ベンヤミンの思想というのはロマン主義的で、一種の形而上学に見えるのですが、なぜ現代思想はそれを評価するのでしょう。ポストモダンの立場から形而上学批判というのがあると思うのですが、それとベンヤミン評価というのは矛盾しないのでしょうか。

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A 回答 (3件)

 まず「形而上学」について軽く。


 アリストテレスは前ソクラテス期の伝統に回帰して『自然について』(ta physika)を書いています。そしてその後、その自然を基礎付けている根拠・本質を論じる一群の著作を残しました。アンドロニコスという人物が、アリストテレスの著作を整理・編集するにあたって、それら一群の著作を『自然について』の「後に(meta)」置いたのです。で、meta-phyisika=形而上学。なんだかダジャレみたいな話です。
 形而上学という学のスタイルはここに根があります。具体的に存在していて、目で見るなど感覚で捉えることのできる「自然・形あるもの」を超えて、その基礎付けをしている本質。そういう、感覚で直接捉えることができず「形を超えて」あるはずのものを探究するのが形而上学です。
 そういうものですから、自然科学を代表とする実証主義(経験に基づき、追試・検証可能なもののみを真と認める)からは否定的に見られます。御指摘のように、現代思想の主要な流れも、近代という時代を撃つために、人を縛ってきた旧来の価値観やイデオロギーを解体するために、おおむね「形而上学」を批判しています。
 例えばニーチェは、プラトンの言う「イデア」やキリスト教道徳の善を「虚無を覆うための仮構」として否定します。その限りで彼は「反・形而上学者」でした。が、そのニーチェも、ハイデガーに言わせれば「最後の形而上学者」となります。事物の存在に「力への意志」という「形を超えたもの」を認めていたからです。さらにそのハイデガーも、カルナップら論理実証主義の立場からは「擬似命題をもてあそぶ」形而上学者ということになります。「形而上学」って、なんだかとってもひどい悪口のようです。
 ただ、人によっては形而上学に立脚の余地を認めることもあります。先にご紹介したレヴィナスや、その他にもサルトルなんかですと、「他者」を「我」と絶対的に切り離された存在と捉え、その不連続性を強調しますから、「形を超え、経験できないもの」を扱わざるをえなくなります。そうなると、多少なりとも形而上学性を帯びてきます。バリバリ現役のハーバーマスなんて人でさえ、コミュニケーション的行為を語る場面で、この「他者性」についてポロリと「形而上学」などと口走ることもあるくらいです。

 それで、ベンヤミンです。
 まず一つ、彼は必ずしも「哲学者」というわけではなくて、芸術論や文明論を遺した「批評家」です。必ずしも西洋哲学の伝統や折り目正しい論理に縛られていたわけではありません。体系的な思想を構築したわけでもない。むしろ鋭いセンスで何かをえぐり出す。そういうタイプの人です。ロラン・バルトみたいな。ですから、彼の思想を体系的に捉えて「形而上学」と性格付けすること自体、ちょっと無理っぽいのです。
 おそらく、ベンヤミンの思想で、一番「ロマン主義的で形而上学的」と見えるのは「アウラ」でしょうか。「いかに近くとも、はるか遠くにあるものの一回限りの現象」として、美にそなわった絶対的な荘厳さのことでしたね。「今ここで」という一回性の中でのみ、感受できるもの。しかしそれは、映画など「複製可能な」作品形態が流布するにつれて失われてしまった…と。
 たしかにこの概念は形而上学的に見えます。必ずしも主観の内部で自分が勝手に感じるものではなく、美的対象にそなわった性格と言えますし、しかも「一回きり」で反復不能。ということは「実証」不可能です。この点、形而上学的観念の性格を帯びます。
 けれど、やはりこれは「芸術理論上の概念」です。「テレビで見るドラマに比べて、劇場で見るナマの演劇は…」といった対比を通じて浮かび上がってくる「一回きりの感動」を説明する概念です。ですから、これは上に書いたような「旧来の価値観やイデオロギー」には該当せず、むしろ逆に、芸術の近代的形態によって壊されてしまったものを救い出そうとする作業ですから、現代思想からも評価されるのも当然なのです。

 その他にベンヤミンが評価される理由を挙げてみますと、まず「先見性」があると思います。シュルレアリスムやアヴァンギャルド芸術の可能性に、いち早く注目したのも彼の鋭い眼差しでしたし、「知識人の政治化」を論じているところは(『一方通行路』)、政治にコミットしていくサルトルやメルロ=ポンティ、フーコーのような知識人の姿を先取りしています。
 また、遺稿となった『歴史の概念について』では、「歴史は常に勝者の視点でしか記述されない」と述べており、このあたり、レヴィナスを先取りしているとも言えそうです。
 そういうことですから、「まとまった思想を遺した」ということよりも、その鋭い眼差しとセンスで、今なお現代思想に新鮮な刺激を与え続けているということが、現代思想の中で彼が評価されている理由でしょう。
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この頃のドイツ人は,


ヴァルター=ベンヤミンに限らず,観念論的ですね.
教育学のルドルフ=シュタイナー然りです.
だから形而上的と思えるだけで,
実際にそんなに形而上的ではないように思いますけど.

芸術が時代とは深く結び付いていて,
複製芸術と言うパラダイムを創出したところには大きな意義があるのでしょう.
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形而上学なしで哲学が体をなすとはとても思えないstomachmanです。

表立ってはいなくても、要領よくものごとを整理し、説明できる体系の骨組みとして、哲学の蔭に必ず形而上学があるのではなかろうか。
 で、そいつが予測能力・予見力を発揮すれば、それは誠に結構なんじゃないでしょうか。
 物理学にしたって、quarkや超弦が実際直接に観測できるわけじゃない、という意味で形而上学には違いないとおもうんですが、いかがでしょう。
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Qベンヤミンの形而上学

ベンヤミンの思想というのはロマン主義的で、一種の形而上学に見えるのですが、なぜ現代思想はそれを評価するのでしょう。ポストモダンの立場から形而上学批判というのがあると思うのですが、それとベンヤミン評価というのは矛盾しないのでしょうか。

Aベストアンサー

 まず「形而上学」について軽く。
 アリストテレスは前ソクラテス期の伝統に回帰して『自然について』(ta physika)を書いています。そしてその後、その自然を基礎付けている根拠・本質を論じる一群の著作を残しました。アンドロニコスという人物が、アリストテレスの著作を整理・編集するにあたって、それら一群の著作を『自然について』の「後に(meta)」置いたのです。で、meta-phyisika=形而上学。なんだかダジャレみたいな話です。
 形而上学という学のスタイルはここに根があります。具体的に存在していて、目で見るなど感覚で捉えることのできる「自然・形あるもの」を超えて、その基礎付けをしている本質。そういう、感覚で直接捉えることができず「形を超えて」あるはずのものを探究するのが形而上学です。
 そういうものですから、自然科学を代表とする実証主義(経験に基づき、追試・検証可能なもののみを真と認める)からは否定的に見られます。御指摘のように、現代思想の主要な流れも、近代という時代を撃つために、人を縛ってきた旧来の価値観やイデオロギーを解体するために、おおむね「形而上学」を批判しています。
 例えばニーチェは、プラトンの言う「イデア」やキリスト教道徳の善を「虚無を覆うための仮構」として否定します。その限りで彼は「反・形而上学者」でした。が、そのニーチェも、ハイデガーに言わせれば「最後の形而上学者」となります。事物の存在に「力への意志」という「形を超えたもの」を認めていたからです。さらにそのハイデガーも、カルナップら論理実証主義の立場からは「擬似命題をもてあそぶ」形而上学者ということになります。「形而上学」って、なんだかとってもひどい悪口のようです。
 ただ、人によっては形而上学に立脚の余地を認めることもあります。先にご紹介したレヴィナスや、その他にもサルトルなんかですと、「他者」を「我」と絶対的に切り離された存在と捉え、その不連続性を強調しますから、「形を超え、経験できないもの」を扱わざるをえなくなります。そうなると、多少なりとも形而上学性を帯びてきます。バリバリ現役のハーバーマスなんて人でさえ、コミュニケーション的行為を語る場面で、この「他者性」についてポロリと「形而上学」などと口走ることもあるくらいです。

 それで、ベンヤミンです。
 まず一つ、彼は必ずしも「哲学者」というわけではなくて、芸術論や文明論を遺した「批評家」です。必ずしも西洋哲学の伝統や折り目正しい論理に縛られていたわけではありません。体系的な思想を構築したわけでもない。むしろ鋭いセンスで何かをえぐり出す。そういうタイプの人です。ロラン・バルトみたいな。ですから、彼の思想を体系的に捉えて「形而上学」と性格付けすること自体、ちょっと無理っぽいのです。
 おそらく、ベンヤミンの思想で、一番「ロマン主義的で形而上学的」と見えるのは「アウラ」でしょうか。「いかに近くとも、はるか遠くにあるものの一回限りの現象」として、美にそなわった絶対的な荘厳さのことでしたね。「今ここで」という一回性の中でのみ、感受できるもの。しかしそれは、映画など「複製可能な」作品形態が流布するにつれて失われてしまった…と。
 たしかにこの概念は形而上学的に見えます。必ずしも主観の内部で自分が勝手に感じるものではなく、美的対象にそなわった性格と言えますし、しかも「一回きり」で反復不能。ということは「実証」不可能です。この点、形而上学的観念の性格を帯びます。
 けれど、やはりこれは「芸術理論上の概念」です。「テレビで見るドラマに比べて、劇場で見るナマの演劇は…」といった対比を通じて浮かび上がってくる「一回きりの感動」を説明する概念です。ですから、これは上に書いたような「旧来の価値観やイデオロギー」には該当せず、むしろ逆に、芸術の近代的形態によって壊されてしまったものを救い出そうとする作業ですから、現代思想からも評価されるのも当然なのです。

 その他にベンヤミンが評価される理由を挙げてみますと、まず「先見性」があると思います。シュルレアリスムやアヴァンギャルド芸術の可能性に、いち早く注目したのも彼の鋭い眼差しでしたし、「知識人の政治化」を論じているところは(『一方通行路』)、政治にコミットしていくサルトルやメルロ=ポンティ、フーコーのような知識人の姿を先取りしています。
 また、遺稿となった『歴史の概念について』では、「歴史は常に勝者の視点でしか記述されない」と述べており、このあたり、レヴィナスを先取りしているとも言えそうです。
 そういうことですから、「まとまった思想を遺した」ということよりも、その鋭い眼差しとセンスで、今なお現代思想に新鮮な刺激を与え続けているということが、現代思想の中で彼が評価されている理由でしょう。

 まず「形而上学」について軽く。
 アリストテレスは前ソクラテス期の伝統に回帰して『自然について』(ta physika)を書いています。そしてその後、その自然を基礎付けている根拠・本質を論じる一群の著作を残しました。アンドロニコスという人物が、アリストテレスの著作を整理・編集するにあたって、それら一群の著作を『自然について』の「後に(meta)」置いたのです。で、meta-phyisika=形而上学。なんだかダジャレみたいな話です。
 形而上学という学のスタイルはここに根があります。具体的に存在し...続きを読む

QK・ポパーの形而上学批判の矛盾?

 K・ポパーはその著書「開かれた社会とその敵」でプラトンからハイデッガーにいたる形而上学/本質主義をファシズム/反ユダヤ主義の元凶のひとつでもある陰謀史観と同様の思考形態であるとして厳しく退け批判する一方、事実と当為の二元論を「信じる」とも書いています。
 けだし、事実と当為(自然と倫理、科学と道徳、・・・であると・・・であるべき)の二元論(二分法)はそれ自体形而上学に属するはずで、先述の批判と明らかに矛盾していると思われるのです。
 ポパーはなぜこのような思想を展開したのでしょうか?皆様のお考えをお聞かせ願います。

Aベストアンサー

> 事実と当為(自然と倫理、科学と道徳、・・・であると・・・であるべき)の二元論(二分法)はそれ自体形而上学に属するはず

この意味がよくわかりません。どうして「事実命題から規範命題を導くことはできない」(これはそもそもヒュームの法則が元になっているのですが)という原則が「それ自体形而上学に属する」ことになるのですか?

もしかしたら「事実」と「当為」を分けて考えるというように、ふたつのものを対立させる「二元論」自体が「形而上学」に属すると考えておられるのでしょうか? となると、エロスとタナトスを対置させたフロイトも、「実存は本質に先立つ」といったサルトルも、みんな「形而上学」というおかしなことになってしまいます。

確かに近代の哲学は機械論的自然観と人間精神の二元論を基調として進展していきました。ポパーは『開かれた社会とその敵』の中で、その「自然-精神」という二元論を批判するために、プラトンまでさかのぼっていきます。

けれども「二元論」という思考の方法そのものを否定しているわけではありません。むしろここではプラトンの「社会学」の方が「素朴一元論」であるとして批判にさらされています。

この第五章では、「事実」と「当為」という命題を、外部から(世界を俯瞰する視点から)考察するのではなく、現に社会に属し、規範や道徳が意識のすみずみにまですりこまれている「私」として、「規範」がどういったものであるかを考察し、「規範や決定あるいは政策のための提案などを述べた文を事実を述べた文から導くことは不可能である」(上巻 p.77)という結論を導かれていきます。そこからさらに、正義や指導者、「開かれた社会」といったものに考察は進んでいきます。

もしかしたら質問者さんは「信じる」という言葉に引っかかっていらっしゃるのかもしれません。

実際、「私は(…略…)自然の規則性を記述する言明と(…)規範の間の区別であり、これら二種のの法則はほとんど名前以外の何ものをも共有していないと信じる」(上巻 p.72)と言っているし、さらにこのことは二十五章の結論部でも「この事実と決定との二元論は根本的である、と私は信じている」と繰り返されていますが、この「信じる」というのは、「信仰」をもっている、という意味ではなく、

「合理主義とは基本的には、『私は間違っているかもしれない、そしてあなたが正しいのかもしれない。そして努力すれば、われわれはより真理に接近しえよう』ということを承認する態度である」(下巻 p.207-8)

に対応しています。かの有名な「すべては批判に開かれている」というテーゼに立った上での「私は信じる」ということなのです。

あまり細かな言葉遣いにとらわれず、まずは大きく意味をとらえるようにして、つねに全体を貫いていく筋道を失わないように読んでいってください。

> 事実と当為(自然と倫理、科学と道徳、・・・であると・・・であるべき)の二元論(二分法)はそれ自体形而上学に属するはず

この意味がよくわかりません。どうして「事実命題から規範命題を導くことはできない」(これはそもそもヒュームの法則が元になっているのですが)という原則が「それ自体形而上学に属する」ことになるのですか?

もしかしたら「事実」と「当為」を分けて考えるというように、ふたつのものを対立させる「二元論」自体が「形而上学」に属すると考えておられるのでしょうか? となると...続きを読む

Q今現在、とある授業で多木浩二著『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精

今現在、とある授業で多木浩二著『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』の読解を行っています。
そこで一つ分からないことがあったので、質問させていただきます。
まず一つ目。第6章「芸術と政治」内の「アドルノとの食い違い」について。
本文において、ベンヤミンはアウラの喪失を「複製技術によって生じた伝統的な社会の危機」であると見ています。

そしてそれに対しアドルノは、アウラの喪失の理由を「芸術自体の自立的な形式が探求されること、たとえば音楽の形式における脱魔術化にその例を見る」として、ベンヤミンに批判を加えています。
ここで言う、「芸術自体の自立的な形式が探求されること」とはどういうことなのでしょうか?
「音楽の形式における脱魔術化」というのも、よく意味が分かりません..

どなたか分かる方いらっしゃいましたら、説明していただけないでしょうか?

Aベストアンサー

せっかく授業で読んでいるなら、そういうところを先生や皆と実際に話し合っていけばよいのにと思います。
ゼードルマイヤーの「中心の喪失」を足がかりにベンヤミンやアドルノのモダニズム論に入っていくのが穏当なのではないでしょうか。また、アドルノの「プリズメン」や「美の理論」など手に入りやすいもののなかに音楽はたくさん論じられています。
絵画がかつて、歴史画や神話の場面の大画面であったことは、それらの歴史性や物語性や神話性によりかかり、形式によりかかって成り立っていたと考えることが出来ます。音楽もたくさんの舞踊やソナタなどの伝統的な形式にもとづいて作曲されてきています。
近代にはそういうものは取り払われて、絵画が描くことと見ることの間でなりたち、音楽がそれ自体の時間を構成することで成り立つようになります。
また、脱魔術化というのは記憶にあるタームですが、詳しいところをよくおぼえていません。後期ベートーベン、ワグナー、ベルクを論じてそのように形容していたように記憶していますが、平たく言うと、音楽が音楽自らを裏切り浸食していきながら仮象をどうにかするというイメージであったと思います。
以上ご参考に、ご自分で著書にあたって理解を深めてみてください。

せっかく授業で読んでいるなら、そういうところを先生や皆と実際に話し合っていけばよいのにと思います。
ゼードルマイヤーの「中心の喪失」を足がかりにベンヤミンやアドルノのモダニズム論に入っていくのが穏当なのではないでしょうか。また、アドルノの「プリズメン」や「美の理論」など手に入りやすいもののなかに音楽はたくさん論じられています。
絵画がかつて、歴史画や神話の場面の大画面であったことは、それらの歴史性や物語性や神話性によりかかり、形式によりかかって成り立っていたと考えることが出...続きを読む

Q西洋思想と東洋思想との比較思想について学ぶにはどうすればいいでしょうか

私は西洋哲学(主に分析哲学)や仏教哲学(インド・チベット中観思想、唯識思想、日本仏教思想、西田哲学)に興味を持っており、その両者を比較して研究することにも関心があります。
そこで次の2点について質問します。
1比較思想を行っている有名な学者さんはどのような方がいらっしゃるでしょうか?
2また比較思想の学科を置いている大学はどのようなところがあるでしょうか
何卒、ご回答よろしくお願いします。

Aベストアンサー

参考意見です。
 最初に注意しておきたいのは、安易に比較研究をしようとすると多くは薄っぺらな結果しか出てきません。これを行えるのは、実力のある学者か、天才だけです。
 とはいえ、普通の東洋思想の研究者は、西洋思想の中の自らの研究領域に似ている分野に関する知識は最低限もっています。現代は西洋人の研究者と交流することが多いので、東洋思想だけやって、西洋思想は知らないでは済まされない時代になっているからであり、なにより比較によってその思想が鮮明になるからです。
 例えば、唯識を学ぶのであればカント哲学のあたりは当然勉強していますし、道教を研究するならばキリスト教の知識は必須です(そして道教とキリスト教は驚くほど似ていることがわかる)。
 日本では何故か西洋思想研究が人気で、東洋思想研究は閑古鳥状態なので良質な学者が少なく、世間で売っている東洋思想に関する書物の大半は嘘つきだと思ってください。故に私は東洋思想を主軸にして研究を進めてゆくことを勧めます。
 
 比較思想研究を試みている人は多く、仏教学者では中村元、三枝充悳の名が挙がりますが、やはり井筒俊彦の著作は必読です。

 比較思想といったら京都学派の名が挙がりますが、問題も多いです。ハイデガーを禅の用語を使って訳してますが(『時と有』・・・。
 研究は基本的に原典の読み込みから出発しますので、文献学をしっかりと学べる大学が宜しいと思われます(以外に文献を読めない人が多く、特に仏教関係の読みはデタラメで、まともに読めている人はほんの一握りしかいません)。
 

参考意見です。
 最初に注意しておきたいのは、安易に比較研究をしようとすると多くは薄っぺらな結果しか出てきません。これを行えるのは、実力のある学者か、天才だけです。
 とはいえ、普通の東洋思想の研究者は、西洋思想の中の自らの研究領域に似ている分野に関する知識は最低限もっています。現代は西洋人の研究者と交流することが多いので、東洋思想だけやって、西洋思想は知らないでは済まされない時代になっているからであり、なにより比較によってその思想が鮮明になるからです。
 例えば、唯識を...続きを読む

Q今現在、とある授業で多木浩二著『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精

今現在、とある授業で多木浩二著『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』の読解を行っています。

そこで一つ分からないことがあったので、質問させていただきます。

まず一つ目。第6章「芸術と政治」内の「アドルノとの食い違い」について。

本文において、ベンヤミンはアウラの喪失を「複製技術によって生じた伝統的な社会の危機」であると見ています。

そしてそれに対しアドルノは、アウラの喪失の理由を「芸術自体の自立的な形式が探求されること、たとえば音楽の形式における脱魔術化にその例を見る」として、ベンヤミンに批判を加えています。

ここで言う、「芸術自体の自立的な形式が探求されること」とはどういうことなのでしょうか?

「音楽の形式における脱魔術化」というのも、よく意味が分かりません..

どなたか分かる方いらっしゃいましたら、説明していただけないでしょうか?

Aベストアンサー

「哲学」カテにどうぞ。

Q形而上学・形而下学の語源

この前、辞書を読んでいた時に形而上学という言葉を見つけました。すごく不思議な言葉なんですが、「形而上学」という言葉はどうやってできたんでしょう?

過去の質問に、明治になって西欧から文化が取り入れられた際に「metaphysica(metaphysika, metaphysique)」の訳語として造成された、という説明がありましたが、西暦何年に何をやっている誰々さんが作った、というような具体的なデータはないのでしょうか?
あと、「形而上」って何でしょう?訳語を新たに作るとなると、その訳に根拠……日本語の場合は漢字を使って意訳するか仮名を使って音訳するか……があると思うのですが、私は形而というものを見た事がありません。

ご存知でしたら教えて下さい!

Aベストアンサー

 
>「形而上学」には2つの意味があったんですね。

違います。ta meta ta physika の意味が分かっていないので、錯覚が起こっているのです。(つまり、ta meta ta physika というのは、アリストテレスの本の名でもあるのですが、これで、「学」としての形而上学の意味にもなるのです)。

以下のページに、「ta meta ta physica」と「形而上学」の意味的関係が説明されています。それによれば、physika(ピュシカ)というのは、自然学というより、むしろ、「形而下学」と、アリストテレスの哲学システムのなかでは、呼ぶに相応しいようです。

「タ・メタ・タ・ピュシカ」とは、「ピュシカの後の本・学」という意味で、「ピュシカの後」という意味ではなく、この場合、「形而下学」の後・次に来るのが、「形而上学」であるというのは、自然であるとなっています。

つまり、形而上のことを扱うので、「形而上学」ですが、他方、ロードスのアンドロニコスの配列によって、「ピュシカ=自然学諸本」の後に置かれたので、「形而下学の後の学」とは、認識や智慧の階梯順序からして、それは「形而上学」のことで、ta meta ta physica を訳すと、「形而上学」となるのだとされます。

>http://www.max.hi-ho.ne.jp/aisis/memo-random-1/r-metaphysica-1.html

--------------------------

なお、「易経」というのは、儒教において尊重される四書五経の一つで、簡単に言えば、「占いの本」ですが、これは「世界の構造についての概論書」だとも言えます。「易経的世界把握」とでも呼べばよいのか、陰陽の二元構造の反復で、世界は成立しており、世界の運動や現象も、この陰陽二元構造に基づくパターンで成立しているという考えです。

「陰」でも「陽」でもない根元を、「太極」と言います。これが陰陽の二元に分離し、「陰」と「陽」の両儀となります。陰と陽の組み合わせが更にあり、「陽陽」「陽陰」「陰陽」「陰陰」の四つのパターンができ、これを四象と言います。これが更に分化して、「陽陽陽」「陽陽陰」「陽陰陽」「陽陰陰」「陰陽陽」「陰陽陰」「陰陰陽」「陰陰陰」と八個のパターンになると、これを、「八卦」と言います。

八卦を上と下で組み合わせると、六十四のパターンになり、六十四卦で、この六十四が、世界のありようや展開運動の基本パターンとされます。

戦争などで、現在の状況や、未来の展望を知りたい場合、偶然で、陰か陽が出るようにして、このプロセスを六回行うと、六十四卦のどれかが出てきます。出てきた卦が、現在の状況を示していて、これがどういう意味かを読みとるのには、易経の「解釈文」を使います。

世界のありようを、六十四のパターンに分けて、把握するのだと言えますが、これは未来の展開を知ることができるので、「占い」に使えるのです。

「陽」が六回出てきた場合、「乾(けん)」と言い、「陰」が六回出てきた場合は、「坤(こん)」と言います。「乾坤」で、天地とか、宇宙の意味になります。「乾」は天を表し、「坤」は地を表すからです。

>http://www.layer.ne.jp/~ushio-ekidan/gogyo/ss1.html
 

 
>「形而上学」には2つの意味があったんですね。

違います。ta meta ta physika の意味が分かっていないので、錯覚が起こっているのです。(つまり、ta meta ta physika というのは、アリストテレスの本の名でもあるのですが、これで、「学」としての形而上学の意味にもなるのです)。

以下のページに、「ta meta ta physica」と「形而上学」の意味的関係が説明されています。それによれば、physika(ピュシカ)というのは、自然学というより、むしろ、「形而下学」と、アリストテレスの哲学システムの...続きを読む

Qボリス・ベッカー

たしか名前はボリス・ベッカーだったと思う
のですが、この人はいったい昔どんな人
だったのですが?今は裁判とかいろいろ
やってますが、今でもテニスを続けているんですか?

Aベストアンサー

 私はテニス歴28年(途中8年くらいお休み)の男性です。

 ボリス・ベッカーはドイツ人で、17歳の時に全英で予選上がりで優勝した人
です。85,86,89年にウインブルドン、89年にUSオープン、91,96年にオースト
ラリアオープンに優勝しました。略称「B・B」でした。もう引退しました。

 印象に残っているのは超強力サーブで、2ndも思いっきり打つので「ダブル・
1st」と呼ばれていました。イースタンフォアの握りで、膝を深く曲げて打って
いました。巷のおじさんたちが真似をして、こけてました。
 また、「ダイビング・ボレー」が売りでしたね。テニスを始めて3年で全英で優
勝したとのこと、世の中年を嘆かせました。

Q形而上学、という言葉の意味について

形而上学という言葉は、どのような意味を指すのでしょうか。
人間の思考というのは、おそらく意識によって行われると思うので、学問のみならず、あらゆる思考は観念的行為だと思います。その意味からすれば、思考というのは、いつも必ず「形而上」つまり物質や形あるもののメタに立つわけだから、あらゆる思考は形而上学であるとは言えないのでしょうか。

たんに、物質や社会など形而下のことを考える学と対峙して、形而上、つまり精神や魂や神を考える学を、形而上学と呼んでみただけのことなのでしょうか。

どなたかお答え頂ければ幸いです。

Aベストアンサー

こんにちは。

>人間の思考というのは、おそらく意識によって行われると思うので、
>学問のみならず、あらゆる思考は観念的行為だと思います。

>あらゆる思考は形而上学であるとは言えないのでしょうか。

teppyonさんの指摘は「思考する主体」から見ればおっしゃる通りだと思います。
が、形而上学が問題にしているのは「思考する対象」だと思います。
つまり、形而上学とは、経験的には規定されず(たとえば化学実験などの
客観的再現性)思惟によって「のみ」捉えることの可能な、生成変化しない
ものについての学、ということだと思います。

形而上学についてはアリストテレスがかなりしっかりとした枠組みを
提示しています。

詳しくは以下のサイトがわかりやすいです。

「科学と形而上学」

参考にどうぞ。



参考URL:http://iii.cc.kochi-u.ac.jp/~kisoron/kisoron_011.htm

Qミオトニー疾患でトムゼン型とベッカー型の

難病指定のミオトニー疾患のトムゼン型のベッカー型か診断がちゃんとおりてないのは、両型あてはまる場合、心の準備が出来ません。最近、食欲がなく体重が二ヶ月で五キロ落ちてしまいました。寝ても寝足りない食欲が落ちたのでこの先不安です。トムゼン型は進行しないといいますが、ベッカー型は緩やかに進行していくようですが、自身、発症は生後直ぐに症状はあり、先天性に当てはまり幼児期にも足がつって泣いていました。生後から身体も硬く、今は成人して25才男性身体の下肢から硬くなって、一年前から顎を上げるとつったりします。身長158cm、体重56kgです。仕事はしゃがめない程度ですが、歩いたり、バイクにも乗ります。食欲が落ちて体重が減ったのが進行の1つの症状か知りたいです。同じ病気の方でトムゼンベッカーの症状が個人差が有るのか、ご返答していただきましたら幸いです。宜しくお願いします。

Aベストアンサー

担当の医師から聞いていると思いますが、先天性ミオトニーの原因遺伝子であるCLCN1の異常に二種類しかなく、一方がBecker、一方がThomsenとなる..という訳ではありません。CLCN1の変異のよっては、BeckerでもThomsenでもどっちつかず..という病態が生じるので、無理やりBeckerかThomsenかどっちかに診断しようとするなら、遺伝形態で判断するしかありません。

ただし、Beckerと診断されようとThomsenと診断されようとも、CLCN1のどこが変異しているのかが同じという訳でもありませんし、たとえ遺伝子の変異が同じでも表現型は違う事もよくあるので、他の人の病態の進行はあてになるものではありません。

とは言っても、同じ遺伝子の変異をもつ人の病態は、違う部位の遺伝子異常の人の病態よりは似てくるはずですから、一番、参考になるのは(ご両親の少なくともどちらかが発病されているはずなので)発病された親の病態となります。

>同じ病気の方でトムゼンベッカーの症状が個人差が有る

よって、個人差があります。

Q完成された過去の様式を現代風によみがえらせる=ポストモダン?

社会学のカテゴリが無いのでと思ったのですが、こちらで質問します。
現代アートや音楽などの文化で
過去に既に様式となったものを現代風に
ポップにカリカチュアライズして見せる手法
こういった手法を指す言葉が知りたいのですが
私はこれが「ポストモダン」と解釈していますが
当たっていますか?

Aベストアンサー

#2です。
 すみません、書き様が悪かったでしょうか。ポスト・モダンについて回答したつもりはありません。ポスト・モダンという語を使うならこういうことでしょうと定義した上で、二パターンにあてはめようと意図したものです。

>例えば、椎名林檎が昔の漢字を使用したり
>HIPHOPに古典クラシックをサンプリングしたり
>村上隆が典型的日本アニメの絵柄を、ヴィトンの柄にしてみたりとか

 これらを広い意味で捉えるならポスト・モダンでしょう(直接の回答はこれです)。しかし、狭い意味で捉えるならどうなんでしょう。確かに椎名林檎と村上隆はそんな感じもしないでもありません。価値の相対化(特に村上隆や奈良美智)とか近代への反動(特に椎名林檎)ということが感じられるからです。でもHIPHOPにクラシックをサンプリングしたものは、コラージュとかパロディってくらいのものではないでしょうか、私はそう感じます。

 椎名林檎は輸入オルタナティブ(きっと反論する人も多いでしょうが)と言ってもいいような気もします。少し広くして近代に対するカウンター・カルチャーってとこでしょうか。率直なところ、単にキッチュとかポップアートなどと呼ぶ概念と変わらない感じがします。

#2です。
 すみません、書き様が悪かったでしょうか。ポスト・モダンについて回答したつもりはありません。ポスト・モダンという語を使うならこういうことでしょうと定義した上で、二パターンにあてはめようと意図したものです。

>例えば、椎名林檎が昔の漢字を使用したり
>HIPHOPに古典クラシックをサンプリングしたり
>村上隆が典型的日本アニメの絵柄を、ヴィトンの柄にしてみたりとか

 これらを広い意味で捉えるならポスト・モダンでしょう(直接の回答はこれです)。しかし、狭い意味で捉えるな...続きを読む


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