デリダがアメリカに移ったのはいつでしょうか?
(本当に移ったかどうかも不正確なのですが)
分かる方がいれば教えて下さい。

A 回答 (2件)

 nabe0さんの言われる通りです。

デリダの活動拠点は基本的にフランス。ただ、非常にフットワークの軽い人であることはたしかです。
 アメリカでの活動に絞れば、最初の訪米が1966年、ジョンズ・ポプキンス大学におけるコロキウム「人間諸科学についての批評の言語」への参加です。そして68年頃から、欧米を又にかけて飛び回り始めます。イェール大学で教え始めたのが75年。「イェール学派」が形成され、79年にはその活動の成果として『脱構築と批評』が出版されます。その後でも、何度も渡米しているようです。
 彼が足を向けた場所はアメリカだけではありません。83年と84年には来日していますし、イスラエルにもラテン・アメリカ諸国にも行っています。81年にはチェコの反体制知識人たちと秘密セミナーを行い、帰る際プラハ空港で逮捕されるという武勇伝(?)まであります。
 そういうことですから、「移って」はいません。アメリカには何度も「行って」います。
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この回答へのお礼

どうもありがとうございました。お詳しいんですね。
たくさん書いていただいてありがとうございました。

お礼日時:2001/03/17 20:48

最近の話であれば、よく知りませんが、


デリダは1960年代末からアメリカのいくつかの大学で教鞭をとっています。
特に有名になのは、毎年5週間のセミナーを開いていたイェール大学でしょう。デリダの他にミラー、ハートマンなどを中心に「イェール学派」と呼ばれる「脱構築批評」の集団が形成されていたようです。
なお、このイェール学派と呼ばれた集団の著作に『脱構築と批評』(Deconstruction and Criticism)があり、デリダも寄稿しています。

ただ、これらのアメリカの大学での教鞭はあくまでも定期的に行っていたものなので、「移った」という表現をするべきかは疑問です。デリダは、この時期(1970年代)にフランスでどのような活動を行っていたのか詳しくは知りませんが、その後もフランスで教えていることを考えれば「移った」と表現するべきではないのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

どうもありがとうございます。詳しく、早く解答を下さって助かりました。
ありがとうございました。

お礼日時:2001/03/17 20:49

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Qデリダの理論はその後発展してますか?

デリダの脱構築という理論というか手法は、いくらでも応用、発展の可能性を含んだ手法のように思えたんですが、デリダを受け継いで広範な影響力を持ち得た理論とか、 あるいは影響力を発揮した学者さんとか、いなかったのでしょうか?

サイードのオリエンタリズムなどは、単純な二項対立を否定するあたりが、デリダ的なんじゃないですかね?

Aベストアンサー

デリダを応用しているなら、スピヴァクじゃないですか。弟子のひとりではありますし、これは『デリダ論』を手に取ってみても明らかです。しかし二項対立を否定しているとは言えないですね。

しかしサイードって、二項対立を否定していたんでしたっけ。東洋と西洋は対立しているんじゃないのでしたっけ。つまり質問には当初から大きな誤解があるのです。デリダの脱構築は主権を否定するものであって、二項対立を否定するものじゃないと思います。二項対立の否定なら、別の思想家でしょ?

Qジャック・デリダとポストモダンの関係

最近、東浩紀にはまったんですがポストモダンについていまいちよく分かりません。
モダンのあとにくるもの、というのは分かるのですが。

あと、デリダとポストモダンの関係も分かれば教えて下さい。

Aベストアンサー

このスペースで説明するのはしんどいので
東浩紀を読まれるぐらいの方なら
入門書を数冊読んじゃった方がイイと思います。
別冊宝島44「現代思想・入門」が手っ取り早く分かりやすいと思います。

簡単に、ごく簡単に説明してみます。
アリストテレス等によって始まった「形而上学」は
デカルトによってひとつの完成に至ったとされ
ここに「近代(モダン)」が花開きます。
現代思想はしばしばポストモダンと呼ばれますが
これは、19世紀後半、ニーチェに始まる「形而上学」批判の流れにあるものです。
形而上学批判は実存主義、記号論、構造主義などとして展開しますが
デリダは構造主義を継承したポスト構造主義を代表する哲学者であるとともに
現代の「形而上学批判」の頂点とされる人のようです。

Qデリダに関して質問です。

デリダに関して質問です。
デリダは書かれたもの(エクスチュール)が音声言語(パロール)の補助手段としてだけその地位を認められてきたという伝統的な哲学の問題点を指摘し、一切の記号作用だけでなく意識作用も可能にする「原-エクリチュール」を提唱した。

デリダに関しての説明ですが、エクスチュールとパロール、記号作用と意識作用がいまいち分かりません。
申し訳ないですが、簡単でいいのでどなたか説明してもらえないでしょうか。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

(承前)

「愛とは何か」「自我とは何か」「神とは何か」、わたしたちはどこかにこうした言葉の「ほんとうの意味」があるのではないか、と問いかけます。けれども、「愛」という何ものかがどこかにあるのではなく、わたしたちがこれまでにさまざまな経験を通じて、「愛」という言葉を学習し、「これは愛ではない」「愛とは呼べない」という差異によってその言葉を理解していく。だから、愛とは何かと問われても、それは言葉である、としか言いようがないのです。
「どこかにある、ただひとつのほんとうの意味」という考え方を「超越論的シニフィエ」としてデリダが批判するのはこういう理由なのです(かなり簡略化しているのですが)。

どこまで書いたらいいかわからないので、これに関してはこのくらいで。

さて、「原エクリチュール」について。
これもごくごくおおざっぱに。

マンガの吹き出しは考えて見れば不思議なもので、吹き出しの中に書かれたもの(エクリチュール)が、いま話されている(パロール)ことになっているのですが、それはこの登場人物が話しているところ、として、わたしたちはそれを不思議とも何とも思わずに受けとめています。マンガの吹き出しは、パロールなんでしょうか。それともエクリチュール?

プラトンの時代には考えられなかったことですが、いまは「話されている言葉」もそのままのかたちで保存することができるし、「ここだけの話」のはずが流出することもある。「話されている言葉」も「書かれたもの」と同じ、物質的存在であることは、はっきりしています。これを考えると、書くことが話すことの二次的形式であるならば、話すことも書くことの一形態であるともいえる。

わたしたちは大切なことを「胸に刻み込む」といいます。「刻み込む」のは、昔、版木に文字を刻み込んでいたことの名残りでしょう。あるいは「(頭の中に)メモっておこう」とも言います。頭の中にかきつけておくイメージを持っているのです。

このように、わたしたちが話している言葉のなかには、書くということがまぎれこんでいる。このパロールのなかにあるエクリチュールの痕跡を、デリダは「原-エクリチュール」と呼ぶのです。

(承前)

「愛とは何か」「自我とは何か」「神とは何か」、わたしたちはどこかにこうした言葉の「ほんとうの意味」があるのではないか、と問いかけます。けれども、「愛」という何ものかがどこかにあるのではなく、わたしたちがこれまでにさまざまな経験を通じて、「愛」という言葉を学習し、「これは愛ではない」「愛とは呼べない」という差異によってその言葉を理解していく。だから、愛とは何かと問われても、それは言葉である、としか言いようがないのです。
「どこかにある、ただひとつのほんとうの意味」と...続きを読む

Qデリダはフッサールをどう脱構築したのでしょうか?

デリダは、「声と現象」という本で、フッサールのいう超越論的主観性と時間性との根源に「生き生きとした現在」があるという考えを「脱構築」した。「根源」などなく、そこには「差異の戯れ」しかないんだということを明らかにした。それによってフッサールの近代哲学の前提を、その「現前の形而上学」を暴くことで、近代哲学を葬ったのだ。…

というデリダの解説を読んだのですが、これはよく分かりませんでした。フッサールの言う超越論的主観性と時間性の根源に「生き生きとした現在」があるという考え、とはそもそもどういう考えなのでしょうか?

そしてそこには差異の戯れしかない、とはどういうことでしょうか?

Aベストアンサー

『声と現象』は副題から伺えるように記号の問題について論じています。フッサールは表現的expressiveと表示的indicativeな記号を分けます。表示的記号とはたとえば鶏の鳴き声。鶏の鳴き声は私に「朝」を表示しますが、しかし鶏にそんな意図はない。では私が他人に「ごめん」と言えばどうでしょう。それは私が謝罪の気持ちを声によって表現しようとしたもの、と言われるのではないでしょうか。赤信号が「止まれ」という意図in-tentionを表示しないのに対して、「ありがとう」は私の内なるin-ternal意図を表現ex-pressしたものなわけです。フッサールは、書かれたもの(エクリチュール)が書き手の意図と「間接的に」関係するのに対して、話されたこと(パロール)は意図と「直接的に」関係すると述べました。つまり、生きた主体たる意識が記号に意味という息吹を吹き込むanimateと。古典的な語彙では、記号に生命を与えるanimateのは精神animaであり、フッサールでこのアニマに当たるのが意識です。もちろん書かれた記号にも意図は関わります。遺書willはまさに書き手の意向・意志willを表しています。しかし声に比べると文字が間接的であることに変わりはありません。なんにせよフッサールには古典的な音声中心主義じみたところがあり、彼によれば生き生きとした現在が記号に生命力を与える。
内in-外exという二項対立、さらに内や声を上位に据えて外や文字を下位に据える手法がなんとなくわかるでしょう。声は生き生きとした現在という時間性をもつ意識と近くあり、文字はその意識から遠くあるわけです。意識-音声-文字。音声は思考に近い。アリストテレスも「話された言葉は精神的経験の象徴であり、書かれた言葉は話された言葉の象徴だ」と述べます。文字は声に従属する、と。音声を中心とすれば文字は周縁です。
現前presenceの形而上学ではこの音声中心主義が支配的です。音声は思考を直接的に示し、書字と違ってペンや紙を使うこともなく、書字と違って話すや否や自分の声が聞こえる。音声は思考が直接的に現前するために適っており、文字は書く手間や、相手に対する書き手の現前を要さないため、下等なわけです。頭を叩かれて「いたっ!」と発話するのと、頭を叩かれて「いたっ!」と文字を書くのとでは、やはり発話のほうが直接的だと人は考えるでしょう。生活世界でのこうした日常茶飯事からも、音声が上位であり記述が下位であるという見解が受け入れやすくなっています。「た」と書くより「た」と言うほうが、意識との関係において「直接的」なわけです。
ところで記憶memoryとはまさに「心」に書き込まれたmemorizedされたものであり、声に出される記号と言えどこの「内面に」書かれたもの(エクリチュール)と切り離すことはできないのではないでしょうか。生き生きとした現在の現前presenceが意味をもつには不可避的になんらかの欠席absenseが、存在者ensではない不在者が伴うのではないでしょうか。デリダが幽在論hantologieを語り、現象ではなく痕跡を語るのはこれにも関係すると思います。純粋な「現在presense」という前提が、そもそも不在absenceによらなければ成り立たないのではないかと。
生き生きとした現在について。
「この時間化においては、つねに今であり今でありつづける自我が、この生き生きとした今として、またこの超時間的な今として、いっさいを遂行する自我である。超時間的な今とは立ちとどまり滞まりつづける今としてであり、物的な(時間化された意味での)今ではない」
フッサールの言う時間性とは、大雑把にいえば過去把持・現在・未来予持です。私が札束を「1、2、3」と数えているのをあなたが見るとき、2と数えた時点ですでに1と数えたことは過去ですが、しかしあなたは2の時点でもさっき1と数えたことを把握しています。また、「1.2.3.5」と私が数えたとき、「4を飛ばすな」と言えるのも、私が5と数えた時点で「さっき3と数えたこと」をあなたが把握しているからです。私が4を飛ばして5と数えたさいにイラっとしたり些細な驚きを感じるなら、それは3の時点で「次に来るのは4だ」と暗黙ながら予期していたからでしょう。
こうした時間性の根源に「生き生きとした現在」がある。この生き生きとした現在は「立ちとどまり滞まりつづける今」とされ、ここにデリダは目をつけます。静態的現象学で扱われた時間性はつねにすでに働いているものですが、発生的現象学はそうした時間意識の発生を考究していきます。そして、その発生の根源が生き生きとした現在とされたのでした。生き生きとした現在とは時間性における現在ではなく、言語化される以前の「純粋な」体感とでも言えると思います。千円札を数えるときの「1.2.3」で過去把持や未来予持が成り立つのは、数えている現場や手繰られる札束や手の動きや声などを五感で直観しているからです。意識にそうした現象が現れている現在という根源・基盤なくして、過去把持や未来予持は成り立たないだろうと。
「孤独な心的生における独り言」は『論理学研究』でフッサールが表現の根本としたものです。私は頭の「なかで」言葉を語ることができ、かつ、語っている言葉を把握できます。いわばこれが心的生の独白です。フッサールはこれを重視することで、身振り手振りさえ指標であるとして、表現から除外します。また、発声器官における声も、声変わりや男女の違いなど物体的なファクターが関わるので、それゆえに心的な独白における「声」を重視します。ようやく『声と現象』における「声」に言及することができます。還元という名の純化の果てに行きついたこの心的な「声」、はたしてこれは「表現」なのか。
記号表現(シニフィアン)と記号内容(シニフィエ)は記号(シーニュ)に関わります。フッサールは、発話に伴うしわがれ声や高低などもいわば汚染物質であると見なしたのでしょう。それゆえに、発声器官という物質的なものに「汚染」されない内面的な独白を、「純粋な」「声」としたように思われます。それが手による記述や口による発声に内容を与えるのだと。しかし記号表現なしに成り立つ記号内容などありうるのか。すでに内面的な「声」にもシニフィアンとシニフィエがあるのではないか。まず、私の頭の「なかの」「声」は日本語であり、それゆえに日本語話者でもある私はその「声」を理解できます。内面的な「声」によって私が私に向けて表現する内容は、日本語という形式をもつから私は理解できる。しかしフッサールは「言葉が実在していなくともわれわれの妨げにもならないし、かといって関心を引くわけでもない」とか言い出す。日本語や英語といったラングさえも除外するわけです。シニフィアンをもたないシニフィエ、つまり内容そのものが内容そのものだけで成り立つと。フッサールにとっては日本語というラングさえ形式いわば指標であり、表現からラングという指標をも除外してしまったわけです。
「シニフィアンという現象学的<身体>が、産出されたまさにその瞬間に、抹消されてしまうように思われる」『声と現象』より
「表現/指標」においてフッサールは、表現に純粋さを、指標に不純物を、当てはめているわけです。そしてデリダの戦略は、フッサールの現象学における還元が「現象学的身体」たるシニフィアンを抹消してしまっていること、それを示すことでしょう。
私の読みがあなたの読みの参考になればよいですが、あくまでこの読みは読み方の一つにすぎないし、私はフッサールの現象学が「葬られた」とは思いません。また、「生き生きとした現在」がないというのは、フッサールが考えたような純粋な生き生きとした現在がないということでしょう。
「生き生きした現在は、つねに既にひとつの痕跡である」
このようにデリダが言っているわけですから。

『声と現象』は副題から伺えるように記号の問題について論じています。フッサールは表現的expressiveと表示的indicativeな記号を分けます。表示的記号とはたとえば鶏の鳴き声。鶏の鳴き声は私に「朝」を表示しますが、しかし鶏にそんな意図はない。では私が他人に「ごめん」と言えばどうでしょう。それは私が謝罪の気持ちを声によって表現しようとしたもの、と言われるのではないでしょうか。赤信号が「止まれ」という意図in-tentionを表示しないのに対して、「ありがとう」は私の内なるin-ternal意図を表現ex-pre...続きを読む

Qデリダの哲学とは!?

デリダの哲学のエッセンスを、なんとか中学生にも分かるくらいのレベルで解説していただけませんか?

Aベストアンサー

 よく使われる哲学的表現に、自分と「自分」があります。「」なしの自分は実際の自分で、カッコつきの「自分」はOOだと思われているレッテルを貼られた自分です。他人がレッテルを貼るときもあれば、自分でレッテルを貼るときもあります。同様に、ものと「もの」も使い分けられます。

 私たちが考える「もの」とは、常にそれ自身から遅れています。しかし、私たちは、「もの」はつねにひとつの同じ「もの」だと考えてしまいます。デリダはこのように「もの」が安定して目の前にあるように見なす態度を批判します。この偽〔いつわり〕の安定を取り除かなくてはならないと主張します。
 偽りの安定を打ち破るためにデリダが持ち出したのが、脱構築〔だつこうちく〕と呼ばれる独特な方法概念でした。外側から壊すのではなく、内側から変化させるものです。男と女、人間と自然などのような二項対立に揺さぶりをかけ、意味の内側から、これまで受け入れられてきた意味を書き換えてしまうのです。

 デリダの前から“差異”という言葉は使われていました。イヌとオオカミの違いは?。では、ヤマイヌとは?私たちがものを識別しているのは差異によってですが、その区切り方によってはちがう名前がついてしまいます。ところがそのイヌでさえ、さっきまでの「イヌ」は、いまの「イヌ」とは違っているという点を考慮していません。このことをデリダは、空間的な差異と時間的な遅延の2つの意味をあわせもった、差延〔さえん〕という造語で表現しました。

 では、脱構築の例は、どう言えばいいのでしょう。OO主義を批判して、『OO主義はよくない!』と叫ぶのではなく、『OO主義はいいね!』と言いながら、OO主義の意味する中身を変えてしまう、といったことではないかと思います。・公共事業を批判するのではなく、公共事業の意味する中身を変えてしまうようなことです。

 私たちは、すでに文化の仕組みの内側に入っています。だから外に出たと思っても、それは幻想かもしれません。この時代の、この世界の常識の枠からはみ出して考えることはできないのかも知れません。・脳のある部分の役割が何であるのか表現しようとしても、今流通している表現でしか考え付きません。右脳は空間認識と感覚をつかさどり、左脳は理論と言葉をつかさどる。そうでしょうか。右脳は新奇性をつかさどり、左脳は慣例をつかさどると表現し直されたりしています。

 ・『ねぇ、仕事が大事なの、私が大事なの?』という質問には、そのまま答えず、二項対立の構造自体を崩すように答えるのが賢い答え方ですネ。

  ・ジャック・デリダと言えば、“差延”と“脱構築”を押さえておけばいいでしょう。

 ・は僕の独自の理解・見解・例です。
 

 よく使われる哲学的表現に、自分と「自分」があります。「」なしの自分は実際の自分で、カッコつきの「自分」はOOだと思われているレッテルを貼られた自分です。他人がレッテルを貼るときもあれば、自分でレッテルを貼るときもあります。同様に、ものと「もの」も使い分けられます。

 私たちが考える「もの」とは、常にそれ自身から遅れています。しかし、私たちは、「もの」はつねにひとつの同じ「もの」だと考えてしまいます。デリダはこのように「もの」が安定して目の前にあるように見なす態度を批判し...続きを読む

Qデリダの差延はもっと応用できない?

デリダの差延の概念で、リベラリズムとリバタリアニズムの違いとか、新自由主義と新保守主義の違いとか、そういう政治・経済用語の微妙な違いを説明することはできませんでしょうか?

Aベストアンサー

差延の概念はデリダのフッサール批判である「声と現象」で初めて言われた考えで、差異と時間的なズレを合成したものです。
差異はすでに言語学者のソシュールが言語の意味は「語と語とのネガティヴな差異から生じる」と言っていたことに由来し、ソシュールのいう言語の性質、パラディグム(範型)とシンタグム(文法)の内のパラディグムに相当し、1つの語の意味はその家族類似の他の語との差異によって、生じる、ということ。
たとえば、猫は犬や猿や他の動物との差異によって成り立っているということです。
デリダはフッサールが自我は根源的な声から生じると言ったのに対して、意識と意識の差異から生じる、しかも時間的なズレから生じると言って批判しました。
言い換えると自我という実体は存在せず、それは「差異の戯れ」なのだということ。

このようにデリダの差延はフッサールをはじめとする近代哲学の根源が存在するという思想に対する批判として持ち出されたもので、リベラリズムとリバタリアニズムの違いとか、新自由中主義と新保守主義の違いに応用できるものではありません。
もともと哲学の中の自我とか心に対する批判として言われたもので、それを政治・経済問題の微妙な違いを説明するのに使えるとは思えません。

もし、使えるというのなら、デリダの「声と現象」をぜひ読んでみてください。
たぶんそれを読んだなら、あなたのイメージする差延とはまったく違うことが分かると思いますよ。

差延の概念はデリダのフッサール批判である「声と現象」で初めて言われた考えで、差異と時間的なズレを合成したものです。
差異はすでに言語学者のソシュールが言語の意味は「語と語とのネガティヴな差異から生じる」と言っていたことに由来し、ソシュールのいう言語の性質、パラディグム(範型)とシンタグム(文法)の内のパラディグムに相当し、1つの語の意味はその家族類似の他の語との差異によって、生じる、ということ。
たとえば、猫は犬や猿や他の動物との差異によって成り立っているということです。
デ...続きを読む

Qジャック・デリダ

デリダがアメリカに移ったのはいつでしょうか?
(本当に移ったかどうかも不正確なのですが)
分かる方がいれば教えて下さい。

Aベストアンサー

 nabe0さんの言われる通りです。デリダの活動拠点は基本的にフランス。ただ、非常にフットワークの軽い人であることはたしかです。
 アメリカでの活動に絞れば、最初の訪米が1966年、ジョンズ・ポプキンス大学におけるコロキウム「人間諸科学についての批評の言語」への参加です。そして68年頃から、欧米を又にかけて飛び回り始めます。イェール大学で教え始めたのが75年。「イェール学派」が形成され、79年にはその活動の成果として『脱構築と批評』が出版されます。その後でも、何度も渡米しているようです。
 彼が足を向けた場所はアメリカだけではありません。83年と84年には来日していますし、イスラエルにもラテン・アメリカ諸国にも行っています。81年にはチェコの反体制知識人たちと秘密セミナーを行い、帰る際プラハ空港で逮捕されるという武勇伝(?)まであります。
 そういうことですから、「移って」はいません。アメリカには何度も「行って」います。

Qいつ死ねば人は満足か?

いつ死ねば人は満足か?

先日、アンケートのカテで興味深い質問がありました。
「今すぐ死ぬ」のと「未来永劫生きる」のと、どちらを選ぶか?
と、いう質問です。
あなたならどちらを選びますか?

僕が思うに、この世が楽園であれば、誰も後者を望むのでしょうが、
この世はそうではないのでしょう、わりと、今すぐ死ぬ、の回答が多かったように思います。
しかしこれは究極の選択であるため、「今すぐ死ぬ」も当然ながら嫌でしょう。


では「未来永劫生きる」のも嫌、「今すぐ死ぬ」のも嫌であれば、いつ死ねばいいと
思っているのでしょうか?
それとも、人には生きるも死ぬも嫌というような矛盾があるのでしょうか?

ちなみに僕は、いつ死んでもいいと思っていますが、「今すぐ死ぬ」のは嫌です。

Aベストアンサー

 ANo.4において私が偉そうに、【人間の決意したり、決定したり、希望したりする問題の外に出てしまった人】といいましたが、このことでご誤解されると困りますので、一応補足させていただきます。
 このような人が何か現実にいるようにいっていますが、そう簡単な事ではありません。
 イエス・キリストさまも、十字架で【主よ、あなたは私を見捨てられたか】と肉体を出るときに仰せられたと伝えられております。
 同じような事を、孔子も晩年に発したとされています。『子曰。鳳鳥不至。河不出圖。吾已矣夫』(拙訳:鳳鳥は至らず(こない)。河は圖をださない。あぁ、やんぬるかな。天我を滅ぼせり)
 (投稿しているこの私としては、孔子の場合、天に後の事を託している感懐を含んだことばだと存じますが。)
 そして私の40年以上精進しているインド哲学でも、もう神域になっている大先生がまは・サマディ(直感的にお呼びが分ると、座禅の姿勢で三回周り、一定の呼吸と技法を行って、最後に呼気を吐いて、肉体を去る)に入る前に、肉体を出る、マハ・サマディを嫌悪するような素振りをされたとの事です。

 釈迦は涅槃入滅のときにどうだったかの事情はあまり存じません。
 釈迦もイエス様も、そういう方々が突然、育ってくるはずはありません。ですから、そういう方が私たちの眼前にお出でになられたということは、人の前にでることのない、こういう方々と同じかそれ以上の方々が現存しておられたことを示します。
 ですからそういう、姿を見せなかったそういう方の中には、【人間の決意したり、決定したり、希望したりする問題の外に出てしまった人】もおられたと存じます。
 インドの哲学でも、そういう人が一人出る為にはそれ以上の人が二百数十人現存してきたのである。
 釈迦の前には釈迦となる人が二百数十人おられるのである。といわれています。そういう人は【人間の決意したり、決定したり、希望したりする問題の外に出てしまった人】だと存じます。
 普通の人は無理です。rin00077 さんと同じです。
 
 付言(関連):rin00077 さんの質問に関心を持ったのは、執着と嫌悪をことばにされているからで。
 執着=ふっきれないこと、はなれられないこと。
 嫌悪=きり離れたい事。
 これは物事の表裏となっており、普通の人間の意識原則の形成の重大なファクターです。
 そういうことから、ひと事、拙い投稿をさせていただきました。

 ANo.4において私が偉そうに、【人間の決意したり、決定したり、希望したりする問題の外に出てしまった人】といいましたが、このことでご誤解されると困りますので、一応補足させていただきます。
 このような人が何か現実にいるようにいっていますが、そう簡単な事ではありません。
 イエス・キリストさまも、十字架で【主よ、あなたは私を見捨てられたか】と肉体を出るときに仰せられたと伝えられております。
 同じような事を、孔子も晩年に発したとされています。『子曰。鳳鳥不至。河不出圖。吾已矣夫』...続きを読む

Qわかりやすい「デリダ」の入門書ありますか?

できれば文庫本で出てればいいですね。
単行本でもいいです。
求めるところは「わかりやすくデリダの思想を一通り俯瞰したい」
ということです。

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

まず、参考URLで未来社のサイト「デリダの部屋」をご紹介。
ここでデリダに関する文献、サイトが紹介されてます。

本は
上利博規:デリダ 人と思想(清水書院)
高橋哲哉:デリダ 脱構築(講談社)
かな。

アマゾンにレビューがあるんで、ぜひ参考に。

参考URL:http://www.miraisha.co.jp/derrida/

Q「いつやるか?」本当はいつですか?

ケンタッキーのカーネルサンダースは老人になってからあのチキンの味付けを考案し、何度かの失敗を乗り越えて成功を手にしました

その後のインタビューで

「私は年を取ってから、やり始めたのでとても大変だった、皆さんは若い今のうちから始めて下さい」

と、メッセージを送っていました

今流行っている「今でしょ」も、自己啓発本も、人生の成功者の皆さんも、自分自身でさえも、「やり始めるのは早ければ早い方が良い」と分かっているにも関わらず、何故やらない人が大多数になってしまうのだと思いますか?

カーネルサンダースはあんなにも成功した人物で、ヤル気の素質というものがあるなら間違いなく持っていた人物だと思います。それでも、ああ言うメッセージを送ったと言うことは

若い頃は大多数の人間と同じく「やった方が良いのは分かってるんだけどね・・・」

と、思いつつもグズついていたりした時もあったのだと思います(勝手な推測ですが・・・)


では、繰り返しになりますが、人間が本当に動き出すときというのは、一体いつなのでしょうか?

合理的で正解なのは「今でしょ」なのは分かりますが、本当に行動にうつす時、うつせる時です


私は「これはいけるぞ!」と確信めいたものに出会えた時、簡単に言えば「ご褒美までの道筋が見えたとき」にやっとやり始めるのかなと思いました

そこまで行けば後は道のりが大変だろうとも、やればいいだけですから

実際のところは、一体どうなのでしょうか?

皆様の意見お聞かせ下さい

ケンタッキーのカーネルサンダースは老人になってからあのチキンの味付けを考案し、何度かの失敗を乗り越えて成功を手にしました

その後のインタビューで

「私は年を取ってから、やり始めたのでとても大変だった、皆さんは若い今のうちから始めて下さい」

と、メッセージを送っていました

今流行っている「今でしょ」も、自己啓発本も、人生の成功者の皆さんも、自分自身でさえも、「やり始めるのは早ければ早い方が良い」と分かっているにも関わらず、何故やらない人が大多数になってしまうのだと思いますか...続きを読む

Aベストアンサー

何かしら、内面が変化したときだと思いますね。

やろうやろうと思っていても、今まで通りの自分では、今まで通りの行動しかできません。
しかし、自分自身の内面が変化してしまえば、自然と行動ができる様になっています。

行動は全て、自分の内面が、外に表れたものだからです。

自分自身が変わること無しに、行動だけを変えることは、決してできません。
そして、自分を変えることには、非常な困難が伴います。
ですから、みんな、容易に行動を変えることができません。
しかし、自分を変える事に成功すれば、行動も変わるのは至極当然の結果だと思います。

ところで、自分を変えるにはどうすれば良いのか?
自分を変えるには、何かしら、今までと違う行動をするしかありません。
堂々めぐりですね。
自分を変えるための行動とは、ホンのささいな事でもいいので、今までと違うことをやってみる事です。
行動を変えることを習慣にできれば、しめたものです。
それをいつから始めるか?
それこそ、「今でしょ」、です。
非常に大変なことを、今始めなくてもいいです。
ちっぽけなことでいいので、今までと違うことを、今、やってみるのです。
それを続けていると、ある日、自分が昔とは大きく変わってしまっていることに気がつきます。
そして、以前には思いもよらなかった行動が、自然とできる自分に驚くことになるのです。

何かしら、内面が変化したときだと思いますね。

やろうやろうと思っていても、今まで通りの自分では、今まで通りの行動しかできません。
しかし、自分自身の内面が変化してしまえば、自然と行動ができる様になっています。

行動は全て、自分の内面が、外に表れたものだからです。

自分自身が変わること無しに、行動だけを変えることは、決してできません。
そして、自分を変えることには、非常な困難が伴います。
ですから、みんな、容易に行動を変えることができません。
しかし、自分を変える事に成功すれば...続きを読む


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