心について科学哲学の立場で勉強していますが、壁にぶつかってしまいました。
それは、心について、哲学の立場で説明することと、科学の立場で説明することの違いが判らなくなってきたのです。

 哲学では、心に関する「概念」を論理分析していくことだ。科学では、「仮定」と「実験」で理論を実証していくことだ。との説明がありました。しかしながら、哲学での「概念」は当然のこととして科学理論をも踏まえたものであります。

 そうすると、哲学の概念の中にも科学理論が内包されているわけで、そのような概念とは、科学理論とどのような違いがあるのだろうか、という疑問に突き当たってしまったわけです。

 これは、哲学するとはどのように思考展開していくのかという疑問にも通じることです。アドバイスと参考文献の紹介をお願いします。

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似非 科学」に関するQ&A: 政府は命に係わる危険情報や似非科学にどう対応すればいいと思いますか?

A 回答 (83件中51~60件)

 たびたび丁寧なお礼、痛み入ります。

いささか奇妙な盛り上がりである上に、管理部の低能どもによる「妨害」も隠微な形で行われており、ちょっとやりにくいことはたしかなのですが、私自身、この機会に勉強させていただきながら参加いたしております。実は今、『内部観測』という本(青土社・郡司ペギオ幸夫ほか)を読んでおりまして、心身問題にも有意義な示唆が得られそうです。直接的には「複雑系」の問題なのですが、知覚心理学のギブスンが提唱したあほーざんす…あ、失礼、あほーは管理部でした…あほはほっといて…「アフォーダンス」ですね。その、アフォーダンスとの関連もあるらしく、ちょい興奮モノです。
 前回の書き込み、「簡潔」との仰せですが、なに、上っ面をさらっただけです。satonohukurouさんには釈迦に説法というもの。目的は冒頭にも断ってあるように「他の回答者へ向けた情報共有化」です。そのへんが全然読めていないようです。管理部の低能どもには。その「妨害」のおかげではっきりさせねばならない部分がうやむやになろうとしている。…というわけで、halkaさん。「難点として、現段階では唯心論的独我論に陥る可能性があると思われます」とのこと。わかってくれているなら、おぢちゃんはそれでいいんです。「現段階で」、そうなってますね。…と、ここで「唯心論的独我論」の「わかりやすい言い換え」を一旦書いたのですが、消しました。私の残りの質問にお答えいただいた上で(強制はしませんが)、必要があれば申し上げましょう(とか言って「答えがまだだよん」てことをさりげなく確認しちゃったりなんかする…)。
 いやいや、「邪悪なふくろう」の片鱗をお見せしてしまいました。とりわけ「権力を持ったバカ」が嫌いですので、ついつい。さて「幻影肢」の問題。…するとやはり、仰せのように「身体論」からのアプローチになりましょう。
 いったん、喩えとして、自動車の運転をする際の「車両感覚」を思い浮かべるとわかりやすいかもしれません。とりわけ、バスやトラックのプロ運転手さんたちの卓越した車両感覚。中には後ろから笛の音で誘導してもらう人もいますが、慣れた人なら椅子に自分の尻を納めるのと大して変わらない感覚でピタッと一発、後退で駐車ポジションに納めるでしょう。バスのおケツなど、自分のおケツより十メートル近くも後ろにあるのに。
 この場合、「身体意識」は、客観的に実在している皮膚に包まれた肉体という空間範囲を超えて、箱型の車両全体まで「広がって、延びている」とも言えるでしょう。その意味で、ジャンボジェット機や巨大タンカーの運転手さん、偉大です。でもちょっと延ばしすぎましたから、今度は縮めましょう。足を折りました。痛いです。歩けません。松葉杖をつくことになりました。最初は違和感バリバリです。脇の下が痛くなります。たまに杖の先の接地に失敗して、すってんころりん、あいててて…なんてことにもなります。でも…慣れてみると「身体感覚・身体意識」は杖の先まで延びます。杖の先で地面の感触を「感じる」ことができるようになる。そうなれば、もうR2D2みたいにゴキゲンで歩き回れます。
 もっと縮めます。stomachman症例報告に続き、serpent-owl症例報告になりますが、実は一月頃、バイクで自動車と接触事故やりました(95:5であちらペナルティ)。ぽ~んと投げ出されて、ぐしゃっと着地。擬音語のわりに大した怪我はしてなかったのですが、しばらくは立ち上がれませんでした。のちの診断ではただの打撲で全治二週間程度のもの。ですが「その時」には、意識は非常にはっきりしていたにもかかわらず、まったく身体を動かすことができなかったのです。車道のど真ん中だったので、人に助け起こしてもらって路肩に移動。そこで着地した方の足を恐る恐る地面につけてみて、「あ、折れてないや」と気付き、ようやく少しずつ動かせるようになりました。…きわめて、少しずつでした。
 この場合、瞬間的な自己暗示で「あ、折れたかも…やばいかも…死ぬかも…ここ、天国かも…」とでも思っていたのかもしれません。そうでないかもしれない。けれどとにかく、「意識が身体よりも内側に退いていた」とは言えると思います。
 こうして見てみますと、意識というものは独り「脳」のみに局限して展開されているのではなく、非常に可塑的に伸び縮みするもののようです。すると「幻影肢」というものにも一応の解釈を施すことができそうです。すなわち、自己の肉体は自動車や杖のように取り外し可能なものではなく、生まれてこのかたデカくなるたびにデカくなってきているわけですから、その肉体に関して及んでいる「身体意識」は非常に根強く意識に枠づけられている。だから簡単には消去・変更されないのだ、と。
 症例によっては、存在しないはずの部位に感覚を感じることもあるそうですね。無いはずの貴方が噛んだ小指が痛いとか(古いな…)。切断された付け根で感じるのではなくて、まさにその「存在しないはずの小指」で感じるという。これも不思議なことです。…早計かもしれませんが、やはりこれは、「意識」というソフト的要素(と言って語弊があれば、心的内容ないし観念的要素)が、脳というハードウェアにも刺激を与えうることを示唆するようにも思えます。「脳」の側から説明すれば、脳内に形成された、腕を担当するニューラルネットワークが、腕が切断されたのちもそのままであるため、脳は腕がそのままあると誤認し、意識にもそのように受け止められる、と解釈できます。が、その他方、実際には存在しない「小指の神経」に感覚を感じているわけですから、身体意識の介在も否定できない。その感覚は、脳にではなく身体意識に由来する可能性もある。やはりどうも、脳と身体と意識とは、別々のものでありながら、しかもどこかで分けられない部分があるように思えます。

 「身体論」からのアプローチであれば、ヒントは色々なところにあります。前に挙げたメルロ=ポンティや市川浩さんもそうですし、鷲田清一『普通を誰も教えてくれない』にも関連する話があり、佐伯胖(さえき・ゆたか)さんにも「眼鏡が置き忘れやすいのは、それが置き忘れようがない自分の肉体と、外界に空間定位した諸事物との中間に漂っているからだ」という文章があります(出典失念、調査中)。
 それから、人間には、おそらく動物でも変わらない「安全空間」が身の回りにあります。赤の他人がすっと、例えば自分の首元まで手を伸ばしてくると、思わず首を引いてしまいます。「侵入してほしくない空間」を、他者が突き破ったからです。ゴルゴ13に至っては、「自分の後ろ」という空間がすべてコレになります。思わず殴ってしまいます。
 エリアス・カネッティ『群集と権力』(法政大学出版局)には、これを絡めた話が載っています。互いに安全な距離を保った「群集」は落ち着いている。けれど例えばすし詰めの桟敷席などでは他者と安全な距離が保てず、時に荒々しく、時に妙に明るい雰囲気がかもし出されます。こういう効果を巧みに利用したのがナチスです。集会に集まった群衆を、親衛隊やらユーゲントやらが取り囲む、そして演説がたけなわとなるにつれて、親衛隊は少しずつ前に出る、すると群集は圧縮されていく…いやが上にも興奮が高まる、というわけです。
 さらに冒頭に挙げたギブスンのアフォーダンス。いやぁ、これが今勉強中の複雑系問題に関わってくるとは思いませんでした。その意味でもこの対話は私にとって非常によいきっかけになりました。こちらももう少し考えを詰めてから述べます。

 で、「文学っぽいアプローチ」ですが、これは「哲学ならではの何でもアリ性」に立脚して考えておりますので、ちとやっかいです。少々お待ちを。また「哲学と科学」という問題にも、そこで考えを述べたいと思います。

 
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邪悪なふくろう叔父様に従い私目の立場も叔父様のフィルターに肖りたいと思いま


した。里のふくろう様にとって私のものも邪悪様の示したその他大勢中のひとつと
なるやもとはおもいますがそれも致し方ありません。
私の言っていることは
◆心・命題同一説というのが適切かと思います。
感覚・知覚・思考・感情・意志などの心的事象は意識の命題関数そのものだとする
立場です。難点として、現段階では唯心論的独我論に陥る可能性があると思われます。

心・命題同一説ではまず意識が前提となってそのうえに命題が三区分されます。
すなわち事実世界、可能世界、価値世界です。ふくろう叔父様の述べた各学派は
おおよそ事実世界を基礎として真偽判定の命題関数が展開されますが、ここでは関
数の展開される議論領域がはじめから三つに分かれていると言うわけです。
事実世界とは意識が時空という議論領域を背景として物質の存在の「Aがある」を
真偽判定する一つの体系であると定義されます。
主に感覚が「Aがある」の判定の基準となりますが、時間という現象の展開の前後
に無矛盾性を介在させることが必要です。
瞬間の感覚が「見た!」と告げても時間の前後にあるはずのないものをいっても
それは幻覚とか錯覚として処理されます。

ここで主観客観という事を命題Fの真偽判定に拘わり定義してみたいと思います。
事実世界を時空連続体として任意の時間(tm,tn)を取り出しその時点のFが
客観的に真は(1、1)とします。すなわち普遍とはいつでも、どこでも誰にで
も一致する真偽判定ですが客観と普遍を同義に考えるわけです。
一方主観性については(1、0)を認める判定ということにします。

次の可能世界ですが、ここではラプラスのものを採用し、確率という概念に限定し
て考えることにします。
「ある事象の確率とは(1)其の事象を構成する基本事象に遡り、互いに背反で総ての
可能性を尽くす同等に可能な一群の基本事象に同定し、次に(2)其の事象を基本事
象が何個あるかを決定し、最後に(3)其の数と基本事象の総数との比によって定義
される。」

さて価値とはどのように定義されるでしょうか?それは主観の要求を満たすものと
言うのが一般的です。いま少し厳密にやってみましょう。対象命題Fがあるとしま
す。Fは意識上の命題ですから事実であるとは限りません。さきに主観の要求を満
たす、ということを「私はよい」が真であるという風に言い換えます。
すなわち「Fに価値がある」とは「Fが事実であるとき、私はよいは真」と同値と
します。ところでFの資格を考えると単にFが事実であるか否かというほかに、F
になるかもしれない、という可能性のうちに語ることが出来ます。よって命題を
事実を可能にまで敷衍して「Fが事実であるかもしれない時、私はよいは真」を導
出する対象命題Fについて「Fに価値がある」ということにします。
これを記号化すると「価値を表すF」をVF、「可能性を表すF」をPF、「私は
よい」VSとして(VF∧PF)⊃VSが価値の一般式として設定されます。
もともとこの公式は「価値とは主観の要求を満たすもの」ということを命題三区分
の立場から言い換えたにすぎません。

さて以上の区分の世界に対して主観的判断と客観的判断とはどの様に適合されるで
しょうか。すこしまとめて見ますと・・・。
・客観的判断
任意の(tm,tn)においてF(1、1)またはF(0、0)である判断。
・主観的判断
任意の(tm,tn)においてF(1、0)またはF(0、1)である判断。
主観的判断とは意識がその時限りにおいて真偽いずれを判断したかということです
から客観的判断を含むといえるかもしれません。
錯覚の事例で具体的に見てみましょう。
月が水平線上にある時と中空にあるときでは大きさが違って見えます。
tmにおいて、F{水平線上の月}>{中空の月}は真と判断した。
tnにおいて、F{水平線上の月}>{中空の月}は偽、すなわち両者は同じ
と判断した。このとき主観的判断は、主観がそのときFに対してした真偽判定
ですから{1、0}と記述。
対して客観的判断とは、tnにおいて改めて角度を測定機により計測した、ある
いは前後の論理的矛盾を確認してtmに変更を迫るのです。あれは錯覚だった。
結果{0、0}と記述。さてこの二つの判断を可能命題に対して適応してみます。
tmにおいて意識はサイコロを振って1の目の出る確率を1/2と判断した。
tnにおいて意識はラプラスの定義に基づき、1の目の出る確率を1/6と判断した。
ここでFを「サイコロで1の目の出る確率は1/2である」としたとき主観的判断に
おいて{1、0}、客観的判断では{0、0}となります。
さて確率の法則のような可能性に対して普遍的な判断はそうざらにあるわけでは
ありません。実際、互いに背反で総ての可能性を尽くす同等に可能な一群の事象
がまったく見当たらないものもあります。しかしながらあらゆる場面で行う可能
性に対する主観的判断はまったく意味のないものでしょうか?
というのは、先ほどの価値の自己満足の公式を思い出すと、目的的活動において
次のようなことが言えるのではないかと考えられるのです。
いま出したサイコロの例をでいえばVF{1の目が出ることは良いことである}
PF{1の目の出る可能性は高い}ならば、そう判断する意識のFの目的的行為
の実行頻度はPF{1の目の出る可能性は低い}に対して高くなる。
この場合、主観的判断のPFが結果であるFの発生頻度という事実に影響を与える
と考えられるのです。
ここでは、tmにおける客観的には偽であるところの主観的判断が事実であるFに
連関性を持ち有意味である、ということが言える。


先ごろよりクオリアエイジェントの方がいらしているようなのでクオリアについて
ひとこと。
上記の例でいえばクオリアとは事実命題の主観的判断ということがいえます。
水平線上の月と空中の月のどちらが大きいかということで、賭けをしました。
「水平線上の月のほうが大きい」は質感を伴う実感であり主観的判断です。
結果、計測器を用いて視野角度は同じ、命題Fは客観的判断において偽となり
ました。ここで主観的判断F=1は有意味性を持つのでしょうか?
Fは結果としての事実命題であり、その主観的判断がVF、PF、VSの如何
なる連関をもつこともない。よって、それが結果としての事実に影響を与える
こともない。事実世界における主観的判断F{1、0}は強制的に客観的判断
{0、0}に修正される。

よってクオリアは有意味性を持ち得ない。    証明終り。
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この回答へのお礼

 お姉さまが、「心・命題同一説」とご自分の立場を明確に表明されて説明されたことに敬意を表します。心の問題で立場を表明することは欠陥を指摘されることを意味するように思われるからです。ご自分でも承知されておられるようですが。
 さて、お姉さまの論理は、「判断」もしくは「思考」の過程を説明する論理、または、錯覚等の感覚の過程を説明する論理と理解しました。
 しかしながら、クオリアを、お姉さまは有意味性を有しないことを証明されて排斥されていましたが、私は、心についての説明で哲学でも科学でもその説明の困難性が「感覚質」や「志向性」を説明せざるを得ないところにあると理解しております。例えば、お姉さまは、最初に意識を前提していますが、その意識そのものを説明する必要があるように思いますがいかがでしょうか。「真偽判定する一つの体系である」と定義することによって、さらに主格を前提にせざるを得なくなります。
この主格についての説明が為される必要を感じるのですが。

お礼日時:2001/03/31 21:48

 serpent-owlさんが唯物論的「心の哲学」にまとめてくださったので、一般論を展開しているときに非常に気が引けるのですが感想を



 自然科学の立場からいえば唯物論的「心の哲学」としてはどれでもいいのではないでしょうか?(非法則論的一元論はちょっと異質ですかね)
 というのは、たとえば、
 心を物質の運動として捉えたとして、たぶん行動主義で規定しうる心の振る舞い(現象)を説明できなくてはならないし、物質の運動論が十分に正しそうであれば行動主義の結果に対してチェックが入ることになります。つまり、お互いの方法論から得られた結果に整合性が要求されるわけで、そこがどっちが合っているか間違っているかなんて、研究の出発点としては(お金や時間の問題は別として)そんなに気にしなくても良いところが哲学との大きな違いかなと思いました。これまで哲学の諸説の間で説の間の整合性が得られない(各説の展開の仕方が論理で閉じいるだけで、それを超えたチェック構造がない)ことが自然科学をやっている人から見た欲求不満のもとなのではないかと思いました。
 あと、還元主義的な分析方法(心脳同一説や機能主義がこれにあたるのでしょうか)に関する批判(?)ですが、分析の対象とする要素の集合の状態をより高次の状態に対応づけ、高次の状態間の関係をミクロな要素の法則で説明できたとき、そのとき自然科学をやっている人(といより、自然科学の研究システム)がそれを説明できたと考え、研究を止めるとは思いません。おそらく何でそんな複雑なものが上手く説明できてしまったのだろうと考え、なにかあるはずだと思うはずです。(複雑な方程式が上手くとけてしまったときには、そこにはまだ見つけていない何か対称性(不変性)が潜んでいるはずだと考えるのはよくあることだと思います。逆にそういう不変性を見つけたときに分かったような気持ちになるという非常に強い人間の認識の癖があるように思います。)たとえば、社会学における因子分析(でしたっけ?個人の多元的データの統計をとって統計的データの独立要素を抽出するというようなこと)は個人のデータを取っているからといって還元論的な方法かというと私はそうは思いません(この方法で出てきた因子がどれほどであるかは別として)。こんなに単純ではないでしょうが、細かい要素に分解して心を説明をするということの最終目的は、この因子のようなものを見つけて因子によって心を説明するということだと思います(というか、そういう単純化されないと分かった気持ちにならないと思います)。そう思うのは「心」というものがあると私たちが素朴に思えるからです(仕組みはわからないけど脳の中で単純化されているから、自然科学的な理屈でも単純化できる(因子のようなものがある)だろうということですね。きっと・・・ということは私たちの理解の仕組みをしらないと・・・ということになって、ぐるぐるめぐるのでしょうか)。
 やっぱり哲学には「心」というものがあると私たちが素朴に思えることをきちんと説明して欲しいです(それは例えば錯覚だ!という答えなのかもしれませんが、錯覚だって素朴にあると思う気持ちは変わらないので、錯覚という切り口で素朴にあるということの状態を明らかしにて欲しいのです)。そして、その過程で「仕組みはわからないけど脳の中で単純化されている」一端が見えるかもしれないと思うのです。
 ちょっと皆さんが繊細/微妙な話をしているときに議論を蒸し返しているようで申し訳ないのですが、困ったやつだと笑ってくだされば幸いです。
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この回答へのお礼

初めまして、よろしくお願いします。

新しい視点での回答があったと理解しました。
すなわち、哲学と科学の説明の仕方の違いについて、唯物論の立場では、科学では各種の立場で説明される事象についてチェックを受けることから普遍性が確認される。還元主義では、原子論としての究極の因子の追求により説明が為される。
しかしながら、哲学は自己の論理だけで閉じてしまっているのでチェック機能がない。
 説明する、もしくは論理を展開する、さらに説明や論理を納得する(納得できたという気持ちになる)ということのきちっとした理解が私には不足しているようです。

お礼日時:2001/03/31 21:19

serpent-owlさま:



貴方の指摘はとても興味深いと思います。
ところで、心脳問題MLでは「第1回心脳問題研究会」
を4/7(土)午後、新宿歌舞伎町のルノアールで
行います。もし良かったら顔を出してみてください。

参考URL:http://www.qualia-manifesto.com/forum1.html
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fwappyさま


 まず「不可知論者」と誤解した点につき、謝罪します。すみませんでした。それと、あの質問、「当局」による削除だったのですか。いかにも無知無教養な低脳がやりそうなことですね。未来の、世界なんたらかんたらなんて十年早い…いや、もうちょっと…だいたい五十六億七千万年ほど早いでしょう。面白くなったかもしれないのに。それから、「コンピュータと人間の脳・心は同じではない」というご指摘、おっしゃる通りです。私もそういう思いから書きました。このアナロジーは機能主義の立場に立つ人が説明上の便宜をはかるためのものだったのでしょうが、アナロジーによる「わかりやすさ」は、時に多くのものを犠牲にします。この場合、シナプスやらニューロンやらの物質的実在と、心的内容という書き換え可能で物理的法則に必ずしも縛られない要素と、分けられるようで分けられない部分というのは確実にあるように思います。逆に言うと、この「分けられるようで分けられない部分」というところをクリアすれば、コンピュータやロボットにも、外部からプログラムされるのではない形で内発的に快と不快を感じたり、「心」を持ったりする可能性が開かれるのかもしれません。

   *

 それから、前回書き落とした点が一つ。天才的な数学者・物理学者であるロジャー・ペンローズ氏が「心」には脳内の量子論的過程が介在しているのではないかと問題提起しています。『皇帝の新しい心』とか『心の影』とかで。(『皇帝の…』はみすず書房。手に入りやすいものに、講談社ブルーバックスに『心は量子で語れるか』があります。)
 私にとってはかなり難しいので、充分に理解した上で言うのではないのですが、「そりゃいくらなんでも無茶だろう」というのが率直な感想です。おそらく、またぞろ「素朴実在論」にどこかで足をすくわれているのではないかと…。
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この回答へのお礼

ペンローズの「心は量子で語れるか」は、私も読みました。量子論についての説明は理解困難でしたが、意識の在処を微小管に求めて説明しているその説明の仕方が、実に科学的で、そのためか理解がしやすく、また心についての説明(仮説)がこれほど具体的にされているのを見かけなかったので、衝撃的だったことを覚えております。
このような説明のされ方をすると、哲学的説明の役割もしくは意義というものに疑念を覚えてしまうわけです。

お礼日時:2001/03/31 22:02

些細ではあるが、個人的に興味がある点についてとりあげます。



serpent-owl様:
>「脳にせよ心にせよ、ハードとソフトに分けられるとは思えない」

脳におけるハード・ソフトの区分けと
計算機におけるハード・ソフトの区分けは
異なりましょう。

意識・無意識の境と、ハード・ソフトの境の間に
なんらかの関係があるかどうかはわかりませんが
もし関連があるとすれば、同じ機能だから同じ心
とは言えないでしょうね。ただ、それを確認する
のは非常に困難でしょうけれども。
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 回答者各位と情報を共有化するために、「心の哲学」の流れと主要な立場を概観しておくのも無駄ではないでしょう。


 「心の哲学」は、デカルト(もっと遡ればプラトン)以来の心身二元論に端を発する哲学の根本問題の一つです。これ以来、おおまかに言うと二元論、唯心論(観念論)、唯物論など、三つの立場に整理できます。が、ここでは、自然科学が発達した20世紀後半に主流となった、唯物論的「心の哲学」に限定して概略を紹介します。「行動主義」「心脳同一説」「機能主義」「非法則論的一元論」…と、いきます。

◆行動主義
 心理学における行動主義は、ワトソンらに提唱され、スキナーらに引き継がれて、一応今日の「使える」心理学の土台になっています。stomachmanさんがご指摘のように「パブロフの犬」の実験、すなわち、本能的反応(無条件反応)とは別に、学習による条件反応(レスポンデント条件行動)が形成されうるという発見が出発点になります。
 これとは別に、心身問題を哲学的に検討する立場の一つとしても「行動主義」があります。『心の概念』(みすず書房)のG・ライルらが代表的。
 この立場の考え方を一言で言うと、「心の内実そのものを説明することを回避し、外から観察できる行動を表現する言葉に置き換えて理解しようとする」ものです。例えば誰かが笑っているとします。ここで「彼は喜んでいる」と言うことも可能ですが、その喜びを彼の心の中の出来事として捉えるのではなく、「彼は感謝の気持ちを伝えようとしている」とか「場の雰囲気を明るくしようとしている」とか「喜ぶべきと解釈し、それにふさわしく振舞おうとしている」とか、行動レベルに置き換えて説明しようとします。
 この立場は、誰にでも観察・実験できる心への視点を切り開いた点では評価されています。が、難点もあります。行動そのものは観察可能でも、その解釈は恣意性を脱却できない、という。心の内実に踏み込むことを避けながら機械的な因果関係で行動を解釈しようとしますので、ともすれば「空振り」になります。はなはだしくは「勝手な理屈を先に立てて、それで現実を裁断して納得したつもりになる」危険もある。幼児殺害を「鬱憤晴らし」と解釈するのと同レベルの貧しさです。

◆心脳同一説
 読んで字の如しでしょうか。感覚・知覚・思考・感情・意志などの心的事象は大脳の物理的過程そのものだとする立場です。ファイグル、スマート、アームストロングらにより、20世紀半ばに唱えられました。
 原子・分子の物理化学過程を実在と考え、その土台から心を考える立場ですので、はっきりと唯物論的です。この土台に立って、人間の心を刺激と反応の関数として捉えようとします。
 私自身、テレビででしたが、猫の脳のある部位に電気刺激を与えると、猫が怒り出すという実験を見たことがあります。「感情とは脳のある種の興奮である」というのは裏付けがある。事実、「科学的」です。が、現実の中での因果関係と切り離して脳の興奮として感情を捉えて何の意味があるのか、疑問も感じます。やはり「心の内実」は説明できない。この立場は行動主義から派生していますので、その流れに沿っているとは言えますが。
 また他にも指摘される難点は、脳という器質的説明に還元すれば単一の関数が得られるものの、それでは同一刺激(現実の)に対する感情の多様を説明できないこと、また逆に、多様な刺激によって同一の感情が生じうることを説明できないこと、などが挙げられます。よーするに、つまんない。

◆機能主義
 心脳同一説の難点を補う形で構想されたのが機能主義になります。脳と心的内容の関係を、類比的に言えばコンピュータのハードウェアとソフトウェアの関係と同様のものとして捉えています。
 この立場は、心的内容が脳という物理的基盤の上に成り立っていることを認めますが、心的内容の変化や推移そのものは物理化学的過程には還元しえず、現実的・日常的な出来事と心理との関係に立脚する法則性にしたがうと考えます。このことによって心脳同一説の難点を回避しています。
 この立場に関しては、さまざまな批判が向けられているものの今なお多くの支持者がいるようです。決着がついていないのが現状らしい。
 批判の論点を私なりに要約します。一つは「同じような出来事に対する人による反応の違いはどう説明できるのか」ということ、もう一つは「神経科学の今後の発展により、日常的・現実的経験に基づく法則性の記述は、意志や感情といった曖昧な言葉ではなく、もっと科学的な用語に取って代わられるべきだ」ということのようです。
 また、私なりの文句もあります。「脳にせよ心にせよ、ハードとソフトに分けられるとは思えない」という点です。例えば、新生児の脳内におけるシナプス結合の進行は、外界からの刺激に左右されることが知られていますし、成長してからも反復学習によって新たなシナプス結合がなされることも知られています。ソフト的な刺激がハードを構成しうるわけです。コンピュータとはワケがちがう。また、物の見方・考え方を自覚的に変えることで、同じような出来事に対する感じ方を自ら変えることも可能です。一度仕事をクビになったとして、別のところに再就職、この間に俗な言葉で言えば「人間的成長」があったりすれば、またクビになっても案外動じなかったりするわけです。プログラムのバージョンアップ? …でハナシは済むのでしょうか。

◆非法則論的一元論
 D・デイヴィドソンが『行為と出来事』(勁草書房)などで提唱。これはstomachmanさんが言われる「一つの原理で多くの現象を説明」するという哲学的説明の目標定立に対するアンチテーゼと言えるかもしれません。
 彼の意見は、宇宙に存在するものは結局は物質のみであることを認める点で唯物論的です。そこに物理的な因果関係の法則性があり、それを説明可能とする点において科学的であるとも言えます。ところが彼は、信念や知覚や行為といった心理的・志向的現象は厳格な法則的説明を受けつけないとします。「心が物質的基盤に立脚すること」を認めつつも、心を物質的基盤および法則に還元することを拒否しているわけです。心的内容は、いわば心的内容自体の自己原因や他者との関わり、現実との交渉の中で、独自の因果関係に基づいて内容を獲得し、変化・推移するということでしょう。
 これに比較すると、先に挙げた「心脳同一説」などは「心を脳に還元して器質的に説明可能」とする点において「法則論的一元論」と呼べるでしょう。脳と心的内容を区別した上で、両者の相互作用の法則性を説明可能と考える「機能主義」は「法則論的二元論」。デカルトのように「心」と「物」をまったく別個の実体と捉える立場は「非法則論的二元論」となります。

 だいたい以上です。この他にも、やはり「身体論」から心を見ようとする試みも始められているようです。
 また、「他者の心の観察可能性」というポイントも不可欠ですね。これはこれで、またしても哲学の根本問題である「他我問題」と密接に関わります。行動主義なんかは、この「他者の心をいかにして観察するか」という課題に対する、一つの回答だったわけですから。
 「他我問題」に関しては、エマニュエル・レヴィナスの「他者の思想」やユルゲン・ハーバーマスの「コミュニケーション理論」がヒントになるかもしれません。
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この回答へのお礼

 重ねて、感謝申し上げます。私も、一応は心身問題に関する現代哲学史は勉強しましたが、このように簡潔にまとめた形で自分のものに消化できていませんでした。
 私は「幻影肢」を取り上げて、哲学のテーマとしようとしております。
感覚器官が作用しない状態で、無いものがあると感じる(無いはずの手足があると錯覚する)、すなわち「感覚質」のみが発生するというこの症状にアプローチすることにより心と脳の関係について考察しようとしています。
 ところが、ここであらためて考えてみると、哲学で説明できていない問題となっているのは、まさしく「感覚質」、「志向性」ですね。
 この問題に挑戦するということは、私の力では無謀としかいいようのないものだったかも知れません。考察の視点をもっと足元を見るようにすべきなのかも知れませんということを、今感じております。

お礼日時:2001/03/31 19:44

stomachman様:


>大前提として、人に心がある、ってことは素直に認めて良いんじゃありませんか。

ではこれを”客観性のある手段”で”文脈から或る程度独立に”
”手間を掛けて””少しずつ”でもいいから今ここで”説明”
してみてください。

もちろん”でたらめに言葉をこしらえる”のではなく、
”概念ひとつづつを出来るだけ検証可能な仮説にまで洗練”
して”観察・記述するための確たる足場”を”地道に組んで”
いってみてください。できますか?

#思うに、すべてが自己言及なしに語り切れると結論するのは、
#数学と超数学を「区別」できるというのと同列の「信念」に過ぎないでしょう。
#このテーマは、貴方に「殻を破る」チャンスを与えてくれる筈。
#実に幸せなことですね。
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fwappyです。



serpent-owl様:
>ところで、「どんな命題でも証明可能で、しかも無矛盾な論理体系の存在について」というご質問は、
>どうして消されてしまったのですか? 書き込み、用意してたのに…

ああ、そうですか。でも、私が消したのではありませんよ。

gooの担当者が「不適切」ということで削除されたのです。

大方、某君の某所掲示板との比較評価の箇所が
当局のお気に召さなかったのでしょう。

>「心に関する仮説を証明する実験はできるのか」というsatonohukurouさんの問いに対して
>「絶対に出来ないのでしょうか」との問い。…こういう言葉の返し方はちょっといかがなものか
>と思わなくもないですが、

私はそうは思いません。

質問する人間が、無意識に前提していることについて、
解答者が問うのは当然です。質問が真摯であるならば、
そのような質問を歓迎こそすれ拒否する理由がない
でしょう。

ところで、他者の心に対して、世界を持ち出したことについて
serpent-owlさんは、私が不可知論者だとみなしたようですが
それは、まったく逆です。

私がいいたいのは
「他者の心が観察できないなら、世界も観察できない筈だ」
すなわち
「世界が観察できるというなら、他者の心も観察できる筈だ」
ということです。

>よろしければfwappyさんにも一緒に考えていただければと願うものです。

私は考えていますよ。もう随分と長い間。
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1「説明」について


 心という現象(これが存在するかどうかも問題ですが)の法則性について推論すること、として使用しております。


2「立場」について
>「立場のないものが哲学することである。」は、立派な立場ではないでしょうか。

ですから・・・その「立派な立場」というものがそもそもないものを哲学と呼びましょう。

>この立場に立つということは、その立場に見合う論理展開の方法があると思うのですが。さらに、心に関する哲学のジャンルだけをとっても、「心身二元論」、「論理的行動主義」、「観念論」、「唯物論」、「機能主義」・・・と際限となくあります。

「立場に見合う論理展開」とはその「立場の擁護」と同義であることは承知していたほうが良いと思います。
また際限なくあるとどうだとおっしゃるのかよくわかりません。

3「内包」について
>「心について哲学する」ということを、「心の概念分析をすることである」とした場合、心についての概念を「理解」するためには「経験的知識」が必要とされます。この「経験的知識」は「科学」によって得られる知識である、ということです。

「知識」と呼ばれるものを曖昧に定義されているようですが・・・あなたにとっての「知識」とは何か?・・・お聞かせ願えますか?


4哲学の思考展開について
 >哲学も科学も説明は「理論」によります。

哲学の場合そもそも説明をする必要のないものです。そもそも説明の必要のないものに理屈を付ける場合のその「説明」とはその「必要」に対する説明と相成ります。これはロゴスに対する軽侮ということでしょう。科学についても同様です。

2項で述べたように、哲学と科学はその理論の展開の仕方が異なるのではないかと考えております。

>どう異なるのですか?

科学では、「仮定」、「実験」により推論を進めることにより「論理性」が担保されています。
哲学では「概念分析」だけです。しかし、その概念は科学の知識をも根拠としております。
 

>ここまでくると、私は「自己矛盾」に陥ってしまいます。哲学と科学はその説明の方法(論理の進め方)に違いがあるはずだ。でも、その違いがよく判らない。というところにです。

「自己矛盾」を感じておられるのは結構なことだと思います。

   ------------------------------
 以上、補足させていただきます。つたない説明のために、多くの理解困難な内容を提供していることをお詫び申し上げ、再度ご教示をお願いします。
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Q一般に宗教と呼ばれている仏教は、「信じる」ものでなく、「学ぶ」ものなのですか?

まず、私は仏教については、門外漢です。
先日、このカテにて、「哲学の心身問題を解決する方法はありますか?」という質問がありました。
この、回答の一つに、
<仏教に学ぶことです。>
があり、興味深く考えています。
教えてもらいたいことは、一般に宗教と呼ばれている仏教は、「信じる」ものでなく、「学ぶ」ものなのですか?

Aベストアンサー

うーん…これは人によってとらえ方、見方が違うものだと思いますね。
私は「両方の側面を持っているもの」だと認識していますので、学ぶべきものであり、また、信じるものでもあるのかな?と思います。

仏教は、他の宗教との違いとして「哲学」として理解していくことが出来ます。
キリスト教も似たところがありますが、どちらかというと仏教のほうがより哲学的です。
ただ、仏教は一番最初の形(原始仏教・大乗仏教)から、広く細かく「枝分かれ」をし、その土地や、そこに住む人々…ことに「仏教家」によって、違う解釈があり、それらが広まっても来たという歴史があります。
日本でも真言宗とか、臨済宗とかありますよね?。
「南無阿弥陀仏と唱えていれば往生ができる」というように、まずもとになる「仏教」があって、その解釈の繰り返しから、最終的にただ真言を唱えれば、などとなっていきました。

しかしこれは「変質」というものではないのです。
元になるべき「教え」についての解釈・深化の過程によって、生み出されてきたものです。
ともすれば「信ずるものは救われる」で、手放しで信じることが信心である、と捉えられがちですが、実際はそこに至るまでの沢山の過程があったわけです。

そこが仏教の特徴的なところだと思うのです。
「学び、問い、実践する」という要素がある。
その中で、自分が見つけ出したい「ひとこと」に出会うということもあるかもしれない。
盲目的な信仰というものを、仏教の中では好ましいとは捉えないわけです。

答えを導き出すための「ツール」として、仏教は大きな厚みのある「本」のようなものではないかと思います。
また「生活の知恵」というか、生きていくための「ノウハウ本」みたいな側面も持っています。

うーん…これは人によってとらえ方、見方が違うものだと思いますね。
私は「両方の側面を持っているもの」だと認識していますので、学ぶべきものであり、また、信じるものでもあるのかな?と思います。

仏教は、他の宗教との違いとして「哲学」として理解していくことが出来ます。
キリスト教も似たところがありますが、どちらかというと仏教のほうがより哲学的です。
ただ、仏教は一番最初の形(原始仏教・大乗仏教)から、広く細かく「枝分かれ」をし、その土地や、そこに住む人々…ことに「仏教家」によって、違...続きを読む

Q量子論的な世界像において、世界は認識される事で存在してる、そうです。そうすると、認識している私は、自

<量子論的な世界像において、世界は認識される事で存在しています。>
そうです。
そうすると、認識している私は、自分自身を認識している、ということになるのですか?

Aベストアンサー

こんにちは。

☆世界は認識される事で存在しています。
◇上で書かれている「世界」は、〈世界そのもの〉ではなく、我々の五感などの感覚によってもたらされた情報をもとに、〈わたし〉によって再構成された主観的な〈世界〉でしょう。

〈世界そのもの〉≠主観的な〈世界〉

そして、物理では
〈世界そのもの〉≠観測された〈世界〉
〈世界そのもの〉≠理論で想定される〈世界〉

我々の主観的な〈世界〉が我々の認識に基づいているのは当たり前のことであり、
物理学的な〈世界〉が観測などに基づいているのも当たり前のこと。

「世界は認識される」という表現で問題なのは、この表現中の世界(主観的世界、物理学的な世界などなどの対象化された世界)を〈世界そのもの〉としていること。

我々の知る世界は、程度の差はあれ、主観的な世界に過ぎず、
そんなものがあればですが、
客観的な世界や〈世界そのもの〉に至ることはできないんじゃないですかね。


☆認識している私は、自分自身を認識している
◇〈認識している私によって対象化され、再構成された《認識している私》〉を認識しているに過ぎません。
認識主体である私が、私の表象(イメージ)を認識していると言っていいのかもしれないですね。
もっとも、ここで言う〈認識主体である私〉がすでに表象(イメージ)に過ぎないけれど。

ショウペンハウアーのこの言葉が参考になります。

ショーペンハウアーは、世界はわたしの表象であるという。このことは、いかなる客観であっても主観による制約を受けていることを示している。
https://goo.gl/w67lxK


ミクロとマクロの関係の話が出ているようなので、私は違う角度から。

我々が実際に生きる世界は、10²³というアボガドロ数オーダーのさらにアボガドロ数オーダーくらいの超多粒子系の世界。
たとえ電子などの粒子一つ一つの挙動が確率的なものであったとしても、このような超多粒子系の現象は平均的なものになり、この平均的な振る舞い、平均値からの逸脱は殆どなくなります。
 ――量子力学のトンネル効果があるからと言って、超多粒子系の我々は、我々の体を構成する電子などの量子の如く壁を通り抜けたりは出来ない!!――

我々はマクロサイズの世界で、そして、圧倒的多数の多粒子系の世界で生きているので、量子力学がどうであれ、我々が日常的に観測する現象はほぼ100%の確率で(古典物理学的な)決定論に従っており、ここに量子力学の出番はありませんよ。

まして、哲学の認識論に量子力学や量子論は必要ないと思います。

こんにちは。

☆世界は認識される事で存在しています。
◇上で書かれている「世界」は、〈世界そのもの〉ではなく、我々の五感などの感覚によってもたらされた情報をもとに、〈わたし〉によって再構成された主観的な〈世界〉でしょう。

〈世界そのもの〉≠主観的な〈世界〉

そして、物理では
〈世界そのもの〉≠観測された〈世界〉
〈世界そのもの〉≠理論で想定される〈世界〉

我々の主観的な〈世界〉が我々の認識に基づいているのは当たり前のことであり、
物理学的な〈世界〉が観測などに基づいているのも当たり...続きを読む

Q一神教の精神・信仰が、よく解らない日本人です。

万物を創造した唯一絶対の神、主に従う、
とか

すべては神の御心のままに、

とかいうのは、
日本人の言葉で言うと

人事を尽くして天命を待つ、

という感じかな?と思ったのですが、どうでしょうか?
ほぼ当たりと思っていいでしょうか?
それとも、全然見当違いですか?

神の御心と人間の主体性についてあれこれと考えています。

Aベストアンサー

お礼ありがとうございます。
儒教的概念の天も、最初は人格を持った存在として認識されましたが、最終的には一種の法則(理)として捉えられました。
したがって、天の理は全てに平等で、分け隔ては無い事になります。
アブラハムの宗教の「神」は、人格神ですから、「神」の御心と言う物が想定されます。(つまり、「神」には意志があるわけです)
「神」は、絶対的な選択者と想定されますが、全てにおいて平等と言う事は想定されていません。
人間から、見れば、天の理がわからなければ、結果がどうなるかはわからないです。
ただし、天の理にかなった結果が平等におきる事は想定されます。
アブラハムの宗教の「神」は、意志を持っているので、御心で結果は変わります。
したがって、同じ事でも、結果が変わる可能性はあります。
ただし、「神」を絶対的善として想定する人の場合は、善を成す結果が起きると想定する場合がありえます。(この場合は、天の理とそれほどの差はありません)
実を言えば、この世で不合理と思われる結果(運命)がある場合の説明の方法が難しいわけです。
仮に、天の理があるとすれば、人間が不合理と思っても、それは天の理にかなった事と捉えられるでしょう。
「神」の御心によると考えれば、これは「神」の意志によるので、人間が不合理と思っても、それは「神」の意志です。
どちらにしろ、人間が予測できないと言う事では同じと言えば同じです。
両方は、何らかの原因により、運命が決定されていると言う、決定論的世界観を生み出します。
したがって、定められた運命に対しての、人間の自由意志はかなわないと言う結論に到達します。(人間が完全に自由な意思決定をできる余地が無いと言う事です)
これを天命にまかせるとか、「神」の御心と表現するならば、実際の現象としては同じ事にはなります。

お礼ありがとうございます。
儒教的概念の天も、最初は人格を持った存在として認識されましたが、最終的には一種の法則(理)として捉えられました。
したがって、天の理は全てに平等で、分け隔ては無い事になります。
アブラハムの宗教の「神」は、人格神ですから、「神」の御心と言う物が想定されます。(つまり、「神」には意志があるわけです)
「神」は、絶対的な選択者と想定されますが、全てにおいて平等と言う事は想定されていません。
人間から、見れば、天の理がわからなければ、結果がどうなるかはわか...続きを読む

Qこの世界の行き詰まりを 三点突破だ!

A 国連に代わる――あるいは 並存してもよいはずですが――村際連合(インタ
ムライズム)によって世界を主導するシステムを!

1. 国家のレベルの国民政府による主導方式は もうふるい。
   ムラ(市町村)の市民政府がそれぞれ主役である。

2. ムラムラのネットワークが 世界をあたらしくつくりなおす。

3. 世界のムラどうしでムラ議会議員を互選する。

4. 世界中のムラムラのあいだで市民が互いに互いを知るようにする。
   つまり ひとの交流をすべてのムラビトがというほど推し進める。

5. いくらでも色んなよいアイディアを出し合ってこれを実行して行く。

6. 経済は それぞれのムラがインタナショナルなインタムライズムの場(市
場)へと企業それぞれを巻き込む必要がある。(連携でしょうが)。



B 《普遍神》論によって宗教という宗教の揚棄を!

7. 宗教にかんして オシへは二の次であって 個人の《わが固有の時》とし
ての信仰について それを一般論として知っておく。神は 普遍神だということ
だ。
  
8. すなわち わが固有の時に憩う《わが非思考の庭》なる信仰は類型として
だれにとっても 同じひとつであるということ。

  A. ブラフマニズム:梵我一如
   梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神
   我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我

  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)
   無梵:シューニャター(空)・ゼロ
   無我:アン‐アートマン;ニルワーナ

  C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)
   仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)
      / マハーワイローチャナ(大日如来)
   仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)

  D. クリスチアニズム:霊霊一如
   霊:神・聖霊
   霊:《神の宮なるわれ》

  E. (プラトン?):霊霊一如
   霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)
   霊:《われ》

  F. 《もののあはれを知る》
   霊:かみ(超自然および自然)
   霊:われ(自然本性)

  G. ユダヤイズム:霊霊一如
   霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)
   霊:われ

  H. イスラーム:霊霊一如
   霊:アッラーフ(イラーハ=神)
   霊:われ

9. このあたかも霊のつるぎによって世界をリセットしよう。




C やっぱし《アース役はつらいよ》の全国的・世界的大合唱で ハラスメント
について本人に自省させるのがよいのでは?

10. 何気なく ♪あぁ アース役はつらいよ♪ とつぶやけばよい。

11. パワハラ・セクハラ・あるいはイヂメに際して みんなで合唱へと持
って行くとよい。

12. 半分は 減るのではないか?
    半分は あたまも気持ちもすっきりするのではないか?
    世界へも広げよう。

13. 無理をせずに 生産性が上がるのでは?
    社会保障費が省けて 財政再建に寄与するのでは?
    つまり 健康年齢(健康寿命)が上がるのでは?

14. その情況にあって いま横になっている人たちの半分は やおら起き
上がって来るのでは?


☆ ご見解をおしえて ぐー。

A 国連に代わる――あるいは 並存してもよいはずですが――村際連合(インタ
ムライズム)によって世界を主導するシステムを!

1. 国家のレベルの国民政府による主導方式は もうふるい。
   ムラ(市町村)の市民政府がそれぞれ主役である。

2. ムラムラのネットワークが 世界をあたらしくつくりなおす。

3. 世界のムラどうしでムラ議会議員を互選する。

4. 世界中のムラムラのあいだで市民が互いに互いを知るようにする。
   つまり ひとの交流をすべてのムラビトがというほど...続きを読む

Aベストアンサー

Aについてです。
国と言うのはいつ頃できたのでしょうね。
現代は、インターネットによる横のつながりによって、新しい共同体や経済の形が現れて来ているように思います。
それがインタムライズムというものの具体的な現れになるのかなと、ふと思いました。一人一人の意見や意思をダイレクトに吸い上げ、ビッグデータとしてそれを人工知能が処理すれば、一人一人が持つ小さな望みを、全体に反映する事も無理ではありません。今まで切り捨てられたり矮小化されたりと不当な扱いを受けて来た市井の人々に、力を復権させられるかもしれません。

QStrange question

I know this is a strange question, but isn't it strange that there are no aliens,
or do they exist? I herd that the possibility of alien life is 100% but we never saw them. They
might live far away but their should be at least one species that could travel in space.

Aベストアンサー

人の寿命は100年程度です。一人の人間が地球外生命体を認識する事は難しいと思います。

1961年にアメリカの天文学者であるフランク・ドレイクによって考案された、ドレイクの方程式というものがあります。
ドレイクの方程式(ドレイクのほうていしき、英語: Drake equation)とは、宇宙にどのくらいの地球外生命が分布しているのか推定する方程式である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%81%AE%E6%96%B9%E7%A8%8B%E5%BC%8F

他の惑星に地球外生命体が存在する可能性は高いと思います。
人間が高度な文明を発展させて、さらに、高度な地球外生命体が同時に存在すれば、地球外生命体との遭遇は早くなるでしょう。

Q「よい文章」とはなにか?

嘗てフランスの近代詩人ステファン・マラルメは「白紙の上に絶対が宿る」といいました。

例えばここに一万円札がある。それで何かを買うということは、その一万円で買えたはずの他の品物を手に入れる可能線を全て放棄したことを意味します。

「選択する」ということは、ひとつを選ぶことによって残りの99の可能性を捨て去ることに他なりません。
逆にいえば一万円札をそのまま使わずにいる限り、そこには永遠に100通りの可能性が残されているということになります。

前回の質問でも述べましたが、「推敲」という言葉があります。
昔中国の詩人が詩句の一節を「僧は推(お)す月下の門」にするか「僧は敲(たた)く月下の門」にするかで悩んだという故事から来た言葉ですが、詩はもちろん声に出して詠むことを前提にされているのでしょうし、全体の音の流れの中で「推す」と「敲く」とでは随分感触が異なると詩人は感じたのでしょう。

しかし現にわたしたちはこの「推敲」という言葉も含めて、中国の詩を(当時の)中国の言葉(音/オン)で読んでいるわけではないし、大抵は外国文学イコール翻訳文学です。
同じ詩、同じ小説でも、訳者によってこうも違った言葉の選択になるのかという、ある種の驚きとも違和感ともいえる感覚は誰しも覚えがあると思います。

繰り返しますが、単に意味が通じればいいというのであれば、「推」(おす)であっても「敲」(たたく)であってもさほどの違いはないように思えます。ここで語の選択の基準となるのは、あくまでも耳に心地好い音の流れということなのでしょう。

以上のようなことをつらつら考えながら、いったいいい文章とはどのようなものを指すのだろう、と考えてしまうのです。

例えばこの質問文中に

「詩はもちろん声に出して詠むことを前提にされているのでしょうし、」という個所があります。

これを

「詩はもちろん声に出して詠むことを前提(と)されているのでしょうし、」

或いは

「詩はもちろん声に出して詠むこと(が)前提(と)されているのでしょうし、」
という風に書き換えることも可能です。

「推す」か「敲く」かの次元にこだわっていると、下手をするとなにも書けなくなるような気もします、一方で、このレベルから言葉の選択に対してこころを砕かなければ、もとよりよい文章を書くことなど覚束ないとも思うのです。

人は文章に対して何を(あるいはどこまで)求めているのか?そのようなことも含めて、お考えがあればお聞かせください。

尚お礼が遅れることがあるかもしれませんが、予めご了承ください。

嘗てフランスの近代詩人ステファン・マラルメは「白紙の上に絶対が宿る」といいました。

例えばここに一万円札がある。それで何かを買うということは、その一万円で買えたはずの他の品物を手に入れる可能線を全て放棄したことを意味します。

「選択する」ということは、ひとつを選ぶことによって残りの99の可能性を捨て去ることに他なりません。
逆にいえば一万円札をそのまま使わずにいる限り、そこには永遠に100通りの可能性が残されているということになります。

前回の質問でも述べましたが、...続きを読む

Aベストアンサー

NO4です。
お礼有難うございます。

少し、追記させて頂きます。


>「伝えたいことを、可能な限り正確に伝える。」のが目的ですし、
それが出来ているものが、「良い文章」と言うものだと思います。

「可能な限り正確に」・・・ではその正確さとは何によって計られるのでしょうか?
 ↑
「正確さ」は、筆者の「価値観」によって、量られる、と思います。

 文章を作成するのは、筆者であり、「記載すべき内容」は、
 筆者の頭の中に、あります。

 それを文章と言う媒体を通じて、他者に伝えようとする場合、
 自分の中の概念を、可能な限り正確に表現しようとします。

 詰まり、その表現が正確であるのか、妥当であるのか、の
 判定基準は、筆者にあります。



例えば店で品物を買う。

「これ幾らですか?」

「300円だよ」
「それは300円です」
「ん?300」
「おい、これいくらだっけ?え?300?300円ですって」
「そちらは300円になります」

品物の正確な値段300円ということを伝える文で、正確なものは上の中にありますか。
 ↑
その品物が、300円である設定は、筆者がするものです。
当然、その金額が妥当であるか否か、の判定も、筆者がします。

この一連の表現の、「どれが正確なのか?」は、筆者が判定し、
表現すべきことで、他者は関係ありません。

文章と言うのは、「伝達手段」ですので、基本的に、読者の存在を
前提にしていると思います。

そして書かれた文章が、読者にとって価値のあるものであれば、
それは「良い文章」だと思います。

例えば、日記のようなものは、筆者自身が、読者でもあります。
このような場合、筆者と読者が同一であるので、「良い文章」か否かは、
客観性を欠いて、解りにくい、とは思います。
そのような質問のつもりでした。

ご回答をどうもありがとうございました。

NO4です。
お礼有難うございます。

少し、追記させて頂きます。


>「伝えたいことを、可能な限り正確に伝える。」のが目的ですし、
それが出来ているものが、「良い文章」と言うものだと思います。

「可能な限り正確に」・・・ではその正確さとは何によって計られるのでしょうか?
 ↑
「正確さ」は、筆者の「価値観」によって、量られる、と思います。

 文章を作成するのは、筆者であり、「記載すべき内容」は、
 筆者の頭の中に、あります。

 それを文章と言う媒体を通じて、他者に伝えようとする場合...続きを読む

Qデジタル的な生死とアナログ的な生死

人の寿命は限られており、いつかは必ず死にます。

最もデジタル的な生死
ある工場の労働者であった彼は毎日フォークリフトを運転し、一年のうち数日を除いて毎日15時間働いていたとゆー。
ある日彼は仕事を終えて、家に帰り晩飯を食って風呂に入り寝入ったのであった。
次の朝彼の妻が彼を起こしに彼の寝床に行くと彼は布団の中で死んでいたとゆー。
37歳であった。
あまりに完璧な死に様、あまりに完璧なデジタル的終結。

一方、

最もアナログ的な生死
ある町役場の戸籍係をしていた彼は60歳にて定年退職し、そのあと趣味の盆栽をしながら20年を暮らした。
続く5年ほどは何をするでもなく好きな酒を飲んで暮らしていたが、酒が祟って腎不全から多機能内蔵不全となり病院に入院する羽目になった。しかしもともと心臓は丈夫であったので直ぐに死ぬことはなく病院のベッドの上で点滴を受けながら続く5年を細々と生き続け90歳を超えたある日病院のベッドの上で息絶えたのであった。
あまりに細々とした死に様、あまりにアナログ的生き様。

この問題について日頃より考えておりまする。
この両者のうちどちらが美しいと言えよーか。
もし選べるとすれば皆はどちらの生死を選ぶことになろーか。

人の寿命は限られており、いつかは必ず死にます。

最もデジタル的な生死
ある工場の労働者であった彼は毎日フォークリフトを運転し、一年のうち数日を除いて毎日15時間働いていたとゆー。
ある日彼は仕事を終えて、家に帰り晩飯を食って風呂に入り寝入ったのであった。
次の朝彼の妻が彼を起こしに彼の寝床に行くと彼は布団の中で死んでいたとゆー。
37歳であった。
あまりに完璧な死に様、あまりに完璧なデジタル的終結。

一方、

最もアナログ的な生死
ある町役場の戸籍係をしていた彼は60歳にて...続きを読む

Aベストアンサー

死とは何でしょうか。死んだ後私は何かを感じるのでしょうか。
その為には、私は誰なのか考えなくてはなりません。大抵の人は、これが私ですと自分の体を指すでしょう。

 では仮に、手が切り取られたらどうでしょう。手と残りの体とでは、どちらが私でしょう。手は私では無く、残りの方が私ですと答えるでしょう。では首が取れたらどうでしょう。首の方が私ですと答えるでしょう。では脳を取り出したらどうでしょう。脳の方が私ですと答えるでしょう。では脳を半分に切ったらどうでしょう。どちらが私でしょうか。脳を切り刻んだらどうでしょうか。どれが私でしょうか。脳の中のどの部分が私なのでしょうか。

 そもそも、体の中の物質は、3年に一回全てが入れ替わっています。では、3年後の私は私ではなくなっているのでしょうか。

 赤いとか熱いとか感じているのが私です。では、赤い熱いと言う感じは、物質でしょうか。赤い色は、心の外の世界には存在しません。物質の表面に当たって反射する光の波長が存在するだけです。

 では、音はどうでしょうか。外界には、色々な波長の空気の振動があるだけです。私たちが感じている様な音は存在しません。

 この様に、心が作り出したものを取り去ると、何も残りません。従って、赤い熱いと言った感じは、物質ではありません。幾ら科学が発達して、全てを見ることが出来る顕微鏡が出来たとしても、脳の中を覗いたところで、熱いと言う感覚を見ることは出来ません。触ることも出来ません。ただ、私が感じるだけです。物質ではないものを感じている私も物質ではありません。

 私の感じている世界は、私が心の中に作り出したものです。心の外の世界がどうなっているか、私には全く知る術がありません。しかし、心は外界に出来る限り似せて、心の中に世界を作り出しています。

 例えば部屋の中で、テレビを見ている様なものです。テレビは、実際の現場に似せて場面を作り出しています。しかし、決して現場そのものを見ている訳ではありません。あくまでも、テレビが作り出した場面を見ているだけです。
 部屋の中にいる限り、外の現場を直接見ることは出来ません。

 テレビを見ているのが私です。決して、テレビが私なのではありません。 テレビが壊れても、修理すればまた見える様になります。見ている私が壊れた訳ではありません。

 もし、見ている私が壊れたのであれば、幾らテレビを修理しても元通りに見える様にはなりません。テレビを修理して、元通りに見える様になったと言うことは、私自身は何も変わってはいなかった事を証明しています。

 同様に、もし病気で脳が壊れて、何も感じなくなったとしても、医学が発達して、脳を直す事が出来る様になれば、また私は前と同じ様に感じることが出来る様になるでしょう。

 この事は、私は何も変わっていなかったことを証明しています。病気をしても、年を取ってボケても、そして死んでも脳を元の状態に戻せば、元通り感じることが出来るので、私自身は何も変わってはいません。

 ただ脳が信号を送らなくなったので、何も感じなくなっただけです。テレビが壊れて直せなくなっても、新しいテレビを買えば元通りに見ることが出来ます。脳が死んでなくなっても、新しい脳が私に信号を送る様になれば、また元の通りに感じることが出来ます。

 科学が発達し、かつて脳を構成していた、物質を掻き集めて、元の通りに組み合わせて、脳を作ったら、また、私は元の通り感じるようになるでしょう。

 私自身は、生じるものでも無くなるものでもありません。穢れるものでも、清くなるものでもありません。増えるものでも、減るものでもありません。宇宙の初めから存在しており、宇宙の終わりまで全く変わらずに存在するものです。

 死んだ後の状態は、生まれる前の状態と何一つ変わりません。何か違いを指摘できるでしょうか。
 生まれる前の状態から、人は生まれてきました。死んだ後の状態から生まれることは、何ら不思議なことではありません。
 「不生不滅不垢不浄不増不減」です。

質問者さん、この様に脳が死ぬと精神である私に刺激を送るものが無くなるので、私は何も感じません。新しい脳がまた私に刺激を送る様になると、私はまた元のとおり感じる様になるでしょう。
死んだら、気が付くと母の胸に抱かれていることに気が付きます。誰しもそうです。ですから、死んだ人にもまた次の生或はその次の生で出会えると考えます。

詳細は、下記のホームページを参照下さい。
http://catbirdtt.web.fc2.com/sitohananika.html

死とは何でしょうか。死んだ後私は何かを感じるのでしょうか。
その為には、私は誰なのか考えなくてはなりません。大抵の人は、これが私ですと自分の体を指すでしょう。

 では仮に、手が切り取られたらどうでしょう。手と残りの体とでは、どちらが私でしょう。手は私では無く、残りの方が私ですと答えるでしょう。では首が取れたらどうでしょう。首の方が私ですと答えるでしょう。では脳を取り出したらどうでしょう。脳の方が私ですと答えるでしょう。では脳を半分に切ったらどうでしょう。どちらが私でしょう...続きを読む

Q不可知を 未知と分けて――哲学なら――用いなければいけない

不可知も まだ知られていないこととしては 未知でしょう。

では わざわざ不可知と言うのは どうしてでしょうか?

定義してください。

Aベストアンサー

#76です。

1.
>☆☆ 非知
☆ のほうが だいたいほかの方法よりよさそうだと言おうとしています。

了解しました。

>でも 哲学する人は ぶらじゅ何とかというどこの馬の骨とも分からないや
つが 非知を言い始めたと知って ほかの方法を考えようとするでしょうね。

いえいえ、そうとは限りませんよ。
☆ 非知
に関しては、
☆ のほうが だいたいほかの方法よりよさそう
といった謙虚なるご見解は不要で、
むしろ、それしかないと言えるほど稀有の視点ですよ。
少なくともわたしはそう認めています。
ただし、人間存在の最終原因とか、神とか、摂理とかいったように、その思考の対象がすでに定まったものに対して適用するのは妥当とは思われない。
つまり、
『 過去、人間は、未知・既知といった経験事象としての概念の他、知り得ないと判断する思考現象としての不可知という概念を操ってきた。しかし世界には、知り得るか知り得ないかが知り得ない、と言わざるを得ないような [ 何か ] は常に存在しているのであり、それは 非知 とでも呼ぶべき対象なのである。』
といった脈絡で採用されるべき視点ではないか、と思う次第。

2.
そのあとの記述も精査しましたが、
>★ つまり、連続説の場合も、(ⅲ)の内容については大いに同意するものです
が、
 ☆’《とはいえ、経験事象が そうしたナゾの影響を受けていることもまた事実
 である》
★ といった続きがあるわけです。
☆ この《続き》は 一たん非連続(つまり 淵があって超えねばならなかった)
を認めたあとの《手続き》としてなのです。さもなければ 《無限》が 有限世
界と地続きだとなります。

☆超えねばならなかった
ものではなく、あくまで、当初から並立しているもの です。
こういった内容に象徴されるように、すべてが 非知を大前提にした論理展開 となっていますよね。
なぜ、非知でなければならないのか?
ここが示されない以上、弱いのではありませんか?

3.[ おまけ ]
>☆ というのは 《絶対の隔たりが 〈無限〉と人知とのあいだに ある》と認
めた上でそのあと それでも わたしは連続説に立つのだという宣言なのです。

違います。
あくまで「宇宙の摂理の象徴としての神」の場合にはですが、
☆絶対の隔たり
は当初から認めていません。
よって、
>★ ここで〔☆ こそ〕また連続・非連続の論議に舞い戻ってしまうわけで〔☆
それに関しては〕やはり見解の相違と判定するのが妥当じゃないですかね。

といった甘言に篭絡されるいわれもありません、ということになりそうです。

>★ むろん、この場合の「直接」は、一般の経験事象同士における直接とは意味
が異なることは、128回ほど申し上げているので、すでにご承知のはずでしょ
うけど。
☆ 鯉の滝登りではありませんが 一たん有限から無限の夢幻境へと論理で駆け
上ったからには その《精神の軌跡》を抜きにして この《直接》の意味内容を
考えるわけには行きません。でしょう?

★原因が分かったとしても、その原因に対する原因が永遠に付きまとうので、最終原因は永遠に不可知と言わざるを得ません。
という言及に関して、
・原因=有限での経験事象
・最終原因=無限の夢幻境での事象
のように分けてお考えなのだと思います。
しかし、
★原因が分かったとしても
という表現は、
「あ、これだ!」のように
★原因が分かったとしても
といった意味ではありません。
★原因に対する原因が永遠に付きまとう
というのは、論理的合理性に基づいて、つまり、これだけで成立している命題なわけです。
説明上、例として挙げることはありますが、経験事象としての原因を必須の要素として必要としているわけではない、という点にご留意いただければと思います。

#76です。

1.
>☆☆ 非知
☆ のほうが だいたいほかの方法よりよさそうだと言おうとしています。

了解しました。

>でも 哲学する人は ぶらじゅ何とかというどこの馬の骨とも分からないや
つが 非知を言い始めたと知って ほかの方法を考えようとするでしょうね。

いえいえ、そうとは限りませんよ。
☆ 非知
に関しては、
☆ のほうが だいたいほかの方法よりよさそう
といった謙虚なるご見解は不要で、
むしろ、それしかないと言えるほど稀有の視点ですよ。
少なくともわたしはそう認めていま...続きを読む

Q人の心は脳の自然現象でしょうか? 死後は無なのでしょうか?

人の心は脳の自然現象でしょうか? 死後は無なのでしょうか?

Aベストアンサー

人間は物質的な肉体以外に、霊体という体が重複的に存在していて、その霊体の方に心が存在しているそうです。

↓スピリチュアリズム入門
http://www5e.biglobe.ne.jp/~spbook/sp-introduction1/index.htm

ここの第2部のところを読んで下されば、人間の魂がどこにあるのか書かれてあります。

Q非戦論という一つのベクトルをも おもてに出してよいのではないだろうか

主戦論を前提とした常識ないし定説で 国際関係論が考えられている
ように見受けられます。

その一色というあり方を修正し さらに補強する手も 考えられるの
ではないか。

《非常識》な市民としては 実際のところ 非戦論が優勢なのではな
いか。

――真夏の夜の夢。

Aベストアンサー

非戦論や戦闘否定論は、特に
真新しいわけではありません。

日本の旧左翼の中にも時折、
主張を聞いたことがあります。

個人的には同意する部分も多々
あるのですが、主戦論者から、
「あなたは自分の家族が危害
を被る可能性がある際も闘わない


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