激凹みから立ち直る方法

辞書を引くと、《より先なるものから、の意》中世スコラ哲学では、因果系列の原因あるいは原理から始める認識方法をいい、カント以後の近代認識論では、経験に依存せず、それに先立っていることをさす。

とありますが、日常生活などを例題にしてわかりやすく教えて頂ける方はいらっしゃらないでしょうか・・・

よろしくお願いします。

A 回答 (3件)

a priori


長文です。
まずは「柔軟体操」から

最近のテーマで、「日本経済新聞的アプリオリ性」としては…

「某チャンネルとトゥイッターの決定的違いは何か」と言う命題に関し、

以下のアプリオリな結論があります。

「某チャンネルは、悪」に対して「トゥイッターは善」

それに対して、某チャンネルとトゥイッターの決定的違いは、何かということを哲学的に検討することも出来ます。

「ジャーナリズムと哲学の違いは?」と言い換えることも出来るでしょう。

I)言葉としての「先験」
アプリオリは、「先験的」と訳しなおすと直感的に把握できます。
「的」という語尾が着いていることからもわかるようにオブジェクトを修辞します。
オブジェクトは、「対象」ですから、その意味で、出来上がった「もの」のもつ過去性というものがあります。

(言い換えれば、「テーマ」/「思考プロセス」/「結論」の間に「ある種の関係性」が存在すると言うことです。)

「アプリオリ性を述べる」と言うことは、ある種の戒めです。中立の立場をとりたいとき考慮すべき具体的内容といってもよいでしょう。
経験以前に与えられている傾向性の「ほのめかし」=但し書きです。

アプリオリを哲学的に最初に詳細にわたって論述したのは、アリストテレスです。

あまり詳述してもしょうがないので大きく4つあるとだけ説明しておきます。

論理学的アプリオリに3つ
アリストテレスの「アプリオリ」
デカルトの「アプリオリ」
カントの「アプリオリ」

その他、解釈学的=歴史的アプリオリで4つ目

特に4番目の歴史的アプリオリは、用途が幅広く、その意味も文脈で変わってきますのでご注意ください。

II)具体例
わかりやすいように内容について大雑把に説明します。

企業であれば、「営利を目的とし活動する」ということは、アプリオリでしょう。

他の例
煽動的論述(アジテーション)の「アプリオリ性」

1とにかく自分が正しい 
1とにかく自分以外の人間は間違っている 
1とにかく自分こそが、愚民である聴衆を「善」に導いているのである 
という論述「前」の結論です。

被選挙人の「選挙運動」にも勿論「アプリオリな前提」というものがありますよね。

広告・PRもそうです。

アジテーターという言葉と老害ということで…
以下の寸劇を「例」としてこのテーマを論じますと…

隣人:
あのすみません今日は、「燃えないごみの日」ではないのですが…

老害のおじいさん:
なぜ、たにんのまちがいをイチイチしてきするのかのう!根拠がない。理由を述べなさい。

隣人:
貴方が間違っているからですが?

老害のおじいさん:
他人の間違いを指摘したい「指摘マン」は、犯罪者である。
だから何がいいたいのかはっきりしなさい。

隣人:
だから、燃えないごみの日は、今日じゃありません。

老害のおじいさん:
「民主主義の原理」から、おととい向かいの通りを通っている通行人に「燃えないごみの日」についてオウカガイをタて、同意を得た!今日はごみの日のはずである。わしは、民主主義。わかったか!

隣人:
もちろん、今日は、ゴミの日ですよ。でも「燃えないごみの日」ではありません。貴方が住んでいるのはこのアパートでしょう?通行人は関係ないと思いますが…(いつも「指摘マンの老害老人が、『指摘マンは犯罪者』ですって…馬鹿じゃない!と心に思っても口に出さない普通の人)

老害のおじいさん:
私が正しいとだけ云っておこう。わたしは、間違っていないとゆわざるを得ない。

隣人:
なによそれ。反論できないからって、「ブス」っとするのは[気]の毒ですよ!とにかくゴミを持ち帰ってください。悪いのは認知の頭ダケにしてネ!

老害のおじいさん:
もうたくさんだ。勝手にやっていなさい。(といって立ち去る)

10分後… 「おじじ」が、ゴキブリのように「誰も見ていない」のを確認してからゴミを持ち帰ったことは、いうまでもない。

この寸劇での「アプリオリな側面」は、このおじいさんが、自分からは、「何が正しいのか」わかろうとは、しないということ。ここでは「こりかたまった態度」です。よくあることですよ。

また、
自称キリスト教者のアプリオリ性は、

キリスト=過去の神

聖典=「聖書」、及び「わしの問答集」

天使=アウグスティヌス

わし=預言者(今の世の「あらひと神」)

唯一絶対の神=わしのかみ(わしのなかにある「ナゾの神」)

真のキリスト教者が、この主張を見れば、当然怒ります。聖書聖典・アウグスティヌス果ては、「キリスト」自体を利用するだけ利用し、感謝の心もなく、自慢ヴァかりしている…

この老人はキリスト者を「騙(かた)って」いるわけですから…

いずれにしてもキリスト教信者を名乗るのなら「十戒」ぐらいは、最低守るべきです。むやみに神について騙るべきではないのです。
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この回答へのお礼

非常にわかりやすい比ゆ的な表現ですね。
理解できました。
ありがとう!

お礼日時:2009/10/23 21:27

そのむかし、哲学の勉強をしたてのころ、つい「日常的に」「アプリオリ」という言葉を使っていました。


いま、どういうふうな場面でどう使っていたか、どうも思い出せないのですが――たしか、

たとえば、そこに椅子があるとします。椅子を「認識」することは「可能」かどうかと「まじめ」に、あるいは「科学的」に考えている場面で、いろいろ難しい議論をいう「まえに」(ここが肝心)、疲れてているときなんか、何にも「考えずに」さっと「座る」だけですよ、その形状がどうのこうの言うより「まえ」に「椅子(とも考えず)に座ってしまう」、それでしまいです。
ここでたとえば「椅子」という言葉の意味を吟味するり「座る」ことが
「アプリオリ」だからとかなんとか「使って」いたような記憶があります。
何かAという判断より先行する判断Bをもちだす、そのタイミングがわるいと、とんちんかんになります。
この言葉をうまく使えると、ちょっと「得意」なものだったのです。
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この回答へのお礼

ありがとう!

お礼日時:2009/10/23 21:28

人は生まれながらにして善人として生まれる、といういわゆる性善説がありますが、「ア・プリオリ」に善悪を見分けることが人間に出来るかどうかということが議論としてあったように思います。


また、物理学において、作用と反作用は常に同じ大きさであるということを人間は「ア・プリオリ」に認識する、ということが出来る。
そんな場合に使う言葉ではないでしょうか。
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この回答へのお礼

なるほど~ わかりやすい解説ありがとうございます。

お礼日時:2009/10/15 11:48

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