心について科学哲学の立場で勉強していますが、壁にぶつかってしまいました。
それは、心について、哲学の立場で説明することと、科学の立場で説明することの違いが判らなくなってきたのです。

 哲学では、心に関する「概念」を論理分析していくことだ。科学では、「仮定」と「実験」で理論を実証していくことだ。との説明がありました。しかしながら、哲学での「概念」は当然のこととして科学理論をも踏まえたものであります。

 そうすると、哲学の概念の中にも科学理論が内包されているわけで、そのような概念とは、科学理論とどのような違いがあるのだろうか、という疑問に突き当たってしまったわけです。

 これは、哲学するとはどのように思考展開していくのかという疑問にも通じることです。アドバイスと参考文献の紹介をお願いします。

このQ&Aに関連する最新のQ&A

似非 科学」に関するQ&A: 政府は命に係わる危険情報や似非科学にどう対応すればいいと思いますか?

A 回答 (83件中21~30件)

>fwappyさまは、わたくしめから討論のお誘いして



誘い?因縁の誤りでしょう。

>なんとなく、言葉尻の取り合いになった感じですが

なんとなく?あなたははじめから言葉尻だけ
だったではないですか。わたしはそうでは
ありません。わたしのいっていることが言葉尻
だとおもっているなら、あなたはなにも分かって
いないし、分かりたいとも思っていないということ
です。

>わたくしめの至らぬ所、おゆるしくださいませ。

許せません。

>実のところ,茂木様に代わってお答え頂けるなら

私は茂木氏にはなれません。
貴方はまだこのことが分からないらしい。

>クオリアにおける主観と客観のなんらかの差異につき
>いま少し知りたいというところが本音でした。

茂木氏の意見なら茂木氏に聞かれるのが一番でしょう。
Qualia ManifestoのURLを以下に載せておきますから、
BBSでもMLでも行って存分に質問されたら如何ですか?。

serpent-owl様へ
私は私の考えを述べました。もう十分です。

参考URL:http://www.qualia-manifesto.com/index.j.html
    • good
    • 0

 halkaさま


 No.63を拝読した上で用意した書き込みもありましたが、破棄しました。なに、今までの繰り返しです。大したことは書いてません。No.65を読みまして、あなたが好きになりましたよ。ね、へびくん?
 「ほっほぉ~い! へびくんね! はるかおねいちゃん、だいすきだよっ!」
…とのことです。
 全汎化問題はそのうちやりましょう。

 それと、思い出したことが一つ。これはsatonohukurouさま宛てです。
 「心」に関係するもので私が回答したものに、心理学カテゴリーの質問「人の心には鬼が棲んでいますか」があります。
 最初は文学から入って、次にちょっとばかりジョルジュ・バタイユねたで、「人がキレる、鬼になる」ことについて一つの解釈を試みております。なんか…あそこでのみなさん、引いちゃったみたいで悲しかったのですが。もし参考になれば。

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=46437
    • good
    • 0

>密接に関わるようですが、何よりも質問者のsatonohukurouさんが一定の納得に到達


>されたのであれば、そろそろ閉じ時ということでしょう。

気づきませんでした。提題者の斯様なお達しであれば然もありなんと思います。
fwappyさまは、わたくしめから討論のお誘いしてなんとなく、言葉尻の取り合いになっ
た感じですがわたくしめの至らぬ所、おゆるしくださいませ。
実のところ,茂木様に代わってお答え頂けるならクオリアにおける主観と客観のなんらかの
差異につきいま少し知りたいというところが本音でした。
fwappyさまは茂木様とも違う独自の信念をお持ちのようですね。
いまのところ、剣の打ち合いのようなものでしたのであらためてfwappyさまのお考えを
わたしなりに理解したいと考えます。

serpent-owlさま、ながいあいだ愚者の戯言にお付き合い頂きありがとうございました。
当初ここを閲覧して、あなたの優美な投稿を拝謁してなんという方だろうと感激したもの
です。お相手して頂いてわかったことは私の今のままの表現方法では私の考えはうまく
伝わらないのだろうということです。あなたは哲学の現状の知識において偏りなく公正な
目を持って判断される方と思いました。
>残念ながら、この場でのあなたにはそれがあまり感じられなかった。
それにしてもわたくしもつい気負ってしまい、そうとうご不快の念を抱かれたようで
改めてお詫び致します。
しかしながら、もともと回答者同志の討論を許さぬところに特例を設けてしまったようです
からこれはいままでのserpent-owlさまの実績があったからこそgooの管理者さまも
見逃さざるを得なかったのだろうと理解します。

satonohukurouさま、私が回答したことでかえって混乱したかもしれません。
私の考えはまだ偏狭のものと理解されてよいでしょう。私自身、結果が全てだとおもい
ます。serpent-owlさまにはお相手してもらえませんでしたが、やはり「重大少年事件の
実証的研究」のような現実の事例に対して一定の回答を与える体系こそ心の理論たる
資格を持つと思います。ご健闘をお祈りします。

halka
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 長い間、貴重なご意見をいただきありがとうございました。
もっと早く、お礼を申し上げなければならなかったのですが、突然の不幸がありまして1週間ほど不在してしまいました。ご無礼をお許し下さい。
 不在間に、議論はさらに発展しておりますのが、私の当初の質問事項は相当のレベルでご回答をいただけたと考えております。
そこで、とりあえずこのコーナーは、明日23時をもって締め切らせていただきます。
 はるかお姉さまの、ご意見については、反論も多くありましたので、それらを含めて今後じっくりと勉強させていただきます。その後、あらためてお礼をさせていただきます。
 そもそも質問者には、議論に対等に参加できるだけの技量がありません。あるのは疑問のみです。その意味では、質問者同士の議論はある程度は許される方が、回答の内容が深まるのではないかと考えておりました。はるかお姉さまとの他の質問者との議論は私にとっては貴重なものでした。孤軍奮闘の場面が多かったようですが、私のために戦っていただき、感謝申し上げます。ありがとうございました
 他の質問コーナーでお会いできる日を楽しみにしております。

 私好みの めそめそ女 さま

お礼日時:2001/04/14 18:06

 satonohukurouさま、本当に毎回毎回丁寧なお礼ありがとうございます。

この場の「妙な盛り上がり」に関して責任を感じておりますが、少しはお役に立てたようで嬉しく思います。また、すでに何度か触れましたように、ご質問をきっかけに私の方こそ大変有意義な勉強をさせていただきました。重ねてお礼申し上げます。

 fwappyさんとhalkaさんの対論は継続中であり、「心の哲学的説明」という問題にもちろん密接に関わるようですが、何よりも質問者のsatonohukurouさんが一定の納得に到達されたのであれば、そろそろ閉じ時ということでしょう。(お二人は場所を変えて…そう、どちらかの方が質問を開設されるなどして、お話を続けられてはいかがでしょうか? そしたら、僕もまた参加させていただきますよ。)
 さて、そろそろ閉じ時ということで、halkaさんの立論について言及せねばなりません。私は「暫定的結論」として「心・命題同一説は無効である」と宣告いたしました。このことは、halkaさん好みの表現で言えば「かなり客観的に」言えると考えています。
 がしかし、その一方で、この手の問題(とりわけネット上の討論)の「決着」というものは当事者(私自身を含む)が判断すべきことではなく、読者が決めることだとも考えています。よって、私自身が「結論」に付した「暫定的」という言葉を「最終的」という言葉に置き換えることはしません。(もちろん、質問者たるsatonohukurouさんの、この点についての「ご意見」があれば、嬉しいとは思いますが。)

 そして、期待の新人たるhalkaさんに対しては、遅まきながら「歓迎」の意を表しますとともに、僭越ながらアドヴァイスを少々。
 すでにご存知のように、「質問者を通り越しての回答者同士の議論」というのは、本来ここでは遠慮してほしいという「管理部からのお願い」があります。私個人は、とりわけここ「哲学カテゴリー」など学にまつわるカテゴリーにおいては、「質問に答えを与えようと努力する」というその一点を外すことなく、かつ、質問者の同意と承認が得られているのであれば「議論」も許されてしかるべきと考えています。が、原則的には不可です。
 ですから、halkaさんもTPOに応じて判断した上で節度ある議論をお楽しみいただければと願うのです。
 それからもう一点。これは「学に臨む態度」に関してです。「誠実さ」が大事だと思います。自分の考えに間違いがある、限界があると判断したなら、率直にそれを認めた上で再出発をはかるという「誠実さ」です。残念ながら、この場でのあなたにはそれがあまり感じられなかった。先にも述べましたように、あなたは「有望な期待の新人」です。これからもここで活躍していただきたい。ただ……その「誠実さ」をお持ちにならない限りは、私があなたに尊敬の念や好意を抱くことはないでしょう。
 少々厳しい言い方で、お気に障ったかもしれませんが、お聞き届け下されば幸いです。

P.S. それから、satonohukurouさま、ご存知ないかもしれませんので申し添えます。質問は締め切った後では「新たな回答」と「質問者による補足」は書けなくなりますが、「お礼」は後からでも書き加えることができます(ふつうにログインすれば)。
 何しろ肥大化したスレッドです。あわてて「お礼」を書かずに、後でゆっくり味読しながらレスポンスされるのも一つの方法です。

P.S. おっと、halkaさんの投稿が…。とりあえずこれ載せちゃいます。読んだ上で必要があればコメントします。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

不幸があったため急遽1週間不在してしまいました。
締め切りもしなかったため、放り出した形になってしまいました。
大変申し訳ありませんでした。
さらに議題は発展しているようですが、私としては、当初の目的は達成でましたので、これで締め切りたいと考えます。
 oshieteの利用方法までアドバイスいただき、ありがとうございました。
もう一度ゆっくりと読みながら、あらためてお礼することにします。
それと、幻影肢の件については、あらためて質問させていただきます。
その際はよろしくお願いします。
ありがとうございました。

お礼日時:2001/04/14 17:26

 serpent_owlさま


>これをネタに解決策を議論するというのは「問題点のすり替え」ですってば。おぢちゃんはその手には乗りません。

あら、そのほうがおもしろいじゃありません。
satonohukurouさまがどう言う立場でご研究されているかわかりませんが、具体的に
哲学理論が役立つのかどうかを判定するにはもってこいだとおもいますよ。
ニュートンらの古典物理学だってそこから大砲の弾道とか具体的なところで役立つ
領域を見出すのは研究の励みになるというものです。

>前々回の書き込みではっきりと申し上げたはず。
> 「加害者少年たちが、自分を磨くか外界を変えようとするかの選択は何に由来するの>か、論理式のどこに表現されているのか」
> そして「質問4」については、 「外界を変えようとする具体的手段のちがいはどう
>説明するのか、その手段の程度や修飾は論理式で解釈できるのか」
>…というのが問題点です。

ももも、しぶといのでございますね。菅原道真公の怨霊のようなお方・・・。
わたくし、随所に述べてきたつもりではございましたが、ではもういちど・・・。
「重大少年事件の実証的研究」にもありましたように単独で重大事件を起こした少年に
共通する特徴・前駆的な行動とは(2)-4自己イメージのワルさ、および(2)-5
ゆがんだ男性性へのあこがれに代表されています。
おじさまはa.自分を磨く b.外界を変えようとする のふたつをあげていらっしゃいますので
かりに、第一原因を(1)-3思春期に大きな挫折を経験したタイプということにしましょう。
ここには「勉強や運動で活躍していたが挫折」といえばまあ受験に失敗したとか、自分也
にやっているのに成績が上がらなくなったでもいいです。
(VA∧PA)⊃VSのVS=0、ここで「自分はダメな人間だ」が設定されます。
Aは「自分は成績が良くみんなにあがめられる存在」とかで「自分はかくあらねばならぬ
のに今の自分はそうでない」ゆえに「自分はダメな人間だ」になっているわけですね。
本来Aは希望とか欲求の対象であり「かくありたい」という命題ですが、親とか周りから
ちやほやされていたものでAは「かくあるべし」当為に変化します。
たとえば「お菓子がほしい」というVAが設定されて、「ちょうだいちょうだい」おねだり
しているうちは良いですが回りの皆がもらっているのに、自分だけもらえない状態が
出たとしたらどうなりますか?「わたしにお菓子をくれるべきだ」ないし「わたしだけもらえ
ない、わたしはここにいるべきでない」のファイトオアフライト反応になるわけです。
ちやほやされてわがままなのは自分を立てて周りを困らせる、攻撃性の要素です。
当為は強くなると他者への命令、それに従わない他者には懲罰を与えると相場が
きまります。かの少年は「自分はダメな人間だ」から「まわりは自分を引き立てるべきだ」
「それを怠っている世間は罰せられなければならない」そしてその手段としてのPA
はゆがんだ男性性へのあこがれ、と変化していくわけですね。
それは自らが懲罰の実行者となるわけです。

VAの変化「自分は優秀でちやほやされたい」が希望の場合PAは比較的攻撃性をもた
ないでしょう。それには自分を磨いて、まわりに自分の優秀さを認めさせれば良い,と
いうかたちでPAを設定すればまあ問題は起きないといったところです。
いつか見返してやるとして一生懸命努力する。
自分自身を惨めなものとしておとしめてしまっては努力の意欲もうせるというものですが
やたら自分は優秀だとして弱いところに攻撃を加えるというのはそう、第一次大戦後の
ドイツに似てはいないでしょうか?
これはVAの質の変化による意識の一般的特徴です。

お受験問題に付いて。
彼女の場合VA「地域社会に一定の地位を得ていたい」が、たぶん夫婦との会話もでき
ない中で(事件後夫は愛情を示したがそれまでは任せきり)それはやはり希望から
自分への責任に変化したと考えられる。ここではVAはやはり当為に変化した。
彼女は幼児殺害を周到に行い死体を隠蔽するまで行っているので、この行為自体は
かなり計画的・・・ということは、私が彼女を取り調べたわけではないので推測ですが
PAを考えているうちに、その幼児がいなければ一定の目的を果たす,という明確な推論
が彼女の中では成立したと考えられます。おそらくはその幼児の親との関連で公表は
されないけれど聞けば納得するような理屈が成り立っていたのでしょう。
PAは目的関数です。それが具体的に事実世界で果たされるのは「すっぱいブドウ」で
やった、石を投げて当てる,とか棒で取るとか、てつだってもらうとか手段はさまざま。
実際に実行に移すことが出きるものがx1,x2・・・あるとする。
問題はどれを使っても良いけれど,目的PA=1を果たさねばならない。
やはり、精神的に生きるか死ぬかの切実なところでは倫理も超えてしまうことがあります。
彼女はPA=1をみたすxnを選択した。
まだ確信していませんがどうもこれは存在例化のサンプルに似てますねぇ。

ところで全称汎化はどうされたのでしょうか?
あれ、けっこうまじでやりたいことなんです。経験命題が個別に確認されている段階
ではまだ全称汎化されていない状態ですからね。

> 「表現されていない」「説明できない、解釈できない」ではないのですか?
 
まあ、くだらないとか意味をなさないとか言われるのでしょうけれど,落雷はいや!
道真公、ゆるされて。

>「それじゃ観察できる行動に注目しよう」ってことで行動主義になるんではないかと思うのですが。
ですから~、おじさまがホントっていってくだされば、はたして叔父さまがずっと狂言して
いたとしても私目には愛を勝ち取ったということです。
あとになって、かげで「バカ」とかいわれてもわたしが感知しなければわたしは幸せ。
   *
> それと、「ガダマー解釈学におけるカオス論」って、要約として乱暴すぎます。おぢちゃん、困ってしまいます。

シンプルに命名するって悪いことではないでしょう?
わたしはsatinohukurouさまのためにも必死になってあれこれ提示しているのですから
叔父さまは結局、自分のものは出さないで、わたしばっかり否定してるにとどまるとしたら
ミネルバのふくろうのご親戚としては御名が泣くのではないでしょうか?

>「論理法則」なんてものは、「心」の法則化できる、ほんの一片だけを救い出して組み
>立てただけのものではないか、と。たぶんここが私とhalkaさんの対立点なんですよ。

私も駆け出しでございますから、まあ困難なことはわかっております。
しかしながら脳生理学の研究結果が「重大少年の実証的研究」にたいして関連事項とし
て意味を持つとは考えられません。いずれにしてもそれら諸科学は価値命題を取りこめ
ないのです。あらためてふくろうおじさまも価値命題についてお考えあそばせ。
    • good
    • 0

>>ではわたしが「誰にとっても薔薇はいいねぇ」といったら、如何ですか?


>>「いや、俺は薔薇が嫌いだ。」と貴方はいうでしょう。
>>それは、わたしが間違ってるということですよ。
>あなたの価値判断がどこからきているかということでしょう。
>ヘロインは誰にとってもいけないものですが、
>それをやっている人は「いいねぇ」というでしょう。

もし、やっている人が「いいねぇ」というのなら、
その人にとってはいけないものではありますまい。

>あなたがいかなる根拠をもとに「誰にとっても薔薇はいいねぇ」
>といったかわかりませんが その場でわたしが嫌いだといっても,
>あなたが間違っているということにはなりません。

では、あなたが間違っているのですか?
もし、わたしのいうことが物理学に基づいているのならば、
あなたが薔薇を嫌うのは、物理学に反しているから、
あなたは間違っているというわけでしょうか?
    • good
    • 0

No.60の続きです。



>根拠がないということはfwappyさま自身、
>自分の考えに自信がないということを意味
>しているのですか?

自分が赤い薔薇を見ているときに、根拠を求めますか?

>ご自分の思考には自信があって、他人の思考には
>「おまえの思考は 根拠のないものだ」ということは
>板面に他者の不安をあおっているだけです。

わたしはわたしが赤い薔薇を見ていることに自信をもてるが
あなたが同じように赤い薔薇を見ていることに対して自信を
もつことはできません。

まあ、あなたが「赤い薔薇を見ている」といったならば、
それを疑うほど猜疑心は強くないですが、それでも私自身の
体験ほど強く信じるわけではありません。

自分の主観的体験を絶対的な安心の基準としてみるならば、
他者が同じ体験をしていると信じることには明かに不安が
あります。それを持たないことが良いことだと思う人も
いるようですが、私はそこまで自己中心主義ではありません。

>>「哲学」とは、人の無意識的な本能に対する意識的な疑念だとわたしは思います。
>fwappyさまには「科学」も幻の巨塔なのですね。

いいえ、「科学」は私にとっては幻ではありませんよ。
他の方にとってもそうだと確信することはできませんが。

>でも、「無意識的な本能」とかを前提とされているようだから
>フロイトとかの精神分析、 あるいはハルトマンの哲学を基礎として
>独自の思想を展開されている?

それはあまりに皮相的な解釈でしょう。
だいたい、わたしはそのハルトマンとかいう人を知りません。
第二次大戦のドイツの撃墜王にそんな名前の人がいたのは
知ってますが。
    • good
    • 0

>>光波の存在はどうやって確認するのでしょうか?


>古典物理学から現在に至る量子力学のものを受け入れております。

なぜ、受け入れたと思いますか?
それは我々が光を見、そしてそれにはなにがしかの原因があると
考えるからでしょう。しかしながら、そう考えることに根拠は
ありますか?

>fwappyさまの主張はいままで分類されていたものを両者は同じだ,
>といって分類する意味をなくしてしまっているわけでしょう。
>そのように思考するメリット,そこからどんな結果がでてくるので
>しょうか?

貴方にとって、「客観的真理」とは貴方自身のメリットのためだけに
存在しているというわけでしょうか?それこそまさに「独我論」でしょう。
それならば、独我論になんの不都合もありますまい。みながみな、独我論
を信じて生きていながら調和できる。実に素晴らしい。

>>しかし、もしかしたら、貴方のその体験自体が、夢の中の出来事かも
>>しれませんよ。それでも貴方はそれが真といいますか?
>その発言はあなたが客観世界を前提としてのものでしょう,
>fwappyさまの自己矛盾と考えます。

いや、貴方が前提としないというのなら、それでよい。
わざわざ客観世界などといわなければそれでよいではないですか。
貴方こそ自分の考えで自分を縛っていますよ。

ところで、なぜ諦めてはいけないのでしょう。
誰に対して勝たなくてはいけないのでしょうか?
勝負する必要もなければ、挑戦する必要もない。
わたしがあるかぎり、それをただ楽しめばよい。
そうではありませんか?
    • good
    • 0

fwappyさま


>光波の存在はどうやって確認するのでしょうか?
古典物理学から現在に至る量子力学のものを受け入れております。
光は波であり,かつ粒子でもある。

>なぜ、懸念する必要があるのでしょう?
>全ては主観的言明です。しかしながら、世の中には・・・
>これに対して抱く信念が「客観的存在」です。

fwappyさまの主張はいままで分類されていたものを両者は同じだ,といって分類する意味を
なくしてしまっているわけでしょう。そのように思考するメリット,そこからどんな結果がでて
くるのでしょうか?再度引き合いに出しますが善悪のうち、善しかないとして悪はその不
完全形態というわけですね。ただ、行きつくところは独我論でしょう。

>>時空という議論領域に現れる他者の時空における対象の存在言明は
>>共通であると思います。
>それは貴方個人がそう思っているだけでしょう。

それでもいいです。そのほうが不都合はありませんし、無矛盾性も維持できると考えます。

>>わたしが知覚できないとしたらその命題を真とは判定できません。
>もし、貴方が私の目の前に薔薇を見出せないと偽だというわけですか。

そのように処理し、そのように行動します。

>しかし、もしかしたら、貴方のその体験自体が、夢の中の出来事かも
>しれませんよ。それでも貴方はそれが真といいますか?

その発言はあなたが客観世界を前提としてのものでしょう,fwappyさまの自己矛盾と
考えます。

>>その種の命題を事実命題としてあなたとわたしは共通の判定ができると思います。
>できないでしょう。

それはあきらめという敗北主義です。ネバーギブアップ!!

>もし、10人の人がいて、5人が薔薇が見えるといい、
>他の5人がなにも見えないといったら、どうします?

両者別の利害関連がまったくなく、視覚に頼る限りそのように主張していると判断された
場合、まずは両者の対象に対する視覚的位置とか、それを見る時間がおなじかとか、差異
の物理的原因を探ります。それでも原因が解消されない時は、それらグループの成員の
視覚器官の差異を分析するということになるでしょう。

>ではわたしが「誰にとっても薔薇はいいねぇ」といったら、如何ですか?
>「いや、俺は薔薇が嫌いだ。」と貴方はいうでしょう。
>それは、わたしが間違ってるということですよ。

あなたの価値判断がどこからきているかということでしょう。ヘロインは誰にとってもいけ
ないものですが、それをやっている人は「いいねぇ」というでしょう。
あなたがいかなる根拠をもとに「誰にとっても薔薇はいいねぇ」といったかわかりませんが
その場でわたしが嫌いだといっても,あなたが間違っているということにはなりません。

>ええ、だから、全ては主観的体験なのだから、議論領域には差異がある可能性が常
>にあるといっているのですよ。貴方が自分自身の説を自分の都合で無視しているの
>です。その都合とやらが、まったく根拠のないものだといっているのです。

根拠がないということはfwappyさま自身、自分の考えに自信がないということを意味
しているのですか?ご自分の思考には自信があって、他人の思考には「おまえの思考は
根拠のないものだ」ということは板面に他者の不安をあおっているだけです。


>「哲学」とは、人の無意識的な本能に対する意識的な疑念だとわたしは思います。

fwappyさまには「科学」も幻の巨塔なのですね。
でも、「無意識的な本能」とかを前提とされているようだからフロイトとかの精神分析、
あるいはハルトマンの哲学を基礎として独自の思想を展開されている?
    • good
    • 0

 fwappyさま


 私も実は「法則化は不可能」とまで言い切ってしまう勇気を今は持っていません。が、きわめて困難であることは認めざるをえないように思います。
 その困難さの由来するところはしかし、fwappyさんご指摘のような「心の内部の問題」ではなく、むしろ外的な問題、心と外界の関係の問題にあると考えます。一言で言うと「帰納が機能しない」ということです。(あ~あ、やっちまった…)

 つまりその、心の内容は必ずしも内発的なものだけではなく、むしろ文化的動物たる人間の場合には後天的に獲得される学習内容の方が多いからです。心にその学習内容を刷り込んでいく源、これをとりあえず「文化」と呼んでしまいますが、この仮構物の形成および変容の力学はもはや「個」の意志や力が及ぶものではなく、言わばこの仮構物自体が勝手に自己形成していくものであり、さらには他の文化との相互影響もこれを左右します。
 仮に「心」を「単語」、「文化」を「文脈」としますと、この「文脈」は「他の文化一般」という「大きな文脈」の中に置かれており、さらにその「大きな文脈」は、歴史の中に流れる時間という「より大きな文脈」の中に置かれています。逆に辿れば、「より大きな文脈」は「大きな文脈」に形成され、「大きな文脈」は「文脈」に形成され、「文脈」は「単語」によって形成されています。(…結局、私は「ガダマーっぽい枠組み」にこだわっているのですが。)
 これらすべてが「心の内容」に影響を与えうる。極端な言い方をすれば、地球の裏側アルゼンチンで作曲されたタンゴの新曲が、日本人である「私」の心を左右しうるということです。そして「多様性が多様性を再生産する」文化というものの能産性を考えますと、「今よりのちの諸文化のありようは予測できない」ことが推定されます。とすれば…、「心」に関して今現在の時点で得られている「経験から帰納された知」が、将来においてもその妥当性を維持できる保証はないことになりはしないでしょうか。文化が持つ多様性の無限ゆえに「心の内容は無限に変容しうる」とすれば。
 数列の規則が一定であってこそ数学的帰納法は有効。ところが、規則が途中で変わるとすれば数学的帰納法など無効…みたいな話です。つまり「帰納が機能しない」。(またやっちまった…)
 むろん、「文化の形成および変容の一般法則」が確立されれば話は別です。「規則の変化」をも予測可能ならば。しかし、これは無茶です。現実的な労力のために無茶というだけでなく、原理的に無茶ではないかと。…というのは、上記の「単語-文脈」の相補・循環のためです。双方とも単独では確固たる基盤を持たず、言わば何もない空中で互いに相手を支えようと持ち上げあっているような、不安定な両項。客観化は不可能であろうかと思われます。

 なにやら私の方が「不可知論者」めいてまいりました。ですが反面、いやぁ~な予感もしているのです。いや、実は「よい予感」でしょうか。
 上記のように「法則化の困難さ」を述べた自分自身の立論、およびそれを支える知識の範囲に「穴がある」という予感です。それが何かはわかりません。わかってたら上記のようなことは言いません。でも、ありそうです。抜け道が。すなわち「法則化の可能性」が。
 これは「勘」です。科学捜査を重んじる若い刑事と対立するベテラン刑事さんがよく言う「勘」です。ただそれが何を指し示しているかをはっきりさせるには、今の私では修行が足りません。

※回答者は複数でも、質問者はたったのお一人です。satonohukurouさんに議論の流れを味読していただく時間を少しでもとるため、お返事を遅らせました。その点のご理解をお願いした上で、遅れにつきお詫び申し上げます。
    • good
    • 0

このQ&Aに関連する人気のQ&A

←前の回答 1  2  3  4  5  6  7  8  9 次の回答→

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人はこんなQ&Aも見ています

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q一般に宗教と呼ばれている仏教は、「信じる」ものでなく、「学ぶ」ものなのですか?

まず、私は仏教については、門外漢です。
先日、このカテにて、「哲学の心身問題を解決する方法はありますか?」という質問がありました。
この、回答の一つに、
<仏教に学ぶことです。>
があり、興味深く考えています。
教えてもらいたいことは、一般に宗教と呼ばれている仏教は、「信じる」ものでなく、「学ぶ」ものなのですか?

Aベストアンサー

うーん…これは人によってとらえ方、見方が違うものだと思いますね。
私は「両方の側面を持っているもの」だと認識していますので、学ぶべきものであり、また、信じるものでもあるのかな?と思います。

仏教は、他の宗教との違いとして「哲学」として理解していくことが出来ます。
キリスト教も似たところがありますが、どちらかというと仏教のほうがより哲学的です。
ただ、仏教は一番最初の形(原始仏教・大乗仏教)から、広く細かく「枝分かれ」をし、その土地や、そこに住む人々…ことに「仏教家」によって、違う解釈があり、それらが広まっても来たという歴史があります。
日本でも真言宗とか、臨済宗とかありますよね?。
「南無阿弥陀仏と唱えていれば往生ができる」というように、まずもとになる「仏教」があって、その解釈の繰り返しから、最終的にただ真言を唱えれば、などとなっていきました。

しかしこれは「変質」というものではないのです。
元になるべき「教え」についての解釈・深化の過程によって、生み出されてきたものです。
ともすれば「信ずるものは救われる」で、手放しで信じることが信心である、と捉えられがちですが、実際はそこに至るまでの沢山の過程があったわけです。

そこが仏教の特徴的なところだと思うのです。
「学び、問い、実践する」という要素がある。
その中で、自分が見つけ出したい「ひとこと」に出会うということもあるかもしれない。
盲目的な信仰というものを、仏教の中では好ましいとは捉えないわけです。

答えを導き出すための「ツール」として、仏教は大きな厚みのある「本」のようなものではないかと思います。
また「生活の知恵」というか、生きていくための「ノウハウ本」みたいな側面も持っています。

うーん…これは人によってとらえ方、見方が違うものだと思いますね。
私は「両方の側面を持っているもの」だと認識していますので、学ぶべきものであり、また、信じるものでもあるのかな?と思います。

仏教は、他の宗教との違いとして「哲学」として理解していくことが出来ます。
キリスト教も似たところがありますが、どちらかというと仏教のほうがより哲学的です。
ただ、仏教は一番最初の形(原始仏教・大乗仏教)から、広く細かく「枝分かれ」をし、その土地や、そこに住む人々…ことに「仏教家」によって、違...続きを読む

Q量子論的な世界像において、世界は認識される事で存在してる、そうです。そうすると、認識している私は、自

<量子論的な世界像において、世界は認識される事で存在しています。>
そうです。
そうすると、認識している私は、自分自身を認識している、ということになるのですか?

Aベストアンサー

こんにちは。

☆世界は認識される事で存在しています。
◇上で書かれている「世界」は、〈世界そのもの〉ではなく、我々の五感などの感覚によってもたらされた情報をもとに、〈わたし〉によって再構成された主観的な〈世界〉でしょう。

〈世界そのもの〉≠主観的な〈世界〉

そして、物理では
〈世界そのもの〉≠観測された〈世界〉
〈世界そのもの〉≠理論で想定される〈世界〉

我々の主観的な〈世界〉が我々の認識に基づいているのは当たり前のことであり、
物理学的な〈世界〉が観測などに基づいているのも当たり前のこと。

「世界は認識される」という表現で問題なのは、この表現中の世界(主観的世界、物理学的な世界などなどの対象化された世界)を〈世界そのもの〉としていること。

我々の知る世界は、程度の差はあれ、主観的な世界に過ぎず、
そんなものがあればですが、
客観的な世界や〈世界そのもの〉に至ることはできないんじゃないですかね。


☆認識している私は、自分自身を認識している
◇〈認識している私によって対象化され、再構成された《認識している私》〉を認識しているに過ぎません。
認識主体である私が、私の表象(イメージ)を認識していると言っていいのかもしれないですね。
もっとも、ここで言う〈認識主体である私〉がすでに表象(イメージ)に過ぎないけれど。

ショウペンハウアーのこの言葉が参考になります。

ショーペンハウアーは、世界はわたしの表象であるという。このことは、いかなる客観であっても主観による制約を受けていることを示している。
https://goo.gl/w67lxK


ミクロとマクロの関係の話が出ているようなので、私は違う角度から。

我々が実際に生きる世界は、10²³というアボガドロ数オーダーのさらにアボガドロ数オーダーくらいの超多粒子系の世界。
たとえ電子などの粒子一つ一つの挙動が確率的なものであったとしても、このような超多粒子系の現象は平均的なものになり、この平均的な振る舞い、平均値からの逸脱は殆どなくなります。
 ――量子力学のトンネル効果があるからと言って、超多粒子系の我々は、我々の体を構成する電子などの量子の如く壁を通り抜けたりは出来ない!!――

我々はマクロサイズの世界で、そして、圧倒的多数の多粒子系の世界で生きているので、量子力学がどうであれ、我々が日常的に観測する現象はほぼ100%の確率で(古典物理学的な)決定論に従っており、ここに量子力学の出番はありませんよ。

まして、哲学の認識論に量子力学や量子論は必要ないと思います。

こんにちは。

☆世界は認識される事で存在しています。
◇上で書かれている「世界」は、〈世界そのもの〉ではなく、我々の五感などの感覚によってもたらされた情報をもとに、〈わたし〉によって再構成された主観的な〈世界〉でしょう。

〈世界そのもの〉≠主観的な〈世界〉

そして、物理では
〈世界そのもの〉≠観測された〈世界〉
〈世界そのもの〉≠理論で想定される〈世界〉

我々の主観的な〈世界〉が我々の認識に基づいているのは当たり前のことであり、
物理学的な〈世界〉が観測などに基づいているのも当たり...続きを読む

Q一神教の精神・信仰が、よく解らない日本人です。

万物を創造した唯一絶対の神、主に従う、
とか

すべては神の御心のままに、

とかいうのは、
日本人の言葉で言うと

人事を尽くして天命を待つ、

という感じかな?と思ったのですが、どうでしょうか?
ほぼ当たりと思っていいでしょうか?
それとも、全然見当違いですか?

神の御心と人間の主体性についてあれこれと考えています。

Aベストアンサー

お礼ありがとうございます。
儒教的概念の天も、最初は人格を持った存在として認識されましたが、最終的には一種の法則(理)として捉えられました。
したがって、天の理は全てに平等で、分け隔ては無い事になります。
アブラハムの宗教の「神」は、人格神ですから、「神」の御心と言う物が想定されます。(つまり、「神」には意志があるわけです)
「神」は、絶対的な選択者と想定されますが、全てにおいて平等と言う事は想定されていません。
人間から、見れば、天の理がわからなければ、結果がどうなるかはわからないです。
ただし、天の理にかなった結果が平等におきる事は想定されます。
アブラハムの宗教の「神」は、意志を持っているので、御心で結果は変わります。
したがって、同じ事でも、結果が変わる可能性はあります。
ただし、「神」を絶対的善として想定する人の場合は、善を成す結果が起きると想定する場合がありえます。(この場合は、天の理とそれほどの差はありません)
実を言えば、この世で不合理と思われる結果(運命)がある場合の説明の方法が難しいわけです。
仮に、天の理があるとすれば、人間が不合理と思っても、それは天の理にかなった事と捉えられるでしょう。
「神」の御心によると考えれば、これは「神」の意志によるので、人間が不合理と思っても、それは「神」の意志です。
どちらにしろ、人間が予測できないと言う事では同じと言えば同じです。
両方は、何らかの原因により、運命が決定されていると言う、決定論的世界観を生み出します。
したがって、定められた運命に対しての、人間の自由意志はかなわないと言う結論に到達します。(人間が完全に自由な意思決定をできる余地が無いと言う事です)
これを天命にまかせるとか、「神」の御心と表現するならば、実際の現象としては同じ事にはなります。

お礼ありがとうございます。
儒教的概念の天も、最初は人格を持った存在として認識されましたが、最終的には一種の法則(理)として捉えられました。
したがって、天の理は全てに平等で、分け隔ては無い事になります。
アブラハムの宗教の「神」は、人格神ですから、「神」の御心と言う物が想定されます。(つまり、「神」には意志があるわけです)
「神」は、絶対的な選択者と想定されますが、全てにおいて平等と言う事は想定されていません。
人間から、見れば、天の理がわからなければ、結果がどうなるかはわか...続きを読む

Qこの世界の行き詰まりを 三点突破だ!

A 国連に代わる――あるいは 並存してもよいはずですが――村際連合(インタ
ムライズム)によって世界を主導するシステムを!

1. 国家のレベルの国民政府による主導方式は もうふるい。
   ムラ(市町村)の市民政府がそれぞれ主役である。

2. ムラムラのネットワークが 世界をあたらしくつくりなおす。

3. 世界のムラどうしでムラ議会議員を互選する。

4. 世界中のムラムラのあいだで市民が互いに互いを知るようにする。
   つまり ひとの交流をすべてのムラビトがというほど推し進める。

5. いくらでも色んなよいアイディアを出し合ってこれを実行して行く。

6. 経済は それぞれのムラがインタナショナルなインタムライズムの場(市
場)へと企業それぞれを巻き込む必要がある。(連携でしょうが)。



B 《普遍神》論によって宗教という宗教の揚棄を!

7. 宗教にかんして オシへは二の次であって 個人の《わが固有の時》とし
ての信仰について それを一般論として知っておく。神は 普遍神だということ
だ。
  
8. すなわち わが固有の時に憩う《わが非思考の庭》なる信仰は類型として
だれにとっても 同じひとつであるということ。

  A. ブラフマニズム:梵我一如
   梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神
   我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我

  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)
   無梵:シューニャター(空)・ゼロ
   無我:アン‐アートマン;ニルワーナ

  C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)
   仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)
      / マハーワイローチャナ(大日如来)
   仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)

  D. クリスチアニズム:霊霊一如
   霊:神・聖霊
   霊:《神の宮なるわれ》

  E. (プラトン?):霊霊一如
   霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)
   霊:《われ》

  F. 《もののあはれを知る》
   霊:かみ(超自然および自然)
   霊:われ(自然本性)

  G. ユダヤイズム:霊霊一如
   霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)
   霊:われ

  H. イスラーム:霊霊一如
   霊:アッラーフ(イラーハ=神)
   霊:われ

9. このあたかも霊のつるぎによって世界をリセットしよう。




C やっぱし《アース役はつらいよ》の全国的・世界的大合唱で ハラスメント
について本人に自省させるのがよいのでは?

10. 何気なく ♪あぁ アース役はつらいよ♪ とつぶやけばよい。

11. パワハラ・セクハラ・あるいはイヂメに際して みんなで合唱へと持
って行くとよい。

12. 半分は 減るのではないか?
    半分は あたまも気持ちもすっきりするのではないか?
    世界へも広げよう。

13. 無理をせずに 生産性が上がるのでは?
    社会保障費が省けて 財政再建に寄与するのでは?
    つまり 健康年齢(健康寿命)が上がるのでは?

14. その情況にあって いま横になっている人たちの半分は やおら起き
上がって来るのでは?


☆ ご見解をおしえて ぐー。

A 国連に代わる――あるいは 並存してもよいはずですが――村際連合(インタ
ムライズム)によって世界を主導するシステムを!

1. 国家のレベルの国民政府による主導方式は もうふるい。
   ムラ(市町村)の市民政府がそれぞれ主役である。

2. ムラムラのネットワークが 世界をあたらしくつくりなおす。

3. 世界のムラどうしでムラ議会議員を互選する。

4. 世界中のムラムラのあいだで市民が互いに互いを知るようにする。
   つまり ひとの交流をすべてのムラビトがというほど...続きを読む

Aベストアンサー

Aについてです。
国と言うのはいつ頃できたのでしょうね。
現代は、インターネットによる横のつながりによって、新しい共同体や経済の形が現れて来ているように思います。
それがインタムライズムというものの具体的な現れになるのかなと、ふと思いました。一人一人の意見や意思をダイレクトに吸い上げ、ビッグデータとしてそれを人工知能が処理すれば、一人一人が持つ小さな望みを、全体に反映する事も無理ではありません。今まで切り捨てられたり矮小化されたりと不当な扱いを受けて来た市井の人々に、力を復権させられるかもしれません。

QStrange question

I know this is a strange question, but isn't it strange that there are no aliens,
or do they exist? I herd that the possibility of alien life is 100% but we never saw them. They
might live far away but their should be at least one species that could travel in space.

Aベストアンサー

人の寿命は100年程度です。一人の人間が地球外生命体を認識する事は難しいと思います。

1961年にアメリカの天文学者であるフランク・ドレイクによって考案された、ドレイクの方程式というものがあります。
ドレイクの方程式(ドレイクのほうていしき、英語: Drake equation)とは、宇宙にどのくらいの地球外生命が分布しているのか推定する方程式である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%81%AE%E6%96%B9%E7%A8%8B%E5%BC%8F

他の惑星に地球外生命体が存在する可能性は高いと思います。
人間が高度な文明を発展させて、さらに、高度な地球外生命体が同時に存在すれば、地球外生命体との遭遇は早くなるでしょう。

Q「よい文章」とはなにか?

嘗てフランスの近代詩人ステファン・マラルメは「白紙の上に絶対が宿る」といいました。

例えばここに一万円札がある。それで何かを買うということは、その一万円で買えたはずの他の品物を手に入れる可能線を全て放棄したことを意味します。

「選択する」ということは、ひとつを選ぶことによって残りの99の可能性を捨て去ることに他なりません。
逆にいえば一万円札をそのまま使わずにいる限り、そこには永遠に100通りの可能性が残されているということになります。

前回の質問でも述べましたが、「推敲」という言葉があります。
昔中国の詩人が詩句の一節を「僧は推(お)す月下の門」にするか「僧は敲(たた)く月下の門」にするかで悩んだという故事から来た言葉ですが、詩はもちろん声に出して詠むことを前提にされているのでしょうし、全体の音の流れの中で「推す」と「敲く」とでは随分感触が異なると詩人は感じたのでしょう。

しかし現にわたしたちはこの「推敲」という言葉も含めて、中国の詩を(当時の)中国の言葉(音/オン)で読んでいるわけではないし、大抵は外国文学イコール翻訳文学です。
同じ詩、同じ小説でも、訳者によってこうも違った言葉の選択になるのかという、ある種の驚きとも違和感ともいえる感覚は誰しも覚えがあると思います。

繰り返しますが、単に意味が通じればいいというのであれば、「推」(おす)であっても「敲」(たたく)であってもさほどの違いはないように思えます。ここで語の選択の基準となるのは、あくまでも耳に心地好い音の流れということなのでしょう。

以上のようなことをつらつら考えながら、いったいいい文章とはどのようなものを指すのだろう、と考えてしまうのです。

例えばこの質問文中に

「詩はもちろん声に出して詠むことを前提にされているのでしょうし、」という個所があります。

これを

「詩はもちろん声に出して詠むことを前提(と)されているのでしょうし、」

或いは

「詩はもちろん声に出して詠むこと(が)前提(と)されているのでしょうし、」
という風に書き換えることも可能です。

「推す」か「敲く」かの次元にこだわっていると、下手をするとなにも書けなくなるような気もします、一方で、このレベルから言葉の選択に対してこころを砕かなければ、もとよりよい文章を書くことなど覚束ないとも思うのです。

人は文章に対して何を(あるいはどこまで)求めているのか?そのようなことも含めて、お考えがあればお聞かせください。

尚お礼が遅れることがあるかもしれませんが、予めご了承ください。

嘗てフランスの近代詩人ステファン・マラルメは「白紙の上に絶対が宿る」といいました。

例えばここに一万円札がある。それで何かを買うということは、その一万円で買えたはずの他の品物を手に入れる可能線を全て放棄したことを意味します。

「選択する」ということは、ひとつを選ぶことによって残りの99の可能性を捨て去ることに他なりません。
逆にいえば一万円札をそのまま使わずにいる限り、そこには永遠に100通りの可能性が残されているということになります。

前回の質問でも述べましたが、...続きを読む

Aベストアンサー

NO4です。
お礼有難うございます。

少し、追記させて頂きます。


>「伝えたいことを、可能な限り正確に伝える。」のが目的ですし、
それが出来ているものが、「良い文章」と言うものだと思います。

「可能な限り正確に」・・・ではその正確さとは何によって計られるのでしょうか?
 ↑
「正確さ」は、筆者の「価値観」によって、量られる、と思います。

 文章を作成するのは、筆者であり、「記載すべき内容」は、
 筆者の頭の中に、あります。

 それを文章と言う媒体を通じて、他者に伝えようとする場合、
 自分の中の概念を、可能な限り正確に表現しようとします。

 詰まり、その表現が正確であるのか、妥当であるのか、の
 判定基準は、筆者にあります。



例えば店で品物を買う。

「これ幾らですか?」

「300円だよ」
「それは300円です」
「ん?300」
「おい、これいくらだっけ?え?300?300円ですって」
「そちらは300円になります」

品物の正確な値段300円ということを伝える文で、正確なものは上の中にありますか。
 ↑
その品物が、300円である設定は、筆者がするものです。
当然、その金額が妥当であるか否か、の判定も、筆者がします。

この一連の表現の、「どれが正確なのか?」は、筆者が判定し、
表現すべきことで、他者は関係ありません。

文章と言うのは、「伝達手段」ですので、基本的に、読者の存在を
前提にしていると思います。

そして書かれた文章が、読者にとって価値のあるものであれば、
それは「良い文章」だと思います。

例えば、日記のようなものは、筆者自身が、読者でもあります。
このような場合、筆者と読者が同一であるので、「良い文章」か否かは、
客観性を欠いて、解りにくい、とは思います。
そのような質問のつもりでした。

ご回答をどうもありがとうございました。

NO4です。
お礼有難うございます。

少し、追記させて頂きます。


>「伝えたいことを、可能な限り正確に伝える。」のが目的ですし、
それが出来ているものが、「良い文章」と言うものだと思います。

「可能な限り正確に」・・・ではその正確さとは何によって計られるのでしょうか?
 ↑
「正確さ」は、筆者の「価値観」によって、量られる、と思います。

 文章を作成するのは、筆者であり、「記載すべき内容」は、
 筆者の頭の中に、あります。

 それを文章と言う媒体を通じて、他者に伝えようとする場合...続きを読む

Qデジタル的な生死とアナログ的な生死

人の寿命は限られており、いつかは必ず死にます。

最もデジタル的な生死
ある工場の労働者であった彼は毎日フォークリフトを運転し、一年のうち数日を除いて毎日15時間働いていたとゆー。
ある日彼は仕事を終えて、家に帰り晩飯を食って風呂に入り寝入ったのであった。
次の朝彼の妻が彼を起こしに彼の寝床に行くと彼は布団の中で死んでいたとゆー。
37歳であった。
あまりに完璧な死に様、あまりに完璧なデジタル的終結。

一方、

最もアナログ的な生死
ある町役場の戸籍係をしていた彼は60歳にて定年退職し、そのあと趣味の盆栽をしながら20年を暮らした。
続く5年ほどは何をするでもなく好きな酒を飲んで暮らしていたが、酒が祟って腎不全から多機能内蔵不全となり病院に入院する羽目になった。しかしもともと心臓は丈夫であったので直ぐに死ぬことはなく病院のベッドの上で点滴を受けながら続く5年を細々と生き続け90歳を超えたある日病院のベッドの上で息絶えたのであった。
あまりに細々とした死に様、あまりにアナログ的生き様。

この問題について日頃より考えておりまする。
この両者のうちどちらが美しいと言えよーか。
もし選べるとすれば皆はどちらの生死を選ぶことになろーか。

人の寿命は限られており、いつかは必ず死にます。

最もデジタル的な生死
ある工場の労働者であった彼は毎日フォークリフトを運転し、一年のうち数日を除いて毎日15時間働いていたとゆー。
ある日彼は仕事を終えて、家に帰り晩飯を食って風呂に入り寝入ったのであった。
次の朝彼の妻が彼を起こしに彼の寝床に行くと彼は布団の中で死んでいたとゆー。
37歳であった。
あまりに完璧な死に様、あまりに完璧なデジタル的終結。

一方、

最もアナログ的な生死
ある町役場の戸籍係をしていた彼は60歳にて...続きを読む

Aベストアンサー

死とは何でしょうか。死んだ後私は何かを感じるのでしょうか。
その為には、私は誰なのか考えなくてはなりません。大抵の人は、これが私ですと自分の体を指すでしょう。

 では仮に、手が切り取られたらどうでしょう。手と残りの体とでは、どちらが私でしょう。手は私では無く、残りの方が私ですと答えるでしょう。では首が取れたらどうでしょう。首の方が私ですと答えるでしょう。では脳を取り出したらどうでしょう。脳の方が私ですと答えるでしょう。では脳を半分に切ったらどうでしょう。どちらが私でしょうか。脳を切り刻んだらどうでしょうか。どれが私でしょうか。脳の中のどの部分が私なのでしょうか。

 そもそも、体の中の物質は、3年に一回全てが入れ替わっています。では、3年後の私は私ではなくなっているのでしょうか。

 赤いとか熱いとか感じているのが私です。では、赤い熱いと言う感じは、物質でしょうか。赤い色は、心の外の世界には存在しません。物質の表面に当たって反射する光の波長が存在するだけです。

 では、音はどうでしょうか。外界には、色々な波長の空気の振動があるだけです。私たちが感じている様な音は存在しません。

 この様に、心が作り出したものを取り去ると、何も残りません。従って、赤い熱いと言った感じは、物質ではありません。幾ら科学が発達して、全てを見ることが出来る顕微鏡が出来たとしても、脳の中を覗いたところで、熱いと言う感覚を見ることは出来ません。触ることも出来ません。ただ、私が感じるだけです。物質ではないものを感じている私も物質ではありません。

 私の感じている世界は、私が心の中に作り出したものです。心の外の世界がどうなっているか、私には全く知る術がありません。しかし、心は外界に出来る限り似せて、心の中に世界を作り出しています。

 例えば部屋の中で、テレビを見ている様なものです。テレビは、実際の現場に似せて場面を作り出しています。しかし、決して現場そのものを見ている訳ではありません。あくまでも、テレビが作り出した場面を見ているだけです。
 部屋の中にいる限り、外の現場を直接見ることは出来ません。

 テレビを見ているのが私です。決して、テレビが私なのではありません。 テレビが壊れても、修理すればまた見える様になります。見ている私が壊れた訳ではありません。

 もし、見ている私が壊れたのであれば、幾らテレビを修理しても元通りに見える様にはなりません。テレビを修理して、元通りに見える様になったと言うことは、私自身は何も変わってはいなかった事を証明しています。

 同様に、もし病気で脳が壊れて、何も感じなくなったとしても、医学が発達して、脳を直す事が出来る様になれば、また私は前と同じ様に感じることが出来る様になるでしょう。

 この事は、私は何も変わっていなかったことを証明しています。病気をしても、年を取ってボケても、そして死んでも脳を元の状態に戻せば、元通り感じることが出来るので、私自身は何も変わってはいません。

 ただ脳が信号を送らなくなったので、何も感じなくなっただけです。テレビが壊れて直せなくなっても、新しいテレビを買えば元通りに見ることが出来ます。脳が死んでなくなっても、新しい脳が私に信号を送る様になれば、また元の通りに感じることが出来ます。

 科学が発達し、かつて脳を構成していた、物質を掻き集めて、元の通りに組み合わせて、脳を作ったら、また、私は元の通り感じるようになるでしょう。

 私自身は、生じるものでも無くなるものでもありません。穢れるものでも、清くなるものでもありません。増えるものでも、減るものでもありません。宇宙の初めから存在しており、宇宙の終わりまで全く変わらずに存在するものです。

 死んだ後の状態は、生まれる前の状態と何一つ変わりません。何か違いを指摘できるでしょうか。
 生まれる前の状態から、人は生まれてきました。死んだ後の状態から生まれることは、何ら不思議なことではありません。
 「不生不滅不垢不浄不増不減」です。

質問者さん、この様に脳が死ぬと精神である私に刺激を送るものが無くなるので、私は何も感じません。新しい脳がまた私に刺激を送る様になると、私はまた元のとおり感じる様になるでしょう。
死んだら、気が付くと母の胸に抱かれていることに気が付きます。誰しもそうです。ですから、死んだ人にもまた次の生或はその次の生で出会えると考えます。

詳細は、下記のホームページを参照下さい。
http://catbirdtt.web.fc2.com/sitohananika.html

死とは何でしょうか。死んだ後私は何かを感じるのでしょうか。
その為には、私は誰なのか考えなくてはなりません。大抵の人は、これが私ですと自分の体を指すでしょう。

 では仮に、手が切り取られたらどうでしょう。手と残りの体とでは、どちらが私でしょう。手は私では無く、残りの方が私ですと答えるでしょう。では首が取れたらどうでしょう。首の方が私ですと答えるでしょう。では脳を取り出したらどうでしょう。脳の方が私ですと答えるでしょう。では脳を半分に切ったらどうでしょう。どちらが私でしょう...続きを読む

Q不可知を 未知と分けて――哲学なら――用いなければいけない

不可知も まだ知られていないこととしては 未知でしょう。

では わざわざ不可知と言うのは どうしてでしょうか?

定義してください。

Aベストアンサー

#76です。

1.
>☆☆ 非知
☆ のほうが だいたいほかの方法よりよさそうだと言おうとしています。

了解しました。

>でも 哲学する人は ぶらじゅ何とかというどこの馬の骨とも分からないや
つが 非知を言い始めたと知って ほかの方法を考えようとするでしょうね。

いえいえ、そうとは限りませんよ。
☆ 非知
に関しては、
☆ のほうが だいたいほかの方法よりよさそう
といった謙虚なるご見解は不要で、
むしろ、それしかないと言えるほど稀有の視点ですよ。
少なくともわたしはそう認めています。
ただし、人間存在の最終原因とか、神とか、摂理とかいったように、その思考の対象がすでに定まったものに対して適用するのは妥当とは思われない。
つまり、
『 過去、人間は、未知・既知といった経験事象としての概念の他、知り得ないと判断する思考現象としての不可知という概念を操ってきた。しかし世界には、知り得るか知り得ないかが知り得ない、と言わざるを得ないような [ 何か ] は常に存在しているのであり、それは 非知 とでも呼ぶべき対象なのである。』
といった脈絡で採用されるべき視点ではないか、と思う次第。

2.
そのあとの記述も精査しましたが、
>★ つまり、連続説の場合も、(ⅲ)の内容については大いに同意するものです
が、
 ☆’《とはいえ、経験事象が そうしたナゾの影響を受けていることもまた事実
 である》
★ といった続きがあるわけです。
☆ この《続き》は 一たん非連続(つまり 淵があって超えねばならなかった)
を認めたあとの《手続き》としてなのです。さもなければ 《無限》が 有限世
界と地続きだとなります。

☆超えねばならなかった
ものではなく、あくまで、当初から並立しているもの です。
こういった内容に象徴されるように、すべてが 非知を大前提にした論理展開 となっていますよね。
なぜ、非知でなければならないのか?
ここが示されない以上、弱いのではありませんか?

3.[ おまけ ]
>☆ というのは 《絶対の隔たりが 〈無限〉と人知とのあいだに ある》と認
めた上でそのあと それでも わたしは連続説に立つのだという宣言なのです。

違います。
あくまで「宇宙の摂理の象徴としての神」の場合にはですが、
☆絶対の隔たり
は当初から認めていません。
よって、
>★ ここで〔☆ こそ〕また連続・非連続の論議に舞い戻ってしまうわけで〔☆
それに関しては〕やはり見解の相違と判定するのが妥当じゃないですかね。

といった甘言に篭絡されるいわれもありません、ということになりそうです。

>★ むろん、この場合の「直接」は、一般の経験事象同士における直接とは意味
が異なることは、128回ほど申し上げているので、すでにご承知のはずでしょ
うけど。
☆ 鯉の滝登りではありませんが 一たん有限から無限の夢幻境へと論理で駆け
上ったからには その《精神の軌跡》を抜きにして この《直接》の意味内容を
考えるわけには行きません。でしょう?

★原因が分かったとしても、その原因に対する原因が永遠に付きまとうので、最終原因は永遠に不可知と言わざるを得ません。
という言及に関して、
・原因=有限での経験事象
・最終原因=無限の夢幻境での事象
のように分けてお考えなのだと思います。
しかし、
★原因が分かったとしても
という表現は、
「あ、これだ!」のように
★原因が分かったとしても
といった意味ではありません。
★原因に対する原因が永遠に付きまとう
というのは、論理的合理性に基づいて、つまり、これだけで成立している命題なわけです。
説明上、例として挙げることはありますが、経験事象としての原因を必須の要素として必要としているわけではない、という点にご留意いただければと思います。

#76です。

1.
>☆☆ 非知
☆ のほうが だいたいほかの方法よりよさそうだと言おうとしています。

了解しました。

>でも 哲学する人は ぶらじゅ何とかというどこの馬の骨とも分からないや
つが 非知を言い始めたと知って ほかの方法を考えようとするでしょうね。

いえいえ、そうとは限りませんよ。
☆ 非知
に関しては、
☆ のほうが だいたいほかの方法よりよさそう
といった謙虚なるご見解は不要で、
むしろ、それしかないと言えるほど稀有の視点ですよ。
少なくともわたしはそう認めていま...続きを読む

Q人の心は脳の自然現象でしょうか? 死後は無なのでしょうか?

人の心は脳の自然現象でしょうか? 死後は無なのでしょうか?

Aベストアンサー

人間は物質的な肉体以外に、霊体という体が重複的に存在していて、その霊体の方に心が存在しているそうです。

↓スピリチュアリズム入門
http://www5e.biglobe.ne.jp/~spbook/sp-introduction1/index.htm

ここの第2部のところを読んで下されば、人間の魂がどこにあるのか書かれてあります。

Q非戦論という一つのベクトルをも おもてに出してよいのではないだろうか

主戦論を前提とした常識ないし定説で 国際関係論が考えられている
ように見受けられます。

その一色というあり方を修正し さらに補強する手も 考えられるの
ではないか。

《非常識》な市民としては 実際のところ 非戦論が優勢なのではな
いか。

――真夏の夜の夢。

Aベストアンサー

非戦論や戦闘否定論は、特に
真新しいわけではありません。

日本の旧左翼の中にも時折、
主張を聞いたことがあります。

個人的には同意する部分も多々
あるのですが、主戦論者から、
「あなたは自分の家族が危害
を被る可能性がある際も闘わない


このQ&Aを見た人がよく見るQ&A

人気Q&Aランキング

おすすめ情報