出産前後の痔にはご注意!

地獄変について、特に良秀の娘についていくつか疑問があります。

まずは十二節と十三節の、良秀の娘と何者かが争っているらしいところへ丁度"私"が通りかかるというエピソードについてです。
自分には、地獄変の話の中でこのエピソードだけが浮いて見えて仕方がありません。
実際、このエピソードはその場限りの出来事で"私"にも全く事情がつかめぬままになっていますし、最後まで直接的に種明かしがされることはありません。
はっきり言ってこのエピソードを丸々抜いてしまっても話としては成り立つように思います。

このとき部屋の中では誰が何をしていたのでしょうか?
また良秀の娘がうろたえ事情を話さなかったのにはどのような訳があったのでしょうか?


次に十七節の、いよいよ良秀の望み通り車に火がかけられるシーンです。
大殿様は良秀に向かって「その中には罪人の女房が一人、縛めたまま乗せてある。」と説明しています。
実際には良秀の娘が乗せられていたのですが、大殿様は何故罪人が乗っていると説明したのでしょうか?
ただ良秀を欺くためでしょうか?それとも、この時点までに良秀の娘は何らかの罪を犯し実際に罪人であったのでしょうか?
(個人的には十二,十三節の複線が利いてくるとすればこの部分しかないように思います)


さらに言えば、大殿様はどの時点で良秀の娘を焼くことを思いつき決心したのでしょうか?
五節に『どう思召したか、大殿様は突然良秀を御召になって、地獄変の屏風を描くようにと、御云いつけなさいました。』とあります。
この一文を読むと、『どう思召したか』や『突然良秀を御召になって』という言葉から、地獄変を描くように云いつけた不自然な理由があり、つまりこの時点で良秀の娘を焼くことは決まっていたのではないかとも思います。


以上三点について、何かしらの根拠とともにお答えいただけると助かります。

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (9件)

☆ 前半の2つの疑問は、N0.1さんのように、読者が解釈する、ということが前提になって書かれていますから、疑問の挟む余地が多少あっても、多くの人を説得する様な別の解釈を作成することは難しいでしょう。



☆ しかし、後半の疑問は、芥川龍之介の過誤を、指摘したものです。

 芥川龍之介の作品には、作家が語り手になっている小説と、作家以外に語り手を想定して書き綴られて小説があります。
 
 『地獄変』の場合は、作家以外の、作品世界の時代に生きているある人物が、語っているという形式で、書かれています。

 ところが『地獄変』の語り手は、作家でなくては分かり得ないことを、語ってしまうから無理が生じています。あなたの指摘は、そういう破綻の中でも、ストーリーにかかわる、大きな部分ですが、綿密に読むと、あなたが指摘している箇所以外にもたくさん指摘できる筈です。

 他の作品でもこのようなことがあった様な記憶がありますが、どの作品のどの箇所という様なことは覚えていません。読み進めてゆくのに差し支えないからです。

 過誤は過誤ですが、新聞の連載小説ですから、締め切りに追われて、といったことで容認しちゃって良いように思います。繰り返しますが、一般の読者が、読み進めてゆくのに差し支えないように思います。
    • good
    • 0

芥川をはじめ、太宰や三島といったひねくれた小説家の手の込んだ小説を読むときは、彼等以上にひねくれて読むか、逆に幼子のようになって作者の手玉に取られて読むかの二つに一つしかないのかもしれません。



「地獄変」にも、芥川は他の多くの小説と同様、各登場人物の性格設定に際し、彼が抱懐していたエゴイズム観をあまりにも過度に投影しているように思われてなりません。
しかも、芥川はこうした人物同士のエゴイズムは所詮お互いに相容れ合うことがないと決めつけていたために、一生悲観主義者としてしか生きられなかったのかもしれません。

>このとき部屋の中では誰が何をしていたのでしょうか?
>また良秀の娘がうろたえ事情を話さなかったのにはどのような訳があったのでしょうか?

おそらく、娘が大殿の意に抵抗したことを暗示しているのでしょうね。
当時の身分制度の常識からすれば、娘の態度は大殿のプライドを大いに傷つけたはず、と作者は暗示したかったのかもしれません。

>実際には良秀の娘が乗せられていたのですが、大殿様は何故罪人が乗っていると説明したのでしょうか?

常識的に考えれば、「良秀の娘」であることを前もって知らされていたら、娘思いの良秀だけに娘に火を放つなんてことは決して承知しないはずと大殿も予想したたからでしょうね。
また、迫真性ある絵を作るためには如何なる犠牲をも厭わない良秀とはいえ、まさか人の命を犠牲にすることまではなかろう、いや非情な良秀のことだから承諾しかねないかも、とさんざん悩んだ挙げ句に、こういう手の込んだやり方で、大殿なりに良秀の人間性の冷酷非道な正体を暴いてみようとしたのではないでしょうか。

>大殿様はどの時点で良秀の娘を焼くことを思いつき決心したのでしょうか?

「良秀の娘」を焼くかどうかは最終的に良秀の人間性の如何によって決まると大殿は判断していたのではないでしょうか。
だとすれば、自分が「決心」するなんてことは考えもしなかったはずで、むしろ良秀を試しているという意識しかなかったのではないでしょうか。
結果的には、自らの謀略によって眼前に実現した地獄さながらの光景に震撼させられたのは良秀ではなく、大殿だったにせよ。

>娘は焼かれ、良秀は首を括り、大殿様だけが完成した屏風を手にして生きている、これではあまり素直に納得できません。

良秀は一世一代のライフワークを完成させた以上、しかも娘もいない以上、娑婆に残っている意味はないから縊死したにすぎないのではないでしょうか。
ただし、このことが決して良秀の敗北とばかり言えないのは、良秀の画家としての精神は現実で死んで、絵の中で永遠の生命を獲得した以上、しかもあれほど良秀に批判的だった「横川の僧都」をも含めた後世の人々がその絵を賛美するとしたら、実質上は大殿をはじめ誰もが絵の中に生きている良秀そのものを賛美していることになるからです。
そうでなければ、芸術家は虚構の芸術制作などという愚行に、あたら一度しかない人生を犠牲に供したりするはずがないような気がします。
    • good
    • 0

「大殿様は何故罪人が乗っていると説明したのでしょうか? ただ良秀を欺くためでしょうか? それとも、この時点までに良秀の娘は何らかの罪を犯し実際に罪人であったのでしょうか?」のご質問に対し、補足をさせていただきます。




「…私は総じて、見たものでなければ描けませぬ。もし描けても、得心が参りませぬ。それでは描けぬも同じ事でございませぬか」
これを御聞きになると、大殿様の御顔には、あざけるような御微笑が浮かびました。
「では地獄変の屏風を描こうとすれば、地獄を見なければなるまいな」

良秀にとっての≪地獄≫とは、常人の想像を絶する凄まじいものでした。
以下のやりとりからも、尋常ならざる良秀の逼迫感が伝わってくるかのようです。

「…さらば罪人の呵責に苦しむ様も知らぬと申されませぬ。又獄卒は──」…「──私の描こうとして描けぬのは、そのようなものではございませぬ」
それには大殿様も、流石に驚きになったのでございましょう。暫くは唯苛立たしそうに、良秀の顔を睨めて御出でになりましたが、やがて眉を険しく御動かしになりながら、「では何が描けぬと申すのじゃ」と打捨てるように仰有いました。
「私は屏風の唯中に、檳榔毛の車が一輛空から落ちてくる所を描こうと思っておりまする」
良秀はこう云って、初めて鋭く大殿様の御顔を眺めました。
あの男は画の事を云うと、気違い同様になるとは聞いておりましたが、その時の眼のくばりには確かにさような恐ろしさがあったようでございます。
「その車の中には、一人のあでやかな上臈が猛火の中に黒髪を乱しながら悶え苦しんでいるのでございまする。顔は煙に咽びながら、眉を顰めて、空ざまに車蓋を仰いでおりましょう。手は下簾を引きちぎって…」

こののち良秀たっての願いに対し「おお、万事その方が申す通りに致して遣わそう。出来る出来ぬの詮議は無益の沙汰じゃ」と述べる大殿様の様子が≪良秀のもの狂いに御染みなすったのかと思う程、唯ならなかった≫場面に至ります。
ここは良秀の欲望と同調していることの表れであり、従って良秀の娘は「必定肉を焼き骨を焦がして、四苦八苦の最期を遂げる」ために「罪人として縛められなければならない立場に追い込まれてしまった」としか言いようがありません。


さらに良秀が自縊した理由についてです。
「一人娘を先立てたあの男は、恐らく安閑として生きながらえるのに堪えなかったのでございましょう」と奉公人の「私」が最終頁で述べています。
ですが、はたして愛娘への倫理的・道徳的感情、つまり、人としての自責の念「だけ」だったのでしょうか。

この物語を通じて、良秀と芥川本人の姿がどこか重なるように感じてしまうのは、単なる気のせいでしょうか。

「その火の柱を前にして、凝り固まったように立っている良秀は、──何と云う不思議な事でございましょう。あのさっきまで地獄の責め苦に悩んでいたような良秀は、今は云いようのない輝きを、さながら恍惚とした法悦の輝きを、皺だらけな満面に浮かべながら、大殿様の御前も忘れたのか、両腕をしっかり胸に組んで、佇んでいるではございませんか」

奉公人の「私」の眼にすら、良秀をさながら「開眼の仏」のように映ったのです。
その瞬間とは、絵師としてまさに≪無我の境地≫に至った≪エクスタシー・法悦の絶頂≫だったのです。
そうしてこれにより己の表出に全ての心血を注いだあとは、ただもう己の喪失に他ならず、「良秀はもうこの世に無い人の数にはいっておりました」という躯となり果てるのも、極めて自明なことのように思えてくるのです。


この点につきまして、「描けない良秀の焦燥感・苦悶の様相」同様、芥川本人にもかなり通底する部分が認められるのではないでしょうか。
    • good
    • 0

こんにちは。


この小説の最高潮は言うまでもありませんよね。
阿鼻叫喚の渦中で身悶える良秀の娘をめぐって、良秀、大殿様との三者間で極限の心理が壮絶に絡み合っている一大スペクタクルではないでしょうか。

ほとばしる愛憎、残虐極まる死に対する耽美な予兆、そしてそれに伴う絢爛たるエロスと歓喜とが。

この点からも「その晩のあの女は、まるで人間が違ったように、生々と私の眼に映りました。眼は大きくかがやいております。頬も赤く燃えておりましたろう。そこへしどけなく乱れた袴や袿が、何時もの幼さとは打って変わった艶めかしささえも添えております。これが実際あの弱々しい、何事にも控え目勝な良秀の娘でございましょうか。」は、大人しく孝行な娘が垣間見せた「美しさ、妖艶さ」という意外な一面であり、後の悲劇を予感させる絶妙なシーンのように思われます。
個人的には、このエピソードがあっての『地獄変』だと思うのですが…。
なお、事情に関しましては、わたくしもNo.1様同様、手籠に絡むものだったと考えます。

牛車に火がかけられるシーンにおいて、大殿様は三度口を噤みつつも、ついに「「愛娘が罪人として乗っている」とは告げませんでした。
暫しの猶予を与えなかった非情さに抗ってまで、なおも「良秀の真の欲望」を察知していたかのようにも思われます。
以下の場面です。
──「ああ、それが、その牛車の中の上臈が、どうしても私には描けませぬ」
──「そうして──どうじゃ」
──「どうか檳榔毛の車を一輛、私の見ている前で、火をかけて頂きとうございまする。そうしてもし出来まするならば──」
大殿様は御顔を暗くなすったと思うと、突然けたたましく御笑いになりました。…「檳榔毛の車にも火をかけよう。又その中にはあでやかな女を一人、上臈の装いをさせて乗せて遣わそう。炎と黒煙とに攻められて、車の中の女が、悶え死にをする──それを描こうと思いついたのは、流石に天下第一の絵師じゃ。褒めてとらす。おお、褒めてとらすぞ」

つまり、大殿様はどの時点で良秀の娘を焼くことを思いつき決心したのは上記の場面だと思われます。
「良秀の娘を焼くこと」以外に天下随一の地獄変を完成し得ないと承知していたから「突然けたたましく御笑いになった」のではないでしょうか。
むろん、良秀もその以前にそれらしき予兆の悪夢に魘されていた場面が弟子に目撃されていたかと思われます。

その意味において、地獄変という類まれな芸術を完成させる「犯行」に際しては実父良秀も大殿様も、確固たる「共犯者」だったのではないでしょうか。

なお、奉公人の回想において印象深かったのは以下の場面です。
「それがどうもあの男の眼の中には、娘の悶え死ぬ有様が映っていないようなのでございます。 唯美しい火焔の色と、その中に苦しむ女人との姿とが、限りなく心を悦ばせる──そう云う景色に見えました。」
「鳥でさえそうでございます。まして私たちは仕丁までも、皆息をひそめながら、身の内も震えるばかり、異様な随喜の心に充ち満ちて、まるで開眼の仏でも見るように、眼も離さず、良秀を見つめました。──何と云う荘厳、何と云う歓喜でございましょう。」

奉公人は「この事件により露見した≪身分によらぬ人間の深層にひそむ空恐ろしい本性の一端≫を十分理解していた」からこそ、あのように淡々と慇懃に述べるにとどめざるを得なかったのではないでしょうか。
    • good
    • 0

まず、良秀の娘と何者かが・・・という場面について、no1の方と同じ解釈です。


ただし、娘を焼き殺した理由はこれそのものではありません。
良秀の娘は大殿と良秀の対立の象徴であり、その葛藤は牛車に火をかける場面で最高潮となります。
大殿は「権力によって」良秀は「画力」によって神秘の世界すら圧倒させるほどの力を持っている。そして、両者とも自負の裏に残虐な心を持っている。
火をかけてからの良秀の描写を細かく追っていくと、芸術が権力を屈服させたようにも思える場面がある。
が、芸術のためにはあらゆる非人道的行為をも許した「芸術至上主義」もそれが完成したとき、「死」という犠牲を要求された。

芥川の「芸術至上主義」は「死」を伴うものであったと考えます。
答えになっていなくてごめんなさい。
    • good
    • 0

「藪の中」と合わせてお読みになられてはいかがでしょう。


この小説のテーマ以前に、この時期の芥川作品の底流にある、真実はどこにもない、というニヒリズムに支えられていますゆえ。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

お答えありがとうございます。
「藪の中」は昔から何となく好きなのですが、今までに読んでいてピンと来たことがありません。
次こそ何か思うことがあるかもといつも期待して読み直すのですが。

お礼日時:2009/11/25 21:33

芥川大好きな者です。


お役に立てる程の知識等ありませんが、お邪魔させてくださいね。

地獄編。。。何とも不思議で奥深い描き方をしている作品だと感じております。
「嘘?を描く事で真実が如実にあぶり出される」と言った感覚です。
語り手の「私」は、海千山千、と言うか、世渡りに長け、言葉巧みに他人(特に上の立場の者)の心をつかむ術に長けている、と感じられます。
嘘だの真実だの、と言うよりも「聞き手の心をつかむ為の語り方」に長けている、と言った感じがします。

まあ、この手の「大人らしい大人」って、思春期や反抗期にある人間には結構嫌われますが、、、苦笑
未だ反抗的な「子どもっぽい大人(汗)」である私は、この手の人間が苦手ではあります。
。。。あ、余談です。汗

私事になりますが、
世の中には真実よりも嘘よりも大切なものがある、と私は考え始めています。
正しいか?間違っているか?よりも大切な事がある、と考えています。
そして、この「地獄変」もそのような視点で書かれた物語だ、と感じます。

確かに質問者様のおっしゃるように
>これではあまり素直に納得できません。
その通りかもしれません。現に私も同じように納得出来ない、と感じます。
納得出来るか否か?納得すべきか否か?、、、そんな「自問自答」を迫って来る作品、
それって、それだけで凄まじい威力を持っている作品だ、と私は感じるのです。

文学作品は世に溢れ返っておりますけれど、
ここまで「執拗に受け取り方(解釈)の選択を読み手に迫って来る」作品/作家はなかなか出会わないように感じます。

納得するか?しないか?の選択を、ひたすらに迫られている、
そう感じませんか?
そして、その選択を棚上げにして仕舞う事を許してくれない。

似た感じで「しつこい」作品として私が思い浮かぶのは
志賀直哉の「赤西蠣太」です。
芥川の他の作品も似た感じではありますが。

何で此処で終わっちゃうんだよーー?
ちゃんとオチ付けて終わらせなさーーい!!怒
って気分になる終わり方でもありますよね。笑

人生の複雑さ、一筋縄では行かない苦しさ、
だけど、そうだから面白いのだ、と言う妙な明るさ?を持った作家だと私は考えています。

書きたいだけ書いてしまい、申し訳ありません。
解釈と言う点では全然と思いますが、この作品の「読み方」と言う点で少しお役に立てるかしら?と思ったのですが。。。
書きながら、自信消滅です。。。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

お答えありがとうございます。
実は私大学卒業までバリバリの理系で、学生時代は「国語って何のために勉強するの?」「文学って何のために研究するの?」と思っている人間でした。

そんな自分が社会人になりふとしたことから「藪の中」「竜」「地獄変」と読んでみて芥川の世界にはまりました。
その他にも「蜜柑」「開化の良人」「河童」「歯車」あたりを読んで、再びしっかりと「地獄変」を読んだときに感じた疑問の波が今回の質問です。
はっきり言って今までは物語の筋をなぞるだけで、ここまで話の中に入り込んで読み込むという経験をしたことが無かったのです。

今まで科学や論理のことばかり興味を持っていた私に一つの物語をここまで考えさせた、「地獄変」やそれを書いた芥川という人はそれだけ凄いと今さら感じています。
今よりももう10年早く、教科書の物語をいまのように読めていたらと悔やまれます。

始まりから終わりまでただそこにあるだけでなく、その受け取り方まで迫ってくる、確かにその通りです。
今の私自身狙い通りそこにはまってしまっているようです。

お礼日時:2009/11/25 20:57

これらの説明はあてにならないのでしょうか?



あてになりません。小説中の登場人物の発言は、すべて真実を示しているわけではありません。大殿様の実態は、主人公の奉公人から見るのだけがすべてではなかったのです。何度もそのことは匂わせていますが。

良秀への嫌悪感も募っていたでしょう。何でも「はいはい」と描くイエスマンばかりの暮らしに、たった一人(二人)意に添わないやつがいる。そいつの娘も自分の思い通りにならない。何とかやり込めたいが絵のことでは太刀打ちできない。

今でも役場の中間管理職で民間に査察に来るやつらなんてそうですよ。ちょっとでも意見を言おうものなら、そのプランすべてを予算も含めて削除。次の異動で左遷。そう、権限を持っているのに薄っぺらいです。大正時代ならなおさら。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

再びお答えありがとうございます。

>小説中の登場人物の発言は、すべて真実を示しているわけではありません。
これについては理解しています。とくに語り手がいる文章は地の文であっても必ずしも真実とは限らないですからね。
ですがいま聞きたいのは、"私"の諸々の説明が信じるに値するかということだったのです。
あてにはならないという回答なのですね。

では、"私"は何故ここまで大殿様を擁護し虚構を語るのでしょうかね?
自分が仕える大殿様を擁護することは当たり前かもしれません。
または、本当に真実が見えておらず大殿様を信じきっているのかもしれません。
たとえそれが真実であっても、大殿様の娘に対する感情をありのまま語ること自体がタブーであるからかもしれません。
ただ建前と本音の世界なのでしょうか。

もう一つ、大殿様がただそのような感情で良秀の娘を焼いたのだとしたら、倫理的には大殿様こそ罪人ですよね。
娘は焼かれ、良秀は首を括り、大殿様だけが完成した屏風を手にして生きている、これではあまり素直に納得できません。
屏風に描かれた地獄は良秀自身が落ちていく地獄だと書かれていましたが、これではその地獄に落ちるべきは大殿様の方であるように思います。

sosdada様の回答は理解できました、が、「地獄変」に対して少しがっかりしたような気もします。

お礼日時:2009/09/21 04:54

まずは十二節と十三節の、良秀の娘と何者かが争っているらしいところへ丁度"私"が通りかかるというエピソード


このとき部屋の中では誰が何をしていたのでしょうか?
また良秀の娘がうろたえ事情を話さなかったのにはどのような訳があったのでしょうか

12で、
大殿様が御意に従はせようとしていらつしやるのだと云ふ評判が立ち始めて、夫からは誰も忘れた様に、ぱつたりあの娘の噂をしなくなつて了ひました。

とあります。タブーとなったのです。これが伏線となり、
13で、殿様が手篭め未遂。

自分の意を拒んで、恥をかかせた娘は罪人。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

大殿様と娘の関係については三節の途中で、『決して世間でとやかく申しますように、色を御好みになった訳ではございません。』『絵師風情の娘などに、想いを御懸けになる方ではない』と説明されています。
また五節でも繰り返して『地獄変の屏風の由来も、実は娘が大殿様の御意に従わなかったからだなどと申すものも居りますが、元よりさような事がある筈はございません。』と書かれ、続けて弁護の言葉が並んでいます。
地獄変の文章全体は奉公人(私)の回想によるものですから、"その時点ではそう思っていた"というようなことはないはずです。
自分はこの"私"の説明を概ね信用して読んでいたのですが、では、これらの説明はあてにならないのでしょうか?
ただ大殿様への盲信からくる希望的説明でしかないのでしょうか?

だったら、大殿様が娘を焼いた理由が(このことが全てではないでしょうが)薄っぺらく感じてしまいます。
個人的には、世間の噂からもう一歩踏み込んだ深い理由があると思っていたのですが。

お礼日時:2009/09/21 02:56

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人はこんなQ&Aも見ています

関連するカテゴリからQ&Aを探す

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q芥川龍之介「地獄変」の娘と密会した人物

芥川龍之介「地獄変」の十三章で大殿様に仕える絵師の娘は、ある夜屋敷で何者かと密会します。
襲われたのか、言い寄られたのか、男か女かも不明で、話者が問いかけても娘は返事をしません。
この人物は大殿様だったのでしょうか?
それとも絵師良秀でしょうか?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

『地獄変』には、多義的な解釈を誘うべく、いくつかの仕掛けがほどこされています。というのも、語り手である「堀川の大殿様…に二十年来御奉公」してきた「私」(老侍)は、いわゆる〈信頼できない語り手〉で、好んであいまいな、多義的解釈を可能にする言説を採用しているからです。

良秀の娘が「袿の袖を噛んで、しく/\泣いて居りました」というのも、直前では
「娘の方は父親の身が案じられるせゐでゞもございますか」
といいながら、そのすぐあとに
「大殿様が良秀の娘に懸想けさうなすつたなどと申す噂が、愈々拡がるやうになつた」
と語り、その上で
「元よりさやうな事がある筈はございません」
と打ち消してみせる。さらに
「色を御好みになつたと申しますのは、恐らく牽強附会の説」
「跡方もない嘘」
と重ねることによって、逆に読者の脳裏に疑いを生じさせる。このような語りを持つことによって、『地獄変』という短い作品が、謎と奥行きを備えていきます。

十二から十三にかけては、良秀の娘のエピソードが語られていきます。この「慌しく遠のいて行くもう一人の足音」は誰なのか。

これに関しては、質問者さんもご指摘のように三通りの推測が可能でしょう。
(1)大殿である
(2)良秀である
(3)それ以外の男性である

この十二の最初、事件が起こる前に、まず語り手は
「又一方ではあの娘が、何故かだん/\気鬱になつて、私どもにさへ涙を堪へてゐる容子が、眼に立つて参りました。」
とわたしたちの推理をある方向に誘っていきます。それに続くのがこの文章です。

「初はやれ父思ひのせゐだの、やれ恋煩ひをしてゐるからだの、いろ/\臆測を致したものがございますが、中頃から、なにあれは大殿様が御意に従はせようとしていらつしやるのだと云ふ評判が立ち始めて」

ここまでなら、それに続く事件の中心人物は「大殿」である、と考えてまちがいない、と言えるでしょう。ところが語り手は、その評判をも

「夫れからは誰も忘れた様に、ぱつたりあの娘の噂をしなくなつて了ひました。」

と打ち消してしまうのです。噂をしなくなったのは、それが根も葉もないことだったから、という可能性も生まれてしまいます。反面、それが事実となって、うかつに噂もできなくなってしまった、と考えられなくもない。蓋然性としては(1)が高いかと思いますが、決定的ではありません。

つぎに「良秀」説、これは近親相姦を意味するのですが、この読解では八で良秀が夢を見ながらうなされる場面が「伏線」となっていきます。

「なに、己に来いと云ふのだな。――どこへ――どこへ来いと? 奈落へ来い。炎熱地獄へ来い。――誰だ。さう云ふ貴様は。――貴様は誰だ――誰だと思つたら…(略)…誰だと思つたら――うん、貴様だな。己も貴様だらうと思つてゐた。なに、迎へに来たと? だから来い。奈落へ来い。奈落には――奈落には己の娘が待つてゐる。」

来い、来いと招いている「貴様」は、奈落にはおまえの娘が待っているから来い、と言っているようです。この「貴様」も地獄の「異類異形」なのか、それともこの世にいる人物(たとえば「大殿」)であるのか、いくつかの可能性があるかと思いますが、いずれにせよ、良秀の娘は「炎熱地獄」にいる。娘は炎熱地獄に落とされる罪を負っている、と良秀は考えているのです。「炎熱地獄」というのは五戒を破った者が落とされる地獄ですが、「五戒」の中には「不邪淫」も含まれる。

こう考えていくと、「足音」の主は「良秀」であるという解釈も成り立つのです。

さらに、娘には密かな恋人がいた、という可能性もあります。彼を逃がすために「唇をかみながら」という演技をした、という。そうして恋人の存在が「大殿」の知るところとなったために、やがて車の中に入れられることになった、という見方もできるのです。

たとえば十七に
「私と向ひあつてゐた侍は慌しく身を起して、柄頭を片手に抑へながら、屹と良秀の方を睨みました。」
という箇所があります。 
この侍は、良秀があばれるのを取り押さえるために柄頭に手を掛けたのか。それにしては立ち上がった良秀を押さえようとはしていません。彼自身、まったく知らず、父親である良秀が事態を了承したものとして、驚き、柄頭に手をかけたのではないのか。
語り手はいったい何のためにこの一言を言ったのでしょうか。

このように、「足音の主」についてはさまざまな可能性があり、逆に決定することもできません。というのも、作品の中にいくつかの空白を作者である芥川が設けており、決定的な読解を妨げているからです。
どうして芥川はそんなことをしたのでしょうか。

芥川の『侏儒の言葉』の「鑑賞」という項目では、このようなことが書かれています。

「 芸術の鑑賞は芸術家自身と鑑賞家との協力である。云わば鑑賞家は一つの作品を課題に彼自身の創作を試みるのに過ぎない。この故に如何なる時代にも名声を失わない作品は必ず種々の鑑賞を可能にする特色を具えている。しかし種々の鑑賞を可能にすると云う意味はアナトオル・フランスの云うように、何処か曖昧に出来ている為、どう云う解釈を加えるのもたやすいと云う意味ではあるまい。寧ろ廬山の峯々のように、種々の立ち場から鑑賞され得る多面性を具えているのであろう。」

「種々の立ち場から鑑賞され得る多面性」というと、映画にもなり、ひとつの言い回しともなった『藪の中』が有名ですが、この『地獄変』においても同様の仕掛けがほどこされています。ですから読者は、自分が思う「真相」を見つけるべく、芥川に「協力」して作品を丁寧に読み直し、伏線を見つけていくことが求められているのではないでしょうか。

『地獄変』には、多義的な解釈を誘うべく、いくつかの仕掛けがほどこされています。というのも、語り手である「堀川の大殿様…に二十年来御奉公」してきた「私」(老侍)は、いわゆる〈信頼できない語り手〉で、好んであいまいな、多義的解釈を可能にする言説を採用しているからです。

良秀の娘が「袿の袖を噛んで、しく/\泣いて居りました」というのも、直前では
「娘の方は父親の身が案じられるせゐでゞもございますか」
といいながら、そのすぐあとに
「大殿様が良秀の娘に懸想けさうなすつたなどと申す噂が...続きを読む

Q芥川龍之介の『地獄変』について考え聞かせてください。

『地獄変』の語り手について考えています。この作品は、「堀川の大殿様のような方は、これまでは固より、後の世には恐らく二人とはいらっしゃいますまい」の一文に始まり、物語は大殿に「二十年来御奉公」してきた使用人の「私」という人物によって語られています。「・・・ございます」「・・・ございません」「・・・ございました」「・・・ございましょう」という丁寧語を連発させ、それでいて文末を微妙に変化させて単調さを破って行く語りの手法は、芥川龍之介ならではのものだと感じます。作者ならぬ語り手が物語を語り、それを巧みにつづる綴り手(書き手)が存在するとも言えるのかもしれません。
 読み進めると、語り手は芥川龍之介では?と思います。
自身の「芸術と人生」を形象化したもの?
 文学については、ほとんど無知で根拠となる考えができません。
教えてください。

Aベストアンサー

No.2です。


>この作品は、死者を見舞う役割を果たしている感じもします。

文学作品に正解は無いので、読み手によって、解釈が異なってもいいんですよね。

私の場合、この作品は、超越について芥川が模索していると感じました。
あくまで私の受け取り方です。


極端な悪はその先は善になり、極端な善のその先は悪という理論が、成立するか? とチャレンジしたのかな?とも思えます。



>では、芥川は主人公の良秀に自分を重ね合わせたのでしょうか?

芥川龍之介が、どのような思想を持っていたのか、残念ながら知りません。

いくつかの作品を読んで、死ぬまで極楽 あるいは出口を探してさまよっていたのではないか と思います。


良秀。
彼は憑かれたかのように、だんだん行動に狂気を帯びてくる。
もう 誰も「何をしているのだ」と止めに入るのをためらうぐらいの、圧倒的で崇高な狂気。


狂気も度がすぎれば、神聖なものと捉えられかねない。



芥川龍之介の場合、統合失調症をわずらっていたのではないかといわれています。

統合失調症で思い出すのが、ドストエフスキーの罪と罰に出てくるラスコーリニコフ。

彼は、踏み越えようとした。
踏み越えるというのは、別な言い方をすれば、人間を超越すること。
すなわち神になること。


ラスコーリニコフはこう考えた。
ナポレオンは大量殺人を犯したが、英雄とされる。
ナポレオンは人民に踏み越えたことで、人民に恵みを与え、英雄として賞賛された。


だから誰もが死んでくれと願う金貸しのばあさんを殺せば、自分は英雄として崇拝されるに違いない。
と、ラスコーリニコフは都合のいいように解釈し、殺人を善だとしようとした。


頭痛と混乱の中で、せっつかれるように ある意味使命のように感じ、絶対にやってはならないこと すなわち 人殺しをやった=踏み越えた。
とうとう やった 踏み越えた と思ったが、、、

誤算があり、人々に愛され、高利貸しの老婆にいいように使われていた老婆の妹まで殺してしまった。

もし、このアクシデントが無ければ、彼は苦悩しないで自分は、自分はついに人間を超越した、神になったと思ったのでしょうか。


地獄変では、本来なら、自分の娘を焼き殺す行為は殺人なので、罪人として処刑されるわけですが、一番目の中に入れても痛くない娘を、焼き殺し、その代償として、芸術作品を書き上げようとした、壮絶な芸術家の執念を感じ取り、これはもはや人間の裁ける領域ではない アンタッチャブルなものだ として、人々はそのすさまじさに圧倒され言葉を失い、理解不能なこの現象を、人知では計り知れない何かしら崇高な行為だと捉え、そのことによって人々は敬虔な気分になった としているのではないか と。


果たして人間は本当に実際そうなれるか?
それが芥川龍之介のこの作品のテーマだと思えるのですが、作品でいくら人々の心が厳かな平穏な気分になったと描写できたとしても、現実こんなことが起こったら、とてもじゃないが、敬虔な気持ちになどなれません。

あくまで空想の中でのみ成立する理論。
芥川龍之介は、リアルではそれは駄目だと知っており、だから空想の世界のみにとどめてくれたんじゃないかと。

空想のみにとどめず、本当にやってしまっていたら、芥川賞なんてできず、狂気の末殺人を犯した作家って歴史に残ってしまいます。


彼は理性がブレーキをかけ踏み越えたい衝動をとどめたため、欲望は成就せず、体内に残り苦しかったと思いますが、作品に描くことで、欲望を外に排泄したのではないか と思います。


彼の作品はサディスティックな描写があまりにも多い。
人の残虐性をテーマにしていたんじゃないか とも思いますが、もしかしたら、彼の内に秘めた残虐性が、この世をゆがめて彼に見せていたため、こういうサディスティック 無常の世界を次々発表できたのかもしれない。


彼の作品の主人公は、超越した存在となろうとしていますが、そう考えると、芥川自身が超越を望んでおり、だから主人公に自分をだぶらせ、作品の中で主人公に自分の代わりに超越させたのかもしれないですね。

No.2です。


>この作品は、死者を見舞う役割を果たしている感じもします。

文学作品に正解は無いので、読み手によって、解釈が異なってもいいんですよね。

私の場合、この作品は、超越について芥川が模索していると感じました。
あくまで私の受け取り方です。


極端な悪はその先は善になり、極端な善のその先は悪という理論が、成立するか? とチャレンジしたのかな?とも思えます。



>では、芥川は主人公の良秀に自分を重ね合わせたのでしょうか?

芥川龍之介が、どのような思想を持...続きを読む

Q芥川龍之介「地獄変」に出てくる堀川の大殿様って。

芥川龍之介「地獄変」について質問です。
「堀川の大殿様」っていう人が冒頭から出てきますが、
この人のモデルになった人とは誰なのでしょうか?

宇治拾遺物語「絵仏師良秀」の方には出てきません。
「横川の僧都様=源信(恵心僧都)」が出てくることをみると
西暦900年頃の話だと思います。

900年頃と言いますと平安時代ですし、京都なので大名でもないですよね・・・。
芥川龍之介が創作した「重要な役職についていた堀川に住む一貴族」と考えてよろしいのでしょうか?
それとも「源のナニガシ」とか氏名を持ってる人なのでしょうか?

ご存知の方がいらっしゃいましたら、ご回答よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 推測です。
 堀川大臣といわれた藤原基経かその長男で本院大臣といわれた藤原時平ではないでしょうか。
 基経は836年にうまれ、891年に亡くなった平安時代の政治家です。彼の邸宅は現在の京都府京都市中京区二条油小路町辺りにあり、「堀川院」と言われていました。
 時平は基経の長男で871年にうまれ、909年に亡くなった政治家です。彼の邸宅は現在の現在の椹木町通の北側、堀川通の東側一帯にあり、「本院」と言われていました。

Q芥川龍之介の「芋粥」について教えて下さい。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/55_14824.html
芥川龍之介の「芋粥」を勉強している外国人です。
わからないところがあるので、質問します。

①年かさの同僚が、彼れの振はない風采を材料にして、古い洒落を聞かせようとする如く
ここの「古い」は、oldという意味ですか。新鮮ではない、という意味ですか。

②彼等にいぢめられるのは、一人、この赤鼻の五位だけではない、彼等の知らない誰かが――多数の誰かが、彼の顔と声とを借りて、彼等の無情を責めてゐる。
「彼等の知らない誰かが――多数の誰か」は、誰でしょうか。

③痩公卿の車を牽ひいてゐる、痩牛の歩み
「痩公卿」と「痩牛」は、文字通り、痩せる公卿と痩せる牛のことですか。

④唯でさへ猫背なのを、一層寒空の下に背ぐくまつて、もの欲しさうに、左右を眺め眺め、きざみ足に歩く
辞書で「ものほしい」を調べると、「何か欲しい」という意味らしいですが、五位は何を欲しいですか。(「芋粥に飽かむ」ことが五位の唯一の欲望だということはわかりますが、どうして芥川龍之介さんがここで「もの欲しさうに」と書いたのかはわかりません。)

⑤東山の暗い緑の上に、霜に焦げた天鵞絨のやうな肩を、丸々と出してゐるのは、大方、比叡の山であらう。
「山の肩が霜で凍る織物のように、小さな丸い凹凸があって、その高くなっている部分が比叡の山かもしれない」ということですか。

⑥山の陰に消残つて、雪の色も仄に青く煙つてゐる。
「溶けていない雪が山のshadowに残って、青い煙が出っている」ということですか。

⑦狐が、走れなくなるまで、追ひつめた所で、それを馬の下に敷いて、手取りにしたものであらう。
「狐が疲れて止まるまで追い詰めた所で、馬の脚で狐を踏んで、それをつかめる」ということですか。

⑧急に、すべてが陽気になつた。
楽しくなった、ということですか。

⑨前にあるのは、銀の提の一斗ばかりはいるのに、なみなみと海の如くたたへた、恐るべき芋粥である。
ここの「のに」は逆接ですか。あくまで自分の推測ですが、一斗だけ(とはいえ、一斗=18.039リットルの量も恐ろしいと思いますが)の芋粥が海のように見えるのは、五位がもう芋粥を飲みたくないから、と思いますが、間違えば教えて下さい。

よろしくお願いします。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/55_14824.html
芥川龍之介の「芋粥」を勉強している外国人です。
わからないところがあるので、質問します。

①年かさの同僚が、彼れの振はない風采を材料にして、古い洒落を聞かせようとする如く
ここの「古い」は、oldという意味ですか。新鮮ではない、という意味ですか。

②彼等にいぢめられるのは、一人、この赤鼻の五位だけではない、彼等の知らない誰かが――多数の誰かが、彼の顔と声とを借りて、彼等の無情を責めてゐる。
「彼等の知らない誰かが――多数...続きを読む

Aベストアンサー

1、ここでの「古い」は「言い古された」の意味かと。
2、その場にいない、姿のない第3者。⇒この話での一番の肝です。
3、文字通り「やせた公家」=「貧相でみすぼらしい」者が乗る車を「やせた牛」=「公家の車を引くのは、本来ならば、堂々とした体格の牛なので、更にみすぼらしい」と言うことです。
4、「もの欲しさうに」は「左右を眺め眺め」にかかっているので、「物欲しそうな目つきで左右を眺めながら」という意味です。
5、「東山」と「比叡山」の位置関係で、京の町中から手前に見えるのが「東山」の「暗い緑」で、その向こうに「霜に焦げた天鵞絨のやうな肩を、丸々と出してゐる」=「きらきらと艶やかな濃い緑の峰をこんもり丸く見せている」のが「比叡山」であるのです。
6、「溶けていない雪が山のshadowに残って、ほのかに青く煙っている」
7、「狐が(疲れて)走れなくなるまで追い詰めた所で、馬の脚で狐を踏んで、狐を手で取り押さえたのだろう」
8、「楽しくなった」でもいいとは思います。「明るくなった」も可能かと。
9、「銀(しろがね)の提(ひさげ)」に「一斗」ぐらい入る「器に」なみなみと海のようにたたえた、恐るべき芋粥。であって「の」は、「器」が省略されているだけかと… ただし、「五位がもう芋粥を飲みたくないから」そう見えた可能性はあります。

元々の原点である「今昔物語集」では「利仁」の「豪勢な生活や力」に恐れおののく五位を描いているのですが、芥川はこれを「五位」の「立場から描写」に変え、五位が「芋粥に飽きたいと云ふ慾望を、唯一人大事に守つてゐた、幸福な」自分を自覚することで「相反する思いを、人は抱くものだ」と描いているのだと思います。

http://novelu.com/imogayu/#3a

1、ここでの「古い」は「言い古された」の意味かと。
2、その場にいない、姿のない第3者。⇒この話での一番の肝です。
3、文字通り「やせた公家」=「貧相でみすぼらしい」者が乗る車を「やせた牛」=「公家の車を引くのは、本来ならば、堂々とした体格の牛なので、更にみすぼらしい」と言うことです。
4、「もの欲しさうに」は「左右を眺め眺め」にかかっているので、「物欲しそうな目つきで左右を眺めながら」という意味です。
5、「東山」と「比叡山」の位置関係で、京の町中から手前に見えるのが「東山」...続きを読む

Qイデオロギーって何ですか???

イデオロギーとはどんな意味なんですか。
広辞苑などで調べてみたのですが、意味が分かりません。
どなたか教えてください。

Aベストアンサー

イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、
狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。

つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の
体系です。一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を
イデオロギ-と言うんです。

例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。
だから賛成や反対といった意見が出てきますね。
しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。
イデオロギ-には賛成・反対といった概念がないのです。

例えば、環境破壊は一般的に「やってはいけない事」という一定の考えに
組織されています。つまりみんなが根本的な共通の考え(やってはいけない事)として組織されているもの、これがイデオロギ-なんです。
しかし、社会的立場によってはその「やってはいけない事」を美化して
公共事業と称して環境破壊をする人達もいますけど。
ここでイデオロギ-という概念に対して色んな論説が出てくるわけです。
一応これは一つの例ですけど。

というかこれくらいしか説明の仕様がないですよ~~・・。
こういう抽象的な事はあまり難しく考えるとそれこそ分からなくなりますよ。
この説明で理解してくれると思いますけどね。

イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、
狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。

つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の
体系です。一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を
イデオロギ-と言うんです。

例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。
だから賛成や反対といった意見が出てきますね。
しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。
イデオ...続きを読む

Q羅生門とエゴイズム

 学校で羅生門を読みました。いろいろ調べていると、羅生門は、「人間のエゴイズムを描いている」と書いてありました。
 でも、人間のエゴイズムって何なんでしょうか?
 辞書では「利己主義」と書いてあったのですが、そのまま、「人間の利己主義を描いている」と書くと、意味不明になりました。
 ちなみに、僕なりの羅生門の解釈をしてみると、「大正(羅生門のかかれた時代)の民衆の文化が発達して、平安末期のような生活は少なくなっている。豊かな生活ができるようになったからこそ、自分を失わないためにも、しっかり自分を持つことが大切である。だからこそ、平安末期に老婆の言葉によって行動を起こした下人を描き、大正の今と対比して、民衆に警告している。羅生門は、現在の人々への芥川からの警鐘である。」
 うーん、かっこいい言葉を並べすぎて、自分で赤面してしまいますが、この考えについてどう思われますか?
 意見、または解釈の誤解があると思うので、皆さんの意見を教えてください。

Aベストアンサー

とてもとても主体的に作品を読んでいらっしゃいますね。
文学作品は読者が自由に解釈して楽しむものですから、
この方はなんてしっかりしているんだろう、と大変頼もしい印象を受けました。
さて「解釈」というのは、見たり聞いたりしたものに対する説明で、自分の心をフル稼働して言葉にしたものを、他人に「どうだ」と聞いてもらうこと。
そしてその相手とのやりとりの中で自分の(そして相手の)解釈を深めていくということ。
・・・という考え方を私は持っておりまして、
早速質問コーナーに入らせてください。(笑

■「平安末期」と「大正の今」の何を対比しているか分からない■
 これは非常におもしろいところに気づかれたな~と思いました。
ただここには「文化」や「生活」と言葉を挙げられたのみで、具体的に何を対比しているのかが分かりません。
「平安末期の民衆の生活=質素で貧しい」「大正時代はそれに比べて物が豊か」という物的な面だけでなく、人間の心・精神面においても対比しておられるのでしょうか?

■「自分を失わない」「自分を持つ」において、「自分」とは何を意味するのか分からない■
 死人の毛を抜く老婆を目撃して、一瞬正義感のようなものを覚えた下人が、
(「悪に対する反感」「何の未練もなく、饑死を選んだ事であろう」「悪を憎む心」など)、
老婆の話を聞いた後、「きっと、そうか」「己もそうしなければ、饑死をする体なのだ」と老婆の着物をはぐという正反対とも見える行動の変化がありますね。
ここまで揺れ動いた行動を通してみて、下人の「自分」というのはいったいどういうものなのか、あなたのお考えを詳しく伺ってみたく思います。
「下人の心」を解くところから「人間のエゴイズム」という問いに対する答えが見えてくるかもしれません。

■芥川が民衆に何を警告しているのかが述べられていない■
警告・警鐘というのは「気をつけろよ、危ないぞ」ということですが、
大正時代の人々にとって、何が危険なのだと芥川は考えていたのでしょうか。

もしよろしければ、上の3つの点について、jm4cvpさんのお考え・解釈をお聞かせくださいな。

とてもとても主体的に作品を読んでいらっしゃいますね。
文学作品は読者が自由に解釈して楽しむものですから、
この方はなんてしっかりしているんだろう、と大変頼もしい印象を受けました。
さて「解釈」というのは、見たり聞いたりしたものに対する説明で、自分の心をフル稼働して言葉にしたものを、他人に「どうだ」と聞いてもらうこと。
そしてその相手とのやりとりの中で自分の(そして相手の)解釈を深めていくということ。
・・・という考え方を私は持っておりまして、
早速質問コーナーに入らせてく...続きを読む

Q「絵仏師良秀」は何て読むか?

有名な説話集『宇治拾遺物語』のエピソードとして、「絵仏師良秀」に関する話がありますが、この「絵仏師良秀」は何と読むのでしょうか?
個人的にはずっと「えぶっし・りょうしゅう」だと思っていましたが、「よしひで」と書いてある本を見つけてしまったため、悩んでいます。
また、古典文学の名詞に、読み方のはやり・すたり等があるのでしょうか?

カテゴリーが「文学」で良いのか不安ですが、どなたか教えてください。

Aベストアンサー

良秀(りょうしゅう)というのは法名なんですね。知りませんでした。
そのほか実峰良秀(じつぼうりょうしゅう)というお坊さんがいたそうです。
法名なら音読みしないとね。

参考URL:http://www5.nkansai.ne.jp/shop/rorog/ryakureki.htm

Q地獄変の解釈

地獄変を読んでみたのですが難しく、どうも私には理解しがたいです。
みなさんの地獄変に対する感想を教えていただけないでしょうか?
お願いします。
HPなどがあれば、アドレスを教えていただければ幸いです。

Aベストアンサー

 絵師は何故縊れ死んだのでしょうか?娘を死なせてしまった倫理上の問題……。私は絵師良秀は地獄変の屏風以上の作品はもう生み出すことが出来なかったと思うのです。とすれば、絵師にとってはもう残りの人生などないに等しいのではないでしょうか。
 とすれば、もう人生を終えるしかない。芸術あっての人生。芸術がなければ人生もない。もはや芸術を生めない自分は存在価値がない、存在価値のないものは醜い、醜いものは消えなければならないわけです。
 絵師の死に関して、私は粛々と縊れ死んでいったように思います。

 テーマが「芸術と人生」であることは間違いないと思います。


人気Q&Aランキング

おすすめ情報