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ルーズベルトは日本と戦争したかったので、ハルノートなどで日本を挑発して日本から開戦させたという話がありますよね。実際に当時の議会は戦争反対で、ヨーロッパでイギリス、フランスが痛めつけられていてもアメリカから開戦していません。

それなら日本がイギリス、オランダ、中国とだけ戦っていれば、アメリカから開戦できなかったのではないかという気がします。ルーズベルトがどんなに開戦したくても議会に反対されたらできないと思うので、状況を見ながら必要ならロビー活動などをしながらアメリカを敵にしないように注意していればよかったのではないかと思うのですが。

イギリス、オランダ、中国相手なら実際に日本は勝っていますから、シンガポールが落ちた所で有利な講和に持ち込めると思っているんですがどうなんでしょうか? それで蒋介石援助のルートを遮断してしまえば、中国との戦争も時間の問題となり、大東亜共栄圏ができて日本が盟主になれたと思うんですが。

A 回答 (10件)

 <ルーズベルトは日本の行動に対して反応していますけど、あくまでも政治的な行動だと思います。

宣戦布告は議会の承認が必要だったと思いますが、ヨーロッパでイギリス、フランスがナチスドイツにぼこぼこにされているにもかかわらず参戦できなかったのに、アメリカにとってはヨーロッパより重要度が低いと思われるアジアでの参戦を議会が承認するという理由がわかりません。ルーズベルトがヨーロッパやアジアに介入したくても当時の議会はアメリカ伝統の孤立主義だったのではありませんか?>

 アメリカにとって、アジアよりもヨーロッパのほうが重要度が低いという判断は、どこから来るのでしょうか。

 第一次大戦前までに、列強は世界中の地域をその勢力圏に組み込もうとしました。
 アメリカのモンロー主義は、ヨーロッパの列強のしのぎ合いには加わらず、基本的には『どの国とも商売をして儲けます』ということです。(ヨーロッパの列強同士はつぶし合いをしてくださいということ。)

 それに対して、アメリカ大陸、特に中南米のスペイン・ポルトガルの植民地であった地域に対して、「アメリカが経済支配するから手を出すな」という主張であるわけです。

 アジアに対しては、列強がほとんど分割を済ませており、残っていたのが、中国・タイ(イギリス・フランスの緩衝地)・イラン(イギリスの勢力下)三国だけです。
 人口が巨大で、面積も広い中国は、唯一残った『お宝』で、どの列強も自分のものにしようとしていたのが、第一次世界大戦前の状況です。

 第一次世界大戦中、日本以外の列強は全てヨーロッパでの戦争に巻き込まれ、日本だけがヨーロッパ戦線にかかわることなく、ドイツの中国権益を奪い取ることができ、更に対華二十一カ条の要求を行いました。

 これが原因となって、第一次世界大戦後、九カ国条約がワシントンで締結されました。
 九カ国条約の要旨
・中国の門戸開放
・中国に対する諸外国の機会均等
・中国の主権尊重・領土保全

 諸外国の対等をうたった条約ですが、実質的に第一次世界大戦後、世界最大の経済大国・債権国となったアメリカは、中国市場で独り勝ちの様相を示し始め、中国に対する経済支配を進めていました。

 アメリカとの中国市場での経済競争に苦戦していた日本は、陸軍の現地指揮官の独断を追認し、日華事変を継続することで、軍事力でその状況を変えようとする形となりました。

 ですから、アメリカにとって中国は、ヨーロッパ以上に美味しい市場だったのです。(ヨーロッパ列強は戦争さえなければ、自国の経済は自国で賄えました。ですから、しっかりした競争相手がいるヨーロッパは、それほど儲かる市場ではなかったのです。)

 第一次世界大戦に参戦し、多くの若者を戦死させたアメリカには、強い『厭戦気分』がありました。

≪参考≫
 イギリス・フランスにも同様の厭戦気分があり、ナチスドイツの領土拡張を認め続けた揚句、結局戦争に突入しました。
 
1935年
  1月13日 ザール地方、ドイツ領に復帰
  5月16日 ドイツ再軍備宣言
 10月21日 ジュネーブ軍縮会議、国際連盟脱退

1936年
  3月 7日 ラインラント進駐。
1938年
3月13日 オーストリアを併合
  9月29日 チェコスロバキアのズデーテン地方を獲得
1939年
3月15日 チェコスロバキアのボヘミア・モラビアをベーメン・メーレン保護領として保護領とする(チェコ併合)。
3月22日 リトアニアのメーメルを併合。
8月23日 独ソ不可侵条約締結。
9月 1日 スロバキアと共同してポーランドに侵攻。イギリス・フランスがドイツに宣戦布告し第二次世界大戦勃発

 イギリス・フランスが、それぞれの領土拡張策に対して、具体的に手を打たなかったため、ドイツの領土拡張が繰り返され、戦争に突入しました。

 アメリカ・イギリス・フランスともに厭戦気分が強いのですが、イギリス・フランスが的確な手を打たず、ヒトラーの動きを増長させたのに反して、アメリカのルーズベルトは日本の動きに対しては、必ず何らかの手を打っています。

<想定>
1.真珠湾攻撃を行なわないまま、イギリスに宣戦布告をして、シンガポールを占領する。

 これに対して、ルーズベルトの選択は
A.日本と開戦決断
B.オランダ領インドネシア・イギリス領インドに進駐・艦隊派遣

 ルーズベルトは開戦が必要と判断するでしょうが、議会がそれでも認めなかった場合、Bの選択を必ず取るでしょう。日本がインドネシアの石油を手に入れれば、対日石油禁輸に意味がなくなってしまいますから。

 この時点で、アメリカは完全に臨戦態勢に入り、フィリピンの要塞化・兵力増強、海軍の奇襲攻撃対策も実行されるはずです。

 つまり、イギリスと開戦すればインドネシアの石油は手に入らないか、準備の整ったアメリカ陸海軍と真正面からインドネシアで戦うことになります。

 現実の展開としては、インドネシアの石油を手に入れるために、アメリカ海軍を壊滅させる目的で真珠湾奇襲攻撃が行われ、アメリカ海軍の主力戦艦を壊滅し、インドネシアの石油を手に入れました。

 どちらのストーリーのほうが、日本に有利と考えられるでしょうか。
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 対米戦争を仕掛けたのは日本側なので、日本側の方針を精査してみるといいと思います。

歴史研究に親しむためには、まず一次史料に親しむことからです。

 ナチスドイツによりフランスが降伏に追い込まれるという状況を受け、日本政府(大本営政府連絡会議)は「世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱」(1940.7.27)を決定します。ここでは「南方問題解決のため、好機を捕捉し武力を行使すること」「武力行使に当たりては戦争対手を極力英国のみに極限するに努む。但し此の場合に於ても対米開戦は之を避け得ざることあるへきを以て之か準備に遺憾無きを期す」とされており、この段階では質問者さんの言う「アメリカ抜きの開戦」に日本政府も希望を残しています。

 ところが、約1年後、独ソ戦の開始を受け、日本政府は「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」(1941.7.2)を御前会議で決定します。ここで初めて資源獲得を木j的とした南方進出のため、「対英米戦準備を整え」ること及び「対英米戦を辞せす」ということが決定されます。

情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱(抄)
帝国は其の自存自衛上南方要域に対する必要なる外交交渉を続行し其の他各般の施策を促進す之か為対英米戦準備を整え先つ「対仏印泰施策要綱」及「南方施策促進に関する件」に拠り仏印及泰に対する諸方策を完追し以て南方進出の体制を強化す帝国は本号目的達成の為対英米戦を辞せす
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%83%85%E5%8B%A2% …

 つまり、この段階で日本側は南方進出することが対米開戦につながるいう認識に変わっていたわけです。質問者さんの考える「イギリス、オランダ、中国とだけ戦っていれば、アメリカから開戦できなかったのではないか」というプランは考慮だにされていなかったということです。
 これをどちらが結果として正しかったかを、後世の私たちが判断するのは難しいですが、おそらくこれに関して言えば当時の判断の方が正しかったでしょう。つまり「アメリカにはこちらから仕掛けさえしなければ向こうから戦争を起こすことはない」というのは、実際のところなんの根拠もない希望的観測にすぎず、であれば現実的脅威である真珠湾の太平洋艦隊と在フィリピン米軍を撃破しなければ南進の側面を常に米軍の脅威に脅かされ続けるわけで、「すぐ隣に敵性勢力がいてもたぶん何もしないから安心して進め」などという理屈は、今の自衛隊には言えても、当時の感覚からすれば夢想外のことだったのではないでしょうか。

 また、「当時の議会は戦争反対で、ヨーロッパでイギリス、フランスが痛めつけられていてもアメリカから開戦していません」とありますが、実際には1941年4月以降、北大西洋海域で米海軍とUボートはなんどか交戦状態に陥っており、また、本国をドイツが占領したデンマーク領のアイスランドを米軍が占領したり、独戦艦ビスマルクの追跡に協力したりと、厳正な中立を維持するどころかナチスドイツとは事実上の戦争状態に陥っていました。日米交渉ではアメリカは三国同盟の有名無実化を主張してきますが、アメリカは戦争をするかしないかは別として反枢軸の立場では概ね国論は統一されており、このあたりからも当時の日本の指導部が「議会が反対するから開戦できまい」などという甘い判断ができなかったということです。

 太平洋戦争の開戦経緯に関して本格的に勉強されたいのであれば、以下の書籍がお勧めです。いずれも一次史料ですので、当時の日本政府指導部の考え方を貴方なりに読み解いて分析してみてください。残念ながらネットで披瀝される意見は資料の査読を経ない主観的意見が多いので、どれが正しいのかよくわからなくなることがあります。
○外務省編「日本外交年表竝主要文書」(原書房)
○角田順ほか編「太平洋戦争への道 別巻資料編」(朝日新聞社)
○参謀本部編「杉山メモ」(原書房)
○防衛庁防衛研修所戦史室・戦史叢書76「大本営陸軍部・大東亜戦争開戦経緯(5)」(朝雲新聞社)
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真珠湾攻撃をせずに南方資源地帯攻略に初期の行動を一本化するということですね。


それであっても他の回答者の方々のおっしゃる通りおそらく開戦は避けられなかったでありましょう。

ただし,史実と比べていくつか日本側に有利になる点は増えるかと思います。

つまりアメリカから宣戦布告させることが出来る。
真珠湾で世論が一本化したアメリカではなく
ある程度日本との戦争に対してアメリカ国内で温度差のある状態で開戦になりますから
「だまし討ちの卑怯なジャップをやっつけろ」
でまとまった史実のアメリカとの戦争よりもまだましな状態になるかも知れません。
うまくすれば確かに早期講和の目も出てくるかも知れません。

ただし講和に持ち込むと言っても「大東亜共栄圏」などは全く無理です。
資源地帯は帝国領土に,,なんてのんきなことを言っていれば
やはり物量の前にじり貧どか貧に陥っていくでしょう。

初期の戦闘で勝ち得たものをすべて引き換えにして
やっと泥沼の本土決戦あるいは原爆投下を回避することが出来るという所でしょう。
当時の指導者は戦闘で得たものを質草に平和を買うという決断は
絶対に不可能でしょうから、やはり行く所まで行かないとだめ。
短期決戦に失敗し長期化してしまい帝国敗北
という目がでるでしょうね。
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<参考>


 アメリカのエール大学歴史学教授であった「朝河貫一博士」は、日米間の摩擦を危険視して、日本が対米戦争しないように努力されたようです。

朝河貫一顕彰会
http://www20.big.jp/~asayale/event.htm

 アメリカは、日本の動きに対して的確に反応を示しています。
・1940年6月22日
  フランスが国土の大半をドイツに占領され、ビシー政府がドイツと休戦。
・1940年7月2日
  日本、フランス領インドシナ進駐を決定。
・1940年7月25日
  アメリカ、在米日本資産を凍結。
・1940年7月28日
  日本、フランス領インドシナへ進駐開始。
・1940年8月1日
  アメリカ、日本への石油輸出禁止
  当時、日本の産業のエネルギー源は石炭でした。石油は急激な速度の切り替えが必要な軍艦(当然、商戦の動力は石炭です。)や、航空機・自動車の燃料に使われ、その半分以上が軍用で、民間の消費は全石油消費の半分以下でした。

・1940年9月27日
  日独伊三国同盟成立
  この時点で、ドイツとイギリスは戦争中です。
  アメリカは、フランクリン・ルーズベルトが「アメリカは民主主義の兵器廠(工場)になる」と発表し、イギリスへの援助を公然と表明していました。この時点で、ドイツと同盟を組む以上、アメリカとの敵対関係は歴然としています。

・1940年10月
  米大統領選挙でフランクリン・ルーズベルトが三選。
  アメリカの大統領の任期は二期までです。三期目に入いっているのは既に戦時体制に突入しているからです。


 質問者さんの想定は
1.この状態で真珠湾攻撃を行なわないまま、イギリスに宣戦布告をして、イギリスの植民地を武力で手に入れるわけです。
2. 更に、ドイツに本国を占領されたオランダの植民地を占領しインドネシア産石油を手に入れて、アメリカの石油禁輸を無効化するわけです。

 戦争開始前、ヨーロッパの戦争によって空白化したヨーロッパ諸国のアジア植民地に、日本が何かのアクションを起こすたびに、常にリアクションを取ってきたアメリカが、更なる1・2に対して何らのリアクションも取らないということがあり得るでしょうか。
 
 また突如として、それまで日本の対外軍事進出のすべてに対して反対のリアクションを取ってきたアメリカが、突如として今までの全てを認めて講和するということがあり得るでしょうか。

 また、対米戦争がなくとも対中戦争だけで戦線が泥沼化しています。アフガニスタンやベトナムの例でもわかるとおり、現代のアメリカの軍事力を持てしても不可能なことが、当時の日本の軍事力で可能なはずがありません。
 また、アメリカの人口>>ベトナム・アフガニスタンなのです。
 日本の人口<<中国の人口である以上、無理です。

<当時の日本経済>
 真珠湾攻撃をする直前の、日本本土・満州・中国大陸にある兵力は約190万(支那事変後に急激に増え、満州事変前の4倍になっています。参考:現在の日本=人口12000万の陸上自衛隊約16万、中国=人口13億の人民解放軍陸上兵力170万{誤差は大きいかもしれません}程度。)は、とんでもない数字です。
 (陸軍兵力の急膨張で、士官学校出身の職業軍人は平時にはありえないような出世をどんどんしていったため、陸軍内部に日華事変の停止・撤退を望む声が盛り上がることはありませんでした。)
 対米、南方作戦のために、その後も更に兵員の数だけは増えていき、終戦時には、更に増え650万だったそうです。女性・子供・老人を除外した成年男子に対する軍人の割合を考えれば、国家経済が維持できるはずもありません。

 これだけの兵士を、生産を行わない「軍人」として動員したため、日本の戦前の各種工業生産力は1937年をピークに減少・横ばいを始めます。
 さらに、1938年には国家総動員法・1940年には食料の配給制が国内で始まります。

 1941年12月にアメリカとの戦いを始める以前に、中国との泥沼の戦争で、国力の大きな消耗が起き、顕著に国民生活を圧迫しているのです。

<中国との戦争の実態>
 明治維新以後、日本は国内統治システムを完全に作り上げ、富国強兵を徹底して「軍」を編成しました。
 それに対して軍閥戦争が終わったばかりの当時の中国には、同程度の戦闘力を持つ精鋭部隊は、蒋介石(日本に軍事留学し日本陸軍の将校だった経験があります。)の率いる部隊だけで、日本軍の10分の1以下の兵力しかありません。
 この虎の子の精鋭部隊を初戦で日本軍と全面衝突して戦わせても、壊滅してしまい、以後は全く抵抗ができなくなります。

 そこで、蒋介石の率いる中国側は、侵入した外国軍より弱体な軍備しかない場合の、大陸国の伝統的防衛戦術である主力温存策を取りました。
 具体的には、急造の二線級部隊で人数を膨らませ、日本軍よりも多数の兵力にし、精鋭部隊とともに日本軍と戦いますが、日本軍の攻勢で戦況が不利になると、徹底抗戦せずに戦力を温存して内陸部に撤退します。
 ナポレオンがロシアに負けた時と同様に、相手に軍需物資を消費させながら、敵軍主力を補給の届かない内陸部に引きずり込んでいく作戦です。

 中国は絶対に負けず、日本は勝てない戦術で、陸軍参謀本部の石原大佐(満州事変の首謀者の一人)などは、この戦術を中国が取るので戦いが泥沼化するとして、対中戦争を極力回避しようとしましたが、現地派遣軍は戦闘に勝っているので、撤退することなく内陸部にどんどん入り込んでしまいました。
 その結果、食糧など補給に苦慮した日本軍では、住民からの軍票による食料徴発で、太平洋の島のような飢えには苦しまなかったものの、捕虜や住民の生存を保証することはできませんでした。(住民の恨みを買ってしまうので、占領地の治安を確保できない。)

 また、民間人を駆り出して作った訓練の行き届かない中国の二戦級部隊は、銃の撃ち方などは習っているものの、戦術的部隊行動などは実戦の場では満足にできません。訓練の行き届いた精鋭部隊がさっさと撤退する後に、取り残されて大量に捕虜となり、日本軍のなけなしの食糧を食いつくすこととなります。
 そのうえ、少し前までは普通の民間人でしたから、敗走となると軍服を脱いで民間人となってしまうものも続出し(中国人同士の軍閥戦争の時はそれで何の問題もなかったのです。)、兵士・民間人・便衣兵の区別が極めてあいまいになってしまいました。 

日本側の苦悩
 侵攻した軍は、基本的には「占領地の治安維持・民間人保護」をしないと、占領地を確保したことになりません。
 しかし、日本軍の占領地は、汪兆銘が南京に立てた親日政権の支配地ということになりましたが、日本軍の「食糧徴発」などで食べる物のなくなった住民に支持されることがなく、確保できない占領地となっていきました。

→このように、泥沼に入り込んでから撤退するのでは、「日本の負け」となってしまいます。
 負けとなっても撤退するしか、傷を浅くする方法がありません。
 アフガニスタン・ベトナムでは、ソ連やアメリカが撤退を余儀なくされました。

戦争の結果
 精鋭の主力軍を失うことなく戦い続けた蒋介石は、その軍事力を背景に「国民党」のトップとして、戦争後の政府の代表者となりました。
 しかし、大した兵力を持たず装備も整っていなかったので日本軍の占領地で便衣兵としてゲリラ戦を行うしかなかった「共産党」との内戦が始まると、『装備の優秀な国民党軍は逃げて戦ってくれなかった。満足な武器がなくても共産党軍は戦ってくれた。』という民衆の気持ちが大きく働いて、国民党は国民の支持を失い、日中間の戦争のなかった台湾に逃げていかざるを得なくなりました。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

ルーズベルトは日本の行動に対して反応していますけど、あくまでも政治的な行動だと思います。宣戦布告は議会の承認が必要だったと思いますが、ヨーロッパでイギリス、フランスがナチスドイツにぼこぼこにされているにもかかわらず参戦できなかったのに、アメリカにとってはヨーロッパより重要度が低いと思われるアジアでの参戦を議会が承認するという理由がわかりません。ルーズベルトがヨーロッパやアジアに介入したくても当時の議会はアメリカ伝統の孤立主義だったのではありませんか?

お礼日時:2009/09/01 15:53

1930年代の世界恐慌の時に日本はそれほど影響を受けずに欧米に輸出を続けました


貿易摩擦があったのです
欧米は日本を封じるために経済封鎖を行いました
具体的には日本への資源の供給を絶つ政策を採ったのです
アメリカを叩かなければ日本は疲弊するのです
アメリカ始めた日本封じ込め政策だからアメリカが講和に応じることはありません
このたびのイラク戦争でもそうですが不況打開のもっとも効果的な方法は戦争だというのがアメリカの哲学です
軍需産業が送り込んだ副大統領、石油メジャーが送り込んだ国務長官
アメリカの意図は見え見えです

一部の戦闘結果は戦争の勝敗に影響しません
シンガポールを取ったくらいで連合国が講和に応じるわけがありません
なぜなら対日本戦では連合国のどこも日本からの脅威を受けていないのです
また日本の経済力は底が浅いので無条件降伏をしない限り敵は引き下がりません

この掲示板でたびたび出ることですが
あれがあったら、ああしていたら、これさえ起こらなかったら勝てたのに
妄想です
全体的な動きの中の一部が変わっても流れは変わりません
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時代の流れでした。


日本は明治維新で欧米を見習って強い国になりました。
そして欧米を見習って他国を従わせようとしました。アメリカは日露戦争あたりまでは日本を可愛いと思っていましたが、満州国を作ったり中国に攻め込んだりしたので神経をとがらせました。特にナチスドイツと同盟を結んだのは致命的でした。日本はアメリカの敵と見なされたのです。そしてハルノート・・・
ハルノートはまあアメリカの宣戦布告でした。日本は道を誤ったと思いますが、歴史の流れでしたので仕方がないです。多くの日本人及び近隣諸国の民の血が流れました。合掌。
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ちょっと前に、アメリカはフセイン・イラク(当時)に対し「お前は大量破壊兵器を持っている。

大人しく差し出せ。差し出さねば戦争だ」と迫りました。当時のフセイン大統領は「そんなもんは持っていない」と反論しますが「隠すとはふてえ野郎だ」といって、とうとう攻め込んでしまいました。米国民はこれを熱狂的に支持します。戦争に慎重な意見を述べた人たちは軒並み「反愛国者」のレッテルを貼られてしまいます。
で、結局のところ「大量破壊兵器ってなかったね」ってことがわかります。つまり、根も葉もない言いがかりをつけて戦争しちゃったわけです。
また、1964年にアメリカ軍の軍艦が北ベトナム(当時)の魚雷艇の攻撃を受けたと発表し反撃、これを口実にアメリカはベトナム戦争に本格介入、いわゆる北爆も開始しました。世にいうトンキン湾事件です。しかし後にこの事件はCIAによってねつ造された事件だということが発覚します。
他にもあります。1990年の湾岸危機の際、アメリカ議会でクウェートから脱出してきたという少女が涙ながらにイラク軍の蛮行を訴えました。彼女は自分の目の前で弟がイラク兵によって惨殺されたといったのです。当初イラクへの介入を嫌がっていたアメリカ国民はこれを見て激高、世論は一気に戦争支持へと傾きます。しかし、実はその少女は「在米クウェート大使」の娘で、湾岸危機発生当時はニューヨークに住んでいたのです。

アングロサクソンは本気になるとそういうことをやる人たちです。つまりアングロサクソンが本気で「戦争をする」となったらねつ造でもなんでもいかなる手段をとっても戦争に持ち込むんです。

太平洋戦争直前に、日本軍はインドシナ(今のベトナム北半分)に進駐します。当時の日本のインテリはみな(軍部も含めて)「ここがギリギリのライン」と思っていました。しかし、これに対してアメリカはくず鉄と石油の禁輸を打ち出します。ここで日本は衝撃を受けました。たぶん、何人かの人は「これはもうアメリカが本気で戦争に持ち込もうとしている」と感じたと思います。

対イギリス、オランダに限定して戦争を始めたとしても、いずれ数年でアメリカは介入したでしょう。おそらく口実はフィリピン沖でアメリカ海軍の艦船が日本軍によって攻撃を受けたとかそういうことになったと思います。
そうなれば、史実と違いフィリピンは米領ですし、グアムなども日本は占領していません。旧英領、オランダ領の占領と維持のために多くの艦船と部隊が必要ですから、フィリピンやグアムを占領するための艦隊と地上部隊は限定されたものになるでしょう。またフィリピンから出航した潜水艦部隊が史実のように通商破壊戦を行えば史実以上のハイペースで南方補給路線は干上がったと思われます。

当時のアメリカにとっての最大の敵はナチスドイツであり、日本は「それが終わった後に片付ければよい相手」でした。実際問題、対日戦では対独戦に勝利するまでは反撃をせずに戦線を維持するのが当初の方針でした。日本が最大版図としたあたりのラインまではアメリカとしても許容範囲内でしたし、あれ以上は日本の補給路では限界だったでしょう。アメリカはミッドウェーまでは落ちてもいいと思っていたんです。
ですが、陸軍ばかりに豊富に予算が回ることに対する海軍のやっかみと、陸軍の稀代の軍人政治家マッカーサーの政治活動で対日戦も反撃せざるを得なかったんです。1944年のフィリピン上陸までは太平洋戦線にいたアメリカの地上部隊は第一、第二海兵師団くらいでした。
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質問者様へ ハルノートを本当に読んだのですか? 


もう少し勉強しましょうね! ハルノートという言葉だけを、聴いて理解したように錯覚するのは危険ですよ! 当時米国が日本産業の弱点を調べ尽くして、米国との戦争に追い込むために、書かれたのがハルノートです。
歴史を点で理解しようとしてはいけません、小学生ではないのだから、せめて線としてみてください(最低限という意味で)。

もう一度、質問者様が、調べなおしてから、ご質問ください!
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この回答へのお礼

wikipediaで普通に要約を見ることができますが、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AB% …
原文でないとまずいですか?

重要な事は、日本がこれに応じないでイギリスと戦争を始めたとして、アメリカが本当に宣戦布告をするかどうかです。宣戦布告できないのなら、日本から真珠湾のようなことはやる必要はなかったのでは? ということです。

お礼日時:2009/08/31 23:30

前回のまったく同じ質問で


皆の「無理」という意見に
>考えが甘かったようです
と納得しているようですが
この上何を?

この回答への補足

その後いろいろ調べたら、ルーズベルトは議会の反対で開戦することができなかった、という情報を見つけましたので、蒸し返しました。

補足日時:2009/08/31 22:46
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もし、戦場で勝利しても、それだけの勢力を保持できるだけの兵力が


日本にはありませんでした。兵力分散は各個撃破の的になるだけ。

いい加減、無意味なifを考えるのはやめた方がいいのでは?
せめて、未来について考えましょう。過去は変えられませんから。
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この回答へのお礼

歴史のifを考える事は将来同じ間違いをしないために非常に重要な事だと思います。

お礼日時:2009/08/31 21:18

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