こんにちは。
フランス20世紀の小説家であり思想家でもあり劇作家でもあったサルトルについて質問です。
質問内容が哲学なのか文学なのか分からなかったのですが、一応哲学で。
彼が『嘔吐』という文学作品を通して実存主義を人々に伝えるために何故文学を選んだのか、という命題を置きました。
そして今、『文学とは何か』を読み始めているのですがそこに彼の文学に対する『何』を見出すことができるか、簡単に教えていただけると今後読み進めていく上で少し章立てがしやすいかなと踏んでいます。

現時点で私が読んだ関連作
カミュ『異邦人』『ペスト』
ボヴォワール『他人の血』『娘時代』
サルトル『嘔吐』『実存主義とは何か』『汚れた手』『蝿』
ベルクソン『テスト氏』
読み途中『カミュ=サルトル論争ー革命か反抗かー』

私的な意見でも構いません。
よろしくお願いします。

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A 回答 (3件)

まず、『嘔吐』が執筆されたのは1938年であり、『存在と無』が1943年、『実存主義はヒューマニズムか』の公演が1945年、『文学とは何か』は1948年です。

重要なのは『嘔吐』と『存在と無』の間にサルトルが戦争捕虜となっている点です。サルトルの『戦中日記』や後の対談等から読み取れるのは、サルトルが政治の問題に目覚めたのは捕虜体験からということです。『嘔吐』執筆時点ではサルトルは個人主義者であり、偉大な作家の人生が送れればそれでよいと単純に考えていた節があります。

「そうしてできあがるはずの人生も、私の頭の中ですでにあらかじめ描かれていた。それは、書物をとおして姿を現わすような、偉大な作家の人生だった」戦中日記p87

それが捕虜体験を経ることで、この世界で起こること、それは政治であったり諸々の社会問題であったり、とにかくすべてのことにわれわれは責任があり、それを引き受けなければならないというアンガージュマンの考え方が芽生えたと考えてよいでしょう。これは明らかに『嘔吐』ではなく、『存在と無』以降の思想です。
また、サルトルが実存主義という言葉を使いだすのは『実存主義とは何か』以降です。これもマスコミが実存主義という言葉をサルトルに対して使いはじめたのを受け、否定するのではなく、むしろ積極的に引き受けた、その結果なのでした。『存在と無』の中では実存という言葉すらほとんどまったく出てきていません。

よって、
>『嘔吐』という文学作品を通して実存主義を人々に伝える
というのは正確ではありません。前述の通り、もともと実存主義という言葉すらサルトルが使い始めたものではありませんでした。さらに言えば『嘔吐』の出版が決まる前にはサルトルはノイローゼ気味であり、思想を広めるどころの騒ぎではなかったのです。

「そして、ちょうどこの時期、最低の状態で――あまりにもみじめで、何度も平然と死を思ったほどだった」戦中日記p94

『嘔吐』にサルトルの哲学的直観が多数含まれているのはほんとうです。ただ、『嘔吐』をもってイコール実存主義というのは問題を単純化しすぎではないでしょうか。

ともあれここまで来れば『文学とは何か』の位置づけが理解できます。すなわち、『存在と無』以降のアンガージュマンの思想が色濃く反映された文学論です。人はみな今いる社会の中で、歴史の中で生きている、すなわち状況の中にいる。であれば文学の目的はただひとつ。状況の文学であることです。全体的な歴史と状況を書くことで、それを読者に発見させること。ひとたび文学の目標がこう設定されれば、書くこととはすなわち読者に向けて書くことであり、読者に呼び掛けることです。
そして現代社会の抑圧が文学において発見されるべき状況となってくれば、文学が呼び掛ける読者も必然的に抑圧されている人々とならざるをえません。こうしたきわめて政治的・倫理的な色合いを帯びた読者中心の文学論が、『文学とは何か』におけるサルトルの立場ではないでしょうか。
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>彼が『嘔吐』という文学作品を通して実存主義を人々に伝えるために何故文学を選んだのか、という命題を置きました。



まず、古来、優れた哲学者は同時に優れた文学者の理解者であり、讃美者でもあり、かつみずから文学者たらんとしていたと思います。
『嘔吐」では、ロカンタンが、彼を取り巻く現実社会、彼を支配している諸制度と自分の感覚との間のズレ、齟齬が感知されると同時に、吐き気に襲われるという寓喩によって、より体感的、生理的、つまりより具体的に人間の自由の基本性格を描こうとしたのではないでしょうか。

>そして今、『文学とは何か』を読み始めているのですがそこに彼の文学に対する『何』を見出すことができるか、簡単に教えていただけると今後読み進めていく上で少し章立てがしやすいかなと踏んでいます。

私は、『文学とは何か』のフロベールを援用しての、前進的方法、遡行的方法の章を興味深く読みましたが、彼のライフワーク、未完の大作、L'idiot de la familleはその実践例ではないでしょうか。

本当の文学というのは、言葉を自己(の観念等)表現の手段や媒介と考えるあらゆる非文学的思考とは異なり、人間である限り、言葉の限界を超えて考えることができないことを弁えた者によってなされる思考の痕跡、軌跡にほかならないと思います。

その意味で、サルトルが文学の方法で彼の哲学を実践しようとしたのは、あくまでも彼の内的必然性及びその哲学的要請に従ったまでのことではないでしょうか。
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FWマルト



http://note.masm.jp/%A5%B5%A5%EB%A5%C8%A5%EB/
サルトルが言うには、「実存主義とはヒューマニズムである」そうです。
実存主義が生まれた原因をサルトルの言葉を借りて言えば、科学の発展によって神の絶対的価値観が否定され「人間は自由という刑に処せられている」からです。
実存主義を描くために、その「刑」に処せられた人間の苦悩を描くには文学が適していたのではないでしょうか。
哲学というのは論理の連鎖ですから感情的なものを書くのはあまりよいジャンルではないのかもしれませんね
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どこかに載っている本や雑誌などないでしょうか?
ずーと探しているんですが、どういう風に探せばいいのかもわかりません。
読んでみたくてしょうがありません。
邦訳したものでもフランス語でもかまいません。
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 こんにちは。カミュの方は分からないのですが、メルロ-ポンティについて参考になればと思いました。
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 十年位前には『シチュアシオン』が書店に置いてあるのをよく見ましたが、最近は見かけません。古本でないと入手できない気がします。

 それにしてもいいセンスですね!私はメルロ-ポンティとサルトルのすれ違いにとても興味を持っています。上掲の『弁証法の冒険』にはサルトルへの批判が載っているのですが、とても難しい。いろいろと経緯があったらしく、遡って両者の前の論文等を読まないと理解できないようです。(~_~;)

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お礼ありがとうございます、#1です。
下の回答で紹介したサイトは詳しく書かれてありますから、
読むのは大変ですよね^^;

次雄さんが良くなったのは、温泉に療養に行ったのは大きな要因だと思います。
温泉から帰ってきた時には、杖をつくなど行く前よりは遥に良くなっていたので。
その辺は詳しく放送の中ではやらなかったので、そう受け止めていいかと・・・。(3年後になって、最近の話の中では、普通の生活に支障はなさそうに見えますよね)

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もちろん美千代の心の片隅には、そのことはあるでしょうけど。

うまく説明できませんでしたが、こんな回答でも参考になれば幸いです(^-^)

お礼ありがとうございます、#1です。
下の回答で紹介したサイトは詳しく書かれてありますから、
読むのは大変ですよね^^;

次雄さんが良くなったのは、温泉に療養に行ったのは大きな要因だと思います。
温泉から帰ってきた時には、杖をつくなど行く前よりは遥に良くなっていたので。
その辺は詳しく放送の中ではやらなかったので、そう受け止めていいかと・・・。(3年後になって、最近の話の中では、普通の生活に支障はなさそうに見えますよね)

次雄さんが脳に障害が残ったのは、俊太くん(子供)が...続きを読む

Q野矢茂樹『「論理哲学論考」を読む』(ちくま学芸文庫)

野矢茂樹『「論理哲学論考」を読む』(ちくま学芸文庫)
を読んでいるのですが、どうにも理解できない部分があります。
(ちなみにいわゆる哲学は素人です。のため、『論考』を読んでも討ち死にです。)

『論考』における要素命題の独立性と野矢氏が?言うところの解説なのですが、

 『論考』ではある要素命題から他の要素命題が導かれること、
 あるいはある要素命題が他の要素命題と矛盾しあうということが説明できない。
 むしろ積極的に、要素命題はお互いにそのような論理的な関係に立たないことを主張する。
 『論考』のこの主張を「要素命題の独立性」と呼ぼう。(p.145)

とあります。そしてその「要素命題の独立性」の解説として、

 一般に、命題Aから命題Bが帰結するとき、
 命題Aの真理領域は命題Bの真理領域に含まれている。
 また、命題Aと命題Bが両立不可能なとき、
 命題Aの真理領域と命題Bの真理領域は共通部分を持たない。(p.150)

とあります。ここまでは理解できるのですが、直後の、

 それゆえ、二つの命題AとBが相互独立であることは、両者の真理領域が
 共通に重なる部分と重ならない部分とをともにもつこととして捉えられる。(p.150)

とあるのですが、
なぜこれが要素命題の独立性と言われるのかが理解できません。

ここでの解説は「一般に」とあるので、これは『論考』そのものからではなく、
p.150の引用の最初のふたつをそれぞれ「包含関係にあること」「両立不可能」とすると、
みっつめの引用はそれ以外の可能性として「重なる部分もある」しかないため、
これを「独立性」と考えているのでしょうか?
重なる部分があるのになぜ独立と捉えることができるのでしょうか?


 
 

野矢茂樹『「論理哲学論考」を読む』(ちくま学芸文庫)
を読んでいるのですが、どうにも理解できない部分があります。
(ちなみにいわゆる哲学は素人です。のため、『論考』を読んでも討ち死にです。)

『論考』における要素命題の独立性と野矢氏が?言うところの解説なのですが、

 『論考』ではある要素命題から他の要素命題が導かれること、
 あるいはある要素命題が他の要素命題と矛盾しあうということが説明できない。
 むしろ積極的に、要素命題はお互いにそのような論理的な関係に立たないことを主張...続きを読む

Aベストアンサー

原本を知らないため、的外れな回答になるかも知れません事、ご容赦願います。

命題Aが「pならばqである」といった真理を記述していたとします。
命題Bが「rならばsである」といった真理を記述していたとします。

>>> http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%96%E7%90%86%E5%8C%85%E5%90%AB
論理学における「P ならば Q」は、「P でない、と Q である、の少なくとも一方が正しい」の短い言い換えなのである
<<<
ですから、

命題Aは
p q p→q
真 真 真
真 偽 偽
偽 真 真
偽 偽 真

命題Bは
r s r→s
真 真 真
真 偽 偽
偽 真 真
偽 偽 真
となります。

命題Aと命題Bが「独立している」を「互いに導き出され得ない」と定義すれば、

命題1:「命題Aならば命題B」ではない
かつ
命題2:「命題Bならば命題A」ではない
となるでしょう。

すなわち、
命題1:「命題Aが偽、と命題Bが真の少なくとも一方が正しい」を否定
かつ
命題2:「命題Bが偽、と命題Aが真の少なくとも一方が正しい」を否定

言い換えると
命題1:「命題Aが真、かつ、命題Bが偽」
かつ
命題2:「命題Bが真、かつ、命題Aが偽」

であり、命題1と命題2とは重なり合いません。

しかしながら、命題Aと命題Bとは重なり合う部分を持っていても矛盾しません。

原本を知らないため、的外れな回答になるかも知れません事、ご容赦願います。

命題Aが「pならばqである」といった真理を記述していたとします。
命題Bが「rならばsである」といった真理を記述していたとします。

>>> http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%96%E7%90%86%E5%8C%85%E5%90%AB
論理学における「P ならば Q」は、「P でない、と Q である、の少なくとも一方が正しい」の短い言い換えなのである
<<<
ですから、

命題Aは
p q p→q
真 真 真
真 偽 偽
偽 真 真
偽 偽 真

命題Bは
r ...続きを読む


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