大人になりきれない大人のことをアダルトチルドレンって言うんですよね?
でも「大人」ってなんでしょう?

大人の物の考え方って?子供の物の考え方って?

社会の事を良く分かっていて世間とソツ無く付き合って行けるのが大人?
のほほんとサラリーマンやってるより
夢を持ってそれに向かって歩んでいくのが本当の生き方だと思うのは子供?

ダンスが好きで、仕事を続けながらもダンスはいい加減にはやりたくなくて、
でも仕事で残業があったりしてレッスンに行けなかったり公演に出れなかったり。
仕事はハードなんですが遣り甲斐はあるんです。
でもそれが人生の目的とは思えない。やっぱり金のためなんですよね。

あと数年、仕事は定時で上がれるくらい楽になってダンスに打ちこめて、
もう十分やったって思ったら今度は仕事に打ち込む、
そんな事が出来たらいいなーって思って。
でも現実はそうはいかない。仕事をやめてダンスを生業とするほどの根性も無いし。

ダンスが生きる目的かって聞かれるとそうも思えない。
何の為に生きてるんだろうって考えると訳分からなくなる。
分からないのが納得できなくて、納得できない事に諦めが付かない。

こんな考え方って子供っぽいですか?
こう言う状況の時、大人ならどうやって対処するんでしょう?

慰めよりも冷静な意見を聞かせて欲しいです。
出きれば人間の精神的成長を専門に勉強・研究している方にお願いします。

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A 回答 (6件)

>大人の物の考え方って?子供の物の考え方って?


考え方で言うと、現実的か空想的かの違いだと思いますよ。
現実的なら保守的になりやすいから、地道な生活になる
だろうし、空想的なら革新的になりでかいことをやり遂げる
かもしれない。
一概に大人の考え方(現実的)が良くて、子どもの考え方(空想的)
が悪いとは言えないでしょう。

taropooさんには特に精神的成長は必要ないと思いますよ。
いくつになっても夢を持っていることはよいことです。
仕事のことや将来のことをしっかり考えているようだから、
眼前の空想に釣られて衝動的に行動しているわけでもないし。
子どもだとは思いません。

ただ優柔不断にならず、しっかり自分で決断した方が良い
と思います。どちらに転ぶにしても決断ができていれば
後悔は少ないです。
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この回答へのお礼

これ。こういうお話が聞きたかったです。
「現実的か空想的か」の違いですか。なるほど。

それと
>一概に大人の考え方(現実的)が良くて、子どもの考え方(空想的)
>が悪いとは言えないでしょう。
にも納得。
現実的な大人になりたいとは思いません。空想的である事は感性が繊細である事で、それは僕の長所だと思ってますから。それは無くしたくない。

ちょっと迷いが晴れた気がしました。ありがとうございました。

お礼日時:2001/03/19 16:02

先日回答したennoと申します。


私は、慰めたつもりはありません。
というか、taropooさんが落ち込んでいるとも思いませんでした。
私なりの答えを一生懸命書かせていただいたつもりです。
しかし、慰めと感じられてしまったのなら申し訳ありませんでした。
taropooさんの返答を呼んで、私はそうとうムカつきました。
私は子供っぽいようです。
こんなところにしゃしゃり出てきてしまい、
恥ずかしい気持ちでいっぱいです。
また、自分の考えをきちんと人に伝えることが出来なくてとても残念です。
もう少し国語の勉強をして、出直してこようと思います。
とにかく、私の回答であなたをがっかりさせてしまい、スイマセンでした。
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この回答へのお礼

うーん、コメントがしづらいですが。。。

あの真剣なご回答にあのそっけない返事は大人でもムカついて当然でしょう。
非はこちらにある事は読み返せば僕でもよく分かります。
どうかご自分を責めることのない様。

snakesoulさんの「現実的<->空想的」という図式が僕にはとてもしっくり来ていて気に入ってるんですが、
誹謗中傷を浴びた時にどう言う心理状態になるかという別の視点から大人っぽさ子供っぽさ論を展開するのも面白いかもしれませんね。
もうちょっと一般的に、ストレスに対してそれぞれがどう対処するか、とか。
ま、それはまた別の機会と言う事で。

お礼日時:2001/03/21 03:32

taropooさんの聞いていることに対して違った角度からお答えいたします。


ただ、求めている答えとはならないかもしれませんが。

日本語には昔、一人前(「ひとりまえ」と読みます)という言葉がありま
した。これは主に村落社会の中でその社会で大人として扱われるための、
基準的な仕事量をあらわす言葉です。
例えば、15貫(約60kg)の荷物を背負って、3里(約12km)の道を歩いて
くるのが普通であるとか、一日に何反(ちょっと分量を思い出せません)
かのたんぼを耕せる、とかいうもので、これができて始めてその社会にお
いて大人であると認められ、他のすべての大人と対等につきあってもらえ
るようになり、共同社会の分け前もきちんと一人前がもらえるようになる
わけです。

現代では社会構造が変化し、働くということの意味が見つかりにくくなっ
ている為に、「金のために働く」という言葉が出てきます。また、社会全
体が豊かになっているために働くことが直接的な生産労働とは限らなくな
っています。その働きの尺度として、「お金」があるために一層わかりに
くくなっています。

大人とは「一人前の働き」ができること、子供とはまだそこまで働けない
段階であるというように、昔は単純ながらはっきりとした区別があった訳
です。そうして社会の中で大人として認められたものの考えが「大人の考
え」であり、まだ一人前でないものの考え方は「子供の考え」であったと
言えます。

こうしたはっきりとした区別がなくなったときに「青年期」という言葉が
でてきます。つまり、子供と大人の境界に青年がいるわけです。社会の中
で「ひとりまえ」がはっきりしなくなり、大人と子供の区別があいまいに
なったときに青年は生まれますが、言葉として「大人の考え」「子供の考
え」は残ります。現実的・具体的であるものと空想的・抽象的なものとの
差であるようにもそれは考えられますが、現代ではある意味でこの区別を
することは無意味に近いものがあると私は思います。

現代においても大人とは、自分が社会の一員であることを自覚し、社会の
中で、また社会と共に働くことができ、自らの社会を作り上げていこうと
する人間のことではないかと思いますが、そうした自覚の上での考え方が
大人の考え方であるように思います。

求める方向と私の答えとが異なるとは思いますが、いかがでしょうか。
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この回答へのお礼

専門家との事なので「そうか」としか言い様がありませんが、果たしてその「昔」には本当に大人と子供の区別があったのか、言いかえると体力的にはあったのかもしれないけどそれと精神的なものとが対応していたのか。素人ながらに、やっぱり昔も体は大人になったけど考えは子供の域を脱していない若者はいたんだと思います。秀吉に影響されて百姓をやっている自分に疑問を感じている若者とか。違いますかね、やっぱり素人考え?

>現実的・具体的であるものと空想的・抽象的なものとの
>差であるようにもそれは考えられますが、現代ではある意味でこの区別を
>することは無意味に近いものがあると私は思います。
なぜ無意味なんでしょう?文章の意図が読み取れませんでした。
snakesoulさんが答えてらっしゃるように、それがいいとか悪いとかではなく、現実的・具体的なのが大人の考え方、空想的・抽象的なのが子供の考え方と区別する構図はとても分かりやすくて実感が沸きました。実感を持って理解する事に何の意味があるんだと言われてしまうと、この質問自体が無意味と言う事になってしまいますので、それは無しと言う事で。ちょっとピントがずれたかな?

>現代においても大人とは、自分が社会の一員であることを自覚し、社会の
>中で、また社会と共に働くことができ、自らの社会を作り上げていこうと
>する人間のことではないかと思いますが、そうした自覚の上での考え方が
>大人の考え方であるように思います。
これも、大人のもつ側面の一例に過ぎないような気がします。社会を意識することなく日々家庭を切り盛りしている専業主婦は大人ではないとは言い切れないでしょう。

でも視点の違ったご回答、楽しませてもらいましたよ。

お礼日時:2001/03/20 01:04

taropooさんは既婚者ですか?未婚者ですか?


結婚し、親戚との付き合いや近所づきあい、子供の養育などが義務っぽくなり、
なにより配偶者を養う(最近は女性でもそうですね)ようになると、
未婚の頃の「こんな会社のままで良いのか?」が、
「生活の為」にお金と地位(といっても社会人という地位ですが)は絶対必要だと痛感させられ、
趣味をもちつつも好きどうか分からない仕事をやっていくのが一番無難だと感じるようになると思います。
自分だけで生きて行くなら様々な道があっても、
(極端な話浮浪者となって生活費や税金などを節約してもいいわけです)
家族がいると結構選択肢が減るものです。
毎月の家賃やローン、食費、生活費、学費、交際費・・・
今は不景気だし、転職といってもなかなか見つかりませんしね。
私は、大人とは、生活し、誰かを扶養できる状態かな、と思っております。
つまり自分本位ではなくなるということです。
だから、結婚していてもお給料は全て自分持ち、
家事もせず育児もせず自分のことだけしていて、
家族に文句言われるとキレるようなひとは社会人でも子供なのだと思います。
夢を持ってそれに向かって歩んでいくのは、
すばらしいけれど難しいとお思いのようですが、
それで家族が養えるなら、だれも文句は言いません。
立派な大人です。
ちなみにうちの主人は自分で興した会社を持っています。
ある意味、夢に向かって歩んでいる状態です。
とはいえ、他社との人間関係、納期トラブル、仕事上の疲労やストレス、部下への指導法など、
サラリーマンと大して変わらない悩みを持っています。
そして、仕事が早く終われば趣味のテレビゲームをしたいけれど、
どうしても仕事が押してしまってなかなか出来ない状況です。
何のために生きているのか悩むときもあるようです。
けれどなんとか生活しています。
もしtaropooさんがダンスの道に生きるとしたら、きっと同じようだと思います。

そもそも、何のために生きているのか分かってしまったら、
死ぬまでずっとつまらないと思います。
だって、精神的なことなどを抜きにすれば、
生物は全て子孫繁栄のためだけに生きているわけですから。
taropooさんは、こうして悩んでいるので、
のほほんと生きるサラリーマンではないと思いますよ。
今後いいことがあればきっと悩みなんて忘れちゃいます。
ふと気づいた時、じっくり考えてみるのはいいことですよね。
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この回答へのお礼

もう1度言いますが、慰めよりも冷静な意見を聞かせて欲しいです。
何か「思いっきりテレビ」の様になって来ちゃって。具体的な例を出しちゃったのがまずかったかな?

こう言う状況の時、大人ならどう感じどう観るのか、大人と子供の世界観の違いみたいな事が知りたいんですが。

お礼日時:2001/03/19 15:55

精神的成長を専門に勉強してませんが、回答させてもらいます。


昔、恩師からこのような言葉を聞いて、妙に納得してしまいました。
「やりたい仕事や夢を追い求めているのは子供」
「自分にできる仕事を見つけようとしたら大人」
子供の頃ってパイロットになりたいとか、野球選手になりたいって夢があったでしょ
でもいつか自分にはなれないと判断し、自分でも出来そうな仕事を探し始めますよね。
その時から大人になったっていう考えもあるみたいです。

無理やりに大人の考えで行動しなくても良いのでは?
自分の思うままに生きる事もいいと思いますよ。
しかしtaropooさんは、まだ選択できてないんですよね。
この選択は自分でよく考えるしかないと思います。
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この回答へのお礼

>「やりたい仕事や夢を追い求めているのは子供」
>「自分にできる仕事を見つけようとしたら大人」
一理ありますね。とすると、自分にできる仕事に就いて、その上で現状に疑問を感じている僕は大人?子供?やっぱ子供っぽい気がする。
でも、
>無理やりに大人の考えで行動しなくても良いのでは?
うん、これは納得させられました。

お礼日時:2001/03/19 15:44

「大人になりきれない大人のことをアダルトチルドレンって言うんですよね? 」


ちがいます。
元の意味は「アルコール依存症の親を持つ家庭に生まれ、現在大人になった人」です。
現在は「機能不全の家族に生まれ、現在大人になった人」です。
有名なACはクリントン元アメリカ大統領でしょう。

悩みを自分で悩み、自分の力で解決して行ける人が大人でしょう。
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この回答へのお礼

>ちがいます。
そうでしたか。

>悩みを自分で悩み、自分の力で解決して行ける人が大人でしょう。
そうですかね?人と関わり合いながら解決していく大人もいるのでは?
大人社会ってそうやって成り立ってる気がしますし。
1人で考える事が大人とは、ちょっと違うような気が。

お礼日時:2001/03/19 15:40

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Q心の自立とは、大人とは、みなさんの考えを聞かせてください。

男の若者です。経済的にではなく、心理的に自立している大人とはどういった状態でしょうか?子供がいても、働いていても、一人では寂しくて生きていけないという方も少なくはないと思います。

一説では、「一人でもよし、皆でいるもまたよし
」と思える性格らしいですが、考えは様々だと思うので皆さんの意見をお聞かせください。
また今の自分は精神的によくないので、自立した精神状態を得る方法や手軽な行動などを教えてください。

Aベストアンサー

成長した大人とは

● 管理の出来る人である。
与えられたお金、時間、仕事、家族などをしっかり管理できる人
自分の心をいつもしっかりと管理し、決して取り乱したりしない。

● 人を愛する事が出来る人である
自分の持っている物を惜しみなく分け与え、喜びを分かち合える人である.

● 人の悲しみが分かる人である
泣く者と共に泣き、喜ぶ者と共に喜ぶ事の出来る人である.。
他人の悲しみを共有する事は比較的やさしい。 しかし、人の栄達、成功を一緒になって喜ぶ事は決して生易しいことではない。

● 他の人の長所を積極的に発見できる人である。
他人の欠点はすぐにも見つけ出せる。 しかし、長所となると結構むつかしい。 自分を無にして、他人を自分より優れた人として見ないと、決して長所は見つけられない。

Q 子供と大人では、同じ時間を過ごしていても、感じ方(子供は長く、大人は

 子供と大人では、同じ時間を過ごしていても、感じ方(子供は長く、大人は短く)が違う事の法則があったと思うのですが、何の法則だったか思い出せません。  
 知っている方がいらっしゃいましたら、教えて下さい。

Aベストアンサー

 ジャネーの法則というらしいです。
 
 私にとっても、勉強になりました。

Q考えてたら無意識に過去の事を考えてしまってて

なんかしてたら、考えていたら、創造していたら、 wikipediaを見ていたら勝手に、無意識に過去の事を考えてしまっていてて2~1時間たってしまっていることが起きてから寝るまでの間に6回以上あります どうすればよいのでしょうか? どのようにすればよいのでしょうか? どのような方法があるのでしょうか? 教えてください お願いします

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それは普通のことだと思いますよ。
誰だって時間があって、なんとなくネットを見てたら、昔のことなんかをあれこれ思い出して、時間があっというまに経っている、ということはあるでしょう。
質問者さんは今までそんな機会はなかったのでしょうか?慣れないと不思議なことのように思われるかもしれませんが、人間は暇でいるとそうなってしまうものだと思います。2時間ぼうっと昔のことを考えていることが一日6回以上あったら、12時間以上はぼうっとしていることになりますよね。逆からいえば、そうできるだけの自由な時間が質問者さんにはあるということです。

どうすればいいか、とお尋ねになっているので、そういう状態はよくない、と質問者さんは考えていらっしゃるのでしょう。
時間が無駄だと思うのであれば、新たに夢中になれるものを見つけるか、仕事や趣味などをして、暇な時間を作らないことです。
やるべきことが目の前にあれば、ぼうっとしている暇はなくなります。

Q「考えるのは、言葉で考える」というのが分からない

 私は今「言葉」に興味を持っています。
本を読んで勉強していますと、
「意識」や「考え」は「言葉によってできている」という説明によく出会います。
その説明が、どうも分からないのです。飛躍があるように感じられてしまうのです。あるいは「意識」「考え」が先で、後に言葉が出てきたとも考えられるのではと思ったりします。
 例えば、「私はゴルフが上手くなりたい」という意識が、あって、「私はゴルフが上手くなりたい」という言葉が出てくるのではないかと思ったりします。
 どなたか、この辺の所を分かりやすくお教えください。
 あるいは、理解できるような本をご紹介ください。

Aベストアンサー

こんにちは。

>「意識」や「考え」は「言葉によってできている」という説明によく出会います。

そうですね、
これは何の根拠もない間違った認識だと思います。
意識の中で言葉を使うことを「言語思考」といいます。ですが、我々の脳内で「論理的な思考」と言いますのは必ずしも言語思考のことではありません。意識といいますのは感覚情報など、言語情報以外でもちゃんと発生しますし、我々の脳といいますのは別に言葉を使わなくとも見たもの感じたものを論理的にきちんと識別します。
そもそも、脳内で思考といいますのは神経伝達と選択的反応によって行われるものであり、そこでは言語がやり取りされているわけではありません。ただ、その対象情報や結果に対して言葉が宛がわれているというだけの話です。

脳内の情報処理といいますのは以下のような経路で行われます。
「知覚入力―中枢処理―結果出力」
知覚入力といいますのは主に感覚器官からの「外部情報」ですが、記憶想起や思考結果などとして知覚野・連合野に呼び出される「内部情報」も入力に含まれます。
中継中枢ではこのような入力情報に対して選択的反応を発生させるわけですが、反応の結果がそのまま出力されてしまうものは「無意識行動」であり、「本能行動」や「情動行動」がそれに当たります。「選択的反応」といいますのは、「一致しない入力情報に対しては反応を発生させない」ということです。
これに対しまして、感覚情報や記憶情報など、このような複数の情報を比較したり組み合わせたりする複雑な作業を「認知」といいます。これにより、入出力処理の結果は「自覚あるいは記憶の可能な状態」になるのですが、このためにはまず、脳内の覚醒状態が少なくとも「注意」に移行していなければなりません。つまり、対象を意識しなければならないということですね。
脳内にある程度の注意・緊張状態というものがありませんと、起きてはいても見えているわけではなく、聞いたつもりでも憶えていません。特に仕事や勉強をしているときでなければ我々の日常生活の60~70%はだいたいこのような「無意識行動」で済まされています。

日常生活の70%が無意識行動、そんなはずはない。
「私はゴルフが上手くなりたい」
こんな論理的な思考が無意識行動であるわけがない、と、思われるかも知れません。ですが、実はこれは上記で述べましたように何らかの入力・切っ掛けが基になり、多くの場合「脳内で不意に発生した反応結果」に対する「理由の後付け」なんです。
例えば、「お腹が空いた」といいますのは本能行動の判定による無条件反応です。では、「私はあのときお腹が空いたから台所へ行ったのだ」というのは、これは後から付けられた説明です。この説明が作られることにより、行動の結果は「自覚、及び記憶の可能な状態」になります。これが記憶に残りますので、あたかもそれは意識行動であったように思えてしまうのですが、実は、果たしてそのほとんどが「理由の後付け」なんです。
では、「私はゴルフが上手くなりたい」、このような反応は本能行動にはありませんから、こちらは「情動反応に基づく欲求」ということになります。テレビのゴルフ中継、あるいは昨日のプレーの筋肉痛など、何らかの入力に対して発生した情動反応の結果に対し、我々の大脳皮質が自覚・理由付けを行っています。

「言語思考」といいますのは「対象の表象化」でありますから、脳内にその対象が揃いませんとそれぞれに言葉を宛がうことはできません。で、最初に述べましたが、ここで「論理的な思考」といいますのは必ずしも言語思考のことを指すものではありません。
例えば「前後・上下」「因果」「大小」「同じ・違う」、このようなものは言語を用いなくとも中枢系の選択的反応によって機械的に識別することが可能です。そして、我々の脳内で「論理的な思考」といいますのは、それは必ずしも言語を使うことではなく、このようなルールを組み合わせることによって「矛盾のない結果を選択する」ということです。このため、例えそれが全くの無意識行動であったとしましても、我々の行動といいますのは自然と秩序が保たれます。

デパートのスポーツ用品売り場に手頃なゴルフ・バックが置いてあります。
「私は新しいゴルフ・バックが欲しい!」
これは、そのゴルフ・バックが目に付いたため、視覚入力を基に発生した「情動反応」です。ここで、まず脳内の思考では「私は」といいう主語はほとんど省略されます。
次に「新しいゴルフ・バックが欲しい!」、この文章の中で「新しいゴルフ・バック」という情報は今現在、目の前から入力されていますので、これも言語化する必要はありません。これにより、「私は、何々が」という文章が省略され、残るのは「欲しい!」だけです。
そして、この「欲しい!」といいますのは、これは入力情報ではなく判定結果です。それは情動反応であり、ゴルフ・バックという視覚入力に対して大脳辺縁系に発生した「心の叫び」であります。
「欲しい」と考えたわけではありません、「欲しいという結果」が出力されるのです。このように、ここでは一切の言語表象を行うことなく「私はそのゴルフ・バックが欲しい」という論理的な結果が整然と処理されています。

このようにして脳内に発生した「心の動き」がどのようにして理由付けされ、どのように自覚されてゆくのかというのは古典心理学でも長らく論議されてきたことです。そして、この自覚のプロセスを「情動の原因帰結」と言います。
大脳辺縁系に発生する情動反応といいますのは我々の「感情の源」です。ですが、ここでは取り敢えず「好き・嫌い/YES・NO」の単純な反応しか発生させることができません。では、これが我々の喜怒哀楽といった、与えられた状況に対応した多彩な感情として表出されるためには、このためにはどうしても「状況判断」というのが必要になります。
大脳辺縁系に発生した情動反応が「欲しい!」という欲求に発展するためには、「何が、どうして」という問題が解明されなければなりません。そこでまず、「私は今、デパートの売り場でゴルフ・バックを見ている」という状況判断が成されます。これは大脳辺縁系ではなく、大脳皮質の認知機能を使って行われることです。
そしてこれにより、
「私が今胸をときめかせているのは、そのゴルフ・バックが欲しいからだ」
という説明が可能になります。
このように、大脳辺縁系に発生した情動反応が大脳皮質の認知・状況判断によって特定の感情に分類され、自覚される過程のことを大脳皮質における「情動の原因帰結」と言います。

何故、言語思考による理由が必ず後付けになるのかはこれでお分かり頂けると思います。
大脳皮質は大脳辺縁系に発生した情動反応に対して原因帰結を行っているわけです。そしてこれにより、その情報は初めて「自覚・記憶の可能な状態」になります。
では、反応といいますのは発生するまで知覚することは絶対にできません。ですから、大脳皮質は大脳辺縁系に情動反応が発生するまではこれに対して認知作業を行うことはできないわけです。これがどういうことかと言いますと、つまり我々の脳内では大脳皮質の原因帰結よりも大脳辺縁系の情動反応の方が必ず先であるということです。そして、これが果たして我々の脳が自分の意志でもって情動の発生を阻止することのできない理由であります。

こんにちは。

>「意識」や「考え」は「言葉によってできている」という説明によく出会います。

そうですね、
これは何の根拠もない間違った認識だと思います。
意識の中で言葉を使うことを「言語思考」といいます。ですが、我々の脳内で「論理的な思考」と言いますのは必ずしも言語思考のことではありません。意識といいますのは感覚情報など、言語情報以外でもちゃんと発生しますし、我々の脳といいますのは別に言葉を使わなくとも見たもの感じたものを論理的にきちんと識別します。
そもそも、脳内で...続きを読む

Q納得するけど説明できない症状

ある現象の説明に対して納得するけど、それを人には説明できない症状が結構あります。これって何が足りないのですか?
「物事を納得するということ」と「物事を説明するということ」の間に何があるのか、そして何が必要なのか知りたいです。よろしくお願いいたします。

単に深い理解に至っていない、説明できる言葉や文脈を用意できていない、説明しようと思うと理解した事の記憶を参照できないとかポイント・ポイントではわかります。
なので人が納得する仕組み、説明する仕組みに焦点を当ててご教授いただけると助かります。

Aベストアンサー

こんにちは、

先ず、目の前で左右の手を合わせ、指を組んでください、
右の親指と左の親指、どちらが上に来ますか?

そして、腕組みをしてください、同じように、右腕と左腕は、どちらが上になりますか?
http://luckybrains.zero-yen.com/index.htm

「物事を納得するということ」には、ふたつの脳(右脳と左脳)があるように、
人間の理解の仕方には、大まかに感覚派と論理派のふたつのやり方があります。

普通に「物事を説明するということ」という作業は、多くの場合、左脳の論理性を使って行います。

 感覚派の方の説明が(長島茂雄氏のように)「“ドン!”ときて“バ~ン!と行く」(笑)。。。と
 多くの人に理解しにくいのは、今の学校教育が、論理性だけに偏った教育方法で行い
 私たちは、論理的思考が出来なければ、落ちこぼれて行くような仕組みになっているからなので、
 結果、大多数の人たちは、感覚的な理解の仕方を鍛えずに、大人に成ってしまいます。

 ※身体を使う体育、音楽、美術系の科目の強化が感覚を鍛える一番の方法です。
  文武両道というのは、正しい人の道だったと思います。

論理的な理解と違って、感覚的な理解は、中間の説明が出来ません、
それは大抵の場合、中間の論理をすっ飛ばして、結論を導き出しているからです。
中間の論理は飛ばしても、“何故だか”これが正しいだろうという『確信めいたもの』があるのです。

 ※100階建ての建物へ上がる時、論理的思考がエスカレーターや階段で、
  感覚的理解がエレベーターという感じ、かも知れません。

http://www.amazon.co.jp/%E5%A4%A9%E6%89%8D%E7%A7%91%E5%AD%A6%E8%80%85%E3%81%AE%E4%B8%8D%E6%80%9D%E8%AD%B0%E3%81%AA%E3%81%B2%E3%82%89%E3%82%81%E3%81%8D-%E5%B1%B1%E7%94%B0-%E5%A4%A7%E9%9A%86/dp/4569634389/ref=sr_1_2?ie=UTF8&s=books&qid=1250476589&sr=1-2
参考の本↑は、天才科学者をのひらめきを研究したものですが、
レベルの違いはありますが。私たち凡人にも、当てはまるものだと思われます。

人が物事を理解、納得する仕組みは、論理性だけではなく、感覚的な要素
 眼を使った画像的理解、皮膚感覚を通した理解などなど、五感すべてを使った納得
(理解や納得という言葉よりも、“腑に落ちる”という感覚がより近いと思いますが・・・)
 があります、そしてその場合、論理(言葉)では表現が不可能です。

ただし、誤解して欲しくないことは、非論理的な理解は、
論理(左脳)を必要としない訳ではなく、論理が詰まった時、
論理的な思考を考え尽くしたとき、初めて論理のジャンプが起ります、
論理的思考を鍛えないで、非論理的な納得は起らない・・・
非論理的な納得の確実性が低くなるものと思われます。

少し回答がズレたようです(スイマセン)

「納得するけど説明できない」とき、足りないものは、
結論に至る、知識と論理性そして何よりも記憶量だと考えます。

普通人が、何となく、納得する時、私たちは、無意識に過去の(膨大な)経験と参照しています。
過去の経験は、文章化すると膨大な量になりますし、空気や感じ、雰囲気など
文章化不可能なものは、多岐にわたります。(だから論理化しないし、できないのです。)

これらの、無意識を含めた、過去の膨大な感覚の共通点を探り、帰納法的に、
経験からの納得や納得しないとの結論を引き出しているものと思われます。

だから、「説明して」と言われても、ひとつひとつの個別の事例を示すわけにも行かず、
「なんとなくそう思う」とか「経験だよ」としか言えない場合があります。

インプットが感覚派でアウトプットが論理派のハリーでした。

こんにちは、

先ず、目の前で左右の手を合わせ、指を組んでください、
右の親指と左の親指、どちらが上に来ますか?

そして、腕組みをしてください、同じように、右腕と左腕は、どちらが上になりますか?
http://luckybrains.zero-yen.com/index.htm

「物事を納得するということ」には、ふたつの脳(右脳と左脳)があるように、
人間の理解の仕方には、大まかに感覚派と論理派のふたつのやり方があります。

普通に「物事を説明するということ」という作業は、多くの場合、左脳の論理性を使って行いま...続きを読む


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