心について科学哲学の立場で勉強していますが、壁にぶつかってしまいました。
それは、心について、哲学の立場で説明することと、科学の立場で説明することの違いが判らなくなってきたのです。

 哲学では、心に関する「概念」を論理分析していくことだ。科学では、「仮定」と「実験」で理論を実証していくことだ。との説明がありました。しかしながら、哲学での「概念」は当然のこととして科学理論をも踏まえたものであります。

 そうすると、哲学の概念の中にも科学理論が内包されているわけで、そのような概念とは、科学理論とどのような違いがあるのだろうか、という疑問に突き当たってしまったわけです。

 これは、哲学するとはどのように思考展開していくのかという疑問にも通じることです。アドバイスと参考文献の紹介をお願いします。

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似非 科学」に関するQ&A: 政府は命に係わる危険情報や似非科学にどう対応すればいいと思いますか?

A 回答 (83件中31~40件)

serpent-owl様


>しばらく前から自分の考え方は「非法則論的一元論」に
>近いような気がしてきてるんです。
>心に物質的基盤があることは確か。でも「心」は法則への還元を
>受け付けない。「論理法則」なんてものは、「心」の法則化できる、
>ほんの一片だけを救い出して組み立てただけのものではないか、と。

心が自身の法則を意識したときに起きる不可思議さは、以前にも
「全知全能の神の非存在証明」で議論しましたね。

ただ、そこから心自身が法則化不可能だと帰結することはできない
ように思います。あくまで内省による法則化が出来ないというだけの
ことでしょう。ただし、この場合、心が脳内の物理現象だと考えた
上で、意識と非意識がいかに区別されるかを明かにせざるを得なく
なるでしょうけれども。
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halka様


>>見えの構造とは何でしょうか?
>特定の光波に対して如何なる色が対応して、
>また特定の部位の疾患が色彩を見分ける
>能力をそこなわせるとか・・そうした知識です。

光波の存在はどうやって確認するのでしょうか?

>fwappyさまの区分わけで気になるのは、
>全ての知識が主観的で個々人に依存していると
>してしまうことは「この赤い花は薔薇です」という言明と
>「この薔薇は美しい」という言明が両者とも主観的言明で
>あるというだけの認識しかもてなくなってしまうのでは、
>ということへの懸念です。

なぜ、懸念する必要があるのでしょう?
全ては主観的言明です。しかしながら、世の中には
まったく不思議なことに「偶然」同じ主観的言明を
耳にし、さらに自分でもそれに対応する主観的体験
をすることがある。これに対して抱く信念が
「客観的存在」です。

>もしあなたの区分に従うなら天文学の教科書に
>「火星には衛星が二つあるのに地球には
>一つしかないのは残念である」といった記述が
>出てきそうです。

出てきても構わないでしょう。
「ふーん、衛星なんて一つで十分だよ。
 二つもあるなんてご苦労なことだ」
と読者が思ってもいいでしょう。

>>その前に、貴方がいう「共通性」を明確にする必要がありましょう。
如何ですか?
>ここでわたしのいう共通性とは・・・
>先に述べたわたしの論旨をご覧になればわかるとおもいますが、

わかることと、それに賛同することとは全く別です。

>時空という議論領域に現れる他者の時空における対象の存在言明は
>共通であると思います。

それは貴方個人がそう思っているだけでしょう。

>あなたが「いま、目の前に薔薇がある」という言明に対して
>わたしが知覚できないとしたらその命題を真とは判定できません。

もし、貴方が私の目の前に薔薇を見出せないと偽だというわけですか。

しかし、もしかしたら、貴方のその体験自体が、夢の中の出来事かも
しれませんよ。それでも貴方はそれが真といいますか?そういうのは
かまいませんが、それは貴方個人の主観的判断であって、なんら客観的
ではないことを承知してください。

>わたしはあなたが嘘を言っていると判定するのです。

わたしもあなたが嘘を言っていると判断するでしょうね。
だって目のまえに薔薇があるのに、それが見えないなんて。

>その種の命題を事実命題としてあなたとわたしは共通の判定ができると思います。

できないでしょう。

もし、10人の人がいて、5人が薔薇が見えるといい、
他の5人がなにも見えないといったら、どうします?

>しかしあなたが「薔薇はいいねェ」といって、
>たとえわたしがそれを嫌っているとしても、
>あなたが嘘を言っているとは考えません。

ではわたしが
「誰にとっても薔薇はいいねぇ」
といったら、如何ですか?
「いや、俺は薔薇が嫌いだ。」
と貴方はいうでしょう。
それは、わたしが間違ってると
いうことですよ。

>ゆえにそうした命題は議論領域により差異が出る、
>としてなんとかまとめようとしています。

ええ、だから、全ては主観的体験なのだから、
議論領域には差異がある可能性が常にあると
いっているのですよ。貴方が自分自身の説を
自分の都合で無視しているのです。その都合
とやらが、まったく根拠のないものだといって
いるのです。お分かりですか?

>それがすなわちsatonohukurouさまにおける
>「哲学」と「科学」の差と考えるからです。
>fwappyさまの場合こうした分類は
>まったく意味がないということでしょうか?

主張に対して「偶然の一致」が見られることに
対して、それに「客観性」という信念を付加して
「科学」という教えを構築する作業があると
いうべきでしょう。しかしながら、「偶然の
一致」はそれが「真」であることを意味しない
でしょう。「哲学」とは、人の無意識的な本能に
対する意識的な疑念だとわたしは思います。
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 うーん、satonohukurouさんが来られるまで次の書き込みは待ちたかったのですが…。

ごめんなさい>satonohukurouさま

 というわけで、halkaさまへ。
 「うっかり素通りしたのなら」との、愛の小部屋へのご招待はありがたいのですが(おい!>おれ)、「素通り」なさっているのはhalkaさんの方ですよ。No.54の最後の方、最高裁のトピックスなるもの、たしかに面白く拝見しましたが、これをネタに解決策を議論するというのは「問題点のすり替え」ですってば。おぢちゃんはその手には乗りません。前々回の書き込みではっきりと申し上げたはず。
 「加害者少年たちが、自分を磨くか外界を変えようとするかの選択は何に由来するのか、論理式のどこに表現されているのか」
 そして「質問4」については、
 「外界を変えようとする具体的手段のちがいはどう説明するのか、その手段の程度や修飾は論理式で解釈できるのか」
…というのが問題点です。「ごまかさずに、まっすぐここにお答えを」と申し上げました。この際、halkaさんに代わって答えを出しましょうか? 「表現されていない」「説明できない、解釈できない」ではないのですか?
 「暫定的結論」は、今もって維持されております。「心・命題同一説」は無効です。

 その他の論点も何やら「煙幕」っぽいので言及は控えます。ごめんち。あ、でも一点だけ。
>これは他者の主観命題にあれこれ解釈を加えようとするからです。
>もともと、主観命題の真偽判定は本人にしか出来ません。
ってとこですが、なんかまた「他者の心を客観命題にできるの?」って話になって、「それじゃ観察できる行動に注目しよう」ってことで行動主義になるんではないかと思うのですが。そんでもって「他者の行動を客観的に観察するとは…」というややこしい話になる。「主観命題の真偽判定」と同じ程度に「出来ない」ことではないでしょうか。(serpent-owlの本当の気持ちは…さて? 「へびくん、どう思う?」「わかんない! へびくん、こどもだもん!」…うーむ…)

   *

 で、あとの細かいところ。
 『ツァラトゥストラ』をお読みなら、社会主義者を嘲笑しているくだりがあったのをご記憶でしょう? 革命にせよ社会変革にせよ、ニーチェから見れば脆弱なニヒリズムの交替に過ぎなかったのです。そんなやり方にニーチェが手を染めるはずがない。彼は彼なりのやり方で西欧の価値観を撃ち、刷新しようとしたのです。
 それと、「ガダマー解釈学におけるカオス論」って、要約として乱暴すぎます。おぢちゃん、困ってしまいます。ガダマー先生のお説は「内部観測」論を自分なりに消化しようとする際の手がかりのようなもので、前回の書き込みは必ずしもガダマー先生にべったり依拠したものではありません。で…唯心論的に見えましたか。そおかなあ…。「心の物質的基盤としての脳」研究の重要さは認めているつもりなんですが。
 なんかね、私ね、しばらく前から自分の考え方は「非法則論的一元論」に近いような気がしてきてるんです。心に物質的基盤があることは確か。でも「心」は法則への還元を受け付けない。「論理法則」なんてものは、「心」の法則化できる、ほんの一片だけを救い出して組み立てただけのものではないか、と。たぶんここが私とhalkaさんの対立点なんですよ。私から見ると「心=命題」なんて話は、わざわざ「心」を覗く窓を小さくしてしまうようなもの。心は一意の法則に還元して「普遍」という棚にしまうことなどできない。少なくとも「無時間的存在者」に列することは。
 でも、反面、「非法則的」だから何も語れないということはないとも考えています。そういう場面でこそ何事かを語れるのが「哲学」ってやつでしょう。そのためには何をすればよいのかということが、この質問の課題なのだと思います。
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> ニーチェの「価値転換」は、・・・「事物に備わった力への意志によってなしうることをさせない
力=反動的な力によって形成された価値体系を反転させ再構築すること」です。

そうでございますかねぇ?

わたくし「ツラトゥストラ」とか「善悪の彼岸」とかをみますと、かれは自分の事を「わたしは
人類に最高の贈り物をした」とかの自己讃美をしているでしょ。
もし、おじ様の言うような事ならニーチェは社会主義者とか社会改革に乗り出していたのじゃ
ないかと思いますよ。見る限り、彼の関心事は一個の人間に対しての物だったと感じ
ますが・・・。まあ、おじさまがそういうのだからかまいませんわ。

> 次に「論理学のおさらい」について。「2-a」、すなわち全称肯定命題の
例として「東京は日本の首都」を挙げるのは、・・・

これはだめ!
私の提示したのはアリストテレスのA,I,E,O、すなわち全称肯定判断、全称否定判断、
特称肯定判断、特称否定判断とはちがうものですよ。
一部ダブりますが・・・。
全称肯定判断は「人間は哺乳類である」のようなもの。わたしは(全ての)-(全ての)と言ったでしょう。
だったら「哺乳類は.人間である」ともいえてしまうはずでしょう。これは(全ての)-(ある)の事例です。
東京-日本の首都、ではじめて全ての)-(全ての)になります。
それに、あっさりと・・・

>他は大体合意できる…かな。しかし…あまり意味のある仕事をなされたとは思えません。
>お時間をかけたであろうと思いますので、こう言ってしまうと申し訳ないのですが。

いってしまってよろしいのですか?
クオリアの茂木様は認識の根本を
「この宇宙の根源的存在形式は、物質である。物質の振る舞いの様子は、物理法則で
書くことが出来る。特に,宇宙の中の物質の振る舞いの様子をもっとも普遍的に記述する
事の出来る『究極の理論』がすくなくとも近似的には存在するはずである」
と言っておられます。
ところで、私の提示した「存在-繋辞同値説」はこうした物質実在論に真っ向から対立する
物です。これも言葉の分析から来たものですが・・・。
ふくろうおじさも唯心論的発想がもとになってカオスとか文学を論じるってことですか?
もしこの辺をうっかり素通りしたのなら、私の愛の小部屋の調教物です。
わかっていらっしゃるのでしょう?

> これについては、まず「全称命題は一つの反例があれば偽とされる」という原則を指
摘しておきます。これこそ釈迦に説法でしょうが。

白いからすはどうの・・・の全称汎化問題は最近ここでやりました。
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m& …
あら、イチゴ姫様かえしてたのおそいのでしらなかった。だいぶ嫌われちゃった。
でも全称汎化問題についてはやってないようですね。
では、ふくろうおじさまは「佐藤村の問題」はどうかえしますか?すなわち
経験命題で「限定付きの項」が「限定なしの項」に変わることもあるのではないかって
おもうんです、の回答を頂けますか?

>かような単純な命題でも、「現実には」多義的なのです。

これは他者の主観命題にあれこれ解釈を加えようとするからです。
もともと、主観命題の真偽判定は本人にしか出来ません。

【寸劇】
ふくろうおじさま:「私(serpent-owl)は、halkaさんを可愛らしい素敵な人だと思っている」
           この場合、「ホントのキモチ」を私自身が表明しています。
はるか     :まあ、うれしい!!
ふくろうおじさま:是非言葉通りに受け止めてほしいのですが、しかしこれをしも「皮肉」と
          :捉えることも不可能ではないのです。
はるか     :理屈っぽい事ぬき!!
ふくろうおじさま:決定不能。「証明」できますか?私の本当の気持ちを。
          :私自身にすら、証明はできません。
はるか     :うそでもいいです。証明もいいです。わたし、信じてますから・・・♪
         :わたしのめをみてホントっていって。(σ_σ)ムキュゥ
         http://www.pandoramash.com/hal/MVC-010S.JPG

>「反例」は、いくらでも御用意申し上げることができると思います。

とはいっても本人が納得すればそれで「証明終り」ってことでもいいのではないでしょうか?

> では「2」~「4」です。 やはりまだ「答になっていません」。
>その「不幸にも選択」というのが何から生じたのか、が問題なのです。

う~む、それでは(4)には適応できないかもしれませんが最高裁判所の示した
http://www.courts.go.jp/
「2001/4/4 トピックス 重大少年事件の実証的研究」について、リポートを確認して
その実証に基づき、その問題を解決するためにどうしたらよいかを
・ガダマー解釈学におけるカオス論 (serpent_owlさまの主張)と 
・心・命題同一説(はるかの主張)
の立場から解決策として提示したものをsatonohukurouさまに比較評価していただくと
いうのはいかがでしょうか?

とりあえず、まとめに精進します。
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fwappyさま



>茂木氏のクオリア理論に賛同しているわけではありませんよ。
そうでしたか、ごめんなさい・・・。なんとなく茂木様に基本的に賛同していると考えて
おりました。

>見えの構造とは何でしょうか?
特定の光波に対して如何なる色が対応して、また特定の部位の疾患が色彩を見分ける
能力をそこなわせるとか・・そうした知識です。

>ところで、なぜ貴方と私のコミュニケーションが
>貴方なり私なりに依存しない「透明」なものだと
>考えられるのでしょうか?
>「わかった」のは誰ですか?

fwappyさまの区分わけで気になるのは、全ての知識が主観的で個々人に依存している
としてしまうことは「この赤い花は薔薇です」という言明と「この薔薇は美しい」という言明が
両者とも主観的言明であるというだけの認識しかもてなくなってしまうのでは、ということ
への懸念です。
もしあなたの区分に従うなら天文学の教科書に「火星には衛星が二つあるのに地球には
一つしかないのは残念である」といった記述が出てきそうです。

>その前に、貴方がいう「共通性」を明確にする必要がありましょう。
如何ですか?

ここでわたしのいう共通性とは・・・
先に述べたわたしの論旨をご覧になればわかるとおもいますが、時空という議論領域に
現れる他者の時空における対象の存在言明は共通であると思います。
あなたが「いま、目の前に薔薇がある」という言明に対してわたしが知覚できないとしたら
その命題を真とは判定できません。わたしはあなたが嘘を言っていると判定するのです。
その種の命題を事実命題としてあなたとわたしは共通の判定ができると思います。
しかしあなたが「薔薇はいいねェ」といって、たとえわたしがそれを嫌っているとしても、あ
なたが嘘を言っているとは考えません。
ゆえにそうした命題は議論領域により差異が出る、としてなんとかまとめようとしています。
それがすなわちsatonohukurouさまにおける「哲学」と「科学」の差と考えるからです。
fwappyさまの場合こうした分類はまったく意味がないということでしょうか?
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(halka様)


>あなたの場合・・・
>観測者に依存する存在の証明・・・主観的
>観測者に依存しない存在の証明・・・客観的
>と解釈されているようです。
>そして後者は不可能ゆえに無意味ということでしょうか?

そうです。

>わたくしはクオリア論もひとつの理論である以上、対象が
>ある特定の意識にしか知覚できないものを対象としていても、
>何らかの過程を経て全ての人に共有できる真理となりうる
>議論と考えておりました。

まず、いっておきますが、私は心脳問題に興味があるというだけで
茂木氏のクオリア理論に賛同しているわけではありませんよ。

次に、私は「全ての人に共有できる」という判断が個々人に
できるとは考えません。したがって、今の自然科学といえども
「すべての人に共有できる真理」だと示すことはできません。

>ちょうど色盲の方が特定の感覚しか持てないものに対して
>その「見え」の構造は万人のものです。

見えの構造とは何でしょうか?

貴方が区別するものを私も区別する。
それが「共通性」の証だということでしょうか?

ところで、なぜ貴方と私のコミュニケーションが
貴方なり私なりに依存しない「透明」なものだと
考えられるのでしょうか?

>ゆえに赤と緑の識別具合の差において数文字の
>知覚レベルに差が出てくることがわかっているの
>ではないでしょうか?

「わかった」のは誰ですか?

>観察者を必要とする、しないが主観客観の差とはおもえません。
>客観とは対象の存在を 明示する命題に付き共通の判定が
>出きるということとおもっていましたが、それは観察者の有無
>とは異なるものと考えます。

では、尋ねますが、「共通の判定」は観察者に依存しますか?
しないのなら、観察者の有無にも関係しません。すなわち
「共通の判定」があるというなら、観察者が無くとも存在しなくては
なりませんよ。それはいったいいかなるものですか?

>以上の事由により、クオリアの議論においても「主観」
>「客観」の概念定義を明確にする必要があると思うのすが?

その前に、貴方がいう「共通性」を明確にする必要がありましょう。
如何ですか?
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fwappyさま


>なぜ?
>例えば、貴方が測定したとして、その結果がなぜ
>観測者に依存しないと言い切れるのでしょうか?

もうしわけありません。fwappyさまの主張を聞いていますとserpent-owlさまが善悪の
説明で一元論二元論の解説をされていましたが、そのひとつの立場を主張されている
ようにうけとれます。あなたの場合・・・
観測者に依存する存在の証明・・・主観的
観測者に依存しない存在の証明・・・客観的
と解釈されているようです。そして後者は不可能ゆえに無意味ということでしょうか?

わたくしはクオリア論もひとつの理論である以上、対象がある特定の意識にしか知覚で
きないものを対象としていても、何らかの過程を経て全ての人に共有できる真理となりう
る議論と考えておりました。ちょうど色盲の方が特定の感覚しか持てないものに対して
その「見え」の構造は万人のものです。ゆえに赤と緑の識別具合の差において数文字の
知覚レベルに差が出てくることがわかっているのではないでしょうか?
観察者を必要とする、しないが主観客観の差とはおもえません。客観とは対象の存在を
明示する命題に付き共通の判定が出きるということとおもっていましたが、それは観察者
の有無とは異なるものと考えます。以上の事由により、クオリアの議論においても「主観」
「客観」の概念定義を明確にする必要があると思うのすが?
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halka様:


>棚の上のコップを取る,という一連の動きを観察してみよう。
>その観察事実は時刻tmよりtnにおいてあったとしよう。
>コップをとる腕の筋肉運動量、速度、変化率、筋肉内の化学反応、
>あるい はそれを操作する脳との関連において時間tmよりtnに
>至るまでのそれらの測定値を観察することにより得られるのが
>客観的判断である。

なぜ?
例えば、貴方が測定したとして、その結果がなぜ
観測者に依存しないと言い切れるのでしょうか?

>これに対して時空に他者を認め、 水が飲みたいので棚の上のコップを
>とったのだろうとするのが主観的判断である。
>「だろう」というのは他者の「たし」は観察不可能であるゆえ断定できない。

ええ、リンゴが地球に向かって落ちるのは
リンゴと地球がたがいに引っ張りあうからだ
というのも観察不可能です。

観察できるのは、ただリンゴが地球に向かって
落ちるという現象だけでしょう。これに対して、
互いに引っ張り合うという判断は観察不可能
でしょう。

すなわち、物理学の根本は実は主観的判断です。
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 halvaさま


 「質問6」まで、一通りのお答えをいただきました。ありがとうございます。本腰を入れたコメントは少し待っていただくことにして、軽くコメントさせていただきます。

 ニーチェの「価値転換」は、halvaさんがご覧になったであろう私の書き込み(たぶん、「フレデリック・ニーチェ」だと思いますが)に書かれておりますように、「事物に備わった力への意志によってなしうることをさせない力=反動的な力によって形成された価値体系を反転させ再構築すること」です。乱暴に要約すれば。
 が、halvaさんの言われる「価値変換」は、文脈から言って「自己否定状態の意義を、自分を磨くため等のように捉えること、外界に直接働きかけるのではなく、自分を変えること」という意味です。 ニーチェの言う「価値転換」とは明らかに違います。「言葉の定義段階の問題」ではありません。何の関係もありません。
 (念のため。ニーチェの「価値転換」は、むしろhalvaさんの言う「外界に働きかけ、対象価値を変更する」方に近い。ですが、これを「ニーチェが個人的に感じた自己否定状態を回復するため」などと卑小化する解釈は願い下げです。)

 次に「論理学のおさらい」について。「2-a」、すなわち全称肯定命題の例として「東京は日本の首都」を挙げるのは、いささか具体例として適切でないように思いますが、他は大体合意できる…かな。しかし…あまり意味のある仕事をなされたとは思えません。お時間をかけたであろうと思いますので、こう言ってしまうと申し訳ないのですが。

 で、「質問」について。
まず「1」。要するに「すべての心的内容は命題により記述可能である」という「命題」が真であることを主張されておられる。これが「心・命題同一説」の根幹であると理解してよろしいですね? 私は「命題記述が心を哲学的に捉える作業に充分であるか」と問いました。お答えは「充分である」ということのようです。
 これについては、まず「全称命題は一つの反例があれば偽とされる」という原則を指摘しておきます。これこそ釈迦に説法でしょうが。
 ではここで、次の命題を考えていただきたく思います。すなわち、
「私(serpent-owl)は、halkaさんを可愛らしい素敵な人だと思っている」
です。「私」の心情内容を記述した命題です。
 いやぁ~、困ったものです。一歩間違うと「オンライン・セクハラ」です。とゆーのも、これは今までの経緯から考えると「皮肉」と解釈することもできるからです。あるいは単純に、serpent-owlというスケベ男の劣情の表明とも。純粋な好意の表明と受け取られる可能性は皆無に近いでしょう(ホントはそうなのに…しくしく(;;)。
 かような単純な命題でも、「現実には」多義的なのです。そこに盛り込まれた諸概念の「外延」にも「内包」にも関わりがない、命題そのものが置かれた「文脈」に応じて命題の意義は多様化します。(ついでに言うと、その「文脈」自体もまた、現実には客観的に把握することは困難です。)
 この場合、「ホントのキモチ」を私自身が表明しています。是非言葉通りに受け止めてほしいのですが、しかしこれをしも「皮肉」と捉えることも不可能ではないのです。決定不能。「証明」できますか? 私の本当の気持ちを。…私自身にすら、証明はできません。「これって、もしかして…恋? いいえ! …でも…そんなこと…ちがうわ…でも…うーん…もしかして…ひょっとしたら…でもまさか…あらあら…困るわ…そんなことないわよ…でも…」…という…なかなかに御苦労様な状態が、人間にはあるものです。
 「反例」は、いくらでも御用意申し上げることができると思います。

 では「2」~「4」です。
 やはりまだ「答になっていません」。「すっぱいブドウ」でも「甘いレモン」でも何でもいいんですが、すでに題意を確認しましたように、私がお尋ねしているのは「自分の考え方を変えるか、外界を変えるかの選択を根拠づける心的内容は、お示しの論理式のどこに表現されているのか」です。ごまかさずに、そこにまっすぐ回答をいただきたい。神戸やバスジャックの加害者少年らが「我々の持つ倫理に触れる結果となる手段を不幸にも選択してしまった」とのことですが、戦国時代なら罰せられなかったとか、そういうことが問題なのではなく、その「不幸にも選択」というのが何から生じたのか、が問題なのです。
 さらに「質問4」に関しては、halkaさんが「対象価値の変換」と呼ぶ行動の具体的内容に踏み込んで尋ねたつもりでした。「鬱憤晴らし」や「地域での我が子の承認」が動機・目的であることを一旦は受け容れたとしても、その具体的な手段・方法、ないし「手口」はどう説明されるのか。
 神戸連続児童殺傷事件の加害者少年は、被害者少年の頭部を切断し、これを小学校の校門に「陳列」しました。この一連の行動が「お示しの論理式」からどう解釈できるのでしょうか。なぜ、かばんからウサギのぬいぐるみを取り出して殴る蹴るなどして「鬱憤晴らし」するに留まらなかったのか。「鬱憤晴らし」なら、それはそれで結構ですが、なぜ人を殺害し、さらには死体を切断し、あまつさえ校門に晒したのか。このことを説明しない限り加害者少年の「心」を「解釈」したことにはならないでしょう。その「解釈」が、お示しの論理式から導出できるとはとうてい思えません。よしんばそれが「因果論的判断モジュール」や「目的論的判断モジュール」の導入により解釈可能となったとしても、それは論理式自体には盛り込まれていないではありませんか。それらは、まったく無根拠な「外挿」という形でしか与えられないように思います。

 ではとりあえずの結論を。
 「心・命題同一説」は無効です。
 この暫定的結論は、私の中ではずいぶん前から固まっていましたが、もう出してもいいでしょう。私の質問に対する有効なお答えがない限り、この暫定的結論は維持されます。

 さて、少々眠いので、「質問5」「質問6」については、またあとで。

    *

 satonohukurouさんへの回答が二の次になってしまって申し訳ありません。…でも、今回のこの書き込み、実は「内部観測」の話と重なる部分があったのです。実際に考え方を援用してみることで、徐々に自分のものにしているという感じです。
 それにしても、ご質問をきっかけに、私自身、本当に勉強になっています。これがこのサイトのいいところ、私が参加している理由です。よろしくお付き合いの程。
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pikittoさんへ


>社会学は「フロンティア」などではあり得ない。
>社会学を専攻するものが謙虚なのはあれが経済学と同じく個々の
>「立場」上の記述以外にないことを思い知らざるを得ないからです。
>こいつは笑止!
serpent-owlさんが
>「百人の社会学者がいれば、百通りの社会学がある」などと。
と書いた上で
>まさにそういう現実に直に立ち向かうフロンティアなのだと思うのです。
>「学として」まとまるはずなどない。
と書いてることを読み落としてますね。
つまり、serpent-owlさんは
「個々の立場の上でしか成立しえず、『学』としてまとめようもないものを、
必死で『学』としてまとめようともがく行為はフロンティアというに値する
険しく厳しい道のりである。」
と言っておられているのではないかと解釈するが、あなたはいかに解釈する
「立場」によりこれを「笑止!」と言い捨てるのでありましょうか?
(serpent-owlさん身勝手なる解釈を付け加えることをお許しください。)

人をけなし、罵倒する行為はその人の言わんとすることを理解し、
その矛盾点をついたうえでするものです。
そうでなければ、あなたはあなたの思考停止を露呈し、
あなたが「笑止!」どころか「失笑」をされる「立場」になる結果を
呼びます。

さて、まず、あなたは「立場」をなんと規定するか説明願いましょうか。
人は生まれながらに「立場」を有するものではなかろうか?
しかるに、あなたの弁ではあなたは「立場」を有さぬように言われている。
しかし、「立場」を有さぬ者が議論などするだろうか?
できれば、下劣な罵倒、中傷以外でお答え願いたいものです。
あなたが、「失笑」をされる「立場」になる結果を招かぬように。
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Q一般に宗教と呼ばれている仏教は、「信じる」ものでなく、「学ぶ」ものなのですか?

まず、私は仏教については、門外漢です。
先日、このカテにて、「哲学の心身問題を解決する方法はありますか?」という質問がありました。
この、回答の一つに、
<仏教に学ぶことです。>
があり、興味深く考えています。
教えてもらいたいことは、一般に宗教と呼ばれている仏教は、「信じる」ものでなく、「学ぶ」ものなのですか?

Aベストアンサー

うーん…これは人によってとらえ方、見方が違うものだと思いますね。
私は「両方の側面を持っているもの」だと認識していますので、学ぶべきものであり、また、信じるものでもあるのかな?と思います。

仏教は、他の宗教との違いとして「哲学」として理解していくことが出来ます。
キリスト教も似たところがありますが、どちらかというと仏教のほうがより哲学的です。
ただ、仏教は一番最初の形(原始仏教・大乗仏教)から、広く細かく「枝分かれ」をし、その土地や、そこに住む人々…ことに「仏教家」によって、違う解釈があり、それらが広まっても来たという歴史があります。
日本でも真言宗とか、臨済宗とかありますよね?。
「南無阿弥陀仏と唱えていれば往生ができる」というように、まずもとになる「仏教」があって、その解釈の繰り返しから、最終的にただ真言を唱えれば、などとなっていきました。

しかしこれは「変質」というものではないのです。
元になるべき「教え」についての解釈・深化の過程によって、生み出されてきたものです。
ともすれば「信ずるものは救われる」で、手放しで信じることが信心である、と捉えられがちですが、実際はそこに至るまでの沢山の過程があったわけです。

そこが仏教の特徴的なところだと思うのです。
「学び、問い、実践する」という要素がある。
その中で、自分が見つけ出したい「ひとこと」に出会うということもあるかもしれない。
盲目的な信仰というものを、仏教の中では好ましいとは捉えないわけです。

答えを導き出すための「ツール」として、仏教は大きな厚みのある「本」のようなものではないかと思います。
また「生活の知恵」というか、生きていくための「ノウハウ本」みたいな側面も持っています。

うーん…これは人によってとらえ方、見方が違うものだと思いますね。
私は「両方の側面を持っているもの」だと認識していますので、学ぶべきものであり、また、信じるものでもあるのかな?と思います。

仏教は、他の宗教との違いとして「哲学」として理解していくことが出来ます。
キリスト教も似たところがありますが、どちらかというと仏教のほうがより哲学的です。
ただ、仏教は一番最初の形(原始仏教・大乗仏教)から、広く細かく「枝分かれ」をし、その土地や、そこに住む人々…ことに「仏教家」によって、違...続きを読む

Q量子論的な世界像において、世界は認識される事で存在してる、そうです。そうすると、認識している私は、自

<量子論的な世界像において、世界は認識される事で存在しています。>
そうです。
そうすると、認識している私は、自分自身を認識している、ということになるのですか?

Aベストアンサー

こんにちは。

☆世界は認識される事で存在しています。
◇上で書かれている「世界」は、〈世界そのもの〉ではなく、我々の五感などの感覚によってもたらされた情報をもとに、〈わたし〉によって再構成された主観的な〈世界〉でしょう。

〈世界そのもの〉≠主観的な〈世界〉

そして、物理では
〈世界そのもの〉≠観測された〈世界〉
〈世界そのもの〉≠理論で想定される〈世界〉

我々の主観的な〈世界〉が我々の認識に基づいているのは当たり前のことであり、
物理学的な〈世界〉が観測などに基づいているのも当たり前のこと。

「世界は認識される」という表現で問題なのは、この表現中の世界(主観的世界、物理学的な世界などなどの対象化された世界)を〈世界そのもの〉としていること。

我々の知る世界は、程度の差はあれ、主観的な世界に過ぎず、
そんなものがあればですが、
客観的な世界や〈世界そのもの〉に至ることはできないんじゃないですかね。


☆認識している私は、自分自身を認識している
◇〈認識している私によって対象化され、再構成された《認識している私》〉を認識しているに過ぎません。
認識主体である私が、私の表象(イメージ)を認識していると言っていいのかもしれないですね。
もっとも、ここで言う〈認識主体である私〉がすでに表象(イメージ)に過ぎないけれど。

ショウペンハウアーのこの言葉が参考になります。

ショーペンハウアーは、世界はわたしの表象であるという。このことは、いかなる客観であっても主観による制約を受けていることを示している。
https://goo.gl/w67lxK


ミクロとマクロの関係の話が出ているようなので、私は違う角度から。

我々が実際に生きる世界は、10²³というアボガドロ数オーダーのさらにアボガドロ数オーダーくらいの超多粒子系の世界。
たとえ電子などの粒子一つ一つの挙動が確率的なものであったとしても、このような超多粒子系の現象は平均的なものになり、この平均的な振る舞い、平均値からの逸脱は殆どなくなります。
 ――量子力学のトンネル効果があるからと言って、超多粒子系の我々は、我々の体を構成する電子などの量子の如く壁を通り抜けたりは出来ない!!――

我々はマクロサイズの世界で、そして、圧倒的多数の多粒子系の世界で生きているので、量子力学がどうであれ、我々が日常的に観測する現象はほぼ100%の確率で(古典物理学的な)決定論に従っており、ここに量子力学の出番はありませんよ。

まして、哲学の認識論に量子力学や量子論は必要ないと思います。

こんにちは。

☆世界は認識される事で存在しています。
◇上で書かれている「世界」は、〈世界そのもの〉ではなく、我々の五感などの感覚によってもたらされた情報をもとに、〈わたし〉によって再構成された主観的な〈世界〉でしょう。

〈世界そのもの〉≠主観的な〈世界〉

そして、物理では
〈世界そのもの〉≠観測された〈世界〉
〈世界そのもの〉≠理論で想定される〈世界〉

我々の主観的な〈世界〉が我々の認識に基づいているのは当たり前のことであり、
物理学的な〈世界〉が観測などに基づいているのも当たり...続きを読む

Q一神教の精神・信仰が、よく解らない日本人です。

万物を創造した唯一絶対の神、主に従う、
とか

すべては神の御心のままに、

とかいうのは、
日本人の言葉で言うと

人事を尽くして天命を待つ、

という感じかな?と思ったのですが、どうでしょうか?
ほぼ当たりと思っていいでしょうか?
それとも、全然見当違いですか?

神の御心と人間の主体性についてあれこれと考えています。

Aベストアンサー

お礼ありがとうございます。
儒教的概念の天も、最初は人格を持った存在として認識されましたが、最終的には一種の法則(理)として捉えられました。
したがって、天の理は全てに平等で、分け隔ては無い事になります。
アブラハムの宗教の「神」は、人格神ですから、「神」の御心と言う物が想定されます。(つまり、「神」には意志があるわけです)
「神」は、絶対的な選択者と想定されますが、全てにおいて平等と言う事は想定されていません。
人間から、見れば、天の理がわからなければ、結果がどうなるかはわからないです。
ただし、天の理にかなった結果が平等におきる事は想定されます。
アブラハムの宗教の「神」は、意志を持っているので、御心で結果は変わります。
したがって、同じ事でも、結果が変わる可能性はあります。
ただし、「神」を絶対的善として想定する人の場合は、善を成す結果が起きると想定する場合がありえます。(この場合は、天の理とそれほどの差はありません)
実を言えば、この世で不合理と思われる結果(運命)がある場合の説明の方法が難しいわけです。
仮に、天の理があるとすれば、人間が不合理と思っても、それは天の理にかなった事と捉えられるでしょう。
「神」の御心によると考えれば、これは「神」の意志によるので、人間が不合理と思っても、それは「神」の意志です。
どちらにしろ、人間が予測できないと言う事では同じと言えば同じです。
両方は、何らかの原因により、運命が決定されていると言う、決定論的世界観を生み出します。
したがって、定められた運命に対しての、人間の自由意志はかなわないと言う結論に到達します。(人間が完全に自由な意思決定をできる余地が無いと言う事です)
これを天命にまかせるとか、「神」の御心と表現するならば、実際の現象としては同じ事にはなります。

お礼ありがとうございます。
儒教的概念の天も、最初は人格を持った存在として認識されましたが、最終的には一種の法則(理)として捉えられました。
したがって、天の理は全てに平等で、分け隔ては無い事になります。
アブラハムの宗教の「神」は、人格神ですから、「神」の御心と言う物が想定されます。(つまり、「神」には意志があるわけです)
「神」は、絶対的な選択者と想定されますが、全てにおいて平等と言う事は想定されていません。
人間から、見れば、天の理がわからなければ、結果がどうなるかはわか...続きを読む

Qこの世界の行き詰まりを 三点突破だ!

A 国連に代わる――あるいは 並存してもよいはずですが――村際連合(インタ
ムライズム)によって世界を主導するシステムを!

1. 国家のレベルの国民政府による主導方式は もうふるい。
   ムラ(市町村)の市民政府がそれぞれ主役である。

2. ムラムラのネットワークが 世界をあたらしくつくりなおす。

3. 世界のムラどうしでムラ議会議員を互選する。

4. 世界中のムラムラのあいだで市民が互いに互いを知るようにする。
   つまり ひとの交流をすべてのムラビトがというほど推し進める。

5. いくらでも色んなよいアイディアを出し合ってこれを実行して行く。

6. 経済は それぞれのムラがインタナショナルなインタムライズムの場(市
場)へと企業それぞれを巻き込む必要がある。(連携でしょうが)。



B 《普遍神》論によって宗教という宗教の揚棄を!

7. 宗教にかんして オシへは二の次であって 個人の《わが固有の時》とし
ての信仰について それを一般論として知っておく。神は 普遍神だということ
だ。
  
8. すなわち わが固有の時に憩う《わが非思考の庭》なる信仰は類型として
だれにとっても 同じひとつであるということ。

  A. ブラフマニズム:梵我一如
   梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神
   我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我

  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)
   無梵:シューニャター(空)・ゼロ
   無我:アン‐アートマン;ニルワーナ

  C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)
   仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)
      / マハーワイローチャナ(大日如来)
   仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)

  D. クリスチアニズム:霊霊一如
   霊:神・聖霊
   霊:《神の宮なるわれ》

  E. (プラトン?):霊霊一如
   霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)
   霊:《われ》

  F. 《もののあはれを知る》
   霊:かみ(超自然および自然)
   霊:われ(自然本性)

  G. ユダヤイズム:霊霊一如
   霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)
   霊:われ

  H. イスラーム:霊霊一如
   霊:アッラーフ(イラーハ=神)
   霊:われ

9. このあたかも霊のつるぎによって世界をリセットしよう。




C やっぱし《アース役はつらいよ》の全国的・世界的大合唱で ハラスメント
について本人に自省させるのがよいのでは?

10. 何気なく ♪あぁ アース役はつらいよ♪ とつぶやけばよい。

11. パワハラ・セクハラ・あるいはイヂメに際して みんなで合唱へと持
って行くとよい。

12. 半分は 減るのではないか?
    半分は あたまも気持ちもすっきりするのではないか?
    世界へも広げよう。

13. 無理をせずに 生産性が上がるのでは?
    社会保障費が省けて 財政再建に寄与するのでは?
    つまり 健康年齢(健康寿命)が上がるのでは?

14. その情況にあって いま横になっている人たちの半分は やおら起き
上がって来るのでは?


☆ ご見解をおしえて ぐー。

A 国連に代わる――あるいは 並存してもよいはずですが――村際連合(インタ
ムライズム)によって世界を主導するシステムを!

1. 国家のレベルの国民政府による主導方式は もうふるい。
   ムラ(市町村)の市民政府がそれぞれ主役である。

2. ムラムラのネットワークが 世界をあたらしくつくりなおす。

3. 世界のムラどうしでムラ議会議員を互選する。

4. 世界中のムラムラのあいだで市民が互いに互いを知るようにする。
   つまり ひとの交流をすべてのムラビトがというほど...続きを読む

Aベストアンサー

Aについてです。
国と言うのはいつ頃できたのでしょうね。
現代は、インターネットによる横のつながりによって、新しい共同体や経済の形が現れて来ているように思います。
それがインタムライズムというものの具体的な現れになるのかなと、ふと思いました。一人一人の意見や意思をダイレクトに吸い上げ、ビッグデータとしてそれを人工知能が処理すれば、一人一人が持つ小さな望みを、全体に反映する事も無理ではありません。今まで切り捨てられたり矮小化されたりと不当な扱いを受けて来た市井の人々に、力を復権させられるかもしれません。

QStrange question

I know this is a strange question, but isn't it strange that there are no aliens,
or do they exist? I herd that the possibility of alien life is 100% but we never saw them. They
might live far away but their should be at least one species that could travel in space.

Aベストアンサー

人の寿命は100年程度です。一人の人間が地球外生命体を認識する事は難しいと思います。

1961年にアメリカの天文学者であるフランク・ドレイクによって考案された、ドレイクの方程式というものがあります。
ドレイクの方程式(ドレイクのほうていしき、英語: Drake equation)とは、宇宙にどのくらいの地球外生命が分布しているのか推定する方程式である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%81%AE%E6%96%B9%E7%A8%8B%E5%BC%8F

他の惑星に地球外生命体が存在する可能性は高いと思います。
人間が高度な文明を発展させて、さらに、高度な地球外生命体が同時に存在すれば、地球外生命体との遭遇は早くなるでしょう。

Q「よい文章」とはなにか?

嘗てフランスの近代詩人ステファン・マラルメは「白紙の上に絶対が宿る」といいました。

例えばここに一万円札がある。それで何かを買うということは、その一万円で買えたはずの他の品物を手に入れる可能線を全て放棄したことを意味します。

「選択する」ということは、ひとつを選ぶことによって残りの99の可能性を捨て去ることに他なりません。
逆にいえば一万円札をそのまま使わずにいる限り、そこには永遠に100通りの可能性が残されているということになります。

前回の質問でも述べましたが、「推敲」という言葉があります。
昔中国の詩人が詩句の一節を「僧は推(お)す月下の門」にするか「僧は敲(たた)く月下の門」にするかで悩んだという故事から来た言葉ですが、詩はもちろん声に出して詠むことを前提にされているのでしょうし、全体の音の流れの中で「推す」と「敲く」とでは随分感触が異なると詩人は感じたのでしょう。

しかし現にわたしたちはこの「推敲」という言葉も含めて、中国の詩を(当時の)中国の言葉(音/オン)で読んでいるわけではないし、大抵は外国文学イコール翻訳文学です。
同じ詩、同じ小説でも、訳者によってこうも違った言葉の選択になるのかという、ある種の驚きとも違和感ともいえる感覚は誰しも覚えがあると思います。

繰り返しますが、単に意味が通じればいいというのであれば、「推」(おす)であっても「敲」(たたく)であってもさほどの違いはないように思えます。ここで語の選択の基準となるのは、あくまでも耳に心地好い音の流れということなのでしょう。

以上のようなことをつらつら考えながら、いったいいい文章とはどのようなものを指すのだろう、と考えてしまうのです。

例えばこの質問文中に

「詩はもちろん声に出して詠むことを前提にされているのでしょうし、」という個所があります。

これを

「詩はもちろん声に出して詠むことを前提(と)されているのでしょうし、」

或いは

「詩はもちろん声に出して詠むこと(が)前提(と)されているのでしょうし、」
という風に書き換えることも可能です。

「推す」か「敲く」かの次元にこだわっていると、下手をするとなにも書けなくなるような気もします、一方で、このレベルから言葉の選択に対してこころを砕かなければ、もとよりよい文章を書くことなど覚束ないとも思うのです。

人は文章に対して何を(あるいはどこまで)求めているのか?そのようなことも含めて、お考えがあればお聞かせください。

尚お礼が遅れることがあるかもしれませんが、予めご了承ください。

嘗てフランスの近代詩人ステファン・マラルメは「白紙の上に絶対が宿る」といいました。

例えばここに一万円札がある。それで何かを買うということは、その一万円で買えたはずの他の品物を手に入れる可能線を全て放棄したことを意味します。

「選択する」ということは、ひとつを選ぶことによって残りの99の可能性を捨て去ることに他なりません。
逆にいえば一万円札をそのまま使わずにいる限り、そこには永遠に100通りの可能性が残されているということになります。

前回の質問でも述べましたが、...続きを読む

Aベストアンサー

NO4です。
お礼有難うございます。

少し、追記させて頂きます。


>「伝えたいことを、可能な限り正確に伝える。」のが目的ですし、
それが出来ているものが、「良い文章」と言うものだと思います。

「可能な限り正確に」・・・ではその正確さとは何によって計られるのでしょうか?
 ↑
「正確さ」は、筆者の「価値観」によって、量られる、と思います。

 文章を作成するのは、筆者であり、「記載すべき内容」は、
 筆者の頭の中に、あります。

 それを文章と言う媒体を通じて、他者に伝えようとする場合、
 自分の中の概念を、可能な限り正確に表現しようとします。

 詰まり、その表現が正確であるのか、妥当であるのか、の
 判定基準は、筆者にあります。



例えば店で品物を買う。

「これ幾らですか?」

「300円だよ」
「それは300円です」
「ん?300」
「おい、これいくらだっけ?え?300?300円ですって」
「そちらは300円になります」

品物の正確な値段300円ということを伝える文で、正確なものは上の中にありますか。
 ↑
その品物が、300円である設定は、筆者がするものです。
当然、その金額が妥当であるか否か、の判定も、筆者がします。

この一連の表現の、「どれが正確なのか?」は、筆者が判定し、
表現すべきことで、他者は関係ありません。

文章と言うのは、「伝達手段」ですので、基本的に、読者の存在を
前提にしていると思います。

そして書かれた文章が、読者にとって価値のあるものであれば、
それは「良い文章」だと思います。

例えば、日記のようなものは、筆者自身が、読者でもあります。
このような場合、筆者と読者が同一であるので、「良い文章」か否かは、
客観性を欠いて、解りにくい、とは思います。
そのような質問のつもりでした。

ご回答をどうもありがとうございました。

NO4です。
お礼有難うございます。

少し、追記させて頂きます。


>「伝えたいことを、可能な限り正確に伝える。」のが目的ですし、
それが出来ているものが、「良い文章」と言うものだと思います。

「可能な限り正確に」・・・ではその正確さとは何によって計られるのでしょうか?
 ↑
「正確さ」は、筆者の「価値観」によって、量られる、と思います。

 文章を作成するのは、筆者であり、「記載すべき内容」は、
 筆者の頭の中に、あります。

 それを文章と言う媒体を通じて、他者に伝えようとする場合...続きを読む

Qデジタル的な生死とアナログ的な生死

人の寿命は限られており、いつかは必ず死にます。

最もデジタル的な生死
ある工場の労働者であった彼は毎日フォークリフトを運転し、一年のうち数日を除いて毎日15時間働いていたとゆー。
ある日彼は仕事を終えて、家に帰り晩飯を食って風呂に入り寝入ったのであった。
次の朝彼の妻が彼を起こしに彼の寝床に行くと彼は布団の中で死んでいたとゆー。
37歳であった。
あまりに完璧な死に様、あまりに完璧なデジタル的終結。

一方、

最もアナログ的な生死
ある町役場の戸籍係をしていた彼は60歳にて定年退職し、そのあと趣味の盆栽をしながら20年を暮らした。
続く5年ほどは何をするでもなく好きな酒を飲んで暮らしていたが、酒が祟って腎不全から多機能内蔵不全となり病院に入院する羽目になった。しかしもともと心臓は丈夫であったので直ぐに死ぬことはなく病院のベッドの上で点滴を受けながら続く5年を細々と生き続け90歳を超えたある日病院のベッドの上で息絶えたのであった。
あまりに細々とした死に様、あまりにアナログ的生き様。

この問題について日頃より考えておりまする。
この両者のうちどちらが美しいと言えよーか。
もし選べるとすれば皆はどちらの生死を選ぶことになろーか。

人の寿命は限られており、いつかは必ず死にます。

最もデジタル的な生死
ある工場の労働者であった彼は毎日フォークリフトを運転し、一年のうち数日を除いて毎日15時間働いていたとゆー。
ある日彼は仕事を終えて、家に帰り晩飯を食って風呂に入り寝入ったのであった。
次の朝彼の妻が彼を起こしに彼の寝床に行くと彼は布団の中で死んでいたとゆー。
37歳であった。
あまりに完璧な死に様、あまりに完璧なデジタル的終結。

一方、

最もアナログ的な生死
ある町役場の戸籍係をしていた彼は60歳にて...続きを読む

Aベストアンサー

死とは何でしょうか。死んだ後私は何かを感じるのでしょうか。
その為には、私は誰なのか考えなくてはなりません。大抵の人は、これが私ですと自分の体を指すでしょう。

 では仮に、手が切り取られたらどうでしょう。手と残りの体とでは、どちらが私でしょう。手は私では無く、残りの方が私ですと答えるでしょう。では首が取れたらどうでしょう。首の方が私ですと答えるでしょう。では脳を取り出したらどうでしょう。脳の方が私ですと答えるでしょう。では脳を半分に切ったらどうでしょう。どちらが私でしょうか。脳を切り刻んだらどうでしょうか。どれが私でしょうか。脳の中のどの部分が私なのでしょうか。

 そもそも、体の中の物質は、3年に一回全てが入れ替わっています。では、3年後の私は私ではなくなっているのでしょうか。

 赤いとか熱いとか感じているのが私です。では、赤い熱いと言う感じは、物質でしょうか。赤い色は、心の外の世界には存在しません。物質の表面に当たって反射する光の波長が存在するだけです。

 では、音はどうでしょうか。外界には、色々な波長の空気の振動があるだけです。私たちが感じている様な音は存在しません。

 この様に、心が作り出したものを取り去ると、何も残りません。従って、赤い熱いと言った感じは、物質ではありません。幾ら科学が発達して、全てを見ることが出来る顕微鏡が出来たとしても、脳の中を覗いたところで、熱いと言う感覚を見ることは出来ません。触ることも出来ません。ただ、私が感じるだけです。物質ではないものを感じている私も物質ではありません。

 私の感じている世界は、私が心の中に作り出したものです。心の外の世界がどうなっているか、私には全く知る術がありません。しかし、心は外界に出来る限り似せて、心の中に世界を作り出しています。

 例えば部屋の中で、テレビを見ている様なものです。テレビは、実際の現場に似せて場面を作り出しています。しかし、決して現場そのものを見ている訳ではありません。あくまでも、テレビが作り出した場面を見ているだけです。
 部屋の中にいる限り、外の現場を直接見ることは出来ません。

 テレビを見ているのが私です。決して、テレビが私なのではありません。 テレビが壊れても、修理すればまた見える様になります。見ている私が壊れた訳ではありません。

 もし、見ている私が壊れたのであれば、幾らテレビを修理しても元通りに見える様にはなりません。テレビを修理して、元通りに見える様になったと言うことは、私自身は何も変わってはいなかった事を証明しています。

 同様に、もし病気で脳が壊れて、何も感じなくなったとしても、医学が発達して、脳を直す事が出来る様になれば、また私は前と同じ様に感じることが出来る様になるでしょう。

 この事は、私は何も変わっていなかったことを証明しています。病気をしても、年を取ってボケても、そして死んでも脳を元の状態に戻せば、元通り感じることが出来るので、私自身は何も変わってはいません。

 ただ脳が信号を送らなくなったので、何も感じなくなっただけです。テレビが壊れて直せなくなっても、新しいテレビを買えば元通りに見ることが出来ます。脳が死んでなくなっても、新しい脳が私に信号を送る様になれば、また元の通りに感じることが出来ます。

 科学が発達し、かつて脳を構成していた、物質を掻き集めて、元の通りに組み合わせて、脳を作ったら、また、私は元の通り感じるようになるでしょう。

 私自身は、生じるものでも無くなるものでもありません。穢れるものでも、清くなるものでもありません。増えるものでも、減るものでもありません。宇宙の初めから存在しており、宇宙の終わりまで全く変わらずに存在するものです。

 死んだ後の状態は、生まれる前の状態と何一つ変わりません。何か違いを指摘できるでしょうか。
 生まれる前の状態から、人は生まれてきました。死んだ後の状態から生まれることは、何ら不思議なことではありません。
 「不生不滅不垢不浄不増不減」です。

質問者さん、この様に脳が死ぬと精神である私に刺激を送るものが無くなるので、私は何も感じません。新しい脳がまた私に刺激を送る様になると、私はまた元のとおり感じる様になるでしょう。
死んだら、気が付くと母の胸に抱かれていることに気が付きます。誰しもそうです。ですから、死んだ人にもまた次の生或はその次の生で出会えると考えます。

詳細は、下記のホームページを参照下さい。
http://catbirdtt.web.fc2.com/sitohananika.html

死とは何でしょうか。死んだ後私は何かを感じるのでしょうか。
その為には、私は誰なのか考えなくてはなりません。大抵の人は、これが私ですと自分の体を指すでしょう。

 では仮に、手が切り取られたらどうでしょう。手と残りの体とでは、どちらが私でしょう。手は私では無く、残りの方が私ですと答えるでしょう。では首が取れたらどうでしょう。首の方が私ですと答えるでしょう。では脳を取り出したらどうでしょう。脳の方が私ですと答えるでしょう。では脳を半分に切ったらどうでしょう。どちらが私でしょう...続きを読む

Q不可知を 未知と分けて――哲学なら――用いなければいけない

不可知も まだ知られていないこととしては 未知でしょう。

では わざわざ不可知と言うのは どうしてでしょうか?

定義してください。

Aベストアンサー

#76です。

1.
>☆☆ 非知
☆ のほうが だいたいほかの方法よりよさそうだと言おうとしています。

了解しました。

>でも 哲学する人は ぶらじゅ何とかというどこの馬の骨とも分からないや
つが 非知を言い始めたと知って ほかの方法を考えようとするでしょうね。

いえいえ、そうとは限りませんよ。
☆ 非知
に関しては、
☆ のほうが だいたいほかの方法よりよさそう
といった謙虚なるご見解は不要で、
むしろ、それしかないと言えるほど稀有の視点ですよ。
少なくともわたしはそう認めています。
ただし、人間存在の最終原因とか、神とか、摂理とかいったように、その思考の対象がすでに定まったものに対して適用するのは妥当とは思われない。
つまり、
『 過去、人間は、未知・既知といった経験事象としての概念の他、知り得ないと判断する思考現象としての不可知という概念を操ってきた。しかし世界には、知り得るか知り得ないかが知り得ない、と言わざるを得ないような [ 何か ] は常に存在しているのであり、それは 非知 とでも呼ぶべき対象なのである。』
といった脈絡で採用されるべき視点ではないか、と思う次第。

2.
そのあとの記述も精査しましたが、
>★ つまり、連続説の場合も、(ⅲ)の内容については大いに同意するものです
が、
 ☆’《とはいえ、経験事象が そうしたナゾの影響を受けていることもまた事実
 である》
★ といった続きがあるわけです。
☆ この《続き》は 一たん非連続(つまり 淵があって超えねばならなかった)
を認めたあとの《手続き》としてなのです。さもなければ 《無限》が 有限世
界と地続きだとなります。

☆超えねばならなかった
ものではなく、あくまで、当初から並立しているもの です。
こういった内容に象徴されるように、すべてが 非知を大前提にした論理展開 となっていますよね。
なぜ、非知でなければならないのか?
ここが示されない以上、弱いのではありませんか?

3.[ おまけ ]
>☆ というのは 《絶対の隔たりが 〈無限〉と人知とのあいだに ある》と認
めた上でそのあと それでも わたしは連続説に立つのだという宣言なのです。

違います。
あくまで「宇宙の摂理の象徴としての神」の場合にはですが、
☆絶対の隔たり
は当初から認めていません。
よって、
>★ ここで〔☆ こそ〕また連続・非連続の論議に舞い戻ってしまうわけで〔☆
それに関しては〕やはり見解の相違と判定するのが妥当じゃないですかね。

といった甘言に篭絡されるいわれもありません、ということになりそうです。

>★ むろん、この場合の「直接」は、一般の経験事象同士における直接とは意味
が異なることは、128回ほど申し上げているので、すでにご承知のはずでしょ
うけど。
☆ 鯉の滝登りではありませんが 一たん有限から無限の夢幻境へと論理で駆け
上ったからには その《精神の軌跡》を抜きにして この《直接》の意味内容を
考えるわけには行きません。でしょう?

★原因が分かったとしても、その原因に対する原因が永遠に付きまとうので、最終原因は永遠に不可知と言わざるを得ません。
という言及に関して、
・原因=有限での経験事象
・最終原因=無限の夢幻境での事象
のように分けてお考えなのだと思います。
しかし、
★原因が分かったとしても
という表現は、
「あ、これだ!」のように
★原因が分かったとしても
といった意味ではありません。
★原因に対する原因が永遠に付きまとう
というのは、論理的合理性に基づいて、つまり、これだけで成立している命題なわけです。
説明上、例として挙げることはありますが、経験事象としての原因を必須の要素として必要としているわけではない、という点にご留意いただければと思います。

#76です。

1.
>☆☆ 非知
☆ のほうが だいたいほかの方法よりよさそうだと言おうとしています。

了解しました。

>でも 哲学する人は ぶらじゅ何とかというどこの馬の骨とも分からないや
つが 非知を言い始めたと知って ほかの方法を考えようとするでしょうね。

いえいえ、そうとは限りませんよ。
☆ 非知
に関しては、
☆ のほうが だいたいほかの方法よりよさそう
といった謙虚なるご見解は不要で、
むしろ、それしかないと言えるほど稀有の視点ですよ。
少なくともわたしはそう認めていま...続きを読む

Q人の心は脳の自然現象でしょうか? 死後は無なのでしょうか?

人の心は脳の自然現象でしょうか? 死後は無なのでしょうか?

Aベストアンサー

人間は物質的な肉体以外に、霊体という体が重複的に存在していて、その霊体の方に心が存在しているそうです。

↓スピリチュアリズム入門
http://www5e.biglobe.ne.jp/~spbook/sp-introduction1/index.htm

ここの第2部のところを読んで下されば、人間の魂がどこにあるのか書かれてあります。

Q非戦論という一つのベクトルをも おもてに出してよいのではないだろうか

主戦論を前提とした常識ないし定説で 国際関係論が考えられている
ように見受けられます。

その一色というあり方を修正し さらに補強する手も 考えられるの
ではないか。

《非常識》な市民としては 実際のところ 非戦論が優勢なのではな
いか。

――真夏の夜の夢。

Aベストアンサー

非戦論や戦闘否定論は、特に
真新しいわけではありません。

日本の旧左翼の中にも時折、
主張を聞いたことがあります。

個人的には同意する部分も多々
あるのですが、主戦論者から、
「あなたは自分の家族が危害
を被る可能性がある際も闘わない


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