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現代では、なまじ辞書などデータベースが潤沢に身近になったせいで、
新たな慣用表現が生まれにくい、または既に大多数の人が変遷した意味で使っている慣用表現を「誤用」と斬り捨てられるようになっています。そのせいで現代では「言葉が呼吸し辛くなっている」ように私は感じます。

現代においては、たとえば「敷居が高い」は、「その場所の程度が高すぎて入り辛い」、「確信犯」は「わかってやっている」という理解の方が、自然で、しかも使い道も広く感覚に馴染みます。
現に、大半人々が無意識にこれらの意味が正しいと感じて用いています。
本来の意味の方がむしろ使い辛かったり、いまいちピンと来なくなったりした慣用表現は、時代に合わなくなったとして廃するか新たに現在「誤用」とされている方の意味に置き換えてみた方が、「生きている」言葉に対して当然の処置ではないでしょうか。
そういう声は国語の学者さんの間では上がっているのでしょうか?

A 回答 (3件)

>新たな慣用表現が生まれにくい、または既に大多数の人が変遷した意味で使っている慣用表現を


>「誤用」と斬り捨てられるようになっています。そのせいで現代では
>「言葉が呼吸し辛くなっている」ように私は感じます。
新たな慣用表現は、毎年流行語大賞などでいくつも選出されていますから、
新しい表現が生まれないという意味では「言葉が呼吸し辛くなっている」とは思いません。
しかし、その年の流行語は次の年には殆ど忘れ去られているように、
定着しづらくなっているという点では確かに「呼吸し辛い」ように思われます。

#「言葉が呼吸し辛くなっている」というのはうまい表現ですね。

>本来の意味の方がむしろ使い辛かったり、いまいちピンと来なくなったりした慣用表現は、
>時代に合わなくなったとして廃するか新たに現在「誤用」とされている方の意味に置き換えてみた方が、
>「生きている」言葉に対して当然の処置ではないでしょうか。

現代は余りにも情報量が多い上に、言葉の変化のスピードが速すぎるために
追いつけていないのではないでしょうか?
言葉の変化はいつの時代にも起きていますが、言葉の用法はある程度の期間広く使われ続けないと、
定着したかどうか判断できません。

例に挙げられている「確信犯」の場合、確かに誤用の方の意味が広がっていましたが、
最近は、雑学番組で誤用されている言葉の代名詞のような扱いをされたため、
逆に本来の意味の認知度が高まると言う本末転倒な状態が発生しています。
すると、この場合はどの意味で使うのが「生きた」意味になるのでしょうか?
判断が難しいところです。

このような変化のスピードの速さが「生きた」言葉を反映させることの
遅れにつながっているのではないでしょうか?

この回答への補足

※全然質問とは関係無いのですが※

「確信犯」については、誤用としての認知が広がったのですが、
「正しさを確信してやっている」よりも「わかっていてやっている」という意味が使いやすいので
誤用と分かった上で敢えて使ってる人がいたり、また誤用している人に対しては間違っているけれども「敢えて使っているんだな」と周りが空気を読んで意味を解釈したり。
誤用という認識があまりに広まりすぎて、かえって誤用に対する暗黙の同意、指摘する方が逆に野暮だという空気も広まっているという、そういう奇妙な現象が起きているような気がしました。

補足日時:2009/09/05 09:39
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国語学者ではありません、ごく普通のおじさんですが一言。



慣用句や諺の類は、謂れがあって成り立つものです。
仮にもです、“「誤用」とされている方の意味に置き換え”るなど考えられません。
勝手に解釈して不勉強を恥じることもなく、解釈を変えよとは、
きちんとした社会人は賛同しないと期待します。

ご指摘のとおり言葉は生き物ですし、社会の変化とともに新しい概念や、
生活習慣さらに人間関係が生まれ、それぞれの事情と環境に即した言語の形が
派生するのは避けられません。必然性が受け入れられ共感を得られる変化は定着するものです。
新たな文化の生まれるきっかけにもなるでしょう。
明快なのは科学技術用語や業界用語です、そこには必然性が認められます。身内の通用語や
ギャル語などはローカル社会で勢力を張り外部にも漏れ広がりますが、「めずらしい語」程度の
位置づけで、国語として社会に認知されません。そこに必然性が認められれば定着することもある
でしょう。その結果に対して好悪を述べても始まりません。

慣用句や諺は日本人が代々引き継いだ財産です、意味が正しく世代間に受け継がれないのは、
教育の不始末です。学校教育に加えて家庭教育もその責を免れません。
AV系のメディアや娯楽が増えたせいで活字に特に文章(読み書き)に真剣に対面する機会が
減ってきたことも環境的には大きな要因ですが、
国語の時間が減らされるなど言語道断の施策がとられています。
国語が出来ないと他の学科もダメです。子供に英語を教える暇があれば先ず国語です。
(このあたりは、『祖国とは国語』藤原正彦/新潮社
        『日本語はなぜ美しいのか』黒川伊保子/集英社新書 をご参考に)

「パソコンで文章を書くから難しい言葉が分らなくなった」との発言も多く聞きますが、
パソコンを使えるのだからこそ、都度辞書にあたる習慣をつけさせればよいのです。
教育者すなわち一般の社会人たちの責任放棄の発言に過ぎません。

従って、質問に端的に回答するならば、
 “「誤用」とされている方の意味に置き換え”・・・反対です。
                       誰がどういう権限・立場で変えるのですか。
                       正しく使っている人はどうなるのでしょうか。
                       各種文章や文献が正しく理解されなくなる。  
 “慣用表現は、時代に合わなくなったとして廃する”・・・反対です。
                       廃するとは具体的に何をどうするのですか。
                       正しく使っている人を排除する権利はない。
                       無用ならば自然に消えます。
 推奨策: 
  誤用であると気付いたら、正しい意味を覚えればよいのです。・・・教育の姿勢。
  それが嫌ならば、その言葉を使わなければよいのです。・・・なんら困難はありません。
  
 そうすると、誤用の意味を表すのに不便だなどと言い出す輩が出るでしょう。
 自分の誤用を表す慣用句や諺を欲しければ、自分で考え、世の中に受けいれらる程に価値ある
 形で残す努力をするしかありません。
 歴史的に著名な詩人・作家・政治家・学者・芸術家諸氏が発した言葉や句が年月をかけて
 世間に受け入れられたようにです。
 そこらにあるものを勝手に流用して悦に入るような臆面のなさを認めてはいけないのです。

この回答への補足

>仮にもです、“「誤用」とされている方の意味に置き換え”るなど考えられません。

誤用と正用の如何に拘るあたりは、一般人のおじさんを自称するに相応しいと思います。


まず言っておくと、言葉の意味が時代と共に変遷しているのは常識です。そこに現代ほどの言葉の正誤の拘りはありません。
あなたは、現代のように辞書がまだ広く流通しておらず、まだ言葉が変幻自在に生きていた時代において、慣用句などの言葉の意味が全く変遷しなかったと思っているのでしょうか?
当時の人々の誤用や、転によって生まれた語(現代のギャル語などに通ずる)が「国語として社会に認知」される事が全く無かったと思っているのでしょうか。
本当に、「かわいい」という言葉の意味の変遷なんて、まんまギャル語の言葉遊びと同じではないですか。しかしこれも今や立派な「国語」なのです。

>誤用であると気付いたら、正しい意味を覚えればよいのです
質問の意味も全く理解されていないようですね^^;

補足日時:2009/09/05 19:28
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スピードは遅いけどやってると思います。

この回答への補足

そうなんですね。聞いた事がありませんでしたが。
マスコミでは「○○の意味を間違えて使っている人が約70%」だとか
よく報じていますが、過半数超えちゃあ、既にそちらの意味が日本で通用しているという事に他ならないですよね。
世の中が既にそうなっているのですから、国語にも迅速に反映して欲しいものです。

補足日時:2009/09/04 23:19
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