江戸に幕府をおいた徳川家康。
ところで,どうして徳川家康は死んじゃったのですか?

Please teach me the reason which Ieyasu Tokugawa died of.

도쿠가와 이에야스가 죽은 이유를 가르쳐 주세요

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A 回答 (9件)

鯛のてんぷら説と胃がん説が有力です。



ただ天麩羅(というより鯛の油揚げ?)食べて数ヶ月苦しむと言うのも無理がありますし、そもそも油揚げで食中毒起こすか?という疑問もありますので、天麩羅を食べて消化不良を起こしたのが、胃癌の最初の自覚症状だったのではないかと思っています。
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この回答へのお礼

胃ガンですか・・・・。ガンは死亡率の高い病気ですもんね。てんぷら食べ過ぎて胃ガンになったとか?

お礼日時:2009/11/15 18:37

>どんだけ鯛の天ぷら食べてたんだろう・・・!


 茶屋四郎次郎が下記の事を言った為に、大鯛二枚と甘鯛三枚を平らげたとか。

   「いま上方では鯛をゴマ油で揚げ、ニンニクのすりおろしとネギをかける料理が流行しており、大変美味でございます」

 ただし、この場合のゴマ油で揚げた物は、今で言うテンプラと言うよりも、魚肉のすり身を成型し油で揚げた薩摩揚げに近い物だったのではないかという説があります。
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こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

NO6.の方の「暗殺説」・・・ありますよ。

第一の説:
(1)実は、徳川家康は慶長5年(1600)9月15日、関が原の戦いで死亡している。

(2)作家の隆慶一郎の「影武者徳川家康」によると、ただちに、世良田二郎三郎元信が、その後の10年余りを家康の「影武者」として努めた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%B1%E6%AD%A6% …

第二の説:
(1)家康は元和2年(1616)4月17日に死亡した、と言うのが通説となっている。

(2)しかし、実は、その約1年前に「胃癌」により死亡している。

(3)影武者となったのは、家康の双子の弟「恵最(えさい)」であった。

(4)恵最は、家康と双子とは言われているが、腹違いとも言われている。家康は「お大の方」から生まれているが、同時刻に「異母弟」として生まれた。

(5)昔は「双子」は「畜生腹」と言われ、忌み嫌われており、異母弟ではあったが、幼くして寺に預けられて育った。そして、「恵最」と呼ばれた。

(6)元和元年(1615)に家康が死亡すると、ただちに、家康の影武者として駿府城に住むこととなった。

(7)3代将軍家光(竹千代)は、家康と春日局との間に生まれた子であったかもしれない。

(8)それが証拠に、秀忠とお江与の方は、三男の国松を可愛がり、次期将軍にしようと考えていた。
(長男は長丸と言ったが早世。竹千代が次男。国松は三男)

(9)しかし、春日局が密かに駿府城へ出向き、竹千代を次期将軍とするように請願し、家康の「鶴の一声」で3代将軍候補と決定する。

(10)その後も、たびたび、春日局は駿府の家康を訪ねている。これは、家康の「愛人」だったからだ。

(11)なぜなら、いくら大奥で乳母として権勢を誇っていたとはいえ、大御所さまに気安く、何度も会いに行ける身分ではない。

(12)しかし、春日局は、何度も駿府城へ訪れている。

(13)家康が密かに死亡した後、恵最が影武者の家康になったが、春日局は、家康の死を隠すため、駿府城へ訪れて、今まで通りの振る舞いをする。

(14)しかし、影武者の家康(恵最)は、秀忠と同じく竹千代ではなく国松を可愛がり、竹千代を「ないがしろ」にし、国松を3代将軍にしようと転覆を図った。
それは、竹千代は生来の吃音症(きつおんしょう=どもり)で容姿も見た目が悪かった。

(15)それを知った春日局は、影武者の家康(恵最)に、実物の家康の死から1年後の元和2年(1616)4月17日砒素を盛り毒殺した。

某TV番組で放映されました。
真意のほどは、あなたの想像に任せます。
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この回答へのお礼

ワオ!歴史って考えてみるとい~っぱいの説が出てきて面白いですね!

お礼日時:2009/11/15 18:35

俗説ですが、てんぷらの食い過ぎや胃がんの他に


梅毒やその治療薬として長年服用した水銀中毒が
なんらかの影響を与えたという説もあるようです。
http://www.2castle.com/episode_03.html


私としては、楽しい暗殺説が出てこないかなぁと待ってます。
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この回答へのお礼

なるほど!
メタボの訳もわかりました!
水銀って怖いですよね・・・。回答してくれて本当にありがとうございました!

お礼日時:2009/09/23 10:33

 家康の侍医であった片山宗哲が残した「片山家譜」によると、「大権現様、御腹中に塊ありて、時々痛みたもう」とありますから、胃癌が原因で死亡したと考えられます。



 なお、家康が鯛の天ぷらを食べたのは1月21日の夕食で、亡くなったのは4月17日であり、食中毒で3ヶ月近くも生死の境を彷徨うのはいくらなんでも…。
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この回答へのお礼

くわし~い回答ありがとうございます!
たしかに約4ヶ月で死ぬとはね~。。。

お礼日時:2009/09/23 10:35

以前、聞いた話ですが、天ぷらによる食中り(しょくあたり)で嘔吐したけれども、なにしろ高齢だったために(満74才)、食道に詰まった嘔吐物を上手く吐き出す力がなく、嘔吐物が気管支の方へ逆流して窒息死したとのことですが、落語家の話ですから、余りあてになりません。

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この回答へのお礼

やっぱり,高齢者は力がないのでそれかも!
回答してくれて,ありがとうございました!

お礼日時:2009/09/23 10:37

寿命でしょう。

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この回答へのお礼

確かにそうかもしれない。。。寿命とメタボでダブルの攻撃で死んじゃったのかな・・・!
回答をありがとうございいました!

お礼日時:2009/09/23 10:39

病死です。

死因の病気は不明ですが『脚気』が一番有力です。
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この回答へのお礼

病死か・・・。
・老人=病気になりやすい
・メタボ=体に悪い
から確かに考えられますね。
教えてくださって,ありがとうございました!

お礼日時:2009/09/23 10:41

確か鯛の天ぷらの食べ過ぎが原因だったかと。




あれだけ健康に気をつけていた人の死因としては妙だなぁと個人的には思いますけどね。
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この回答へのお礼

どんだけ鯛の天ぷら食べてたんだろう・・・!
まあ,おいしそうだけど☆

家康は健康に気を付けていたんですか!初めて知りました!教えてくれてありがとうございます!

お礼日時:2009/09/23 10:44

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Aベストアンサー

コミックでは、
 『風雲児たち』(著者:みなもと太郎、ワイド版がリイド社より出版)
でしょうか。
どちらかというと、江戸時代の後半~幕末を扱っている作品ですが、最初の
数巻は江戸時代初期の話を取り上げており、徳川家康の策謀ぶりをわかり
やすく描いています。

歴史小説では、なんといっても
 『関ヶ原』(著者:司馬遼太郎)
ですね。まさに権謀術数の世界です。
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文禄3年、西暦で言うと、1594年5月3日。
黒田長政の仲介により、徳川家康と出会った柳生宗厳が、家康の前で「無刀取り」を披露したことによって、兵法指南役に迎えたいと家康より申し出を受けました。
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徳川幕府の滅びた原因に国内と国外からのプレッシャーがあったとあるサイトで読んだのですが、具体的にはどのようなプレッシャーがあったのでしょうか?3~4つずつ挙げていただけると嬉しいです。(もちろん一つでも構いません)

よろしくお願いします。

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>具体的にはどのようなプレッシャーがあったのでしょうか?

(1)将軍家の衰退
(2)世界の重商主義台頭の波に乗り遅れた
(3)19世紀欧米列強の帝国主義に抗し切れず、開国せざるを得なかった
(4)諸藩の人材育成に大きく遅れてしまった

(1) 将軍家の衰退
家康によって樹立した徳川幕府も三代将軍家光までで、それ以降優秀な将軍は現れず、衰退します。 家康は将軍家を補佐するため水戸藩、尾張藩、紀州藩を御三家として、この中から優れた人材の発掘を命じています。 

八代将軍の吉宗は紀州藩の殿様から将軍になり、享保の改革を行い、徳川幕府を建て直しました。 しかし、19世紀に入ると将軍は凡庸で、これを補佐する老中にも人を得られず、弱体化して行きます。

(2) 世界の重商主義の波に乗り遅れた
世界は18世紀後半にイギリスで始まった産業革命でそれまでの農業中心から工業中心に変わっていきます。 しかし、日本はこの世界の進歩発展をわずかに長崎の出島でオランダ人を通してしか知ることが出来ませんでした。 

士農工商の厳格な身分制度で経済の実験を握っていた商人を一番低い身分に置いたまま。 これでは世界の波に乗り遅れるのも当然です。 19世紀に入ると、日本にも佐久間象山(さくましょうざん)のように洋学といって欧米の先進技術に精通した研究者はいました。 しかし、徳川幕府は彼を登用しませんでした。 

(3)欧米列強の帝国主義の波に抵抗できなかった
前の世紀に産業革命を経験したイギリスに触発され、ドイツ、フランス、オランダ、ロシア、アメリカはアジア、アフリカに進出し、植民地を巡って競争を繰り返します。 19世紀の後半になると、関心は極東に向けられます。 彼らは強大な武力を背景に徳川幕府に開国を迫ります。 

彼らの武力にたいし、長州藩が1863年馬関海峡を封鎖し、馬関戦争が勃発しますが、鉄砲と大砲の火力の差を骨の髄まで知らされることになります。 この戦争によって、徳川幕府は欧米列強との武力の差を知ることになります。 
 
(4)人材育成の遅れ
徳川幕府の他の諸般に対する一番大きな差は人材育成の立ち遅れにあります。 徳川幕府は昌平坂学問所を作り、旗本の子弟育成に当たります。 しかし、ここの教授陣には洋学の」素養もなく、旧態依然とした朱子学に根ざしたもの。 

19世紀の日本には各地に優れた私塾がたくさんありました。
広瀬淡窓(たんそう)の咸宜園(かいぎえん)、緒方洪庵の適塾、吉田松陰の松下村塾(しょうかそんじゅく)などです。

幕末の偉人に大きな影響を与えた吉田松陰は10才の時、時の長州藩の藩主に新春の進講講義をして論語を説いたほどの俊英でした。 そこで藩主の毛利公は参勤交代の列に14才の松蔭を加え、江戸に連れて行き、佐久間象山に洋学を学ばせ、さらに広瀬淡窓に博愛の心を学ばせています。 

このように各藩は子弟の教育に励んでいます。 長岡藩小林虎三郎による米百俵(こめひゃっぴょう)の逸話も子弟教育に対する熱意を示すものです。

しかし、権力の座にあった徳川幕府は子弟教育に大きく遅れを取り、薩摩長州を中心とした勢力との権力闘争に敗れてしまったのです。 

これは長年政権与党の座に居続けている自民党の若手議員が、」ひ弱で無能なのと似ていませんか。

>具体的にはどのようなプレッシャーがあったのでしょうか?

(1)将軍家の衰退
(2)世界の重商主義台頭の波に乗り遅れた
(3)19世紀欧米列強の帝国主義に抗し切れず、開国せざるを得なかった
(4)諸藩の人材育成に大きく遅れてしまった

(1) 将軍家の衰退
家康によって樹立した徳川幕府も三代将軍家光までで、それ以降優秀な将軍は現れず、衰退します。 家康は将軍家を補佐するため水戸藩、尾張藩、紀州藩を御三家として、この中から優れた人材の発掘を命じています。 

八代将軍の吉宗は紀州藩の殿...続きを読む

Q泉岳寺と徳川家康について

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その他、関連情報もありましたらお願いします。

Aベストアンサー

景徳院http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AF%E5%BE%B3%E9%99%A2
有名なのは武田ファンに有名な武田勝頼の菩提を弔う為に創建した景徳院です。
武田滅亡の後、領民、旧臣の人心掌握の意味もあったのかもしれませんが秀吉に対して行った豊国神社の神号:豊国大明神を廃したりしたのとは対照的扱いです。

大光院
徳川家康が新田一族の世良田・得川氏の後裔と称した為、
幕府開いた後に新田義重を祀る為に創建。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%85%89%E9%99%A2

Q徳川家康が江戸に開幕した理由

徳川家康が江戸に開幕した理由がお解りでしたら教えて下さい。

Aベストアンサー

江戸は「家康が開闢した都市」と一般に唱えられていますが、これは江戸時代に家康の神格化の為に造られた話であり、実際には江戸は室町後期の時点で既に関東有数の大都市でした。
これは江戸が海上、河川、陸上交通の結節点であり、関東平野の物流の集散地であったこと、そして関東平野の中心近くに位置して都市を発展させる余地が大きいことからくる当然の帰結です。
しかしながら戦国時代においては江戸湾の出口を扼する房総半島と江戸を同時に掌握した勢力は無く、江戸湾を封鎖された場合の事を考えれば江戸に本拠を置くのは難しい問題がありました。
関東入りした家康の場合ですが、北条氏の本拠であった小田原は領地の中では西に偏り過ぎており(これは北条氏が今川氏など強大な勢力をもつ西側ではなく、東側に領土拡大を目論んだからです)、もし秀吉と一戦交えるとなれば箱根を突破されれば直撃されてしまう小田原に本拠地を置くのは危険です。
これはもちろん小田原攻めに参加した家康本人も教訓として身にしみていたことでしょう。
そこで家康は領土のほぼ中央に位置し、交通の結節点であり、関東の物流の中心であった江戸を本拠地に選んだと思われます。
なおこの時点でも房総半島の先端部の安房は里見氏が位置していましたが、里見氏は小田原攻め時の不始末により取りつぶしになりかけたところを家康の取りなしで助かった事で徳川家と誼を通じるようになり、家康としてはほぼ問題無く江戸に本拠を置くことが出来たと思われます。
(ちなみに里見氏は幕府成立後、あっさりと改易されてしまいます)
このように江戸は家康が本拠地を置くのにふさわしい場所であったと言えます。
そして上述の交通の結節点であり、開発余地が大きいという利点は、家康が江戸に幕府を開いてからも変わらず、現在に至るまで日本の中心地であり続けているのです。

江戸は「家康が開闢した都市」と一般に唱えられていますが、これは江戸時代に家康の神格化の為に造られた話であり、実際には江戸は室町後期の時点で既に関東有数の大都市でした。
これは江戸が海上、河川、陸上交通の結節点であり、関東平野の物流の集散地であったこと、そして関東平野の中心近くに位置して都市を発展させる余地が大きいことからくる当然の帰結です。
しかしながら戦国時代においては江戸湾の出口を扼する房総半島と江戸を同時に掌握した勢力は無く、江戸湾を封鎖された場合の事を考えれば江戸に...続きを読む

Q徳川家康が死んだ理由は?

江戸に幕府をおいた徳川家康。
ところで,どうして徳川家康は死んじゃったのですか?

Please teach me the reason which Ieyasu Tokugawa died of.

도쿠가와 이에야스가 죽은 이유를 가르쳐 주세요

Aベストアンサー

鯛のてんぷら説と胃がん説が有力です。

ただ天麩羅(というより鯛の油揚げ?)食べて数ヶ月苦しむと言うのも無理がありますし、そもそも油揚げで食中毒起こすか?という疑問もありますので、天麩羅を食べて消化不良を起こしたのが、胃癌の最初の自覚症状だったのではないかと思っています。

Q室町幕府と徳川幕府

共通点があるのですが
 
 初代(尊氏と家康)はどちらももちろん有名
 どちらも3代(義満と家光)が優秀でこの代で幕府体制が
 確立され、またどちらも名前に「みつ」が付く
 その後はどちらも良くも悪くも8代(義政と吉宗)が有名
 さらにその後はどちらも特出した将軍はいない
 そして何と言ってもどちらも15代で終わり

 ただの偶然でしょうか?

Aベストアンサー

この2つの幕府ですけど、良くも悪くも初代の性格が色濃く反映されています。
徳川家康は、ご承知の通り三河の大名から天下人になりましたが、猜疑心が強く、身内の情に薄く、冷徹な性格のため、初期に生まれた子供たちはほとんど殺したり、死ぬように追い込むようなことをした結果、個人の資質を信用しないため、幕府をシステムとして捕らえ、集団で意思を決定する組織を作り上げました。
3代将軍家光も、優秀とはいえない将軍ですが、完成されたシステムの中で生まれた初めての将軍ですから、各種の制度を整え、大過なく人生を全うしましたが、個人の資質としてはかなり落ちると思います。
また、8代将軍吉宗は、初めて直系以外から将軍になりましたから、しがらみが無く各種の改革を行いましたので、中興といってもよいのですけど、結果論としては功罪相半ばする業績ですね。
因みに、15代将軍の慶喜は極めて優秀な人物ですけど、秀才にありがちな泥臭さを嫌う点が残念な将軍と思いますし、幕府を再興しようという熱意は、室町15代義昭にも通じるものがあります。

一方の足利尊氏は、義侠心に富み、勇敢で物欲の薄い、将に男の中の男という人物ですが、家族や功のある部下を冷酷に切り捨てることが出来なくて、不安定な幕府になってしまいます。
パソコンでもそうですけど、安定したシステムを構築するためには、レガシーというか、古い規格との共通性を求めると不安定になり、これがWindowsMeが評判が悪い理由で、ある時点で思い切って古いものを切り捨て、新しい規格だけで組んでいく必要があります、WindowsNTのように。
尊氏はこれが出来ないために、終生弟や養子に出した実子の反乱に苦しめられ、増長した家臣を治めきれず、ひ弱な幕府になってしまいました。
その中で、3代義満は怪物といってもよい政治家で、権謀術策を弄して、幕府の権威を高めます。
資質としては、徳川家光とは比べ物にならない高い力量で、家光がシステムの上に乗った将軍なら、義満は自分の才知で政治を動かした将軍ということになります。
但し、室町幕府が最大領土になったのは、6代義教の治世で、この義教は織田信長に匹敵する改革者とも言われますが、信長同様、部下の裏切りにあって絶頂期に暗殺されます。
この義教にあたるのが、徳川では5代将軍綱吉で、綱吉の時代に戦国の殺伐とした習慣は無くなり、儀礼に支配される世の中になりますから、ある意味綱吉も時代の常識を変えた政治家です。
彼以前では、例えば水戸黄門ほどの人格者でも、刀を試すために乞食を切ってみたりしていますし、九州地方から江戸に来た武士達は、犬コロ飯といって、野良犬を捕らえて食べていましたから、まだまだ戦国の気風が残っています。
足利義教の死により、幕政の改革は頓挫し、信長の死後、秀吉や家康が織田家を空虚なものにしたように、畠山、細川といった有力大名が将軍を操るようになって、8代義政は諦めの境地だったのでしょう。
この点は、中興の祖というべき、徳川将軍の8代吉宗とは大いに違います。

こうしてみますと、大体3代目で幕府の骨格が完成する、5or6代目で一つの切があって、真ん中の8代目で転換期を迎える、足利氏はこの8代目で戦国に突入し、徳川氏は系統が宗家から枝に移った。
偶然ともいえるし、必然ともいえますね。

この2つの幕府ですけど、良くも悪くも初代の性格が色濃く反映されています。
徳川家康は、ご承知の通り三河の大名から天下人になりましたが、猜疑心が強く、身内の情に薄く、冷徹な性格のため、初期に生まれた子供たちはほとんど殺したり、死ぬように追い込むようなことをした結果、個人の資質を信用しないため、幕府をシステムとして捕らえ、集団で意思を決定する組織を作り上げました。
3代将軍家光も、優秀とはいえない将軍ですが、完成されたシステムの中で生まれた初めての将軍ですから、各種の制度を整え...続きを読む

Q幕末の外様大名と徳川家康の関係

幕末、倒幕・佐幕に分かれて争いがありましたが、薩長を含め、外様大名と徳川家康とはなんらかの関係があったのでしょうか。
知っているのは、加賀・前田家はかつて前田利長が徳川家康の恫喝に屈し、母まつを人質に出すという屈辱がありましたが、幕末時の前田家の当主の母はかつての将軍の孫、つまり徳川家康の子孫であるので、積極的に幕府を戦おうとしなかったことぐらいです。。
他の大名はどうだったのでしょうか。

Aベストアンサー

250年前の話を持ち出して、自分たちの「家」の存続を考えるだろうか?
大名個人の都合より、大名家中という組織が生き延びるために幕末の各大名家はあれこれ考えています。
※ 江戸期によくあるのが、主君押し込めという行為。重臣達の言うことを聞かない主君を軟禁したりしています。

ということで、各大名家と徳川家の関係が近い遠いによって、各大名家の行動を決することは出来ない。
紀州藩だってこんなこと
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E8%8C%82%E6%89%BF

Q江戸幕府が江戸に置かれた理由

こんにちは

徳川家康が、江戸幕府を江戸に置いた理由を
知りたいのですが
なぜか、ご存知の方いらっしゃいませんか?

どうぞ、よろしくおねがいします><

Aベストアンサー

こんなところではないでしょうか?

(1)京都の朝廷の影響から出来る限り逃れるため
(2)幕府が開かれた当時、徳川家に反逆する可能性があった大大名は島津家・毛利家・前田家・伊達家くらいで、それらの大名の侵略を考えた場合、大阪・名古屋よりも江戸が防衛上適していた
(3)戦国時代の技術革新で土木技術がすすみ、単なる湿地帯だった武蔵野が有力な穀倉地帯になる見通しがついた
(4)領地が変わると、家臣も引越しで負担がかさみ、現地で徴収される兵士の忠誠度も低い&これまで忠誠を尽くしてくれた支配民と別れなければならない。ほぼ敵なしだったとは言え、既に基盤のできている江戸から他の地域に拠点を移すことは徳川家にとってやはり大きなリスクだった


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