プロが教えるわが家の防犯対策術!

先日レンタルビデオで「The Trench(塹壕)」という映画を見ました。そこでは第一次世界大戦の欧州戦線(1916年7月1日のソンムの戦い)での塹壕での英軍兵士の状況とそこからの独軍陣地を目指しての英軍歩兵の突撃シーンが描かれていますが、歩兵は突撃の際に、独軍の塹壕陣地から雨あられの弾が飛んでくる中、多数の歩兵が一斉に立って、走るでもなく歩きながら銃を構えながら、銃を撃つでもなく、敵陣地を目指しながら黙々と進んでいき、案の定、多数の兵士がバタバタと敵銃弾に倒れていくシーンで終了しています。(英軍死者は2時間で6万人)これを見て信じられなかったのですが、今あれば、また、第2次世界大戦でも、このような場合は、伏せて匍匐前進とかで、なくべく分散して進むと思うのですが、当時の歩兵の塹壕戦は、このようなものであったのでしょうか?このような戦法であれば2時間で6万人の死者も当然と思うのですが、このような兵士の人命を完全に消耗品と扱うような戦法が、当時の英国でも取られていたことが信じられないのですが、どなたか、この辺の事情に通じておられる方の教えを乞いたいので、宜しくお願い致します。

A 回答 (4件)

日露戦争より前の戦争に関してはNo.1の回答がほぼ正しいでしょう。



ナポレオン戦争までは、歩兵が整然とした隊形で前進し砲弾で倒れる
者が居ても無視して行進を続け、相手が歩兵銃の射程内に入ってから
立ち姿勢で一斉射撃に入っていました。
ナポレオンの戦争では市民兵の大量参戦と砲の有効利用が大きな特長
でした。

日露戦争で突進突撃が行われ、塹壕と砲と機関銃の使用で戦死者が
急増したことは戦闘術上の転回点でした。
当時、欧米からの観戦武官がこれを報告しており、近代海戦の様子と
合わせて戦争の本質が変化したことを伝えています。
戦闘技術上の観点から、この戦争を第0次大戦と呼ぶべきだと主張して
いる軍事史研究家もいます。

さて、第一次世界大戦はこの教訓が世界規模に拡がり、陸戦の戦闘術が
変わる丁度過渡期になります。ドイツ側での機関銃の大量投入を予想
していなかった英軍側の旧態依然の戦闘方法が招いた悲劇と言えます。
この戦いでは、火砲が大量に投入され、次の戦争の陸戦の主役となる
戦車も出現しています。
日本陸軍は第一次大戦には観戦武官を派遣していますが、近代戦への
警鐘として受取ることもなく歩兵突撃の精神主義の弊害を次の戦争でも
繰り返します。

第一次世界大戦の陸戦の様子が判る映画は「西部戦線異状なし」です。
第一次世界大戦の余韻がまだ残っている頃にドイツで制作されたこの
映画はとてもリアルな感じがします。当然白黒ですが。
ハリウッド版のカラーも有ります。リアル感は大幅に損なわれて
いますが、当時の陸戦の様子は伝えてくれます。

興味がお有りなら一度見られることをお勧めします。
主人公が狙撃され倒れる最後のシーンが、ドイツ語版では塹壕の銃眼
から見えた蝶に手を差し出して、ハリウッド版では小鳥を見ようとして
という違いが有ります。原作にはどちらも有りません。
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この回答へのお礼

戦史的に歩兵戦術がどのように変化したのかについて、ご教示いただきありがとうございました。その道の先達はあらま欲しきです。疑問が解けたように思います。

お礼日時:2009/08/19 00:47

映画の知識しかありませんが、アメリカ独立戦争なんかでもそんなシーンがあります。

たぶん待ち受ける側の武器も古く連発といっても6発ぐらいで、機関銃も過熱や弾の供給が結構できないため、攻撃側の最前線が倒れ、2列目が倒れ、、している間に弾込め中の敵の塹壕に到達しせん滅する考えと想像します。確かに第一列目は不運ですが、結局人数の多い方が勝つのでしょう。朝鮮戦争のアメリカ軍の記述に、中国が参戦してからは後から後から中国兵がおしかけどうにもならなかったようです。その後武器が発達しそのような戦法はなくなったのだろうと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。お蔭様にて、また、知識が広がりました。

お礼日時:2011/07/03 18:41

トレンチは、まだヌルイです。

当時の命令は、荷物30キロ背負って突撃、があたりまえでした。
これは、日露戦争の教訓が「極東の特殊事情」、つまり、新興国日本が軍備未熟ゆえ機関銃をそろえた、対するロシアの極東軍も、兵士不足を機関銃でおぎなっただけのこと、と捕らえられていたためです。一部の英国軍軍人はボーア戦争で機関銃の怖さを知っていたのですが、上層部が肌身に染みていなかったためにこのようなことは起きました。兵士がたどりつけないのは、ドイツ軍の陣地が丘の上にあるからだ(実際、ドイツの塹壕線は連合軍のより高地に掘られていました)、という考えが一般的で、結局、6時間砲撃してから突撃してダメなのは、歩兵がわるい、という悪循環になります。キチンと構築された陣地に、メクラ滅法砲撃しても、無駄だからです。
1917年にフランスのニベルという将軍は「戦争を48時間で終わらせる」と豪語して、ルーデンドルフが整備した陣地に兵を突撃させ、初日で5万の損害をだしました。雪が降って泥濘になっても、まだニベルは「やれる」と思い、戦略予備を突撃させようとしますが、各指揮官の反対にあうわ、大統領からやめなさいと教書はきてしまうわ、それでも一部ではやって3万また損害だして、フランス軍は反乱おこす部隊が出る、ボルシェビキの赤旗を使う部隊が出る。即決裁判であちこちで銃殺刑をやる、という大混乱となり、ニベルは植民地に更迭。有能なペタンが後を襲いますが、反乱部隊の一部はパリを攻撃しようとしたり、勝手に村落を占領して独立政府を名乗ったりと、もう手がつけられない状態となりました。が、ペタンは一方で強硬手段で反乱を抑え、一方で医療、食事、給与、の改善をして、この騒動は6週間目にやっと収まりました。ペタンは「アメリカ人と戦車を待とう」と兵士に言い、実はフランス軍の陣地そのものはドイツのそれに勝るとも劣らないすごい物でした。

チャーチルはこのとき海軍大臣でしたが、
「まず機関銃の数を倍にして、勝つためにもう倍にして、幸運を祈ってもう倍にしてから師団に装備させろ」
という事をいっています。

このあと、ドイツで浸透戦術という、下士官に率いられた身軽な兵士が、夜間などに敵陣地に接近して、機関銃座を破壊し、本体が静かにあとから「しみ込むように」進撃する、という戦術がでます。
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この回答へのお礼

貴重な回答で新たな知見を得ることができました。ありがとうございました。

お礼日時:2009/08/19 00:43

当時のそのような戦争での戦い方は以下のような理由からだそうです。



1)戦争は相手を殺す、殲滅させることが目的ではなく、自分たちに有利なように外交問題を解決する手段である。
2)戦争があったとしても、一般人、つまり非戦闘員が残虐な目に会わないようにしたい。
3)しかし、殺されるかもしれない兵士には、一般人はなりたがらない。無法者・食いつめ者、傭兵が兵士となった。-->自由に戦わせると何するか信用できない-->隊形を組んで強制的に闘いに参加させる
4)兵士としては、本気で戦うよりも、敵側の兵士と内通して、お互いに戦うフリをして、死者を出さずに勝敗をつけるほうが双方の兵士にとって良い。-->ルールを決めて(死なないように)撃ち合う。

つまりは、第一次大戦直前の闘いは、筋書きのあるプロレスの試合みたいな、馴れ合い戦争、厳格なルールのあるスポーツのようなものだった時期があるようです。お互いに、本気で殺しあうなんて野蛮なことと思われていたみたいです。「戦争とは、スポーツ感覚であり、照準ミスで時々死ぬ人もいるが基本は死者はいない」なんて思い込みがあったみたいです。
実際、戦争があると、見物人が多数集まり、屋台などが出たそうです。

ただし、第一次大戦で、ドイツ軍は新兵器のマキシム・マシンガンを用意し、そしてマシンガンの射撃方法を、隊列の斜め横方向からの射線としたため、弾丸が外れることなく、時には1発で数名を打ち抜くことも可能でした。隊列を組んでマシンガンの射程内にのんびりと突入した英軍が、短時間で多数の死者を出したのも当然ですね。(Wikiによると、イギリスの死者は6万人じゃなく、2万人とされていますが・・)

このマシンガンは、「少数の兵士が大火力の兵器を持てば、兵士は少数で済むので、死傷者が少なくなる」という「平和への思い」から発明されたといいますが、実際には、戦争を、いかに効果的に多数の兵士を殺すか?という殲滅戦的なものに変えていったのは、皮肉ですね。
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この回答へのお礼

貴重な知識ありがとうございます。世の中に良くここまでご存知なのかと思う方々がいるのを知って、びっくりしています。

お礼日時:2009/08/19 00:49

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