幕末、倒幕・佐幕に分かれて争いがありましたが、薩長を含め、外様大名と徳川家康とはなんらかの関係があったのでしょうか。
知っているのは、加賀・前田家はかつて前田利長が徳川家康の恫喝に屈し、母まつを人質に出すという屈辱がありましたが、幕末時の前田家の当主の母はかつての将軍の孫、つまり徳川家康の子孫であるので、積極的に幕府を戦おうとしなかったことぐらいです。。
他の大名はどうだったのでしょうか。

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A 回答 (2件)

250年前の話を持ち出して、自分たちの「家」の存続を考えるだろうか?


大名個人の都合より、大名家中という組織が生き延びるために幕末の各大名家はあれこれ考えています。
※ 江戸期によくあるのが、主君押し込めという行為。重臣達の言うことを聞かない主君を軟禁したりしています。

ということで、各大名家と徳川家の関係が近い遠いによって、各大名家の行動を決することは出来ない。
紀州藩だってこんなこと
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D% …
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
御三家であっても倒幕側に属した家があったとは知りませんでした。

お礼日時:2009/09/30 07:47

 大名の数だけ、徳川家との血縁の親疎があります。



 ある程度知識はありますが、回答のための裏づけを取るのに物凄く時間がかかりますので、断念しました。ウィキペディアの各藩の歴代藩主の情報にも、家族(父母・子供等)の情報がありますので、ご自身でお調べになることを勧めます。

 一例として、戊辰戦争期の当主が御三家からの子孫だった(当然徳川家康の子孫)外様大名の当主もいました。それぞれ30万石以上を領した鳥取藩・岡山藩の当主がそうです。ちなみに両藩は官軍(倒幕側)に属しました。
 
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
徳川慶喜の兄弟であっても倒幕側に属した家があったとは知りませんでした。

お礼日時:2009/09/30 07:50

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(倒幕)-10ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー10(佐幕)
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父利家は徳川を封じ込める方針で
後に徳川方となる加藤清正、浅野幸長などは利家に恩義があったため利家存命中は前田支持を鮮明にしていたため、家康も利家を警戒していました

しかし利家が没すると一気に家康がね天下取りの行動を加速させます

利長はそれなりに戦功も内政経験もそこそこありましたが
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恐らく母おまつの意も受け、利長が目指したのは前田の家名を残すことに専念します

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Q幕末の薩長土肥の殿様

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Aベストアンサー

各藩によって事情が異なるので、それぞれに説明します。
薩摩・長州・土佐・肥前とは言いますが、実際、倒幕の大きな力となったのは薩長なので、まずこれから。

長州藩。
長州藩は歴代、他藩と比べあまり藩主が力を持たない藩として知られていました。
これは、毛利元就の遺言による補佐政治の影響と言われています(吉川・小早川の毛利両川が輝元を補佐する)
江戸期を通じ、官僚的な意味で有能な家臣が多く出たことも加わり、
藩主はそれほど政治に口を出さなかったようです。
倒幕期の当主、敬親公はそれに輪をかけたような人物でして・・。
「うん、そうせい」という返事が多かったことから「そうせい公」と呼ばれていました。
倒幕後、明治になった後に、家臣に「俺はいつ将軍になるのか?」と聞いたという逸話からも、
倒幕の意味を分かっていないほど政治から遠い存在でした。

最も、権力欲は無く、廃藩置県にも積極的、有能な家臣団をみつける目も持ち、
そして彼らに政治を任せるだけの度量を有していたという意味で決して凡人ではないと私は思っていますが。
家臣団に広く愛された藩主でもありました。

加えて長州藩は、関ヶ原において本領安堵の約束を破られたこと(120万石から30万石に減らされた)の恨みから、
反徳川の思想を濃く持っていた藩でした。
新年拝賀の儀で筆頭家老が「今年は倒幕の機はいかに」と藩主に伺いを立てると、
藩主は毎年「時期尚早」と答えるのが習わしだったという説もあります。

長州においてはこれらの複合的な要因があり、藩主は倒幕を止めませんでした。

薩摩藩は、完全に大久保・西郷らの暴走を止められなかった、の一言につきます。
実際、藩主としての実権を握っていた久光公は「倒幕はするな」と止めたにもかかわらず、
倒幕を実行したということで、大久保・西郷らを維新後「不忠者」と呼んでいます。

土佐・肥前に関しては、幕末の本当の最後の段階になって、実戦部隊が薩・長に加わった、というところです。
土佐藩は、板垣退助が京都に兵を送った際、「薩摩が戦いを始めたら、何も考えず共に戦え」と命令したようです。
実際、藩主容堂公はぎりぎりの段階まで、徳川維持の思想を持った人間でした。


長文になってしまい、すいません。 理解の一助になれば幸いです。

各藩によって事情が異なるので、それぞれに説明します。
薩摩・長州・土佐・肥前とは言いますが、実際、倒幕の大きな力となったのは薩長なので、まずこれから。

長州藩。
長州藩は歴代、他藩と比べあまり藩主が力を持たない藩として知られていました。
これは、毛利元就の遺言による補佐政治の影響と言われています(吉川・小早川の毛利両川が輝元を補佐する)
江戸期を通じ、官僚的な意味で有能な家臣が多く出たことも加わり、
藩主はそれほど政治に口を出さなかったようです。
倒幕期の当主、敬親公は...続きを読む


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