これからの季節に親子でハイキング! >>

タイトル通り、戦国屈指の大名の2人を評価し、優劣をつけようと思います。 僕は信長のほうが凄いと思います。 信玄のほうが凄いと思う人は根拠を述べて論破してください。また信長を評価する人はフォローをお願いします。 ちなみに判断基準は軍事(戦闘指揮、戦略)政治業績 外交などの総合力で決めよう思います。 信憑性の無い話や根拠ののない話はやめてくださいね。 

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A 回答 (16件中1~10件)

いつの信玄、信長で比べるかで、全然違うと思います。

両者最盛期なら、国力、兵力で信長です。同時期なら、信玄が年上で、国力、兵力でも信玄が上だと思います。・・・同時期、同じ兵力で戦えば、信玄が強いのは、常識です。
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どちらも強いと思いますが私は信長派ですね


第一に、信長は無敵と呼ばれた武だの騎馬隊を破っています。ここからしても信長が上ではないかと


まず信玄は古い戦法に囚われていた。これに対し信長は鉄砲を使った新しい戦法を考え出すなど新しいもの好きであった。時代の流れにも、従っていくことができたわけです。
それにバテレンや切支丹を保護するなど外交にも優れていた。
ですが残念なのは二人とも天下統一目前にして、信玄は病死、信長は自害していることです。
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というか、武田信玄最強は捏造です。



信濃、甲斐、駿河の実質3か国支配だし、三方原でも家康に勝ったとはいえ、兵力ありすぎだし、浜松、吉田、岡崎といった家康の中核の城を落としていない。

また、今川侵攻可能になったのは、信長が義元を討ち取ったからです。
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確かに(^-^;)


500416さんは信憑性の高い昔の書物をお勧めします。
様々な専門家の方が言うのは自分達で調べた結果論じているので、言ってしまえば
『もしかしたら』
というお答が多いです。
なので様々な書き残した書物を見比べて自分なりに考えてみては?

自分の意見では、どちらかと言われれば信長かなと。
特に引き出すと、

●小さな尾張からの小さな信長軍の組織(身内に反信長の方が多かった)で、有能な家臣を見つけてはそれらをよく使い、領地を信長の代だけで一気に広めた。
●小さな盗みでもこれを厳しく斬り、夜道に女一人で旅ができる安全地区にし、民衆が住みよい町につくりあげた。
●キリスト教を許可した後、宣教師達の日本侵略のもくろみに危機を察し宣教師達に自分の土派手なアイデアを見せびらせた。(『日本が大砲を乗せた鉄甲船を造り上げたとは大変驚いた』byフロイス)

武田信玄と織田信長の目指したかった方向は似ていると思うんですが、外交を相手にできるのは信長だと思います。
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500416の馬鹿さ加減にはあきれ返るな。



よく信長は兵農分離制を導入したと言われていますが、実はそれも信長軍のわずか数%にすぎず、実際の主力は自分の「支配下の村」から連れてくる農民兵だったのです。

>当時はどの戦国大名も軍制に大きな違いは無く

当時の地方格差は今の比ではない。
大きな違いは鳴くなんてありえない。
それこそ江戸時代の軍学書を真に受けている馬鹿学者の言うこと。

>兵農分離は豊臣政権からようやく実現した」が近年の学者達の定説です。

こっちなんてもっと根拠ないし。
だいたい学者が言っているからなんてのは根拠にならない。

>さらに「農民兵が年中戦えない」というのも大嘘。
↓もうこの時点で破綻。
>実際に調べてみれば、戦国大名は農繁期の戦いをまったく避けてはいない。

上杉も武田も、ただの1回も遠征などしていない。
遠征だの籠城戦だのというのは、最低でも2回は収穫期を過ごした戦争のこと。
これ世界史レベルでは常識ね。

農村で戦いに積極的なのとそうでないのとで派閥ができた?だから何?

>古代の防人も、源平合戦も南北朝の戦いも農繁期を避けていないのに、戦国時代に突然、農繁期を避けるわけない

なに農民兵じゃないのと一緒にして比べてるの?バカなの?

>また信長は早くから日本の武力統一を掲げたように思われてますが

「掲げた」かどうかなんてどうでもいいの。
あと伊勢は手に入れてねーよ。
その程度のことも調べてないで信長関連の質問に答えてんのか?身の程知らずが。

>また、合戦においても勝率~

それぞれの戦いの相手、回数、目的も全部違う上に結果論。
お前は評論家として無能だな。

>信玄や謙信にご機嫌をとり、強い相手との戦を極力避け

相変わらず日本人というのは頭が単純なんだな。
これ、外交がうまいという以外の何者でもないんだが。


味方に敵を多く作るとかアホか。
状況の読めないバカ光秀と秀吉の捏造宣伝に踊らされるアホウ。




戦いはもちろん、外交力・経済力・発想力・リーダーシップ、どれも全て信長が上。
信玄じゃ今川義元にも勝てません(笑)
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よく信長は兵農分離制を導入したと言われていますが、実はそれも信長軍のわずか数%にすぎず、実際の主力は自分の「支配下の村」から連れてくる農民兵だったのです。


「農民兵は農繁期に出兵できないから年中戦える傭兵で組織した織田軍には誰も勝てない」という説は年表を見てない人や歴史認識の薄い人の説ですよ。
なんせ「当時はどの戦国大名も軍制に大きな違いは無く、兵農分離は豊臣政権からようやく実現した」が近年の学者達の定説です。要するに兵農分離を事実上成功させたのは信長ではなく豊臣秀吉ということ。そもそも兵農分離をしてない大名が合戦や遠征ができないというのは大きな間違い。
つまり「信長は兵農分離させてるため織田軍は傭兵で構成されている」というのは大嘘。
さらに「農民兵が年中戦えない」というのも大嘘。
実際に調べてみれば、戦国大名は農繁期の戦いをまったく避けてはいない。農民兵は大昔から年中戦っています。それどころか武田や上杉は農繁期に大動員して戦を仕掛けてます。16世紀半すぎには、日本全体で、農村の中で出兵に積極的な『軍役衆』と、村の自治と農業一筋を求める『百姓衆』の分裂ができあがってきています。『軍役衆』の存在により兵農分離などしなくても、年中遠征し合戦できるのです。そもそも、古代の防人も、源平合戦も南北朝の戦いも農繁期を避けていないのに、戦国時代に突然、農繁期を避けるわけないだろ。

また信長は早くから日本の武力統一を掲げたように思われてますが、最初から「天下布武」など言っていない。濃尾伊勢平野をほぼ手中に入れて最大の勢力になってから、「天下布武」を唱えたのが事実です。

また、合戦においても勝率9割以上の信玄に対し、信長の勝率は6割程度。勝率8割くらいの家康に劣り、とても戦上手とは言えず、戦闘指揮官としては中の上の実力です。信玄や謙信にご機嫌をとり、強い相手との戦を極力避けて、たびたび訪れる命の危険にさらされながら運よく回避していただけで戦国最強には程遠いです(普通なら6回死んでる)。
運も実力のうちというなら結果論になり最終的に日本を治めた徳川家康か豊臣秀吉が最強ということになる。
結果論抜きの大名の総合的な実力でいうなら最強は武田信玄か上杉謙信だと思う。
「当時、信長だけが年中戦ができる」という俗説が崩された現在では、戦力で劣る信長が信玄に勝るものは金くらいです。
三方ヶ原の時など、武田軍は軍を3部隊に分けて各部隊が徳川の支城を数日(平均三日程度)で落としながら進軍しました(通常は小さい支城でも落城させるのに数週間~1ヶ月かかる)。部隊を分けてるのにこの速さで陥落させることなど信長にはできないでしょう(晩年の秀吉なら可能かも)。

ガチでぶつかれば戦力は歴然。だからこそ信長は信玄との直接対決を恐れて機嫌をとりながら逃げ回っていた。そもそも上杉謙信に惨敗した織田軍が謙信と同等の信玄に勝てるとは思えない。
ましてや武田配下には家康にトラウマを作った山県、死ぬまで無傷だった馬場、戦略の天才である真田家など武田24将は百戦錬磨の猛者ぞろい。両大名不在の部下同士の戦だけでも武田軍が勝ちそう。


信長が本能寺で死なずにいたら天下統一して幕府を開くと予想する人もいるが、信長のように身内の中にも敵を作るような危ない生き方ではどのみち天下統一する前に誰かに殺されてるでしょう。たとえ運良く生きて統一したとしても死んだ後は残った配下で覇権を奪い合い結果的に家康が幕府を開くよ。
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史実通り考えて


三方ヶ原で負けてそのまま約3万の武田軍に尾張でも負けるのではないでしょうか?
敗走した織田兵VS勝利して行軍し続ける武田軍では勝敗が目に見えています。
勝つのはどっちかという質問なので寿命は無視して考えてみました。
よって武田信玄が勝つと思います。
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再再度です。

ちょっとしつこいですかね。(笑)
気になったところが少々ありましたので、
<< 騎馬隊が威力を発揮する場所はそれ以上に鉄砲が威力を発揮すると思うのです >>とのご意見ですが、日本の古馬を調べてみますと、とてもモンゴル平原を疾走するようなものには繋がらないですね。現存の木曾駒の後ろ足は日本の山岳踏破に適した構造になっております。これは、早く走るためのものではないようです。おまけに鎧兜を着た武者を乗せて、無理もありません。信長が早朝清洲を飛び出して、熱田へ駆けましたが、時速8Kmほどです。所要時間は2、3時間です。もちろん戦いのときは馬は後ろに置いて(高価ですので)、徒歩で戦うのが、この戦国時代の通常のようです。もちろん逃げるときはこんなものでも、鎧兜の徒歩兵よりは、断然早いですから、重宝します。関が原当時で軍団に占める馬数は総兵力の1割だったことは、記録に出てきます。ではなぜ武田だけが騎馬騎馬といわれるのか、この時代ほんとうに他国は武田をもって騎馬兵、恐るべしとおもっていたのか疑問ですね。
私の素人調べでは、春信の頃、小笠原長時との戦いで、武田は出陣したものの、甲斐の国境付近から動かず、相手に長陣の怠惰を誘って、油断させ、騎乗身分の者だけを、特別編成して、長駆(38Km)  勝弦峠に奇襲を掛け、打ち破ったことが、あろうことか、過大に喧伝されたものではないかとおもっています。
馬には定尺というものがあって、ひづめから肩先まで、4尺を定尺(121cm)として馬の売買の際に、基準にしています。1寸高いものを1寸逆に1寸低いものを、下がり1寸と呼んでいます。これは武士の元服に深く関係しています。武士の元服の身長は、4尺5寸(136cm)です。
武田と馬を切り離して、徒歩兵としての乱戦での切った張った度胸千両の輩が、銭で集められた兵より強いのはあたりまえのことなんでしょう。この時代たくさんの道があっはずはなく、おのずと軍規模の数が通過できるところは限られていますから、当然そこでの出会いでの乱戦は、後日何々合戦ということになるようです。近頃の歴史ゲームのように、すぐ戦闘ということはなくて、できるだけ決戦をしないで、相手を屈服させることが、下のものから名将といわれるのではないでしょうかね。数こそ戦略、数で正面から押していく、信長は国内統一以降この方法にかえましたね。それまでは、小姓馬廻り俗にゆう直属の親衛隊7、800人(この連中はいつでも動かせる兵、農繁期農閑期にかかわらず)でほとんど対応しています、知多の村木砦攻撃も中心はこの連中。もちろん、盟友や一門衆、地侍どもも数のうちとあつめてはいますが、
徒歩兵と徒歩兵の戦いですから、槍ふすまをびっしり揃えて、鉄砲を
集めるだけあつめても、武田とは、さらに、柵もいるんですよ。

なんだかつれづれに書いてしまいました。失礼。

この回答への補足

なるほど、どうやら時代背景や裏事情をもっと考える必要がありますね。馬はあくまで移動用なのか・・。やはり武田兵が強いと言われるのは何回も戦を経験してるからでしょうね。
特に金で兵を集めた信長がそんな信玄とまともに決戦したくないのは考えてみれば当たり前のことかもしれません。それこそ親衛隊みたいに信長の手取り足取りに動く兵隊たちがもっといればね・・それが信長が戦術指揮が下手と言われる大きな要因だと個人的に思ってます。大概金で集まってる人多いから。
逆に他の戦国大名と同等に兵を編成してたのなら、信長は京都に上洛するのもできなかったかも。考えてみると、部下との信頼関係を大事にした信玄だからこそ武田軍は強かったのかもしれません。信長は・・・服従といったほうがいいのか?そういう所が人気に反映してるのかなとも思います。

補足日時:2009/10/20 18:24
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました

お礼日時:2009/10/20 18:29

質問は、信長と信玄の主に個人能力の比較と考えられますが、回答は織田軍団対武田軍団の対決になっているようですが、、、、、



まあ、明確に分けるのは難しいでしょうが、武田信玄が尾張あたりに生まれていれば、どんな生き方をしたか。また信長が甲斐に生まれても兵農分離策をとれたか、鉄砲主体の軍団をつくったかなんていうのは、IFさえも超えてしまうので^^

(1)戦闘指揮
これは、無条件に信玄。若い頃、失敗したこともありますが、戦術的な能力はやはり山国で戦闘を数こなすと上昇するようです。まだ若かったとはいえ、平地戰の得意な家康とあの三河軍団を三方原で赤子の手をひねるように打ち負かしていますので、反論はないでしょう。
一方、信長は下手とはいいませんが(名前は忘れましたが、信じられないくらいに下手と言った歴史がいましたが)、凡庸です。ただ、彼の恐怖心によって兵(将もですが)を服従させる能力は評価してもいいでしょうか。
ただ、戦闘以前の工夫。兵農分離や鉄砲の積極的な活用はやはり、点をあげてもいいかもしれません。ただし、これもあまりに尾張兵が弱すぎるので、必要にせまられてという側面が多いようですが。

(2)戦略
これは、信長でしょう。早い段階で天下を視野にいれ、明確なビジョンをもって行動しています。信玄はどちらかといえば、行き当たりばったり的なところが見られます。特に、信長はそのイメージとは反して、我慢するときは徹底的に我慢します。その反動で我慢しなくてよくなると魔王のようにやりたい放題になりますが^^
ただ、少し減点なのは、えらい緻密なときとえらく認識の甘いときの落差があることですね。越前攻めなんかが典型でしょう。

(3)政治業績
これも信長ですね。信玄も信玄堤や棒道、鉱山開発など良き領主であるのは間違いがありませんが、信長は楽市楽座、地名の変更、兵農分離、計画的城下町建設、朝廷の政治利用等あげればきりがなく、現代に影響をおよぼすものさえあります。特に、私が評価するのは、宗教勢力の政治からの駆逐は現代人が感謝してもいいように思います。

(4)外交
これは、いい勝負でしょうか。両者、さすがに食えません^^
ただ、信長は武力征伐一辺倒のような印象を受けますが、意外に調略も積極的です。政略婚姻はじめ、えさで寝返りさせるのを主に、勝てる段取りをして最後に力を使うという感じで、外交力は高いと思います。

総合では、やはり信長ですかね。

しかし、三方原後に信玄が元気で美濃で決戦すれば、その一戦は信玄の勝ちでしょう。これは、信長が戦いたくなくてあらゆる手段で回避しようとしていた事実で明らかです。また、長篠時に信玄が生きていれば、信長とあんな戦い方はしません(これは宿老連中が勝頼に戦闘反対を述べていることから、信玄ならなおのことあんな下手はしません)。そもそも、信玄が生きていれば、信長は攻めなかったでしょうし、信玄が生きていれば、信長はとっくに歴史から消えてるかもしれません。

こんなところでいかがでしょうか^^
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。やはり普通に決戦してたら鍛え抜かれた信玄が勝つでしょうね。やはり信長はその勇猛さを退けながら戦わなければならないでしょうね。信長の武器は経済力や長期間戦える先頭集団でしょうか(そのぶん弱い)。鉄砲は常時効果を発揮するわけではないみたいですしね。・・・火縄銃だっけ?(雨降ったら終わりだな)

信玄の凄い所は。ずばり!「一人一人」が凄いのかな 「人は城、石垣・・・」に代表されるように信玄が結束力を大事にしたのは明白だと思います。長年戦ってきた猛者たちが、その結束力を遺憾なく発揮すれれば信長は負けるでしょうね。  改めてありがとうございました。

お礼日時:2009/10/19 19:11

お返事ありがとうございます。


まぁ感想としては思った通りですが、信長フリーク過ぎて、話ができないですね。

>一つ聞きたいのですが、信長が何で戦に弱いのでしょうか
→勝てる戦いに勝ってきたから、自分より強い相手には弱かったんでしょうか。。

>ちゃんとWikiを調べれば信長軍不利なのはわかることです。
→信憑性のない話、根拠のない話という割にはWikiを参考になさるのは
 どうかと思います。(別にどこのだれかわからない、ただの歴史フリークが書き込んだだけの話ですよ?
 一定の初めての人とのとっかりはあるでしょうが・・、)

>謙信だって1回勝ったぐらいで信長に本気で勝てると思ってるのでしょうか。
→だから死にさえしなければ、農繁期までの間に徹底的に追い詰める
 つもりだったでしょう。
 一回勝てば・・雪崩も起きます。手取川の戦いですが、常勝軍団の
 鼻を折ってましたからね。
 信玄も生きていれば・・・、がありますが、信長を追いつめられた
 可能性があったのは手取川の場面以降にありえなかったでしょう。

>信長は圧倒的な兵力差で少ない敵を倒しているのです。
→それは認めますね。とくに上洛の場面で立ちふさがった敵に対しては
 いかんなく発揮しております。

>当時の最先端技術である鉄砲を積極的に取り入れているのです(信玄は多く持ってない)。
→鉄砲・・この時代の鉄砲なのですが、鉄砲を戦術の段階で使用できる
 一番効果的な場面というのは、待ち構える場面なんですよね。
 2番目にくるのが当然攻城戦になるでしょう。
 だから鉄砲を大量に持っていれば川中島で待ち構えていた信玄は実際に
 大勝利を得られたでしょうし、現実、長篠の戦いにおいて
 一度走り出すと止まらない騎馬隊なんて格好の餌食だっただけです。
 これは勝頼の無能さが招いていると考えられますが、
 自分から攻撃を仕掛けるところでは使いづらい武器です。
 (これがなかなか信長の野望なんかのシュミレーションで使う鉄砲とは違う。) 

ただ。。鉄砲を取り入れる度量があった、だから戦も強いってのは
暴論でしょう。
まぁ当然貴方の疑問ももともと総合力で判断なのだし、それは信長だと
誰もが認めるところです。
でも鉄砲を大量に持ってるから強いってのは、人よりいいもの持ってるから強いって話にしかならない。

ちなみに総合力で判断ですけど、ほんとに全てが強いのであれば
天下統一を信長が成し遂げて死んでると思いますよ。
自分も信長の総合力が勝ってる部分だと思ってますが、
信長フリークだからってひとつをけなされてムキになってるようなら
話になりませんねぇ・・。

この回答への補足

おっしゃるとおり、どうやら信長を必要以上に評価してたようですね。他の方の言うこともふまえると「信長自身の戦闘指揮能力は強豪大名に及ばない、兵の質はかなり低い」に収まるのかな。そしてやはりWikiを鵜呑みにしてたみたいです。あと鉄砲もそれが有効に威力を発揮する場所じゃないと活躍できないでしょうしね。  手取川の戦いも信長兵が謙信の兵には及ばないのと、謙信の能力を評価するべきでした。奇襲を成功させてる時点でかなり凄いはずですね。

ただここで言う信憑性の無い話というのは「信長は信玄に平身低頭に接していた」「信玄は義元に手出しができなかった」などの事柄です。はっきりした事実関係に基づくのであればいいのですが、それが少々武将の評価につながってるような気がするのです。
例えば一つ目ですが、信長は信玄に平身低頭に接していたかもしれませんけど、それで領地を伸ばしているんだから、それは信長の外交力が評価されるべきであって、信玄>信長にはならないと思うのです。二つ目ですが、これも義元>信玄にはならないはずです。信玄が義元存命時に侵攻しなかったかもしれないけれど、義元も信玄に攻撃しなかったでしょう。はっきり言えば「どちらも別方面で忙しかった」で済まされると思うのですが・・・・こういう事をあげるときりがないと思うんです。

補足日時:2009/10/19 18:40
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この回答へのお礼

ありがとうございます。自分の言う主張に客観性がもてたような気がしました。改めてご回答ありがとうございました。

お礼日時:2009/10/19 18:59

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Q長生きしてたら武田信玄は信長に勝てたと思いますか?

全国1億2千万信玄ファンの皆さん、こんにちは。

自宅で資料整理をしていたら、往年の名作「信長の野望 戦国群雄伝」のガイドブックが出て来てしまいました。仕事で忙殺されてるというのに、思わずよみふけりですよ!(嗚咽

生来の里見家フリークな私は、別に武田信玄に対して悪意を抱いているわけではないのですが。
果たして信玄が長篠の戦いまで存命であったなら、信長に勝てたのでしょうか?

どう考えても、無理ゲーと申しますか、馬で柵は突破できないだろ的な考えを抱いてしまいました。

甲斐の虎、戦国最強の呼び声も高い武田信玄のファンの皆さまからの熱いご意見をお待ちしております。
(煽っているわけではありませんので念のため。徹夜明けでテンションが高いだけです)

Aベストアンサー

 他の回答者の方々が指摘していない点について

・織田軍と武田軍の性格の違い
 織田軍は、専業兵なのに対して、武田軍の兵力の主体は農民兵です。

 織田軍は、戦闘を専業とする兵を主体としており、兵糧をはじめとする兵站部門を持っていました。
 それに対して、武田軍は騎馬が多く、他の戦国大名と比べて物資輸送能力は高かったものの、織田軍のような兵站と言うレベルの軍需物資輸送ではありませんでした。特に物資の海上輸送能力は織田軍の方が格段に高かったようです。
 これには、内陸を領地としていた武田家に対して、木曽・揖斐・長良の河川運送と伊勢湾の海上輸送に基礎を置いた津島や熱田の商業都市から始まって、琵琶湖の水運に基礎を置く近江商人の活動域、瀬戸内海運と淀川の水運に基礎を置く商業都市である堺を支配することにより、織田領では平時にも大規模な物品流通が確立しており、徳川領も織田経済圏の東の部分を形成していました。


・武田軍の戦い方について
1、三方ケ原では、武田軍は圧倒的に有利な位置に陣を構えながらも、徳川軍との戦端をなかなか開こうとは  しなかった。
  結局開戦は、午後4時ごろから始まったようだ。
2、武田軍は、有力な領主の連合体によって形成されている。
3、織田軍のような高度の兵站能力は持っていない。

 1・2・3から見て、信玄の場合、「上洛」とは、甲斐・信濃から西に向かって、有力な戦国大名を傘下に収めて領土を拡張して京に至るというやり方であるようだ。

 三方ケ原の戦いでは、信濃を領地化した時と同じように、遠江・三河を領地に編入することが第一目的であって、その結果上洛できる条件が整うなら、実行に移すという考えではなかったかと思う。

 つまり、信玄の上洛は、徳川軍が武田軍の軍門に下り、その戦力が武田軍に加わるということが条件であったのではないかと推測している。
・三方ケ原の戦いでは、両軍の対峙が長く、開戦時間が夕刻と言っても良い頃になった。
・敗戦の程度の割に、徳川軍の武将の死者が少ない。
・三方ケ原の戦いの後、浜松城に対して包囲攻城戦が行われていない。
この様な疑問に対する答えとして、信玄が家康を武田軍に組み込むことを考えていたと見ている。



 

 他の回答者の方々が指摘していない点について

・織田軍と武田軍の性格の違い
 織田軍は、専業兵なのに対して、武田軍の兵力の主体は農民兵です。

 織田軍は、戦闘を専業とする兵を主体としており、兵糧をはじめとする兵站部門を持っていました。
 それに対して、武田軍は騎馬が多く、他の戦国大名と比べて物資輸送能力は高かったものの、織田軍のような兵站と言うレベルの軍需物資輸送ではありませんでした。特に物資の海上輸送能力は織田軍の方が格段に高かったようです。
 これには、内陸を領地としてい...続きを読む

Q武田信玄があと5年生きていたら歴史はどうなっていたでしょうか。

武田信玄があと5年生きていたら歴史はどうなっていたでしょうか。
徳川家康は三方原の戦いでなくなっていたのではないでしょうか。
信玄が天下統一をできたとは思えませんが、戦で信長には負けなかったと思っています。皆さんどう思われますか?

Aベストアンサー

歴史は変わっていたと思います。
1572年10月、武田軍上洛開始。
1572年12月、三方が原の戦いで、武田軍が徳川軍に勝利。
1573年2月、足利義昭は信長に対し挙兵。
1573年4月、3年間死を公にするな、との遺言を残し武田信玄死亡。

この時、足利義昭は二条御所の周囲に堀をめぐらし城構えの上、持久戦に入っている。
義昭とすれば、信玄が上洛するまでの間、守りぬくだけでよかった。
そのため、信長の講和の申し入れも受け入れなかった。
信玄死亡の報が義昭に届いていれば、義昭は講和を受け入れていたと思います。
1573年4月、義昭が信長に降伏。
1573年7月、信長が義昭を追放。室町幕府滅亡。
まして、信玄がこの時重病(死亡)に陥り、武田軍が引き返すことがなければ、信長は一旦戻った岐阜城から再度上京し義昭と対峙することなく、武田軍と戦うことになる。
そうなれば信長は逆に篭城し、兵農分離されていない武田軍が一旦兵を引くのを待つか、あるいは打って出、武田軍、義昭をはじめとする信長包囲網の挟み撃ちにあい敗れる、または和平交渉した可能性が高い。

信玄があと5年生きていれば、
(1):徳川家が史実のような形で存続できた可能性は低い。
(2):武田家の世代交代も違う形になっている。
(3):1582年3月織田・徳川・北条連合軍の侵攻により、武田家は滅亡したが、(1)(2)であれば、違う形になっている。
(4):(3)の武田家の滅亡がなければ、1582年6月本能寺の変もない。

歴史は変わっていたと思います。
1572年10月、武田軍上洛開始。
1572年12月、三方が原の戦いで、武田軍が徳川軍に勝利。
1573年2月、足利義昭は信長に対し挙兵。
1573年4月、3年間死を公にするな、との遺言を残し武田信玄死亡。

この時、足利義昭は二条御所の周囲に堀をめぐらし城構えの上、持久戦に入っている。
義昭とすれば、信玄が上洛するまでの間、守りぬくだけでよかった。
そのため、信長の講和の申し入れも受け入れなかった。
信玄死亡の報が義昭に届いていれば、義昭は講和を受け入れていたと...続きを読む

Q武田勝頼体制はなぜあそこまで脆かった?

武田勝頼は人間的にも問題なく、能力は高かったとの話を聞きますが、家督をついでからは裏切りが多くて、長篠の戦い以後はさらにそれが加速して組織はがたがたでしたね。。
出生が良くなくて繰り上げ当選で家督についたということと、もともと武田は中央集権体制ができてなかったこともあるのでしょうが、それは
上杉景勝だって家督相続の時に泥沼化して、武田と同じく越後の国の豪族連合の盟主的な立場から脱してなくて同じことですよね。

なぜ他の大名家に比べて武田勝頼の元での組織は脆かったのでしょうか?

Aベストアンサー

「勝頼は信勝の陣代」という話は甲陽軍鑑にその旨書いてあるだけで、他に裏づけとなる史料はなく、学問的には否定されています。武田家の家督は信玄から勝頼に引き継がれたことが全ての一次史料で一致しております。

さて、武田家の滅亡は、天正10年(1582年)正月の末に武田領国の西端で織田領の美濃と接する地域を領する木曽義昌(武田信玄の娘婿、武田家の一門待遇)が織田家に寝返ったことで始まりました。

ところが、その前年の11月に、駿河戸倉城の松田新六郎という武将が、北条家から武田家に寝返っている史実があります。
※ 岩波新書「武田信玄と勝頼」197ページに記載。
http://www.7andy.jp/books/detail/-/accd/31863126

この松田新六郎が、武田家の滅亡後にどうなったのかは分かりませんが、1581年末の段階でも、武田勝頼の勢力はとりあえず揺るぎないもの、北条家を捨てて武田家に寝返るに足るものと認知されていたということを示します。

武田家があまりにも急速に崩壊した理由ですが、

(1) 木曽義昌、穴山信君という二人の「信玄の娘婿」が、いち早く織田・徳川に寝返ったこと。
穴山信君は、武田家の中でも有数の知行と兵力を持ち、江尻城主として駿河を預かっている立場でした。この穴山が裏切ったとなれば、徳川と北条の連合軍が駿河から甲斐へ一斉に攻め込んでくることになります。

木曽義昌の寝返りと共に、織田信忠が率いる織田主力軍が伊那方面から武田領国に侵入し、3月2日に高遠城を攻め落として諏訪付近に達しました。この段階で武田領国は甲斐と信濃の二つに分断されたことになります。後は「掃討戦」となり、勝頼とその一家は3月11日に天目山で織田信忠麾下の滝川一益の軍勢に討ち取られました。

ここまで迅速に武田家が崩壊した理由ですが
「木曽殿と穴山殿が武田家から離反した以上、武田家に織田・徳川・北条に戦う力は残されていない」
と武田麾下の諸武将が判断した結果といえます。実際その通りでした。
ただ、木曽と穴山の寝返りを受け入れた織田信長が、他の武田諸将の寝返りは受け付けず、降伏して出てきた武田諸将をことごとく処刑したのは予想外だったと思いますが。

(2) 1582年、本能寺の変がなければ、他に3つの大大名が織田家に潰されるか軍門に下ることが確実でした。

越後の上杉景勝:
武田家の滅亡後、北陸を進んで能登と越中を制した柴田勝家率いる「織田家北陸方面軍」が、本能寺の変の当日に越中魚津城を攻略し、越後に乱入する所でした。
上杉景勝は、魚津城を救援するため出陣しようとしましたが、武田家の滅亡によって織田領となった信濃の北部から、別な織田軍(森長可など)が上杉家の本拠地の春日山城を襲う恐れがあり、動くことができませんでした。
同時に、上野にいる滝川一益が、三国峠を越えて越後に攻め入る構えを見せていました。旧暦の6月、真夏ですから、冬は雪に閉ざされる三国峠も容易に通行できます。小田原の北条氏は、明確にではありませんが織田家の軍門に下った状況でしたので、一益の越後侵攻を妨げる者はいません。
本能寺の変がなければ、越後一国を領するに過ぎない上杉景勝は、恐らく武田家よりもっとアッサリと織田の大軍に三方面から押し潰されていたでしょう。

中国の毛利輝元:
本能寺の変の時、備中高松城は羽柴秀吉率いる「織田家中国方面軍」の水攻めを受けていました。
毛利輝元・小早川隆景・吉川元春が率いる毛利のほぼ全軍が救援に来ていましたが、高松城を包囲する築堤と水が障害になること、「織田家中国方面軍」と兵力が近似していたこともあり、毛利家側は手を出せない状況でした。
この状況で、信長が「毛利を倒す時が来た。畿内にいる明智光秀以下の諸将を信長自らが率いて出馬する」と決断し、その準備のため京都の本能寺に滞在している時に起きたのが本能寺の変です。
本能寺の変がなければ、信長率いる主力部隊が備中に到着するという知らせと前後して備中高松城が陥落し、毛利軍は安芸へ退き、羽柴秀吉に領国の大幅割譲を条件とする和睦を申し出たでしょう。実際、高松城の包囲戦の段階で和睦交渉が進んでいました。
この和睦は、毛利家の領国の過半を信長に譲る過酷な者であったとされています。

四国の長曾我部元親:
元親は四国全体を概ね勢力下に収めていましたが、織田家の四国遠征軍(織田信孝、丹羽長秀)が本能寺の変の時点で大坂に集結し、まさに淡路島経由で四国に渡ろうとしていました。

四国には織田方についている三好氏の勢力があり、スムーズに渡海が出来たでしょう。元親の勢力は60万石程度と見積もられますが、織田軍の前では「鎧袖一触」に潰されたはずです。

(3) 本能寺の変がなければ、歴史には
「1582年 織田信長が武田勝頼と上杉景勝と長曾我部元親を滅ぼし、毛利輝元を降伏させた」
となったはずです。

この結果、毛利家と北条家を麾下に従えた織田家の勢力は、
東は越後、上野まで
西は長門と四国全域
まで広がり「残すは奥羽と九州のみ」となったはずです。

武田家滅亡後に、織田家が3つの大大名を同時に滅亡させる(降伏させる)体制に入っていたことから分かるように、1582年の織田家の兵力は、他の大名家の数倍に上る隔絶したものでした。ちょうど、今日のアメリカ軍のようなものです。

仮に武田家の諸将が叛かずに最後まで勝頼と共に戦ったとしても勝ち目はなかったと言えましょう。

「勝頼は信勝の陣代」という話は甲陽軍鑑にその旨書いてあるだけで、他に裏づけとなる史料はなく、学問的には否定されています。武田家の家督は信玄から勝頼に引き継がれたことが全ての一次史料で一致しております。

さて、武田家の滅亡は、天正10年(1582年)正月の末に武田領国の西端で織田領の美濃と接する地域を領する木曽義昌(武田信玄の娘婿、武田家の一門待遇)が織田家に寝返ったことで始まりました。

ところが、その前年の11月に、駿河戸倉城の松田新六郎という武将が、北条家から武田家に寝返ってい...続きを読む

Q織田信長が本能寺の変で死ななかったらどうなっていたでしょうか??

織田信長が本能寺の変で死ななかったらどうなっていたでしょうか??
個人的には信長が天下統一をして、他の国を侵略していたんじゃないかと思います。
(すぐに病死したなどはやめて下さい)実際塩分を取りすぎて健康ではなかったようですが・・・

Aベストアンサー

 織田信長の経済感覚や「天下布武」と言うスローガンから見て、もしあと20年、信長が生きていたら相当違った世界があったでしょう。

 信長の過去の方針や、商業振興による富の蓄積・天下平定による武士の余剰(秀吉の朝鮮出兵や徳川家による大坂の役・大名の取り潰しなどはその影響という説も。)からみて、フィリピン・東南アジアへの進出はかなり大規模であったと考えられますが、他国への侵略という面の支配ではなく、当時のヨーロッパ諸国がやっていたような植民都市建設=貿易拠点整備という形で、既に出来上がりつつあった東南アジアの日本人町をネットワーク化していったのではないかと思います。(経済感覚が並外れた政治家である信長ですから。)


 信長の行動から見る限り、天下布武とは、武士だけに当てはまるのではなく、常にその分野で革新的・積極的(=戦闘的)であり続けることを意味しているように思います。

 宗教であれば、より哲学的で民衆救済に努力し続けるものを良しとする。
 商人であれば、より安く安定した物資供給を目指す者を良しとする。
 農民であれば、開墾・治水に努力し、より多くの収穫を目ざす者を良しとする。

 つまり、今の自由主義のような、貿易・経済活動を目指していたと思われます。

 また戦争がなくなっても、織田軍団は得意の土木工事(豊臣政権に引き継がれます。)をする公共・インフラ整備部隊として(ローマ帝国の軍団がそうでした。戦いのないときは、都市建設・道路・水道・港湾整備などの公共工事をやっていました。)全国展開・海外進出したと思われます。

 更に一つの夢物語ですが、アメリカ西海岸への植民が行なわれたかもしれません。1620年、イギリスからアメリカへメイーフラワー号に乗っていった移民が、今日のアメリカ合衆国の基礎となる移民の始まりとされています。

 信長が本能寺で死ななければ、1585~90年ごろには、日本全土の統一は十分可能ですから、1595年頃からアメリカに移民が始まり、1650年ごろには、アメリカ西海岸に広大な日本の植民地が出来上がっていたかもしれません。(日本からアメリカは、ヨーロッパから行くより大分遠いのが難点ですが・・・)
 新大陸に、アジア系仏教国が出来ていれば、世界史における白人・アジア人種の立場が逆転した世界になっていくはずです。

 織田信長の経済感覚や「天下布武」と言うスローガンから見て、もしあと20年、信長が生きていたら相当違った世界があったでしょう。

 信長の過去の方針や、商業振興による富の蓄積・天下平定による武士の余剰(秀吉の朝鮮出兵や徳川家による大坂の役・大名の取り潰しなどはその影響という説も。)からみて、フィリピン・東南アジアへの進出はかなり大規模であったと考えられますが、他国への侵略という面の支配ではなく、当時のヨーロッパ諸国がやっていたような植民都市建設=貿易拠点整備という形で、既に...続きを読む

Q武田信玄は優秀か

信長の野望などの歴史ゲームでは武田信玄の評価がきわめて高いのですが、信玄は本当に優秀な人物だったのでしょうか。私としてはかなり疑問です。
以下少し長くてすいませんが私の考えも述べます。
まず政治家としてですが、諏訪よりしげを特段の理由もなく暗殺してますが、このようなことをすると後々政治家として信用されなくなりまとまる話もまとまらなくなり、調略もうまくいかないと思います。父親を追い出しているのも汚点です。儀に厚い(?)謙信からもかなり憎まれてます。
騎馬軍団も強かったかもしれませんが、隣の謙信との川中島の戦いでかなりてこずっていて断トツで最強だったとはとてもいえないと思います。勝頼が長篠の戦で惨敗してますし。
彼ははやくも20才で大名になりその後30年近く大名として政治を行ったわけですが、期間が長い割りにあまり勢力が大きくなってないような気がします。
というわけでなぜ彼が極めて高い評価を受けているのかよくわかりません。ご意見お願いします。

Aベストアンサー

ゲームでの評価は別として
1.諏訪頼茂と講和後謀殺したのは頼茂自身に謀反の動きもあり、また諏訪は要衝の地で確保しておく必要もありました。 
戦国期このような行為は日常茶飯に行われていて意外でもなんでもなく、とくに汚点となるものではありません。
従って信玄の謀略を嫌う事なく、足利義昭なども同盟を申し込んでいます。

2.父親を追放したのは臣下の信望もなく、甲斐経営の意志も弱く、そのままでは国を保てなかった為でやむを得ない事情があったのです。
家臣達も同様の意見でしたから追放後信玄を国主としてよく補佐したのです。
勿論潔癖な上杉謙信などは嫌ったでしょうが。

3.信玄は治水や直線的軍道の建設、金山の開発など領内の統治に気を配り、領民の信服も厚く甲斐の内に城を築く必要はないほどでした。 領土を拡大して甲斐の中では戦争もない平和を維持し続けたのです。

4.信玄の軍の統制手段は特に優れていて、戦闘中も陣立ての変更を整然と行われる程で敵将をうらやませました。 手足のように軍勢を動かすので後に徳川家康は武田家滅亡後、武田の遺臣を多数召し抱えその軍制を採用し、先手を勤める井伊直茂に集中配備し朱色の具足で井伊の赤備えと恐れられた位です。

5.上杉との戦いは能力伯仲で、当時の上杉軍の強さは有名でしたから互角の戦いは当然といえましょう。

ゲームでの評価は別として
1.諏訪頼茂と講和後謀殺したのは頼茂自身に謀反の動きもあり、また諏訪は要衝の地で確保しておく必要もありました。 
戦国期このような行為は日常茶飯に行われていて意外でもなんでもなく、とくに汚点となるものではありません。
従って信玄の謀略を嫌う事なく、足利義昭なども同盟を申し込んでいます。

2.父親を追放したのは臣下の信望もなく、甲斐経営の意志も弱く、そのままでは国を保てなかった為でやむを得ない事情があったのです。
家臣達も同様の意見でしたから追放後...続きを読む

Q戦国大名の最大版図

タイトル通りなのですが、戦国大名の最大版図の石高がどれくらいになったのかが大変興味があります。

関ヶ原後の石高はかなり有名なのですが、その前に最大版図を迎えた武将も多いと思います。

人数が多いですが下に書いてある武将の石高を教えて頂けると幸いです。


・伊達政宗
・北条氏直
・上杉謙信
・上杉景勝
・武田信玄
・徳川家康
・豊臣秀吉
・織田信長
・柴田勝家
・明智光秀
・長宗我部元親
・毛利元就
・毛利輝元
・島津義久


人数が多くて申し訳ありません。

よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

No1です
まだ出ていないところを書かせていただきますね。

柴田勝家(清洲会議後)
基本的には越前一国の領主でしかありませんから約50万石だろうと思います。清洲会議で北近江も柴田側の領地になっています。
ここで問題なのが、
佐々成政(越中)佐久間盛政(加賀)前田利家(能登)
この人達は信長亡き後、勝家の家臣と言い切れないところなんだと思います。単に「味方陣営」なのでしょう。その「味方陣営」まで含めるならば180万石くらいあります。

明智光秀
近江国滋賀郡と丹波一国をあわせると30万石を越える程度はあったようです。

上杉謙信
越後の半分程度が直接的に支配できているところなんだとは思います。
揚北衆と呼ばれる(本庄、色部、新発田)勢力は北越後の広大な範囲を領地にしていましたが、家臣という感じではなく「協力者」というイメージが近いです。勝手に外交したり人事権も及ばない状態でしたから。
そういう独立勢力を束ねて越後、北関東、越中、能登まで支配している感じです。最大版図は私もどこまで含めて良いのかさっぱりわかりません。
味方と言い切れない独立勢力が大勢いるということです。

信長、秀吉、家康のそれぞれの時代によって最大版図のとらえ方も様々に違っているようには思いますね。

No1です
まだ出ていないところを書かせていただきますね。

柴田勝家(清洲会議後)
基本的には越前一国の領主でしかありませんから約50万石だろうと思います。清洲会議で北近江も柴田側の領地になっています。
ここで問題なのが、
佐々成政(越中)佐久間盛政(加賀)前田利家(能登)
この人達は信長亡き後、勝家の家臣と言い切れないところなんだと思います。単に「味方陣営」なのでしょう。その「味方陣営」まで含めるならば180万石くらいあります。

明智光秀
近江国滋賀郡と丹波一国をあわせ...続きを読む

Qなぜ秀吉は織田家の跡継ぎを殺しても織田家が滅びたわけでもなく織田家を裏切ったわけでもなく政権をとっていたのか?

歴史の本などを見ると本能寺の変以後 山崎の戦、柴田勝家との戦いをえて
秀吉に政権が行きましたが疑問があります。なぜ織田家に跡継ぎ(名目だけのさんぼうし)がいるのに織田政権が続ずにあっさり秀吉の政権に行ったのですか。形だけでも秀吉は織田の家臣なのにさんぼうしが生きてる間もさんぼうしより高い地位にいました。(信孝との戦いはありましたが、彼は織田家の跡継ぎではありません)そりゃあ家臣が主人を裏切って殺したらそうなるかもしれませんが、秀吉はさんぼうしを殺したわけではありません。歴史の本では秀吉VSさんぼうしの戦いもないのにあまりにもあっさりと秀吉に政権が行ったので疑問です。

Aベストアンサー

秀吉が織田家中で実権を握れたのは、明智光秀を討ったこと、
三法師を抱えた事。この2つです。
もしもこれが無ければ、清洲会議の主導権も取られる事無く、
柴田・滝川の諸将も秀吉の言葉に敢然とつき返していたでしょう。

この時点で秀吉の織田家政権の実権を得ることが出来るのです。

この後、信雄・家康連合を小牧長久手で勝利し、
織田家中、同盟国である徳川も従えた秀吉は完全に信長の後継者に。

この後、世の中の趨勢は織田家よりも秀吉個人に傾く。
その証拠に朝廷が秀吉の存在を認める。
翌年、関白に就任し、長宗我部氏、佐々氏を降伏。
この背景には黒田孝高などの暗躍があったとも思うが。
だからこそ天下人になった秀吉は最大の片腕の黒田の
力を恐れて南に追いやったと言われている。

秀吉の場合は、あだ討ちをしたことと三法師を抱えて
清洲会議を支配した事が何よりの勝因。
出自の問題もあり大衆受けが良かったことが、時の流れを得る結果に。
更に家康と仲が良かった事もその要因。
家中に敵も多かったが仲の良い者も居たこと。前田・丹羽など。

途中から天下人になる流れは秀吉の配下の人間が動いた可能性が
高いと私は推測しているが…
織田家は柴田・滝川が失墜したためにその勢いを失ったことによって
時勢の波に乗れなかったため、秀吉の後塵に帰す事になったと思う。
数歳の三法師を頭首とし場合は、配下が団結しなければ、
上手くまとまらないのは必然。更に世の動きは、戦国時代の早期終結を
願う風潮もあり自然と秀吉に、信長の後継を願う気風があったことも原因だと思う。

どんな時代でも庶民の世論は意外と絶大的な効果を持っているのかも。

秀吉が織田家中で実権を握れたのは、明智光秀を討ったこと、
三法師を抱えた事。この2つです。
もしもこれが無ければ、清洲会議の主導権も取られる事無く、
柴田・滝川の諸将も秀吉の言葉に敢然とつき返していたでしょう。

この時点で秀吉の織田家政権の実権を得ることが出来るのです。

この後、信雄・家康連合を小牧長久手で勝利し、
織田家中、同盟国である徳川も従えた秀吉は完全に信長の後継者に。

この後、世の中の趨勢は織田家よりも秀吉個人に傾く。
その証拠に朝廷が秀吉の存在を認める。
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Qもし武田信玄が長生きしたら・・・

武田信玄に関してお聞きしたい事があります。

私は数多くいる戦国武将で武田信玄が一番好きです。
ただ52歳で亡くなっており、短命でした。
京都に軍勢を進める最中に亡くなったのですが
もし信玄がもっと長生きして、三方ヶ原で徳川家康を
打ち破った後、織田信長と戦さになったとしたら
どちらが勝ったでしょうか?

織田信長を討ち滅ぼし、武田の世の中になった可能性はありますか?

また武田信玄の一番優れている所はなんでしょうか?

それから武田信玄と言えども、かなり悪い事もした様です。
皆殺し、人質を売ったり等…
これは事実なのでしょうか?

皆さんの予想をお聞かせ下さい。

Aベストアンサー

武田軍団が織田軍を破ったとしても『天下人』にはなれなかった。と思います。
何故なら武田軍団のみで織田勢力の領地を統括する事は物量的に無理がある。と判断するからです。
何より武田の本拠地は甲州で、京とは距離が在り過ぎます。
信長の様に京周辺で事態が起こった時即座に対処出来ません。
つまり、信玄が京都に居る間は周辺の小勢力は大人しくしているでしょうが、一旦京都を離れたら武田には従わなくなる事が予想されます。
信玄が本拠地を甲州から動かす事は主力となる軍勢を捨て新たに軍団を再編成しなければなりません。
そうなると他勢力に対抗する為の力が0になるか、もしくは畿内での小勢力を拠り集めて力を再建するしかありません。
旧来の武田軍団の「鉄の結束」が畿内勢に適用出来るとは思えない故に信玄は「天下人」にはなれない。
成れたとしてもその地位を維持出来ない。と推測します。

仮に信玄と信長の直接対決が成ったとして戦場は美濃の岐阜城周辺
全軍団を美濃に集結させられない程敵に囲まれた信長とは言え、不要な戦闘は避け、動員出来るだけの兵と鉄砲で岐阜城に立て篭もれば信玄とて足踏みせざるを得ないハズ。
そうやって時間を稼いで北条や上杉に武田の背後を脅かす様にもっていけば、事態は信長有利に働きます。
ましてや武田軍は遠征軍ですから兵站の確保に難があるのは明白。
三河で家康に止めを入れていないのですから兵站の運ぶにも障害が0%になった訳でもありません。
信長も苦しいでしょうが、信玄も一気決戦に持ち込めない場合は相当に厳しい状況に追い込まれます。
また、信玄が信長の首を上げたとしても、信長包囲網の一翼を担った「将」の立場であり、足利義昭が信玄を如何に扱うか?は推して知るべし。です。
つまり、武田軍団としては犠牲は多いものの信玄自身が即天下人になれる保障はどこにもない。と言う訳です。

小生が武田信玄の一番優れていると思う点は「工夫により」破綻寸前の後進国甲斐一国から『戦国時代最強』と言われる軍団を作り上げた手腕です。
信玄が甲斐の事実上の宗主になった時の国の実情は相当に厳しいモノでしたが、天下に認められる程の軍団を創出するに至りました。
クセのある軍団ではありますがその強さは天下屈指。
信長の様に経済力で押し切るのではなく、様々な工夫を凝らし軍団を運営増強していった所は素晴らしいと思います。

武田軍団が織田軍を破ったとしても『天下人』にはなれなかった。と思います。
何故なら武田軍団のみで織田勢力の領地を統括する事は物量的に無理がある。と判断するからです。
何より武田の本拠地は甲州で、京とは距離が在り過ぎます。
信長の様に京周辺で事態が起こった時即座に対処出来ません。
つまり、信玄が京都に居る間は周辺の小勢力は大人しくしているでしょうが、一旦京都を離れたら武田には従わなくなる事が予想されます。
信玄が本拠地を甲州から動かす事は主力となる軍勢を捨て新たに軍団を再編成しな...続きを読む

Q日本がハルノートをを受け入れ戦争しなかったら?

歴史で”たら、れば”は持ち出す事は駄目なんですが、もし、太平洋戦争に突入しなかったら日本はどうなっていたでしょう? 戦争で余りにも多くの方がなくなりましたが、戦争しなかった方が日本の将来は明るくなる事が期待できたのでしょうか?

Aベストアンサー

戦争をしなかった、という選択肢は
無かったと思われます。
日本が例えハルノートを呑んでも、米国は
必ずや、日本を戦争に引きずり込んだと
思われます。
あのイラク戦争のようにです。
フセインは、米国相手に戦争などしても
勝てる道理がないことぐらい、百も承知していました。
それでも米国に無実の罪を着せられて戦争に
持ち込まれ、処刑されてしまいました。
米国とはああいう国なのです。

当時の米国は、1930年に続く大不況の真っ只中でした。
GDPは1/2に、株価は1/10に落ち、1200万の失業者が
街に溢れ、あちこちで暴動が発生していました。
ルーズベルトは、ニューデールなどの政策を打ちましたが効果は
さっぱりです。
それでどうしても戦争をやる必要があったのです。
戦争は最大の公共事業ですから。その証拠に戦後、米国
経済は見事な復活を遂げています。
その現れがハルノートです。

これは私の偏見ではありません。
米国歴史学の権威チャールズ・A・ビーアド元コロンビア大教授は
公文書を調べて、ルーズベルトが巧妙に日本を戦争に引きづり込んだ
過程を明らかにした本を出版しましたが、これは事実上の発禁処分
にされてしまいました。

31代米国大統領のフーバーが、ルーズベルトを、日本を無理矢理戦争に
引きづり込んだ狂気の男、と評した書見を残しています。
彼は、ルーズベルトは真珠湾を知っていた、とも書き残しています。


米西戦争では、 1898年 2/15 ハバナ湾で、
米国戦艦メイン号が謎の爆発沈没しています。
これで米兵266名が死亡し、スペインの仕業だ、
ということになり戦争が始まっています。

ベトナム戦争では有名なトンキン湾事件が発生しています。
1964年8月、北ベトナムのトンキン湾で北ベトナム軍の
哨戒艇がアメリカ海軍の駆逐艦に2発の魚雷を発射した
とされる事件です。
これをきっかけにアメリカは本格的にベトナム戦争に介入しましたが、
その後、ニューヨークタイムズが、米国のやらせであることを暴露し
真実が明らかにされました。

湾岸戦争 1990年 では
アメリカの駐イラク特命全権大使のエイプリル・グラスピーが
イラクのクエート攻撃に対して
「介入するつもりはない」と発言しており
これを信じたフセインがクエートを侵略しましたが、
米国軍等により撃退されています。
米国は約束の存在を否定していますが、当の大使は、それ以後、公式の場には
一切姿を見せなくなりました。

その他にも怪しいのはいくらでもあります。
以上が、日本が戦争を拒んでも、ダメだったろうと思われる理由です。

戦争をしなかった、という選択肢は
無かったと思われます。
日本が例えハルノートを呑んでも、米国は
必ずや、日本を戦争に引きずり込んだと
思われます。
あのイラク戦争のようにです。
フセインは、米国相手に戦争などしても
勝てる道理がないことぐらい、百も承知していました。
それでも米国に無実の罪を着せられて戦争に
持ち込まれ、処刑されてしまいました。
米国とはああいう国なのです。

当時の米国は、1930年に続く大不況の真っ只中でした。
GDPは1/2に、株価は1/10に落ち、1200万の...続きを読む

Q長篠の戦いに負けた理由

武田軍は何故長篠の戦いで敗れたのでしょうか?
これまでは織田軍の3000丁の鉄砲の一斉射撃で馬場・山県など名だたる猛将が討ち死にして壊滅し敗れたと言うのが定説でした。
しかし最近では長篠の戦いで鉄砲の一斉射撃は無かった説が有力となっています

とすればです
いくら信玄亡き後の武田家とは言え高坂・山県・飯富・馬場などの武将が健在であり
完全に織田軍を凌駕していたはずの武田軍は一体何故負けたのでしょうか?

鉄砲がなければ騎馬隊こそが最強ではなかったのでしょうか?

Aベストアンサー

簡単に言ってしまえば戦力差です。
長篠合戦時の両軍の戦力については諸説ありますが武田軍は1万5千、これに対し織田・徳川連合軍はその2倍を大きく越える3万8千人と言われています。
これだけの戦力差があれば個々の質の差は殆ど問題になりません。

それではこの戦力差でなぜ武田軍が戦ってしまったのかですが、これについて「信長の出方を見誤った」のと「信玄以来の宿老衆と勝頼および勝頼が抜擢した若手の将との意見対立」の二つの要因があると言われています。
信長は前年までは第二次織田包囲網の最中で戦力が不足しており、武田方との大規模な戦闘は避けていたのですが、長篠の合戦時にその包囲網はほぼ崩壊しており、武田軍との決戦を行うだけの戦力を整える事が出来たのです。
しかし武田方は前年までの経験則から、織田方がこれだけの戦力を投じてくる事を想定していなかったと思われます。

戦力差を知った時点で当然、武田方でも意見対立が発生した事は間違いありません。
資料によっては宿老衆が「撤退」を唱える中、勝頼が側近の意見を入れて決戦を挑んだとするものもありますが、むしろ宿老衆も勝頼側近もそんな単純な図式ではなく、いずれも意見がまとまらない中で勝頼がやむなく決戦の断を下したと考えた方が自然でしょう。

そして決戦の最中、長篠城の包囲が破られて背後を脅かされた事を知った勝頼は撤退を決断します。
この場合、ある程度の犠牲を覚悟で一度、総攻撃をかけて敵軍の一部を切り崩し、敵軍が体勢を立て直している間に撤退するのが常識的な戦法であり、勝頼もその指示を下したでしょう。
しかし宿老衆と勝頼が意思疎通を欠いていたとしたら、この指示の意図が正確に伝わらず、宿老達が自殺的といえるほどの無謀な突撃に転じてしまったことは十分にあり得ることです。
長篠の戦いにおける武田宿老衆の多大な犠牲はこのように生じてしまったと考えられます。

簡単に言ってしまえば戦力差です。
長篠合戦時の両軍の戦力については諸説ありますが武田軍は1万5千、これに対し織田・徳川連合軍はその2倍を大きく越える3万8千人と言われています。
これだけの戦力差があれば個々の質の差は殆ど問題になりません。

それではこの戦力差でなぜ武田軍が戦ってしまったのかですが、これについて「信長の出方を見誤った」のと「信玄以来の宿老衆と勝頼および勝頼が抜擢した若手の将との意見対立」の二つの要因があると言われています。
信長は前年までは第二次織田包囲網の最中で戦...続きを読む


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