最近、村上もとかさんの漫画が原作のテレビドラマ
「Jin 仁」を楽しみに観るようになりました。
ドラマ公式サイトによると、主人公の恋人・未来に
うり二つの花魁・野風は「大見世・鈴屋の呼出し」で
最上級花魁 ということですが、幕末当時、どのランクの遊女を
「花魁」と呼んだのでしょうか?「呼出し」以外の花魁の位には
どんなものがあったのでしょう?

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A 回答 (2件)

岩波の日本史辞典によると、花魁は太夫に代って一般化した上級遊女の呼称で部屋持ち、座敷持ち以上の格を指すようです。

平凡社の世界大百科事典によると、太夫消滅後に太夫の格を継いだ遊女の正規職名は散茶といい、散茶の中でも座敷持ちや呼出しなどの位が分かれていたため、上級妓を指して花魁と呼んだそうです。ただし、花魁とは俗称であって正式な職名ではないので下級妓が花魁と呼ばれる場合もあり、厳密な区切りはなかったようだとあります。Wikipediaによると安永4年(1775)の吉原細見には、散茶50人(内、呼出し8人)、座敷持357人(内、呼出し5人)、部屋持534人など(総計2021人)とあるそうで、だとすれば散茶と座敷持が区別されているので世界大百科事典の記述とは多少食い違っている印象を受けます。座敷持も単に専用座敷を持つ者を指しているだけで職名ではありませんから、散茶と重なる部分、重ならない部分があったのかもしれません。総合して考えると、散茶にせよ何にせよ張見世を行う必要がなかった者、つまり呼出し=花魁が基本にあって、かつ厳密な区切りはなく必ずしもこの限りではない、ということかと考えます。
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サイトからの引用ですが、


『太夫:高級遊女で吉原でもわずかな人数しかいなかった。
高尾太夫、揚巻太夫など、伝説的な遊女の名が伝えられている。
宝暦年間(18世紀中頃)に吉原の太夫は姿を消した。

格子:太夫に準ずる遊女であるが、やはり宝暦頃に姿を消した。

散茶:元々は太夫・格子より下位の遊女であったが、後に太夫・格子が
いなくなったため高級遊女を指す言葉になった。

座敷持:普段寝起きする部屋の他に、客を迎える座敷を持っている遊女。
禿が付いている。

呼出し:散茶・座敷持のうち、張り店を行わず、禿・新造を従えて茶屋
で客を迎える遊女。

本来は「呼出し」を花魁と呼んだと考えられる。これらより下位の
遊女は花魁とはいわなかった。』

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E9%AD%81
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
そのサイトの項目は拝見しましたが
解説されていない部分があるようです。
もう少し詳細に知りたく思い、質問させていただきました。

ひきつづき、ご回答お待ちしています。

お礼日時:2009/10/20 13:46

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Q花魁に興味のある女子ってどう思いますか?

私は小学生のころから花魁に興味を持っています。

ノートに花魁や、禿の絵をたくさん描いていました。

花魁といっても、
大正時代の花魁にものすごく興味があります。

こんな女子はどう思いますか?

こんな方はいますか?

Aベストアンサー

いいとおもいますよ
日本古来の伝統がありますし
着ているものつけているものは一級品です
伝統工芸ですよ

歩く芸術品ですよね

Q吉原遊廓の昼見世と夜見世

吉原遊廓の昼見世と夜見世は、どちらも三味線を弾いたり、踊ったりと昼も夜も同じことをしていたのでしょうか。具体的には、昼と夜の見世の違いはどう違うのですか?どんなことをしていたのでしょうか教えてください。

Aベストアンサー

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>吉原遊廓の昼見世と夜見世は、どちらも三味線を弾いたり、踊ったりと昼も夜も同じことをしていたのでしょうか。具体的には、昼と夜の見世の違いはどう違うのですか?どんなことをしていたのでしょうか教えてください。

吉原は「六つ半明け(午前7時頃)」といって、六つ半刻頃までには、一旦、客を全て帰します。
ちなみに、大門(おおもん)は、明け六ツ(午前6時)に開き、夜四ツ半(午後10時)には閉じられました。
しかし、廓では、その後1刻(2時間)は、客引きなどができましたので、お客は大門の横の木戸から出入りしました。

ただし、「連泊(れんぱく)」と言って、いわば、貸し切りになると、お客もそのまま居つづけます。

豪商紀伊国屋文左衛門が、1万両を持って、遊女屋を1軒貸し切りで、20日余り逗留したことは、有名な話です。
この紀文が居続けた時は、昼夜を問わず、酒や肴の接待がありました。
それは、あくまでも、酒食の接待で、「夜のこと」は、夜しかできませんでした。
酒食の接待は、花魁(おいらん)格などではない、格下の遊女が相手をしました。
そして、昼の接待は、夜ほど大げさではなく、唄や踊りの芸子たちも、つかの間の休息時間に入りました。
まあ、お客からの要求があれば、多少は、唄や踊りもしましたが、大概の場合は、売出し中の芸子などにその務めをさせました。

通常の場合は、遊女たちは、客を送り出した後、朝食をとり、格の上の遊女から順番に風呂に入ります。そして、髪を結いなおしたりして、夕方までは、いわば「自由時間」でした。
この「自由時間」の間に、書の練習をしたり、着物の手入れをしたりしました。

ただし、「昼商売」と言って、吉原が誕生した頃は武士の相手をする遊女もいましたし、昼間だけの商売という決まりもありました。
武士は、夜は、絶対的に自宅に居なければなりませんでしたので、そうした武士を中心にしての「昼商売」という制度ができました。

しかし、明暦3年(1657)の大火で、元吉原から新吉原に移転をしてからは、町人の需要が増加したため、仕事を終えた後の「夜商売」がもっぱらの盛んになりました。

従って、昼は割合静かな街でした。

(よもやま話)
(1)遊女の起源は、古くは、神社の巫女(みこ)が始まりでした。現代のようにディズニーランドのような遊び場のない時代でしたので、神社は格好な遊覧地でした。そこで、巫女が「春」を売って、「副業?」をしたのが始まりです。
江戸時代になっても、神社は寺社奉行の管轄に入りましたので、寺社奉行には「風俗」を取り締まる権限はなく、一種の「野放し状態」でした。
(2)吉原誕生まで。
慶長5(1600)年に徳川家康が、関ケ原の戦いに出陣したとき、東海道の鈴ケ森八幡の前に茶屋をつくり、揃いの赤ダスキに赤い手ぬぐいをかぶった遊女8人に茶を振舞った者がいた。
これが家康のお気に入りとなり、関ケ原の戦いののち、元和3(1617)年にこの男(=庄司甚右衛門)へ日本橋葦屋町(ふきやちょう)に公認の遊女屋の場所を与えたのがはじめ。そのあたりは、まだ一面の葦(よし)野原だつたことから、めでたくもじって「吉原」としました。
(3)遊女の格式では、「太夫」「格子」「散茶(さんちゃ)」「うめ茶」「五寸局(つぼね)」「三寸局」「なみ局」「次(つぎ)」の序列になります。
そして、「太夫」と「格子」に客がつくと、揚屋(あげや=出会い茶屋)まで向かう時は、いわゆる「花魁道中」をして、客のもとへ向かいました。
従って、「花魁道中」は、「太夫」と「格子」の特権でした。
(4)見世で格子戸の中から客を呼び込み、しやにむに二階に上がるのは、「散茶」以下の遊女たちです。「太夫」「格子」は、絶対に見世の格子戸の前には座りませんでした。
ちなみに、「散茶」の由来とは、煎茶をたてる方法として、振ってたてるものと、振らないでたてるお茶があり、振らない方を「散茶」と呼んでいて、どんなお客も振らないことから「散茶」と洒落て呼ぶようになりました。
(5)吉原の遊女は、幕府公認という「格式」をもっていたので、「女郎」とは決して呼ばせず「遊女」と呼ばせました。
ちなみに、私娼は「売女(ばいた)」と呼ばれました。
江戸では「夜鷹」・・・夜になるとゴザ一枚を小脇抱え、両国や柳橋、呉服橋、鎌倉河岸などに出没し、通りすがりの男の袖を引っ張って、川端に積んである材木の間などで「事」をすませた。
京都では「辻君(つじぎみ)」・・・何となく風情がありますね。
大阪では「惣嫁(そうか)」・・・何でも喰らいつくの意からとか。
(6)お寺にもあった売春。
お寺は・・・というと、諸国勧進の「尼」が、いつしか堕落して、娼婦に落ちた者もいた。尼僧姿の娼婦というと何か「変」だが、坊主頭にお色気を感じる「変態男」もいて、江戸時代はなかなかの人気があった。
「三ケ日待たず 比丘尼は見世を張り」
と狂歌にうたわれ・・・正月の三ケ日も休めないほど繁盛したという。
(7)江戸の四宿(品川、千住、板橋、内藤新宿)には、「飯盛り女」という宿場女郎が許可されていました。1軒つき2名という決まりでしたが、表に出て客を引くのは2名でしたが、一旦、宿へ引き込んだら、裏にまわれば、ぞろぞろ・・・。
(8)明暦3(1657)年の大火をきっかけに、葦原町から浅草日本堤へ移転しました。これには、人口の急増で江戸府内が手狭になったこと、浅草近辺の開発をめざしたこと、千代田城(江戸城)の近くに遊女屋があるのは風紀上よろしからず・・・等々の理由でした。
ちなみに、江戸時代は「江戸城」とは呼ばず、正式には「千代田城」、またの名を「舞鶴城(ぶかくじょう)」、庶民は、ただ単に「お城」と呼んでいました。
以後、「元吉原」「新吉原」と呼ばれるようになりました。
(9)第一級の娼家は「惣籬(そうまがき)」、「籬」とは、見世の正面と脇土間の横手にある格子のことで、「惣籬」は極端に言えば、家の裏手を除いては家全体が格子囲い。大見世。
次が「半籬」、籬の上1/4位が空けてある造りで、別名「交(ま)じり見世」とも呼ばれました。中見世。
そして、「惣半籬」で格子が下半分だけしかない。小見世。

あなたのお役に立てたでしょうか・・・。

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>吉原遊廓の昼見世と夜見世は、どちらも三味線を弾いたり、踊ったりと昼も夜も同じことをしていたのでしょうか。具体的には、昼と夜の見世の違いはどう違うのですか?どんなことをしていたのでしょうか教えてください。

吉原は「六つ半明け(午前7時頃)」といって、六つ半刻頃までには、一旦、客を全て帰します。
ちなみに、大門(おおもん)は、明け六ツ(午前6時)に開き、夜四ツ半(午後10時)には閉じられました。
しかし、廓では、その後1刻(...続きを読む

Q井原西鶴と花魁

 学生のころ授業できいたのですが出典がわかりません。
 
 井原西鶴が源氏物語についてある花魁に質問をしたところ、その花魁からは質問の答えはなくただ湖月抄の版本が渡されてきました。
 それで西鶴は近頃の花魁は情けない、花魁ともあろうものならちゃんとした名のある公家の手による源氏物語の写本をもっていて、質問に
すらすら答えられて当然なのに、と憤慨したそうです。

 おもしろいエピソードなので出典をちゃんと確認したいと思いました。ご存じの方お教えいただければ幸いです。

Aベストアンサー

まず、井原西鶴が「花魁」などという単語を使うわけはないと思いますが。
「花魁」という単語は現代だと遊女の名称として一般的かも知れませんが、西鶴の時代には「遊女」が基本。もし西鶴が会えるとしたら「太夫」で精一杯じゃないでしょうか。
なので「花魁」なんて単語が出てくる時点でかなり眉唾なお話です。
面白いエピソードにきこえるかもしれませんが、出典を見つけてもおおかた嘘くさいと思いますよ。

大体井原西鶴については史実でほとんど判っていません。作家のエピソードが詳細に残されるようになるのは実録が盛んになって以降です。

ちなみに、源氏物語と西鶴の関係も、「湖月抄すら読んでいたか怪しい。」という説が有力です。ちゃんと読んでいたと言っている学者は少数です。
そんな西鶴が質問者様のおっしゃるような発言をしていたとしたら…とても残念な人ですね。

Q花魁の髪型

江戸時代、遊女の洗髪は月に一度だと聞いたことがあります。遊女といえばあの豪華な髷が思い浮かびますが、あの髷も月に一度の洗髪の時にしかお直し出来なかったのでしょうか?
結構しっかり結ってあるとは思いますが寝たり起きたりをひと月していれば絶対にほどけて崩れてくると思うのです。
洗髪とは別に、髪結いの方は、崩れてきたりとか気分転換とかで何度か
変える事はできたのでしょうか?

Aベストアンサー

#1です

花魁については詳しくないのですが
歌舞伎などを見ていますと
花魁のランクで髪型をが違ったことも考えられます
間近で見たわけじゃないので髪飾りの差だけという場合も有るかもしれませんが

またまた舞妓さんの場合ですが
黒引きにはこれ
襟変えの前はこの髪型と決まっています
お休みの時には簡単な髪型にすることはあると思いますけど
お店に出ているときは髪形は決まっていると思います

掲示板あるようですけど
聞いてみます?
http://kyoto.cool.ne.jp/tukasa21/

Q花魁道中について

どうしても分からないものがあります。


(1)花魁道中ができるのは高級遊女屋のお職だけでしょうか?つまり一軒の遊女屋で一人だけだったのでしょうか?2番遊女、3番遊女くらいまでなら道中してたのでしょうか?

(2)花魁道中にはその花魁の禿や新造も一緒に参列するみたいですが必ず妹分だったのでしょうか?姉女郎ではない花魁の道中に妹分ではない新造は参列しなかったでしょうか?

(3)花魁は馴染み客が毎日来れば道中も毎日してたのでしょうか?
それとも何か特別な時だけ?


(4)高級遊女は引手を通さなければ遊べなかったそうで、馴染み客を迎えに行くことを花魁道中と言ったそうですが、迎えに行ってそのまま引手茶屋で宴会&床入りをしたんですか?遊女屋では遊ばないのですか?
映画の「さくらん」や「吉原炎上」は遊女屋で遊んでいますよね?
もし、迎えに行って遊女屋へ帰って遊ぶようであったなら帰りは道中したんですか?客も一緒に・・・・?


この4つがどうしても分かりません。是非教えてください。

Aベストアンサー

江戸時代でも、初期と中、後期、京阪と江戸でもかなり遊郭の様子は違うのですが、
まず、「揚屋」というものが江戸後期にはなくなっていたようです。大阪には何件か残っていたようです。
「揚屋」というのは最高ランクの遊女である「太夫」を呼ぶだけのための場所ですが、後期にはこれがなくなって、ただの「茶屋」で遊ぶようになります。
というか、「太夫」という位そのものがなくなります。
「端店女郎」みたいな下級遊女は別として、「太夫」「天神」のようなクラス分けそのものがなくなります。デフレです(笑)。だいたい、どの遊女も同じような値段で遊べるようになります。
「お職」というのは、単に人気ナンバー1の遊女を指す言葉で、江戸前半期の遊女のランク付けとは関係ないと思います。
「揚屋」と「太夫」あっての「花魁道中」ですから、江戸中期以降には、やらなかったはずです。

「花魁道中」は、「太夫」が、使う布団や着替えの衣装など一式を持って、お供を引き連れてお客のところに向かう行列、とワタクシは理解しています。
「太夫」以下のクラスの遊女は布団を持っていかず、また、お供の人数も少ないので、「道中」というほど華やかなものではなかったでしょう。
「花魁道中」というイベントがあったわけではなく、「太夫」クラスの遊女が大人数、大荷物で客のところに向かうときのおおげさな様子を「道中」と呼んだのだと思います。
後にこれを「イベント」として客寄せに使ったかもしれませんが、元の意味合いは失われているかと。
少なくとも江戸ではワタクシの知る限りありません。
お芝居に出てくるのは絵的にきれいだからで、当時のシステムをリアルに映しているわけではありません。

字数の問題で細かいご質問の分まで書けません(分割投稿ダメらしい)。必要ならまた書きます。

江戸時代でも、初期と中、後期、京阪と江戸でもかなり遊郭の様子は違うのですが、
まず、「揚屋」というものが江戸後期にはなくなっていたようです。大阪には何件か残っていたようです。
「揚屋」というのは最高ランクの遊女である「太夫」を呼ぶだけのための場所ですが、後期にはこれがなくなって、ただの「茶屋」で遊ぶようになります。
というか、「太夫」という位そのものがなくなります。
「端店女郎」みたいな下級遊女は別として、「太夫」「天神」のようなクラス分けそのものがなくなります。デフレで...続きを読む

Q花魁道中は毎日?

すみません、どの本を調べても分からないので質問させてください。
花魁道中はお客があれば毎日やってたのでしょうか?
それとも道中する時期が決まってたのでしょうか?
トップクラスの遊女が客を引手に迎えに行くときに道中したと
書いてありましたがその客が毎日遊びに来たとしたら道中も毎日ですか?それとも、道中の時期というのが決まってたのでしょうか?

また、新造も参列したとありましたが必ず姉女郎の道中にしか参加
しなかったのでしょうか?他の遊女の道中すなわち宴には参加しなかったのでしょうか?

どうして知りたいのでこの2点の回答をお願い申し上げます。

Aベストアンサー

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>花魁道中はお客があれば毎日やってたのでしょうか?

まず、回答から先に述べますと、
毎日でもありました。

(1)後述しますが、「花魁道中」を行えるのは「太夫(後に花魁)」と「格子」の特権でした。

(2)まず、客は「揚屋(あげや、または、引手茶屋とも呼ばれた)」に腰を据え、店の者を使いとして、太夫や格子の見世(妓楼=ぎろう)へ行かせました。

(3)ご存知かとは思いますが、1度目、2度目では、ただ単に揚屋で酒食を共にするだけでした。そして、太夫が気に入れば3度目にして初めて、自分の妓楼へ客を連れて行き、夜を共にすることができました。

(4)もし、太夫などが気に入らなければ3度目は「なし」です。しかし、客も「どうしても」と言う時には、太夫に、当時としては、蒲団一式などをプレゼントして、気を引く努力をしました。

(5)客が毎日「揚屋」へ通い、太夫を指名すれば、毎日でも太夫は「花魁道中」をしました。

>>それとも道中する時期が決まってたのでしょうか?

この質問の意味は、「季節」なのでしょうか「時間」なのでしょうか?
どちらにしても、

(1)「季節」であれば、1年中「いつでも」ありました。

(2)「時間」であれば、おおよそ「夕刻」が多かった。
これには、まず、太夫や格子などを呼べるのは、よほどの金持ち(お大尽)でなければなりませんでしたが、この「花魁道中」を見せ付ける意味合いから、庶民が多く集まる刻限を狙い、
「俺は、これぐらい金持ちなんだぞ」
と、いうことを見せびらかすため、大概は夕刻に行われました。
また、昼日中でも「ないことはない」でしたが、太夫などの「自由時間」と「風呂に入る時間」、そして「着替えの時間」がありましたので、そうした時間を十分に「取らせない客」「そのような気配りのない客」は、嫌われてしまい、どんなにプレゼント攻勢をしても、相手にはしてもらえませんでした。

>>また、新造も参列したとありましたが必ず姉女郎の道中にしか参加
しなかったのでしょうか?他の遊女の道中すなわち宴には参加しなかったのでしょうか?

(1)花魁の中にも「格」があり、「上花魁」「中花魁」「下花魁」とあり、この中の「上花魁」だけに「新造」が付き添いました。
そして、「新造」は、まだ、初夜を迎えていない女たちで、主に「上花魁」の身の回りの世話をしていました。

(2)ちなみに、
上花魁・・・新造付き呼び出しで、揚代は1両1分。最高級の花魁。
中花魁・・・呼び出し昼三、と言って、揚代が三分。
下花魁・・・座敷持ち、自分用と客用の部屋を持ち、揚代は二分。

(3)ご存知とは思いますが、お大尽が「揚屋」で「花魁」を呼び寄せると、揚屋の女将や使いの者、酒食の接待をしてくれる者などへの「ご祝儀」が酒食代金の他にかかりましたし、花魁への揚代の他にも、付き添って来た「新造=おおよそ3~4人」や「かむろ=遊女見習いの子ども」や「若衆=花魁道中を守る男たち」「太鼓持ち」「花魁の見世の女将」などなどの全てに「ご祝儀」を配りましたので、一晩に30~40両は軽く飛んでしまいました。

(よもやま話)
(1)遊女の起源は古く、神社の「巫女(みこ)」が始まり。何も遊び場のない時代、神社は格好な遊覧地であったことから、神社の副収入だったのです。
そして、江戸時代になっても、神社は寺社奉行の管轄で、寺社奉行は、そのような「風俗取締り」の権限がなかったため、「安全地帯」だったというわけです。

(2)では、お寺は・・・というと、諸国勧進の「尼」が、いつしか堕落して、娼婦に落ちた者もいた。尼僧姿の娼婦というと何か「変」だが、坊主頭にお色気を感じる「変態男」もいて、江戸時代はなかなかの人気があった。
「三ケ日待たず 比丘尼は見世を張り」
と狂歌にうたわれ・・・正月の三ケ日も休めないほど繁盛したという。

(3)吉原の歴史:
慶長5(1600)年に徳川家康が、関ケ原の戦いに出陣したとき、東海道の鈴ケ森八幡の前に茶屋をつくり、揃いの赤ダスキに赤い手ぬぐいをかぶった遊女8人に茶を振舞った者がいた。
これが家康のお気に入りとなり、関ケ原の戦いののち、元和3(1617)年にこの男(=庄司甚右衛門)へ日本橋葦屋町に公認の遊女屋の場所を与えたのがはじめ。そのあたりは、まだ一面の葦野原だつたことから、めでたくもじって「吉原」とした。

(4)江戸の四宿(品川、千住、板橋、内藤新宿)には、「飯盛り女」という宿場女郎が許可されていました。1軒つき2名という決まりでしたが、表に出て客を引くのは2名でしたが、一旦、宿へ引き込んだら、裏にまわれば、ぞろぞろ・・・。

(5)明暦3(1657)年の大火をきっかけに、葦原町から浅草日本堤へ移転しました。これには、人口の急増で江戸府内が手狭になったこと、浅草近辺の開発をめざしたこと、千代田城(江戸城)の近くに遊女屋があるのは風紀上よろしからず・・・等々の理由でした。
以後、「元吉原」「新吉原」と呼ばれるようになりました。

(6)遊女の格式では、「太夫」「格子」「散茶(さんちゃ)」「うめ茶」「五寸局(つぼね)」「三寸局」「なみ局」「次(つぎ)」の序列になります。
そして、「太夫」と「格子」に客がつくと、揚屋まで向かう時は、いわゆる「花魁道中」をして、客のもとへ向かいました。
従って、「花魁道中」は、「太夫」と「格子」の特権でした。

(7)「太夫」になると、「容姿」はもちろんのこと、「唄」や「踊り」「和歌」や「書」の素養「三代集」などを「レ(返り点)」なしに読む、「囲碁」「将棋」なども相手ができるくらいの教養が求められました。つまり、遊女の中の「超エリート」でした。しかし、一晩過ごすだけであると、余りにも「窮屈過ぎる」ということから、宝暦年間(1751~1763)以後は、「太夫」は消滅し、そこそこの「容姿」と、そこそこの「話題についていける」程度の「花魁」が登場しました。

(8)花魁の由来については、「おいらの姉御」「おいらの」から「おいらん」と転じ「花魁」という漢字が当てはめられたと言われています。

(9)見世で格子戸の中から客を呼び込み、しやにむに二階に上がるのは、「散茶」以下の遊女たちです。「太夫」「格子」は、絶対に見世の格子戸の前には座りませんでした。
ちなみに、「散茶」の由来とは、煎茶をたてる方法として、振ってたてるものと、振らないでたてるお茶があり、振らない方を「散茶」と呼んでいて、どんなお客も振らないことから「散茶」と洒落て呼ぶようになりました。

(10)なお、吉原の遊女は、幕府公認という「格式」をもっていたので、「女郎」とは決して呼ばせず「遊女」と呼ばせました。
ちなみに、私娼は「売女(ばいた)」と呼ばれました。
江戸では「夜鷹」・・・夜になるとゴザ一枚を小脇抱え、両国や柳橋、呉服橋、鎌倉河岸などに出没し、通りすがりの男の袖を引っ張って、川端に積んである材木の間などで「事」をすませた。
京都では「辻君(つじぎみ)」・・・何となく風情がありますね。
大阪では「惣嫁(そうか)」・・・何でも喰らいつくの意からとか。

あなたのお役に立てたでしょうか。

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>花魁道中はお客があれば毎日やってたのでしょうか?

まず、回答から先に述べますと、
毎日でもありました。

(1)後述しますが、「花魁道中」を行えるのは「太夫(後に花魁)」と「格子」の特権でした。

(2)まず、客は「揚屋(あげや、または、引手茶屋とも呼ばれた)」に腰を据え、店の者を使いとして、太夫や格子の見世(妓楼=ぎろう)へ行かせました。

(3)ご存知かとは思いますが、1度目、2度目では、ただ単に揚屋で酒食を共にするだ...続きを読む

Q花魁の身受け代の行方

花魁の身受けには莫大なお金が動いたそうですが、身受け代が本人の借金より多かった場合、残金は花魁のものになるのでしょうか。
それとも、雇い主のものになるのでしょうか。
どなたか教えてくださいませ。

Aベストアンサー

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

遊女の階級としては:
、「花魁」そして「格子」、「散茶」、「梅茶」、「五寸局(つぼね)」、「三寸局」、「なみ局」、「次(つぎ)」の8階級です。

史料として残るのは、元禄年間(1688~1704)で「梅茶」あたりで40~50両(約1千万円余り)。「梅茶」の借金が30両位で後は忘八の取り分。「花魁」になると借金は500~600両で、身請け金額としては、それまで世話になった人々への「ご祝儀」も含めて、1,000両(約7,500万円位)かかったと言われています。

花魁の借金の返済とご祝儀、残った銭は楼主の取り分となりました。

身請けの日には、妓楼(ぎろう)では、「赤飯」を炊き、豪勢な食事を用意し、一通りの「祝いの膳」を終えてから(全て、身請け人の銭で)、大門の前に用意された「籠」で廓(くるわ)を去った。

天明年間(1781~)に入ると、松葉屋半左衛門という楼主は、これまでの26年間に渡り、2代目花魁の瀬川から5代目瀬川までの4人を身請けさせ、5,000両という大金をせしめたと言われている。そこで幕府も、余りにも高額過ぎる、と判断をし、以後は「500両以内とする」と言う通達まで出している。

身請けするには、まず、客から楼主に「だれだれを身請けしたい」との相談があり、楼主は、一応は花魁の親元に確認をとり、異存のないことを確かめたうえで、客に身請け証文を入れさせ、さらには、身代金と本人の借金を支払わせました。

天明13年(1793)に身請けされた薄雲太夫の身請け証文は以下のように書かれてあります。

「証文之事 一 其方抱之薄雲と申す傾城 未年季之内に御座候へ共 我等妻に致度 色々申候所に無相違妻に被下 其上衣類夜着蒲団手道具長持迄相添被下忝存候 則為樽代金子三百五拾両其方え進申候 自今已後 御公儀様より御法度被為仰付候 江戸御町中 ばいた遊女出合御座舗者不乃申道中茶屋はたごやへ 左様成遊女がましき所に指置申間敷候 若左様之遊女所に指置申候と申すもの御座候はば 御公儀様え被上仰 何様とも御懸り可被成候 其時一言之義申間敷候 右之薄雲若離別致し候はば 金子百両に家屋舗相添へ 隙出し可申候 為後日証文如件 元禄十三年辰の七月三日 貰主源六 請人平右衛門 同半四郎 四郎左右衛門殿」

要約すると、

「薄雲という太夫(または、花魁)はまだ年季の途中であるが、私の妻にいたしたく、色々な所へ相談し許可を得ました。また、衣類や夜着、蒲団、手荷物、長持ちなども一緒に引き取ることといたしました。酒宴のための酒樽代金350両をあなたに差し上げます。私は今後、御公儀より御法度とされている町中(の女郎)やばいた、旅の途中の茶屋やはたごの遊女がましき所へは出入りをいたしません。もし、そのようなことをして薄雲と離別するようなことがあれば、金子100両に家屋敷を添えてひまを出します。後日の証文といたします。元禄13年辰7月3日 貰主源六、証人平右衛門、同じく半四郎。四郎左右衛門殿」

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

遊女の階級としては:
、「花魁」そして「格子」、「散茶」、「梅茶」、「五寸局(つぼね)」、「三寸局」、「なみ局」、「次(つぎ)」の8階級です。

史料として残るのは、元禄年間(1688~1704)で「梅茶」あたりで40~50両(約1千万円余り)。「梅茶」の借金が30両位で後は忘八の取り分。「花魁」になると借金は500~600両で、身請け金額としては、それまで世話になった人々への「ご祝儀」も含めて、1,000両(約7,500万円位)かかっ...続きを読む

QTBSドラマ『JIN-仁-』の橘兄妹のモデル

TBSドラマ『JIN-仁-』に出てくる橘兄妹のモデルの人物って誰かいるのでしょうか?
兄は勝海舟などの幕末の獅子たちと関わりがあったり、妹は医学の道に邁進する姿を見ていると誰かしらモデルの人がいるのではないかと思うのですが、どうなのでしょうか・・・?

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妹のほうで有れば、多分シーボルトの娘「楠本イネ」ですかね、、。
緒方洪庵が娘のようにかわいがっていましたので、適塾時代に大村益次郎と恋仲との噂も有りましたが。
兄妹だと解りません。
イネは益次郎が暗殺されたときにも看病していたとのこと、医学知識もその時代としてはかなりのものでしたが、
時代は女医を許さず、産婆としての許可しか出していません。

Q花魁はなぜ大きなぽっくりを履いていたのか?

江戸時代、高位の花魁は、花魁道中で高さのある大きなぽっくりを履いていますよね。
これはなぜですか?どう言った意味があるのでしょうか?
教えていただけると助かります。

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こんばんは

三枚歯下駄というようです
http://www014.upp.so-net.ne.jp/g-masuda/
見た目がかっこいいからですかね
江戸時代3枚歯が人気が出たそうです
それで取り入れた可能性が

髪型とかも独特じゃないですか
太夫ですよ。と権威を示すためだと思います

Qドラマ仁に登場した坂本龍馬という人

ドラマ仁に登場した坂本龍馬という人はどんな人ですか

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幕末の政治家。
土佐藩郷士の出身。武市 瑞山(たけち ずいざん)久坂 玄瑞(くさか げんずい)に影響を受けえ尊皇攘夷運動に入り、後、幕府官軍奉行の勝海舟の知遇を受け航海術に先進。ついで、長崎で亀山社中(カンパニー)を設立して号駅事業を営むかたわら、慶応2(1866)年、薩摩(大久保利通や西郷隆盛)と長州(木戸 孝允=桂小五郎)両藩の間を斡旋してついに両藩の和解、盟約を成立させた。さらに土佐藩と密接に結んだ。
海援隊を設立、地方、土佐藩士後藤象二郎を通じて藩主から将軍徳川慶喜(よしのぶ)へ大政奉還を勧告させ、討幕派と佐爆破の調停、融合を図ることに土佐藩の勢力拡大の道をもとめ、朝幕連合政権による新体制樹立を謀議中、同士中岡新太郎とともに京都の旅宿で刺客に暗殺された。

西郷隆盛 …… 藤本隆宏
大久保利通……眞島秀和
勝海舟……小日向文世
桂小五郎……山口馬木也
後藤象二郎役……宮川一朗太
中岡慎太郎……市川亀治郎
徳川慶喜 ……大治幸雄


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