康が全権を掌握して、逆賊石田を征伐した恩賞に豊臣家直轄領から157万石を出します。
これで家臣は一応納得しますけど、更に九州にまで遠征軍を進めるとなると、この時点では皆気が抜けてしまっていますし、そんな遠方に遠征して果たして恩賞をくれるのかという現実的な問題など、デメリットが大きいと判断したのでしょう。
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この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2009/08/12 21:34

 極論をすれば、滅亡させる必要性がない上に、滅亡してからの統治の問題があるからでしょう。



 teccrtさんの回答が一番シックリ来るとは思いますが、
仮に西国の直轄支配を狙うにも大儀名分が作れなかった部分は大きいでしょう。
 東国の大名同盟の盟主に過ぎない徳川家のパワーは盤石であったにしても、西国大名全体を相手取るパワーはない上に、勝てても疲弊するだけです。
 同時に、直轄支配するにも、直轄の旗本・御家人では統治するのは難しかったことでしょう。

 最終的には、参勤交代という手段によって西国大名のパワーを奪いつつ大阪以東を安定的に統治できれば、天下の大勢は安定的でありえたことから、無理に兵を起こす必要性もなかったからでしょう。

 徳川政権は漠然と、徳川家が武家の棟梁で大名が延命できる安全な政権だったからこそ支持されたともいえるでしょう。
 仮に徳川政権が幕府を中枢にした強力な中央集権体制を目指せば、質問者さんの発想もありますが、幕藩体制という緩やかな地方分立の領邦体制になっただけ・・・と考えるのが妥当でしょう。

 もっとも、家康がどこまで幕藩体制の基礎のグランドビジョンがあったのか?というのは今になっても分かりませんが・・・
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この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2009/08/10 21:53

すでに良い回答がでていますが


家康はあくまで総大将であって、東軍自体まとめきれていなかった
島津は主力がそのまま温存され、撤退時も家康の本陣を突っ切って脅しをかけているぐらいです。(背中を見せず退却した)

殲滅戦になると西軍は徹底抗戦になりますし、
石田三成が嫌いだから東軍に組みした武将の離反が考えられ

かつ島津は遠い。

ならば懐柔した方が良いという政治決断でしょう
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この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2009/08/10 21:52

主戦力を壊滅させたところは、潰した。


主戦力が温存されているところは潰せなかった。
話は簡単です。単純なコストパフォーマンスとなります。
主戦力が温存されているところは、潰すには再度攻撃が必要です。
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この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2009/08/10 21:51

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