痔になりやすい生活習慣とは?

東西の大名(石高の隣、○印は関ヶ原に布陣した大名、●は寝返った大名)

徳川家康 ○ 255.0 西軍 毛利輝元 120.5

前田利長 83.0    上杉景勝 120.0
伊達政宗 58.0    島津義久 73.0
加藤清正 24.5    宇喜多秀家 ○ 57.4
福島正則 ○ 20.0   佐竹義宣 56.0
細川忠興 ○ 18.0   石田三成 ○ 19.4
浅野幸長 ○ 16.0   小西行長 ○ 20.0
池田輝政 ○ 15.2   増田長盛 20.0
黒田長政 ○ 18.0   小川祐忠 ● 7.0
加藤嘉明 ○ 10.0   大谷吉継 ○ 5.0
田中吉政 ○ 10.0   脇坂安治 ● 3.3
藤堂高虎 ○ 8.0   安国寺恵瓊 ○ 6.0
最上義光 24.0   小早川秀秋● 35.7
山内一豊 ○ 6.9   織田秀信 13.5
蜂須賀至鎮 17.7   長宗我部盛親 ○ 22.0
本多忠勝 ○ 10.0   朽木元綱 ● 1.0
寺沢広高 ○ 8.0   赤座直保 ● 2.0
生駒一正 ○ 15.0   吉川広家 ● 14.2
井伊直政 ○ 12.0   長束正家 5.0
松平忠吉 ○ 10.0   毛利秀元 ○ 20.0
筒井定次 ○ 20.0   戸田勝成 ○ 1.0
京極高知 ○ 10.0   真田昌幸 3.8

本多忠勝・井伊直政・松平忠吉の所領は徳川家康の、毛利秀元・吉川広家の所領は毛利輝元の領地に含まれます。

あなたが、輝元あるいは三成、もしくは西軍サイドで勝利したあとの処断・処遇を任せられたとしたら・・ どういった裁きをしますか?
歴史に詳しい方や、自分だったらこういう処断・処遇にするといった考えの方など、様々な回答をお待ちしてます!

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A 回答 (5件)

関ヶ原で西軍の勝利は、ありえません。

西軍が勝利するなら、関ヶ原で合戦自体なかったのですよ。
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歴史にIFはない、とはよく言われますが、当時の人々の前にあった意思決定上の選択肢と、それを選ぶにあたって比較検討したであろう選択肢ごとの将来の予測は確かにあったわけで……



いわゆる架空戦記に、関ヶ原で西軍が勝利した設定の作品がいくつかありますので、機会と興味があれば読んでみるのも一興かと。

小生の見解ですが、当時は関ヶ原以外でも全国あちこちで戦になっていたので(最上対上杉とか、九州での黒田如水の活動とか)、史実で東軍がおさめたような鮮やかな勝利を仮定しないといつの間にやら再び元亀天正の世の中、戦国時代の再来になりかねません。当然この場合は処断も処遇もあったものではないです。

または、関ヶ原の戦いで史実とは逆に西軍が1日で鮮やかな勝利をおさめ、家康が首を取られたか、その身一つで(史実の三成のように)落ち武者になるか、したとします。
……ここで問題となるのは、西軍の事実上の中心人物である三成の身代があまりに軽すぎ(佐和山19万石)、かつ彼に対して朝鮮の役以来のわだかまりを抱える大名が(主に東軍側に)多いことです。関ヶ原の戦いに先立ち、毛利輝元が何かを主導した、という話は聞こえてきませんので、権威と武威をもって論功行賞を行える人材が西軍にいません……他の西軍側大老は、宇喜多秀家は若すぎかつ三成に近すぎ、また上杉景勝は関ヶ原にいませんでしたから、西軍を主導するにはいささか押しが足りません。
よほどうまくことを進めなければ、リストアップされている大名のうち、家康及び徳川家臣の面々の領地を配分するだけで大騒ぎ、東軍に参加した大名の減封はほとんどできず、下手をすれば論功行賞に不満な大名同士で第二ラウンド(そしてこれを止められる実力者がいない)、でしょう。

どうも、石田勢が正面から家康本隊を撃破・粉砕するような鮮やかきわまりない戦功(これができるような大名に文句を言える大名はいないでしょう)をあげない限り、あるいはそれに類する奇跡が起きない限りは、その後の情勢はよく言って「きわめて不安定」、と、小生には思えます。
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まず、関が原で西軍側が勝ったとして、そこで家康が討ち死にする可能性は極めて低いでしょう。

ま、勝ったにも関わらず家康は死んでいて影武者に代わったという説もありますが^^。まず、家康は落ち延びますし、徳川本隊である秀忠隊は都合よく無傷で中山道を進軍中です。ということで、家康が岐阜に逃げ込むか、策源地としていた清洲に入るか、それとも中仙道を長躯江戸に撤退するかは不明ですが、本能寺のときの伊賀超えのように再起すると思います。

まあ、しかし相当に力を削がれますのでどのような状況で講和が行われるかは一つに予想するのは難しいですね。家康の切腹は考えられません。家康が西軍側に徹底的な処断をし得たのは、天下を取りにいっているからです。それですら、西軍の大将にに祭り上げられた毛利を切腹させてもいませんし、消滅もさせませんでした。上杉もしかり。ということで、家康を隠居させて減封あたりがせいぜいだと思われます。会津の上杉と封地替えとか、小西、加藤の肥後一国という形で九州に飛ばす(これは少し無茶かもしれません)などでしょう。

さて、その他の東軍大名の処遇ですが。そもそも天下を事実上支配していると考えている西軍側は何を望んでいたかです。家康の政治からの排除です。できれば、何人かは徳川家を滅亡させたかったでしょうが、秀吉ですら出来なかったそれは、無理です。ということで、東軍側の多くが秀吉恩顧の大名であることを考えれば、減封、転封等はありますが、完全な徳川寄り、徳川家臣以外の切腹は考えずらいところです。

以上の前提で、その後の情勢を考えると、毛利と上杉と宇喜多そして三成を中心とした豊臣官僚大名との合議という名のもとの権力闘争という図式になりますが、圧倒的な軍事力と政治力がないところから、案外、安定的な長期政権が続き、その政権の特徴から鎖国はしないでしょうから、産業革命もいち早く吸収し、イギリスのインド進出のころには、日本もインドシナ、インドネシア、フィリピン等は経済的勢力圏にしているでしょう。朝鮮半島はおそらく実行支配していると思います。必然的に、ヨーロッパ勢力との経済的な衝突が中国をめぐって行われますが、これは圧倒的に地理的な条件で、豊臣政権の勝ちです。よって、現実の歴史の明治維新の頃には東アジア共同体が完成していることになり、20世紀にはヨーロッパ、アメリカ大陸にも経済的な影響をおよぼす世界帝国になっているでしょう^^;

歴史にもしもはありません。
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まず、東西両軍の配置が間違っています



徳川家康 ○ 255.0 西軍 毛利輝元 120.5

前田利長 83.0    上杉景勝 120.0
伊達政宗 58.0    島津義久 73.0
加藤清正 24.5    宇喜多秀家 ○ 57.4
福島正則 ○ 20.0   佐竹義宣 56.0
細川忠興 ○ 18.0   石田三成 ○ 19.4
浅野幸長 ○ 16.0   小西行長 ○ 20.0
池田輝政 ○ 15.2   増田長盛 20.0
黒田長政 ○ 18.0   小川祐忠 ● 7.0
加藤嘉明 ○ 10.0   大谷吉継 ○ 5.0
田中吉政 ○ 10.0   
藤堂高虎 ○ 8.0   安国寺恵瓊 ○ 6.0
最上義光 24.0   
山内一豊 ○ 6.9   織田秀信 13.5
蜂須賀至鎮 17.7   長宗我部盛親 ○ 22.0
本多忠勝 ○ 10.0   朽木元綱 ● 1.0
寺沢広高 ○ 8.0   赤座直保 ● 2.0
生駒一正 ○ 15.0   
井伊直政 ○ 12.0   長束正家 5.0
松平忠吉 ○ 10.0   毛利秀元 ○ 20.0
筒井定次 ○ 20.0   戸田勝成 ○ 1.0
京極高知 ○ 10.0   真田昌幸 3.8
脇坂安治 ● 3.3
吉川広家 ● 14.2
小早川秀秋● 35.7

脇坂・小早川は東軍的立場で行動をしています。特に小早川は一ヶ月前から東軍的行動をし、一週間前から石田とは連絡を取っていません。前日には松尾山の西軍を追い出し西軍側を向いて布陣しています。
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 すみません、回答になっていませんが、私では西軍勝利後の天下の仕


置きをする自信がありません。
 でも、とてもおもしろいテーマなので、ほかの方の回答に期待してし
まいます。おもしろい題材を提案してくださってありがとうございます。

 とりあえず、私が悩んでしまう理由ですが、徳川秀忠率いる本隊が手
つかずですし、もう一戦あると思うからです。さらに、関東に籠もった
徳川勢ともう一戦……、かなり長期間の内戦になる可能性もあると思い
ます。

 そして、多大な損害を出しながら、なんとか徳川勢を倒したあとは、
上杉と毛利による政権の主導権争いになるでしょう。徳川は倒したもの
の、また大規模な内戦が勃発するかもしれません。
 いずれにしろ、難しい政権運営になることは必至。
 そう考えると、なかなかいいアイデアが浮かばないのです。
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Q関ヶ原の戦いでもし(IF)小早川秀秋が裏切らなかったらどうなってた

関ヶ原の戦いでもし(IF)小早川秀秋が裏切らなかったらどうなってた

小早川秀秋がもし東軍(家康側)に寝返らなかったら関ヶ原の戦いは西軍(石田三成側)の勝利となっていたのでしょうか。
小早川秀秋は家康から寝がいりを要求する手紙をもらっていたらしいのですが。
もし寝が入り、の決断をできなかった、もしくは家臣に反対されて西軍を裏切らす東軍と戦ってた場合

関ヶ原の戦いの結果はどうなっていたのでしょうか
あと裏切りという作戦を家康が立てていたのですが
裏切ってくれなかったとしたときのために
家康は何か策でも立てていたのでしょうか

皆様の考えをどうかよろしくお願いします。

Aベストアンサー

 関ヶ原の戦いのポイントは、戦いの前に岐阜城が落とされたことにあります。ここで西軍の主力の一つの織田が全滅しました。そのとき西軍主力の宇喜多は、伊勢にいました。石田は、岐阜城の重要性に気がつかないで織田を見殺しにしています。その間、戦略をたてに大垣と佐和山を行ったり来たりしています。
 そうして濃尾平野の重要部分を徳川方に押さえられて
関ヶ原を迎えます。
 もひとつは、島津義弘の軍が、正規の部隊でないことだと思います。島津軍が、1万人くらいの戦力で司令官になって作戦指揮していたら家康も無謀な関ヶ原の野戦にでることはなかったでしょう。義弘の朝鮮の役の活躍や関ヶ原以後の対島津の扱いから見ても誰もが納得できるでしょう。
 後一つは、立花宗茂がいたらです。小早川を大津に残し立花を関ヶ原につれてきていたら、宇喜多と立花、島津と並んでいたら、西軍の勝ちになるでしょう。
 といっても、石田は、小早川に(関白)を約束していたので決戦場にいないわけにはいきませんね。結局これも実現の可能性はゼロです。
 ただ、一つ重要な点は、徳川軍本体は強かったかと言うことです。秀吉に対抗した当時までは、徳川は最強でした。でも、関ヶ原前の20年くらいは大きな戦争もなく人数はともかく経験不足でとても精強とは言えない武士団でした。もし、徳川本体が戦って強くないことがばれたら本当に大変なことになるところです。
 いろいろな書籍を読んでみてもホントにうまく進めた物です。家康という人物の戦略眼と組織作りは見事です。最終勝利者というのでしょうね。参考になります。

 関ヶ原の戦いのポイントは、戦いの前に岐阜城が落とされたことにあります。ここで西軍の主力の一つの織田が全滅しました。そのとき西軍主力の宇喜多は、伊勢にいました。石田は、岐阜城の重要性に気がつかないで織田を見殺しにしています。その間、戦略をたてに大垣と佐和山を行ったり来たりしています。
 そうして濃尾平野の重要部分を徳川方に押さえられて
関ヶ原を迎えます。
 もひとつは、島津義弘の軍が、正規の部隊でないことだと思います。島津軍が、1万人くらいの戦力で司令官になって作戦指揮し...続きを読む

Q加藤清正と福島正則はのちに石田三成に着いたほうが良かったと思ったのか?

石田三成は民にはやさしい男であったが、頭が切れて気真面目すぎるために、加藤清正と福島正則のやり方と相容れることはできず仲は悪かった。
関ヶ原の戦いのとき、清正と正則は三成を気に入っていなかったので、豊臣政権の未来を徳川家康に託して東軍に着いた。しかしそれは家康の勢力拡張政策に貢献することになってしまい、家康は天下を手に入れるために豊臣家を滅ぼしてしまった。清正と正則はあとで関ヶ原の戦いのときに、気に入らないが三成に味方したほうがよかったと思ったのだろうか。

こんな疑問が浮かんだのは理由があります。
今まで清正と正則は家康の勢力拡張政策に貢献するかたちを取ってしまったので、こいつらは馬鹿だと思っていた。三成が頭が切れて気真面目すぎてうまがあわないといっても、冷静に考えたら三成のほうが秀頼を大切にする可能性が高いので、なぜわからないのだろうと思っていた。
しかし僕の目の前に石田三成に近い人間が現れたとき、最初は良かったのですが、最終的に
「この人のやり方が合理的に合っていても、僕のやり方を無視しているものなので、心情的にこの人に賛成できない」
と強く思うことになったのです。僕の今の心情から思うと、清正と正則も似たような心情になり、三成が死んで家康が勢力が増大しても、「三成に味方したほうがよかった」なんて思っていないと考えています。清正と正則もどうしようもなかったのかなあと思うようになりました。

●みなさんは清正と正則は三成に味方したほうがよかったと思ったと思いますか。

石田三成は民にはやさしい男であったが、頭が切れて気真面目すぎるために、加藤清正と福島正則のやり方と相容れることはできず仲は悪かった。
関ヶ原の戦いのとき、清正と正則は三成を気に入っていなかったので、豊臣政権の未来を徳川家康に託して東軍に着いた。しかしそれは家康の勢力拡張政策に貢献することになってしまい、家康は天下を手に入れるために豊臣家を滅ぼしてしまった。清正と正則はあとで関ヶ原の戦いのときに、気に入らないが三成に味方したほうがよかったと思ったのだろうか。

こんな疑問が...続きを読む

Aベストアンサー

>清正と正則は三成に味方したほうがよかったと思ったと思いますか。

思わないでしょう。
加藤清正や福島正則は、他の回答にあるように尾張時代からの秀吉の子飼いの武将であるとともに戦国の世を生き抜いた武闘派の武将です。
これに対して石田三成は秀吉の近江時代からの部下であり、有能な官僚タイプの人です。

群雄割拠の戦国期を生き抜いた武将たちにとっては、例え敵味方に別れて過去に戦った相手だったとしても共に同じ部類の仲間としての意識があるようです。
そういう意味では、徳川家康に対しては同じ武将として自分たちと同類の仲間という意識であり、さらに『東海一の弓取り』といわれるように尊敬する大先輩といえる存在だといえます。

これに対し官僚である石田三成に関しては全く共感できない存在であり、『偉そうにしているイヤな奴』という認識でしかなかったようです。

豊臣恩顧といっても、加藤清正や福島正則にとっては秀吉と北の政所への忠誠心が主であるのに対し、石田三成にとっては淀の方や秀頼などを含んだ豊臣家に対する忠誠心だったようであり、各々の感覚が異なると思います。

加藤清正や福島正則は戦国期を生き抜いてきた武将として、力のある武将(徳川家康)が天下を取ることになっても致し方ないという感覚があったと思われますが、石田三成はあくまでも天下は豊臣家のものだという考えのようですからこういう基本的な考え方が違うと思われます。

>清正と正則は三成に味方したほうがよかったと思ったと思いますか。

思わないでしょう。
加藤清正や福島正則は、他の回答にあるように尾張時代からの秀吉の子飼いの武将であるとともに戦国の世を生き抜いた武闘派の武将です。
これに対して石田三成は秀吉の近江時代からの部下であり、有能な官僚タイプの人です。

群雄割拠の戦国期を生き抜いた武将たちにとっては、例え敵味方に別れて過去に戦った相手だったとしても共に同じ部類の仲間としての意識があるようです。
そういう意味では、徳川家康に対し...続きを読む

Q大阪の陣のとき、豊臣方は負けずにすんだのでは?

大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?

大阪城の守りは非常に固く、徳川方は大阪城の一番外型の堀の石垣に触れることさえできず、
真田丸では多くの戦死者を出し、戦いの最初のころは豊臣方が優勢だったと聞きます。

兵力としても徳川方20万だったのに対して、豊臣方は10万で、絶望的な差ではありません。

そこで活躍したのが、大砲だったと聞きます。
昼夜を問わず、4キロから6キロ先まで届く大砲を打ち、指揮官である淀の方を精神的に
追い詰め、和睦に持ち込んだと聞きます。
大砲はめったに当たることがなかったものの、運悪く居間に落ちたものが次女数人をバラバラにして、淀の方を恐怖させたとか、柱が折れたとか。

しかし、大砲が何発撃たれようが無限ではないのだし、滅多にあたらないため大阪城の防御力を下げたり、落城させたりするような威力まではなかったと思うので、私としては、最後まで戦っていれば豊臣方が勝っていたのではないかと思うのです。。
(運悪く、淀の方のいるところに弾が落ちて、命を落とす可能性もありますが、その確率は低いと思います。精神力の戦いだったと思います)

jこの考え方について、どうでしょうか?
ご意見等、お願いします。

大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?

大阪城の守りは非常に固く、徳川方は大阪城の一番外型の堀の石垣に触れることさえできず、
真田丸では多くの戦死者を出し、戦いの最初のころは豊臣方が優勢だったと聞きます。

兵力としても徳川方20万だったのに対して、豊臣方は10万で、絶望的な差ではありません。

そこで活躍したのが、大砲だったと聞きます。
昼夜を問わず、4キロから6キロ先まで届く大砲を打ち、指揮官であ...続きを読む

Aベストアンサー

>大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?

回答・・・難しいと思います。
特に兵糧攻めにあったらもたないかと。
毛利元就による尼子の月山富田城攻めのように、2年近くの兵糧攻めにあい敗北した戦例もあります。
大阪城もそうなる可能性があるかと。
それに長期間、兵の士気を維持できるかの問題もあります。
期待されていた豊臣恩顧の大名の多くは徳川方につき、味方は劣勢。その上、大砲を一方的に打ち込まれていては…
そもそも徳川方は真田丸での敗北後に神経戦を仕掛けるようにしています。
夜に鬨の声を上げたり、鉄砲をうちかけ大阪方を眠らせないようにし、さらに大砲での攻撃です。
兵の士気をどうやって維持するのか…

一方、徳川方は兵糧不足に悩まされた事もあるようですが、これは一時的な混乱という説もあります。京を遠く離れた遠方ならともかく大阪近辺は堺など港も多く商業地帯としても発展していましたから、兵糧の確保も一旦、道筋をつければそう難しくないかと思います。

ただし、豊臣方が籠城で持ち堪えるのは難しくても、作戦によっては勝てたのではないかと思います。

そもそも「夏の陣」でさえ、真田幸村と毛利勝永らの活躍により徳川方は叩かれ、家康本陣は崩れ、三方が原の敗戦以来、初めて馬印が倒され、家康も敗北を覚悟し切腹をしようとしたという話があるくらいです。
もし豊臣秀頼が出陣し全ての予備兵力を戦線に注ぎ込んでいたら…
もし明石全登の別働隊の作戦が成功していたら…
豊臣方は家康の首をとり状況は大きく変化し勝利する事ができたかもしれません。

そういう事を勘案すると、もし「冬の陣」においても、籠城するばかりでなく機を見て南の家康本陣に対し攻撃に出ていたらどうなったか…
徳川方は大阪城の四方を囲みました。
浅野、蜂須賀、鍋島、上杉、佐竹等は東、西、北に配置されており、南に徳川方の全軍がいたわけではありません。
確かに南の家康本陣は厚いです。前衛には前田、伊達、藤堂らもいました。
しかし、兵力の減った「夏の陣」でさえ正面攻撃で家康を追い詰めたのです。
ならば「夏の陣」より兵力の多い「冬の陣」において乾坤一擲の突撃を茶臼山の家康本陣に向け行えば、あるいは家康の首をとれたかもしれません。
ちなみに真田幸村は12月20日に家康本陣への奇襲を進言しましたが採用されませんでした。

「冬の陣」では籠城策よりも、籠城策からの野戦への転換ならば豊臣方にも勝利の希望はかなりあったのではないかと思っています。

>大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?

回答・・・難しいと思います。
特に兵糧攻めにあったらもたないかと。
毛利元就による尼子の月山富田城攻めのように、2年近くの兵糧攻めにあい敗北した戦例もあります。
大阪城もそうなる可能性があるかと。
それに長期間、兵の士気を維持できるかの問題もあります。
期待されていた豊臣恩顧の大名の多くは徳川方につき、味方は劣勢。その上、大砲を一方的に打ち込まれていては…
...続きを読む

Q前田利家が後15年生きていたら?

NHKドラマで利家が諸大名より大きな人望があるように描かれていますが、秀吉末期の家康との位置づけはどうだったのでしょうか?又、仮に後15年前田利家が生きていたら、関が原、夏の陣など世の中が  どう変わっていたと思いますか?ご意見をお聞かせください。

Aベストアンサー

 私も皆さんの意見に賛同しますが、ひとつ提案させていただきたいと思います。
 回答ではありませんが、この論議の中には、前田利家=豊臣擁護派、徳川家康=反豊臣派とすることが前提条件となっているような気がします。
 そもそもその前提条件を疑って係ることもお勧めします。
 前田利家が自分の行動の中でことさらに「律儀」を強調しはじめたのは、「余呉湖の敵前逃亡=裏切り」以後であること。徳川家康は、秀吉存命時までは、「律儀」をその「売り」としていたことを考えてみてはどうでしょう。
 前田利家が擁護派とならざるを得なかったのは、領地力差が大きく開いていたからと考えることもできます。
 もしも、家康と利家の領地をひっくり返していたら、利家は豊臣を擁護したのか、などなど。
 当時としては、力を失った主家に取って代わるのはあたりまえの考え方があり、私としては、もしも、家康より長生きしたとしても、徳川との実力差から保身に走ったと思います。また、擁護派を貫き、徳川を滅亡に追いやったとしたら、最大の実力者として豊臣の滅亡か無力化に奔走するということとなったと考えます。

 私も皆さんの意見に賛同しますが、ひとつ提案させていただきたいと思います。
 回答ではありませんが、この論議の中には、前田利家=豊臣擁護派、徳川家康=反豊臣派とすることが前提条件となっているような気がします。
 そもそもその前提条件を疑って係ることもお勧めします。
 前田利家が自分の行動の中でことさらに「律儀」を強調しはじめたのは、「余呉湖の敵前逃亡=裏切り」以後であること。徳川家康は、秀吉存命時までは、「律儀」をその「売り」としていたことを考えてみてはどうでしょう。
 ...続きを読む

Q武田信玄があと5年生きていたら歴史はどうなっていたでしょうか。

武田信玄があと5年生きていたら歴史はどうなっていたでしょうか。
徳川家康は三方原の戦いでなくなっていたのではないでしょうか。
信玄が天下統一をできたとは思えませんが、戦で信長には負けなかったと思っています。皆さんどう思われますか?

Aベストアンサー

歴史は変わっていたと思います。
1572年10月、武田軍上洛開始。
1572年12月、三方が原の戦いで、武田軍が徳川軍に勝利。
1573年2月、足利義昭は信長に対し挙兵。
1573年4月、3年間死を公にするな、との遺言を残し武田信玄死亡。

この時、足利義昭は二条御所の周囲に堀をめぐらし城構えの上、持久戦に入っている。
義昭とすれば、信玄が上洛するまでの間、守りぬくだけでよかった。
そのため、信長の講和の申し入れも受け入れなかった。
信玄死亡の報が義昭に届いていれば、義昭は講和を受け入れていたと思います。
1573年4月、義昭が信長に降伏。
1573年7月、信長が義昭を追放。室町幕府滅亡。
まして、信玄がこの時重病(死亡)に陥り、武田軍が引き返すことがなければ、信長は一旦戻った岐阜城から再度上京し義昭と対峙することなく、武田軍と戦うことになる。
そうなれば信長は逆に篭城し、兵農分離されていない武田軍が一旦兵を引くのを待つか、あるいは打って出、武田軍、義昭をはじめとする信長包囲網の挟み撃ちにあい敗れる、または和平交渉した可能性が高い。

信玄があと5年生きていれば、
(1):徳川家が史実のような形で存続できた可能性は低い。
(2):武田家の世代交代も違う形になっている。
(3):1582年3月織田・徳川・北条連合軍の侵攻により、武田家は滅亡したが、(1)(2)であれば、違う形になっている。
(4):(3)の武田家の滅亡がなければ、1582年6月本能寺の変もない。

歴史は変わっていたと思います。
1572年10月、武田軍上洛開始。
1572年12月、三方が原の戦いで、武田軍が徳川軍に勝利。
1573年2月、足利義昭は信長に対し挙兵。
1573年4月、3年間死を公にするな、との遺言を残し武田信玄死亡。

この時、足利義昭は二条御所の周囲に堀をめぐらし城構えの上、持久戦に入っている。
義昭とすれば、信玄が上洛するまでの間、守りぬくだけでよかった。
そのため、信長の講和の申し入れも受け入れなかった。
信玄死亡の報が義昭に届いていれば、義昭は講和を受け入れていたと...続きを読む

Q北条氏はどうして秀吉に最後まで逆らいましたか?

秀吉の天下統一は北条攻めにより完成しました。
北条氏はどうして最後まで秀吉政権に屈しようとしなかったのでしょうか?
周囲が次々と秀吉側に組してゆくわけですから、とても危険な状況ではなかったのでしょうか。

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

北条氏の問題は、成長している最中であったこと。しかも、数年で急激に成長したのではなく、時間をかけて成長したこと。ここが、他の大代妙と違う点です。
戦国大名はおしなべて、実は家臣団の連合体という側面が実は強い。大名のトップが、「負けました」と宣言したら、家臣団に殺されます。

豊臣家に頭を下げたのは
徳川家:1582年以降に駿河・甲斐・信濃など急激に膨張
長宗我部:1585年に四国平定、そして四国征伐が同年
島津家:1584年の沖田畷の戦いで、九州のNo1へそして九州平定へ
伊達家:1589年、摺上原の戦いで、芦名氏を滅亡させ、奥州No1に
上杉家:1582年、信長に潰されるカウントダウン状態
毛利家:1582年、信長に潰されるカウントダウン状態

など、信長に潰される直前で、家臣団として「潰されるより、頭を下げましょう」という合意がなされやすい状況であったケースと、直前に領土を拡大させ、まだまだ、本領としてしっかり統治できていなかった(捨てても、まぁ いいやと諦められる)領土の大きかった大名家です。家臣団も、しょうがないやと思える。

ところが、北条家は、五代にわたってじわりじわりと領土を拡大し、五代目氏直の段階で、史上最大の領土を確保したところでした。
※ 氏政・氏直の無能論というのがありますが、領土を拡大させたという意味では有能であったといえます。
ただ、100年かけて獲得した領土なので、家臣団はギブアップ宣言ができない、しかも、毛利家における宇喜多家のように、新参の半分同盟国のような扱いの家臣団でなく、重代の家臣団であり、結束が強いがために、氏政・氏直としても、簡単にギブアップできなかった。
ということではないかと

北条氏の問題は、成長している最中であったこと。しかも、数年で急激に成長したのではなく、時間をかけて成長したこと。ここが、他の大代妙と違う点です。
戦国大名はおしなべて、実は家臣団の連合体という側面が実は強い。大名のトップが、「負けました」と宣言したら、家臣団に殺されます。

豊臣家に頭を下げたのは
徳川家:1582年以降に駿河・甲斐・信濃など急激に膨張
長宗我部:1585年に四国平定、そして四国征伐が同年
島津家:1584年の沖田畷の戦いで、九州のNo1へそして九州平定へ
伊達家:1589年...続きを読む

Q織田信長が本能寺の変で死ななかったらどうなっていたでしょうか??

織田信長が本能寺の変で死ななかったらどうなっていたでしょうか??
個人的には信長が天下統一をして、他の国を侵略していたんじゃないかと思います。
(すぐに病死したなどはやめて下さい)実際塩分を取りすぎて健康ではなかったようですが・・・

Aベストアンサー

 織田信長の経済感覚や「天下布武」と言うスローガンから見て、もしあと20年、信長が生きていたら相当違った世界があったでしょう。

 信長の過去の方針や、商業振興による富の蓄積・天下平定による武士の余剰(秀吉の朝鮮出兵や徳川家による大坂の役・大名の取り潰しなどはその影響という説も。)からみて、フィリピン・東南アジアへの進出はかなり大規模であったと考えられますが、他国への侵略という面の支配ではなく、当時のヨーロッパ諸国がやっていたような植民都市建設=貿易拠点整備という形で、既に出来上がりつつあった東南アジアの日本人町をネットワーク化していったのではないかと思います。(経済感覚が並外れた政治家である信長ですから。)


 信長の行動から見る限り、天下布武とは、武士だけに当てはまるのではなく、常にその分野で革新的・積極的(=戦闘的)であり続けることを意味しているように思います。

 宗教であれば、より哲学的で民衆救済に努力し続けるものを良しとする。
 商人であれば、より安く安定した物資供給を目指す者を良しとする。
 農民であれば、開墾・治水に努力し、より多くの収穫を目ざす者を良しとする。

 つまり、今の自由主義のような、貿易・経済活動を目指していたと思われます。

 また戦争がなくなっても、織田軍団は得意の土木工事(豊臣政権に引き継がれます。)をする公共・インフラ整備部隊として(ローマ帝国の軍団がそうでした。戦いのないときは、都市建設・道路・水道・港湾整備などの公共工事をやっていました。)全国展開・海外進出したと思われます。

 更に一つの夢物語ですが、アメリカ西海岸への植民が行なわれたかもしれません。1620年、イギリスからアメリカへメイーフラワー号に乗っていった移民が、今日のアメリカ合衆国の基礎となる移民の始まりとされています。

 信長が本能寺で死ななければ、1585~90年ごろには、日本全土の統一は十分可能ですから、1595年頃からアメリカに移民が始まり、1650年ごろには、アメリカ西海岸に広大な日本の植民地が出来上がっていたかもしれません。(日本からアメリカは、ヨーロッパから行くより大分遠いのが難点ですが・・・)
 新大陸に、アジア系仏教国が出来ていれば、世界史における白人・アジア人種の立場が逆転した世界になっていくはずです。

 織田信長の経済感覚や「天下布武」と言うスローガンから見て、もしあと20年、信長が生きていたら相当違った世界があったでしょう。

 信長の過去の方針や、商業振興による富の蓄積・天下平定による武士の余剰(秀吉の朝鮮出兵や徳川家による大坂の役・大名の取り潰しなどはその影響という説も。)からみて、フィリピン・東南アジアへの進出はかなり大規模であったと考えられますが、他国への侵略という面の支配ではなく、当時のヨーロッパ諸国がやっていたような植民都市建設=貿易拠点整備という形で、既に...続きを読む

Q江戸時代、藩がどう分布していたかがわかりやすい日本地図を探しています。

たとえば、
今の山口県のあたりには長州藩があり、藩主は毛利家
ということが見てわかりやすい日本地図を探しています。
そのような地図がおいてあるサイトをご存知の方はいらっしゃいますか?

Aベストアンサー

江戸時代初期は大名の取り潰しが多かったので、いつの時代が必要なのか難しいですが、一応300藩と言うことで参考URLをご覧ください。
地方ごとに分かれています。

参考URL:http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/hantop.html

Q直江兼続は恩のある豊臣家を何故滅ぼしたのですか?

関ヶ原の戦いが終わり敗者となった上杉。
その後家康に恭順し恩のある豊臣家を攻撃します。

どうして義の軍団の上杉が豊臣を攻撃したのでしょうか?

Aベストアンサー

そうそう忘れていました。

徳川家康が征夷大将軍になって、幕府開いたのは1603年です。
上杉が米沢に押し込められたのは、1601年です。
関が原以降、徳川家康が大きな権力を握っていたのは確かですが、それは、豊臣政権の五大老筆頭としてです。秀頼の未成年後見人としてです。関が原直後、大阪城に入った家康ですが、すぐに、大阪城を秀頼に明け渡し、自分は伏見城に移っています。
ですから、上杉を故郷の越後を追いだし、米沢に押し込めたのは、家康が大きな力を持っていたとはいえ、豊臣政権です。

家康を五大老の筆頭にしたのは、秀吉ですが、上杉に会津120万石を与え、関東東北の要としたのも、秀吉です。豊臣家が、秀吉の政策を継続するなら、秀頼が「上杉の会津(佐渡、出羽)120万石はそのまま」っていえばよかったんです。
天地人でのせりふの「上杉を潰すな」くらいじゃ、全然だめです。

会社の東北支店長だったのに、解任されて、米沢出張所に飛ばされ、一生出世なしって待遇されたら、恨みますよね。首にしなかったから、恩を感じろなんて、めちゃくちゃじゃないですか?

上杉は、京都との交易による関銭が大きな収入源です。アメリカと貿易して関税でもうけるみたいなものです。北の関が原で、出羽に出兵したのは、直江津港に代わる、もらったばっかりの庄内の港を最上から守りたかったからです。

上杉が越後から出たのは、直江津港(当時は今浜)の代わりに佐渡の港と、庄内の港をもらえるからでした。それを、反故にされし、港の無い米沢に押し込められちゃったんですよ。豊臣家を恨みませんか?

そうそう忘れていました。

徳川家康が征夷大将軍になって、幕府開いたのは1603年です。
上杉が米沢に押し込められたのは、1601年です。
関が原以降、徳川家康が大きな権力を握っていたのは確かですが、それは、豊臣政権の五大老筆頭としてです。秀頼の未成年後見人としてです。関が原直後、大阪城に入った家康ですが、すぐに、大阪城を秀頼に明け渡し、自分は伏見城に移っています。
ですから、上杉を故郷の越後を追いだし、米沢に押し込めたのは、家康が大きな力を持っていたとはいえ、豊臣政権です。

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Q関ヶ原の戦いで前田家が東軍に味方した理由は?

題名の通りです。
歴史の勉強をしていて詰まってしまいました。ネットで探しても本で探しても全然見つからないのですが、私の見落としかもしれませんので、もし参考になるHPや本などありましたら教えてください。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

先の回答者さんがおっしゃるように、徳川家康から向けられた謀反の疑いを、母を人質に出して回避した前田家でしたが、関ヶ原の戦いで東軍に味方したのは利長で、弟の利政は西軍にくみしてします。
(ただし、利政は西軍を表明しながらも、七尾城を出て合戦に参加することはありませんでしたが)

また、西軍には、娘婿の宇喜多秀家が主力の1人として参戦しています。
つまり、「どっちが勝っても良いように保険をかけていた」のだという事だと思います。

東軍が勝ったので、利政は領地を没収され隠居生活を送りますが、その没収された領地は、利長にいきますから、前田家全体としてはプラマイ0です。
もちろん、この後、兄が京都で暮らす弟を援助し続けています。

また、西軍として参加して八丈島に流された宇喜多秀家には、実家の前田家に戻った奥さんを通じて援助の品を送り続けてもいます。

なので、逆に西軍が勝っていたら、宇喜多秀家と利政が、負けた利長を援助する手はずになってたと想像しています。


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