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関が原の戦い後、豊臣秀頼の所領が65万石に減らされました。豊臣家のための西軍でしたが、西軍の総大将は毛利輝元だったと思います。
なぜ豊臣秀頼の所領が減らされたのでしょうか?減らされたとき抵抗はなかったのですか?
家康も豊臣家のために戦うと言う事で味方の大名を集めたのではないのですか?それなのに豊臣家の所領を削れたのはなぜですか?
豊臣秀頼が所領を大幅に減らされてもしょうがないくらい西軍に肩入れしてたからだと思うのですが、そうだとするといろんな事情はあるにせよ、家康に味方した秀吉子飼の大名たちは、自分たちが勝つと秀頼の所領が減らされることは予想できたと思うのですが?
それとも65万石しか相続してなかたのですか?

A 回答 (6件)

たしか「家僚の多くが西軍に荷担したため」が理由だったと思われます。

(実際には、豊臣家の力の軽減及び関ヶ原における論功行賞の配当源確保、金山等の確保といろいろ考えられます。)
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家康は秀吉没後、豊臣政権内部の対立を利用して、豊臣家から徳川家への政権交代を密かに計画しました。


豊臣政権内部の対立とは、石田三成、小西行長を代表する勢力(文官)と、秀吉子飼いの野戦派、加藤清正、福島正則達の感情的な対立です。
秀吉の死後、2派の対立により政情不安が続き、秀頼が幼いこともあり、家康は豊臣政権下の最大の大名として政情不安を治めるべく期待されるようになり、本人もそれに乗じようとしました。

関ヶ原の戦いの発端は、上杉景勝征伐から始まります。
家康が豊臣家大老として動員した(公戦)兵力を持って米沢の上杉攻撃のため大坂を離れている間に、三成が家康の罪状(秀吉の遺訓破りなど)を持って、秀頼の名前で兵を動員して挙兵します。三成は家康と自分とでは格が違うため、毛利輝元を総大将に担ぎ出します。毛利家では家臣の大半が反対しましたが、直情的な性格の輝元は、三成に説得されており大坂城に入場しました。
これは家康の予想通りであり、豊臣政権2派の対立をあおることにより、1派(野戦派)を味方に引き入れもう1派を倒すこと(豊臣政権を倒すこと)に利用する構想でした。その仕上げが関ヶ原の戦いです。

清正、正則、池田輝政らは豊臣家への愛着はあるものの、三成憎しの思いと、関ヶ原以前の家康の配慮により家康に味方することになります。
家康は当時誰も逆らうことのできない実力があり、豊臣家諸将に対しては味方に引き込むべく親戚関係になるなど既に手をつくしており、関ヶ原の戦い自体も家康が反豊臣の旗をかかげてた起きた訳ではないところが、豊臣恩顧の諸将が家康に味方したポイントだと思います。

関ヶ原の合戦後、家康は大坂城に入り(この時巧みにも、豊臣家大老としての立場で入城し、秀頼に拝謁までしています)論功行賞を行い、大名の配置を家康中心に変更しました。
三成を代表とする反家康勢力が壊滅した後では、邪魔する勢力はありません。豊臣政権を転覆させることが目的ですから、秀頼の所領も削られました。所領だけでなく当時の二大貿易港(堺と博多)を豊臣家の直轄から徳川家の直轄にするなどしました。
家康に味方した秀吉子飼の大名達は、家康が勝つと秀頼の所領が減らされることについて、予想できたかどうかは難しいです。
現在から考えると当然予想できそうなのですが、家康のトリックが巧みでそれに気づかせず、家康は関ヶ原の戦い後に徳川家が天下を押さえる体制を、既成事実として作り上げてしまったというところでしょうか。

関ヶ原の後に秀頼を滅ぼさなかったのは、秀吉没後すぐに秀頼を殺すことは、他の大名の反感を招く恐れもあるため、慎重な家康はまず自分の勢力の拡大を着実に行い、家康の天下が明白になったのちに、豊臣家を滅ぼした(大坂の陣)と言えます。
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関ヶ原の合戦によって勝利した東軍側の恩賞として与えられた領地は、没収された領地を上回る石高となり、結局豊臣家に残された直轄領が65万石にしかならなかった。


これは徳川家康が豊臣家の筆頭家老の身分にて画策した、論功行賞なので、豊臣恩顧の大名だって喜んだはずです。
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秀頼と家康との闘争で終始一貫しているのは最後まで家康が大義名分において「豊臣家」への忠誠をまもっている「ふり」をしている、と言うことです。


それでは、実際に家康の戦略はどうであったのか、というと豊臣家の勢力を減らし続けてゆく、というものでした。もし、自分代でかなわなければ秀忠以下子孫の代で、いつか豊臣家を滅亡させる、というものでした。それは彼の一連の行動を見ればわかります。

そうした「だまし」のもっとも象徴的な事件が大阪冬の陣のとき、和睦の条件として「外堀」だけを埋める、というものがいつの間にか「総ての掘」を埋め立ててしまった、ということです。もちろん淀君をはじめとして豊臣方が憤慨しないわけはありません。それでも家康側はのらりくらりと説得してしまいます。そうした、子供だましのような戦略にひっかかり、簡単に説得されてしまうことろをみると、彼らについてゆこうとする大名はなかなかいなかったのではないでしょうか。

「関が原の合戦」も本質は家康対豊臣の戦いであったにもかかわらず、全くそうした認識が淀君、秀頼になかったのです。これは驚くべき無知、無明といわざるを得ません。おそらく、まともな大名であれば、次の天下が家康のものだということは簡単に分かっていたのではないでしょうか。そうした意味で天下の情勢はかなりはっきりとしていたのですがそこまでこじれてしまったのは秀吉の往生際が悪かったことによります。はっきりと家康の天下を認めるべきだったのでしょう。そこで、昨年、大河ドラマの主人公になった、前田利家を五大老にまで持ち上げて、家康に対抗させたりしますが、彼らも「おまつさん」が機転をきかせて最後には、家康に忠誠を誓います。要するに、「豊臣恩顧」の大名たちも「もはや時代は徳川のものだ」と分かっていたのです。当時、最後まで秀頼にたいして忠誠心を持っていたのは、加藤清正と福島正則のみであったようです。

だから、関が原以降、豊臣側についた真田などの元大名たちも最後の大逆転を狙った「山師」的な人たちであり、決して大名ではありません。ただ、彼らの中にも多くは魅力的な人たちであったようです。

自分は以上のことを司馬遼太郎の「関が原」「城塞」という小説で知りました。
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豊臣氏が家臣に貸していた土地が、関が原によって没収されてしまった為、結果的に豊臣氏の所領が減っちゃたのです。

まぁー、それ以上に取られちゃってますけど・・。
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これは、関ヶ原の論功行賞という問題以前から発生していました。


秀吉死後、前田利家死去、石田三成追放などで筆頭大老という肩書きの元、豊臣政権を欲しいままに牛耳っていた家康は、徳川政権成立を狙います。
この時、家康が思い付いた策が、自らの地位を利用して豊臣家の領地を親交の深い大名やこれから懐柔して行く大名にどんどん譲っていくというものでした。
こうして朝鮮出兵で困窮していた豊臣恩顧大名などが一斉に家康を感謝し鞍替えを始めたのです。
豊臣家の力を削ぎ、自らの派閥の協力者を増やし政権交代を狙い、しかも筆頭大老という地位を利用し秀頼があたかも譲ったかのように見せかけ世間の批判を交わせる一石三鳥くらいの謀略というか策で天下取りを家康は狙ったのです。そして、この領地移譲で恩を売られた大名は、家康側として関ヶ原の戦いで奮闘勝利しました。
実は、豊臣家の領地は、関ヶ原前に減らされていたのです。
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