出産前後の痔にはご注意!

 心について科学哲学の立場で勉強していますが、壁にぶつかってしまいました。
それは、心について、哲学の立場で説明することと、科学の立場で説明することの違いが判らなくなってきたのです。

 哲学では、心に関する「概念」を論理分析していくことだ。科学では、「仮定」と「実験」で理論を実証していくことだ。との説明がありました。しかしながら、哲学での「概念」は当然のこととして科学理論をも踏まえたものであります。

 そうすると、哲学の概念の中にも科学理論が内包されているわけで、そのような概念とは、科学理論とどのような違いがあるのだろうか、という疑問に突き当たってしまったわけです。

 これは、哲学するとはどのように思考展開していくのかという疑問にも通じることです。アドバイスと参考文献の紹介をお願いします。

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A 回答 (83件中1~10件)

 けっこう固まってきました。

「内部観測」に関して、自分の理解にまだまだ修正の余地があることを自覚していますが、自分が知る領域に引き付けてある程度把握できた気がします。
 ここでも回答されているmotsuanさんの質問「人間にとって物語とは何なのでしょう?」(下記URL参照)への私の回答No.8で書いたのですが、「ガダマーの解釈学」。これで途中までは行けそうです。それをここに再掲(コピペ)するのはいくら何でも暴虐ですので、そちらはそちらで軽く目を通していただくとして、ここでは簡単にかいつまんで書きます。

 ガダマーは、ある文章(特に古典)が内包している「意味」を客観的に読み取ることは不可能だと断じています。というのは、文中のある単語の意味はそれが置かれた文脈に規定され、その文脈もまた文章全体の中で位置付けられて意味を持ち、さらにはその文章そのものが、それが書かれた社会や時代背景という大きな「文脈」の中で意味を持つものだからです。「客観的に」読み取ろうというのであれば、それらすべてが「客観的に」把握されていなければなりません。ところが、逆に見ると、文脈は単語から形成され、文章全体は文脈から形成され、社会や時代背景はその文章を含む雑多な文物から形成されています。つまりここには「どうどう巡り」が生じてしまう。単語と文脈、文脈と文章、文章と社会は、互いに他方に依拠して支えあっている。…どちらか一方が「客観的に」固定されていれば、他方も客観的に固定できる見込みも立つのですが、それは事実上不可能です。したがって、ガダマーは「文章の客観的読解は不可能だ」とするのです。
 このあたりの問題の枠組みは、内部観測論の「内部観察者」と「観察対象」との関係にきわめて近いものがあると感じました。完結した系を外部から観察する「外部観察者」とちがって、内部観察者は完結していない(開放系の)系の中で、対象を同定する「文脈」、その文脈を規定する文脈、その文脈を…という無限遡行を強いられるのです。ここでも「客観性」というものは、素朴な自然科学が前提する「カルテジアン・カット」のように簡単には得られません。

 さてしかし、ここでガダマー先生には「脱臼」していただかなくてはなりません。百歳を越える御高齢なのですが…。
 というのは、やはり問題が「人の心」となりますと、ガダマーがテクストを相手に構想した解釈学とはまた別の問題が生じるからです。
 ガダマーが相手にしたのは、あくまでも「古典」でした。現代のわれわれと、過去との間の「文脈」の差異、これがあるがゆえに「問いと答えの弁証法」が生じ、テクストと読者の双方を巻き込んだ運動となり、その中で「地平」が融合していきます。その運動全体こそが「真理」であると彼は述べています。そこでの「真理」は、それが掴まれてしまえば運動が終結するというような「客観的な」ゴールではありません。無限の、開放系の弁証法です。
 前の書き込みでも述べましたように、人間および社会を相手とした知は「開放系の知」であらざるをえません。ガダマー解釈学も開放系の知にはちがいないのですが、それでも既に完結した「テクスト」、および既に完結した「過去」を相手にしています。これに対し、私たちが考えようとしている「心」は、現在のものを当然含みます。したがってなおのこと「完結していないもの」と言えましょう。テクスト以上に。
 この点に注目しますと、例えば「人間とは何か」という設問は次のように分解できます。すなわち、
   「人間は何であったか」(過去への視線)
   「人間は何でありうるか」(未来への視線)
です。
 前者については、一定の時間の区切りさえつければ、何とか答えが得られる可能性があります。ところが後者に関しては、やはり未来というものの本質的原理的予測不可能性ゆえに決して解答は得られません。また、過去は常に「現在」が積み重なっていくことで膨大に膨れ上がっていきます。そのことを考えると「過去」を片付けるのも容易ではありません。
 同様のことが「心とは何か」という問いに関しても言えるでしょう。この問いもまた、
   「心とは何であったか」
   「心とは何でありうるか」
という二つの問いに分けられます。以前予告申し上げていた「文学っぽいアプローチ」というのは、実はこの前者の問いに関わるものでした。「心の真実の姿を覆い隠しているかもしれない《近代の神話》」を剥ぎ落とすために、過去のさまざまな時代、さまざまな地域との間に「問いと答えの弁証法」を経験することを通じて「心」というものを見ていく…そういうようなことでした。
 でもやはり、それだけでは話は済まない。…と、こう来ますと、satonohukurouさんの問題意識である「幻影肢」からはガンガン話が飛びまくるわけですが、本質的に予測不可能が未来が絡む以上は、少なくとも「心の可能態」に関して説明するところまでは行っていないと「心の哲学」として充分なものにはならないのではないかと考えます。これ、ものすごいことですので、もちろんsatonohukurouさん独りでやれってことじゃないです。関連学界全体でそっちもやんなきゃいけないのではないかと。
 「心の可能的なあり方」だと、まずは「脳」。心を担う物質的基盤として。心的内容を納める器として。
 そして「心理学」。…以前の書き込みをお読みいただいてお分かりと思いますが、私は過去、および現行の心理学にはあまり厚い信頼は寄せていません。一定の有効性はあるでしょうが、いつでも「エセ科学」に堕しうる。少なくとも思索の素材を提供する学、そしてできれば、素朴実在論的実証主義を乗り越えた学となってくれれば…と願います。
 でもって「哲学」。人間および世界を捉えようと試みる知としての。
 要するに物質的基盤から観念に至るまでの多層的なレベルのどこかに還元するのではない、その全体が絡み合った複雑系として「心」を眺めてみる必要があるのではないかと思うのです。それができるのは「科」に分化した「学」たる「科学」ではなく、哲学でしょう。

 幸いなことに、前の書き込みでも紹介しましたように、カオス論などへの注目あたりから、科学の側から人文諸学への歩み寄りが始まっております。「カオス」というのは、解釈の対象たる「自然」の側から人間に突きつけられた「否」であろうと思うのです。「問いと答えの弁証法」を稼動させるところの「否」。それに科学はようやく耳を傾け始めた。ですが哲学を初めとする人文諸科学は、太古の昔から一意に還元できない人間的諸現象を宿命的に、当たり前に相手にしてまいりました。この点からして、「歩み寄り」は「科学の側からの」歩み寄りです。人文諸学の側からではなく。
 ここから、「哲学の見方」と「科学の見方」という両者の区別には神経質になりすぎることもないかな、とも思えたりするわけです(哲学と科学を截然と区別すると、哲学もまた仕切りの中に囲われた「科-学」の一つに成り下がることにもなりますし)。ただ、「科学」が示すことどもを盲目的・無批判に受け容れるのではなく、その知の成立基盤を問い、疑い、検証しつつ取り込む…そういうことでよいのではないかと考えます。

 何やら話が拡散して、ご研究には直接役立つ範囲を逸脱しているのではないかと恐れますが…いかがでしょう。

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=39578
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この回答へのお礼

ご回答の皆さまへ

 No50 の回答にお礼をし書いている現在も、議論ははるかに先を行っております。お礼が遅く申し訳ございません。serpent-owl さんから結論をいただきましたので、少しコメントさせていただきます。

serpent-owl さまへ

 長い間、本当にありがとうございました。また返礼が遅くなりましたことをお詫び申し上げます。serpent-owl さんにゼイゼイと息を切って、振り落とされまいと、付いて行くのがやっとという状況です。
 多岐にわたるご回答をいただきましたが、お礼としてまして、私の最大の関心事に限定し理解できたことと、私の本質問から得た私の考えを述べたいと思います。

 「心」に関する「知」が有する性質=「開放系の知」であり「完結していないもの」である。このパースペクティブからは「過去への視線」と「未来への視線」が得られる。
 過去は現在の累積でありその無限性から説明が困難である。未来は本質的原理的に予測不可能である。予測不可能性から少なくとも「心の可能態」に関する説明が必要ではないか。すなわち、「脳」、「心理学」、「哲学」など、いわゆる物から観念までの各階層のいずれかに還元するのではない『その全体が絡み合った複雑系としての「心」を眺めてみる必要』がある。

 科学は、自らの拠り所であった実証主義から現象(世界)を説明することに限界があることの自覚から人文諸学への歩み寄りが始まっている。このような現況からすると、「哲学の見方」と「科学の見方」の区分に神経質になることもないのではないか。要は、真理を追究する態度で重要なことは、「その知の成立基盤を問い、疑い、検証しつつ取り込む」ことではないのか。

 大変貴重なそして重い回答でした。心という事象をいかに説明するのか、ということを勉強していくうちに、哲学での分野での説明と、科学での分野での説明の態度に疑問を持つようになりました。それは、哲学で使用している心に関する知識は科学的知識をも根拠としてしているのではないか、それなのに科学において心は学の対象足りうる資格を有するのかという問題を有するのではないのか、この2つの疑問のために、一体「心を説明する」と言うことはどういうことなのだろうか、という問に突き当たる羽目に陥ってしまったのでした。

 serpent-owl さんの回答から私が学んだものは、

「心の性質(本質)を理解せよ、そしてそこから出発せよ。既存の論理に還元するな。」

でした。

 serpen-owl さんは、心の本質を「カオス」ととられておられました。「開放系の知」としての本質です。先に引用しました「心の科学は可能か」(土屋 俊、認知科学選書)で、土屋は結言に代えて心の説明の困難性について、心の「文脈依存性」を指摘しています。すなわち「私」と「社会」を内容に含む概念は形式的処理が困難である、としています。serpent-owl さんの回答にも通じるものがあると感じました。

 そこで、心の概念を説明していくうえで問題とすべきは、「複雑系」、「文脈依存」で性格づけられる心を説明するに相応しい「論理」を見出していくことだと思います。心の概念を説明する論理として「カオス」、「量子論」、「進化論」・・・(たぶん他にもあるはずですが、これから勉強していきます。)が議論されているのだと思います。
 
 「心の可能態」に思いをいたすと、なんだか「心」がますます果てしなく遠くのものになるように感じますが、とりあえず、第一歩を踏み出すために、私に何ができるかを考えてみたいと思います。

本当に貴重なご意見ありがとうございました。多くの方に参加していたできましたので、その方々にお礼をしなければいけません。もう少しオープンにしておきます。そして、少しずつ終末態勢とさせていただきたいと思います。

お礼日時:2001/04/08 17:26

 これ以上質問者を煩わせるつもりはありません。

「的外れ」との趣旨は充分に立証されたと思いますので、私は満足です。

 予定通りに質問をお締めください。>satonohukurouさま
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よく考えてみたが、やはり、私は私自身の「学への誠実」を


serpent-owl氏に対して見せつける必要があると感じた。

だから全知全霊を込めて彼の「内発神話」がいかに矛盾しているかを示そう。

>センサーを与えたとして、そこに受けた刺激を「痛い」という
>ネガティブな意味を持つものと判断すること。これをプログラムして
>外部から「教える」のではなしに、機械自身が内発的に判断できる
>ようになるにはどうせねばならないか…。
> これは、その刺激と「機械自身の破壊」とを、機械自身が自発的に
>結び付けるように判断できて初めて実現されましょう

ここで、serpent-owl氏は
「痛みという刺激がネガティブであると
 機械自身が内発的に判断できるようになるには
 どうせねばならないか…。」
と問い
「その刺激と「機械自身の破壊」とを、
 機械自身が自発的に結び付けるように
 判断できて初めて実現されましょう」
と答えている。

比べてみれば分かるが、違いは
ネガティブの意味が機械自身の破壊という
具体的な事象に置き換わっただけで、
内発的=自発的と同語反復的な説明に
終始している。

>さらに「機械自身の破壊」という事柄が、機械自身にとって
>ネガティブな意味を持つということ。これもプログラムとして
>外部から「教える」のではなしに、機械自身が内発的に
>判断できるようになるには…?

> これも可能かどうかは別として、機械が「死の観念」を
>自発的に持つことが要件となりましょう。そのためには
>「存在しつづけることの意義」を機械が内発的に持つ必要があり、
>それは次世代の再生産であってもよいかもしれませんし、
>果たすべき何らかの使命であってもよいかもしれません。

ここでも、結局、破壊から死という陳腐な連想を行うに留まっている。
しかしながら、彼は本質的な問題を見逃している。
痛みを不快と感じるために、破壊とか死とかいうより高度な知的観念を
必要とせねばならないとしたら、赤ん坊はなぜ痛みに対して泣くのか?(笑)
赤ん坊が、破壊とか死とかいうことを意識した上で痛みに反応しているとは
とても思えない。我々にしたところで、痛みに対する不快感はわざわざこの
ようなことを意識した上で感じているわけではない。

>しかるに、fwappyさんは、「痛いのがイヤだというのに、
>いちいち「自分の破壊につながる」と意識するんだとよ」
>と述べておられます。…順番が、逆なのです。
>「自分の破壊につながる」ことが判断可能という前提があって、
>初めて「痛いのがイヤだ」という判断に至りうる、
>これが、上記に示しましたように、私の見解です。

逆じゃないでしょう。貴方、文章を読めないんですか?

「自分の破壊につながる」と意識したから
「痛いのがイヤだ」というのか?と私が問い
それに対して
>「自分の破壊につながる」ことが判断可能という前提があって、
>初めて「痛いのがイヤだ」という判断に至りうる、
と答えるならば、まさに同じことを言っていると
いうわけです。35にならなくたって分かること。(笑)

私が思うに「痛み」も「不快」も我々が感じるような意味では
絶対にプログラミングできない。そんなことは分かり様がない
からです。

しかしながら、それはプログラムが痛みや不快の感覚をもたらさない
という意味ではない。結局のところ、我々は何かを表す場合に、他者の
視点でしかそれを記述できないことが問題なのです。

すなわち我々が「痛みを不快と感じる」ことに対して、その現象を
外から解釈すれば、serpent-owl氏のような解釈も出来るだろうが
そのことは、我々が感じていることのリアルな表現足り得ないという
ことです。

serpent-owl氏の問題点は、「内発的」といいながら、
相変わらずシミュレーションの実行者の視点でモノを
見ていることにあります。しかしながらシミュレーション
の実行者は、シミュレーションに対して他者なのですから
そこからの説明に内発もヘッタクレもないのです。
結局彼はホムンクルスを中に抱えこんでしまったわけで
その時点で袋小路に入りこんでしまったのです。
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serpent-owl氏のNo.83へ



それが「学への誠実さ」かね?

ああ、彼に20点という「エサ」を与えてやってくれ(笑)
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 fwappyさんのNo.82につき。



 再反論の必要はないようです。
 予定通り、質問をお締め下さい。>satonohukurouさま
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serpent-owl様


>まず、#77「中国語の部屋」の話、「ある意味で反論」というのは、
>もちろんfwappyさんへ向けたものです。同時に、認知科学における
>「心の問題」に関する議論についての、質問者に対する情報提供の
>性格もありますので、「回答」としました。

「中国語の部屋」から
「心のシミュレーションが、もとの心それ自身と同じ現象を再現しない」
という結論を引き出すのはよい。しかしながら
「心のシミュレーションは、心ではない」
というなら、それは誤りだと言わざるを得ない。

> 二点目。「ぶたれると痛いぞセンサー」について。
>「揚げ足取り」に近いですが、これは有効なご批判として受け止めましょう。
>が、この点は当方の立論の主要な骨子には何ら影響はありません。

まあ、せいぜい虚勢を張られるが宜しいでしょう。

> 三点目。
>>貴方の見解は単に貴方がプログラムに心を感じられないことと
>>心がないことを混同しています。
>について。
> 私は混同していません。
>「プログラムで心を再現できても、それが心の創造であるとは言えない」
>としているだけです。「心ではない」と断定していません。

「「ある」とは言えない」だけをいうのが不適切だとは
一度もお考えになりませんでしたか。

私なら「あるともないとも言えない」といいます。
すなわち、そうかもしれないしそうでないかも知れない
ということです。

>「中国語の部屋」の話を何のために紹介したと思っているのですか。

では「中国語の部屋」はなんだと思っているのですか?

>あの話は、
>「部屋の中にいる人が本当に中国語がわかっているのかどうか、
>部屋の外の人間には決定不可能である」ことを示しています。
>プログラムで心を再現した場合についても同様です。
>これを外部から観察している人間には、それが心であるかどうかは
>決定できません。私はこのことを主張しました。

そうは聞こえなかったな。

貴方は「中国語を分かったとはいえない」とだけいった。
「中国語を分かってないとはいえない」とはいわなかった。

>したがって、
>>私が言いたいのは、人という「プログラム」が明らかに心を
>>持っていると感じているのに、それを外から見た限りでは
>>その心がいかにして存在しているのか解き明かせない
>>だろうということです。
>とのご見解は、まさに「私serpent-owlの主張したところのもの」であって、>>fwappyさんの主張したところのものではありません。

ほほう。私がいったのではウソで、貴方がいったのなら本当か?
それが貴方の誠実か?独善といいなおしたほうが宜しいのではないかな。

もし同じだというなら「結構ケッコウ」といえば宜しいのではないかな?

>#77にて、「哲学の根本問題の一つである他我問題」に絡めて
>「隣に座っている人に「本当に心があるのか」確証できない」と、
>私はすでに述べております。この論点は私が主張したもので
>あることはここからも明らかでしょう。

だからどうだというのかな?

まさか、本気で
「オレがいうのはいいが、キサマがいうのはけしからん」
と3歳のコドモのようなことをいうのではあるまいね。

> 念のため、fwappyさんの#73を再び引用しましょう。
>>「ほほう、コイツおもしれえぜ。痛いのがイヤだというのに、
>> いちいち「自分の破壊につながる」と意識するんだとよ。
>> だいたい、センサをつければ何かを感じるだろうが、
>> そいつが痛いのか痒いのかどうやってプログラミングすんだよ?
>> そんなことできねえだろ。結局感じた後の振る舞いまで面倒
>> みなくちゃなんねえんじゃねえのかい?」
> #72の私の書き込みに関し、fwappyさんが提示した批判はこれだけです。
>たったこれだけです。

ああ、ところで、これの意味がまだ分からないのかね?

要するに君がいう内発的の意味が
「「自分の破壊につながる」と意識すること」
だというならこれほど馬鹿げたウソはないと
いうことだ。

誰に聞いても痛みがこのような意識から
生まれるとはいうまい。痛いものは痛い。
そこにはなんの意識される理由もない。
だからこそ痛みがどこからくるのかは謎に
満ちているのだ。後付けの説明で納得できる
なら苦労はない。

>やはり「学への誠実さ」は大切ですよ。

自尊心の誤りでは(笑)

>これを持たず依怙地に固執すれば、今度のように
>かかなくてもよい恥をかくことになります。

ああ、それは自戒の言葉ですか?
私は別に恥ずかしいことなどないですよ(笑)

我々の心は我々自身によって生み出されたものではない。
気がついたときには何故だか知らないが意識があった。
この「不条理」こそが重要なのだ。そうは思わないか?
serpent-owl氏よ。
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 はあ…お気の毒に…。

的外れな批判の次は詭弁ですか。困ったお人だ。おっと、もちろんこれはfwappyさま宛てですよ。
 じゃ、#80につき少しずつ見ていきましょう。

 まず、#77「中国語の部屋」の話、「ある意味で反論」というのは、もちろんfwappyさんへ向けたものです。同時に、認知科学における「心の問題」に関する議論についての、質問者に対する情報提供の性格もありますので、「回答」としました。
 fwappyさんに対しては「ヒント」というつもりだったのですが…。

 二点目。「ぶたれると痛いぞセンサー」について。
 「揚げ足取り」に近いですが、これは有効なご批判として受け止めましょう。たしかに言葉の用い方が不適切でした。単に「物理的な刺激を感知するセンサー」とでもしておけばよかったのですね。ではお詫びした上、そのように訂正いたしましょう。
 が、この点は当方の立論の主要な骨子には何ら影響はありません。

 三点目。
>貴方の見解は単に貴方がプログラムに心を感じられないことと
>心がないことを混同しています。
について。
 私は混同していません。「プログラムで心を再現できても、それが心の創造であるとは言えない」としているだけです。「心ではない」と断定していません。
「中国語の部屋」の話を何のために紹介したと思っているのですか。あの話は、「部屋の中にいる人が本当に中国語がわかっているのかどうか、部屋の外の人間には決定不可能である」ことを示しています。プログラムで心を再現した場合についても同様です。これを外部から観察している人間には、それが心であるかどうかは決定できません。私はこのことを主張しました。したがって、
>私が言いたいのは、人という「プログラム」が明らかに心を
>持っていると感じているのに、それを外から見た限りでは
>その心がいかにして存在しているのか解き明かせない
>だろうということです。
とのご見解は、まさに「私serpent-owlの主張したところのもの」であって、fwappyさんの主張したところのものではありません。#77にて、「哲学の根本問題の一つである他我問題」に絡めて「隣に座っている人に「本当に心があるのか」確証できない」と、私はすでに述べております。この論点は私が主張したものであることはここからも明らかでしょう。

 念のため、fwappyさんの#73を再び引用しましょう。
>「ほほう、コイツおもしれえぜ。痛いのがイヤだというのに、
> いちいち「自分の破壊につながる」と意識するんだとよ。
> だいたい、センサをつければ何かを感じるだろうが、
> そいつが痛いのか痒いのかどうやってプログラミングすんだよ?
> そんなことできねえだろ。結局感じた後の振る舞いまで面倒
> みなくちゃなんねえんじゃねえのかい?」
 #72の私の書き込みに関し、fwappyさんが提示した批判はこれだけです。たったこれだけです。これのどこをどう読めば、「私が言いたいのは、人という「プログラム」が明らかに心を持っていると感じているのに、それを外から見た限りではその心がいかにして存在しているのか解き明かせないだろうということです」という内容を表現していることになるのか。さらにはまた、「私は貴方が掲げている的が本当に重要なものかどうかについて、別の的を掲げることで、異議を呈しているのですよ」とありますような「別の的を掲げる」箇所がどこに見出されるのか。…fwappyさん、答えられますか? 読者の皆さん、読み取れますか?
 #80におけるfwapppyさんの上記発言は、私の#79を「読んだあとで新たに考え出した論点」です。「心がないことと混同している」という点は、またしてもfwappyさんの誤読ですし、「心があるかどうか決定不能」という点は私の主張する論点を剽窃するものであり、「別の的を掲げる」という点は、仄めかしすらしていない論点の後付けであり捏造です。
 相手の見解を不当に歪曲し、剽窃し、勝手に論点を捏造する…これらはすべて、まことに恥ずべき詭弁であると申し上げざるをえません。総じて「見苦しい言い逃れ」の典型となっております。

 やはり「学への誠実さ」は大切ですよ。これを持たず依怙地に固執すれば、今度のようにかかなくてもよい恥をかくことになります。これは忠告です。

   *

 さて、時間切れが迫っております。フェアプレイの精神から、fwappyさんに反論を用意する充分な時間を差し上げたく、少々急いで書きました。表現上、至らぬ点もあったかもしれません。
 また、私の方からの反論は、とりあえずもう必要ないと思います(というか、そう思いたいです)。この議論に関する裁定はsatonohukurouさんにお任せします。
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serpent-owl様


>fwappyさま、前回の回答#77「中国語の部屋」の話が、
>ある意味で「反論」になっていたのに気付かれませんでしたか?

誰に反論しているのですか?(にやにや)

No.72で

>では「ぶたれると痛いぞセンサー」を機械に与えましょう。

と書いたのは、貴方ですよ。私ではありません。

要するに「ぶたれると反応するぞセンサー」は作れるが、
そいつが「痛いぞ」センサーだということは作った人には
いえないってことですよ。

>「プログラムして心を再現してもそれは心とは言えず、意味が無い」
>というのが私の見解であるのに対して
>「どうやってプログラムするのか、そんなことはできないだろう」
>と仰せになっている点が「的外れ」なのです。

貴方の見解は単に貴方がプログラムに心を感じられないことと
心がないことを混同しています。
私が言いたいのは、人という「プログラム」が明らかに心を
持っていると感じているのに、それを外から見た限りでは
その心がいかにして存在しているのか解き明かせない
だろうということです。私は貴方が掲げている的が本当に
重要なものかどうかについて、別の的を掲げることで、
異議を呈しているのですよ。

貴方が私の指摘をどううけとるか貴方の自由ですよ。

もちろん「混同」に固執するのは随意です。
それが貴方の言う「誠意」だというなら。

ただ私はそのような態度を「頑迷」と呼ぶし、
貴方の誠意を「自省の欠如」と呼ぶだけ
のことです。
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 ふくろうです。

へびくんは今、生卵を殻ごと丸呑みして「ちゅうとはんぱなつちのこごっこ」をやっており、口がきけませんので、私が代わって。
 fwappyさま、前回の回答#77「中国語の部屋」の話が、ある意味で「反論」になっていたのに気付かれませんでしたか? すぐ下にありますので繰り返しませんが、要は「人工知能による心の再現は心そのものの創造とは言えない」という立論です。
 #72のおしまいの方に書いた人工知能の話も同じ趣旨でした。「ハードウェア外部からプログラムされた反応系が、あたかも人の心のような反応を示すということと、機械そのものが内発的に「心」を獲得するということとは別のこと」とした上で、「前者はシミュレーションにすぎない」と申し上げております。またこの論点は、#29の「分けられるようで分けられない部分というところをクリアすれば、コンピュータやロボットにも、外部からプログラムされるのではない形で内発的に快と不快を感じたり、「心」を持ったりする可能性が開かれるのかも」しれないと述べたこととつながっております。(続く#30で、fwappyさんは「賛同」とまでは言わなくとも「興味深い」と仰せですね…)
 あらためてまとめますと、#72終盤での私の意見は「外部からプログラムするのではなしに機械に心を獲得させることは、不可能ではないだろうがきわめて困難である」というものです。

 ではここで、「コブラおにいちゃんのかぷっ!」を検討いたしましょう。#73より引用します。

>「ほほう、コイツおもしれえぜ。痛いのがイヤだというのに、
> いちいち「自分の破壊につながる」と意識するんだとよ。
> だいたい、センサをつければ何かを感じるだろうが、
> そいつが痛いのか痒いのかどうやってプログラミングすんだよ?
> そんなことできねえだろ。結局感じた後の振る舞いまで面倒
> みなくちゃなんねえんじゃねえのかい?」

 まず手短に申しますと、「プログラムして心を再現してもそれは心とは言えず、意味が無い」というのが私の見解であるのに対して「どうやってプログラムするのか、そんなことはできないだろう」と仰せになっている点が「的外れ」なのです。私は「プログラムしてもしょうがない」と言っております。「プログラムなどできない」という批判は、私の見解が「そうしたプログラムは可能だ」と主張するものである場合には有効です。が、私はそうした可能性に関しては「それが可能だとしても」と仮定しているにすぎません。
 fwappyさんのご批判は、「月の裏側に住めるとしても、さみしいからいやだ」というのに対して「ほほう、どうやって月の裏側に住めるっていうんだ? ほら、言ってみろ(にやにや)。言えないの? 見苦しいね」と突っ込んでいるのと同じことです。「空振り」であり、「自爆」とも申せましょう。

 もう少し細かい点も見ておきます。#72では、具体例として「ぶたれると痛い」という心的内容を「外部からプログラムすることなしに」、いいですか? 「外部からプログラムすることなしに」獲得させるにはどうすればよいか、を考えています(そうでないと「心の獲得」とは言えないだろうという意味で)。
 センサーを与えたとして、そこに受けた刺激を「痛い」というネガティブな意味を持つものと判断すること。これをプログラムして外部から「教える」のではなしに、機械自身が内発的に判断できるようになるにはどうせねばならないか…。
 これは、その刺激と「機械自身の破壊」とを、機械自身が自発的に結び付けるように判断できて初めて実現されましょう(これも、仮に可能だとしてです)。
 さらに「機械自身の破壊」という事柄が、機械自身にとってネガティブな意味を持つということ。これもプログラムとして外部から「教える」のではなしに、機械自身が内発的に判断できるようになるには…? (そうでないと、結局「痛いはイヤだ」につながりませんから。)
 これも可能かどうかは別として、機械が「死の観念」を自発的に持つことが要件となりましょう。そのためには「存在しつづけることの意義」を機械が内発的に持つ必要があり、それは次世代の再生産であってもよいかもしれませんし、果たすべき何らかの使命であってもよいかもしれません。すると、その認識はどうやって自発的に持てるようになるか…。
 …と、こうなりまして、結局「きわめて困難」ということになる。#72の具体例は、このことを示しております。
 しかるに、fwappyさんは、「痛いのがイヤだというのに、いちいち「自分の破壊につながる」と意識するんだとよ」と述べておられます。…順番が、逆なのです。「自分の破壊につながる」ことが判断可能という前提があって、初めて「痛いのがイヤだ」という判断に至りうる、これが、上記に示しましたように、私の見解です。この点を捉えそこなうことから、fwappyさんは「どうやって痛いのか痒いのかどうやってプログラムするのか、できっこないだろう」と続けておられます。
 したがって、「的外れ」です。(…たいていの読者には読み取れてると思うんですが…)

 #72における「的の所在」は、一つ「プログラムで心を再現しても、それは心とは言えない」、一つ「機械自身が内発的に心を獲得することは不可能ではないだろうが、きわめて困難である」、という、この二点にあります。「コブラおにいちゃんのかぷっ!」は、そのいずれに対しても有効な批判たりえておりません。

    *

 なお、蛇足ながら。
 どうもfwappyさんには「にやにや」とか「見苦しい」とか「言い訳できないから…」とか、相手の心情を不必要に刺激することを欲するがごとき文言が目立つように感じます。
 まず、これは私に対してはムダです。そのような挑発で冷静さを失うようなことはないという自信があります。自信がありますから、「今後は控えて欲しい」などということも申しません。どんどん、どんどん、おやりになってけっこうです。遠慮は要りません。私に対しては、いくらでも。
 ただ、それがfwappyさん御自身の人間たる品位の低劣さを自ら露呈することにもなっている点にはご注意を。自らの言葉で自らを汚すことが得なことか損なことか、その辺はお考えになった方がよいでしょう。

 それから、前にhalkaさんに申し上げたことですが、「学への誠実さ」について。
 憚りながら、私自身はこれを持っていると自認しております。ですから、私の限界ゆえに私が間違った見解を提示し、その間違いを判明明晰に指摘された場合、一瞬も躊躇することなく私は誤謬を認めます。その際には「恥」の感覚も生じましょうが(人間ですから)、私は自らにそれを感じることをも禁じようと考えております。見苦しい言い逃れなどはいたしません。
 fwappyさんは、かかる「学への誠実さ」をお持ちなのかどうか。
 …次の書き込みが楽しみです。
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>コブラおにいちゃん、まだ、わかんないのかなぁ?


>まとはずれの、いみ! わかんないかもねっ! うわ~い!

まだ、反論を思いつかないのかな。

この件に関してはただただ見苦しいね。

なぜ、自分のほうがまったくずれたところに
的を掲げていると思えないのか?
貴方が正しいのか?serpent-owlよ。
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Q一般に宗教と呼ばれている仏教は、「信じる」ものでなく、「学ぶ」ものなのですか?

まず、私は仏教については、門外漢です。
先日、このカテにて、「哲学の心身問題を解決する方法はありますか?」という質問がありました。
この、回答の一つに、
<仏教に学ぶことです。>
があり、興味深く考えています。
教えてもらいたいことは、一般に宗教と呼ばれている仏教は、「信じる」ものでなく、「学ぶ」ものなのですか?

Aベストアンサー

うーん…これは人によってとらえ方、見方が違うものだと思いますね。
私は「両方の側面を持っているもの」だと認識していますので、学ぶべきものであり、また、信じるものでもあるのかな?と思います。

仏教は、他の宗教との違いとして「哲学」として理解していくことが出来ます。
キリスト教も似たところがありますが、どちらかというと仏教のほうがより哲学的です。
ただ、仏教は一番最初の形(原始仏教・大乗仏教)から、広く細かく「枝分かれ」をし、その土地や、そこに住む人々…ことに「仏教家」によって、違う解釈があり、それらが広まっても来たという歴史があります。
日本でも真言宗とか、臨済宗とかありますよね?。
「南無阿弥陀仏と唱えていれば往生ができる」というように、まずもとになる「仏教」があって、その解釈の繰り返しから、最終的にただ真言を唱えれば、などとなっていきました。

しかしこれは「変質」というものではないのです。
元になるべき「教え」についての解釈・深化の過程によって、生み出されてきたものです。
ともすれば「信ずるものは救われる」で、手放しで信じることが信心である、と捉えられがちですが、実際はそこに至るまでの沢山の過程があったわけです。

そこが仏教の特徴的なところだと思うのです。
「学び、問い、実践する」という要素がある。
その中で、自分が見つけ出したい「ひとこと」に出会うということもあるかもしれない。
盲目的な信仰というものを、仏教の中では好ましいとは捉えないわけです。

答えを導き出すための「ツール」として、仏教は大きな厚みのある「本」のようなものではないかと思います。
また「生活の知恵」というか、生きていくための「ノウハウ本」みたいな側面も持っています。

うーん…これは人によってとらえ方、見方が違うものだと思いますね。
私は「両方の側面を持っているもの」だと認識していますので、学ぶべきものであり、また、信じるものでもあるのかな?と思います。

仏教は、他の宗教との違いとして「哲学」として理解していくことが出来ます。
キリスト教も似たところがありますが、どちらかというと仏教のほうがより哲学的です。
ただ、仏教は一番最初の形(原始仏教・大乗仏教)から、広く細かく「枝分かれ」をし、その土地や、そこに住む人々…ことに「仏教家」によって、違...続きを読む

Q量子論的な世界像において、世界は認識される事で存在してる、そうです。そうすると、認識している私は、自

<量子論的な世界像において、世界は認識される事で存在しています。>
そうです。
そうすると、認識している私は、自分自身を認識している、ということになるのですか?

Aベストアンサー

こんにちは。

☆世界は認識される事で存在しています。
◇上で書かれている「世界」は、〈世界そのもの〉ではなく、我々の五感などの感覚によってもたらされた情報をもとに、〈わたし〉によって再構成された主観的な〈世界〉でしょう。

〈世界そのもの〉≠主観的な〈世界〉

そして、物理では
〈世界そのもの〉≠観測された〈世界〉
〈世界そのもの〉≠理論で想定される〈世界〉

我々の主観的な〈世界〉が我々の認識に基づいているのは当たり前のことであり、
物理学的な〈世界〉が観測などに基づいているのも当たり前のこと。

「世界は認識される」という表現で問題なのは、この表現中の世界(主観的世界、物理学的な世界などなどの対象化された世界)を〈世界そのもの〉としていること。

我々の知る世界は、程度の差はあれ、主観的な世界に過ぎず、
そんなものがあればですが、
客観的な世界や〈世界そのもの〉に至ることはできないんじゃないですかね。


☆認識している私は、自分自身を認識している
◇〈認識している私によって対象化され、再構成された《認識している私》〉を認識しているに過ぎません。
認識主体である私が、私の表象(イメージ)を認識していると言っていいのかもしれないですね。
もっとも、ここで言う〈認識主体である私〉がすでに表象(イメージ)に過ぎないけれど。

ショウペンハウアーのこの言葉が参考になります。

ショーペンハウアーは、世界はわたしの表象であるという。このことは、いかなる客観であっても主観による制約を受けていることを示している。
https://goo.gl/w67lxK


ミクロとマクロの関係の話が出ているようなので、私は違う角度から。

我々が実際に生きる世界は、10²³というアボガドロ数オーダーのさらにアボガドロ数オーダーくらいの超多粒子系の世界。
たとえ電子などの粒子一つ一つの挙動が確率的なものであったとしても、このような超多粒子系の現象は平均的なものになり、この平均的な振る舞い、平均値からの逸脱は殆どなくなります。
 ――量子力学のトンネル効果があるからと言って、超多粒子系の我々は、我々の体を構成する電子などの量子の如く壁を通り抜けたりは出来ない!!――

我々はマクロサイズの世界で、そして、圧倒的多数の多粒子系の世界で生きているので、量子力学がどうであれ、我々が日常的に観測する現象はほぼ100%の確率で(古典物理学的な)決定論に従っており、ここに量子力学の出番はありませんよ。

まして、哲学の認識論に量子力学や量子論は必要ないと思います。

こんにちは。

☆世界は認識される事で存在しています。
◇上で書かれている「世界」は、〈世界そのもの〉ではなく、我々の五感などの感覚によってもたらされた情報をもとに、〈わたし〉によって再構成された主観的な〈世界〉でしょう。

〈世界そのもの〉≠主観的な〈世界〉

そして、物理では
〈世界そのもの〉≠観測された〈世界〉
〈世界そのもの〉≠理論で想定される〈世界〉

我々の主観的な〈世界〉が我々の認識に基づいているのは当たり前のことであり、
物理学的な〈世界〉が観測などに基づいているのも当たり...続きを読む

Q一神教の精神・信仰が、よく解らない日本人です。

万物を創造した唯一絶対の神、主に従う、
とか

すべては神の御心のままに、

とかいうのは、
日本人の言葉で言うと

人事を尽くして天命を待つ、

という感じかな?と思ったのですが、どうでしょうか?
ほぼ当たりと思っていいでしょうか?
それとも、全然見当違いですか?

神の御心と人間の主体性についてあれこれと考えています。

Aベストアンサー

お礼ありがとうございます。
儒教的概念の天も、最初は人格を持った存在として認識されましたが、最終的には一種の法則(理)として捉えられました。
したがって、天の理は全てに平等で、分け隔ては無い事になります。
アブラハムの宗教の「神」は、人格神ですから、「神」の御心と言う物が想定されます。(つまり、「神」には意志があるわけです)
「神」は、絶対的な選択者と想定されますが、全てにおいて平等と言う事は想定されていません。
人間から、見れば、天の理がわからなければ、結果がどうなるかはわからないです。
ただし、天の理にかなった結果が平等におきる事は想定されます。
アブラハムの宗教の「神」は、意志を持っているので、御心で結果は変わります。
したがって、同じ事でも、結果が変わる可能性はあります。
ただし、「神」を絶対的善として想定する人の場合は、善を成す結果が起きると想定する場合がありえます。(この場合は、天の理とそれほどの差はありません)
実を言えば、この世で不合理と思われる結果(運命)がある場合の説明の方法が難しいわけです。
仮に、天の理があるとすれば、人間が不合理と思っても、それは天の理にかなった事と捉えられるでしょう。
「神」の御心によると考えれば、これは「神」の意志によるので、人間が不合理と思っても、それは「神」の意志です。
どちらにしろ、人間が予測できないと言う事では同じと言えば同じです。
両方は、何らかの原因により、運命が決定されていると言う、決定論的世界観を生み出します。
したがって、定められた運命に対しての、人間の自由意志はかなわないと言う結論に到達します。(人間が完全に自由な意思決定をできる余地が無いと言う事です)
これを天命にまかせるとか、「神」の御心と表現するならば、実際の現象としては同じ事にはなります。

お礼ありがとうございます。
儒教的概念の天も、最初は人格を持った存在として認識されましたが、最終的には一種の法則(理)として捉えられました。
したがって、天の理は全てに平等で、分け隔ては無い事になります。
アブラハムの宗教の「神」は、人格神ですから、「神」の御心と言う物が想定されます。(つまり、「神」には意志があるわけです)
「神」は、絶対的な選択者と想定されますが、全てにおいて平等と言う事は想定されていません。
人間から、見れば、天の理がわからなければ、結果がどうなるかはわか...続きを読む

Qこの世界の行き詰まりを 三点突破だ!

A 国連に代わる――あるいは 並存してもよいはずですが――村際連合(インタ
ムライズム)によって世界を主導するシステムを!

1. 国家のレベルの国民政府による主導方式は もうふるい。
   ムラ(市町村)の市民政府がそれぞれ主役である。

2. ムラムラのネットワークが 世界をあたらしくつくりなおす。

3. 世界のムラどうしでムラ議会議員を互選する。

4. 世界中のムラムラのあいだで市民が互いに互いを知るようにする。
   つまり ひとの交流をすべてのムラビトがというほど推し進める。

5. いくらでも色んなよいアイディアを出し合ってこれを実行して行く。

6. 経済は それぞれのムラがインタナショナルなインタムライズムの場(市
場)へと企業それぞれを巻き込む必要がある。(連携でしょうが)。



B 《普遍神》論によって宗教という宗教の揚棄を!

7. 宗教にかんして オシへは二の次であって 個人の《わが固有の時》とし
ての信仰について それを一般論として知っておく。神は 普遍神だということ
だ。
  
8. すなわち わが固有の時に憩う《わが非思考の庭》なる信仰は類型として
だれにとっても 同じひとつであるということ。

  A. ブラフマニズム:梵我一如
   梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神
   我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我

  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)
   無梵:シューニャター(空)・ゼロ
   無我:アン‐アートマン;ニルワーナ

  C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)
   仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)
      / マハーワイローチャナ(大日如来)
   仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)

  D. クリスチアニズム:霊霊一如
   霊:神・聖霊
   霊:《神の宮なるわれ》

  E. (プラトン?):霊霊一如
   霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)
   霊:《われ》

  F. 《もののあはれを知る》
   霊:かみ(超自然および自然)
   霊:われ(自然本性)

  G. ユダヤイズム:霊霊一如
   霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)
   霊:われ

  H. イスラーム:霊霊一如
   霊:アッラーフ(イラーハ=神)
   霊:われ

9. このあたかも霊のつるぎによって世界をリセットしよう。




C やっぱし《アース役はつらいよ》の全国的・世界的大合唱で ハラスメント
について本人に自省させるのがよいのでは?

10. 何気なく ♪あぁ アース役はつらいよ♪ とつぶやけばよい。

11. パワハラ・セクハラ・あるいはイヂメに際して みんなで合唱へと持
って行くとよい。

12. 半分は 減るのではないか?
    半分は あたまも気持ちもすっきりするのではないか?
    世界へも広げよう。

13. 無理をせずに 生産性が上がるのでは?
    社会保障費が省けて 財政再建に寄与するのでは?
    つまり 健康年齢(健康寿命)が上がるのでは?

14. その情況にあって いま横になっている人たちの半分は やおら起き
上がって来るのでは?


☆ ご見解をおしえて ぐー。

A 国連に代わる――あるいは 並存してもよいはずですが――村際連合(インタ
ムライズム)によって世界を主導するシステムを!

1. 国家のレベルの国民政府による主導方式は もうふるい。
   ムラ(市町村)の市民政府がそれぞれ主役である。

2. ムラムラのネットワークが 世界をあたらしくつくりなおす。

3. 世界のムラどうしでムラ議会議員を互選する。

4. 世界中のムラムラのあいだで市民が互いに互いを知るようにする。
   つまり ひとの交流をすべてのムラビトがというほど...続きを読む

Aベストアンサー

Aについてです。
国と言うのはいつ頃できたのでしょうね。
現代は、インターネットによる横のつながりによって、新しい共同体や経済の形が現れて来ているように思います。
それがインタムライズムというものの具体的な現れになるのかなと、ふと思いました。一人一人の意見や意思をダイレクトに吸い上げ、ビッグデータとしてそれを人工知能が処理すれば、一人一人が持つ小さな望みを、全体に反映する事も無理ではありません。今まで切り捨てられたり矮小化されたりと不当な扱いを受けて来た市井の人々に、力を復権させられるかもしれません。

QStrange question

I know this is a strange question, but isn't it strange that there are no aliens,
or do they exist? I herd that the possibility of alien life is 100% but we never saw them. They
might live far away but their should be at least one species that could travel in space.

Aベストアンサー

人の寿命は100年程度です。一人の人間が地球外生命体を認識する事は難しいと思います。

1961年にアメリカの天文学者であるフランク・ドレイクによって考案された、ドレイクの方程式というものがあります。
ドレイクの方程式(ドレイクのほうていしき、英語: Drake equation)とは、宇宙にどのくらいの地球外生命が分布しているのか推定する方程式である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%81%AE%E6%96%B9%E7%A8%8B%E5%BC%8F

他の惑星に地球外生命体が存在する可能性は高いと思います。
人間が高度な文明を発展させて、さらに、高度な地球外生命体が同時に存在すれば、地球外生命体との遭遇は早くなるでしょう。

Q「よい文章」とはなにか?

嘗てフランスの近代詩人ステファン・マラルメは「白紙の上に絶対が宿る」といいました。

例えばここに一万円札がある。それで何かを買うということは、その一万円で買えたはずの他の品物を手に入れる可能線を全て放棄したことを意味します。

「選択する」ということは、ひとつを選ぶことによって残りの99の可能性を捨て去ることに他なりません。
逆にいえば一万円札をそのまま使わずにいる限り、そこには永遠に100通りの可能性が残されているということになります。

前回の質問でも述べましたが、「推敲」という言葉があります。
昔中国の詩人が詩句の一節を「僧は推(お)す月下の門」にするか「僧は敲(たた)く月下の門」にするかで悩んだという故事から来た言葉ですが、詩はもちろん声に出して詠むことを前提にされているのでしょうし、全体の音の流れの中で「推す」と「敲く」とでは随分感触が異なると詩人は感じたのでしょう。

しかし現にわたしたちはこの「推敲」という言葉も含めて、中国の詩を(当時の)中国の言葉(音/オン)で読んでいるわけではないし、大抵は外国文学イコール翻訳文学です。
同じ詩、同じ小説でも、訳者によってこうも違った言葉の選択になるのかという、ある種の驚きとも違和感ともいえる感覚は誰しも覚えがあると思います。

繰り返しますが、単に意味が通じればいいというのであれば、「推」(おす)であっても「敲」(たたく)であってもさほどの違いはないように思えます。ここで語の選択の基準となるのは、あくまでも耳に心地好い音の流れということなのでしょう。

以上のようなことをつらつら考えながら、いったいいい文章とはどのようなものを指すのだろう、と考えてしまうのです。

例えばこの質問文中に

「詩はもちろん声に出して詠むことを前提にされているのでしょうし、」という個所があります。

これを

「詩はもちろん声に出して詠むことを前提(と)されているのでしょうし、」

或いは

「詩はもちろん声に出して詠むこと(が)前提(と)されているのでしょうし、」
という風に書き換えることも可能です。

「推す」か「敲く」かの次元にこだわっていると、下手をするとなにも書けなくなるような気もします、一方で、このレベルから言葉の選択に対してこころを砕かなければ、もとよりよい文章を書くことなど覚束ないとも思うのです。

人は文章に対して何を(あるいはどこまで)求めているのか?そのようなことも含めて、お考えがあればお聞かせください。

尚お礼が遅れることがあるかもしれませんが、予めご了承ください。

嘗てフランスの近代詩人ステファン・マラルメは「白紙の上に絶対が宿る」といいました。

例えばここに一万円札がある。それで何かを買うということは、その一万円で買えたはずの他の品物を手に入れる可能線を全て放棄したことを意味します。

「選択する」ということは、ひとつを選ぶことによって残りの99の可能性を捨て去ることに他なりません。
逆にいえば一万円札をそのまま使わずにいる限り、そこには永遠に100通りの可能性が残されているということになります。

前回の質問でも述べましたが、...続きを読む

Aベストアンサー

NO4です。
お礼有難うございます。

少し、追記させて頂きます。


>「伝えたいことを、可能な限り正確に伝える。」のが目的ですし、
それが出来ているものが、「良い文章」と言うものだと思います。

「可能な限り正確に」・・・ではその正確さとは何によって計られるのでしょうか?
 ↑
「正確さ」は、筆者の「価値観」によって、量られる、と思います。

 文章を作成するのは、筆者であり、「記載すべき内容」は、
 筆者の頭の中に、あります。

 それを文章と言う媒体を通じて、他者に伝えようとする場合、
 自分の中の概念を、可能な限り正確に表現しようとします。

 詰まり、その表現が正確であるのか、妥当であるのか、の
 判定基準は、筆者にあります。



例えば店で品物を買う。

「これ幾らですか?」

「300円だよ」
「それは300円です」
「ん?300」
「おい、これいくらだっけ?え?300?300円ですって」
「そちらは300円になります」

品物の正確な値段300円ということを伝える文で、正確なものは上の中にありますか。
 ↑
その品物が、300円である設定は、筆者がするものです。
当然、その金額が妥当であるか否か、の判定も、筆者がします。

この一連の表現の、「どれが正確なのか?」は、筆者が判定し、
表現すべきことで、他者は関係ありません。

文章と言うのは、「伝達手段」ですので、基本的に、読者の存在を
前提にしていると思います。

そして書かれた文章が、読者にとって価値のあるものであれば、
それは「良い文章」だと思います。

例えば、日記のようなものは、筆者自身が、読者でもあります。
このような場合、筆者と読者が同一であるので、「良い文章」か否かは、
客観性を欠いて、解りにくい、とは思います。
そのような質問のつもりでした。

ご回答をどうもありがとうございました。

NO4です。
お礼有難うございます。

少し、追記させて頂きます。


>「伝えたいことを、可能な限り正確に伝える。」のが目的ですし、
それが出来ているものが、「良い文章」と言うものだと思います。

「可能な限り正確に」・・・ではその正確さとは何によって計られるのでしょうか?
 ↑
「正確さ」は、筆者の「価値観」によって、量られる、と思います。

 文章を作成するのは、筆者であり、「記載すべき内容」は、
 筆者の頭の中に、あります。

 それを文章と言う媒体を通じて、他者に伝えようとする場合...続きを読む

Qデジタル的な生死とアナログ的な生死

人の寿命は限られており、いつかは必ず死にます。

最もデジタル的な生死
ある工場の労働者であった彼は毎日フォークリフトを運転し、一年のうち数日を除いて毎日15時間働いていたとゆー。
ある日彼は仕事を終えて、家に帰り晩飯を食って風呂に入り寝入ったのであった。
次の朝彼の妻が彼を起こしに彼の寝床に行くと彼は布団の中で死んでいたとゆー。
37歳であった。
あまりに完璧な死に様、あまりに完璧なデジタル的終結。

一方、

最もアナログ的な生死
ある町役場の戸籍係をしていた彼は60歳にて定年退職し、そのあと趣味の盆栽をしながら20年を暮らした。
続く5年ほどは何をするでもなく好きな酒を飲んで暮らしていたが、酒が祟って腎不全から多機能内蔵不全となり病院に入院する羽目になった。しかしもともと心臓は丈夫であったので直ぐに死ぬことはなく病院のベッドの上で点滴を受けながら続く5年を細々と生き続け90歳を超えたある日病院のベッドの上で息絶えたのであった。
あまりに細々とした死に様、あまりにアナログ的生き様。

この問題について日頃より考えておりまする。
この両者のうちどちらが美しいと言えよーか。
もし選べるとすれば皆はどちらの生死を選ぶことになろーか。

人の寿命は限られており、いつかは必ず死にます。

最もデジタル的な生死
ある工場の労働者であった彼は毎日フォークリフトを運転し、一年のうち数日を除いて毎日15時間働いていたとゆー。
ある日彼は仕事を終えて、家に帰り晩飯を食って風呂に入り寝入ったのであった。
次の朝彼の妻が彼を起こしに彼の寝床に行くと彼は布団の中で死んでいたとゆー。
37歳であった。
あまりに完璧な死に様、あまりに完璧なデジタル的終結。

一方、

最もアナログ的な生死
ある町役場の戸籍係をしていた彼は60歳にて...続きを読む

Aベストアンサー

死とは何でしょうか。死んだ後私は何かを感じるのでしょうか。
その為には、私は誰なのか考えなくてはなりません。大抵の人は、これが私ですと自分の体を指すでしょう。

 では仮に、手が切り取られたらどうでしょう。手と残りの体とでは、どちらが私でしょう。手は私では無く、残りの方が私ですと答えるでしょう。では首が取れたらどうでしょう。首の方が私ですと答えるでしょう。では脳を取り出したらどうでしょう。脳の方が私ですと答えるでしょう。では脳を半分に切ったらどうでしょう。どちらが私でしょうか。脳を切り刻んだらどうでしょうか。どれが私でしょうか。脳の中のどの部分が私なのでしょうか。

 そもそも、体の中の物質は、3年に一回全てが入れ替わっています。では、3年後の私は私ではなくなっているのでしょうか。

 赤いとか熱いとか感じているのが私です。では、赤い熱いと言う感じは、物質でしょうか。赤い色は、心の外の世界には存在しません。物質の表面に当たって反射する光の波長が存在するだけです。

 では、音はどうでしょうか。外界には、色々な波長の空気の振動があるだけです。私たちが感じている様な音は存在しません。

 この様に、心が作り出したものを取り去ると、何も残りません。従って、赤い熱いと言った感じは、物質ではありません。幾ら科学が発達して、全てを見ることが出来る顕微鏡が出来たとしても、脳の中を覗いたところで、熱いと言う感覚を見ることは出来ません。触ることも出来ません。ただ、私が感じるだけです。物質ではないものを感じている私も物質ではありません。

 私の感じている世界は、私が心の中に作り出したものです。心の外の世界がどうなっているか、私には全く知る術がありません。しかし、心は外界に出来る限り似せて、心の中に世界を作り出しています。

 例えば部屋の中で、テレビを見ている様なものです。テレビは、実際の現場に似せて場面を作り出しています。しかし、決して現場そのものを見ている訳ではありません。あくまでも、テレビが作り出した場面を見ているだけです。
 部屋の中にいる限り、外の現場を直接見ることは出来ません。

 テレビを見ているのが私です。決して、テレビが私なのではありません。 テレビが壊れても、修理すればまた見える様になります。見ている私が壊れた訳ではありません。

 もし、見ている私が壊れたのであれば、幾らテレビを修理しても元通りに見える様にはなりません。テレビを修理して、元通りに見える様になったと言うことは、私自身は何も変わってはいなかった事を証明しています。

 同様に、もし病気で脳が壊れて、何も感じなくなったとしても、医学が発達して、脳を直す事が出来る様になれば、また私は前と同じ様に感じることが出来る様になるでしょう。

 この事は、私は何も変わっていなかったことを証明しています。病気をしても、年を取ってボケても、そして死んでも脳を元の状態に戻せば、元通り感じることが出来るので、私自身は何も変わってはいません。

 ただ脳が信号を送らなくなったので、何も感じなくなっただけです。テレビが壊れて直せなくなっても、新しいテレビを買えば元通りに見ることが出来ます。脳が死んでなくなっても、新しい脳が私に信号を送る様になれば、また元の通りに感じることが出来ます。

 科学が発達し、かつて脳を構成していた、物質を掻き集めて、元の通りに組み合わせて、脳を作ったら、また、私は元の通り感じるようになるでしょう。

 私自身は、生じるものでも無くなるものでもありません。穢れるものでも、清くなるものでもありません。増えるものでも、減るものでもありません。宇宙の初めから存在しており、宇宙の終わりまで全く変わらずに存在するものです。

 死んだ後の状態は、生まれる前の状態と何一つ変わりません。何か違いを指摘できるでしょうか。
 生まれる前の状態から、人は生まれてきました。死んだ後の状態から生まれることは、何ら不思議なことではありません。
 「不生不滅不垢不浄不増不減」です。

質問者さん、この様に脳が死ぬと精神である私に刺激を送るものが無くなるので、私は何も感じません。新しい脳がまた私に刺激を送る様になると、私はまた元のとおり感じる様になるでしょう。
死んだら、気が付くと母の胸に抱かれていることに気が付きます。誰しもそうです。ですから、死んだ人にもまた次の生或はその次の生で出会えると考えます。

詳細は、下記のホームページを参照下さい。
http://catbirdtt.web.fc2.com/sitohananika.html

死とは何でしょうか。死んだ後私は何かを感じるのでしょうか。
その為には、私は誰なのか考えなくてはなりません。大抵の人は、これが私ですと自分の体を指すでしょう。

 では仮に、手が切り取られたらどうでしょう。手と残りの体とでは、どちらが私でしょう。手は私では無く、残りの方が私ですと答えるでしょう。では首が取れたらどうでしょう。首の方が私ですと答えるでしょう。では脳を取り出したらどうでしょう。脳の方が私ですと答えるでしょう。では脳を半分に切ったらどうでしょう。どちらが私でしょう...続きを読む

Q不可知を 未知と分けて――哲学なら――用いなければいけない

不可知も まだ知られていないこととしては 未知でしょう。

では わざわざ不可知と言うのは どうしてでしょうか?

定義してください。

Aベストアンサー

#76です。

1.
>☆☆ 非知
☆ のほうが だいたいほかの方法よりよさそうだと言おうとしています。

了解しました。

>でも 哲学する人は ぶらじゅ何とかというどこの馬の骨とも分からないや
つが 非知を言い始めたと知って ほかの方法を考えようとするでしょうね。

いえいえ、そうとは限りませんよ。
☆ 非知
に関しては、
☆ のほうが だいたいほかの方法よりよさそう
といった謙虚なるご見解は不要で、
むしろ、それしかないと言えるほど稀有の視点ですよ。
少なくともわたしはそう認めています。
ただし、人間存在の最終原因とか、神とか、摂理とかいったように、その思考の対象がすでに定まったものに対して適用するのは妥当とは思われない。
つまり、
『 過去、人間は、未知・既知といった経験事象としての概念の他、知り得ないと判断する思考現象としての不可知という概念を操ってきた。しかし世界には、知り得るか知り得ないかが知り得ない、と言わざるを得ないような [ 何か ] は常に存在しているのであり、それは 非知 とでも呼ぶべき対象なのである。』
といった脈絡で採用されるべき視点ではないか、と思う次第。

2.
そのあとの記述も精査しましたが、
>★ つまり、連続説の場合も、(ⅲ)の内容については大いに同意するものです
が、
 ☆’《とはいえ、経験事象が そうしたナゾの影響を受けていることもまた事実
 である》
★ といった続きがあるわけです。
☆ この《続き》は 一たん非連続(つまり 淵があって超えねばならなかった)
を認めたあとの《手続き》としてなのです。さもなければ 《無限》が 有限世
界と地続きだとなります。

☆超えねばならなかった
ものではなく、あくまで、当初から並立しているもの です。
こういった内容に象徴されるように、すべてが 非知を大前提にした論理展開 となっていますよね。
なぜ、非知でなければならないのか?
ここが示されない以上、弱いのではありませんか?

3.[ おまけ ]
>☆ というのは 《絶対の隔たりが 〈無限〉と人知とのあいだに ある》と認
めた上でそのあと それでも わたしは連続説に立つのだという宣言なのです。

違います。
あくまで「宇宙の摂理の象徴としての神」の場合にはですが、
☆絶対の隔たり
は当初から認めていません。
よって、
>★ ここで〔☆ こそ〕また連続・非連続の論議に舞い戻ってしまうわけで〔☆
それに関しては〕やはり見解の相違と判定するのが妥当じゃないですかね。

といった甘言に篭絡されるいわれもありません、ということになりそうです。

>★ むろん、この場合の「直接」は、一般の経験事象同士における直接とは意味
が異なることは、128回ほど申し上げているので、すでにご承知のはずでしょ
うけど。
☆ 鯉の滝登りではありませんが 一たん有限から無限の夢幻境へと論理で駆け
上ったからには その《精神の軌跡》を抜きにして この《直接》の意味内容を
考えるわけには行きません。でしょう?

★原因が分かったとしても、その原因に対する原因が永遠に付きまとうので、最終原因は永遠に不可知と言わざるを得ません。
という言及に関して、
・原因=有限での経験事象
・最終原因=無限の夢幻境での事象
のように分けてお考えなのだと思います。
しかし、
★原因が分かったとしても
という表現は、
「あ、これだ!」のように
★原因が分かったとしても
といった意味ではありません。
★原因に対する原因が永遠に付きまとう
というのは、論理的合理性に基づいて、つまり、これだけで成立している命題なわけです。
説明上、例として挙げることはありますが、経験事象としての原因を必須の要素として必要としているわけではない、という点にご留意いただければと思います。

#76です。

1.
>☆☆ 非知
☆ のほうが だいたいほかの方法よりよさそうだと言おうとしています。

了解しました。

>でも 哲学する人は ぶらじゅ何とかというどこの馬の骨とも分からないや
つが 非知を言い始めたと知って ほかの方法を考えようとするでしょうね。

いえいえ、そうとは限りませんよ。
☆ 非知
に関しては、
☆ のほうが だいたいほかの方法よりよさそう
といった謙虚なるご見解は不要で、
むしろ、それしかないと言えるほど稀有の視点ですよ。
少なくともわたしはそう認めていま...続きを読む

Q人の心は脳の自然現象でしょうか? 死後は無なのでしょうか?

人の心は脳の自然現象でしょうか? 死後は無なのでしょうか?

Aベストアンサー

人間は物質的な肉体以外に、霊体という体が重複的に存在していて、その霊体の方に心が存在しているそうです。

↓スピリチュアリズム入門
http://www5e.biglobe.ne.jp/~spbook/sp-introduction1/index.htm

ここの第2部のところを読んで下されば、人間の魂がどこにあるのか書かれてあります。

Q非戦論という一つのベクトルをも おもてに出してよいのではないだろうか

主戦論を前提とした常識ないし定説で 国際関係論が考えられている
ように見受けられます。

その一色というあり方を修正し さらに補強する手も 考えられるの
ではないか。

《非常識》な市民としては 実際のところ 非戦論が優勢なのではな
いか。

――真夏の夜の夢。

Aベストアンサー

非戦論や戦闘否定論は、特に
真新しいわけではありません。

日本の旧左翼の中にも時折、
主張を聞いたことがあります。

個人的には同意する部分も多々
あるのですが、主戦論者から、
「あなたは自分の家族が危害
を被る可能性がある際も闘わない


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